chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「第62師団 (日本軍)」で検索した結果

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  • 沖縄戦
    ...連隊 - 配属 第62師団(師団長:藤岡武雄中将) - 歩兵第63・第64旅団基幹 賀谷支隊(支隊長:賀谷與吉中佐) - 歩兵第63旅団の1個大隊基幹 独立混成第44旅団(旅団長:鈴木繁二少将) - 第2歩兵隊・独立混成第15連隊旅団の海没による損失を受け、1944年7月に空輸により急遽補充された。基幹 第5砲兵団司令部(司令官:和田孝助中将) ‐ 野戦重砲兵第42連隊を除く全砲兵隊を指揮下に置いた。 野戦重砲兵第1連隊 九六式十五糎榴弾砲×12門 野戦重砲第23連隊 九六式十五糎榴弾砲×24門 重砲兵第7連隊 重砲兵第8連隊 重砲兵第100大隊 15cmカノン砲×8門 戦車第27連隊 ‐ 戦車第2師団の師団捜索隊を改編。1944年7月、第32軍に編入。 このほか、先島集団(宮古島に第28師団及び独立混成第59・第60旅団。石垣島に独立混成第45旅団)、...
  • 南方作戦
    南方作戦(なんぽうさくせん, Southern Operations)は、太平洋戦争緒戦における日本軍の東南アジア各地への攻略作戦である。1941年12月8日の真珠湾攻撃と英領マレーへの奇襲上陸をもって開始され、1942年5月のビルマ制圧をもって完了した。南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は作戦目標を完全に達成した。 背景 1941年9月3日、日本では、アメリカ合衆国やイギリスとの関係悪化を受け、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。 10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職した。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で...
  • 沖縄戦-2
    ...め、主陣地を守備した第62師団、第2線陣地を守備した第24師団の歩兵第22連隊、歩兵第32連隊などが激しい抵抗を見せている。戦闘は約50日間続き、この遅滞作戦は一定の成功を収めた。この間、4月12日には日本軍の夜間攻撃が行われたが、第62師団の1個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった。 4月9日、船舶工兵第26連隊の決死隊50人が神山島に潜入し、野戦重砲陣地の破壊を報じた。これに合同して海上挺身第26戦隊のマルレ40隻が出撃し、駆逐艦1隻を撃沈した。その後も、4月中に延べ60隻以上のマルレが出撃し、若干の小型艦艇を撃破している。 5月4~5日に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊に砲撃を開始させ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。船舶工兵第23、26連隊と海上挺進第26~29戦隊は、舟艇で海上を迂回しての逆上陸を...
  • 南方軍_(日本軍)
    Template 軍隊資料? 南方軍(なんぽうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。 沿革 Template 日本陸軍? 大陸令第555号に基づき昭和16年11月に編制された。ビルマ、タイ、南洋方面などの南方を作戦地域とし、防衛・軍政の任に当った。 南方軍概要 通称号:威集団 編制時期:昭和16年11月6日 総司令官 寺内寿一:陸士11期、昭和16年11月6日~ 総参謀長 昭和17年8月1日から軍政総監を兼勤 氏名陸士就任塚田攻19期昭和16年11月6日黒田重徳21期昭和17年7月1日清水規矩23期昭和18年5月19日飯村穣21期昭和19年3月22日沼田多稼蔵24期昭和19年12月26日 総参謀副長 氏名陸士就任辞任青木重誠25期昭和16年11月13日昭和17年8月17日阪口芳太郎25期昭和16年11月13日昭和17年6月1日高橋坦2...
  • 日本軍
    日本軍(にっぽんぐん、にほんぐん)とは広義には日本が有する軍隊のこと、狭義には第二次世界大戦で敗戦するまでの日本、すなわち大日本帝国が保持していた軍隊(大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の両軍)を指し、後者の場合は現在旧日本軍、または旧軍と略称される。さらに国軍、皇軍(こうぐん)、皇御軍(すめらみいくさ)、帝国軍、帝国陸海軍、大日本軍などの呼称もある。ここでは旧日本軍について主に記述する。 組織 以下は1937年(昭和12年)頃の、日中戦争勃発以前の平時に於ける日本軍の組織である。 天皇の統帥の下に陸軍と海軍があり、それぞれ陸軍大臣と海軍大臣が軍事行政について天皇を輔弼した。陸軍の軍・師団の司令官、海軍の連合艦隊・艦隊・鎮守府の司令長官は、天皇に直隷して部隊を指揮統率した。空軍は編制せず、陸海軍にそれぞれ航空隊があった。 陸軍は、内地が東部、中部、西部に区分されてそれぞれの地域に防...
  • 武藤章
    Template Infobox 軍人? 武藤 章(むとう あきら、Template 和暦?12月15日 - Template 和暦?12月23日)は、昭和の軍人、陸軍中将。東京裁判で唯一中将として絞首刑判決を受けた。 生涯 熊本県出身。済々黌中学を経て、Template 和暦?陸軍士官学校(25期)を卒業。富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・田中新一・山崎保代らが同期。 Template 和暦?陸軍大学校(32期)卒業。冨永信政、青木重誠、酒井康、中村正雄、酒井直次、西村琢磨、橋本欣五郎らが同期。 Template 和暦?、盧溝橋事件に際して参謀本部作戦課長として対中国強硬政策を主張し、12月には中支那方面軍参謀副長として赴いた。 Template 和暦?に陸軍省軍務局長、Template 和暦?に近衛第2師団長(スマトラ・メダン)、Template 和暦?に第14方面軍(フィ...
  • 南京大虐殺
    南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都 南京市を占領した際、約6週間 - 2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。 中国では南京大屠殺と呼び、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。日本では単に南京虐殺、南京事件とも呼ばれる。南京事件という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火も含めて事件全体を論じる場合によく使われる。 なお、この問題は事実存否や規模などを巡って現在でも議論が続けられている(南京大虐殺論争を参照)。 事件の概要 南京攻略戦 1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地...
  • ノモンハン事件
    Template Coor title d? Template Battlebox? ノモンハン事件(のもんはんじけん)は、1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。 概要 満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件、出来事」と呼び、モンゴル人民共和国のみが「ハルハ河戦争(ハルヒン・ゴル戦争)」と称している。 この衝突に対して日本・満洲側が冠して...
  • マレー作戦
    Template Battlebox? マレー作戦(まれーさくせん, Battle of Malaya, 日本側作戦名「E作戦」)は、大東亜戦争(太平洋戦争)序盤における日本軍のイギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦である。 1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホールバル市に突入した。これは戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。 背景 大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時における日本軍の戦略目標はオランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかるシンガポールを攻略する必要があった。シンガポールは戦艦プリンス・オブ・ウェールズと...
  • 南京攻略戦
    Template Battlebox? 南京攻略戦(なんきんこうりゃくせん)は、日中戦争中の戦い。日本軍は、中華民国の首都南京を陥落させた。中国側の呼称は南京保衛戰, Template Lang?である。 背景 第二次上海事変で日中の全面衝突が始まった後、上海付近の敵を掃討し中国側の戦意を喪失させ、事変終結をねらう目的で11月7日に中支那方面軍を編成、上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域とする。11月16日、国民政府は重慶に遷都を宣言。中支那方面軍は独断で作戦制限区域を越え、さらに南京攻略の必要性を上申。11月24日、大本営は中支那方面軍の作戦制限区域を解除し、12月1日には南京攻略を命令する。 経過 11月7日「中支那方面軍」(第10軍と上海派遣軍を隷下に置く)編合の下令が出され、作戦地域は蘇州から嘉興を結ぶ線の東側に限定される。 11月9日上海戦線の中国...
  • 上海事変
    (第一次)上海事変(だいいちじしゃんはいじへん)は1932年(昭和7年)1月28日以降に中国の上海国際共同租界周辺で起きた日華両軍の衝突である。 日華間の緊張の高まり thumb|300px|戦闘に加わる中国側[[憲兵]] 共同租界の市参事会にとっては、日本軍の動きより上海市街の外に野営する十九路軍のほうが重要だった。3個師団、3万人以上を擁する十九路軍は5年前にあった上海クーデターにおける国民党軍を思い起こさせ、上海市が警戒心を持つのも当然だった。 指揮官の蔡廷鍇(さい ていかい)は日本軍との交渉において「私の指揮下にある軍隊は、中華民国政府の正規軍であって、政府の命令によってのみ行動する」と言った。しかし、それは偽りで実際に十九路軍に命令する者は彼だけだった。その上、蔡廷鍇は日本軍との戦いを避けたい蒋介石の代弁者でもなく、蒋介石も上海市同様、蔡廷鍇を警戒していた...
  • 近衛師団
    Template 軍隊資料? 近衛師団(このえしだん)とは、日本陸軍に置かれた師団の一つ。 なお、イギリス陸軍等でも禁闕守護を任務とする師団を「近衛師団」と呼称する。日本以外の近衛師団については近衛兵を参照のこと。 時代により変遷があるが、近衛歩兵第一、第二、第三旅団が基幹となりその他騎兵、砲兵、工兵等各種兵科による部隊が置かれていた。 沿革 最初期 Template 日本陸軍? 江戸幕府を倒し、明治新政府が樹立された当初、明治政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的に薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。 そのため1871年(明治4年)、明治政府は「天皇の警護」を名目に薩摩、長州、土佐の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設した。この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。 この御親兵は、1872年(明治5年)に近衛都督西郷隆盛...
  • 日中戦争
    日中戦争(にっちゅうせんそう)とは、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)の間に大日本帝国と中華民国の間で行われた事変及び戦争である1931年(昭和6年)の満洲事変を起点として「日中十五年戦争」ととらえる見方もある。。 日本での公式の呼称は支那事変であり、現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦である中華民国政府は八年抗战・中日戰爭など、中華人民共和国政府は中国人民抗日战争などと表記する(詳細は本記事の中国語版を参照)。また英語では、Second Sino-Japanese Warと表記するFirst Sino-Japanese Warは日清戦争。。 Template Main2? 「戦争」か「事変」か 日本では当初、北支事変(ほくしじへん)、後に支那事変(しなじへん)と称しており、新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が...
  • 南機関
    Template 日本陸軍? 南機関(みなみきかん)は、1941年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ。 機関長は鈴木敬司陸軍大佐。ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とし、ビルマ独立義勇軍の誕生に貢献した。その後ビルマ軍政の方針をめぐって軍中央と対立し、消滅させられた。だが南機関は、今日の日本とミャンマーとの友好関係の基礎を築いたとも評価される。 背景 thumb|right|220px|ビルマ([[ミャンマー)全図]] イギリスのビルマ統治 ビルマ(現在のミャンマー)は、1824年に始まった英緬戦争の結果、1886年にイギリス領インド帝国の一州に編入された。イギリスは治安維持の観点からビルマ軍を編成したが、ビルマ族の青年は征服者に協力することを潔しとしなかった。ビルマの人口は1941年の国勢調査によれば1,600万人、民族別ではモンゴル系...
  • 徐州会戦
    Template Battlebox? 徐州会戦(じょしゅうかいせん)は、日中戦争中の1938年3月15日から5月19日に発生した日本軍と中国国民軍と大規模な戦闘である。日本側は北支那方面軍及び中支那派遣軍、中国側は李宗仁の中国国民軍が戦闘を行った。 背景 1937年12月に南京戦役で勝利した日本の支那派遣軍は、大本営の戦線不拡大方針を無視して戦線を拡大、北京と南京を結ぶ打通作戦を企図した。このためには、1912年に開通していた津浦鉄道(天津-蘇州・浦口)の確保が要件として上げられていた。この中で、台児荘の激戦が発生する。 台児荘 1938年3月頃、日本軍は省都済南も含め、山東省北部を占領していた。北支那派遣軍の第5師団(師団長:板垣征四郎)と第10師団(師団長:磯谷廉介)は合流、共同で要衝の徐州を攻略することとしていた。これに対して国民党山東省主席の韓復矩は兵力の温存を図り、天...
  • 武漢作戦
    Template Battlebox? 250px|right|thumb|[[国民革命軍]] 武漢作戦(ぶかんさくせん)は、日中戦争の戦い。武漢攻略戦とも言う。中国側呼称は武漢会戦、武漢保衛戦。 背景 徐州会戦後も蒋介石政権は日本に対し徹底抗戦を続け、事変解決へは至らなかった。この作戦は蒋介石政権の降伏を促すため、広東作戦とともに中国の要衝を攻略することを目的とし、日中戦争中最大規模の30万以上の兵力で行なわれた。また日本国内ではこの動員・巨額の出費のため、政府は同年5月5日に国家総動員法を施行、同月近衛文麿内閣を改造した。 経過 大本営は6月18日に武漢作戦の準備を命令。8月22日に目的は要地武漢三鎮の占領であるとし、通城と岳州を進出限界線として要地の占領とその間の敵の撃破を命令した。新たに編成された第11軍と、北支那方面軍から転用された第2軍により進攻...
  • 奉天会戦
    Template Battlebox? 奉天会戦(ほうてんかいせん)は、1905年3月1日から3月10日にかけて行われた日露戦争最後の会戦である。奉天は現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽。双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に渡って満州の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。しかしこの戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。 参加兵力は大日本帝国陸軍25万人、ロシア帝国軍37万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン。 背景 ロシア帝国はシベリア鉄道の全線開通を4年後に控えていた。 クロパトキンを総司令官とするロシア軍は100万人に動員令を出していたが、直前に血の日曜日事件があったように、国内は混沌とした状況にあった。皇帝ニコライ2世への国民の忠誠心は揺らぎ、後退していた。 日...
  • 土肥原賢二
    Template 基礎情報 軍人? 土肥原 賢二(どいはら けんじ、明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。 生涯 出自 岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇...
  • インパール作戦
    Template Battlebox? インパール作戦(-さくせん)(日本側作戦名:ウ号作戦(うごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され6月末まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のこと。 補給線を軽視した杜撰な作戦により、歴史的敗北を喫し日本陸軍瓦解の発端となった。 無謀な作戦の代名詞としてしばしば引用される。 経緯 インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であった。ビルマ-インド間の要衝にあって連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられた。 大本営陸軍部は、1943年8月、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案したインパール攻略作戦の準備命令を下達した。し...
  • 日露戦争
    {{Battlebox | battle_name = 日露戦争 | campaign = 日露戦争 |colour_scheme = background #ffccaa | image = | caption = | conflict = | date = 1904年2月8日 - 1905年9月5日 | place = 満州南部、朝鮮半島沿岸 | result = 日本の勝利、ポーツマス条約 | combatant1 = Template flagicon? ロシア帝国 | combatant2 = Template flagicon? 大日本帝国 | commander1 = Template flagicon? ニコライ2世(皇帝)Template f...
  • 旅順攻囲戦
    Template Battlebox? 旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん, Siege of Port Arthur, 1904年8月19日 - 1905年1月1日)は、日露戦争における戦闘の一つ。ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順を守る要塞を、日本軍が攻略した。 背景 日本が日露戦争に勝利するためには、朝鮮半島周辺海域の制海権を抑えることが必須であった。旅順を母港とするロシア海軍の旅順艦隊(第1太平洋艦隊)と、開戦時にバルト海にあったバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)とを合わせれば、日本海軍の倍近い戦力があった。もし両艦隊の合流を許せば、制海権はロシア側に奪われ、日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続は絶望的になる。そのため日本軍は、バルチック艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要があると想定していた。 ...
  • 八路軍
    八路軍(はちろぐんパーロとも呼んだ。)は、現在の中国人民解放軍の前身のひとつ。中国工農紅軍を改変した軍隊組織。 背景 毛沢東は軍閥や列強に対抗するには民衆による革命運動では限界があることを認識していた。一方で1920年代の中国国民党は装備こそ貧弱であるものの党の軍隊を組織しており、第一次国共合作は軍隊組織を持つ国民党・蒋介石による反共クーデターにより瓦解した。この経験から、中国共産党は軍隊の組織を開始することになる。 ドクトリンは毛沢東による人民戦争理論にしたがっていたと考えられる。 すなわち、「点化した敵軍を、人民の海のなかに埋葬する」人海戦術がそれである。 そのドクトリンに従い、共産党は積極的に各地に共産党を広める浸透工作をおこなった。共産党に好意的、または恐怖により屈服する村落、都市を増加させるのが目的である。その結果共産党勢力は草の根的に増殖し、遊撃兵力を各地に展開さ...
  • ジョン・ラーベ
    ジョン・ラーベ(John H. D. Rabe, 1882年11月23日 - 1950年1月5日)は、ドイツの実業家一説には、ラーべは対中国国民党の武器商人とされている(田中正明による主張。ただし田中はその根拠を示しておらず、また田中の説に同調する歴史学者も存在しない。)。南京安全区国際委員会委員長。 経歴 ハンブルクに生まれる。商社での修業ののちアフリカにわたって数年を過ごし、1908年に中国に移り、1910年からジーメンス社の中国支社で勤務。1937年、日本軍による南京攻略戦の際に、他の10数人の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会の委員長となって、中国民間人を保護する。そのほか自分の所有する土地にハーケンクロイツ旗を掲げ、民間人を日本軍の爆撃から守ろうとした(602人が避難してきたという)。南京陥落後は、非人道的行為の防止に尽力する。 1938年2月28日に南京を去り...
  • 張鼓峰事件
    Template Battlebox? 張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)は1938年(昭和13年、康徳5年)の7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争。ソ連側は、これをハサン湖事件(ハーサン湖事件)と呼んだ。 背景 張鼓峰は満州領が朝鮮とソ連領の間に食い込んだ部分にある標高150メートルの丘陵であり、西方には豆満江が南流している。当時ソ連は国境線は張鼓峰頂上を通過していると考え、日本側は張鼓峰頂上一帯は満洲領であるとの見解であった。いずれにしても、この方面の防衛を担当していた朝鮮軍第19師団は国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。 戦闘の経過 1938年7月、張鼓峰頂上にソ連兵が進軍し、兵力は次第に増強された。朝鮮軍第19師団がこれを撃退したところ、8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始した。...
  • 第二次上海事変
    Template Battlebox? 第二次上海事変(だいにじしゃんはいじへん)とは、1937年(昭和12)8月13日から始まる中華民国軍の上海への攻撃とそれに続く日本軍の反撃である。 盧溝橋事件により始まった華北(北支)での散発的戦闘に続いて、これ以後華中(中支)において中国内陸部に侵攻し、中国全土に日中戦争が波及した。1932年(昭和7)1月28日に起きた上海事変に対してこう呼ぶ。 発生の背景 発生の背景には異見が色々あるので、主だった見解を2つ挙げる。見解1は、中華民国総統の蒋介石の意向を述べた日本軍上海引き付け作戦であり、見解2は、見解1を含む当時の状況を総括した見解である。 【見解1】 この戦闘の背景には、蒋介石の、万里の長城以南の中国に対する統一を守る(蒋介石は現時点では満州における領土回復は後回しと考えていた)ために、日本軍を華北から撤兵に追い込むという戦...
  • 大日本帝国陸軍
    大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん)とは、1871年から1945年まで、日本の天皇が統帥していた陸軍である。通常は単に日本陸軍と呼び、大日本帝国陸軍とは呼ばない。他に帝国陸軍と呼ばれることもある。また、本来は日本陸海軍を指す呼称である国軍(こくぐん)、皇軍(こうぐん)という呼称も、日本陸軍を指す場合が多い。 概要 大日本帝国憲法制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は、軍事大権については憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。 最高指揮官は天皇で、大元帥として陸海軍を統帥する。軍令を参謀本部、軍政を陸軍省が司った。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、陸軍では参謀総長、海軍では軍令部総長である。 略史 創成期 帝国陸軍の起源は、明治維新後の187...
  • 重慶爆撃
    重慶爆撃(じゅうけいばくげき)とは、日中戦争最中の1938年12月4日より1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する戦略爆撃を指す日付・回数は『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島』(前田哲男 凱風社)による。。中国側の資料では死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟となっている。 背景 1938年に各地に中国国民党が優勢だったが、様々な軍閥の割拠する内乱状態の中国に攻め込んだ日本軍は、上海に続いて中華民国の首都南京を攻撃、日本政府は中華民国・中国国民党が和睦を乞うことを期待した。 これに対して日本軍への徹底抗戦を宣言していた国民党政府は、中国大陸で権益を確保・拡大したいアメリカや権益を守りたいイギリスの援助を受けて、首都を南京から漢口に移転し、次いで漢口が陥落必至とみるや四川の奥地である重慶に移転させた。 大本営は地上軍による重慶...
  • 日清戦争
    Template Battlebox? 日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国語では中日甲午戦争と呼ぶ。英語ではFirst Sino-Japanese War(第一次中日戦争)と呼ぶ。 日本の戦費総額は2億テール(日本円で3億円)、死者1.3万人。この戦争期間は10ヶ月であった。 経緯 開戦まで 征韓論 日本は明治政府成立直後から、朝鮮半島に対し経済進出を含む深い関心を抱いており、その成立直後から朝鮮との国交渉を始めていた。当時、朝鮮は鎖国状態で、国王高宗の父である大院君が政治の実権を握っていたが、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交樹立に反...
  • ノモンハン事件-2
    前半は、ノモンハン事件参照 ノモンハン事件の戦略と戦術 兵力の集中と兵站 ソ連軍司令官のジューコフは、この戦いで兵站上の革新を成し遂げた。19世紀後半から1939年までの陸軍の兵站線は鉄道を主体とするものであり、鉄道と港湾を離れて大軍を運用することはきわめて困難とされていた。しかしジューコフは、後方基地からの650-750kmに渡る長大な兵站線を大規模自動車輸送によって確保し、8月までに大量の物資を蓄積したことで、8月攻勢の前に十分な戦力を整備したのであった。当時のソ連軍は一般に補給を軽視していたが、ノモンハンは例外であった。 ハイラル駅からの日本軍の補給線は約200kmであり、ソ連軍に比べるとはるかに短かった。この為、日本側は「敵よりも距離が短いので我が方が補給上有利」と考えていた。しかし、輸送力がはるか及ばなかった日本軍部隊は、ハイラルから戦場までを徒歩で行軍した。満州国内の民間...
  • 木村兵太郎
    Template 基礎情報 軍人? 木村 兵太郎(きむら へいたろう、明治21年(1888年)9月28日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、昭和期の陸軍軍人、陸軍大将。太平洋戦争後、A級戦犯として逮捕、極東国際軍事裁判にて死刑の判決を受け、絞首刑に処された。 略歴 生い立ち・前歴 埼玉県出身。広島一中、広島陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校卒。 昭和15年(1940年)、関東軍参謀長。昭和16年(1941年)4月から同18年(1943年)3月まで陸軍次官。昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。 ビルマからの撤退 Template see also? 昭和20年(1945年)、イギリス軍のビルマ侵攻が開始され、ビルマの防衛は危機に瀕していた。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、恐怖で手が震え、何も話すことができなくなるほど動揺し、作戦指導...
  • 青島の戦い
    青島の戦い(ちんたおのたたかい, Battle of Tsingtao, 1914年10月31日 - 11月7日)は、第一次世界大戦中のTemplate 和暦?に、ドイツ帝国の東アジアの拠点青島を日本・イギリス連合軍が攻略した戦闘である。 概要 1897年、ドイツは青島を含む膠州湾一帯を当時の中国政府から租借、湾口の青島に要塞を建設、ドイツ東洋艦隊 (de) を配備した。 1914年の第一次世界大戦で日本はドイツに宣戦布告し青島の攻略に乗り出した。マクシミリアン・フォン・シュペー中将指揮するドイツ東洋艦隊は開戦後すぐに港内封鎖を恐れ、ドイツ本国へ向かったがフォークランド沖海戦で壊滅した。青島には駆逐艦「タークー」と「S90」が残り、S90 は10月18日0時、雷撃により日本海軍の防護巡洋艦「高千穂」を撃沈している。 1914年10月31日、神尾光臣大将指揮する第18師団(約29,0...
  • バンザイ突撃
    バンザイ突撃(ばんざいとつげき)は、太平洋戦争中の日本軍兵士による米軍に対して敢行された突入攻撃。自滅的攻撃と解釈されるのが一般的である。 主に戦闘の最終段階(日本軍敗色濃厚時)に行われ、米軍からは『バンザイ・アタック』(banzai attack)、もしくは『バンザイ・チャージ』(Banzai charge)と呼ばれ、狂信的な兵士達の理解不能な自殺行為として恐れられた。銃剣や軍刀を振りかざし、鬨の声を上げて突進してくる日本兵の姿に恐怖し、精神に深いダメージを負う米兵もいた。 実際の突撃時に全ての日本兵が『バンザイ!』と叫びながら突進したとは限らず、日本兵の言葉にならない雄叫びを耳にした米兵が、日本人が叫ぶ詞で一番米国で知られていた『万歳!』を当て嵌め、名付けたものと推測される。他に、突撃決行の前に全員で「天皇陛下万歳」を唱和した事からこう呼ばれるようになったとする説もある。 バンザ...
  • 済南事件
    済南事件(さいなんじけん)は1928年(昭和3)5月3日、中国山東省の済南で、日本の権益確保と日本人居留民保護のため派遣された日本軍(第二次山東出兵)と北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。 事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。 衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は攻撃を開始、5月11日、済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。 当時の状況 当時、中国は南軍と北軍に別れて内戦状態にあり、治安は悪化していたが、済南は主要な商業都市であり、...
  • 関東軍
    Template 軍隊資料? 関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。 概要 Template 日本陸軍? 南満州鉄道附属地警備を目的とした守備隊が前身で、1919年(大正8年)に関東軍と改称する。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都新京(現・吉林省長春)に移転。名称は警備地の関東州に由来する。 張作霖爆殺事件や満州事変の画策・実行は、20年代からの既存の国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級の参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく左右する端緒となった。 また、これら一連の行動は参謀本部・陸軍省等当時の軍中央での国防政策の指針からも逸脱しており、その後の陸軍内の「下克上」的な組織体質、「手続軽視・結果重視」といった軍の運用体質を作りあげていった、という批判もある。 また、...
  • 尼港事件
    尼港事件(にこうじけん、Nikolayevsk Incident)は、シベリア出兵中の1920年(大正9)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いる露中共産パルチザン(遊撃隊)によって黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコライエフスク・ナ・アムーレ)の大日本帝国陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民が無差別に虐殺された事件。 パルチザンに対して一旦休戦した後、パルチザンが騙し討ちをし、大日本帝国陸軍側が反撃するも敗北。生き残った日本人は軍人であるか民間人であるかを問わず捕虜とされた。そして、5月に日本陸軍がニコライエフスクへ援軍を送るやパルチザンは全ての捕虜を殺害した上で逃亡した。また、日本人以外の市民も殺害した上、町を焼き払った。 のちにこのパルチザンの責任者はソビエト連邦政府により死刑に処せられることとなった...
  • 盧溝橋事件
    盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国では七七事変ともいう)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。 事件の経緯 7月7日 22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。 23時00分頃:行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり) 7月8日 現地の動き 3時25分:...
  • 牟田口廉也
    牟田口 廉也(むたぐち れんや、明治21年(1888年)10月7日 - 昭和41年(1966年)8月2日)は、佐賀県出身の陸軍軍人。陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。 盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開始時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮する。最終階級は中将。今日における評価は非常に低い。木村兵太郎や富永恭次と同じく東条英機に重用され、いわゆる三奸四愚と並んで東条の腹心の部下の一人であったが、インパール作戦における様々な行動は批判されることが多い。 また、当時の大日本帝国陸軍の将官の評価の際にはその全体的なレベルの低さを象徴する人物として、杉山元、富永恭次等と共に真っ先に名前が挙がることの多い人物である。 人物 少佐時代にカムチャッカ半島に潜入し、縦断調査に成功している。昭和12年(1937年)盧溝橋事件で中国側への攻撃を「支那軍カ...
  • 通州事件
    通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺を指す。 事件の概要 通州とは、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)の中心都市である。当時ここには、日本の傀儡政権であった冀東防共自治政府が置かれていたが、1937年7月29日、約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民(当時、日本統治下だった朝鮮出身者を含む。)約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。 事件の原因は、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復であるとする説明が一...
  • リットン調査団
    リットン調査団(-ちょうさだん/The Lytton Commission)は、国際連盟によって満州事変や満州国の調査を命ぜられたイギリスのヴィクター・リットン卿を団長とする国際連盟日支紛争調査委員会より出された調査団の通称である。 概要 調査団派遣の経緯 1931年(昭和6年)、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。翌年、関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。 調査団の要員構成 1932年1月、リットン調査団が結成された。委員は下記の5名。 リットン(Victor Alexander George Robert Lytton)卿(イギリス)56歳:枢密顧問官・元インド総督 アンリ・クローデル陸軍中将(フ...
  • ドーリットル空襲
    Template Battlebox? ドーリットル空襲(-くうしゅう、英語:Doolittle Raid)、またはドゥリットル空襲とは、太平洋戦争中の1942年4月18日に、アメリカ軍が航空母艦に搭載した陸軍の爆撃機によって行った日本本土に対する空襲である。名称は空襲の指揮官の名前に由来する。 背景 真珠湾攻撃以降一方的な敗退を続け、さらに開戦後の1942年2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるアメリカ本土のカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を受け、大きな衝撃を受けたアメリカ軍は、士気を高める方策として帝都・東京を爆撃する計画を立てた。 アメリカ陸軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、ソ連の領土は日ソ中立条約のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。また、アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆...
  • 関東軍特殊演習
    関東軍特殊演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは関東軍が1941年(昭和16年)7月7日に満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目に約70万の兵力を満州国に派遣したこと。事実上の対ソ連戦争準備行動であった。略称として、関特演(かんとくえん)が使われる。 戦争準備行動 1941年6月22日に開戦した独ソ戦に対し関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を主張、ドイツ軍と協力して東西からソ連軍を挟撃しようとした。しかし、大本営や閣僚、東条英機陸軍大臣をはじめとする軍部はアメリカによる経済制裁によって生じた石油備蓄量低下を理由に南方資源の獲得、日ソ中立条約破棄によるソ連軍との全面戦争の勝機が薄い事を理由に南方進出を支持。だが近衛文麿首相はノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(九五式軽戦車、軽装甲車等の車輌約90輌、航空機約50機、兵員約28万名)では戦力不足と判断、満州工業地帯の防衛が困...
  • 辻政信
    thumb|250px|出身地[[東谷奥村の中心であった加賀市山中温泉荒谷町入り口に建つ「辻政信之碑」]] 辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日 - 1961年?)は、日本の陸軍軍人、陸軍大佐、政治家。1952年から衆議院議員を四期、参議院議員を一期務めた。 辻を巡っては、“作戦の神様”と謳われ、マレー作戦等の辣腕振りが評価される一方、陸軍士官学校事件、ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進などにおける責任を追及する意見もある。またポートモレスビー攻略作戦やガダルカナル島の戦いにおける日本軍の敗戦は、辻が独断で拙劣な作戦指揮をした結果であるといわれる。毀誉褒貶両極端の評価を受けているが、GHQでは「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」とされた(後述)。 1961年4月に東南アジアの視察のために出国後、ラオスで行方不明となる。そのまま、1968年7月20...
  • 十五年戦争
    1931年の満州事変から日中戦争を経て1945年のポツダム宣言受諾による無条件降伏に至るまでの約15年間にわたる戦争を、総称して十五年戦争と呼ぶ。鶴見俊輔が1956年にこの言葉を使用したのが最初とされ、1960年代後半から一般にもこの言葉が浸透していった。この呼称は、満州事変以後繰り返された日中衝突及び太平洋戦争までの戦争は連続した日本による侵略戦争であるという見方に基づいているとして、侵略性を主張することに反発ないし消極的な人々からは否定的に受け取められることもある。 また、イデオロギー上の論争とは別に、満州事変(1931年 - )は塘沽協定(1933年)で一応、停戦が成立しており、盧溝橋事件を発端とする日中戦争(1937年 - )との連続性を認めるのは、非合理的とする意見もある。 略年表 日本の大陸介入 1925年(大正14)1月 蒋介石の広東政府、北伐を開始 19...
  • 谷寿夫
    谷 寿夫(たに ひさお、1882年12月23日 - 1947年4月26日)は、岡山県出身の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。南京大虐殺(南京事件)の責任を問われ南京裁判において処刑された。 経歴 岡山中学校、東京府立四中を経て、陸軍士官学校卒(15期)、陸軍大学校卒(24期 恩賜)。 陸軍士官学校卒業後、日露戦争に従軍し、イギリス駐在武官(1915年 - 1918年)中、第一次世界大戦にも従軍する。その後、陸軍大学校の教官(兵学)に任命される。その時、兵学の教科書として、日露戦争を研究する時の必読書として知られる、『機密日露戦史』をあらわす。 1935年、第6師団長(熊本)に親補される。1937年12月、中支那方面軍(松井石根司令官)の隷下として第6師団も南京攻略戦に参軍する。このとき、所謂、南京大虐殺がおきたとされる。南京攻略戦の成功により、中部防衛司令官に任命された。 1939年...
  • 本土決戦
    本土決戦(ほんどけっせん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争、第二次世界大戦)において想定された戦闘の一つで、日本本土における陸上戦闘を意味する。アメリカ軍は1945年秋以降に「ダウンフォール作戦」として実施を予定し、日本軍は「決号作戦」と称する防衛作戦を計画していた。また、ソ連軍による北海道や東北地方での陸上戦闘の可能性も含まれる。 原爆投下とソ連軍の参戦により、1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾したため、本土決戦は行われることがなかった。 背景 日本政府・大本営が「日米の天王山」と呼号して全力を注いだ比島決戦では、昭和20年(1945年)1月9日、米軍のルソン島リガエン湾上陸によって、フィリピンにおける日本軍の敗北がほぼ決定的なものとなり、同地の喪失と本土進攻は時間の問題となっていた。 また、米潜水艦の攻撃による輸送船の不足に加え、マリアナ海戦・レイテ沖海戦以後は制海・制空権を...
  • 唐生智
    唐生智(とう せいち、1889年 - 1970年4月6日)は、中華民国の軍人、中華人民共和国の政治家。 1937年12月における南京防衛戦の総指揮官を蒋介石より任命される。7日に蒋介石が南京を脱出した後も徹底抗戦の指示を守り、12月9日の日本軍からの降伏勧告にも抵抗を以て返答。その後、南京陥落直前の12日夕方に全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」という命令を出し自らは南京城を脱出。この時に明確な撤退命令を出さず、更にこの指示は中国軍の末端までは伝わらず、多くの中国兵が指揮系統不在のまま南京に取り残され、結果、その後も散発的に戦闘が続けられる事になった南京陥落時の混乱については南京大虐殺参照。。中華人民共和国の成立以降も大陸に残る。1949年、湖南省の知事に命じられ、中国国民党革命委員会の委員、全国人民代表大会の常務委員を歴任した。 中国語版翻訳2007年6月1日の版で...
  • 太平洋戦争-2
    前半は太平洋戦争参照 連合軍の攻勢(1944年) ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開せんとする9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無死した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。 5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ...
  • 松井石根
    Template Infobox 軍人? 松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、ハルピン特務機関長、陸軍大将。正三位勲一等功一級。ポツダム宣言受諾後、南京大虐殺の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(BC級戦犯松井は東京裁判でA級戦犯容疑で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、訴因第55項で有罪となったため、実際にはBC級戦犯である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという認識が浸透している。)を受け、処刑された。現在は靖国神社に...
  • 国定教科書
    Template Battlebox? ソ連対日参戦(ソれんたいにちさんせん)とは、当時の満州国において、1945年8月9日深夜から開始された、大日本帝国の関東軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、大日本帝国の第五方面軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘、ソ連軍が圧勝した。 名称 日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ソ連では主戦場が満州であったこともあり、「8月の嵐作戦」、「ソ日戦争」または「満州の戦い」と呼ばれることが多い。ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。 背景 19世紀のロシア帝国の時代から日本は対露(対ソ)の軍事的な対決を予想し、その準備を進めてきた。ロシア革命後もソ連は...
  • 戦陣訓
    戦陣訓(せんじんくん)は、1941年1月に当時の陸軍大臣・東條英機が示達した訓令(陸訓一号)で、軍人としてとるべき行動規範を示した文書。現在ではこのなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が軍人・民間人の多量の無駄な討ち死に・自殺の原因となったか否かが議論の中心となっている。(後述参照) 構成 「序」と「本訓」「結」から成っており、「本訓」はさらに「其の一」から「其の三」までに分かれている。 「序」では「軍人勅諭」の具体的な行動の基準を示すとしている。 「本訓(其の一)」はさらに第一「皇国」、第二「皇軍」、第三「皇紀」、第四「団結」、第五「協同」、第六「攻撃精神」、第七「必勝の精神」からなり、第一「皇国」は「大日本は皇国なり。万世一系の天皇……」と始まり、天皇の永遠の「君臨」を宣言している。 「本訓(其の二)」はさらに、第一「敬神」、第二「孝道...
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