chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「社長」で検索した結果

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  • 立憲帝政党
    ...に対抗し東京日日新聞社長の福地源一郎(桜痴)、明治日報の丸山作楽、東洋新聞の水野寅次郎によって結成された。4月4日には大阪で機関紙である大東日報を創刊(社長羽田恭輔・主筆原敬)する。 立憲帝政党は、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙などを政治要綱に掲げた。自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、国学者、旧士族層や有力商人、高級官吏、神官・僧侶ら宗教家など体制擁護を意図する保守層の支持を受けたが、組織が弱く、さらに政府が超然主義を採ったため存在意義を失い、翌1883年9月24日に解党した。 なお、大東日報は解党以後も独立系の政府派新聞として存続し、1885年5月15日には内外新報と改題するものの、1887年4月8日に廃刊している。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月20日 (月) 18 34。 ...
  • 帝人事件
    ...、時事新報(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事を掲載、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。当時文部大臣の鳩山一郎は議会で関連を追及され「明鏡止水の心境」と述べたところ、辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任。(なお、3月に武藤山治射殺事件が起きたが、本事件との関係は不明である) その後、帝人社長や台湾銀行頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴された。これにより政府批判が高まり、同年7月に斎藤内閣は総辞職した。なお、この事件の逮捕者の拘留期間は200日に及び、拷問による自白の強要もあったという。 起訴された人物は主に次のとおり。 島田茂台湾銀行頭取 - 背任・涜職容疑 永野護(番町会) 河合良成(番町会) - 背任容疑 黒田英雄大蔵次官 - 涜職容疑 大久保偵次大蔵省銀行局長 大野龍太大蔵省特別銀行課長 相田岩夫大蔵...
  • 東洋自由新聞
    ...減じた。 西園寺の社長就任は明治政府や宮中でも物議を呼び、右大臣岩倉具視は宮内卿で西園寺の実兄にあたる徳大寺実則に働きかけ、明治天皇の内論により社長辞任を申し入れる。西園寺は内論を退けるが、辞任要請が内勅となると西園寺は屈服して4月9日に辞任した。さらに内勅の事実を檄文によって暴露した松沢求策らが逮捕されるなど言論弾圧の影響を受け社主の稲田が手を引くと資金が欠乏し、同年4月30日の34号で休刊に陥り、事実上の廃刊となった。再刊を目指す山際らは自由党機関紙「自由新聞」へ合流。 東京大学明治新聞雑誌文庫に全号が保存されているほか、西田長寿編による復刻版がある。 参考文献 飛鳥井雅道『中江兆民』(1999、吉川弘文館) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年5月11日 (金) 04 11。 ...
  • 朝日新聞
    ...1989年5月20日社長が引責辞任に追い込まれる事態へと発展した。こうして、朝日新聞はリクルート事件という一大スクープを放ったにもかかわらず、その年の新聞協会賞受賞を逃すことになる。 1991年から翌年にかけて「従軍慰安婦」問題の連載キャンペーンを展開、吉田清治著の『私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録』にある「昭和18年(1943年)に軍の命令で韓国の済州島で女性を強制連行して慰安婦にした」という体験談を、4回にわたり報道した。 この「体験談」は現代史家・秦郁彦の調査により嘘であることが判明し(『正論』1992年6月号)、吉田清治本人もフィクションであることを認めたにも関わらず(「諸君!」1998年11月号 秦郁彦)、朝日新聞は何ら反応を示さなかった。又、1991年8月11日付け朝日新聞は、社会面トップで「思い出すと今も涙」「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで...
  • 白虹事件
    ...に押しかけ、村山龍平社長を街頭に引きずり出して全裸にしたうえ電柱に縛りつけ、首に「国賊村山龍平」と書いた札をぶら下げる騒ぎまで発生した。 事態を重く見た大阪朝日新聞は10月15日、社長や長谷川如是閑ら編集幹部が次々と退任、12月1日には「本社の本領宣明」を出し、それまでの言論を自己批判した。こうして大阪朝日新聞は、発行禁止処分を免れることになった。これは大阪朝日新聞の権力への屈服を象徴しており、以降、大阪朝日新聞の論調の急進性は影をひそめていく。 捏造報道疑惑 米騒動の際、大阪朝日新聞は寺内内閣だけでなく、戦時特需を利用して急成長した(成金)政商の鈴木商店は米の買い占めを行っている悪徳業者であると攻撃し、鈴木商店は焼き討ちにあった。この事件を小説化した城山三郎は、当時、鈴木商店が米を買い占めていた事実はなく、焼き討ちは大阪朝日新聞が事実無根の捏造報道を行ったことによる「風評...
  • 時事新報
    ...月17日から武藤山治社長が率先して行った「番町会を暴く」シリーズでは財界の不正を糾し、帝人事件(昭和初期の大疑獄事件)にまで発展したが、武藤社長が暴漢に射殺されてシリーズは終了。時事新報の前途にますます暗雲が立ちこめる事となった。 この後、慶應義塾出身者で東京日日新聞の高石眞五郎に経営肩代わりの話がくるが、高石は東京日日新聞の経営自体が傾いた時期でもあり、これを固辞。代わりに東京日日新聞の社外役員であり、大阪で「夕刊大阪新聞」・「日本工業新聞」を発行していた前田久吉を推挙し、1935年11月より前田が専務となって経営に当たった。しかしながら前田の大阪的経営手法と慶應閥が多い会社の体質が相反し、社業は遂に行き詰まった。高石は責任を取る形で、1936年12月25日時事新報を東京日日新聞に合同した。 1946年1月1日、伊藤正徳らの手により復刊。新興紙ブームの時流と名門復活で当初は堅調...
  • 南満州鉄道
    ...国沢新兵衛を更迭し、社長に再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚・中西清一を抜擢した。 中西は塔連炭坑と内田汽船を異常に高い値段で買収した。塔連炭坑は政友会の幹部・森恪が経営していた。内田汽船も政友会系の人物が経営していた。炭坑や汽船を満鉄に売りつけた代金は政友会の選挙資金に充てられた(満鉄疑獄事件)。野党・憲政会はこの問題を帝国議会で追及し、中西を背任罪で告訴した。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがいた。興業部庶務課長であった山田潤二は野村社長と中西副社長に直言し、容れられないと職を辞し、検事に決定的証拠を提出した。中西は逮捕・起訴されるが、控訴審で無罪となる。 こうした度重なる政党の介入に対し、社員は団結し、1927年、社員会を結成する。 張作霖爆殺事件と満洲事変 Template See? 昭和に入ると、満鉄は相次いで関東軍の陰謀の舞台となる。 192...
  • 血盟団事件
    ...後は出版社業界公論社社長を務める傍ら右翼活動を続け、『一殺多生』を著わす。1978年1月17日死去。 菱沼は、帰郷して右翼活動から一線を引いていたが、小幡五朗と改名し、1958年に茨城県議会議員に当選し、その後8期連続当選、県議会議長を務めて県政界の実力者となった。1990年10月3日死去。 四元は、出獄すると井上日召らと共に近衛文麿の勉強会に参画、近衛文麿の書生や鈴木貫太郎首相秘書を務めた。1948年の農場経営を経て、1955年より田中清玄の後継で三幸建設工業社長に就任(2000年 - 2003年会長)。この間、戦後政界の黒幕的な存在として知られ、歴代総理、特に細川護煕政権では「陰の指南役」と噂された。2004年6月28日老衰のため死去、享年96。 血盟団によるテロ計画のアジトとなった立正護国堂は、現在もなお、正規の日蓮宗寺院・東光山護国寺として残っている。境内には、「井上...
  • 宮中顧問官
    ...(男爵、日本鉄道会社社長、元老院議官、沖縄県知事、錦鶏間祗候) 西村茂樹(従三位、華族女学校兼任) 二条基弘(公爵、摂家) 橋本綱常(陸軍軍医総監従四位勲三等子爵医学博士、東京帝国大学医学部教授) 花房義質(子爵、ロシア公使、伏見宮別当、宮内次官、帝室会計検査局長、日本赤十字社社長) 原恒太郎(従三位勲二等) 土方久元(伯爵、内閣書記官長、元老院議官、農商務大臣、宮内大臣、帝室制度調査局副総裁、臨時帝室編修局総裁、皇典講究所所長、國學院大學学長) 船越衛(男爵、千葉県知事、宮城県知事、貴族院議員) 北条時敬(貴族院議員) 穂積八束(東京帝国大学教授、貴族院議員、枢密院書記官、法典調査会査定委員) 三島毅(東京帝国大学教授、東宮侍講、大審院判事、新治裁判所長、二松学舎創設者:1830年~1919年) 三室戸敬光(子爵) 平山成信(男爵、内...
  • 大政奉還
    ...いて創業者一家以外の社長が(パナソニックの松下家、トヨタの豊田家など)創業者一家に社長の地位を返上することを「大政奉還」と呼ぶことがある。 関連項目 日本史の出来事一覧 幕末 明治維新   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月28日 (土) 18 03。    
  • 三菱財閥
    ...弥が三菱合資の三代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒の設立など、事業がいっそう拡大された。 1916(大正5)年に弥之助の長男・小弥太が四代目社長に就任。部長制を廃止し分野別に担当事務理事を置いた。 1917年に三菱造船、三菱製紙、1918年に三菱商事、三菱鉱業、1919年に三菱銀行、1920年に三菱内燃機製造、1921年に三菱電機と次々に分割化していった。そして、満州事変から第二次世界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に三菱の事業は飛躍的に拡大した。 スリーダイヤマークの「三菱」の呼び名だが、これは土佐藩藩主山内家の家紋の「三ツ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わせたものであった。戦前の8大財閥(三菱財閥、三井財閥、住友財閥、安田財閥、浅野財閥、大倉財閥、古河財閥、川崎財閥)の中で...
  • 頭山満
    ...喜平太(第二代玄洋社社長)、箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。さらに翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて向陽義塾を開校した。一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。子分達に気前良く金を与え「スラムの帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。 玄洋社 設立 玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成された。成立年については諸説があり、大正時代に書かれた『玄洋社社史』では明治14年(1881年)2月となっているが、それ以前の活動の記録が残っており、最近では明治12年(1879年)12月成立という研究結果もある。社員は61名。自由民権運動を目的とした結社ではあったが、誰もが例外なく西郷...
  • 野村吉三郎
    ...なった日本ビクターの社長に就任。空襲による会社や工場施設の焼失、戦後の労働争議などでの危機的経営を創生期の親会社で疎遠となっていたアメリカRCAと技術支援契約を結び再建の道筋をつける。 追放解除に伴い、吉田茂の要請で再軍備問題の調査にあたり、海上自衛隊の創設に関わる。これが縁で昭和29年(1954年)に参議院選挙に出馬、参議院議員となる。自由民主党に参加して、防衛政策を担当した他は、外交調査会会長を務め、松野鶴平の参議院議長就任に伴い党参議院議員会長に就任した。鳩山内閣・岸内閣で防衛庁長官への起用が取り沙汰されたが、日本国憲法における文民統制の観点から見送りになった。その後の運用では旧軍・自衛隊の士官経験者の防衛庁長官も誕生しているが(山下元利・中谷元など)、そのような前例が出来ていない時期だったことと、野村が軍人としてあまりにも大物過ぎたことが影響したとされる。 年譜  ...
  • 教科書疑獄事件
    ...5年)秋、教科書会社社長が列車内に自分の手帳を置き忘れた。手帳に贈賄の事実関係が記されていたことから事件が発覚した。 当局は1902年12月17日、贈収賄事件の一斉摘発に乗り出した。このことによって、県知事や文部省の担当者、府県の採択担当者、師範学校校長や小学校長、教科書会社関係者など、40道府県200人以上が摘発された。うち152人が予審に付され、116人が有罪判決を受けた。また、教科書疑獄事件に関係した会社が発行する教科書は採択禁止となった。 影響 教科書疑獄事件発覚以前から、文部省は教科書国定化を計画していた。また帝国議会でも、事件発覚以前に複数回にわたり、教科書国定化の建議が提出されていた。 事件の発覚によって、政府は一気に教科書国定化をすすめることとなった。事件発覚翌年の1903年(明治36年)には、小学校教科書国定化の法案が成立し、国定教科書が導入された。 ...
  • 小磯内閣
    ...間・投資家・王子製紙社長)  1944年(昭和19年)7月22日 - 1944年(昭和19年)12月19日 吉田茂(官僚 内務省) 1944年(昭和19年)12月19日 - 1945年(昭和20年)4月7日 運輸通信大臣 前田米藏(衆議院 翼賛政治会) 1944年(昭和19年)7月22日 - 1945年(昭和20年)4月7日 国務大臣 町田忠治(衆議院 翼賛政治会) 1944年(昭和19年)7月22日 - 1945年(昭和20年)4月7日 国務大臣 伯爵児玉秀雄(貴族院所属 研究会) - 文相に転じる 1944年(昭和19年)7月22日 - 1945年(昭和20年)2月10日 廣瀬久忠(貴族院所属 研究会) - 厚相から転じる 1945年(昭和20年)2月10日 - 1945年(昭和20年)2月21日 石渡荘太郎(貴族院所属 研究会) - 蔵相...
  • 来栖三郎 (外交官)
    ...壮兵衛は元横浜ドック社長・元横浜商工会議所副会頭。妻アリスはアメリカ人。長男の来栖良は陸軍航空技術大尉、1944年2月17日に、福生飛行場で米艦載機迎撃のため急発進した三式戦のプロペラに接触し頭部を重創し、即死。死後、大尉から少佐に昇進している。他に、長女・ジェイ、次女・ピアをもうけた。 著作 『泡沫の三十五年 日米交渉秘史』(中公文庫、2007年改版) ISBN 978-4-12-204823-2 初版は文化書院、1948年刊。 『日米外交秘話 わが外交史』(ゆまに書房、2002年) ISBN 4-8433-0684-3 日本外交史人物叢書第18巻として刊行。初版は創元社、1952年刊。 関連項目 Template Commons? 太平洋戦争 外務省 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年...
  • 河本大作
    ...社山西産業株式会社の社長に就任、ソ連軍の満州侵入後も中国で生活していた。 戦後 戦後、山西産業は国民党に接収され、西北実業建設公司へと名称を変更したが、中華民国政府の指示により河本は同社の最高顧問に就任し、引き続き会社の運営にあたった。 戦前同社に務めていた日本人民間人の半数は終戦にあたり帰国したが、もう半数の者たちは終戦前と同じ待遇で留任、河本自身も「総顧問」の肩書きで残留した。家族などを含めたその数は1200人余りであった。これらの残留は河本の勧誘によるものであった。 その後、太原の日本人は閻錫山の山西軍に協力して中国共産党軍と戦ったが、1949年(昭和24年)には中国共産党軍は太原を制圧、河本は捕虜となり、戦犯として大原収容所に収監された。1953年(昭和28)8月25日、河本は収容所にて病死した。享年72。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikip...
  • 毎日新聞
    ...まった。1888年、社長交代を契機に論調を中立路線に転換し大幅に部数を伸ばすが、1891年に長州藩閥の機関紙と化し、再び政府寄りとなる。その後伊藤博文や井上馨、三井財閥の支援を受け、1904年には三菱財閥により買収。加藤高明が社長に就任するが経営不振は打開されず、1911年『大阪毎日新聞』に買収された。 『大阪毎日新聞』は明治初期には政治色が強かったため経営上振るわなかったが、1889年から穏和な論調に転換、広告収入の増加もあって『大阪朝日新聞』(現『朝日新聞』)と並ぶ関西の有力紙となっていた。 第一次世界大戦の勃発を他紙に先駆けて報道。ロシア革命の報道やレーニンの会見でも注目を集める。シベリア出兵には慎重論をとり、国内問題では米騒動などの社会問題も取り上げ、普通選挙運動にも賛成の立場をとったが、同様の論調をとる東西『朝日新聞』と覇権争いを全国的に繰り広げた。こうした動きは結果的...
  • 読売新聞
    ...和20年)正力松太郎社長がA級戦犯容疑で逮捕。巣鴨拘置所に収容される(1947年(昭和22年)不起訴で釈放後公職追放)。 1945年馬場恒吾、社長就任。 1946年5月1日 題号「讀賣新聞」に復帰。 1946年(昭和21年)11月12日、「漢字を廃止せよ」との社説を掲載し漢字廃止(国語国字問題参照)を推進。 1950年6月1日 読売新聞社が株式会社に改組。 1951年(昭和26年)正力松太郎の公職追放解除。 1952年11月25日 大阪市で「大阪讀賣新聞」創刊、関西に進出。 1959年5月1日 札幌市に北海道支社開設。現地印刷開始。 1961年5月25日 富山県高岡市に北陸支社開設。現地印刷開始。 1964年9月23日 北九州市に「読売新聞西部本社」設立。現地印刷開始。 1966年6月29日 この日から7月2日まで行われたビートルズ日本公演を主催。 1975年3...
  • 岩倉具視-2
    ...(パシフィックホテル社長) 小桜葉子(本名(旧姓)岩倉具子。女優) 岩倉瑞江(婦人服ブランド「スポーティフ」を経営) 玄孫 岩倉具忠(具栄の長男。イタリア文学者。京都大学教授) 岩倉具房(具栄の次男。株式会社ウテナ代表取締役社長) 亀井久興(衆議院議員。国民新党幹事長) 加山雄三(歌手・俳優) 喜多嶋修(音楽プロデューサー) 来孫 亀井亜紀子(参議院議員。国民新党副幹事長・女性局長) 喜多嶋舞(女優) 山下徹大(俳優) 昆孫 岩倉正和(弁護士。西村あさひ法律事務所のパートナー弁護士) その他 岩倉具博(元ジャニーズJr.、通字を受け継いでいるので直系である可能性はあるが、詳細は不明) 演じた俳優 二谷英明(『竜馬がゆく』 1968年・NHK大河ドラマ) 林昭夫(『勝海舟』 1974年・NHK...
  • 阿南惟幾
    ...惟正(元新日本製鐵副社長、靖国神社氏子総代)、五男惟道(野間家へ養子、元講談社社長)、六男惟茂(元駐中国大使)。 戦後しばらくして、妻阿南綾子は出家した。なお阿南陸相は昭和天皇からは”あなん”と呼ばれていた。 阿南の終戦への思いをめぐる諸説 戦時最後の陸軍大臣を務めた阿南は、昭和天皇の聖断が下る最後の瞬間まで当然のごとく戦争継続を主張し続けたが、戦後、当時の阿南の真意をめぐっては、 当時書記官長であった迫水久常によれば、終戦を望む天皇の真意を悟り、また本土決戦を主張しつつも阿南自身の本心も終戦にあり、極秘裏に鈴木貫太郎首相と協力して終戦計画を遂行したと言う。ただし表向きは、天皇が最も恐れた「終戦に反発する陸軍の暴発」と、「倒閣」を阻止するため、強硬な言動により主戦論を装い戦争継続を主張し続けたと迫水は推測している(いわゆる腹芸説。もし阿南が終戦を唱えていれば、阿南は陸軍...
  • 中野正剛
    ...、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。 政界進出 東方時論社に移った翌年の1917年、衆議院議員総選挙に立候補するも、落選。 しかし、日本外交を批判的に論考した『講和会議を目撃して』がベストセラーとなり、勢いをつけ、1920年の総選挙で当選する。以後、8回当選。当初は無所属倶楽部を結成するが、1922年に革新倶楽部結成に動く。その後も憲政会・立憲民政党と政党を渡り歩いた。 民政党時代は、党遊説部長として、永井柳太郎と臨時軍事費問題や張作霖暗殺事件を田中義一内閣に迫り、反軍派政党人として名を馳せた。また、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、三木武吉の後任の大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。 ドイツ、イタリアへの訪問 挙国一致内閣を提唱していた親軍派の安達謙蔵と民政党を脱党、国民同盟を結成。さらに昭和11年(1936年)には、東方会を結成し自ら総裁となった。...
  • 幣原内閣
    ...院・日本通運株式会社社長) 1946年1月26日 - 同5月22日 戦災復興院総裁・国務大臣(留任) 小林一三(貴族院無所属倶楽部) 1946年1月13日 - 同3月9日 内閣書記官長・国務大臣 楢橋渡(衆議院無所属) 1946年2月26日より国務大臣兼任。 国務大臣(憲法問題調査委員会代表兼任・留任) 松本烝治(貴族院無所属倶楽部) 国務大臣(無任所・留任) 次田大三郎(貴族院同成会) 国務大臣(法制局長官兼任→無任所) 石黒武重 1946年2月26日 - 同5月22日 法制局長官 石黒武重(官僚 農林省) 1946年1月13日 - 同3月19日 1946年2月26日より国務大臣兼任。 入江俊郎(貴族院同和会) 1946年3月19日 - 同5月22日 内閣副書記官長 欠員 1946年1月13日 -...
  • 玄洋社
    ...4年)、平岡浩太郎を社長として、頭山満、箱田六輔、進藤喜平太(進藤一馬元福岡市長の実父)らが創立した。旧福岡藩士らが中心となった。 戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国の孫文や李氏朝鮮の金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を強力に支援した。 玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。当時、薩長藩閥政府による有司専制を打破するために、議会の開設を要求した有力な政治勢力の一つは、今日「右翼」と称される玄洋社などの民間結社であった。しかし、これらの勢力が議会開設後に一転して政府と一体になって選挙...
  • 米内内閣
    ...間・投資家・王子製紙社長) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 逓信大臣 勝正憲(立憲民政党(元大蔵官僚)) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 鉄道大臣 松野鶴平(立憲政友会正統派) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 拓務大臣 小磯国昭(予備役陸軍大将) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 厚生大臣 吉田茂(官僚 内務省→貴族院所属) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 内閣書記官長 石渡荘太郎(官僚 大蔵省) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 法制局長官 広瀬久忠(貴族院所属 昭和研究会) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 政務次官 Template 節stub? 注釈 T...
  • 岩崎弥太郎
    ...岩井農牧の親会社)の社長を務める岩崎寛弥(岩崎弥太郎家の当主)らがいる。家紋は重ね三階菱。 なお弥太郎の死後、嫡男の久弥が父の業績に対し男爵を授けられた。岩崎家の2つの本家は華族だが、弥太郎の存命中は岩崎家は華族に列していなかった。                              国広達宣                加藤高明            ┃                  ┣━━━━加藤厚太郎 ┏━━勢津子 岩崎弥次郎         ┏━━春路         ┃山村泰弘   ┣━━━┳岩崎弥太郎━━╋岩崎久弥         ┃  ┃   美和  ┃       ┃  ┣━━━┳岩崎彦弥太 ┣━━昭子       ┃       ┃  寧子  ┃  ┣━━━╋岩崎寛弥       ┃       ┃      ┃  操子  ┃高島...
  • 鶴見騒擾事件
    ...門(当時、東邦電力副社長)は関東の電力会社を買収し都心南部および京浜地帯への電力供給を目的とした東京電力(現在の東京電力とは別、通称「東力」)を興す。ここにおいて九州、名古屋と東上した松永と東京電燈の激突は避けられない状況となる。世に言う電力戦の勃発である。 当時の電力会社は全国に690社が乱立しシェア争いに狂奔しているが、大手五社が確立すると地方資本は電力供給権を中央の財閥に売りつけようとする動きを見せ独占状態が形成されつつあり、九州、中部といった「地区ブロック」の枠を乗り越えた松永へ東京電燈は千住火力発電所を据え迎撃を準備。その一方で電力会社が許認可事業であったこともありこの対立は政界をも巻き込んでいく。 鶴見火力発電所のトラブル 事件は1925年(大正14年)に川崎白石町に建設中の東力の火力発電所工事に始まる。当時の白石町は東京湾に面した寂しい場所で埋立地への交通の便...
  • 鉄道国有法
    ...は曾我祐準(日本鉄道社長)や仙石貢(九州鉄道社長)が反対論を唱えたが、研究会の指導者三島弥太郎の工作によって3月25日に修正付きで可決、本来は両院協議会が開催される予定であったが、西園寺が総裁である立憲政友会が会期末であることを理由に全く同一の修正案を可決したために、同一の法案が成立したとみなされた。これにより、井上の悲願であった鉄道国有化は漸く実現し、17私鉄が国有化されることとなったのである。 この時提出された法案の原案は、17私鉄の他に15私鉄を加えた32私鉄を買収するものであった。これは、閣議において17私鉄を買収するという原原案に15私鉄を加えたもので、衆議院は通過したものの、貴族院で修正され、原原案の17私鉄買収に戻った経緯がある。追加の15私鉄は、次のとおりであった。 川越鉄道、成田鉄道(初代)、東武鉄道、上武鉄道、豆相鉄道、水戸鉄道(2代)、中越鉄道、豊川鉄道、尾...
  • 八紘一宇
    ...た岩切章太郎宮崎交通社長だった。 この塔の建立に当たっては全国からの募金・醵出金がその費用の一部に充てられた。 東京オリンピックの際は、聖火リレー宮崎ルートのスタート地点にもなった。 「八紘一宇」の用例 戦前 石原莞爾『最終戦争論・戦争史大観』 昭和十三年十二月二十六日の第七十四回帝国議会開院式の勅語には「東亜ノ新秩序ヲ建設シテ」と仰せられた。更にわれらは数十年後に近迫し来たった最終戦争が、世界の維新即ち八紘一宇への関門突破であると信ずる。 日本主義が勃興し、日本国体の神聖が強調される今日、未だに真に八紘一宇の大理想を信仰し得ないものが少なくないのは誠に痛嘆に堪えない。 戦後 坂口安吾『安吾巷談-野坂中尉と中西伍長-』 私は日映というところの嘱託をしていたが、そこの人たちは、軍人よりも好戦的で、八紘一宇的だとしか思われなかった。ところが、敗戦と同時に...
  • 青木周蔵
    ...家族 甲武鉄道会社社長三浦泰輔は実弟。養子の青木梅三郎は杉孫七郎(皇太后宮大夫等を歴任)の息子。ペルー日本大使公邸占拠事件時の駐箚ペルー特命全権大使青木盛久は曾孫。 栄典 1890年6月 - 勲一等瑞宝章受章。 1894年8月 - 勲一等旭日大綬章受章。 1914年2月 - 勲一等旭日桐花大綬章受章。 著作 坂根義久 校注『青木周蔵自伝』 (平凡社東洋文庫、1970年) ISBN 4-582-80168-4 (平凡社ワイド版東洋文庫、2004年) ISBN 4-256-80168-5 参考文献 坂根義久『明治外交と青木周蔵』(刀水書房、2003年) ISBN 4-88708-069-7 水沢 周『青木周蔵 明治外交の創造 青年篇』(日本エディタースクール出版部、1988年) ISBN 4-88888-140-5 水沢 周『青木...
  • 更新blog-1
    ...南京陥落の日に」 「社長 島耕作」の「尖閣」問題解説に異議あり 反中デモを報道しない日本マスコミ、9.11後のアメリカの「自己像」との相似性 30 item(s) Last-Modified 2037/12/13 00 00 00 # ホドロフスキの記録帳  # 更新報告 民主党議員「実力ランキング」 グリーン・ニューディール時代と原子力 激動する世界情勢と日本の原子力利用 今後の原子力発電 パネル座談会 日本の原子力、その指針を考える REMAT 鳩山総理のコンニャクっぷりを見てると…… 愛国議員さんたち 城内センセイの大胆予想が・・・ 特攻隊のおかげ 平成21年8月時日本会議国会議員懇談会加盟衆議院議員リスト 総選挙に出馬する主な右派団体所属議員 我が家にも怪文書が・・・ 都議選 麻生総理業界団体巡り 自称保守知識人たちの情報強者ぶり 麻生総理の・・・ 組...
  • 内閣総理大臣の一覧
    ...文学部東洋経済新報社社長 自民党総裁発足直後に脳梗塞で執務不能、外務大臣岸信介が臨時代理 56 37 岸信介きし のぶすけ 第一次岸内閣改造内閣1957年2月25日- 1958年6月12日 473 山口県 東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業商工官僚 自民党総裁 57 第二次岸内閣改造内閣1958年6月12日- 1960年7月19日 769通算1,241 58 38 池田勇人いけだ はやと 第一次池田内閣1960年7月19日- 1960年12月8日 143 広島県 京都帝国大学法学部卒業大蔵官僚 自民党総裁 59 第二次池田内閣改造内閣 一改造内閣 二改造内閣 三1960年12月8日- 1963年12月9日 1,097 60 第三次池田内閣改造内閣1963年12月9日- 1964年11月9日 337通算1,575 61 39 佐藤榮作さとう...
  • 疎開
    ... 松浦元男(樹研工業社長) 宇井純(沖縄大学名誉教授) 奈良節雄(元バスケットボール選手) 塩瀬盛道(元プロ野球選手) 福田繁雄(グラフィックデザイナー) 本多延嘉(中核派最高指導者) 海老名香葉子(エッセイスト) 半藤末利子(随筆家) 中山忠彦(洋画家) 半藤一利(作家) 川崎洋(放送作家) 松井康成(陶芸家) マイケル・ケイン(俳優) ピーター・オトゥール(俳優) ロジャー・ムーア(俳優) 建物疎開 一般的に当時の人の多くは家屋疎開とも呼んでおり、それは空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、密集した建物群一部除去し、防火地帯(防空緑地・防空空地)を作る事である。移動させるのではなく、破壊してしまう事が人の疎開と異なる。破壊により生まれた空き地は、人々の避難先や復旧時のゴミ・資材置き場として役に立っ...
  • 後藤象二郎
    ...社(日活の前身)初代社長をつとめた。 猛太郎と新潟の芸妓のあいだにできたのが保弥太である。 保弥太の長男・省三は襲爵手続きをしなかったため、省三の代で後藤伯爵家は消滅した。 評価 明治時代にも(下野時代を含めて)政治家として活躍してはいるが、後藤象二郎の名前が覚えられているのは、やはり幕末に土佐藩や日本国政に関わる仕事をしたことであろう。彼は勤王党断罪に代表される公武合体派から、坂本龍馬との会見を通して非佐幕の立場に変わった。背景には薩長同盟締結により倒幕勢力が盛り返し、時流が再び倒幕へと傾いた事への土佐藩全体の焦りがあった。さらに江戸幕府を助けたいと思う山内容堂の意見がたぶんに影響しており、容堂を時代を救った英雄にすべく、坂本に泣きついたという見方もできる。結果、後藤は坂本の大政奉還策を容堂に進言し、土佐藩の藩論として慶喜に受け入れさせる事に成功した。だが、大政奉還策を...
  • 加藤高明
    ...新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺公望内閣の外相鉄道国有化反対を理由にわずか2ヶ月で辞任したが、実際には日露戦争後の陸軍の撤兵の遅さに対する不満と健康問題もあったとされている。、駐英大使、第3次桂太郎内閣の外相を歴任する。その間、衆議院議員を1期務め、後に貴族院勅撰議員となった。 大正2年(1913年)、桂の主導による立憲同志会の結成に参画して、桂の死後に総理(立憲同志会は総裁職を総理と呼称していた)となった。翌年第2次大隈重信内閣の外相として、第一次世界大戦への参戦、対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。大隈退陣後は、同志会と中正会が合同して成立した憲政会の総裁として元老政治の打破・選挙権拡張をめざす。しかし、同志会結成の過程で犬養毅らと対立し、元老の西園寺公望からは対華21ヶ条要求を出した事に対して批判を加えられた。また総選挙のたびに議席数を減らすなど平坦な道のりではなく、...
  • 住友財閥
    ...め、住友直系12社の社長によって構成される白水会が設立された。結成当初、白水会は秘密会であったが、昭和20年代後半にはその存在を明らかにする。「結束の住友」と言われるように住友グループは戦後の混乱期に、三井、三菱の他財閥にさきがけいち早く社長会による集団指導体制を確立し、連帯意識の統一に成功した。 現在は、グループの中核・住友銀行が三井グループの中核銀行(さくら銀行)と合併して三井住友銀行が誕生したことに伴い金融面では三井住友フィナンシャルグループが誕生し、他業種でも住友系と三井系の企業の合併や業務提携が相次いだ。 もっとも、旧住友財閥系の企業からなる住友グループ全体の売上高は約60兆円に達し、これは日本のGDPの約10%を占める規模である。また、住友不動産は、住友家の不動産資産を譲り受けてスタートしたことから、住友の本流を受け継いでおり、旧住友本社の資産を住友商事が引き継いでい...
  • 昭憲皇太后
    ...輔の吉井友実が以前に社長を務めていた日本鉄道の上野-高崎間開通式典に出席した際に、明治天皇は出席に乗り気ではなく天気も一日中雨であったが、皇后は終始笑顔で応対し吉井を感激させた(吉井の宮島誠一郎宛書簡)。 明治になって再び朝廷に政権が返った事により、江戸幕府の大奥や西洋の宮廷の例のように皇后やその周辺の側近が国政に関与する可能性も存在したが、彼女は自らを律して国政に直接関与する事を戒めた。また、香川敬三や下田歌子などの周囲の側近に恵まれて、近代日本の皇后としての役割を確立することができた。 1904年(明治37年)2月、日露戦争の前夜、葉山の御用邸に皇后が滞在していた折であったが、37,8歳の武士が白衣で皇后の夢枕に立ち、戦いの際の海軍守護を誓ったという。皇后が侍臣に下問したところ、坂本龍馬の霊であるとわかった。これが新聞に載って国民の士気を鼓舞し、霊山官祭招魂社内にある坂本龍馬...
  • ラダ・ビノード・パール
    ...(平凡社創業者、初代社長)らの招聘により、世界連邦アジア会議に参加。同年国際連合国際法委員会委員に就任し、同職を1967年まで務める(1958年度および1962年度委員長)。翌年下中彌三郎の招聘により三度目の来日。 1955年、世界連邦カルカッタ協会会長に就任。 1957年に国際連合常設仲裁裁判所判事、1959年にはナショナル・プロフェッサー・オブ・ジュリスプルーデに就任する。 1960年、インド最高の栄誉であるPADHMA-RRI勲章を受章する。 1966年10月に清瀬一郎、岸信介らの招聘により四度目の来日。その際、昭和天皇から勲一等瑞宝章を授与された。 1967年1月10日、カルカッタの自邸にて死去。享年82。 1997年11月、インド独立50周年を記念して京都府京都市東山区の京都霊山護国神社に顕彰碑が建立され、パールの長男夫妻が来日し除幕式が行われた。ま...
  • 渋沢栄一
    ...正雄 (石川島飛行機社長) 四男:秀雄 (東京宝塚劇場会長、東宝取締役会長) 庶子:長谷川重三郎(元第一銀行頭取) 長女:穂積陳重男爵(学者)の妻、歌子 次女:阪谷芳郎子爵(大蔵大臣)の妻、琴子 三女:明石照男の妻、愛子 孫 渋沢敬三子爵(民俗学者、日銀総裁、大蔵大臣。父の廃嫡後に栄一より後継者に指名される) 渋沢信雄(貿易商。妻は音楽教育家齋藤秀雄の妹) 渋沢智雄 鮫島具重男爵の妻、純子 穂積重遠(法学者、最高裁判事) 尾高朝雄(法哲学者) 尾高邦雄(社会学者。妻は哲学者和辻哲郎の娘) 尾高尚忠(指揮者)   曾孫 澁澤寿一(NPO法人樹木環境ネットワーク協会専務理事) 渋沢雅英(渋沢栄一記念財団理事長) 尾高惇忠(作曲家) 尾高忠明(指揮者) 大川慶次郎(競馬評論家) 玄孫 渋沢健...
  • 東條英機-2
    ...師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年迄務めた。 三男東條敏夫は、息子たちの中で唯一軍人の道を進み、陸軍予科士官学校(59期)に進学、士官学校在校中に終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊し、空将補にまで昇進した。 他には長女東條光枝(やはり陸軍軍人で実業家の杉山茂と結婚)、次女東條満喜枝、三女東條幸枝(映画監督の鷹森立一と結婚)、四女東條君枝(外国人と結婚しキミエ・ギルバートソン)等の子がいた。 家族の殆どが軍に関係しており、日本最大の軍人閥族でもあった。 A級戦犯合祀が問題になった際、白菊遺族会処刑されたA級戦犯遺族の会。会長・木村可縫(木村兵太郎の妻)らが分祀を提案したが、東條家の強硬な反対で、実現しなかった。現在もA級戦犯分祀反対を唱える東條由布子は孫(本名:岩浪淑枝、英隆の子)。 栄典 昭和12年7月7日:勲一等...
  • 犬養毅
    ...康彦 - 共同通信社社長。 曾孫:緒方貞子 - 日本政府アフガニスタン支援特別代表、元国連難民高等弁務官。母は、芳沢謙吉・操夫妻の長女・恒子。父は、外交官の中村豊一。 従兄弟:小松原慶太郎-実業家。倉敷紡績所、倉敷銀行(現中国銀行)などを設立。 系譜 犬養氏:伝承によると、遠祖は吉備津彦命に従った犬飼健命(イヌカイタケルノミコト)、江戸時代には大庄屋を務めた豪家だった。 孫左衛門 ━ 次郎左衛門 ━ 忠兵衛 ━ 源左衛門 當展 ━ 幸左衛門 當謙 ━ 仙左衛門 當則 ━ 健蔵 當吉 ━ 源左衛門 當済 ━ 仙次郎 毅 犬飼幸左衛門当謙は訥斎と号し、京都の守中翁若林強斎に遊学し、垂加翁山崎闇斎の学問を、吉備津に伝えた(岡次郎直養編『強斎先生雑話筆記』)。犬飼木堂は、崎門の宿老であった。 関連項目 Template Commons? 犬養内閣 ラス・...
  • 交換船
    ...後のジャニーズ事務所社長) ジョセフ・グルー(駐日アメリカ大使) エドガートン・ハーバート・ノーマン(駐日カナダ公使館員) ジョン・モリス(東京文理科大学講師) ダニエル・マッキンノン(小樽高等商業学校英語教師) その他の「乗客」 なお、クーリエや外交官の身分を隠れ蓑にした日本やイギリス、アメリカの諜報員も交換船の乗客となった他、ロレンソ・マルケスから日本まで日本陸軍と海軍の将兵が、航路上での敵国船舶の動向や港湾の状況を監視することを主な目的に、交換船の「運航乗務員」として乗り込んだが、この様なことはイギリスやアメリカ側でもみられた。 また、その他に、特殊潜航艇によるシドニー港攻撃で戦死し、オーストラリア海軍によって鄭重に海軍葬が行われた松尾敬宇海軍中佐・中馬兼四海軍中佐・大森猛海軍特務少尉・都竹正雄海軍兵曹長の遺骨も、日豪間の交換船(シティ・オブ・カンタベ...
  • 原敬
    ...年(1898年)には社長に就任した。 政党政治家として 明治33年(1900年)に伊藤博文が立憲政友会を組織すると、原は伊藤と井上馨の勧めでこれに入党し、幹事長となった。同年12月、汚職事件で逓信大臣を辞職した星亨に代わって伊藤内閣の逓信大臣として初入閣する。原は政友会の結党前と直後の2度、貴族院議員になろうとして井上馨に推薦を要請している。一般には原は生涯爵位などを辞退し続け、その身を最期まで衆議院に置いてきたとされている。また、後年には貴族院議員を指して「錦を着た乞食」とまで酷評している。その原が貴族院議員を目指したのは、恐らく無官でいることからくる党内の影響力低下を懸念してのことだろう。結局、星亨の後任となって入閣したため、貴族院入り問題は立ち消えになってしまった。また、爵位授与に関しても実はこの時期に何度か働きかけを行っていた事実も明らかになっている(原自身が「平民政...
  • 帝国大学
    ...岡市出身で古河鉱業副社長であった原敬内務大臣が、古河財閥の二代目オーナーの古河虎之助(当時17歳)を説得し、両帝国大学設立のための資金を献納させることを取り付け、予算削減から17日目に両帝国大学の設置が閣議決定された。日露戦争による好況(1904-05年)によって財を成した古河財閥は、一方で足尾銅山の鉱毒による公害問題を抱えており、公のために寄付をすることで世論の沈静化を願った。 古河財閥の寄付金は100万円ほどあった。うち、約66万円が割り振られて、1907年6月に東北帝国大学が設置された。東北帝大分は、40万円ほどが札幌農学校の東北帝大農科大学昇格(1907年9月設置、札幌区)、26万円ほどが東北帝大理科大学新設(1911年1月設置、仙台市)のために用いられた。九州帝国大学は、東北帝大理科大学新設と同時の1911年1月に設置された。古河財閥の寄付金の九州帝大分約35万円は、九州...
  • 関東大震災
    ...15人(「独立新聞」社長の金承学の調査)と幅が見られる。 横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる。 また、日本軍も多くの朝鮮人を保護した。 実際は、4合ビンに入れられた井戸水を飲み干して見せ、「朝鮮人が井戸に毒を入れたというのはデマである」と、自警団を追い返したのは、朝鮮人49人を保護した川崎警察署長・太田淸太郎警部である(「神奈川県下の大震火災と警察」神奈川県警察部高等課長西坂勝人著)(毎日新聞湘南版06.09.09朝刊)。 内務省警保局調査では、朝鮮人死亡231人・重軽...
  • 後藤新平
    ...る(彼と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。 虎ノ門事件の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった新平は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。その後、事業は成功し借金を返そうとしたが、もうすでに新平は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして新平の故郷である水沢町(当時)に新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。 地下鉄の父・早川徳次の「東京に地下鉄を作りたい」という構想に理解を示し、支援者に名を連ねたひとりであった。 現在の中国大使館は新平宅の跡地でる。 著作 『海水功用論 附海濱療法』(1882年) 『国家衛生原理』(1889年) 『日本膨脹論』(1924年) 『政治...
  • 自由党 (日本)
    ...日本ハウス創業者で元社長・中村功が党首を務めた保守系の政治団体。1993年の第40回衆議院議員総選挙に岩手1区より無所属で立候補、当選し、「自民党・自由国民会議」の一員として活動した中村力(功党首の息子)は事実上ここの推薦候補とも言えるものであった。母体は企業経営者の政治学習組織漁火会。かつて漁火会は青年会議所、松下政経塾等と並ぶ政治家養成組織として知られた。 映画『プライド・運命の瞬間』『ムルデカ17805』の製作を指揮し、上映について物心両面で支援していた。 同党所属の地方議員が複数いたが、『ムルデカ―』興行失敗など、党首の事業失敗により活動が先細りし、所属議員や候補者は自民党や維新政党・新風などに移籍。現在は機関紙「漁火新聞」を発行するのみである。 党名に青年を冠するが、入党に年齢制限は無かった。これはマッツィーニの「青年イタリア」にあやかったもの。 関連項目 日本の...
  • 東條英機
    ...雄(元三菱自動車工業社長)誕生。1915年(大正4年)に陸軍大学校を卒業し、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第三連隊中隊長に就く。1918年(大正7年)には長女が誕生、翌1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに赴任。1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在。 1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、10月23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女満喜枝が誕生している。1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇任。1925年(大正14年)に三男敏夫が誕生。1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。1928年(昭和3年)3月8日には整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。1929年(昭...
  • フランクリン・ルーズベルト
    ...ド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。ルーズベルト家は1650年頃にオランダのハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダムと呼ばれていた)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まるユダヤ系の家系とする説がある(※ ルーズベルト家はクリスチャン・もともとの姓はローゼンベルツ)。1788年にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり、それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。 18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(19世紀には民主党支持となる)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家(共和党支持)の二つに分かれる。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領のセオドア・ルーズベルトはフランクリンのの従兄弟であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた。ジェームズ・ルー...
  • 西園寺公望
    ...た『東洋自由新聞』の社長となり、中江兆民、松田正久らと共に発行に携わる。西園寺が自由民権運動に加担することは政府や宮中で物議を呼び、内大臣岩倉具視が働きかけた明治天皇の内勅により退社を余儀なくされ、東洋自由新聞は4月30日発行の第34号にて廃刊に追い込まれた。この時の西園寺はあらゆる圧力に屈することはなかったが、明治天皇の内勅がでるとあっけないほど簡単に身をひいてしまった。この事件での彼の行動は彼の生涯にわたる世界観、政治観を端的にあらわしているともいえる。 西園寺はフランスで身に着けたリベラルな思想と名門公家の責務として皇室の藩屏たらねばならない意識というある意味で相反するものを共に有していた。そしてこの相反する二つを整理し融合したことから独特な世界観、政治観を持つ政治家へと成長した。このことは時に彼を優柔不断に見せたが、後述する天皇への諫言は極めて適切であったといえ、西園寺の政...
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