chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「虚偽報道」で検索した結果

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  • 大本営発表
    ... 関連項目 虚偽報道 記者クラブ プロパガンダ 外部リンク 大本營發表 (青森空襲を記録する会より) 太平洋戦争開戦ラジオ放送 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月29日 (木) 12 38。     
  • 百人斬り競争
    百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、日中戦争初期の南京攻略戦時に、日本軍将校2人が日本刀でどちらが早く100人を斬るかを競ったとされる競争である。この模様は、当時の大阪毎日新聞と東京日日新聞において報道されたが、この行為が事実か否か、誰を斬ったのかを巡って論争となり、訴訟問題としても発展している。 概要 この競争の模様は、大阪毎日新聞と1937年11月30日付けと12月13日付けの東京日日新聞(現在の毎日新聞)によって報道された。その報道によると、日本軍が南京へと進撃中の無錫から南京に到る間に、日本軍の向井敏明少尉(歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と野田毅少尉(歩兵第9連隊-第3大隊副官)のどちらが早く100人を斬るか競争を行っていると報じた。 1937年11月30日付けの東京日日新聞記事では、無錫-常州間で向井少尉は56人、野田少尉は25人の中国兵を斬ったと報じ...
  • 万宝山事件
    万宝山事件(まんぽうざんじけん)とは、1931年7月2日に満州内陸に位置する長春の北、三姓堡万宝山の朝鮮人農民を、中国人農民が水利の利害関係より襲撃、さらに日本の警察官とも衝突した事件。この事件を契機に朝鮮半島で中国人排斥の暴動が発生し、多くの死者重軽傷者がでた。 原因と経緯 この事件の経緯については、中国、朝鮮語版とも全く異なる解説をしているので、中立の立場からすべて翻訳し、記述した。確認は詳細を見られたい。中国、朝鮮語版では侵略の口実を作る日本の陰謀であるとしている。 なお、アジア歴史資料センターの資料によれば、中国語版WIKIPEDIAの記述内容は、中国共産党の宣伝パンフレットの内容に一致している。また、朝鮮語版WIKIPEDIAに関しては外部リンク(韓国語)の内容と一致している。 ref name= shibun 参看 亜細亜歴史中心 資料 Ref.B0203017...
  • 田中正明
    田中 正明(たなか まさあき、1911年2月11日 - 2006年1月8日)は評論家。長野県下伊那郡喬木村出身。 松井石根の元私設秘書。南信時事新聞・元編集長、拓殖大学講師。日本アラブ協会常任理事。イオンド大学教授。 南京大虐殺の存在に否定的な立場からの研究で知られる。田中の弟子としては水間政憲が保守系雑誌で、松尾一郎がインターネット上で田中の主張を引き継いで展開している。 『松井石根大将の陣中日記』改竄について 田中は、本書を1985年芙蓉書房から出版し、南京事件幻説を補強する有力証拠だと主張したが、その際、松井日記の記述を日本軍に有利な方向に捻じ曲げる「加筆・修正・削除」を全く読者への断りのないまま行なった。「南京占領後の態度方針を説明するため外人記者団と会見をした」といった原文にない記述を追加した上、注釈として「松井大将が『南京虐殺』に関する質問を受けたという様子が全くみ...
  • 白虹事件
    白虹事件(はっこうじけん)とは、大阪朝日新聞(現朝日新聞)が1918年に起こした筆禍事件。 当時、大阪朝日新聞は大正デモクラシーの先頭にたって言論活動を展開し、特にシベリア出兵や米騒動に関連して寺内正毅内閣を激しく批判していた。1918年8月25日、米騒動問題に関して開かれた関西新聞社通信大会の報道記事の中に「白虹日を貫けり」という一句があったが、これは内乱が起こる兆候を指す故事成語であったため、不穏当だと判断した大阪朝日新聞編集幹部はすぐさま新聞の刷り直しを命じた。しかし、すでに多数の新聞が出回った後だった。後に新聞紙法の「朝憲紊乱」に当たるとして、当局が大阪朝日新聞の発行禁止に持ち込もうとした。当時、激しい批判にさらされていた寺内政権が弾圧の機会を窺っていたと指摘されている。さらに憤激した右翼団員が大阪朝日新聞社に押しかけ、村山龍平社長を街頭に引きずり出して全裸にしたうえ電柱に縛りつ...
  • 朝日新聞
    Template Otheruses? right|thumb|300px|朝日[[新聞販売店・ASA(大阪市鶴見区・あさひやまもと)]] 朝日新聞(あさひしんぶん)は朝日新聞社が編集・発行する新聞の1つ。朝日新聞社のメイン新聞であり、発行部数は近年読売新聞に抜かれ第二位で公称800万部。 沿革 1879年1月 大阪で創刊。 1882年 政府と三井銀行から経営資金援助を受け始める。 1888年7月 東京の「めさまし新聞」を買収し「東京朝日新聞」を創刊、東京進出。 1889年 大阪本社発行の新聞を「大阪朝日新聞」と改題。 1915年 大阪朝日が夕刊の発行を開始。大阪朝日が全国中等学校野球大会(現全国高校野球選手権大会)を開催。 1918年 白虹事件 1935年2月 西部本社で発行開始。 1935年11月 名古屋本社で発行開始。 ...
  • 毎日新聞
    Template Otheruses? Template wakumigi? 毎日新聞(まいにちしんぶん)は、日本の新聞のひとつ。発行部数は公称393万部。 毎日新聞社が発行している。かつては朝日新聞と共に2強に数えられていたが、その後の拡販競争と経営危機で遅れをとり、現在では読売新聞、朝日新聞に大きく水を開けられている。(この2紙と毎日をあわせて三大紙と呼ばれる)。 現在のスローガンは、「論争がある。本当が見える。」 新聞販売店の愛称は「毎日ニュースポート」であるが、近年は余り呼称される機会が少ない。 略史 1872年2月21日 『東京日日新聞』、東京浅草の日報社から創刊。 1875年 『東京日日新聞』、新聞の個別配達実施。 1876年 日報社、『中外物価新報』の印刷発行を三井物産から請け負う。 1882年 『日本立憲政党新聞』創刊。(1885年、『大阪日...
  • 大本営
    大本営(だいほんえい)は、戦時中・事変中に設置された大日本帝国陸軍および海軍の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令(大陸命)、大本営海軍部命令(大海令))として発令する最高司令部としての機能を持つ。 日清戦争と日露戦争で設置され、戦時の終了後に解散した。支那事変(日中戦争)では戦時外でも設置できるよう改められ、そのまま太平洋戦争(大東亜戦争)終戦まで存続した。連合国からはインペリアル・ジェネラル・ヘッドクォーターズ(Imperial General Headquarters)と呼ばれた。 概要 大本営は、陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関として、1893年5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された。日清戦争における大本営は1894年6月5日に設置された。1893年制定の海軍軍令部条例により平時において...
  • 横浜事件
    横浜事件(よこはまじけん)とは、第二次世界大戦中の1942-1945年におきた言論弾圧事件のことである。 1942年、雑誌『改造』に掲載された論文が問題になり、執筆者が治安維持法違反で検挙された。これを発端に編集者、新聞記者ら約60人が神奈川県警察特別高等警察課によって逮捕された。横浜地裁は敗戦から治安維持法廃止までの期間に約30人に有罪判決を下し、4人の獄死者を出した。 戦後、無実を訴える元被告人やその家族・支援者らが再審請求を繰り返し、2005年に再審が開始されることになったが、最終的に罪の有無を判断せず裁判を打ち切る免訴が確定した(後述)。なお、別の遺族が2002年3月に申し立てた第4次再審請求について、2008年10月31日、開始される事が決定した。 経緯 1942年、総合雑誌『改造』(8-9月号)に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が共産主義的でソ連を賛美...
  • 読売新聞
    読売新聞(新聞の題字及び漢字制限前表記は「讀賣新聞」)(よみうりしんぶん)は、株式会社読売新聞東京本社、株式会社読売新聞大阪本社及び株式会社読売新聞西部本社が発行する新聞である。販売部数は1000万部を超え、世界で最も発行部数が多い(かつては旧ソ連共産党機関紙プラウダ)ギネスブックにはHighest Daily Newspaper Circulationで、朝刊と夕刊をあわせて2002年に14,323,781部を発行したと記されている。。英国Times紙と特約契約を交わした。また、親米保守派新聞として知られている。 歴史 1874年(明治7年)11月2日 合名会社「日就社」から「讀賣新聞」創刊 1917年12月1日 商号を「日就社」から「読売新聞社」に改称。 1924年2月25日 経営難から、前警視庁警務部長、後の衆院議員、正力松太郎が買収。 1925年11月15日 「よみうりラ...
  • 1918年米騒動
    Template Otheruseslist? 1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)とは、近世から近代にかけての日本における米価格急騰にともなう暴動事件。 背景 米価の暴騰 thumb|300px|[[堂島米会所における当時の米相場]] 第一次世界大戦の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年の中ごろから急激に上昇しはじめた。大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円-25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した。 この背景には資本主義の急速...
  • 河本大作
    Template Infobox 軍人? 河本 大作(こうもと だいさく、1883年1月24日 - 1953年8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の実行犯として知られる。 出自 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現佐用町)に生まれた。高等小学校、陸軍大阪地方幼年学校、中央幼年学校を経て、明治36年.11に陸軍士官学校(15期)を卒業し、大正3年に陸軍大学校(26期)を卒業した。 張作霖爆殺事件 関東軍高級参謀として勤務していた昭和3年6月4日、北京から満州に帰還する途上にあった張作霖を奉天近郊の南満州鉄道線路上で爆殺した(当時は満州某重大事件と報道された)。当初日本の新聞では蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の仕業であるとも報道されていたが、その後の調査で河本が計画立案をし、現場警備を担当していた独立守備隊の東宮鉄男大尉...
  • 皇国史観
    皇国史観(こうこくしかん)は、日本国と日本人は歴代天皇を中心とした国造りが行われ、現代までに到る伝承と歴史が紡がれ継承されて来たとする歴史観。 第二次世界大戦以前 南北朝時代に南朝の北畠親房が南朝の正統性を示すために著した『神皇正統記』が先駆的なものであり、江戸時代に展開した水戸学や国学でその基礎が作られた。幕末の尊王攘夷運動の過程で強化され、明治維新後には政治体制によって正統な歴史観として確立した。 しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批...
  • 高砂義勇隊
    高砂義勇隊(たかさごぎゆうたい)は大東亜戦争(太平洋戦争)末期、台湾原住民をフィリピンなど、南方の戦場に投入するために創設された部隊。隊員は軍属であり軍人ではないが、戦闘にも参加した。もともと台湾原住民等は狩猟採集を得意としたため、南方戦線にあって高い戦闘力、食料収集能力を発揮し、崩壊寸前の大日本帝国陸軍を助けた。戦後、日本国民では無くなったとの理由から、生存者や遺族は長らく恩給や補償を得られていなかったがTemplate 要出典?、1990年代に戦病死者及び重傷者を対象に一人200万円(台湾ドルで約43万ドル)の弔慰金が支払らわれた。 7度にわたって編成され、合計1,800名が参加した。参加者は全て台湾特別志願兵制度もしくは高砂特別志願兵制度に基づく志願兵であったため、皇民化教育の成果として謳われた。台湾の志願兵制度は同じく大日本帝国統治下の朝鮮に遅れ、昭和17年(1942年)に実施さ...
  • 更新blog-5
    最近更新したblog一覧 その5 更新blog-1 更新blog-2 更新blog-3 更新blog-4 更新blog-6 # 世に倦む日日 # 引っ越ししました。 大晦日に - 朝日の投書 「日中は戦争になるのですか」 仲井真弘多にリコールを - 12/27のNHKの異様な奉祝報道 安倍晋三の靖国参拝と米国の批判 - その政治の分析 安倍晋三と仲井真弘多の茶番会議とNHKの脱力報道 「東アジアの安全保障環境の激変」の言説と防空識別圏 都知事選の提案 - 若いリベラル候補で安倍晋三を倒す リベラルの欺瞞とファシズム - 加藤陽子、長谷部恭男、東大 都知事選でSTOP THE ABE - リベラル統一候補の擁立を 「反日」、「テロリスト」、「スパイ」 - 内務省、憲兵、軍法会議 秘密保護法を招いた通路 - マスコミは政治報道の反省を 秘密保護法の成立 - 闘い...
  • 粛軍演説
    粛軍演説(しゅくぐんえんぜつ)は1936年(昭和11年)5月7日に帝国議会の衆議院で斎藤隆夫が行った演説。 概要 寺内寿一陸軍大臣に対する質問演説。「革新」の実体の曖昧さを突き、広田内閣の国政改革の大要の質問を行った後、軍部革正(粛軍)を軍部に強く要請すると同時に議会軽視の傾きのあった軍部への批判演説である。 この演説は1時間25分に及ぶ長演説となった。 斎藤は、『回顧七十年』で「都下の大新聞はいずれも第一面全部にそれぞれ大文字の標題を掲げ、私の演説中の粛軍に関する速記を満載して、議会未曽有の歴史的大演説であると激賞した」といくつかの報道を紹介している。 ref name= shukugun-kaiko 『回顧七十年』「粛軍に関する質問演説」より。そして 「私は死すとも、この演説は永くわが国の憲政史上に残ると思えば、私は実に政治家としての一大責任を果したる心地がした」と感想を...
  • 南京大虐殺
    南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都 南京市を占領した際、約6週間 - 2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。 中国では南京大屠殺と呼び、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。日本では単に南京虐殺、南京事件とも呼ばれる。南京事件という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火も含めて事件全体を論じる場合によく使われる。 なお、この問題は事実存否や規模などを巡って現在でも議論が続けられている(南京大虐殺論争を参照)。 事件の概要 南京攻略戦 1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地...
  • 風船爆弾
    240px|thumb|[[アッツ島近辺で撃墜される風船爆弾(ガンカメラによるもの)]] 風船爆弾(ふうせんばくだん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)に於いて日本陸軍が用いた兵器である。「ふ号兵器」という秘匿名称で呼ばれていた。効果こそ僅少でほぼ無誘導であったものの、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器となった。 概要 風船爆弾は、和紙で作られた気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカを攻撃しようとする兵器である。神奈川県の陸軍登戸研究所で開発された。満州事変後の昭和8年(1933年)頃から関東軍、陸軍によって研究され、昭和19年(1944年)から実用化した。当初は海軍もゴム引き絹製の気球を用いた対米攻撃を研究していたが、海軍の計画は途中で放棄され、機材と資料は陸軍に引き渡された。海軍式のゴム引き気球も少...
  • 信濃川朝鮮人虐殺事件
    信濃川朝鮮人虐殺事件(しなのがわ ちょうせんじん ぎゃくさつじけん)は、大正11年(1922年)7月に信濃川発電所工事所(「北越の地獄谷」と呼ばれた)で大倉組の朝鮮人労働者数10人が虐殺された事件。 信濃川朝鮮人虐殺事件発生まで 大正11年(1922年)7月、信越電力株式会社は信濃川の支流である中津川にて中津川第一発電所ほか水力発電所の建設を始めた。工事は大倉組が担当した。集められた土工は1,000余人で、そのうち600余人は朝鮮人だった。工事は「タコ部屋労働」と呼ばれる低劣狭隘な共同住居に労働者を拘束する形で、低賃金での人海戦術がとられた。また、大倉組の監督者らは、「勤務態度が怠惰だ」などとして、土工たちに暴力を振るった。 信濃川朝鮮人虐殺事件 同月、逃亡を試みた数10人の朝鮮人労働者たちが、信濃川発電所工事所で、大倉組の監督者らに、射殺されたり、セメント漬けにされて信濃川に...
  • 萬朝報
    萬朝報(よろずちょうほう)は、かつて存在した日本の日刊新聞。紙名は「よろず重宝」のシャレから来ている。 1892年11月1日、都新聞を辞した黒岩涙香の手により、東京で創刊される。発行所名は「朝報社」であり、学術論文にすら見られる「萬朝報社」という誤記は、紙名からくる間違いである。 日本におけるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルについて執拗なまでに追及。「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した。一時淡紅色の用紙を用いたため「赤新聞」とも呼ばれた。また第三面に扇情的な社会記事を取り上げた事で「三面記事」の語を生んだ。 「永世無休」を掲げ、「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」をモットーとし、低価格による販売と黒岩自身による翻案小説の連載(『鉄仮面』『白髪鬼』『幽霊塔』『巌窟王』『噫無情』等々)、家庭欄(百人一首かるたや連珠(五目並べ)を流行らせた)や英...
  • 昭和天皇
    Template 半保護S?Template 基礎情報 天皇? 昭和天皇(しょうわてんのう、1901年(明治34年)4月29日 - 1989年(昭和64年)1月7日)は、日本の第124代天皇。名は裕仁(ひろひと)。印は若竹(わかたけ)。歴代天皇の中で(神話上を除き)在位期間は最も長く、最も長寿であった。 (現在の)今上天皇の実父にあたる。 略歴 thumb|200px|[[香淳皇后とともに。]] thumb|200px|[[1922年、イギリス皇太子エドワード・デイヴィッド(右)訪日時、貞明皇后(中)とともに。]] thumb|200px|[[1928年、即位の礼。]] thumb|200px|[[1946年11月3日、日本国憲法に署名。]] 昭和天皇は、1901年(明治34年)4月29日(22時10分)、大正天皇と皇后・九条節子(貞明皇后)の第一皇子として、東...
  • 通州事件
    通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺を指す。 事件の概要 通州とは、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)の中心都市である。当時ここには、日本の傀儡政権であった冀東防共自治政府が置かれていたが、1937年7月29日、約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民(当時、日本統治下だった朝鮮出身者を含む。)約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。 事件の原因は、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復であるとする説明が一...
  • 桜田門事件
    桜田門事件(さくらだもんじけん)とは、1932年(昭和7年)1月8日に昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件(大逆事件)である。なお犯人(後述)は現在の刑法では廃止されている天皇に対する暗殺未遂の罪である大逆未遂罪に問われ、処刑された。 事件の概要 桜田門は皇居にある門のひとつであり、1860年には井伊直弼が殺害された桜田門外の変の現場でもある。1932年1月8日に昭和天皇が乗車した馬車が桜田門外を進行中に、沿道からの手榴弾が投げつけられた。しかし手榴弾は威力が小さかった上に的を大きく外れ、宮内大臣一木喜徳郎乗車の馬車左後輪付近で炸裂した。結果として近衛兵一人が負傷、馬車を破壊し馬2頭も負傷した。 事件の背景 犯人は、朝鮮半島に対する日本の植民地支配からの解放を目指す金九が首班の「大韓民国臨時政府」(在・中国上海)が組織した抗日武装組織韓人愛国団によって刺客として派遣され...
  • 光州学生事件
    Template 朝鮮の事物? 光州学生事件(こうしゅうがくせいじけん、Template Lang?)、あるいは光州学生独立・光州学生運動は、1929年に朝鮮の光州で起こった学生による民族運動。 1929年10月30日、全羅南道の羅州行きの列車で日本人中学生生徒の福田修三らが朝鮮人女子生徒の朴己玉らをからかい、朴己玉の従兄弟の朴準埰が福田を殴りながら 日本人生徒と朝鮮人生徒の間に決闘が始まった。警察が朴準埰と朝鮮人生徒だけを逮捕したので、生徒の不満が高まった。これが原因となり、11月3日、朝鮮人生徒らは 日本警察や歪曲報道をした光州日報に抗議をしながら朝鮮人学生と日本人学生の衝突が発生し、警察が朝鮮人学生を検挙した。このことが光州高等学校の高校生を激高させ、 検挙者の釈放を求めるとともに日本による植民地政策を批判して示威運動を展開した。その中250人の朝鮮人が逮捕され、朝鮮人生徒...
  • 陸軍悪玉論
    陸軍悪玉論(りくぐんあくだまろん)とは、大日本帝国を崩壊に追いやった一連の責任は、大日本帝国陸軍にあるとする思想である。海軍善玉論と1セットで唱えられることが多い。 概要 陸軍悪玉論は、終戦直後から軍隊を評価するにあたって、日本人のなかでは一種の固定概念となっている。代表的なものとしては、「太平洋戦争の開戦にあたって、開戦を強硬に主張したのは陸軍であり、反対したのは海軍である。」というものがある。 全体的に、「大日本帝国陸軍は世界の情勢に疎く暗愚で、しかも暴走し、頑迷であったため多くの戦略的失敗を繰り返し、敗戦をもたらした。」「それに対して大日本帝国海軍は、世界の情勢に明るく、開明的で、連合国には勝てないという情勢を良く把握していたが、陸軍を説得することが出来ず、不承不承ながら戦争を遂行し、壊滅に追い込まれた。」というものが多い。日本陸軍は二・二六事件を起こし、満州事変から日中戦...
  • 相馬事件
    相馬事件(そうまじけん)とは、明治年間に起こった御家騒動の一つ。精神病患者への処遇や、新興新聞によるセンセーショナルな報道の是非を巡り、世間へ大きな影響を与えた。 経緯 旧中村藩主、相馬誠胤(そうまともたね)の統合失調症(推定)の症状が悪化。 1879年に家族が宮内省に自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁、後に癲狂院(現在の精神病院に相当)へ入院。 1883年、旧藩士の錦織剛清(にしごりたけきよ)が主君の病状に疑いを持ち、家族による不当監禁であるとして家令・志賀直道(志賀直哉の祖父)ら関係者を告発したことから事件が表面化した。 告発を行った錦織に対し、世間からは忠義者として同情が集まった。 当時は精神病の診断も未熟であり、高名な大学教授等による精神病の診断がまちまちの結果となった。正常との判断を下す医師もおり、混乱の度合いが増すこととなった。 1887年、錦織が相馬誠胤が入院し...
  • 更新blog-1
    最近更新したblog一覧 その1 更新blog-2 更新blog-3 更新blog-4 更新blog-5 更新blog-6 # Apes! Not Monkeys! はてな別館 # 主要エントリリスト(「慰安婦問題は朝日の捏造!」説関連) 主要エントリリスト(その他)。 主要エントリリスト(南京事件関連) 主要エントリリスト(日本軍「慰安婦」問題関連) 連絡先 「遺された声〜横井庄一の“戦争”〜」 「8月ジャーナリズム」の残り物 NNNドキュメント'21 10月3日放送回 「国民の歴史」を疑えない「複眼」 21年夏「戦争」関連番組感想 神戸・諏訪山動物園の殺処分 岩波『世界』8月号 「黒い雨」訴訟、高裁でも原告勝訴 日本統治下台湾の捕虜収容所 「帝銀事件と日本の秘密戦」講演会 連載「慰安婦がいた時代」 山田朗さん講演会情報 『歴史評論』21年5月号...
  • 提岩里虐殺事件
    提岩里虐殺事件(ていがんりぎゃくさつじけん、제암리학살사건)は1919年4月15日、日本の植民地統治下の朝鮮京畿道水原郡(現在の華城市)で、三・一独立運動中に起きた事件。30人程の住民が軍隊によって虐殺された事件である。 概要 事件当時の日本の公式文書では、 「憲兵隊が提岩里(チェアムリ)の教会に、小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男達20数名を集めて取調べをしていた。そのとき、その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして襲いかかってきたのを犯人だと即断して殺害してしまった。これをきっかけに教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。兵卒に射撃を命じ、殆ど全部を射殺するに至った。教会もその後近所からの失火により焼失した」とされていた。そのため日本の右派・保守派には、これに従い韓国側の主張を根拠なしと切り捨てる人もあったたとえば杉...
  • 帝人事件
    帝人事件(ていじんじけん)は、昭和初期の疑獄事件。斎藤実内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となり、倒閣を目的にしたでっち上げと言われた。 経緯 帝国人造絹絲株式会社(帝人)は鈴木商店の系列であったが、1927年の恐慌で鈴木商店が倒産すると、帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になった。業績が良好で株価が上がったため、この株をめぐる暗躍が起こっていた。元鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、鳩山一郎や「番町会」という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻した。その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。 1934年1月、時事新報(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事を掲載、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。当時文部大臣の鳩山一郎は議会で関連を追及され「明鏡止水の心境」と述べたところ、辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任。(なお...
  • ポツダム宣言
    thumb|240px|[[降伏文書に調印する梅津美治郎]] ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、ポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、昭和20年(1945年)7月26日に大日本帝国に対し発した第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)の終結に関する13条から成る勧告の宣言。 宣言を発した各国の名をとって「米英支ソ四国共同宣言」(玉音放送の原文では「米英支蘇」)ソ連は8月9日に対日参戦して宣言に参加したともいう。1945年8月10日、大日本帝国はこの宣言の受け入れを駐スイス大使館経由で連合国側へ申し出、またラジオトウキョウを通じてアナウンス。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で昭和天皇(元首であり大元帥また正式には大日本帝国陸海軍大将)の裁可を受けた政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅...
  • 105人事件
    105人事件(105人じけん)とは、1910年8月の日本の韓国併合後まもない時期に「発生」した、「寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件」・「宣川事件」・「朝鮮陰謀事件」ともいう事件である。 1910年9月30日に日本の一地方となった「朝鮮」での統治を行なう機関として設置された朝鮮総督府の筆頭である朝鮮総督に翌日の10月1日に就任した寺内は、朝鮮において憲兵警察制度の実施に象徴される「武断統治」を行なった。寺内は1910年12月、朝鮮北西部の平壌、宣川、新義州などを視察したが、その間に朝鮮人が何度か彼の暗殺を試みたものの、いずれも失敗に終わったという噂が、1911年になって広まった。それをうけて、朝鮮総督府は、同年9月までに約700人の朝鮮人を逮捕し、証拠不十分で釈放された人たち以外の122人への裁判が翌1912年に始まった。そして、朝鮮総督府や朝鮮語紙『毎日申報』、日本語紙『京城日報』、英字紙『...
  • 第二次上海事変
    Template Battlebox? 第二次上海事変(だいにじしゃんはいじへん)とは、1937年(昭和12)8月13日から始まる中華民国軍の上海への攻撃とそれに続く日本軍の反撃である。 盧溝橋事件により始まった華北(北支)での散発的戦闘に続いて、これ以後華中(中支)において中国内陸部に侵攻し、中国全土に日中戦争が波及した。1932年(昭和7)1月28日に起きた上海事変に対してこう呼ぶ。 発生の背景 発生の背景には異見が色々あるので、主だった見解を2つ挙げる。見解1は、中華民国総統の蒋介石の意向を述べた日本軍上海引き付け作戦であり、見解2は、見解1を含む当時の状況を総括した見解である。 【見解1】 この戦闘の背景には、蒋介石の、万里の長城以南の中国に対する統一を守る(蒋介石は現時点では満州における領土回復は後回しと考えていた)ために、日本軍を華北から撤兵に追い込むという戦...
  • 豊島沖海戦
    Template Battlebox? 豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)は、日清戦争の発端となった海戦。豊島沖の戦いとも言う。 概要 1894年(明治27年)7月25日、日本艦隊と清国艦隊が朝鮮半島西岸の豊島沖で戦った海戦。宣戦布告直前に遭遇して起きた。日本艦隊が一方的に勝利した。 2国の艦隊 日本艦隊 日本海軍第1遊撃隊(司令官 坪井航三少将、「吉野」(よしの)「秋津洲」(あきつしま)「浪速」(なにわ))の3艦。 「吉野」は当時世界一の最速艦であった。 清国艦隊 はじめに、防護巡洋艦 「済遠」(さいえん、Tsi yuen)、巡洋艦 「広乙」の2艦。 後に、砲艦「操江」(Caojiang)及び商船「高陞」の2艦。 海戦 1894年7月25日早朝、吉野艦隊は朝鮮の北西岸豊島沖で会合する予定だった通報艦「八重山」と旧式巡洋艦「武蔵」を捜していた。二条...
  • 玉音放送
    thumb|180px|玉音盤(玉音放送で流された、天皇の肉声(玉音)を録音したレコード盤)。[[NHK放送博物館所蔵。]] 玉音放送(ぎょくおんほうそう)とは天皇の肉声(玉音)を放送することをいう。特に1945年(昭和20年)8月15日正午(日本時間)にラジオ放送された、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)の音読放送を指すことが多い(本項ではこのことについて記述する)。この玉音放送は、太平洋戦争(大東亜戦争)における日本の降伏を国民に伝える意味を有した。 概説 1945年(昭和20年)8月14日、御前会議においてポツダム宣言の受諾が決定された。ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(同宣言13条)などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争(大東亜戦争)において日本が降伏することを意味した。御前会議...
  • 幸徳事件
    幸徳事件(こうとくじけん)とは、1910年11月、旧刑法73条(大逆罪、1908年10月より実施、1947年現刑法より削除。「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」)により幸徳秋水ら25名が大審院に付され翌年1月に24名に死刑判決(12名は翌日無期に減刑)が出され12名が処刑された事件。 刑法73条が適用された初めての事件であり、被告とされた人数が多いことから、一般的には固有名を付けず「大逆事件」といわれる。「幸徳事件」の名称は他の「大逆罪適用事件」と区別する場合に用いられ、被告たちの中心人物とされた幸徳秋水の姓による。他に「幸徳秋水事件」の呼称もある。 被告の内、宮下太吉外3人は爆裂弾により明治天皇への攻撃を考えていたが実行計画は中途半端なままで実現に至るには曖昧なものであった。 それは大審院判決理由において「爆裂弾を用い馬...
  • 更新blog-2
    最近更新したblog一覧 その2 更新blog-1 更新blog-3 更新blog-4 更新blog-5 更新blog-6 # 日中戦争スタディーズ  # 更新中止のお知らせ オーラル・ヒストリー研究会・講演のお知らせ 「虐殺」とはなにか 第二次上海事変~南京戦の戦場(再掲) イベント:南京事件70周年・国際シンポジウム 5 item(s) Last-Modified 2010/03/17 16 34 25 # 法華狼の日記  # 『相棒 Season20』第8話 操り人形 弁護士の太田啓子氏が「真空パックAV」を知った経緯は、簡単な調べ物をしたことがあると不思議には思えない テレビ朝日系列のワイドショー番組「モーニングショー」で、旧統一協会系メディアを肯定的に引いていたらしい はてなブログが強制的に非表示された件について注意喚起 『...
  • 戦陣訓
    戦陣訓(せんじんくん)は、1941年1月に当時の陸軍大臣・東條英機が示達した訓令(陸訓一号)で、軍人としてとるべき行動規範を示した文書。現在ではこのなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が軍人・民間人の多量の無駄な討ち死に・自殺の原因となったか否かが議論の中心となっている。(後述参照) 構成 「序」と「本訓」「結」から成っており、「本訓」はさらに「其の一」から「其の三」までに分かれている。 「序」では「軍人勅諭」の具体的な行動の基準を示すとしている。 「本訓(其の一)」はさらに第一「皇国」、第二「皇軍」、第三「皇紀」、第四「団結」、第五「協同」、第六「攻撃精神」、第七「必勝の精神」からなり、第一「皇国」は「大日本は皇国なり。万世一系の天皇……」と始まり、天皇の永遠の「君臨」を宣言している。 「本訓(其の二)」はさらに、第一「敬神」、第二「孝道...
  • 人間宣言
    人間宣言(にんげんせんげん)は、1946年1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書の通称である。当該詔書の後半部には天皇が現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定したと解釈される言及部分があり、狭義にはその部分を表現する名称としても用いられる。 ポツダム宣言受諾による戦争終結(敗戦)から4か月余、まだ大日本帝国憲法の施行下にあり神聖不可侵の現人神・八紘一宇思想等の影響が残っていた日本にあって、占領統治主体のGHQからの要求による(必ずしも自発的ではなかった)ものながら、天皇が詔(みことのり)においてそれら神格等の否定に明確に言及したことは、当時の国民・社会全般に大きな影響を与え、その詔書の当該部分が、後には詔書全体が「人間宣言」と一般に呼称されるようになった。 この詔書には公用文としての「題名」は付されておらず、題名に準ずる「件名」は「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民...
  • 平民社
    平民社(へいみんしゃ)は、1903年11月に、日露戦争を開戦しようとする動きに対して非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したときに、非戦論を訴えつづけていた同紙記者の幸徳秋水と堺利彦(枯川)が、非戦論の主張を貫くために朝報社を退社し、あらたに非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及をおこなうために開業した新聞社。小島龍太郎や加藤時次郎、岩崎革也らが資金援助をおこなった。形態は新聞社であったが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割を担い、事実上、社会主義協会とともに社会主義運動の中心組織であった。 平民社は、週刊『平民新聞』を発行し、同紙は、1903年11月15日発行の第1号から、1905年1月29日発行の第64号まで刊行された。 週刊『平民新聞』第1号(11月15日)には、「平民社同人」の署名のある「宣言」と、堺と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載されている。「...
  • シーメンス事件
    シーメンス事件(シーメンスじけん)は、ドイツのシーメンス社の行った日本海軍高官への贈賄事件のこと。ヴィッカース社への巡洋戦艦「金剛」発注にまつわる贈賄も絡んで、当時の政界を巻き込む一大疑獄事件に発展した。大正3年(1914年)1月に発覚し同年3月には海軍長老の山本権兵衛を首班とする山本内閣が内閣総辞職にまで追い込まれた。 事件の背景 海軍は明治初年以来、イギリス・ドイツなどから艦船や装備品を購入しており、外国の造船会社相互間の競争は激しく、海軍の高級技術将校や監督官などは、その立場上各造船会社や軍需品を取り扱う企業の日本代理店との交渉や手数料をめぐって問題を起こしやすかった。 明治末期から大正初期にかけては、藩閥・軍閥に対する批判が高まった時期であり、軍の経理問題にも一般の関心が寄せられた。前年の大正2年(1913年)には、大正政変・第1次護憲運動で長州閥・陸軍に攻撃の矢が向けら...
  • ハーグ陸戦条約
    ハーグ陸戦条約(ハーグりくせんじょうやく)とは、1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(英 Convention respecting the Laws and Customs of War on Land, 仏 Convention concernant les lois et coutumes de la guerre sur terre)」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。1907年第2回万国平和会議で改定され今日に至る。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規、陸戦条規とも言われる。 交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されている。現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多いが、最も根源的な戦時国際法...
  • 甘粕事件
    甘粕事件(あまかすじけん)は、関東大震災の直後の1923年9月16日、アナキストの大杉栄・伊藤野枝とその甥の計3名が憲兵隊に強制連行・殺害された事件。主犯は憲兵大尉・甘粕正彦らとされる。大杉事件ともいう。 事件発生 関東大震災後、東京や神奈川が混乱に陥り戒厳令が発せられていたさなか、大杉栄は内縁の妻伊藤野枝と、神奈川県橘樹郡鶴見町(現在の横浜市鶴見区)に住む大杉の妹あやめを見舞い、その息子の橘宗一(6歳)をつれて東京に戻る途中、行方不明になった。 彼らが憲兵隊に連れ去られたといううわさが広まり、9月20日、時事新報や読売新聞などにより大杉ら3人の殺害が報じられた。日本を騒がせるアナキストであり恋愛スキャンダル(日蔭茶屋事件)でも世間に有名になった大杉・伊藤の二人に加え、6歳の小児までも殺されたとあって世間は騒然となった。 軍と対立する警視庁は捜査を要求。また、殺された大杉の甥・橘宗...
  • 特別高等警察
    特別高等警察(とくべつこうとうけいさつ)は、大日本帝国憲法下の日本で、反体制的な言論・思想・宗教・社会運動を弾圧した秘密警察である。当初は共産主義者・共産党員を対象にしていたが、次第に弾圧の対象を拡大して、第二次世界大戦中には自由主義など一切の反政府運動やそれらの思想も弾圧し、憲兵とともに国民から恐れられた。 一般には、略称の特高警察(とっこうけいさつ)や特高(とっこう)の名で呼ばれる。なお、「特別」と追加されたのは、国体の護持は特別に重要であったから、とされている。 歴史 thumb|right|300px|[[警視庁 (内務省)|警視庁特別高等警察部検閲課による検閲の様子(1938年(昭和13年))]] 無政府主義者による天皇暗殺計画とされた大逆事件(幸徳事件)を受け、1911年、警視庁に、従来あった政治運動対象の高等警察から分かれて、社会運動対象の特別高等警察課が設置...
  • 京都学連事件
    京都学連事件(きょうとがくれんじけん)は1925年(大正14年)12月以降、京都帝国大学などでの左翼学生運動に対して行われた弾圧事件。日本内地では最初の治安維持法適用事件として知られる。 経緯 背景 1910年代前半より、各大学・高校・専門学校などでは社会科学研究会(社研)が組織され、1924年9月には49校の社研が参加する学生社会科学連合会(学連)が発足した。学連はまたたくまに会員1600名を擁する大組織に成長し、マルクス主義の普及・研究を標榜するとともに労働争議や労働者教育運動(京都労働学校など)への支援を積極的に行い、1925年7月には第2回全国大会を京都帝大で開催、代議員80名が参加した。 弾圧 1925年12月、京都府警察部特高課は、全市の警察署高等係を動員して京都帝大・同志社大などの社研会員の自宅・下宿などを急襲、家宅捜索および学生33名を検束した。しかし京...
  • 震災手形
    震災手形(しんさいてがた)は、関東大震災のため支払いができなくなった手形のこと。往時の報道では震手と略称された。特別に震災手形と呼ばれるものが出回ったのではなく、一般に流通する手形のうち、被災地に関わるもののみが緊急勅令によるモラトリアムや法令により日本銀行が再割引することで補償の対象となり、こう呼ばれる。再割引の際にはスタンプを捺して識別した。但し、混乱に乗じて、折からの不況で不良債権となったものも大量に紛れ込んだ。 起因 1923年9月1日に起こった関東大震災は当時の日本銀行の推計で45.7億円の損害が出た。当時の国家予算が15億円であった事を見ても、甚大な被害であることが判る。このため被害を受けた企業が支払いが出来なくなる事態を想定して、9月7日緊急勅令によるモラトリアムが出され、9月中に支払期限を迎える金融債権のうち被災地域の企業・住民が債務者となっているものについては支払期限...
  • 満州事変
    Template Battlebox? 満州事変(満洲事変、まんしゅうじへん、Manchurian Incident)は、1931年(昭和6年)9月18日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(大日本帝国陸軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)。関東軍はわずか5ヶ月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。中国側の呼称は九一八事変現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。。 この軍事衝突を境に、中華民国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。日本では軍部が発言力を強めて日中戦争(1937...
  • ひかりごけ事件
    ひかりごけ事件(ひかりごけじけん)は、1944年5月に、現在の北海道目梨郡羅臼町で発覚した死体損壊事件である。日本陸軍の徴用船が難破し、真冬の知床岬に食料もない極限状態に置かれた船長が、仲間の船員の遺体を食べて生き延びたという事件である。 食人が公に明らかになった事件は歴史上たびたびみられるが、ひかりごけ事件はそれにより刑を科せられた初めての事件だとされている。一般には「唯一裁判で裁かれた食人事件」と言われるが、日本の刑法には食人に関する規定が無いため、死体損壊事件として処理された。 この名称は、この事件を題材とした武田泰淳の小説『ひかりごけ』に由来する。なお、武田は食人を行った徴用船の船長と接触したことはなく、『ひかりごけ』はあくまでもこの事件をモチーフとした作品である。 経緯 太平洋戦争中の1943年12月、日本陸軍の徴用船が7人の乗組員を乗せて船体の修理のため小樽市へ向かう途...
  • 日比谷焼打事件
    日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)は、日露戦争後の賠償に対する不満から、1905年9月5日、東京日比谷公園の集会をきっかけに起こった暴動のこと。 概要 1905年のポーツマス条約によってロシアは樺太全島および遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、同条約では戦勝国であるはずの日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかった為、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。そのため、世論の非難(日本内部)が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令も敷かれた。 原因 1905年、日露戦争は東郷平八郎率いる日本海軍がロシア海軍のバルチック艦隊を撃破したことを契機に、...
  • 更新blog-3
    最近更新したblog一覧 その3 更新blog-1 更新blog-2 更新blog-4 更新blog-5 更新blog-6 # 模型とキャラ弁の日記 # 「そんな格好をしている方が悪い」で女を殴っていることを透明化すべきではない 小選挙区制は自民党が自民党を有利にするためにルールを変えた制度、という件について 「主戦場」への反発は否定論者"に対しての"説明や説得は無意味であることを示している マイナス金利による銀行の経営難についてこれが妙案と本当に思うのかお尋ねしたい [愚行録][BBPS4]ZR-ゲヴァルトが欲しくてたまらない?落ちつくんだ。期待値を計算して落ちつくんだ。 コンビニの成人向け雑誌の自主規制基準は条例に準拠している 10連試行回数による装備単体引き当て確率を計算してみた。 追加で16200円課金してしまった件と人気武器ピ...
  • 太平洋戦争の年表
    thumb|開戦時の日本首相[[東條英機]] 太平洋戦争の年表(たいへいようせんそうのねんぴょう)では、3年8ヶ月に及ぶ日本、満洲国、タイ王国とアメリカ合衆国、イギリス、オランダ、ソビエト連邦ら連合国の戦争の経過を示す。中華民国との間の戦争は日中戦争を参照のこと。 開戦までの経緯(簡略) 1937年(昭和12年)7月7日に始まった日中戦争(支那事変)によって、日本の満州事変以来の軍国主義的膨張を警戒する英米仏と日中戦争の長期化は欧米の対中軍事支援によるとする日本の関係は急速に悪化、アメリカ合衆国が航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限するなど、日本の締め上げが図られた。それでも中国から撤退しない日本は、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦を繰り広げるドイツ・イタリアと1940年に日独伊三国軍事同盟を締結し、仏領インドシナへ進駐し事態を打開しようとするが、アメリカは石油輸出全面禁止など...
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