chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「石川三四郎」で検索した結果

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  • 赤旗事件
    ...した平民新聞編集者の石川三四郎は、自らの出獄歓迎会を硬派と軟派が別々に催したことに寂しさを覚え、共同で同志の出獄を祝うよう両派に働きかけた。硬派と軟派の相克はなお継続していたが、当時獄中にいた山口がこの問題に直接関与していなかったこともあり、両派合同の歓迎会が実現したのである。 発生 6月22日午後(時刻は資料により異なる)、歓迎会は発起人の石川による開会の辞から始まった。続いて西川と堺利彦が挨拶した後余興に入り、夕刻終了した。しかし散会間際に、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎ら硬派の一団は、突如赤地に白の文字で「無政府共産」「社会革命」「SOCIALISM」などと書かれた旗(本数は資料により異なる)を翻し、革命歌を歌い始めた。石川はこれを制止しようとしたが、硬派は従わず、「無政府主義万歳」などと絶叫しながら錦輝館を飛び出した。歓迎会開催に当たり現場で待機していた警官隊は...
  • 板垣征四郎
    Template Infobox 軍人? 板垣 征四郎(いたがき せいしろう、明治18年(1885年)1月21日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、昭和期の陸軍軍人である。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 敗戦後、東京裁判にて死刑判決を受ける。現在は靖国神社に合祀されている。 元参議院議員の板垣正は次男。 生涯 出自 岩手県盛岡市出身。盛岡中学、仙台の陸軍幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。 父板垣政徳は旧盛岡藩士族苗字は板垣だが板垣退助(土佐藩出身)と血縁関係はない。で、江刺郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。 満洲時代 昭和4年(1929年)に関東軍の高級参謀になった。昭和6年(1931年)、石原莞爾らと謀り、満州事変を実行した。現在、柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人...
  • 中野正剛
    中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は昭和期のジャーナリスト、右翼団体東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。 経歴 生い立ち・学生時代 旧福岡藩士中野泰次郎と母トラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区荒戸)の伯父中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。 福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)修猷館を卒業後早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社で...
  • 平沼騏一郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日(慶応3年9月28日) - 1952年(昭和27年)8月22日)は、日本の官僚。第35代内閣総理大臣。従二位勲一等、男爵、法学博士。日本大学第2代総長。大東文化学院(後の大東文化大学)初代総長。大東文化協会(大東文化大学の設立母体)三代会頭。国本社の創設者。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、東京裁判でA級戦犯で訴追され終身刑の判決。1952年、病気仮釈放、直後に死去。1978年に靖国神社に合祀された。 人物像 生い立ち 1867年(慶應3年)9月28日、津山城下南新座(後の岡山県津山市)に津山藩士平沼晋の次男としてうまれる。 1872年(明治5年)に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年(明治11年)に東京大学予...
  • 満鉄調査部事件
    満鉄調査部事件(まんてつちょうさぶじけん)は、第二次世界大戦中、多数の満鉄調査部員が関東軍の憲兵隊によって2回にわたり検挙された事件。満鉄事件とも呼ばれる。1941年に起こった合作社事件をきっかけとして、1942年には調査部員の第一次検挙、1943年には第二次検挙が行われた。 経緯 満鉄調査部は、1939年の拡充に伴う人員増強により、日本内地で活動の場を失った左翼からの転向者が多数就職していた。彼らは内地ではもはや不可能となったマルクス主義的方法による社会調査・分析に従事しており、そのことが関東軍の憲兵隊を中心とする満州国治安当局からの監視の目を強めさせることになった。 橘樸の影響を受けていた佐藤大四郎は、1937年1月以降、北満州の浜江省綏化県で、貧農を合作社(協同組合)に組織して生産力を向上させ彼らの救済をはかる運動に従事していた。この運動は多くの日本人「前歴者」が結集したこ...
  • 辻政信
    thumb|250px|出身地[[東谷奥村の中心であった加賀市山中温泉荒谷町入り口に建つ「辻政信之碑」]] 辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日 - 1961年?)は、日本の陸軍軍人、陸軍大佐、政治家。1952年から衆議院議員を四期、参議院議員を一期務めた。 辻を巡っては、“作戦の神様”と謳われ、マレー作戦等の辣腕振りが評価される一方、陸軍士官学校事件、ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進などにおける責任を追及する意見もある。またポートモレスビー攻略作戦やガダルカナル島の戦いにおける日本軍の敗戦は、辻が独断で拙劣な作戦指揮をした結果であるといわれる。毀誉褒貶両極端の評価を受けているが、GHQでは「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」とされた(後述)。 1961年4月に東南アジアの視察のために出国後、ラオスで行方不明となる。そのまま、1968年7月20...
  • 蝦夷共和国
    蝦夷共和国(えぞきょうわこく)は、明治元年12月(1869年1月)に成立し、蝦夷地(北海道)に短期間存在した佐幕派の政権である蝦夷島政府に対する俗称である。明治2年5月18日、箱館戦争終結によって消滅した。 概要 江戸時代後期、慶応3年(1867年)に15代征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定する。徳川慶喜の静岡下向を見届けた海軍副総裁榎本武揚は旧幕臣の保護と北辺防備を目的として慶応4年(1868年)8月19日に品川沖から開陽丸を旗艦に8隻の軍艦を率いて江戸を脱出し、蝦夷地に向かった。途中仙台で会津戦争で敗走した伝習隊、旧新選組や彰義隊の残党を吸収し、北上、鷲ノ木に上陸し、各地を平定、五稜郭を攻略し、府知事清水谷公考を敗走させ、蝦夷全島を支配下に置いた。...
  • 永田鉄山
    Template Infobox 軍人? 永田 鉄山(ながた てつざん、1884年1月14日 - 1935年8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍省軍務局長、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。追贈であるが、正四位勲一等に叙され瑞宝章を受けている。 略歴・人物 長野県諏訪郡上諏訪町本町出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校をいずれも首席、陸軍大学校も2位で卒業する秀才ぶりで、軍務官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される人物だったが、陸軍内部の派閥抗争に絡んで陸軍中佐相沢三郎に暗殺される。皇道派の領袖、陸軍大将真崎甚三郎を教育総監の要職から更迭したことが暗殺の引き金となっている。死亡当時、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。 郡立高島病院長永田志解理の子として生まれ、高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小...
  • 自由党 (日本)
    自由党(じゆうとう)は、かつて存在した日本の政党。 現在、日本において「自由党」の名称を持つ政党は存在しない(政治団体としては存在する)。 自由党 (明治) 本節では、明治時代に創設された日本最初の近代政党である「自由党」と同党解散後、帝国議会開設時の大同団結運動を経て、旧自由党勢力による再結集によって再興された「立憲自由党」(後に旧称である「自由党」に戻す)を扱う。 自由党 (日本 1881-1884) {{政党 |国名 = Template JPN? |党名 = 自由党 |公用語名 = |成立年月日 = 1881年10月18日 |解散年月日 = 1885年10月29日 |解散理由 = 内部対立のため |後継政党 = |郵便番号 = |本部所在地 = |政治的思想・立場 = 自由主義 |機関紙 = |シンボル = |国際組織 = |...
  • 清浦内閣
    {{日本の内閣記事|きようら ないかく|23|清浦奎吾|Template 和暦?|1月7日|同年|6月11日|官僚、貴族院。|第15回衆議院議員総選挙|1924年(大正13年)1月31日懲罰解散|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/23.html|枢密院議長}} 清浦は枢密院議長から出て組閣し、政党から閣僚を入れることなく、貴族院を背景にした超然主義を貫いた。立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派が起こした第二次護憲運動により、わずか5ヶ月で総辞職となった。与党は立憲政友会を脱党した政友本党である。 閣僚 内閣総理大臣 清浦奎吾(子爵・前枢密院議長) 外務大臣 松井慶四郎(男爵・外務官僚) 内務大臣 水野錬太郎(貴族院交友倶楽部) 大蔵大臣 勝田主計(貴族院研究会) 陸軍大臣 宇垣一成(陸軍中将) 海軍大臣 村上格一(海軍...
  • 大逆事件
    大逆事件(たいぎゃくじけん) 1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。 特に一般には1910,1911年(明治42,43年)に社会主義者幸徳秋水らが天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す(幸徳事件ともいわれる)。 thumb|280px|right|大逆事件の犠牲者を顕彰する会による碑「志を継ぐ」([[和歌山県新宮市)]] 概要 政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理...
  • 鶴見騒擾事件
    鶴見騒擾事件(つるみそうじょうじけん)とは、1925年(大正14年)の暮れに現在の横浜市鶴見区で起きた乱闘事件である。日本最大の喧嘩と呼ばれるこの事件は一度に500人以上の検挙者を出し、騒擾罪(法改正により騒乱罪)で起訴されているため鶴見騒擾事件と呼ばれる。 なお鶴見駅周辺から見た場合、鶴見川対岸の潮田地区が主な闘争の現場であるため、本来は事件を別の名称で呼ぶべきであったとする向きもある(注)。当時は橋一つの「川向こう」でも風土や歴史には大きな違いがあり、そこには日本の資本主義の成長の歪みがあった。 (注)事件当時の行政区域は市制施行前の「橘樹郡鶴見町」であるが、事件現場となる「橘樹郡潮田町」と合併した直後であり、その町境が鶴見川であったことから。 大正電力戦争 未曾有の大惨事となった関東大震災は、同時に工場用地が東京市及びその近郊から移転する契機となり神奈川の建設ラッシュに拍...
  • 上海日本人僧侶襲撃事件
    上海日本人僧侶襲撃事件(しゃんはいにほんじんそうりょしゅうげきじけん)とは、1932年(昭和7年)に発生した中国人による抗日(反日)事件とされており、この事件をきっかけに日中が武力衝突する上海事変が勃発した。ただし現在では関東軍による策謀であるとの説が有力である。 事件の概要 前年の満州事変によって中国国内における反日感情が高揚していた。1932年1月18日午後4時ころ、中華民国上海の道路を南無妙法蓮華経を唱えながら勤行していた、日本人僧侶2名と信者3名が、排日運動の根拠地と見なされていた三友實業公司のタオル製造工場前の路地で、突如中国人と見られる数十人の集団に襲撃された。そのため日本人の日蓮宗僧侶の水上秀雄が死亡し、天崎天山ら2名が重傷を負った。中国の警察官の到着が遅れたため、犯人は逃亡した。 事件の背景 その後、上海事変が勃発し日中は果てしない戦乱に明け暮れることになる...
  • 幸徳事件
    幸徳事件(こうとくじけん)とは、1910年11月、旧刑法73条(大逆罪、1908年10月より実施、1947年現刑法より削除。「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」)により幸徳秋水ら25名が大審院に付され翌年1月に24名に死刑判決(12名は翌日無期に減刑)が出され12名が処刑された事件。 刑法73条が適用された初めての事件であり、被告とされた人数が多いことから、一般的には固有名を付けず「大逆事件」といわれる。「幸徳事件」の名称は他の「大逆罪適用事件」と区別する場合に用いられ、被告たちの中心人物とされた幸徳秋水の姓による。他に「幸徳秋水事件」の呼称もある。 被告の内、宮下太吉外3人は爆裂弾により明治天皇への攻撃を考えていたが実行計画は中途半端なままで実現に至るには曖昧なものであった。 それは大審院判決理由において「爆裂弾を用い馬...
  • A級戦犯
    A級戦犯(エイきゅうせんぱん)は、ポツダム宣言に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項により定義された戦争犯罪人で、極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪判決を受けた者をさす。起訴された者を含む場合もある。 逮捕までの経緯 1945年7月26日、ポツダム会談での合意に基づいて米英中により、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言(ポツダム宣言)が行われた。第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。 同年8月8日、米英仏ソが「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここで「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という新しい戦争犯罪の概念が登場。 同年8月10日、日本がポツダム宣言を受諾。15日、終戦。 同年8月29日、ア...
  • 関東軍
    Template 軍隊資料? 関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。 概要 Template 日本陸軍? 南満州鉄道附属地警備を目的とした守備隊が前身で、1919年(大正8年)に関東軍と改称する。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都新京(現・吉林省長春)に移転。名称は警備地の関東州に由来する。 張作霖爆殺事件や満州事変の画策・実行は、20年代からの既存の国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級の参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく左右する端緒となった。 また、これら一連の行動は参謀本部・陸軍省等当時の軍中央での国防政策の指針からも逸脱しており、その後の陸軍内の「下克上」的な組織体質、「手続軽視・結果重視」といった軍の運用体質を作りあげていった、という批判もある。 また、...
  • 西郷隆盛-2
    前半は西郷隆盛参照 参議 大政改革と廃藩置県 明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士・集議院徴士横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して『丁丑公論』に詳しい、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五。12月、危機感を抱いた政府から勅使岩倉具視・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革...
  • 大成会
    大成会(たいせいかい)は、明治時代の日本の温和派の院内会派である(1890年8月23日-1891年12月26日)。 1890年の第1回衆議院議員総選挙後、立憲自由党及び立憲改進党に属しない議員の糾合の動きが盛んになった。彼らは党派色の強い民権派系の自由・改進両党(民党)に対抗する意図を有していたが、政府との関係や新しい組織を政党とするか院内会派にするかなどその意見は様々であった。 それでも、1890年8月22日に会則と「大成会」の名称が定められ、翌日に東京の愛宕館で正式な結成大会が開かれて、この会が衆議院議員有志によって構成される団体であると位置付けて政党である事を否定した。これは、日本の議会に政党自体を不要と考える超然主義を唱える議員に配慮したものである。代表者として3名の常務委員(増田繁幸・堀部勝四郎・俣野景孝)が選出された。この他、杉浦重剛・元田肇・津田真道・末松謙澄・岡田良一郎...
  • 第1次若槻内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ わかつき ないかく|25|若槻禮次郎|Template 和暦?|1月30日|Template 和暦?|4月20日|憲政会|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/25.html|内務大臣}} 閣僚 内閣総理大臣 若槻禮次郎 1926年(大正15年)1月30日 - 1927年(昭和2年)4月20日 外務大臣 幣原喜重郎 1926年(大正15年)1月30日 - 1927年(昭和2年)4月20日 内務大臣 若槻禮次郎(兼任) 1926年(大正15年)1月30日 - 同年6月3日 濱口雄幸 1926年(大正15年)6月3日 - 1927年(昭和2年)4月20日 大蔵大臣 濱口雄幸 1926年(大正15年)1月30日 - 同年6月3日 早速整爾 1926年(大正15年)6月3日...
  • 武漢作戦
    Template Battlebox? 250px|right|thumb|[[国民革命軍]] 武漢作戦(ぶかんさくせん)は、日中戦争の戦い。武漢攻略戦とも言う。中国側呼称は武漢会戦、武漢保衛戦。 背景 徐州会戦後も蒋介石政権は日本に対し徹底抗戦を続け、事変解決へは至らなかった。この作戦は蒋介石政権の降伏を促すため、広東作戦とともに中国の要衝を攻略することを目的とし、日中戦争中最大規模の30万以上の兵力で行なわれた。また日本国内ではこの動員・巨額の出費のため、政府は同年5月5日に国家総動員法を施行、同月近衛文麿内閣を改造した。 経過 大本営は6月18日に武漢作戦の準備を命令。8月22日に目的は要地武漢三鎮の占領であるとし、通城と岳州を進出限界線として要地の占領とその間の敵の撃破を命令した。新たに編成された第11軍と、北支那方面軍から転用された第2軍により進攻...
  • 立憲国民党
    立憲国民党(りっけんこくみんとう)は、日本の明治末期・大正時代の政党。 立憲政友会が藩閥政府と妥協したことに反発した、反政友会各派が合同運動を繰り広げるが、1910年(明治43年)3月14日 立憲改進党の系譜につながる憲政本党を中心に又新(ゆうしん)会と戊申倶楽部の3派(代議士は計92名)が合同して結党された。 党首は不在で、憲政本党の大石正巳、犬養毅、又新会の島田三郎、河野広中、戊申倶楽部の片岡直温、仙石貢らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して民党の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする「非改革派」と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る「改革派」が対立していた。1911年(明治44年)1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。第2次桂内閣や第2次西園寺内閣では南北朝正閏問題や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。 19...
  • 憲政本党
    憲政本党(けんせいほんとう)は、明治時代の日本の政党である(1898年11月3日-1910年3月13日)。 概要 1898年、自由党と進歩党が合同して憲政党を結成して第1次大隈内閣を組織するが間もなく分裂、10月29日に先手を打った旧自由党系が憲政党解散決議と同時に党名・綱領・規約はそのままとして役員を全て旧自由党系に入れ替えた新しい憲政党の届出を内務省に提出した。当時の内務大臣は旧自由党の党首であった板垣退助であったことから、直ちに承認された。これに対して大隈重信首相を擁する旧進歩党系(進歩派とも)はこれに対抗して正式な党大会を開催しようとしたが、内務省はこれを違法な政治集会と認定して開催を許可せず、11月2日には旧進歩党系に対して、同一の政党名を用いて結社を行い(旧自由党系)憲政党の政治活動を妨害を企てたとして、「憲政党」という名称の使用禁止命令が発せられた。このため、やむなく...
  • 井上準之助
    Template Infobox Celebrity? 井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和7年(1932年)2月9日)は、大正~昭和初期の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。 来歴・人物 浜口内閣で行った金輸出解禁(金本位制への復帰)や緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き、血盟団事件で暗殺される。 金輸出解禁政策は失敗であったが、当時としては異例の全国各地を歩いて国民に政策の理解を求めるPR活動を行うなどの真摯な態度や、当時の経済学において正統な経済のあり方とされた金本位制を維持しようとしたのは常識的判断であり世界恐慌の深刻さがそれを上回ったと擁護する向きもある。しかし、金融界の意向に配慮した旧平価解禁の強行やその後のドル買事件に際しては一転して金融界と過度な全面衝突を起こすなど...
  • 平沼内閣
    {{日本の内閣記事|ひらぬま ないかく|35|平沼騏一郎|Template 和暦?|1月5日|同年|8月30日|官僚・軍人が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/35.html|枢密院議長|画像=250px|画像説明=平沼内閣の閣僚}} 概要 平沼内閣は、前の第1次近衛内閣の崩壊を受けて、枢密院議長の平沼騏一郎が組閣した内閣である。日独軍事同盟の締結交渉を進めていたが、1939年(昭和14年)8月に突然、ドイツ(ナチス・ドイツ)がソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結したため、衝撃を受けた平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」との言葉を残して同月末に内閣総辞職。 閣僚 総理大臣 男爵平沼騏一郎(枢密院) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 外務大臣 有田八郎(貴族院所属 昭和研究会)(第1次近...
  • 箱館戦争
    Template Battlebox? 箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦いである。この戦いの最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。 背景 慶応4年(1868年)4月、江戸城の無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた徳川家海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓ににあたらせようと画策する。 榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。恭順派の幕臣勝海...
  • 副島種臣
    {{政治家 |各国語表記 = そえじま たねおみ |画像 = Taneomi Soejima 3.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1828年10月17日(文政11年9月9日) |出生地 = 肥前国佐賀藩 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = |出身校 = 弘道館 |所属政党 = 愛国公党 |称号・勲章 = 勲一等旭日桐花大綬章、伯爵 |配偶者 = |サイン = |国旗 = JPN |職名 = 第3代外務卿 |就任日 = 1871年11月4日 |退任日 = 1873年10月28日 |退任理由 = |国旗2 = JPN |職名2 = 第7代内務大臣 |内閣2 = 第1次松方内閣 |就任日2 = 1892年3月11日 |退任日2 = 1892年6月8日 |退...
  • 朝鮮軍 (日本軍)
    Template 軍隊資料? 朝鮮軍(ちょうせんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つ。朝鮮を管轄した。 概要 日露戦争を機に大韓帝国に駐留した韓国駐剳軍(かんこくちゅうさつぐん)を前身とし、明治43年(1910年)の韓国併合に伴い朝鮮駐剳軍(ちょうせんちゅうさつぐん)に名称変更、大正7年(1918年)に朝鮮軍となった。司令部は当初漢城の城内に置かれたが、後に郊外の京城府龍山(現・ソウル特別市龍山区)に移転した。 昭和20年(1945年)2月、戦況逼迫に伴い第17方面軍が設けられ朝鮮軍は廃止されたため、管轄区域の朝鮮軍管区は第17方面軍司令部が兼ねた朝鮮軍管区司令部が管轄した。 歴代朝鮮軍司令官 Template 日本陸軍? 韓国駐剳軍司令官 原口兼済中将:明治37年(1904年)3月11日 - 明治37年(1904年)9月8日 長谷川好道大将:明治37年(190...
  • 幣原内閣
    {{日本の内閣記事|しではら ないかく|44|幣原喜重郎|Template 和暦?|10月9日|Template 和暦?|5月22日}}公職追放によりTemplate 和暦?1月13日に一部の閣僚が入れ替えられた。 公職追放前 1945年(昭和20年)10月9日 - 1946年(昭和21年)1月13日 閣僚 内閣総理大臣 男爵幣原喜重郎(貴族院同和会→日本進歩党) 外務大臣(留任) 吉田茂(官僚 外務省) 内務大臣 堀切善次郎(貴族院研究会) 大蔵大臣 子爵渋沢敬三(貴族院研究会) 陸軍大臣(留任) 下村定(軍人 陸軍) 1945年10月9日 - 同12月1日 1945年12月1日、陸軍省廃止。 第一復員大臣 幣原喜重郎(兼任) 1945年12月1日 - 昭和21年1月13日 1945年12月1日、陸軍省残務処理のため設...
  • 艦隊派
    艦隊派(かんたいは)とは、大日本帝国海軍内の派閥の一つ。 ロンドン海軍軍縮条約締結により、「条約妥結やむなし」とする条約派(海軍省側)とこれに反対する艦隊派(軍令部側)という対立構造が生まれ、後に統帥権干犯問題に発展した。 中心人物は、伏見宮博恭王、加藤寛治、山本英輔、末次信正、高橋三吉など。ロンドン条約時には東郷平八郎をシンボルとして擁立した。 政治的には関与していないが、漸減邀撃作戦研究を強力に推進した中村良三、政治的には艦隊派ではないが、混乱を恐れて艦隊派の条約派一掃などの要求を拒絶せず丸呑みした大角岑生を艦隊派に含めることもある。また、政治的には僅かな権限しか持たなかったが、海軍省との交渉時に脅迫めいた姿勢で臨んだ南雲忠一のような若手を含めることもある。定義によっては日独伊三国同盟推進派や対米開戦強硬派など、軍縮会議以降の対立で生じた派閥のメンバー(石川信吾・神重徳など)を含...
  • 京城帝国大学
    京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、6番目の帝国大学(但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督府)であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。 歴史 前史 李氏朝鮮では、1895年の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた金ワンソプ『親日派の弁明』p104。 そのため1906年には韓国統監府より普通学...
  • 幣原喜重郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日)- 1951年(昭和26年)3月10日)は日本の政治家、外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中外交と対立する。終戦後は第44代内閣総理大臣(在任:1945年10月 - 1946年5月)、第40代衆議院議長に就任した。従一位勲一等男爵。 略歴 生い立ち 大阪府門真一番村(現門真市)の豪農の家に生まれた。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪中学校、第三高等中学校を経て、1895年 帝国大学法科大学卒業。 戦前 1915年に外務次官となり、ワシントン会議においては全権委任をつとめる。外務大臣になったのは1924年の加藤高明内閣が最初。以降、若槻禮次郎内閣(1次・2次)、濱口内閣と4回外相を歴任。 この間に対米...
  • 東久邇宮内閣
    {{日本の内閣記事|ひがしくにのみや ないかく|43|東久邇宮稔彦王|Template 和暦?|8月17日|同年|10月9日|貴族院が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/43.html|皇族・陸軍大将|内閣名=東久邇宮内閣内閣総理大臣としての正式な表記は宮号を冠さない「内閣総理大臣 稔彦王」であり、官報にもそのように掲載された。|画像= |画像説明=東久邇宮内閣の閣僚最前列東久邇宮稔彦王、二列目左より重光葵、米内光政、中島知久平、近衛文麿、岩田宙造、三列目左より松村謙三、千石興太郎、山崎巌、津島寿一、小日山直登、緒方竹虎、最後列が村瀬直養。}}皇族が首相となった内閣は史上唯一、在任期間は54日間で史上最短。最後の挙国一致内閣でもある。 1945年(昭和20年)10月5日に内閣総辞職し、次の幣原内閣が発足するまで、職...
  • 三井財閥
    thumb|250px|東京都中央区日本橋室町 [[三井本館]] 三井財閥(みついざいばつ)は、三井高利の創業した三井越後屋(現在の三越・三井住友銀行)を元に始まった日本屈指の財閥。三菱財閥・住友財閥とともに日本三大財閥の一つとされる。 江戸時代 thumb|170px|名所江戸百景 駿河町([[歌川広重)越後屋の暖簾を見ることができる。現在、通りの右側に三井本館、左側に三越日本橋本店がある。手前左右の通りが中央通り。]] 伊勢国松坂の商人、三井高利が創業した越後屋三井呉服店(三越)は、「現銀掛値なし、切売り」など当時としては画期的商法で、またたくまに成功した。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。 幕末は、他の商人同様経営は乱れるも、新政府に取り入り政商としての道を歩んでいく。 明治以後 三野村利左衛門、中上...
  • 岩崎弥太郎
    岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)は日本の実業家で、三菱財閥の創業者。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。 人物 土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。 幕末、土佐藩参政吉田東洋、後藤象二郎の知遇を得て、吉田東洋の元で脱藩士の探索などに従事する。脱藩士を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し帰国、職を辞した。その後、後藤象二郎により土佐藩の長崎留守居役に抜擢され、坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が設立されると、隊の経理を担当した。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、...
  • 鈴木商店
    鈴木商店(すずきしょうてん)は、戦前の日本の財閥。樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開。さらに保険・海運・造船などの分野にも進出し、ロンドン・バルティック取引所で日本企業として2番目のメンバーとなる。鈴木商店の子会社の1つ、日本商業会社は岩井産業と合併し日商岩井へ、更にニチメンと合併し現在の双日のルーツの一つでもある。第一次世界大戦の戦争成金の代表格。 歴史 創業期 1874年、兵庫の弁天浜に川越藩の鈴木岩治郎が、当時番頭をしていた辰巳屋ののれんわけで鈴木商店を開業する。 1886年、のちに鈴木商店を支える金子直吉が鈴木商店に丁稚奉公に入る。順調に売上を伸ばし神戸八大貿易商の一つに数えられるようになる。しかし、1894年に鈴木岩治郎が死去。廃業の提案をよそに夫人の鈴木よねが金子直吉と柳田富士松の両番...
  • 米騒動
    米騒動(こめそうどう)とは米の流通量の減少や価格高騰によって民衆が米を入手しづらくなることが要因となって起こる、騒ぎなどのことである。 背景 米の重要性について 米を主食として食す国の場合、米の価格高騰、国内流通量の減少は治安悪化や国家の運営を揺るがす事態に直結する問題となる。そのため国家元首は米の価格、流通に対し神経質になるという ref name= syokuryosoudatsu 『食料争奪』 柴田明夫 日本経済新聞出版社 2007年。 また、消費者側の状況を見ると特に貧困層はエンゲル係数が高く、食料費の高騰の影響を受けやすい『アジアで食料価格高騰、貧困層に大打撃』 2008年2月12日付配信 AFP。 国際取引について 米は三大穀物とも呼ばれ大量に生産されているが、生産量に比べ国際間の取引流通量は少ない。これは主に生産国内でまず主食として消費されるため、国外...
  • 徐州会戦
    Template Battlebox? 徐州会戦(じょしゅうかいせん)は、日中戦争中の1938年3月15日から5月19日に発生した日本軍と中国国民軍と大規模な戦闘である。日本側は北支那方面軍及び中支那派遣軍、中国側は李宗仁の中国国民軍が戦闘を行った。 背景 1937年12月に南京戦役で勝利した日本の支那派遣軍は、大本営の戦線不拡大方針を無視して戦線を拡大、北京と南京を結ぶ打通作戦を企図した。このためには、1912年に開通していた津浦鉄道(天津-蘇州・浦口)の確保が要件として上げられていた。この中で、台児荘の激戦が発生する。 台児荘 1938年3月頃、日本軍は省都済南も含め、山東省北部を占領していた。北支那派遣軍の第5師団(師団長:板垣征四郎)と第10師団(師団長:磯谷廉介)は合流、共同で要衝の徐州を攻略することとしていた。これに対して国民党山東省主席の韓復矩は兵力の温存を図り、天...
  • 美濃部達吉
    美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年(明治6年)5月7日 - 1948年(昭和23年)5月23日)は、日本の憲法学者。天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職する。勲一等旭日大綬章(1948年(昭和23年))を受章。 妻の多美子は菊池大麓菊池大麓(箕作阮甫の孫)は東京帝大総長。の長女である。東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男。商工省および企画院官僚だった美濃部洋次は甥にあたる。 人物・来歴 前半生 美濃部達吉は、1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町の漢方医・美濃部秀芳の次男として生まれた。長じて東京帝国大学に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。1897年(明治30年)に大学を卒業し、内務省に勤務する。1899年(明治32年)にドイツやフランス、イギリスに留学し、翌1900年(明治33年)に東京帝国大学助教授、1902年(明治35年)に教授となる。帝国大...
  • 勝海舟
    勝 海舟/勝 安芳(かつ かいしゅう/かつ やすよし、文政6年1月30日(1823年3月12日) - 明治32年(1899年)1月21日)は、幕臣、政治家。明治期の枢密顧問官、位階勲等は正二位勲一等伯爵。 幼名は麟太郎(りんたろう)。本名義邦 (よしくに)、維新後改名して安芳 /small 。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」をさけて同音(あ−ほう)の「安芳」に代えたもの。海舟は号で、佐久間象山から受領の篆刻「海舟書屋」からとったという。 父は旗本小普請組の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟にあたる。海舟も十代の頃は剣術修行に多くの時間を費やしている。家紋は丸に剣花菱。 山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。哲学館(現:東洋大学)に対して多くの寄付をし、「哲学館の三恩人」の一人にも...
  • 会津戦争
    Template Battlebox? 会津戦争(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦いである。主に現在の福島県、新潟県、栃木県が戦場となった。なお、同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として区別される場合が多い。 背景 文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、尊攘派志士の取り締まりや禁門の変において幕府方の中核となって奮闘した。この経緯もあり、薩摩・長州を中心とした新政府に幕府方の首謀者として会津藩は、鳥羽・伏見の戦い後の慶応4年(1868年)、新政府から追討令を受ける。追討を命じられた仙台藩、米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽...
  • 田中隆吉
    Template Infobox 軍人? 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、陸軍少将。第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、太平洋戦争開戦時の陸軍省兵務局長という要職にありながら、東京裁判において検事側の証人として被告に不利な証言もした。 田中は日本軍の数々の謀略に直接関与しており、日本軍の闇の部分に通じた人物であった。また、驚異的な記憶力の持ち主で、これらが東京裁判において発揮された。 略歴 1893年(明治26年) - 島根県安来市の商家に生まれる。島根県立松江中学校へ進む。 1907年(明治40年) - 陸軍広島地方幼年学校入学。 1910年(明治43年) - 陸軍中央幼年学校入学。 1913年(大正2年)3月 - 陸軍士官学校砲兵科卒業(26...
  • 第1次近衛内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ このえ ないかく|34|近衛文麿|Template 和暦?|6月4日|Template 和暦?|1月5日|挙国一致内閣。貴族院・官僚が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/34.html|貴族院議長}}Template 和暦?1月4日に総辞職し、次の平沼内閣発足まで、職務を執行した。 概要 第1次近衛内閣は、元老・西園寺公望の奏薦を受けて、公爵・貴族院議長の近衛文麿に大命降下され、組閣した内閣である。内閣発足の1ヶ月後に勃発した日中戦争(支那事変)については、当初、不拡大方針を閣議決定して、事態の早期収束を図った。しかし、軍部強硬派の圧力により戦争は拡大。和平交渉にも失敗して、翌1938年(昭和13年)1月には、「爾後国民政府を対手とせず」という、いわゆる「近衛声明」(第一次近衛声明)を発...
  • 坂本龍馬-2
    前半は坂本龍馬-2参照 文献 原典 1935年 坂本龍馬、由利公正著、尾佐竹猛解題『近世社会経済学説大系』第14、誠文堂新光社 各巻タイトル 坂本龍馬・由利公正集 / 尾佐竹猛解題 1978年5月 平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 限定版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p907 - 952 1980年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補改訂版 1982年11月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補3訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p987 - 1032 1988年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店、ISBN 4875194005 増補4訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p1045 - 1090 1988年12月、岩崎英重...
  • 国民協会 (日本)
    国民協会(こくみんきょうかい)は、日本に存在した政党、政治団体。現在、「国民協会」の名を持つ政党は日本には存在しない(政治団体としては名称変更した国民政治協会が存在する)。 国民協会 (1892-1899) 明治時代に存在した国粋主義団体(一般的には政党と見なされるが、厳密には異なる)。政治組織として国民政社(こくみんせいしゃ)があり、衆議院の院内会派としては他の吏党系議員とともに議院倶楽部(ぎいんくらぶ)と名乗った(1892年6月22日-1899年7月4日)。 1892年、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭として設立された。幹事として渡辺洪基・牧朴真・白井遠平が選出され(後に安場保和が幹事長に就任)、他に中央交渉部の佐々友房、佐藤昌蔵、津田真道、大岡育造、古荘嘉門、曾禰荒助・元田肇などが参加した(なお、当初国民政社は別働隊として位置づけられており、国民協会とは別個に佐藤・古荘・曾禰...
  • 輔弼
    輔弼(ほひつ)は、大日本帝国憲法の観念で、天皇の行為としてなされ、あるいは、なされざるべきことについて進言し、その全責任を負うこと。 国務上の輔弼は国務大臣が、宮務上の輔弼は宮内大臣と内大臣が、統帥上の輔弼は参謀総長と軍令部総長が就いていた。ところが、後に国務大臣である筈の陸軍大臣・海軍大臣にも両軍を代表する形で帷幄上奏を行う権利が認められたことから、一般行政にまで統帥権に基づく輔弼行為の行使として帷幄上奏をするようになり、結果的に軍部の暴走を招いた。 歴史 大日本帝国憲法以前にも、「輔弼」という概念は存在した。1871年の太政官制度の改革により三院制が導入され、このうち最高機関である正院においては、天皇の臨御の下、太政大臣、納言(左右大臣)、参議の三職がおかれることになる。三職のうち、天皇を「輔弼」することができるのは前二者のみであり、参議は前二者を「補佐」することしかできない...
  • 労働者農民党
    労働者農民党(ろうどうしゃのうみんとう)とは、労働者と農民の共闘を目指した社会主義政党(革新政党)である。1948年から1957年まで存続した。 概要 戦後の一時期、日本社会党を除名された最左派により結成された、非共産党系の左翼政党。党首の名称を毛沢東にあやかり主席という名称にし、外交的には親中国派の立場を取り、国内的には労農派・毛沢東主義の非共産党系左翼政党として行動した。 歴史 初代主席は黒田寿男。当時の社会党は、保守政党の民主党、国民協同党との連立政権を組んでいた。しかし、社会党内の左派は政権から事実上閉め出され、党内野党となっていた。1948年7月7日、黒田寿男ら6名が芦田内閣の予算案に造反して反対したため、党を除名。12月2日、他の離党者も合わせて労働者農民党を結成した。結党時には、衆参18人の勢力となっていた。 結党宣言では社会党を「階級闘争を放棄し(中略)ブ...
  • 愛国社
    愛国社(あいこくしゃ)は、 明治時代の自由民権運動前期の政治団体。 昭和時代初期の右翼団体。 1. 愛国社 (1875年-1880年) 明治8年(1875年)2月22日、大阪会議に参加した板垣退助が、大阪で旧愛国公党の同志に再結集を呼びかけ創設した。愛国社に参加したのは、西日本の士族層で、これを板垣など高知県の立志社員が中心になって運営にあたった。本社を東京に置き、愛国社に加盟する各地方の政社からは、委員を本社に送って中央と地方での情報収集及び相互連絡に当たることになっていたが、結成後間もなく、板垣が参議に復帰した上、参加者のうち、西南戦争に西郷軍に参加した者も多く、自然消滅した。 西南戦争後、自由民権運動は、武力による専制政府打倒から、言論と大衆組織による運動へと転換することになる。明治11年(1878年)4月に立志社が中心となり、愛国社の再建を決定。9月に石川、愛知、和歌山...
  • 渋沢栄一
    Template Infobox 人物? 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、幕末の幕臣、明治~大正初期の大蔵官僚、実業家。第一国立銀行や王子製紙・日本郵船・東京証券取引所などといった多種多様の企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父と呼ばれる。 正二位勲一等子爵。雅号は青淵。戒名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。 人物 生い立ち 天保11年(1840年)2月13日、武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幼名は市三郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。 渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける大農家だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と...
  • 皇道派
    皇道派(こうどうは)とは、大日本帝国の陸軍内の派閥である。財界や政界を直接行動(クーデターのような過激な運動も辞さない)で変革、天皇親政による国家改造を目指し、皇道派はこれを昭和維新と称した。この思想は主に尉官クラスの隊付き青年将校たちに広く支持されていたという。皇道派の代表的人物は荒木貞夫や真崎甚三郎。1930年代に同じく陸軍内での派閥である永田鉄山や東条英機ら統制派と激しい路線対立を繰り広げるが、二・二六事件後その勢力は衰退した。 誕生 荒木が真崎甚三郎と共に、皇道派をつくりあげる基盤は、宇垣一成陸相の下で、いわゆる宇垣軍縮が実施された時期に生まれたと言える。 宇垣は永田鉄山を陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、歩兵に軽機関銃・重機関銃・曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。 永田は、第一次世界大戦...
  • 近衞文麿
    Template 日本の内閣総理大臣? 近衞 文麿(このえ ふみまろ、明治24年(1891年)10月12日 - 昭和20年(1945年)12月16日)は、日本の政治家。第5代貴族院議長。第34、38、39代内閣総理大臣。 爵位は公爵であり、かつ五摂家筆頭である近衛家の当主。後陽成天皇の12世孫にあたる。 来歴・人物 生い立ち 1891年(明治24年)10月12日、公爵近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵前田慶寧の三女・衍子の間の長男として、東京市麹町区(現:千代田区)で生まれた。文麿は皇別摂家の生まれであり、父系をさかのぼると天皇家に行き着く。しかし母は文麿が幼いときに病没、篤麿は衍子の妹・貞を後妻に迎えるが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかった貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由といわれる。一方の文麿は貞を長年実母と...
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