chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「裁判」で検索した結果

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  • 領事裁判権
    領事裁判権(りょうじさいばんけん)とは、不平等条約によって定められた治外法権のひとつで、在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国法に則り裁判する権利を言う。 日本では1858年に締結された日米修好通商条約に 第6條  日本人に對し法を犯せる亞墨利加(アメリカ)人は、亞墨利加コンシュル裁斷所(領事裁判所)にて吟味の上、亞墨利加の法度(法律)を以て罰すへし。亞墨利加人に對し法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を以て罰すへし。 とあり、その後安政年間にイギリス、フランス、オランダ、ロシアと締結した安政五カ国条約にすべて領事裁判権の定めがある。 領事は本来、外交官であって裁判官ではないから、領事裁判ではしばしば本国人に極めて有利な判決が下された。治外法権撤廃は明治政府の外交にとって大きな課題となり、1911年までに完全に撤廃された。 治外法権による領事裁判権は、15世紀...
  • ニュルンベルク裁判
    ...px|ニュルンベルグ裁判での被告席にて(前列奥から[[ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘス、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヴィルヘルム・カイテル)]] ニュルンベルク裁判とは、第二次世界大戦においてドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日~1946年10月1日)。最初で主な裁判(Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal(IMT))と、それに続く12の裁判(Nuremberg Military Tribunals(NMT))で構成。  概要 この裁判はナチス党の党大会が開催されていた因縁の街・ニュルンベルクで行われた。日本の東京裁判と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。 この軍事法廷は「勝者の連合国によって敗者のドイツを裁...
  • 極東国際軍事裁判
    極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)は東京裁判(とうきょうさいばん)ともいい、第2次世界大戦で日本が降伏した後、連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた裁判である。 概要 1946年(昭和21年)1月19日に降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、1946年(昭和21年)4月26日の一部改正の後、裁判が行われた。起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われ、27億円の裁判費用は、日本政府が支出した。 連合国(戦勝国)からの判事としては、アメリカ、英国、ソ連、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、フィリピンの11ヶ国が...
  • BC級戦犯
    ...て布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた一般の兵士ら。 A級と同様に、B、Cは罪の重さのことではない。 日本のBC級戦犯は、連合国軍総司令部(GHQ)により横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれ、のちに減刑された人も含め約1000人が死刑判決を受けたとされる。なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)においてもA項目の訴追事由では無罪になったが、B項、C項の訴追理由で有罪になった人があった。 由来 ナチス・ドイツのポーランド侵攻以降、ナチス・ドイツによる残虐行為に関して各国政府やその代表などから非難の声があがっていた。この声はその後、ロンドン-セント・ジェームズ宮殿における宣言において責任者の裁判による処罰の言及に発展し、1943年10月の...
  • 便衣兵
    ...外に処刑する場合は、裁判で証明する必要があるが裁判記録がなく、裁判を行っていない。(戦犯裁判で、弁護側は裁判を行ったはずと主張したが、記録は提出されなかった。 日本軍の記録に、不意をつかれて被害がでたという記録があるが、単に不意をつかれただけのことで夜襲と同じで違反行為でない。    
  • 治外法権
    ...等条約にもとづく領事裁判権である。多くの場合は接受国の認証なく、単に戦勝国の国民・あるいは兵士であるという地位において治外法権を享受することが可能となるため、外交交渉においてこれらを撤廃することは重要な外交課題となる。 日本では、安政5年6月19日(グレゴリオ暦1858年7月29日)にアメリカ合衆国の間で結ばれた日米修好通商条約をかわきりとし7月にイギリス・オランダ・ロシアと、9月にフランスと相次ぎ締結した条約(安政五ヶ国条約)に治外法権の問題が含まれていた。この不平等条約は、明治27年(1894年)7月16日に結ばれた日英通商航海条約により初めて撤廃され、ついで日本が日清戦争において清に勝利した後で、明治32年(1899年)7月17日に日米通商航海条約(昭和15年(1940年)1月26日失効)が発効されたことにより失効した。 在日米軍 在日米軍については、政府解釈第34回...
  • 日本の戦争犯罪
    ...された事と各地の軍事裁判で判決を受け入れたことで償われており、国際法上、既に決着している。 日本の戦争犯罪観 極東国際軍事裁判で裁かれた被告は、条例の第1条に「重大戦争犯罪人」と記されているが、国内では専らA級戦犯と呼称されているが日本国内法上A級戦犯という犯罪者は存在しない。それは条例a項目により裁かれたという意味合であるが、日本においては戦争を行ってしまった事が戦争責任として主に左派勢力から指摘追求される場合が多く、戦争を引き起こした人物達の「平和に対する罪」がもっとも重視されており、等級的上位を連想させるA級が定着したと誤解している人間も少なからず存在する。 日本が降伏するにあたって受諾したポツダム宣言には「戦争犯罪人」の処罰が規定されていた。アメリカ合衆国占領軍は日本占領直後から、戦争犯罪人には、捕虜を虐待したといった通常の戦争法規違反者と、戦争を国家の政策の手段...
  • ノルマントン号事件
    ...足な解決が得られず、裁判では、「船員は救命ボートに移るように説明したが、日本人乗客は船内に籠もって出ようとしなかった(ノルマントン号は貨物船なので、日本語が話せる乗客向けのスタッフはいない)ので、やむなくそのままにした」旨を証言したJ.W.ドレーク船長らイギリス人全員が無罪となった。その後、国民の反発に押された日本政府の抗議により、再審理がなされ、船長のみに禁錮3ヶ月の刑が言い渡された。 当時の日本では、外国人に対する治外法権があり、日本側で裁判を行うことができなかった(領事裁判権)。この事件以降、不平等条約撤廃の動きが高まった。領事裁判の不当さを日本人に痛感させた事件として歴史に残るものになった。 ノルマントン号沈没の歌 事件後、「ノルマントン号沈没の歌」という曲が作られ、当初は36節の歌詞であったが、解決後補足され59節に及んだ。 歌は「抜刀隊」の旋律を借りて唄われた...
  • ラダ・ビノード・パール
    ...は、インドの法学者、裁判官。日本では主に、極東国際軍事裁判(東京裁判)において判事を務め、同裁判の11人の判事の中で唯一、被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)の作成者として知られている。教科書や文献、新聞などでは、『パル』表記も多い。 経歴 1886年にインド・ベンガル州ノディア県クシュティヤ郡カンコレホド村に生まれる。 1907年プレジデンシーカレッジ(カルカッタ)において理学士試験に合格、数学賞を受賞。翌年カルカッタ大学にて理学修士取得。 1910年にインド連合州会計院書記生として就職。 1911年にカルカッタ大学理学部、法学部を卒業し、1920年に法学修士試験に最優等にて合格、翌年弁護士として登録。 1924年にカルカッタ大学にて法学博士号 (LLD) を取得(論文は「マヌ法典前のヴェーダおよび後期ヴェーダにおけるヒンドゥー法哲学...
  • 大川周明
    ...ではない。 東京裁判 太平洋戦争終戦後、A級戦犯として起訴される。東京裁判に出廷した被告の中で唯一の民間人だった。 大川は水色のパジャマを着、素足に下駄を履いて東京裁判に出廷した。休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がする程はたいたり(軍人は坊主頭)、「インダー、コメンジー!(「Inder kommen Sie! 独訳 インド人よ来たれ!」、アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア、コメディ!(「It s a comedy! 英訳 これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ、シンク」と奇声を発するなど、常識を逸した行動をとり、法廷は爆笑の渦に巻き込まれた。 翌日の法廷で、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、1947年4月9日に、大川を正式に裁判から除外した(...
  • ジョン・マギー
    ... 極東国際軍事裁判での証言 極東国際軍事裁判(東京裁判、1946年 - 1948年)では南京大虐殺の証人として証言台に立ち、日本軍による殺人、強姦、略奪事件について、被害者からの直接聴取、自ら行った被害調査などを基礎に膨大な証言を行った。例えばその中の夏淑琴事件の場合、マギーは現場で死体を確認し、関係者から事情聴取を行った上で証言を行っている。「マギー牧師の解説書」参照=『ドイツ外交官の見た南京事件』資料51 これに対してブルックス弁護人は「不法行為若しくは殺人行為と云ふものの現行犯を、あなた御自身幾ら位御覧になりましたか」との反対尋問を行い、マギーは「唯僅か一人の事件だけは自分で目撃致しました」と回答し、誰何されて逃げ出した人物を、竹垣があって行詰りになっていたところに歩哨が追い詰めて、顔に向けて発砲して射殺した件のみ自身が目撃したと認めた。 上記の目撃証言について、渡...
  • 大審院
    ...代初期から現在の最高裁判所が設置されるまで存続した日本における最高の司法裁判所である。 概要 フランスの破棄院をモデルとして設置され、主として民事・刑事の終審として、特別裁判所(大日本帝国憲法60条。皇室裁判所・軍法会議など。)及び行政裁判所(同憲法61条)の管轄に属しない事項について、裁判を行った。現在の最高裁判所に相当し、大審院長は最高裁判所長官に相当する。 大審院は、終審として上告及び控訴院等がした決定・命令に関する抗告を受け、また、第一審かつ終審として刑法の皇室に対する罪(不敬罪など。昭和22年削除。)、内乱に関する罪、皇族の犯した罪にして禁錮以上の刑に処すべきものの予審及び裁判を行うものとされた(裁判所構成法50条)。 大審院の重要な判例は、1921年(大正10年)までのものについては『大審院判決録』(民録・刑録)に、1922年(大正11年)以後のものは『大審院...
  • 谷寿夫
    ...)の責任を問われ南京裁判において処刑された。 経歴 岡山中学校、東京府立四中を経て、陸軍士官学校卒(15期)、陸軍大学校卒(24期 恩賜)。 陸軍士官学校卒業後、日露戦争に従軍し、イギリス駐在武官(1915年 - 1918年)中、第一次世界大戦にも従軍する。その後、陸軍大学校の教官(兵学)に任命される。その時、兵学の教科書として、日露戦争を研究する時の必読書として知られる、『機密日露戦史』をあらわす。 1935年、第6師団長(熊本)に親補される。1937年12月、中支那方面軍(松井石根司令官)の隷下として第6師団も南京攻略戦に参軍する。このとき、所謂、南京大虐殺がおきたとされる。南京攻略戦の成功により、中部防衛司令官に任命された。 1939年、予備役となる。戦後、南京大虐殺の責任を問われ、中国側に身柄を引き渡され、南京裁判にかけられ処刑される。裁判において谷は、申弁書で、掃...
  • 松井石根
    ...問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(BC級戦犯松井は東京裁判でA級戦犯容疑で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、訴因第55項で有罪となったため、実際にはBC級戦犯である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという認識が浸透している。)を受け、処刑された。現在は靖国神社に合祀されている。 生涯 出自 愛知県出身。旧尾張藩士松井武国、ひさの六男として生まれた。成城学校から陸軍士官学校(9期次席)、陸軍大学校(18期首席)を卒業。陸大在学中に日露戦争に従軍した。 中国に駐在中は孫文の大亜細亜主義に強く共鳴し、孫文の革命を支援。中...
  • A級戦犯
    ...基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項により定義された戦争犯罪人で、極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪判決を受けた者をさす。起訴された者を含む場合もある。 逮捕までの経緯 1945年7月26日、ポツダム会談での合意に基づいて米英中により、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言(ポツダム宣言)が行われた。第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。 同年8月8日、米英仏ソが「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここで「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という新しい戦争犯罪の概念が登場。 同年8月10日、日本がポツダム宣言を受諾。15日、終戦。 同年8月29日、アメリカ政府は連合国軍最高司令官ダグラス・マ...
  • 田中隆吉
    ...職にありながら、東京裁判において検事側の証人として被告に不利な証言もした。 田中は日本軍の数々の謀略に直接関与しており、日本軍の闇の部分に通じた人物であった。また、驚異的な記憶力の持ち主で、これらが東京裁判において発揮された。 略歴 1893年(明治26年) - 島根県安来市の商家に生まれる。島根県立松江中学校へ進む。 1907年(明治40年) - 陸軍広島地方幼年学校入学。 1910年(明治43年) - 陸軍中央幼年学校入学。 1913年(大正2年)3月 - 陸軍士官学校砲兵科卒業(26期)。野砲兵第23連隊(岡山)に赴任。 1914年(大正3年) - 陸軍砲兵少尉任官。 1917年(大正6年) - 陸軍砲工学校卒業。 1918年(大正7年) - 陸軍中尉任官。結婚。野砲兵第26連隊(朝鮮)に赴任。 1919年(大正8年) - 陸軍大学校入学...
  • 田中正明
    ...を無罪としたのは、「裁判の在り方自体に有効性がないため『有罪』という概念そのものが成立しない」との博士自身の主張に沿ってこれを全ての被告に対し一律に適用したものであり、各事件の事実関係の認定とは直接の関係がない。 主著 パール判事の日本無罪論 アジアの曙 南京虐殺の虚構 松井石根大将の陣中日記 南京事件の総括 アジア独立への道 関連項目 歴史修正主義 自虐史観 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007年10月26日 (金) 06 16。 考察 松井大将の弁護のために、資料の捏造や改竄を繰り返した人物。動機は理解できるが、信用できる人物でない。 パール判事を「唯一の国際法の専門家」と(意図的かどうかは不明だが)間違って評したため、それを無批判に信じるバカが多い。パール判事が国際法に詳しか...
  • 木村兵太郎
    ...て逮捕、極東国際軍事裁判にて死刑の判決を受け、絞首刑に処された。 略歴 生い立ち・前歴 埼玉県出身。広島一中、広島陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校卒。 昭和15年(1940年)、関東軍参謀長。昭和16年(1941年)4月から同18年(1943年)3月まで陸軍次官。昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。 ビルマからの撤退 Template see also? 昭和20年(1945年)、イギリス軍のビルマ侵攻が開始され、ビルマの防衛は危機に瀕していた。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、恐怖で手が震え、何も話すことができなくなるほど動揺し、作戦指導はほぼ不可能な状態に陥っていた。 4月13日、ラングーン北西部の防衛戦を指揮していた第28軍司令官桜井省三中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速でいつラングーンが戦場になるかもわからない。ラングーンが...
  • 川俣事件
    ...事実に関しては、後の裁判での証言などがまったくかみ合わない。警官と農民の証言がかみ合わないのは当然だが、農民同士の証言も全くかみあっていないため、事実関係の詳細は不明である。裁判も、起訴無効という形で決着したため、事実関係については決着がついていない。多くの研究者は、農民の証言がより正確だと考えているが、それでも説明のつかない部分が多い。 1900年2月、農民らはひそかに会合を開き、次回の押出しの段取りを決めた。前回説得する側に回った田中も、今度は説得することはなく、押出し決行日に合わせて国会で質問することにした。警察に知られるのを防ぐため、決行日は極秘とされ、準備する物だけが農民から農民に口伝で伝えられた。しかし実際は、集会などに警察が探りをいれており、決行日以外の詳細は警察側も知っていた。 2月12日午後11時ごろ、雲龍寺の鐘が途切れることなく連続して打ち鳴らされた。これを合...
  • 荒木貞夫
    ...55年、仮釈放。東京裁判ではのらりくらりとしながらもその堂々とした態度が、他の被告人らを奮い立たせたともいわれている。非常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウェッブ裁判長から注意された。判決時にはモーニング姿で被告席に現れた。しかし、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な言動をとるようになるなど、その思考には多少短絡的な部分もあったようだ。 皇道派のシンボル 昭和初期の陸軍首脳は、「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、1929年(昭和4年)当時、第1師団長であった真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやったときに、荒木も左遷される運命にあった。 しかし、教育総監の武藤信義が「せめて荒木は助けてやってくれ」と詫びを入れる形で、荒木は第6師団長から教育総監部本部長に栄転し東京に残った。武藤はどちら...
  • 巣鴨拘置所
    ...収され、極東国際軍事裁判の被告人とされた戦争犯罪人が収容され、同裁判の判決後、東條英機ら7名の戦犯の死刑が執行されたことでも知られる。 来歴 1895年 警視庁監獄巣鴨支署が設置される。 1897年 巣鴨監獄と改称される。 1922年 巣鴨刑務所と改称される。 1937年 刑務所としての機能を府中刑務所に移管し、その後「巣鴨拘置所」と改称される。 1945年11月 GHQに接収される。「スガモプリズン」と呼ばれる。 1958年5月 GHQから返還される。東京拘置所と改称される。 1958年5月30日 米関係戦犯18名釈放され、全員釈放となる。 1970年 東京拘置所が葛飾区小菅に移転され、小菅拘置所が東京拘置所と改称される。 1971年 建物が解体される。 1978年4月6日 拘置所跡地にサンシャインシティ開業。 関連項目 私は貝にな...
  • 五・一五事件
    ...、元海軍中尉三上卓は裁判証言で次のように語っている。 Template quotation? 一方、儒学に博識でもあった犬養自身は、一般国民の教養・討議能力にはあまり信を置いていなかったともされている。 裁判 海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締規則・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。 当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われる。二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校...
  • 枢密院
    ...法委員会傘下の自治領裁判所・植民地裁判所・領事裁判所および教会裁判所の有する海外領土からの上訴や宗教裁判など限定的なものである。司法委員会は、英国の最高裁判所である貴族院上訴委員会とともに英国の司法府を構成する。 枢密院議長は通常、内閣の閣僚の一員として、下院あるいは上院の院内総務の任務を果たす。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月9日 (火) 15 56。     
  • 横浜事件
    ...に罪の有無を判断せず裁判を打ち切る免訴が確定した(後述)。なお、別の遺族が2002年3月に申し立てた第4次再審請求について、2008年10月31日、開始される事が決定した。 経緯 1942年、総合雑誌『改造』(8-9月号)に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が共産主義的でソ連を賛美し「政府のアジア政策を批判するもの」などとして問題となり、『改造』は発売頒布禁止処分にされた。そして9月14日に著者が新聞紙法違反の容疑で逮捕された。 捜査中に、同著者と『改造』や『中央公論』の編集者などが同席した集合写真が同著者の郷里・富山県泊町(現・下新川郡朝日町沼保)の料亭旅館「紋左」(もんざ)で見つかり、日本共産党再結成の謀議をおこなっていたとされた(「泊事件」)。実際は同著者が1942年7月5日、出版記念で宴会を催した際の写真であったとされている[1]。1943年に改造社と中...
  • 木戸幸一
    ... 極東国際軍事裁判(東京裁判)では昭和天皇の戦争責任などに関して、自らのいわゆる『木戸日記』などを証拠として提示した。日本語で372枚にも及ぶ宣誓供述書で「隠すところなく、恐るるところなく」、いかに自分が軍国主義者と戦い、政治的には非力であったかを述べ、当時の政府や軍部の内情を暴露して天皇免訴に動いた。その一方で、『木戸日記』は軍人の被告らに対しては不利に働くことが多かったため、武藤章や佐藤賢了は木戸のことを指差しながら同乗の笹川良一に向かって「こんな嘘吐き野郎はいないよ。我々軍人が悪く言われる事は、別に腹はたたんが、『戦時中、国民の戦意を破砕する事に努力してきました』とは、なんという事をいう奴だ」と吐き捨てている。その木戸も終身禁固刑の判決を受け服役する。 1955年に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退する。のち青山のマンションに転居。1969年、傘寿の際には、天皇から...
  • 九州大学生体解剖事件
    ...た。西部軍司令部は、裁判なしで12名の搭乗員の内、8名を死刑処分とすることにした。それを知った九州帝大卒で病院詰の小森見習士官は、岩山福太郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖に供することを軍に提案した。これを軍が認めたため、8名は九州帝国大学へ引き渡された。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュー」と言って医師に感謝したという。 生体解剖は1945年5月17日から6月2日にかけて行われた。指揮及び執刀は岩山主任外科部長であった。 軍人5名が肝臓を試食したとする容疑については、GHQ捜査官による全くのでっち上げで、当時においても死刑求刑後11日目に被疑者全員がGHQによって無罪放免にされている上坂(1982)、147頁。。 なお、戦後、戦争犯罪として裁かれた裁判では複数の被告人に死刑判決が下されたが、獄中自殺した1名を除き減刑された。た...
  • 板垣征四郎
    ...た。 敗戦後、東京裁判にて死刑判決を受ける。現在は靖国神社に合祀されている。 元参議院議員の板垣正は次男。 生涯 出自 岩手県盛岡市出身。盛岡中学、仙台の陸軍幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。 父板垣政徳は旧盛岡藩士族苗字は板垣だが板垣退助(土佐藩出身)と血縁関係はない。で、江刺郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。 満洲時代 昭和4年(1929年)に関東軍の高級参謀になった。昭和6年(1931年)、石原莞爾らと謀り、満州事変を実行した。現在、柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。昭和7年(1932年)、建国した満州国の執政顧問となる。次いで満州国軍政部最高顧問(1934年8月~12月)、関東軍参謀副長兼駐満大使館付武官(1934年12月~1936年3月)、関東軍参謀長(...
  • 土肥原賢二
    ...で暗躍。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。 生涯 出自 岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させるが、このとき諸外国にその事実が露顕した際には、溥儀もろともその乗船を沈没させる予定だったとも言われる。 その後、華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結。この結果河北省...
  • 南京大虐殺論争
    ...南京大虐殺」は、東京裁判において日本と世界に大きな衝撃を与えたが、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった。専門的な研究は洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社 1967年)、五島広作(毎日新聞記者)と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 1966年)がある程度であった。この『南京作戦の真相』は、南京事件の存在自体を疑う否定論としては最も早く単行本として出版されたものであったが、当時この本が注目されることはなかった。 1971年から1982年まで 再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事であったが、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報...
  • 高砂義勇隊
    ...高砂義勇隊に関連した裁判 戦後、未払いの軍事郵便貯金の払い戻し(確定債務問題)、戦死者の靖国神社への合祀などを巡って生存者や遺族の一部は裁判等で係争を続けていたが、2005年9月30日の大阪高裁の判決で敗訴が確定した。この裁判に反対する生存者や遺族も居り、数百名の反対署名を裁判所に提出し、また靖国神社への参拝などを希望し、継続している。靖国神社が「いったん合祀した英霊を分割する事は出来ない」と主張するなか、台湾団結連盟靖国神社参拝事件に反発して‎2005年6月14日には台湾の立法委員(国会議員)高金素梅(チワスアリ)ら60人の台湾原住民が靖国神社を訪れた。これは戦没した義勇兵の霊を取り戻す儀式「還我祖霊」を行う為であったが、事前に台湾団結連盟をはじめとする台湾政治団体、西村修平を中心とした日本の保守系政治団体による抗議があったことや、高金素梅宛に脅迫状が届いた事を理由に騒乱を懸念した...
  • 日露修好通商条約
    ...好通商条約では、領事裁判権に加えて最恵国条項が双務的となっている。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって総て無効になった。 関連項目 日露関係史 ロシアの歴史 条約 条約の一覧 日露和親条約 日米修好通商条約 日露間樺太島仮規則 樺太・千島交換条約 ポーツマス条約   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月13日 (木) 18 56。     
  • 日本共産党査問リンチ事件
    ...にかけられたものだと裁判では認定された ref name=yasuhara510130 昭和51年01月30日、衆議院予算委員会、安原美穂政府委員答弁。発生当時当時は「赤色リンチ事件」とも呼ばれた。なお、共産党側はリンチの存在を否定している。(後述) 事件の概要 1933年、当時日本共産党中央常任委員であった宮本顕治、袴田里見らが、当時の党中央委員大泉兼蔵と小畑達夫にスパイ容疑があるとして査問処分を行うことを決定し、12月23日、二人を渋谷区内のアジトに誘い出した。 宮本らは針金等で手足を縛り、目隠しとさるぐつわをした上に押し入れ内に監禁した。秋笹正之輔、逸見重雄らが二人に対して暴行を行ったため、小畑は24日、外傷性ショックにより死亡した。小畑の死体は床下に埋められた。 以上の概要が、当時の裁判で認定された結果である。 ref name=yasuhara510130 / ...
  • 百人斬り競争
    ...ている。 戦犯裁判 戦後、向井・野田両少尉は、東京日日新聞の報道などを基に南京軍事法廷において起訴され、死刑判決を受け、1948年1月28日に南京郊外で処刑された。 論争 その後この事件は忘れられていたが、1971年に本多勝一が書いたルポルタージュ『中国の旅』(朝日新聞連載、のちに単行本化された)でこの事件とその報道が取り上げられた。これに対し、イザヤ・ベンダサン(山本七平とされる)が百人斬り競争は「伝説」だとし、これに対し本多が反論した。その後、鈴木明が議論に加わった。更に、山本七平は『中国の旅』批判の一部として“100人を斬り殺すなど不可能”として議論した。これらの議論に対して洞富雄が批判を行った。 それ以来、南京大虐殺について虐殺「あった」派から「百人斬り競争」が言及され、大虐殺「なかった」派は『肯定論の非論理性』を指摘するという構図となっている。そもそも南京...
  • 梅津美治郎
    ...言の将軍」。 東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。Template 和暦?に靖国神社に合祀される。 経歴 大分県中津市出身。中学済々黌出身。関東軍総司令官、参謀総長などを務める。 誕生日は軍人勅諭が発布された日である。 陸士、陸大ともトップの成績で卒業した秀才である梅津は、学究肌の軍人と呼ばれ、政治の表舞台に出ることを避け続けていたという。その梅津の生涯で最も歴史に残る有名な事件は、支那駐屯軍司令官時代のTemplate 和暦?6月に日中間で結ばれた「梅津・何応欽協定」である。当時、華北で相次いだ反日テロが国民党の主導によるものとし、その撲滅のため、 河北省内の国民党支部をすべて撤廃 国民党駐河北省の東北軍第51軍、国民党中央軍および憲兵三団の撤退 河北省主席である于学忠の罷免 すべての抗日団体とその活動の取り締まり といった内容の協定を結んだ。この...
  • 武藤章
    ...軍人、陸軍中将。東京裁判で唯一中将として絞首刑判決を受けた。 生涯 熊本県出身。済々黌中学を経て、Template 和暦?陸軍士官学校(25期)を卒業。富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・田中新一・山崎保代らが同期。 Template 和暦?陸軍大学校(32期)卒業。冨永信政、青木重誠、酒井康、中村正雄、酒井直次、西村琢磨、橋本欣五郎らが同期。 Template 和暦?、盧溝橋事件に際して参謀本部作戦課長として対中国強硬政策を主張し、12月には中支那方面軍参謀副長として赴いた。 Template 和暦?に陸軍省軍務局長、Template 和暦?に近衛第2師団長(スマトラ・メダン)、Template 和暦?に第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任した。武藤は参謀として、著名な軍人の下で軍務を尽くしたと言われている。陸軍省軍務局長の時、東條英機との考えの相違により軍中枢から近衛...
  • 日ソ中立条約
    ...判する。極東国際軍事裁判の決定については、判事団中には当事国・戦勝国としてのソ連から派遣された判事がおり、公平性・中立性の観点から問題があるとの批判がある。 ソ連側の主張 1941年7月に日本陸軍は「関東軍特別演習」(通称:関特演)を行っており、これは日本側からの重大な軍事的挑発であるとして、中立条約破棄の責任を否定する見解がある。また、この「演習」は極東に配備されていたソ連軍部隊を、対独戦に投入する事を阻止する目的で行われたものであり、ドイツが勝利していれば、直ちに日本軍がソ連領内に侵攻する意図をも含んでいた、との主張もなされる。 太平洋戦争についての日本のポツダム宣言受諾を受けて行われた極東国際軍事裁判判決では、「中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った。」と...
  • 中山事件
    ...どの脅迫などのために裁判はなかなか進まず、10月2日にようやく上海第一特区法院において楊、葉の2名は死刑、周は無罪と断案が下され、中国側はこれによって抗日秘密結社の存在を認めた。 楊、葉の2名は上告したが、11月9日の上訴判決でふたたび死刑判決が下され、事件はいちおうの解決を見た。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月7日 (日) 15 01。     
  • 広田弘毅
    ...[ウィリアム・ウェブ裁判長から死刑宣告を聞かされる広田]] 大戦終結後、進駐してきた連合国軍によりA級戦争犯罪人容疑者として逮捕される。巣鴨プリズンに収容された広田に対し、GHQの組織した国際検察局が、極東国際軍事裁判の訴追対象とするかどうかを決定するための尋問を行った尋問調書が米国の国立公文書館に保存されている。以下、内容については2007年8月13日放送のNHKスペシャル「A級戦犯は何を語ったのか ~東京裁判・尋問調書より~」による。。この中で国際検察局側は、組閣時に閣僚人事に軍の干渉を受けたことや、首相時代に軍部大臣現役武官制を復活した点を重視した。広田は後者については「この決定が現在の情勢を招いたとは思わない」と回答している。ただし、「軍の活動が緊迫したものになると外交政策はそれに引きずられてしまうことが多い。そうなると外務大臣などほとんど無力化されてしまう」と統帥権の独立...
  • 重光葵
    ...外務大臣を務め、東京裁判で有期禁錮の判決を受ける。仮釈放と赦免後、政界に再復帰し、再び外務大臣となって日本の国際連合加盟に尽力した。 人物・来歴 生い立ち 大分県大野郡三重町(現・大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿と母・松子の次男として生まれた。しかし母の実家(重光家本家)に子供がなかったため養子となり重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学(現・大分県立杵築高等学校)、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。 外交官として 各国において日本国公使として勤務していたが、昭和5年(1930年)には駐華公使となる。昭和6年(1931年)9月、日本陸軍の一部が突如中国東北部を制圧しようと満州事変を引き起こし国際問題となる。これに対し重光は「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をた...
  • 大津事件
    ...政府は事件を所轄する裁判官に対して旧刑法116条に規定する天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用すべき大逆罪によって死刑を適用するよう働きかけた。伊藤博文は死刑に反対する意見がある場合、戒厳令を発してでも断行すべきであると主張した。また松方正義首相、山田顕義法相らが死刑適用に奔走した。青木周蔵外相、井上馨などは消極的反対、逓信大臣・後藤象二郎などは「津田を拉致し拳銃で射殺することが善後策になる」と語った。 司法の動き 旧刑法116条は日本の皇室に対して適用されるものであって、外国の皇族に対する犯罪は想定されておらず、法律上は一般人と全く同じ扱いにせざるを得なかった。つまり怪我をさせただけで死刑を宣告するのは法律上は不可能であった。ただし裁判官のなかでも死刑にすべきという意見は少なくなかった。 時の大審院(現在の最高裁判所)院長の児島惟謙は法治国家として法は遵守されなければ...
  • 俘虜の待遇に関する条約
    ...戦者 極東国際軍事裁判 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 09 30。     
  • 東郷茂徳
    ...犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。 外務省事務次官を務めた東郷文彦は女婿。元ワシントンポスト記者の東郷茂彦、元オランダ大使・外務省欧亜局長の東郷和彦は双子の孫。 略歴 明治15年(1882年) 鹿児島県日置郡苗代川村(後の下伊集院村。現在の日置市東市来町美山)で、陶工・朴寿勝の長男「朴茂德」として生まれる(誕生日は12月20日、12月10日、10月25日など諸説あり、戸籍上は12月10日) 明治19年(1886年) 父・朴寿勝が鹿児島城下士の東郷某の士族株を購入し、「東郷」を名乗る 明治21年(1888年) 下伊集院村立尋常高等小学校(現美山小学校)へ入学 明治29年(1896年) 鹿児島県尋常中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)へ入学 明治34年(1901年) 第七高等学校造士館(鹿児島...
  • ひかりごけ事件
    ...いる。一般には「唯一裁判で裁かれた食人事件」と言われるが、日本の刑法には食人に関する規定が無いため、死体損壊事件として処理された。 この名称は、この事件を題材とした武田泰淳の小説『ひかりごけ』に由来する。なお、武田は食人を行った徴用船の船長と接触したことはなく、『ひかりごけ』はあくまでもこの事件をモチーフとした作品である。 経緯 太平洋戦争中の1943年12月、日本陸軍の徴用船が7人の乗組員を乗せて船体の修理のため小樽市へ向かう途中、知床岬沖でシケに遇い遭難した。 船員たちは船から避難し、知床半島ペキンノ鼻に降り立ったが、真冬の北海道で極寒のうえ、そこは雪と氷と吹雪に覆われた地域だった。徴用船の船長はすぐに他の船員たちとはぐれてしまったものの、一軒の小屋(番屋)にたどり着く。やがて船員のうち最年少の少年(19)一人もその番屋に吹雪の中たどり着いた。二人はしばらくそこで過ごした...
  • 鈴木貞一
    ...された。極東国際軍事裁判で鈴木がA級戦犯として告訴された最大の要因は前述の御前会議において開戦を主張したことにあるとされている(陸軍中将ではなく、企画院総裁という文官としての立場で起訴された)。終身禁固の判決を受け服役する。1955年9月17日に橋本欣五郎、賀屋興宣とともに仮釈放され、1958年に赦免された。 赦免後は、「電力王」と呼ばれた松永安左エ門の要請で産業計画会議委員へ一度就いたが、岸信介内閣成立後の1959年に、自民党から参院選出馬への要請を受けるも、「もう私の時代は終わった」「一度、頂点の舵取りを誤った者は、二度とその職に付くべきではない」と拒否し、公的な役職に就くことはなかった。しかし、保守派の御意見番として、自民党の国会議員から意見を求められることが多く、佐藤栄作のブレインとして彼を支え続けたほか、岸信介や福田赳夫、三木武夫とも懇意にしていたと言われている。 その...
  • 日朝修好条規
    ...いること、片務的領事裁判権の設定や関税自主権の喪失といった不平等条約的条項を内容とすることなどが、その特徴である。 それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が、開国する契機となった条約であるが、近代国際法に詳しい人材がいなかったため、朝鮮側に不利なものとなっている。その後朝鮮は似たような内容の条約を他の西洋諸国(アメリカ、イギリス、ドイツ、帝政ロシア、フランス)とも同様の条約を締結することとなった。そのため好む好まざるとに関わらず近代の資本主義が席巻する世界に巻き込まれていくことになる。 背景-条約締結前夜の日朝関係- 朝鮮における攘夷高揚 この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代的国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られ...
  • 大日本帝国
    ...行政権及び自国民への裁判権を有する一部統治区域があった。 首都 憲法や法令に首都の規定はないが、大正12年9月12日詔書で「東京ハ帝国ノ首都」とされている。東京は大日本帝国の首都として帝都と称され、宮城(きゅうじょう、皇居)が所在し、内閣、各省、枢密院、大審院が位置し、帝国議会が開かれ、戦時には大本営が置かれた。 東京以外の首都機能としては、天皇の所在を示す高御座が京都御所に安置され、即位の礼や大嘗祭が行われていたことから、京都市がその一部を担っていたといえる。また広島は、日清戦争中に天皇の行在所や大本営が置かれ、帝国議会が開かれたので、臨時の首都を務めたとも言える。なお、大東亜戦争で本土決戦になる場合は天皇と大本営を長野県松代町の地下壕に移す予定であったが、本土決戦が行われることなく終戦したため実現しなかった。 領土 領土は完全な領有権を有する区域であり、内地、樺...
  • 安重根
    ...ころがあり、安重根の裁判を担当した日本の検事から「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆の声があがるほどであった。ただし、明治時代の日本人は、立場が違っても、相手を忠義の志と見れば、一定の敬意を払うことがめずらしくなかった。そうした敬意は、時流を見誤った愚かな行為という判断と必ずしも矛盾しない。 人身御供説 伊藤博文の随行員として事件現場にいた外交官出身の貴族院議員である室田義文が、 1.伊藤博文に命中した弾丸はカービン銃のものと証言しているのに、安重根が持っていたのは拳銃である。 2.弾丸は伊藤博文の右上方から左下方へ向けて当たったと証言している。 ことなどから、伊藤博文に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない、という説が根強くある。この説では、安重根は、事件の真相を闇に葬るための人身御供とされる。 孝明天皇 後に裁判での陳述において、伊藤博文暗殺の...
  • 軍国主義
    ...国主義国家においては裁判の自由と独立は形式的にのみ認められる。実際には極めて強圧的な運用しかされず、政府当局の意志を裁判所がほぼ代弁する形と化す事が少なくない。これは司法権の独立が破られているという根本的な問題のほかに、裁判の基礎となる法律自体が極めて恣意的・非民主的に作られているという点にも起因するものである。 国家予算の大半を軍事費に費やすため、生活インフラストラクチャーなどには財源が回らず、この為に赤字財政になる事も多い。人権・言論への弾圧や、国民・野党系の政治家への粛清も行われるが、国民が総まっていない国家を総めるには都合が好く、センセーショナリズムを伴う事すらある。 参考文献 小寺 聡 (編集), 浜井 修 『倫理用語集 新課程用』 山川出版社 眞邉正行編著 『防衛用語辞典』(2000年,国書刊行会,ISBN 9784336042521) 井上清『井上清史論集〈3...
  • 閔妃
    ...日(旧暦)官報号外「裁判宣告書」には、朴銑、李周會、尹錫禹の3名が明成皇后殺害の謀反罪によって絞首刑の判決が下っている。これは、被告等の供述と金召史の告発、対質陳供、李甲淳、金明濟、李敏宏の供述を証拠としている。高等裁判裁判長は張博、豫備判事は鄭寅興、判事は洪鍾檍、書記は李徽善。アジア歴史資料センター、GK17289_00I0006韓国官報 資料請求番号 奎17289 GK17289_00I0006 開國五百年十一月十四日  號外 1. 裁判宣告書。 朝鮮が親露に傾くことに危機感を持った公使・三浦梧楼も暗殺事件への嫌疑がかれられたため、日本は国際的に非難され三浦を含む容疑者を召還し裁判にかけたが、首謀と殺害に関して ref name= nikkan 日韓外交史料 第五巻 韓国王妃殺害事件 市川正明編 原書房刊 文書番号353は証拠不十分し免訴となり、釈放した。 死後、皇后と...
  • 東條英機-2
    ...という。また戦後東京裁判の検事団から取調べを受けた際「関東軍時代、あなたと東條には意見の対立があったようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見がある。しかし、東條には意見が無い。意見の無い者と対立のしようがないではないか」と答えた。しかし、東條・石原共に、プライドが高く、衝突はかなりあったという(『秘録・石原莞爾』 ref name= kanji / )。 「器が小さい」 東條に対する悪評価に拍車をかけた一面としてはその官僚的な硬直した発想、視野の狭さ、内容よりも手続きや形式、見栄えを重んじるやり口、みずからの地位を利用した敵対者への弾圧、嫉妬深さ、憲兵を多用した警察国家的な政治手法などに起因するものが多く、「器の小さな男」の狡猾な手段に対する嫌悪感という面が強いと言える。 東京帝国大学の卒業式で「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も...
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