chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「米朝修好通商条約」で検索した結果

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  • 日墨修好通商条約
    日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこうつうしょうじょうやく)とは、1888年11月30日に日本とメキシコの間で締結された条約。日本にとっては初めての(アジア除く)(治外法権が無く、関税自主権のある)平等条約であり、メキシコにとってはアジアの国と初めて締結した条約であった。 当時ワシントン在勤の日本全権陸奥宗光と、駐米メキシコ公使ロメロとの間で協議された。 条約成立の背景 当時は安政の五カ国条約として、アメリカ(日米和親条約、日米修好通商条約)、オランダ(日蘭和親条約)、ロシア(日露和親条約)、イギリス(日英和親条約、日英修好通商条約)、フランス(日仏和親条約)と不平等条約を、李氏朝鮮とは逆不平等条約(日朝修好条規、日本が有利)を結んでおり、平等条約は清と結んでいる日清修好条規のみだった。 日本政府は治外法権(領事裁判権)、関税自主権の問題解決の足がかりとして、アジア以外の国の1つとま...
  • 日露修好通商条約
    日露修好通商条約(にちろしゅうこうつうしょうじょうやく)は、幕末の日本とロシアとの間に結ばれた通商条約。1858年8月(安政5年7月)に調印され、1859年8月(安政6年7月))批准された。日露修好通商条約では、領事裁判権に加えて最恵国条項が双務的となっている。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって総て無効になった。 関連項目 日露関係史 ロシアの歴史 条約 条約の一覧 日露和親条約 日米修好通商条約 日露間樺太島仮規則 樺太・千島交換条約 ポーツマス条約   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月13日 (木) 18 56。     
  • 日英修好通商条約
    日英修好通商条約(にちえいしゅうこうつうしょうじょうやく、The Anglo-Japanese Treaty of Amity and Commerce)は1858年8月26日、イギリス代表のエルギン卿と江戸幕府の間に調印された条約。幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。 主な内容 江戸に在日英国代表設置 条約港の設定(函館、神奈川と長崎の開港、1859年7月1日から) 英国人の1862年1月1日から江戸への居住を許可 その他 1998年には条約締結140周年を記念して「英国祭98」のイベントが各地で催された。 2008年には条約締結150周年を記念して「UK-JAPAN2008」のイベントが各地で催される。 外部リンク UK-JAPAN2008 関連項目 日英関係 不平等条約 ...
  • 日米修好通商条約
    日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)は、安政5年6月19日(グレゴリオ暦1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五ヶ国条約)。 この不平等条約の改正は、日本が日清戦争において清に勝利した後で、明治32年(1899年)7月17日に日米通商航海条約(昭和15年(1940年)1月26日失効)が発効されたことにより失効した。 経緯 日米和親条約により、日本初の総領事として赴任したハリスは、当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。しかし、ハリスの強硬な主張により、交渉担当者の間で通商条約やむを得ずという雰囲気が醸成されると、老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を獲...
  • 日朝修好条規
    ... 日韓併合条約 米朝修好通商条約 - 日朝修好条規ののち締結された不平等条約のひとつ 外部リンク アジア歴史資料センター レファレンスコード:A01100134900/A03023626000/B03030141400/B03030158700/B06150027600など 朝鮮王朝実録公式サイト(朝鮮語/漢文) 高宗実録第13巻 高宗13年2月3日(乙丑),6月12日(辛丑) ,7月6日(甲子)など 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月27日 (火) 13 37。     
  • 条約改正
    条約改正(じょうやくかいせい)とは、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約を改正するための外交交渉をさす。 概説 江戸時代後期に、たびたび日本へ来航して鎖国を行う日本に通商や国交を求める諸外国に対し、江戸幕府は1859年(安政6年)に安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を結ぶ。五カ国条約は関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する(一説には一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請とする説もある川島信太郎『条約改正関係日本外交文書別冊・条約改正経過概要』(日本国際連合協会 1950年)35ページ)内容であった。この条約が尊皇攘夷運動を活性化させることになり、これが討幕運動につながることになった。 江戸幕府が王政復古により倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を...
  • 日英和親条約
    日英和親条約(にちえいわしんじょうやく、 Anglo-Japanese Friendship Treaty)は1854年、日本とイギリスの間で締結された最初の条約。幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。日英約定(にちえいやくじょう)とも。 1854年9月7日、ジェームズ・スターリング提督(Admiral Sir James Stirling)率いるイギリス東洋艦隊が長崎に来港、日本との通航を要求した。 砲艦外交の圧力の下、江戸幕府の許可を得た長崎奉行水野忠徳及び同目付永井尚志が同年10月14日(嘉永7年8月23日)、条約に調印した。 日本は先の日米和親条約で米国に下田と箱館の開港を認めていたが、この条約では長崎と箱館を英国に開放(条約港の設定)し、薪水の供給を認めた。また、治外法権・最恵国待遇などの規則も定められた。ただし通商規定...
  • 領事裁判権
    領事裁判権(りょうじさいばんけん)とは、不平等条約によって定められた治外法権のひとつで、在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国法に則り裁判する権利を言う。 日本では1858年に締結された日米修好通商条約に 第6條  日本人に對し法を犯せる亞墨利加(アメリカ)人は、亞墨利加コンシュル裁斷所(領事裁判所)にて吟味の上、亞墨利加の法度(法律)を以て罰すへし。亞墨利加人に對し法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を以て罰すへし。 とあり、その後安政年間にイギリス、フランス、オランダ、ロシアと締結した安政五カ国条約にすべて領事裁判権の定めがある。 領事は本来、外交官であって裁判官ではないから、領事裁判ではしばしば本国人に極めて有利な判決が下された。治外法権撤廃は明治政府の外交にとって大きな課題となり、1911年までに完全に撤廃された。 治外法権による領事裁判権は、15世紀...
  • アジア主義
    アジア主義(あじあしゅぎ)とは、19世紀後半に活発となった欧米諸国のアジア進出に対抗する方策として展開された日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称である。 概要 欧米諸国からの脅威の排除とアジアの自立を目指した主張であるが、その内容は開国文明化、協同、合邦、新秩序構築など、主張する側の思想、立場によって異なり一義的な定義はない。また、時代ごとの国際情勢によって主張内容が変化する。当初は日本と中国、朝鮮の関係論から始まり、日露戦争以降、アジアの革命勢力を支援する思想に発展し、やがて日本を盟主としたアジアの新秩序構築(大アジア主義)、そして大東亜共栄圏構想へとつながっていく。1945年の日本の敗戦によって、近代アジア主義は終焉したとされる。 その後の国際的な地域統合の流れの中で生まれた東アジア共同体構想も、しばしばアジア主義と関連付けられて言及されるこ...
  • 治外法権
    治外法権(ちがいほうけん)とは、一国の国内であって、その国の三権が完全には及ばない特権であり、外部の法によって治めることができる権利。 概要 治外法権は、外交上の慣例として、派遣国の認証があり、接受国による信任状の受理(接受)があった場合において、派遣された外交官に対して相互に認められる特権として確立されてきた。ウイーン条約においては、外国の公使館および外交官特権を所持している外交官に認められる。また正式訪問中の国家元首や首相、外務大臣、国内に停泊中の公用船(軍艦含む)、公用機(軍用機含む)の内部に適用されると解される(民間船舶・航空機については旗国主義を参照)。 何らかの戦争や強制外交が生じ、その結果、戦勝国などに治外法権の租借地を期限付きで認めた場合などには、片務的な特権としての治外法権の問題が生じる。このさい問題となるのは不平等条約にもとづく領事裁判権である。多くの場合は接受国...
  • 大韓帝国
    大韓帝国(だいかんていこく、Template lang?、テハンジェグク)とは、1897年 - 1910年に李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(Template lang?、テハングク)、韓国(Template lang?、ハングク)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国」と呼ばれることもある。清の冊封国時代と日本統治時代の狭間の短い時期であり、朝鮮半島最後の専制君主国である。 {{基礎情報 過去の国 |略名 = 韓国 |日本語国名 = 大韓帝国 |公式国名 = Template Lang? |建国時期 = 1897年 |亡国時期 = 1910年 |先代1 = 李氏朝鮮 |先旗1 = Flag of Korea 1882.svg |次代1 = 日本統治時代の朝鮮 |次旗1 = Flag of Japan - variant.svg |次代2 ...
  • 尊王攘夷
    尊王攘夷(そんのうじょうい、尊攘)とは、天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退しなければ日本の未来はあり得ないという表現で、江戸幕末に革命の旗印になり、各藩や公家または幕府内の間で熱く論じられた思想である。 概要 国の存在の根拠としての尊王と、侵掠・侵入してくる外敵に対抗する攘夷が結びついたもの。「王(きみ=天子)を尊び、夷(い=外国人)を攘(はら)う」の意。古代中国において、周王朝の天子(王)を尊び、王朝を守るため侵入する夷狄(いてき=周辺諸民族。この時代の夷狄は南方の楚を指していた)を打ち払う、という意味で使われた言葉を、国学者が輸入して流用したものである。なお、中国では、周の天子(王)を「王」のモデルとしていたことから、本来「尊王」と書くが、尊王論が日本に受容されるに際して「王」とは天皇のことであるという読み換えが行われたことから、天皇は単なる国王ではなく皇帝であるという優越意識を踏ま...
  • 日露和親条約
    日露和親条約(にちろわしんじょうやく、露:Симодский трактат)は、1855年2月7日(安政元年12月21日)に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本、ロシア帝国の間で締結された条約。 概説 日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲、勘定奉行川路聖謨。ロシア側全権は提督プチャーチン。 日露和親条約締結によって、千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた日本政府外務省は日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』、P6)。。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ、全て無効になった。 現在、日本では条約の締結された2月7日(新暦)は「北方領土の...
  • 樺太・千島交換条約
    樺太千島交換条約(からふと ちしま こうかんじょうやく)は、明治8年(1875年)5月7日に日本とロシア帝国との間で国境を確定するために結ばれた条約。千島樺太交換条約や、署名した場所からとってサンクトペテルブルグ条約と表記する場合もある。 経緯 日本とロシアとの国境は安政元年(1855年)の日露和親条約において千島列島(クリル列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)との間に定められたが、樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた日本政府外務省は日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』P6)。 1856年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるい...
  • 日米和親条約
    日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)とは、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した和親条約で神奈川条約とも言う。日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーである。 概要 幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。 この条約の締結によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、鎖国体制は崩壊した。 条約の日本語批准書原本は、幕末の江戸城火災により焼失した。オランダ語によって書かれた批准書原本のうち、アメリカ合衆国が持ち帰った物については、アメリカ国立公文書記録管理局で保管されており、現存する。2004年(平成16年)には、日米交流150周年を記念して、アメリカから日本へ条約批准書のレプリカが贈られた。 日米の、日は日本...
  • 小栗忠順
    Template 武士/開始? Template 武士/肖像? Template 武士/時代? Template 武士/生誕? Template 武士/死没? Template 武士/改名? Template 武士/別名? Template 武士/墓所? Template 武士/官位? Template 武士/幕府? Template 武士/氏族? Template 武士/父母? Template 武士/妻? Template 武士/子? Template 武士/終了? thumb|300px|[[小栗上野介屋敷跡(東京都千代田区神田駿河台)]] 小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣。 通称は、又一(任官前)。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。のち文久3年(1863年)、上野介(こうずけのすけ)に遷任。小栗上野介とも称される。新...
  • 幕末
    Template 日本の歴史? 幕末(ばくまつ)とは、ある幕府による国内統治の末期のことをいう。単に「幕末」といった時は、江戸幕府末期の時代(19世紀半ば)を指す。 概説 幕末の期間に関する厳密な定義はないが、嘉永6年(1853年)の黒船つまりアメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍のサスケハナ号、サラトガ号、ポーハタン号、ミシシッピ号による艦隊の来航から、慶応3年(1867年)に徳川慶喜が大政奉還をおこなって幕府が日本の全国政権としての地位を失い、翌1868年に明治天皇が即位して元号が「明治」と改元されたときまでとするのが、一般的である。幕府という名目が失われた大政奉還(1867年)、旧幕府軍による抵抗が終了した箱館戦争の終戦(1869年)、幕藩体制が完全に終結した廃藩置県(1871年)なども画期となりうる。 幕末は、徳川宗家の当主が征夷大将軍職に就き、幕府の主宰者とし...
  • 済物浦条約
    Template 朝鮮の事物? 済物浦条約(さいもっぽじょうやく)とは、1882年8月30日に日本と李氏朝鮮の間で締結された条約。済物浦は朝鮮語読みで「チェムルポ」、仁川の旧称。 壬午軍乱(壬午事変)での日本公使館焼き討ち事件の事後処理の為に結ばれた。 主な内容は、公使館襲撃事件の犯人の逮捕と処刑、日本側被害者の遺族、負傷者への見舞金5万円、損害賠償50万円、公使館護衛としての漢城での軍隊駐留権、兵営設置費・修理費の朝鮮側負担、謝罪使の派遣等である。 また同時に日朝修好条規続約(追加条項)として、居留地の拡大、市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴を認めさせた。 当初は巨済島または鬱陵島の割譲を要求していたが、軍艦4隻と寺内正毅大隊長が率いる兵1500人が到着する6日前に、既に清国が反乱を鎮圧し、主導権を握っていたことと、アメリカが軍艦を派遣し威圧をかけてきた事から交渉担当の花房義質...
  • 黒田内閣
    {{日本の内閣記事|くろだ ないかく|2|黒田清隆|Template 和暦?|4月30日|Template 和暦?|10月25日|超然内閣|なし(帝国議会未設置)|なし(帝国議会未設置)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/02.html|前職 = 農商務大臣}} 本項では、黒田内閣の事績とともに、黒田の総理辞任後2ヵ月間にわたって存在した内大臣・三條實美を首班とする三條暫定内閣(さんじょう ざんてい ないかく)の背景についても解説する。三條暫定内閣は、Template 和暦?10月25日から同年12月24日まで続いた内閣である。 在任期間 黒田内閣 Template 和暦?4月30日 - Template 和暦?10月25日 在任期間544日。 三條暫定内閣 1889年(明治22年)10月25日 - 同年12月24...
  • 日清通商航海条約
    日清通商航海条約(にっしんつうしょうこうかいじょうやく)とは、1896年7月21日に北京において日本と清の間に締結された条約。同年10月20日に批准書交換が行われて10月28日に発効した。辛亥革命後の中華民国にも継続された。日本側全権は林董。清側全権は張蔭桓。 日清戦争により、日清修好条規が破棄されたため、戦後に新たに締結された。同戦争における日本の勝利を受けて修好条規の変則的平等条約から日本に有利な不平等条約に改められた。全29条から構成され、貿易における日本への待遇を欧米と同様とする(第9条)、日本に領事裁判権を認める(第22条)、条約改訂は批准書交換より10年後にのみ提議出来、半年以内に合意が成立しなければ、自動的に10年間延長されてその期間改訂出来ない(第26条)。など、日本に有利な内容であった。 更に北清事変の際に結ばれた北京議定書に基づいて1903年10月8日に上海において...
  • 李氏朝鮮-2
    前半は、李氏朝鮮参照 開国圧力と大韓帝国 - 高宗時代前期~中期 59年間に渡る安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなくなっていたために、手をこまねいているしかなかったが、その中から安東金氏より権力を取り戻そうという動きが出てくる。1863年に第26代王高宗が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)とTemplate lang?応(Template lang?は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。Template lang?応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を孝明...
  • 江華島事件
    thumb|250px|right|江華島に上陸する[[雲揚 (軍艦)|雲揚の陸戦隊]] 江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。 背景 江戸時代後期に開国し、明治新政府が成立した日本では1868年(慶応4年)12月19日に新政権樹立の通告と国交と通商を求める国書を持つ使者を李氏朝鮮政府に送った。しかし国書の中に「」「」の文字が入っており、冊封体制下では「皇」は中国の皇帝にのみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味していたので、朝鮮側は受け取りを拒否した。その後何度も国書を送ったが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否した(書契問題)。 日本側は、先に清国と日清修好...
  • 日韓併合条約
    日韓併合条約(にっかんへいごうじょうやく、正式名称=韓国併合ニ関スル条約) 1910年(明治43)8月22日に漢城(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相が調印、29日に裁可公布して発効した「韓国皇帝が韓国の統治権を完全かつ永久に日本国天皇に譲渡する」ことなどを規定した条約のこと。 条約文 韓国併合ニ関スル条約 日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ハ両国間ノ特殊ニシテ親密ナル関係ヲ顧ヒ相互ノ幸福ヲ増進シ東洋ノ平和ヲ永久ニ確保セムコトヲ欲シ此ノ目的ヲ達セムカ為ニハ韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如カサルコトヲ確信シ茲ニ両国間ニ併合条約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為日本国皇帝陛下ハ統監子爵寺内正毅ヲ韓国皇帝陛下ハ内閣総理大臣李完用ヲ各其ノ全権委員ニ任命セリ因テ右全権委員ハ会同協議ノ上左ノ諸条ヲ協定セリ 第一条 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス ...
  • 陸奥宗光
    {{政治家 |各国語表記 = むつ むねみつ |画像 = Munemitsu Mutsu 2.jpg |画像説明 = 陸奥宗光 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1844年8月20日 |出生地 = 紀伊国名草郡(現・和歌山県和歌山市) |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 西ヶ原本邸(現・東京都北区西ヶ原) |出身校 = 神戸海軍操練所 |前職 = 海援隊隊士 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = 正二位勲一等伯爵 |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = 陸奥蓮子陸奥亮子 |サイン = |国旗 = 日本 |職名 = 第8代外務大臣 |内閣 = 第2次伊藤内閣 |当選回数 = |就任日 = 1892年8月8日 |退任日 = 1896年5月30日 |退任理由 = 肺結核...
  • 岩倉具視
    {{政治家 |各国語表記 = いわくら ともみ |画像 = Tomomi Iwakura 3.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1825年10月26日(旧暦)1825年9月15日 |出生地 = 京都 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 京都 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 正一位・大勲位 |配偶者 = 野口槇子 |国旗 = 日本 |職名 = 第2代外務卿 |内閣 = |当選回数 = |就任日 = 1871年7月14日 (旧暦) |退任日 = 1871年11月4日 (旧暦) |退任理由 = |元首職 = 天皇 |元首 = 明治天皇 }} 岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日)- 明治16年(1883年)...
  • 東莱府
    Template 朝鮮の事物? 東莱府(とうらいふ)は、現在の釜山付近に置かれた朝鮮王朝の地方行政機関。単に地方行政機関であるのみならず、中世以降近代初頭までの日朝関係において、朝鮮側の外交窓口として重要な機関であった。 正式名称は東莱都護府で、長官は東莱都護府使(正三品相当)だが、一般に東莱府・東莱府使と呼ばれている。 歴史 新羅以降、現在の釜山広域市域の大部分を管轄する東莱郡が置かれ、高麗時代には東莱県となった。朝鮮王朝でもはじめは東莱県として位置づけられていたが、1547年に東莱都護府に昇格された。壬辰倭乱(文禄の役)では緒戦の攻撃目標となり、東莱府使宋象賢は降伏を拒否して戦死した。乱中の一時期、防衛失敗を問われて東莱県に降格されたが、1599年に東莱都護府が再設置された。 近世日朝外交の窓口 朝鮮時代後期(江戸時代)、東莱府は釜山の倭館を管轄し、対馬藩との交渉に...
  • 日英関係
    Template 日本の国際関係? 日英関係(にちえいかんけい)は、日本とイギリスの関係のこと。 年表 right|thumb|[[ウィリアム・アダムス]] 18世紀以前 1587年 イギリス人「航海者」のトーマス・カヴェンディッシュ(en)、スペイン領バハ・カリフォルニア(現在のメキシコ領カリフォルニア半島)沖でスペイン船を拿捕し、乗船していた2人の日本人(クリストファー(20歳)とコスマス(16歳)(en))を自分の船に加える。この2人が初めてイギリスを訪問した日本人となったが、1592年に遭難死。 1600年 ウィリアム・アダムスが九州に上陸したのが公式な日英関係の始まり。後にアダムスの仲介によって東インド会社が平戸に商館を設置する。 1623年 アンボン虐殺事件の発生による英蘭関係の悪化と貿易の不振により平戸のイギリス商館を閉鎖、日英関係は事実上断絶する。 1673...
  • 日英通商航海条約
    日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)は、1894年7月16日に日本の駐英公使青木周蔵と、イギリス外相キンバレーによって調印された条約のことである。1941年(昭和16年)7月26日、イギリスおよびイギリス連邦各国より破棄を通告され効力を失う。 日本政府が明治の初めから取り組んでいた各国との不平等条約改正交渉の結果、ようやく達成できた最初の改正条約。安政五カ国条約締結以来日本政府の悲願だった領事裁判権の撤廃がなされ、以降同内容の条約をアメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、オランダ、イタリアなど14ヵ国とも調印する。 しかし、もうひとつの悲願である関税自主権回復はできず、イギリスからの輸入品の約70パーセントは協定税率の束縛を受けることになる。しかし、この時点では治外法権の撤廃を主目的とし、その妥協案の関係から関税自主権は一部回復を目指したので、目的は達成されたことになる...
  • 日清修好条規
    日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、日本と清の間で結ばれた条規。日本側大使は大蔵卿伊達宗城、清側大使は直隷総督李鴻章であった。 概要 李氏朝鮮との国交問題が暗礁に乗り上げている中、朝鮮の宗主国である清との国交締結を優先にすべきとの考えから1870年7月27日(明治3年6月29日)柳原前光・花房義質を派遣して予備交渉を行い、次いで正規の大使として伊達が送られ、副使となった柳原とともに詰めの交渉を行った。平等条約ではあったが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であった。日清戦争勃発まではその効力が続いていた。 具体的には 外交使節の交換および双方に領事を駐在させる(第4条、第8条) 制限的な領事裁判権をお互いに認める(第8条、第9条、第13条) 通商関係...
  • 興宣大院君
    Template 韓国の人物? 興宣大院君(大院王)(こうせんたいいんくん(たいいんおう)、1820年 - 1898年)は、李氏朝鮮の王族で、高宗の実父。本名は李昰応(昰は、日の下に正)。元来「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、後述のように朝鮮王朝末期において多大な影響をもたらしたため、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君を指す。 略伝 勢道政治での冷遇 朝鮮王朝の王族の一人 ref name= 出目 英祖の曾孫。第21代国王・英祖の子の荘献世子の三男の恩信君の養子の南延君(生父は仁祖の息子である麟坪大君の6世孫)の四男として生まれたが、安東金氏などの外戚が政治を取り仕切る「勢道政治」のさなかにあって、彼は王族内であまり重用されず、厨院、典医監、司圃署、典設司、造紙署などさほど重要でもない部署の提調を務めるなど不遇な生活を送った。一方では進んで有...
  • 高宗 (朝鮮王)
    {{基礎情報 君主 | 人名 = 高宗 | 各国語表記 = Template lang? | 君主号 = 朝鮮国王・大韓帝国皇帝 | 画像 = Korea-Portrait of Emperor Gojong-01.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = 『高宗皇帝御眞』(作者未詳、国立故宮博物館蔵) | 在位 = 朝鮮国王:1863年12月12日-1897年10月12日大韓帝国皇帝:1897年10月12日-1907年7月20日 | 戴冠日 = | 別号 = 大韓帝国光武大皇帝大韓帝国太皇帝徳寿宮李太王 | 全名 = 李熈 | 出生日 = 1852年9月8日(旧暦7月25日) | 生地 = 李氏朝鮮、漢城、雲Template lang?宮 | 死...
  • 仏印進駐
    仏印進駐(ふついんしんちゅう)とは、フランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。1940年(昭和15年)の北部仏印進駐と、1941年(昭和16年)の南部仏印進駐に分けられる。 北部仏印進駐 1940年(昭和15年)9月、日中戦争(支那事変)によって日本と敵対していた蒋介石の中国国民党政権に対するイギリス・アメリカ合衆国などによる援助ルート、所謂「援蒋ルート」を遮断する目的で行われた。これは、フランスの親独的中立政府であるヴィシー政権との外交交渉の結果得られた成果とされ、現地の両軍司令部間での軍事協定も結ばれていた。しかし、実際には進駐開始した9月23日から数日間、ドンダン要塞など各地で戦闘日本側でも当初から戦闘を想定し、戦車部隊などを伴い武力制圧可能な構えであった。が発生し、停戦までに数百人の死傷者が出ている。 進駐後は、統治権はフランス側に残され、フランス...
  • 日本史の出来事一覧
    日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上のおもな出来事を年代順に記述する。 小学校学習指導要領に定める、「社会科」で取り上げるべき人物については、下線を引いた。 古代 弥生時代 57年 倭国王、後漢に遣使。 107年 倭国王、後漢に遣使。 倭国大乱 239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使。 古墳時代・飛鳥時代 350年頃 ヤマト王権の統一。 369年 任那の成立。 413年以後 しばしば中国に遣使(倭の五王)。 527年 筑紫国国造、磐井の乱。 538年(一説に552年) 百済の聖王、仏像及び経綸を献ず(儒教伝来、仏教公伝)。 562年 任那の日本府が新羅に滅ぼされる。 渡来人(帰化人)の来航。 593年 四天王寺造立。 593年 - 622年 聖徳太子の摂政。 603年 冠位十二階を制定。 604年 憲法十七条...
  • 仮20
    日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上のおもな出来事を年代順に記述する。 小学校学習指導要領に定める、「社会科」で取り上げるべき人物については、下線を引いた。 古代 弥生時代 57年 倭国王、後漢に遣使。 107年 倭国王、後漢に遣使。 倭国大乱 239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使。 古墳時代・飛鳥時代 350年頃 ヤマト王権の統一。 369年 任那の成立。 413年以後 しばしば中国に遣使(倭の五王)。 527年 筑紫国国造、磐井の乱。 538年(一説に552年) 百済の聖王、仏像及び経綸を献ず(儒教伝来、仏教公伝)。 562年 任那の日本府が新羅に滅ぼされる。 渡来人(帰化人)の来航。 593年 四天王寺造立。 593年 - 622年 聖徳太子の摂政。 603年 冠位十二階を制定。 604年 憲法十七条...
  • 閔妃
    Template 朝鮮の事物? 閔妃(ミンビ、びんぴ、1851年10月19日 - 1895年10月8日)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃 ref name= minhee3 本貫は、驪興閔氏。KBSのドラマでは諱は紫英ともされているが、明確な資料に基づいたものではない。本来は、「閔妃」とは「閔氏の王妃」という意味であり、固有名詞ではないが、近代朝鮮史で「閔妃」と言えば、この高宗の妃を一般に意味する。。尊号は孝慈元聖正化合天 ref name= 孝慈元聖正化合天 光武六年三月七日 韓国官報2141号 宮廷録事 GK17289_00I0079 、諡号は明成太皇后 ref name= 高宗太皇帝明成太皇后祔廟主監儀軌 高宗太皇帝明成太皇后祔廟主監儀軌 請求記号2-2218 1921年 http //e-kyujanggak.snu.ac.krなので、孝慈元聖正化合天明成太皇后とな...
  • 明治
    Template 日本の歴史? 明治(めいじ)は、日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。明治元年1月1日(1868年1月25日)からTemplate 和暦?7月30日までの期間を指す。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは慶応4年9月8日(1868年10月23日)で、同年1月1日に遡って明治元年とすると定めた。 改元 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) - 明治天皇の即位による代始改元。 ただし、改元の詔書には「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて、明治元年となす)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。 Template 和暦?7月30日(Template 和暦?にグレゴリオ暦を施行) - 明治天皇崩御、...
  • 黒田清隆
    Template 記事名の制約? Template 日本の内閣総理大臣? 黒田 清隆(くろだ きよたか、天保11年10月16日(1840年11月9日) - 明治33年(1900年)8月23日)は、日本の武士・薩摩藩士、政治家。 通称は仲太郎、了介。第2代内閣総理大臣(在職 1888年4月 - 1889年10月)。階級は陸軍中将。位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。元老。 主な事績 薩摩藩の藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、1868年から1869年の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で参謀として指揮をとった。開拓次官、後に開拓長官として1870年から1882年まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、1876年に日朝修好条規を締結し、1877年の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺される...
  • 日清戦争
    Template Battlebox? 日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国語では中日甲午戦争と呼ぶ。英語ではFirst Sino-Japanese War(第一次中日戦争)と呼ぶ。 日本の戦費総額は2億テール(日本円で3億円)、死者1.3万人。この戦争期間は10ヶ月であった。 経緯 開戦まで 征韓論 日本は明治政府成立直後から、朝鮮半島に対し経済進出を含む深い関心を抱いており、その成立直後から朝鮮との国交渉を始めていた。当時、朝鮮は鎖国状態で、国王高宗の父である大院君が政治の実権を握っていたが、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交樹立に反...
  • 北京議定書
    北京議定書(ぺきんぎていしょ)とは、1901年9月7日に北京で調印された義和団事変における列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。日本の外交文書における正式名称は、北清事変に関する最終議定書である。また、中国ではその年をとって辛丑条約、辛丑和約(しんちゅうじょうやく、-わやく)ともいう。欧米では Boxer Protocol の呼び名が一般的である。 なお、1900年10月から始まった和議交渉から、その内容ごとに逐次列国と清国間で協定を締結し、一部は既に施行されていた。本議定書はその条件履行の最終確認として、双方全権出席の下、調印されたものである。 調印国と全権 列国側 ドイツ・シュワルツェンシュタイン オーストリア・ハンガリー・ワールボルン ベルギー・ジュースタンス スペイン・コロガン アメリカ・ロックヒル フランス・ボー イギリス・アーネスト・...
  • 天津条約
    天津条約(てんしんじょうやく, Treaty of Tianjin)とは、中国の天津において、清国と諸外国間に締結された17条約の通称。1858年アロー号戦争の結果、ロシア帝国・アメリカ合衆国・イギリス・フランスと清国間に結ばれたのが始まり。日本と清の間には1885年に締結。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。 1858年の条約 1857年に始まったアロー戦争で英仏連合軍が広州を占領し、さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でイギリス、フランス、ロシア、アメリカの4国と結んだ条約。  軍事費の賠償  外交官の北京駐在  外国人の中国での旅行と貿易の自由  キリスト教布教の自由と宣教師の保護  牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後...
  • リットン調査団
    リットン調査団(-ちょうさだん/The Lytton Commission)は、国際連盟によって満州事変や満州国の調査を命ぜられたイギリスのヴィクター・リットン卿を団長とする国際連盟日支紛争調査委員会より出された調査団の通称である。 概要 調査団派遣の経緯 1931年(昭和6年)、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。翌年、関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。 調査団の要員構成 1932年1月、リットン調査団が結成された。委員は下記の5名。 リットン(Victor Alexander George Robert Lytton)卿(イギリス)56歳:枢密顧問官・元インド総督 アンリ・クローデル陸軍中将(フ...
  • 甲午農民戦争
    甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)は1894年(甲午)に朝鮮で起きた内乱である。農民に東学の信者がいたことから、日本ではかつて東学党の乱と呼んでいたが内乱の主体は農民であって、東学の信者ではないため現在ではこの呼び名が公式に使われている。 この戦争の処理を巡って、日本と清国の対立が激化し、日清戦争に発展する。 第一次蜂起 1860年代から朝鮮は変革の時代を迎えていた。これに1880年代以降、国内の動乱期を乗り越えた日本やアメリカ合衆国、西欧の列強が加わり、次の時代に向けた模索の中で混乱の時期を迎えていた。 民衆も1876年の日朝修好条規(江華島条約)以降の日本人商人との取引などによる物価の騰貴に悩まされていた。この点は日本が「開国」後に生糸の価格高騰に苦しんだことと似ている。 朝鮮の改革を巡っては、壬午軍乱や甲申事変のような政変があったが、いずれも蜂起は失敗に終わった。こうし...
  • 日ソ基本条約
    日ソ基本条約(にっそきほんじょうやく)は、1925年に日本とソビエト連邦(ソ連)の間で結ばれた二国間条約。1922年のソ連の建国後、日本との間で初めて結ばれた条約で、1917年のロシア革命以来ロシアを統治するソビエト政権と日本との間で断絶していた日露国交正常化の基本原則を定めた。1月20日締結、2月25日に批准。 締結に至る経緯 1917年のロシア革命で共産主義を掲げるボリシェヴィキのソビエト政権がロシアの中央政権を奪取すると、共産主義の極東への波及を恐れた日本は、同じくソビエトを敵視するイギリス・フランス・イタリアなどの諸国と歩調をあわせてロシア内戦への干渉を決定、1918年初頭にイギリスと共同で居留民保護を名目とした艦隊をウラジオストクに派遣、同年夏にはシベリアで孤立するチェコ軍団の救出を名目としてシベリア出兵を開始。ソビエト政権と日本との間の関係は決定的な対立に陥っていた。1...
  • 王政復古 (日本)
    王政復古(おうせいふっこ)は、江戸時代末期の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に討幕派の計画により「天皇親政」が宣言された政変である。 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)とも呼ばれる。 経過 江戸時代後期には、諸外国との通商条約の締結などを巡って、朝廷の伝統的権威が復興し、幕府と朝廷の提携による公武合体政策が取られたが、一方では尊皇攘夷派など反幕府思想、武力による倒幕運動が存在した。 土佐藩からの建言もあって、第15代将軍徳川慶喜は公議政体論に基づき、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を上奏(翌15日に勅許)、264年間に渡って江戸幕府(徳川将軍家)が保持していた政権を朝廷に返上し討幕の名分を失わせた。ただし、徳川家は天皇の下に一元化された政治の中枢に入り、引き続き実権を掌握する事を想定していた。 朝廷は新たな公議政体を創設するため、徳川...
  • 条約派
    条約派(じょうやくは)とは、大日本帝国海軍内の派閥の一つ。 ロンドン海軍軍縮条約締結により、「条約妥結やむなし」とする条約派(海軍省側)とこれに反対する艦隊派(軍令部側)という対立構造が生まれ、後に統帥権干犯問題に発展した。 具体的には、財部彪、谷口尚真、山梨勝之進、左近司政三、寺島健、堀悌吉、下村正助等をさす。これらの条約派本来の顔触れは、艦隊派の要求に屈した大角岑生によって、条約締結後数年の間に軒並み予備役に編入された。 ただし、鎮守府長官の身で政治的判断の立場にない米内光政や、政治的には微力だが、軍令部との協議で頑強に反抗した井上成美を条約派に含める事もある。定義によっては日独伊三国同盟反対派や対米避戦派など、軍縮会議以降の対立で生じた派閥のメンバーを含める事もある(古賀峯一・長谷川清など)。この様に「条約派」・「艦隊派」の名は広く知られているものの、明確な定義はない。山本五十...
  • 明治維新
    Template 日本の歴史? 明治維新(めいじいしん)とは、江戸幕府による幕藩体制から、明治政府による倒幕運動および天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の戦争(戊辰戦争)・改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。 概要 開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする)。終了時期につ...
  • 不戦条約
    不戦条約(ふせんじょうやく)(「戦争抛棄ニ関スル条約」)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。 概要 1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後、ソビエト連邦など63か国が署名した。フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)(Pact of Paris)あるいはパリ不戦条約と呼ぶこともあり、また最初フランスとアメリカの協議から始まり、多国間協議に広がったことから、アメリカの国務長官フランク・ケロッグと、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアン両名の名にちなんでケロッグ=ブリアン条約(協定)(Kellogg-Briand Pact)とも言う。戦争の拡大を防ぐために締結...
  • 九カ国条約
    九カ国条約(きゅうかこくじょうやく、Nine-Power Treaty)は、1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9カ国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国間で締結された条約。 四カ国条約が、列強による日本牽制の意味が強いことに対し、こちらはアメリカの権威拡大を象徴し、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、中国権益の保護を図ったものである。日本は、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消し、機会均等を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。 これ以後、国際社会は、ワシントン体制と呼ばれる、中国権益の侵害を忌む傾向に向かった。 日本とワシントン体制 ワシントン体制とはワシントン会議で締結された九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条...
  • 下関条約
    下関条約(しものせき じょうやく)とは、1895年4月17日に日清戦争後の講和会議で調印された講和条約の通称。日清講和条約(正字体:日清媾和條約 Template DEFAULTSORT ?にっしんこうわじょうやく)ともいう。会議が開かれた山口県の赤間関市(あかまがせき-し、現在の下関市)の別称である「馬関」「赤間関」は本来は「赤馬関」で、江戸時代の漢学者がこれを漢文風に縮めて「馬関」としたもの。をとって、馬関条約(ばかん じょうやく)と呼ばれた条約調印後に「馬関」が「下関」になっても、「馬関海峡」が「関門海峡」になっても、この「馬関条約」は長らく使われ続けた。「下関条約」という言い換えが完全に定着するのは戦後になってからである。。「下関条約」はこの「馬関条約」の言い換えである。なお中国語では現在でも「馬關條約」という。 == 概説 == 主な内容 清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立...
  • 四カ国条約
    四カ国条約(しかこくじょうやく)とは、1921年のワシントン会議において調印された条約。 アメリカ合衆国・イギリス・フランス・日本が、太平洋における領土と権益の相互尊重と、諸島における非軍事基地化を取り決めた。この条約により日英同盟は解消され、後の日米対立、日英対立の布石となっていく。 外部リンク データベース「世界と日本」 - 太平洋方面に於ける島嶼たる屬地及島嶼たる領地に關する四國條約(四国条約、ワシントン条約) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月3日 (月) 13 27。    
  • @wiki全体から「米朝修好通商条約」で調べる

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