chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「第三国立銀行」で検索した結果

検索 :
  • 国立銀行 (明治)
    ...;横浜銀行に合併 第三国立銀行(第三銀行(現存の第三銀行とは無関係))→安田銀行→富士銀行→みずほ銀行 第四国立銀行(第四銀行) 第五国立銀行(第五銀行)→1898年浪速銀行に合併され、十五銀行、帝国銀行、三井銀行、さくら銀行を経て現在の三井住友銀行 第六国立銀行(肥後銀行(現在の肥後銀行とは無関係))→1923年に当行等11行保善銀行(安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第七国立銀行(第七銀行)→1904年に任意解散(1896年、当行及び第八十国立銀行の株主協同により土佐銀行(四国銀行の前身)を設立し、業務を移管) 第八国立銀行→1886年第百三十四国立銀行に合併→第十一国立銀行と統合し愛知銀行 (東海銀行の前身)(現三菱東京UFJ銀行) 第九国立銀行(第九銀行)→19...
  • 国立銀行条例
    国立銀行条例(こくりつぎんこうじょうれい)は、1872年に制定された日本の法律である。 制定までの経緯 それまで日本は兌換貨幣(金との交換が保証された通貨)を使用していた。だが海外流出などで金不足が深刻化しており、兌換制度を止める必要があった。1871年に新貨条例が出され、「円」を貨幣とする最初の近代貨幣制度が導入された。しかし金本位制のため金貨不足のせいで銀貨がよく使われるようになった。その後伊藤博文が発券銀行制度を導入しているアメリカ合衆国のナショナル・バンク制度(国法銀行制度)を参考に建議し、国立銀行条例として1872年に制定した。これにより、渋沢栄一が1873年に日本初の国立銀行である第一国立銀行(現 みずほ銀行)を設立。その後もこの条例を基に民間が数多くの国立銀行を設立した。 制定当時の内容 兌換制度を止める。 そして、国立銀行が発行する銀行券には金貨などの兌換硬貨との...
  • 安田財閥
    ...なる。 明治9年に第三国立銀行を設立し、安田商店と並立させ金融業務の覇権を担う別組織として設置、明治13年には安田商店を安田銀行(後の富士銀行。現・みずほコーポレート銀行、みずほ銀行)に改組する。 安田銀行は、諸官庁の両替及び金銀取り扱いの御用達となり、無利子で官金を引き受け運用し業務を拡大した。 財閥としての飛躍 明治20年に安田保善社(現安田不動産)を設立して財閥の要とし、銀行業以外への拡張を開始、釧路硫黄山(鉱山)と釧路鉄道、函館倉庫にまで手を広げた。 明治26年に帝国海上保険を設立し、損保業務の充実をはかり、翌27年に共済五百名社を共済生命保険に改組し生保業務も盤石を期した。同年には海運会社安田運搬事務所を設立している。 明治29年には不動産業務の東京建物を設立し、翌30年に国産の洋釘を製造するために安田製釘所(現安田工業)を設立した。 明治32年には拡大した事...
  • 政商
    政商(せいしょう)とは、政治家や政府高官との結びつきを利用して経済活動上の特権的利益を得たり、政策を自己の利益に有利な方向に誘導した事業家、企業のことを指すが、もともとは明治期に登場したこのタイプの事業家を意味する歴史的範疇である。 有名な政商 三井財閥 三井高利(御用商人) 三野村利左衛門 三菱財閥 岩崎弥太郎 第一国立銀行(現:みずほ銀行) 渋沢栄一 関西貿易社 五代友厚 大倉財閥 大倉喜八郎 古河財閥 古河市兵衛 北海道炭鉱汽船(三井観光開発) 萩原吉太郎 藤田組(藤田財閥) 藤田傳三郎 中野梧一 竹中工務店 竹中錬一 読売グループ 正力松太郎 渡邉恒雄 東急グループ 五島慶太 西武グループ 堤康次郎 堤義明 熊谷組 熊谷太三郎 国際興業 小佐野賢治 伊藤忠商事 瀬島龍三 福島交通 ...
  • 渋沢栄一
    Template Infobox 人物? 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、幕末の幕臣、明治~大正初期の大蔵官僚、実業家。第一国立銀行や王子製紙・日本郵船・東京証券取引所などといった多種多様の企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父と呼ばれる。 正二位勲一等子爵。雅号は青淵。戒名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。 人物 生い立ち 天保11年(1840年)2月13日、武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幼名は市三郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。 渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける大農家だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と...
  • 殖産興業
    殖産興業(しょくさんこうぎょう)とは、明治政府が西洋諸国に対抗し、産業、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策を指す。 歴史 江戸時代後期、鎖国体制から開国した日本は、西洋との圧倒的な国力の差を意識する。王政復古により成立した明治新政府は富国強兵をスローガンに、積極的に自ら産業を興こす政策を取った。地租改正や秩禄処分で税制改革を行い1870年には工部省を設置、ヨーロッパからお雇い外国人を多数採用し、岩倉使節団に合わせて留学生を派遣するなど産業技術の移植に務めた。1872年には官営鉄道や汽船が発足し、国内の交通網が発達した。鉱山などの事業を行い、群馬県に富岡製糸場などの官営工場を開設した。1873年には官営事業を統括する内務省が設立される。北海道には開拓使を置き、屯田兵を派遣した。金融では1871年に新貨条例を、1872年に国立銀行条例を布告。 1880年に軍関係を除く官営事業...
  • 秩禄処分
    秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が1876年に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。 明治初期の財政 江戸時代後期の1867年に15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い幕府が解体され、王政復古により明治政府が成立する。明治政府は抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争における戦費などで発足直後から財政難で全国3000万石のうち800万石を確保できているのみであり、また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持された。 江戸時代の幕藩体制において、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成、維持されていたが、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ、士族などに対して支給されていた。年に行われた維新功労者に対する賞典禄の支給により74万5750石...
  • 明治維新
    Template 日本の歴史? 明治維新(めいじいしん)とは、江戸幕府による幕藩体制から、明治政府による倒幕運動および天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の戦争(戊辰戦争)・改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。 概要 開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする)。終了時期につ...
  • 日韓議定書
    日韓議定書(にっかんぎていしょ)は、日露戦争中の1904年(明治37)2月23日に、日本と大韓帝国との間で締結された条約である。 概要 漢城(現:ソウル)において、日本の特命全権公使林権助と韓国(李氏朝鮮)の外部大臣臨時署理李址鎔が調印した。 日本による、韓国施政忠告権や臨検収用権など、日本側に有利な条項もあるが、反面、日本政府は、韓国皇室、韓国の独立及び領土を確実に保障し、片務的防衛義務を負うなどとしており、一方的に日本に有利なものとはなっていない。 背景 Template main? 1904年(明治37年)1月21日、韓国政府は日露交戦の折には戦時局外中立をすると宣言、清をはじめイギリス、フランス、ドイツなどがこれを承認した。 他方、2月8日に日本政府は韓国の戦時局外中立宣言を無視する形で、日本軍を仁川へ上陸させ、その後漢城へ進駐し、締結された。 日露戦争にお...
  • 三菱財閥
    三菱財閥(みつびしざいばつ)は、日本三大財閥の1つ。 岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤に、政府の保護も得て海運業を独占。1893(明治26)年三菱合資会社を設立。これを持株会社として造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の指令により解体された。 財閥の起源 三菱財閥は、俗に三井、住友とともに三大財閥であるが、三井、住友が三百年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は岩崎弥太郎が明治期の動乱に政商として、巨万の利益を得てその礎を築いたという違いがある。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立し全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この...
  • 日露協約
    日露協約(にちろきょうやく)は日露戦争後に締結した日本とロシア帝国がお互いに権益を認め合った4次にわたる協約。秘密条項では日本はロシアの外モンゴルにおける権益、ロシアは日本の朝鮮における権益を認めた。しかし、1917年のロシア革命でロシア帝国が滅亡すると、協約はソビエト政府によって破棄され、日本は中国権益の危機を迎えることとなる。 第一次日露協約 1907年(明治40年)7月30日調印。公開協定では日露間及び両国と清国の間に結ばれた条約を尊重することと、清国の独立、門戸開放、機会均等の実現を掲げる一方で、秘密協定では日本の南満州、ロシアの北満州での利益範囲を協定した。また、ロシアの外蒙古、日本の朝鮮(大韓帝国)での特殊権益も互いに認めた。 第二次日露協約 1910年(明治43年)7月4日調印。アメリカの南満州鉄道中立案(ノックス提案)の拒否を協定し、両国の満州権益の確保を確...
  • 支那事変
    支那事変(しなじへん)は、日中戦争の呼称として、大日本帝国政府が定めた公称昭和12年9月2日閣議決定、事変呼称ニ関スル件「今回ノ事変ハ之ヲ支那事変ト称ス」である。 当項目では「支那事変」という呼称に関する問題について述べる。Template main2? 概要 事変は、昭和12年(1937年)7月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大し、部隊衝突は8月の第二次上海事変勃発により中支(中支那)へ飛び火、やがて中国大陸全土へと飛散して行き、大日本帝国と中華民国とは次第に戦争の様相を呈していった。しかし昭和16年(1941年)12月までの間は、双方が宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本...
  • 朝鮮銀行
    Template 朝鮮の事物? 朝鮮銀行(ちょうせんぎんこう、朝鮮語:Template lang?)は、日本の特殊銀行の一つである。略称は鮮銀(せんぎん)。 前身 近代金融制度の基盤がないまま欧米や日本の資本主義の影響を受けた李氏朝鮮では、1884年以後日本の第一銀行韓国総支店(1878年設立)に関税収入の管理を委託し、やがてそれを担保にして同銀行からの融資を受けるようになった。1902年以降大韓帝国(李氏朝鮮が改称)で第一銀行券を発行して、それを韓国の公用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行化した。 第一次日韓協約により目賀田種太郎が韓国の財務顧問につくと、民間銀行に過ぎない第一銀行が外国の中央銀行業務を行っている事を問題視して韓国統監伊藤博文との相談した結果、日韓併合直前の1909年に大韓帝国政府、日本皇室、韓国皇室および個人から資本金により設立され...
  • 台湾銀行
    台湾銀行(たいわんぎんこう) 第二次世界大戦までにあった特殊銀行(#日本統治時代で記述)。 現在、台湾にある金融機関。台湾銀行(#第二次世界大戦後で記述)。 日本統治時代 台湾銀行(たいわんぎんこう)は1895年の台湾統治後、日本政府の国策により設置された台湾の中央銀行で、紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。1899年に開業、1945年に閉鎖された。 台湾における産業の育成、中国への投資などを行った。第一次世界大戦中の戦争景気で投機的な取引を行い莫大な利益を上げた鈴木商店に資金を融通し、この頃から、台湾内の取引額より、日本での取引額が上回った。昭和始めの時点で、総貸出額7億円余りのうち、半分近くの3億5千万円が鈴木商店への貸出しであった。 戦後不況で鈴木商店が危機に陥ると、震災手形で一時凌ぐが、膨大な不良債権を抱え、1927年の昭和金融恐慌で休業に陥る。モラトリア...
  • 華族
    華族(かぞく)とは、1869年から1947年まで存在した日本近代の貴族階級のことである。公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族、と区別することがある。 明治以前まで使用されていた、華族という名称の狭義の意味は、公家の家格を表す名称で、摂家に次ぐ第二位の家格、清華家の別称であった。 前史 明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家とされた家5家松崎家・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家・若王子家・維新後に諸侯とされた家16家徳川御三卿の3家...
  • 三国協商
    三国協商(さんごくきょうしょう、英:Triple Entente、仏:Triple-Entente、露:Антанта)とは19世紀末から20世紀初に置いてイギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉「協商」(フランス語「entente」の訳語。「同意」「協定」を意味する)とは国家間における同盟ほど強くない緩やかな協力関係の事であって商業活動の協力の事ではない。。三国同盟と対立し、第一次世界大戦の主要な交戦国となった。 事前の経緯 当時の国際関係はドイツのビスマルクによって形作られていたいわゆるビスマルク体制、すなわちフランスの国際関係における孤立作戦が行われ、一時的にヨーロッパでは戦争の無い小康状態が作られていた。 しかしドイツにヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクはこの皇帝と衝突し、1890...
  • ニュルンベルク裁判
    Template 観点? thumb|right|240px|ニュルンベルグ裁判での被告席にて(前列奥から[[ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘス、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヴィルヘルム・カイテル)]] ニュルンベルク裁判とは、第二次世界大戦においてドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日~1946年10月1日)。最初で主な裁判(Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal(IMT))と、それに続く12の裁判(Nuremberg Military Tribunals(NMT))で構成。  概要 この裁判はナチス党の党大会が開催されていた因縁の街・ニュルンベルクで行われた。日本の東京裁判と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。 ...
  • 日独伊三国軍事同盟
    日独伊三国軍事同盟(にちどくいさんごくぐんじどうめい、独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito、英:Three-Power Pact)とは、1940年(昭和15年)9月27日に日本(大日本帝国)、ドイツ(ナチス・ドイツ)、イタリア(イタリア王国)の間で締結された同盟条約を指す。 1936年(昭和11年)の日独防共協定、1937年の日独伊三国防共協定に引き続き、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか一ヵ国が米国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると取り決めがなされた。実質上、対米軍事同盟と見なされ、日本の対英、対米関係は極端に悪化した。 締結に至る経緯 ドイツ側の利害関係  アドルフ・ヒトラーは激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、主義や思想、地政学的に対立するソ連をゲルマン民族の生存圏の...
  • 日泰攻守同盟条約
    日泰攻守同盟条約(にったいこうしゅどうめいじょうやく)(昭和16年条約第20号)は、大東亜戦争(太平洋戦争)中に大日本帝国とタイ王国の間に結ばれた同盟に関する条約である。 歴史 背景 欧米側の都合と巧妙な外交手腕によって侵略を免れ、大日本帝国と同じく独立を保ってきたタイは、同じアジア人として日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後のリットン調査団の報告によって、国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。また、元帥プレーク・ピブーンソンクラームによる独裁体制が固められ、フランス領インドシナに日本軍が進駐すると、かつてフランスに奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留フランス軍と紛争となったが、翌年には日本軍の介入で講和。これによってタイは旧領土のほとんどを回復し、日本への協力姿勢を強めた。 参戦 日泰攻守同盟条約では、アジアにおける新...
  • 独ソ不可侵条約
    独ソ不可侵条約(どくそふかしんじょうやく、Template lang-de-short?、Template lang-ru-short?、Template lang-en-short?)は、1939年8月23日にドイツとソ連の間に締結された不可侵条約。犬猿の仲といわれたヒトラーとスターリンが手を結んだことは、世界中に衝撃を与えた。 ヒトラー=スターリン条約とも呼ばれる。また、署名したモロトフ、フォン・リッベントロップ両外務大臣の名前を取り、モロトフ=リッベントロップ協定(Template lang-ru-short?、Template lang-en-short?)とも呼ばれる。 成立に至る経緯 1933年にナチ党が政権を取り、1935年に再軍備宣言を行なうなど、ドイツがヴェルサイユ体制を脱して急速に勢力を拡大すると共に、ヨーロッパの国際緊張は次第に高まっていった。イギリス・フラ...
  • 日ソ中立条約
    Template 条約? thumb|250px|right|日ソ中立条約に署名する[[松岡洋右外相。その後ろは、スターリンとソ連外相モロトフ。]] 日ソ中立条約(にっそちゅうりつじょうやく)は、1941年(昭和16年)に日本とソ連の間で締結された中立条約。相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、及び、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵をうたった声明書から成る。有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた(第3条)。 条約締結 締結への経緯 当時の日本はアメリカなどと関係が極端に悪化していた。当時の駐ソ連大使であった東郷茂徳は、日独伊三国軍事同盟の締結に反対し、むしろ思想問題以外の面で国益が近似する日ソ両国...
  • 松方正義
    Template 日本の内閣総理大臣? 松方 正義(まつかた まさよし、1835年3月23日(天保6年2月25日) - 1924年(大正13年)7月2日)は日本の武士・薩摩藩士、政治家。幼名は金次郎。通称は助左衛門。近代日本を代表する財政家であり、明治13年(1880年)に内務卿、明治14年(1881年)に大蔵卿を歴任、翌・明治15年(1882年)に日本銀行を設立。第4代、第6代内閣総理大臣。ほか大蔵大臣、内大臣などを歴任。元老従一位大勲位公爵。 経歴 生い立ち 現在の鹿児島県に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。わずか13歳にして両親を亡くす。弘化4年(1847年)、薩摩の武士の子弟が通う藩校造士館に入る。 嘉永3年(1850年)、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得る。この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認め...
  • 鈴木商店
    鈴木商店(すずきしょうてん)は、戦前の日本の財閥。樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開。さらに保険・海運・造船などの分野にも進出し、ロンドン・バルティック取引所で日本企業として2番目のメンバーとなる。鈴木商店の子会社の1つ、日本商業会社は岩井産業と合併し日商岩井へ、更にニチメンと合併し現在の双日のルーツの一つでもある。第一次世界大戦の戦争成金の代表格。 歴史 創業期 1874年、兵庫の弁天浜に川越藩の鈴木岩治郎が、当時番頭をしていた辰巳屋ののれんわけで鈴木商店を開業する。 1886年、のちに鈴木商店を支える金子直吉が鈴木商店に丁稚奉公に入る。順調に売上を伸ばし神戸八大貿易商の一つに数えられるようになる。しかし、1894年に鈴木岩治郎が死去。廃業の提案をよそに夫人の鈴木よねが金子直吉と柳田富士松の両番...
  • 昭和金融恐慌
    昭和金融恐慌(しようわきんゆうきょうこう)は、1927年3月から発生した経済恐慌である。単に金融恐慌(きんゆうきょうこう)と呼ばれる事もある。金融恐慌は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本においては特に断らない場合は1927年の経済恐慌を指すことが多い。 概要 日本経済は第一次世界大戦時の好況から一転して不況となり、さらに関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。これに対して高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷...
  • 日本統治時代 (台湾)
    台湾の日本統治時代(にほんとうちじだい)は、日清戦争の敗戦に伴い清朝が台湾を日本に割譲した1895年(明治28年)4月17日から、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月25日、中華民国統治下に置かれるまでの植民地支配の約50年間を指す。 なお、台湾では政治的立場や、歴史認識に対する観点の相違などによって、日本統治時代をそれぞれ日治時代、日據時代、日本殖民時期と呼称しているが、日據時代と表記する場合については日本統治時代に対し批判的な意味合いがある。 沿革 Template 台湾の歴史? 統治初期の政策 日本統治の初期段階は1895年5月から1915年の西来庵事件までを第1期と区分することができる。この時期、台湾総督府は軍事行動を全面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した他、内外の世論の関...
  • 三国干渉
    三国干渉(さんごくかんしょう)は、下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するよう、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の3国が1895年4月23日に行った日本に対する勧告のことである。 日清戦争と欧州列強 日清戦争中、日本の勝利が間近に迫ると、列強も事の重大性を認識するに至り、干渉を考え始めた。主導国はロシアであったが、ドイツの参加がなければ干渉が実現しなかったとも言われる。西にドイツの脅威を控えていたロシアは、ドイツの干渉参加により東に深入りしやすくなったからである。 更に下関条約で遼東半島の割譲を日本が要求していることを知った列強は衝撃を受けた。列強は清朝の衰退に乗じて「中国の分割」を進めてきたが、中国国内の抵抗を危惧してその動きは未だ緩慢なものであり、戦争による賠償で得たイギリス領香港を例外として、露骨な領有権要求は差し控えてきた。だが、日本のこの要求はこの列強間の「...
  • 日本史の出来事一覧
    日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上のおもな出来事を年代順に記述する。 小学校学習指導要領に定める、「社会科」で取り上げるべき人物については、下線を引いた。 古代 弥生時代 57年 倭国王、後漢に遣使。 107年 倭国王、後漢に遣使。 倭国大乱 239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使。 古墳時代・飛鳥時代 350年頃 ヤマト王権の統一。 369年 任那の成立。 413年以後 しばしば中国に遣使(倭の五王)。 527年 筑紫国国造、磐井の乱。 538年(一説に552年) 百済の聖王、仏像及び経綸を献ず(儒教伝来、仏教公伝)。 562年 任那の日本府が新羅に滅ぼされる。 渡来人(帰化人)の来航。 593年 四天王寺造立。 593年 - 622年 聖徳太子の摂政。 603年 冠位十二階を制定。 604年 憲法十七条...
  • 仮20
    日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上のおもな出来事を年代順に記述する。 小学校学習指導要領に定める、「社会科」で取り上げるべき人物については、下線を引いた。 古代 弥生時代 57年 倭国王、後漢に遣使。 107年 倭国王、後漢に遣使。 倭国大乱 239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使。 古墳時代・飛鳥時代 350年頃 ヤマト王権の統一。 369年 任那の成立。 413年以後 しばしば中国に遣使(倭の五王)。 527年 筑紫国国造、磐井の乱。 538年(一説に552年) 百済の聖王、仏像及び経綸を献ず(儒教伝来、仏教公伝)。 562年 任那の日本府が新羅に滅ぼされる。 渡来人(帰化人)の来航。 593年 四天王寺造立。 593年 - 622年 聖徳太子の摂政。 603年 冠位十二階を制定。 604年 憲法十七条...
  • 第三次日韓協約
    第三次日韓協約(だいさんじにっかんきょうやく)は、1907年(明治40年)7月24日に締結された協約。 ハーグ密使事件をうけて、日本は1907年7月18日に高宗を退位させた。第二次日韓協約によって日本の保護国となりすでに外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この条約により、高級官吏の任免権を韓国統監が掌握すること(第4条)、韓国政府の官吏に日本人を登用できること(第5条)などが定められた。これによって、朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散・司法権と警察権の委任が定められた。 全文 第一條 韓國政府ハ施政改善ニ關シ統監ノ指導ヲ受クルコト 第二條 韓國政府ノ法令ノ制定及重要ナル行政上ノ處分ハ豫メ統監ノ承認ヲ經ルコト 第三條 韓國ノ司法事務ハ普通行政事務ト之ヲ區別スルコト 第四條 韓國高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト ...
  • 西郷隆盛-2
    前半は西郷隆盛参照 参議 大政改革と廃藩置県 明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士・集議院徴士横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して『丁丑公論』に詳しい、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五。12月、危機感を抱いた政府から勅使岩倉具視・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革...
  • 日露戦争
    {{Battlebox | battle_name = 日露戦争 | campaign = 日露戦争 |colour_scheme = background #ffccaa | image = | caption = | conflict = | date = 1904年2月8日 - 1905年9月5日 | place = 満州南部、朝鮮半島沿岸 | result = 日本の勝利、ポーツマス条約 | combatant1 = Template flagicon? ロシア帝国 | combatant2 = Template flagicon? 大日本帝国 | commander1 = Template flagicon? ニコライ2世(皇帝)Template f...
  • 大東亜省
    大東亜省(だいとうあしょう)は、大日本帝国の委任統治領であった地域及び同国が第二次世界大戦(大東亜戦争)に於いて占領した地域を統治するために置かれた省である。 概説 東條英機内閣(提案の中心となったのは鈴木貞一企画院総裁)によって、昭和17年(1942年)11月1日に設置される。拓務省が他省庁(興亜院、対満事務局、外務省東亜局及び南洋局)とともに一元化され、官房、参事、総務局、満洲事務局、支那事務局及び南方事務局によって構成される。いわゆる大東亜共栄圏諸国を他の外国とは別扱いとして外務省の管轄から分離させて、日本の対アジア・太平洋地域政策の中心に据える構想であった。イギリスにおけるインド植民省をモデルとしていた。 が、当時の外務大臣東郷茂徳はこれは「二元外交」を招くもので、アジア諸国や敵国(連合国)に日本がこれらの地域の植民地支配を画策していると言う誤ったメッセージとして受け取られか...
  • 蹇々録
    『蹇々録』(けんけんろく)は、明治時代の外交官陸奥宗光が執筆した外交記録。『蹇蹇録』と書く場合もある。 陸奥の晩年の1892年以降に執筆されたが、外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされ、1929年に初めて公刊された。明治外交史上の第一級史料である。 内容 甲午農民戦争(東学党の乱)から三国干渉までの陸奥宗光自身の外交の経験・苦労・感想が書かれている。たとえば、日清戦争開戦の動機については、内村鑑三は当初、中国の不当な朝鮮支配を打破するための義戦であると唱え、日本の世論もだいたいにおいてこれに一致していたが、『蹇々録』にははっきりと日本の国益のための戦争であって義侠の精神はまったくないと書かれている。 日朝関係については三期に分けて記述されているが、日清戦争までの第一期、井上馨による韓国の改革のいきさつを記す第二期と異なり、第三期の記述は自ら省略すると書かれている。こ...
  • 日朝関係史
    Template 日本の国際関係?  日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係について述べる。 古代 古代には、朝鮮が中国と日本(7世紀まで倭国と呼ばれていた)を媒介する位置にあったことから、鉄や紙の生産技術・仏教・医学は中国から朝鮮を通過して日本に伝来したと言われている。稲作も朝鮮経由と言われてきたが、稲遺伝子の研究や各種遺跡からの出土品、水耕田跡の証左などから、南方の東南アジア経由にて伝来したという学説が、考古学的には主流となりつつある。静岡大学農学部佐藤洋一郎助教授やアメリカの多くのバイオ系研究機関の分析によると、日本及び朝鮮半島、遼東半島などの極東アジアに存在する稲は、温帯性ジャポニカ種及び熱帯性ジャポニカ種の大きく2種類にわけられ、その一部遺伝子を持つ種苗群の遺伝子を確認すると、中...
  • 濱口雄幸
    Template 日本の内閣総理大臣? 濱口 雄幸(はまぐち おさち、明治3年4月1日(1870年5月1日) - 昭和6年(1931年)8月26日)は、日本の官僚、政治家。第27代内閣総理大臣。正二位勲一等。初の明治生まれの内閣総理大臣である。 来歴 高知県長岡郡五台山村(現高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。幸雄と命名されるが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、役所に着いたときには酩酊状態になっていた。その状態で出生届を記入し、誤って名前を前後逆に記入した届が受理されてしまい雄幸となった。 明治22年(1889年)、高知県安芸郡田野村(現田野町)濱口義立の長女夏子と結婚し、濱口家の養嗣子となる。旧制高知中学(現高知県立高知追手前高等学校)、第三高等学校を経て、明治28年(1895年)東京帝国大学法科を卒業。 大蔵省に入り、専売局長官、...
  • 下関条約
    下関条約(しものせき じょうやく)とは、1895年4月17日に日清戦争後の講和会議で調印された講和条約の通称。日清講和条約(正字体:日清媾和條約 Template DEFAULTSORT ?にっしんこうわじょうやく)ともいう。会議が開かれた山口県の赤間関市(あかまがせき-し、現在の下関市)の別称である「馬関」「赤間関」は本来は「赤馬関」で、江戸時代の漢学者がこれを漢文風に縮めて「馬関」としたもの。をとって、馬関条約(ばかん じょうやく)と呼ばれた条約調印後に「馬関」が「下関」になっても、「馬関海峡」が「関門海峡」になっても、この「馬関条約」は長らく使われ続けた。「下関条約」という言い換えが完全に定着するのは戦後になってからである。。「下関条約」はこの「馬関条約」の言い換えである。なお中国語では現在でも「馬關條約」という。 == 概説 == 主な内容 清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立...
  • ハル・ノート
    ハル・ノート(Hull note、正式にはOutline of proposed Basis for Agreement Between The United States and Japan、合衆国と日本の間の協定で提案された基礎の概要)は、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。 日米交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。ハル・ノートに関しては、「(事実上の)最後通牒であった」とする解釈と、「最後通牒ではない」とする解釈とがある。 内容 ハル・ノートは、日米交渉において日本側の当事者野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命大使が提示した日本側の最終打開案(乙案)に対する拒否の回答と同時に、アメリカ側から提示された交渉案である。その内容は、...
  • ヨシフ・スターリン
    Template 大統領? ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин、1879年12月9日(グレゴリオ暦12月21日) - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家。本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Template Lang?, グルジア語 იოსებ ჯუღაშვილი)。20世紀にその名を残す独裁者の1人。 「スターリン」とはペンネームで、「鋼鉄の人」の意。「ジュガシヴィリ」は「ユダヤ人の息子」の意。『赤いツァーリ』の称号で呼ばれることも多い。旧ソ連ではスターリンを、ドイツ(ナチ政権)の侵略から祖国を守る英雄として、またソビエトを戦勝後にアメリカに次ぐ世界第二番目の経済大国へと躍進させた戦略的指導者として認識している人々も少なくない。その一方で、党内反対派や「反革命分子」「人民の敵」に対し、粛清と称して無数の国民を虐殺し、過酷な抑圧政策を取ったことでも知...
  • 日英同盟
    thumb|right|250px|「ラス・ビハリ・ボース氏謝恩の会」1915年 テーブルの向こう側中央が[[頭山満、そのうしろがラース・ビハーリー・ボース、手前が犬養毅]] thumb|170px|right|[[ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯)]] 日英同盟(にちえいどうめい, The Anglo-Japanese Alliance)は、明治時代後期に結ばれた日本とイギリスとの間の軍事同盟。第一次日英同盟は1902年(明治35年)1月30日に調印され即時に発効した。その後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新され、1923年8月17日に失効した。第一次世界大戦終了時までの間、日本の外交政策の基盤となった。 日英同盟はイギリスのロンドンのランズダウン侯爵邸(現The Lansdowne Club 地図)にお...
  • 若槻禮次郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、新字体:若槻 礼次郎、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。第25代および第28代内閣総理大臣。男爵。旧姓は奥村、幼名は源之丞、号は克堂。 生涯 生い立ち 松江藩の足軽奥村仙三郎の次男として生まれる。奥村家は極めて貧乏であり、内職のようなことをしてようやく生活していた。幼少の頃はまだ帯刀であり、木刀一本腰に差して寺子屋に通う。 小学校を出ると漢学塾へ通うが、1年後やめて教員伝習校内変則中学科に入る。しかし家が貧乏で、学資が続かず在学8~9ヵ月にして中学をやめ、しばらくは家にいて山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをしていた。 16歳のころから3年間程、小学教員をする。司法省法学校が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思い...
  • 戦時国際法
    戦時国際法(せんじこくさいほう、英:Law of War, Jus in Bello)とは、戦争状態においてもあらゆる軍事組織が遵守するべき義務を明文化した国際法であり、狭義には交戦法規を指す。戦争法、戦時法とも言う。ただし現代では国連憲章により法的には「戦争」が存在しないため、武力紛争法、国際人道法(International humanitarian law, IHL)とも呼ばれる。ここでは戦時国際法という用語を用いる。戦時国際法は、戦時のみに適用されるわけではなく、宣戦布告のされてない状態での軍事衝突であっても、あらゆる軍事組織に対し適用されるものである。 概説 武力行使に訴える権利および手続を規制する国際法をユス・アド・ベルム(jus ad bellum 開戦法規、法的規制)、武力紛争において当事国の行動を規制する国際法をユス・イン・ベロ(jus in bello 交戦法規...
  • 旧制大学
    旧制大学(きゅうせいだいがく)とは、日本において学校教育法(1947年4月1日施行)より前の学校制度における大学の全般を指す言葉である。 旧制大学については、第二次世界大戦後の1947年に施行された学校教育法によって新規に設立された大学(新制大学)と対比する意味で用いられる事が多い。なお、新制大学のうち国立大学については、国立学校設置法(1949年施行、2004年廃止)によって設置された。 旧制大学は、現在(1991年の大学設置基準の大網化以降)の大学の3・4年次と、大学院の修士課程・博士前期課程や専門職学位課程などに相当すると考えられている。現在の大学の1・2年次は、旧制高等学校や旧制大学予科が担っていた。なお、旧制大学には旧制専門学校に相当する専門部という組織も設置されていたことがあった。 定義 旧制大学とは、学制、帝国大学令もしくは大学令によって成立した大学である。第二次...
  • 三井財閥
    thumb|250px|東京都中央区日本橋室町 [[三井本館]] 三井財閥(みついざいばつ)は、三井高利の創業した三井越後屋(現在の三越・三井住友銀行)を元に始まった日本屈指の財閥。三菱財閥・住友財閥とともに日本三大財閥の一つとされる。 江戸時代 thumb|170px|名所江戸百景 駿河町([[歌川広重)越後屋の暖簾を見ることができる。現在、通りの右側に三井本館、左側に三越日本橋本店がある。手前左右の通りが中央通り。]] 伊勢国松坂の商人、三井高利が創業した越後屋三井呉服店(三越)は、「現銀掛値なし、切売り」など当時としては画期的商法で、またたくまに成功した。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。 幕末は、他の商人同様経営は乱れるも、新政府に取り入り政商としての道を歩んでいく。 明治以後 三野村利左衛門、中上...
  • 震災手形
    震災手形(しんさいてがた)は、関東大震災のため支払いができなくなった手形のこと。往時の報道では震手と略称された。特別に震災手形と呼ばれるものが出回ったのではなく、一般に流通する手形のうち、被災地に関わるもののみが緊急勅令によるモラトリアムや法令により日本銀行が再割引することで補償の対象となり、こう呼ばれる。再割引の際にはスタンプを捺して識別した。但し、混乱に乗じて、折からの不況で不良債権となったものも大量に紛れ込んだ。 起因 1923年9月1日に起こった関東大震災は当時の日本銀行の推計で45.7億円の損害が出た。当時の国家予算が15億円であった事を見ても、甚大な被害であることが判る。このため被害を受けた企業が支払いが出来なくなる事態を想定して、9月7日緊急勅令によるモラトリアムが出され、9月中に支払期限を迎える金融債権のうち被災地域の企業・住民が債務者となっているものについては支払期限...
  • 重慶爆撃
    重慶爆撃(じゅうけいばくげき)とは、日中戦争最中の1938年12月4日より1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する戦略爆撃を指す日付・回数は『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島』(前田哲男 凱風社)による。。中国側の資料では死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟となっている。 背景 1938年に各地に中国国民党が優勢だったが、様々な軍閥の割拠する内乱状態の中国に攻め込んだ日本軍は、上海に続いて中華民国の首都南京を攻撃、日本政府は中華民国・中国国民党が和睦を乞うことを期待した。 これに対して日本軍への徹底抗戦を宣言していた国民党政府は、中国大陸で権益を確保・拡大したいアメリカや権益を守りたいイギリスの援助を受けて、首都を南京から漢口に移転し、次いで漢口が陥落必至とみるや四川の奥地である重慶に移転させた。 大本営は地上軍による重慶...
  • 幣原喜重郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日)- 1951年(昭和26年)3月10日)は日本の政治家、外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中外交と対立する。終戦後は第44代内閣総理大臣(在任:1945年10月 - 1946年5月)、第40代衆議院議長に就任した。従一位勲一等男爵。 略歴 生い立ち 大阪府門真一番村(現門真市)の豪農の家に生まれた。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪中学校、第三高等中学校を経て、1895年 帝国大学法科大学卒業。 戦前 1915年に外務次官となり、ワシントン会議においては全権委任をつとめる。外務大臣になったのは1924年の加藤高明内閣が最初。以降、若槻禮次郎内閣(1次・2次)、濱口内閣と4回外相を歴任。 この間に対米...
  • 岩倉具視
    {{政治家 |各国語表記 = いわくら ともみ |画像 = Tomomi Iwakura 3.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1825年10月26日(旧暦)1825年9月15日 |出生地 = 京都 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 京都 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 正一位・大勲位 |配偶者 = 野口槇子 |国旗 = 日本 |職名 = 第2代外務卿 |内閣 = |当選回数 = |就任日 = 1871年7月14日 (旧暦) |退任日 = 1871年11月4日 (旧暦) |退任理由 = |元首職 = 天皇 |元首 = 明治天皇 }} 岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日)- 明治16年(1883年)...
  • 露仏同盟
    露仏同盟(ろふつどうめい)とは、フランスとロシアの間で成立した軍事同盟。1891年より両国の交渉が公然化し、最終的には1894年に締結された。ドイツ・オーストリア・イタリアによって構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の国が軍事的支援を行うことが定められた。 背景 1890年、ドイツ帝国の宰相ビスマルクの辞任にともない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視する観点から対ロシア外交を重視したが(ビスマルク体制参照)、この年より親政を行う皇帝ヴィルヘルム2世はこのことに固執しなかった。そのため、1887年より継続していた独露再保障条約が更新されないことになり、ロシアは新たな同盟相手を必要としていた。また、国内の近代化推進のためにも外資導入が必要であり、フランスとの同盟樹立は経済的観点からもメリットがあった。一方、フランス側...
  • 田中上奏文
    thumb|300px|田中上奏文 田中上奏文(たなかじょうそうぶん)は、昭和初期に中国を中心として流布した怪文書・偽書である。田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorialである。 田中上奏文は、その記述によれば第26代内閣総理大臣田中義一が1927年(昭和2年)、昭和天皇へ極秘に行った上奏文であり、中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服するための手順が記述されている。この文書は発表当初から偽書であることが指摘されており、現在の史学でも偽書であるとされている。松岡洋右、重光葵などの当時の外交官は、日本の軍関係者が書いた文書が書き換えられたものではないかと見ていた。しかし、田中上奏文を本物であると考える人は現在でも特に日本の国外に存在する服部龍二「「田中上奏文」と日中関係」、劉傑・...
  • 帝人事件
    帝人事件(ていじんじけん)は、昭和初期の疑獄事件。斎藤実内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となり、倒閣を目的にしたでっち上げと言われた。 経緯 帝国人造絹絲株式会社(帝人)は鈴木商店の系列であったが、1927年の恐慌で鈴木商店が倒産すると、帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になった。業績が良好で株価が上がったため、この株をめぐる暗躍が起こっていた。元鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、鳩山一郎や「番町会」という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻した。その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。 1934年1月、時事新報(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事を掲載、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。当時文部大臣の鳩山一郎は議会で関連を追及され「明鏡止水の心境」と述べたところ、辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任。(なお...
  • @wiki全体から「第三国立銀行」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。