chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「西南戦争」で検索した結果

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  • 士族反乱
    ...して、最大規模となる西南戦争が起こるが、これも士族側の敗戦に終わった。 西南戦争以後に、不平士族の反対運動は国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動に移行する。 関連項目 日本史の出来事一覧 地租改正反対一揆 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年12月17日 (月) 15 51。     
  • 西郷隆盛-3
    ...中将、枢密院顧問官。西南戦争時は別動第一旅団長 「うーとん」「うどめ」などの徒名の由来 「うどめ」とは「巨目」という意味である。西郷は肖像画にもあるように、目が大きく、しかも黒目がちであった。その眼光と黒目がちの巨目でジロッと見られると、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという。そのうえ、異様な威厳があって、参議でも両手を畳について話し、目を見ながら話をする者がなかったと、長庶子の西郷菊次郎が語り残している。その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう。 沖永良部島の「社倉」のその後 沖永良部島は台風・日照りなど自然災害が多いところであったが絶海の孤島だったので、災害が起きたときは自力で立ち直る以外に方法がなかった。そのことを知った西郷は「社倉趣意書」を書いて義兄弟になっていた間切横目(...
  • 愛国社
    ...た上、参加者のうち、西南戦争に西郷軍に参加した者も多く、自然消滅した。 西南戦争後、自由民権運動は、武力による専制政府打倒から、言論と大衆組織による運動へと転換することになる。明治11年(1878年)4月に立志社が中心となり、愛国社の再建を決定。9月に石川、愛知、和歌山、愛媛、香川、高知、岡山、鳥取、福岡、佐賀、大分、熊本各県から13社の代表が大阪に集まり愛国社再興会議を開催した。翌明治12年(1879年)11月に開催された第3回大会では、国会開設実現を目標とする全国規模の請願運動を組織することを決定し、こうして愛国社は全国的な国会開設運動の中心となっていった。 こうして、国会開設を目標とする全国運動は、同時にそれまで士族中心だった運動が、新たに豪農豪商を出身の県会議員を指導者が指導する形に転換していった。これに伴い愛国社についても、立志社中心の運営に対する批判が高まり、ついには...
  • 松方デフレ
    松方デフレ(まつかたでふれ)とは、西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解消しようと、大蔵卿松方正義が行った、デフレーション誘導の財政政策のことである。松方財政(まつかたざいせい)とも。 西南戦争の戦費調達のために不換紙幣が濫発された事によって、戦争後に大規模なインフレーションが発生していた。当時の大蔵卿大隈重信は、このインフレーションの原因を経済の実態は紙幣流通量に近く、正貨である銀貨が不足しているだけだと考えて、「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張した(大隈財政)。一方、次官たる大蔵大輔の松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレーションの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると唱えた。松方の主張は長年財政に携わってきた大隈の財政政策を根幹から否定するものであり、大隈の激怒を買う。この対立を憂...
  • 寺内正毅
    ...軍士官として累進し、西南戦争最大の激戦とされた田原坂の戦いで負傷して右手の自由をなくした。そのため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。 閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学(駐在武官を兼務)後、明治20年(1887年)陸軍士官学校長に就任。日清戦争では兵站の最高責任者である運輸通信長官を務めた。明治31年(1898年)教育総監、同33年(1900年)参謀次長などを勤め、第1次桂内閣(1901年6月2日 - 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣となり、日露戦争の勝利に貢献した。第1次西園寺内閣や第2次桂内閣(1908年7月14日 - 1911年8月25日)でも再び陸相をつとめた渡辺淳一の直木賞受賞作『光と影』は、寺内の生涯をモデルとしたとされる。。明治39年(1906年)には南満洲鉄道設立委員長・陸軍大将・子爵に相次いで任じられた。 ...
  • 寺島宗則
    ...、参議兼外務卿。 西南戦争後の政府の財政難から税権回復を目指し、1879年には諸外国との条約改正に臨み、アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスの反対などで挫折している。その後、外交官を辞職し、元老院議官、枢密院副議長、枢密顧問官などを務める。 1884年、伯爵。 1893年、62歳で死去。 関連書籍 高橋善七『日本電気通信の父 寺島宗則』図書刊行会 犬塚孝明『寺島宗則』吉川弘文館 関連項目 明治の人物一覧 徳川恒孝 徳川家広 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 14 15。     
  • 乃木希典
    ...14連隊長心得として西南戦争に参加。連隊旗を薩摩軍に奪われた。乃木はこれを終生忘れることはなかった。この事が後に乃木の自刃の遠因となる(軍人が旗を奪われることが意味することは軍旗を参照)。 1886年(明治19年) - 川上操六らとともにドイツに留学 1894年(明治27年) - 歩兵第1旅団長(陸軍少将)として日清戦争に出征。旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった 1895年(明治28年) - 第2師団長(陸軍中将)として台湾征討に参加。 1896年(明治29年) - 台湾総督に就任 1898年(明治31年) - 台湾統治失敗の責任をとって台湾総督辞職 1899年(明治32年) - 第11師団の初代師団長(中将)に親補せられる 1904年(明治37年) - 休職中の身であったが日露戦争の開戦にともない、第三軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮。2児の勝典、保典が戦死...
  • 紀尾井坂の変
    ...7年(明治10年)の西南戦争で政府軍を指揮したばかりであった。また、薩摩や土佐などといった不平士族または自由民権運動者からは、「有司専制」と非難されていた。事件はそのような最中に起こる。 大久保は1878年(明治11年)5月14日午前8時ごろ、麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発。明治天皇に謁見するため、二頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう。同日午前8時30分頃、東京の紀尾井町清水坂(紀尾井坂)において、石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名が大久保の乗る馬車を襲撃。日本刀で馬の足を切った後、御者の中村太郎を刺殺。次いで乗車していた大久保を馬車から引きずり降ろそうとした。大久保は島田らに「無礼者!」と一喝を与えたが、斬殺された(享年49〈数え年〉、満47歳没)。介錯として首に突き刺された刀は地面にまで突き刺さっていた。『贈右大臣正二位大久...
  • 藩閥
    ...がて西郷隆盛の下野と西南戦争での死、紀尾井坂の変での大久保利通の暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、実質的に伊藤博文や山縣有朋ら長州閥の一人勝ちとなった。Template 和暦?に内閣制度ができたあとも、薩長出身者の多くが内閣総理大臣、国務大臣、元老となった。 藩閥は議会政治に対する抵抗勢力であり、民本主義もしくは一君万民論的な理想論とは相容れない情実的システムであるため、当時から批判的に取り扱われてきた。自由民権運動の頃から批判の対象とされ、大正デモクラシーでは「閥族打破・憲政擁護」が合言葉とされた。 政府と軍の各部署の間の有機的な連係が藩閥によって形成されていたという側面もあり、昭和に入り試験や育成機関から採用された官僚や軍人が部署の実権を掌握するようになると縦割り的弊害が甚だしくなり国家の方針が定まらず迷走することになる。 藩閥の消滅による緊張感の低下が政党の腐敗を招...
  • 自由民権運動
    ...いる士族反乱の動きは西南戦争(1877年)で終わる。なお、この際に立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄が発生して幹部が逮捕されている。 運動の高揚 1878年に愛国社が再興し、1880年の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していった。特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であった。これにより、運動は全国民的なものとなっていった。 このうち、不平士族を中心にした段階の運動を士族民権、農村指導者層を中心にした段階の運動を豪農民権という。この他に都市ブルジョワ層や貧困層、博徒集団に至るまで当時の政府の方針に批判的な多種多様な立場からの参加も見られた。 私擬憲法 Template See also? 国会期成同盟では国約憲法論を掲げ、その前...
  • 西郷隆盛-2
    ...。 下野 - 西南戦争 私学校 下野した西郷は、明治6年11月10日、鹿児島に帰着し、以来、大半を武村の自宅で過ごした。猟に行き、山川の鰻温泉で休養していた明治7年(1874年)3月1日、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し、翌日、指宿まで見送った(江藤は土佐で捕まった)。これ以前の2月に閣議で台湾征討が決定した。この征討には木戸が反対して参議を辞めたが、西郷も反対していた。しかし、4月、台湾征討軍の都督三弟西郷従道の要請を入れ、やむなく鹿児島から徴募して、兵約800名を長崎に送った。 西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治6年末以来、鹿児島県下は無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者に溢れる状態になった(この状態が私学校創設後も続いたことは『西南役前後の思出の記』に詳しい)。そこで、これを指導し、統御しなければ、壮年・若者の方向を誤るとの考えか...
  • 黒田清隆
    ...締結し、1877年の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年 (1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。 生涯 生い立ちと幕末の活動 天保11年(1840年)に、薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。黒田家は家禄わずか4石の下級武士だった。 長じて砲手になった。文久2年(1862年) 6月の生麦事件には、随行の一人としていあわせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという。なお、黒田自身は示現流門下でも有数の使い手で、後年宗家の東郷重矯より皆伝している。 文久3年(1863...
  • 会津戦争
    ...激した庄内藩士は後に西南戦争で西郷隆盛と運命をともにしている。 山縣有朋を筆頭にした長州閥は、明治期を通じて会津地方民や会津地方出身者を「朝敵風情が」と侮蔑し、学界や官界に進んだ会津藩出身者の登用について徹底的な妨害工作を行ったと言われている(昭和天皇の弟である雍仁親王と松平容保の孫、節子の婚儀に際しての話は有名である。)こういった処置は会津民衆の新政府軍側諸藩(薩摩・長州)に対する遺恨となったと言われる。西南戦争では多くの会津人が薩摩の巨魁である西郷隆盛への恨みを晴らす為に政府軍に志願したといわれる。また会津藩出身の軍人・柴五郎などは、西郷や大久保利通など薩摩藩出身政治家の非業の死に対して「当然の帰結であり断じて喜べり」と語っている。 しかし遺体放置の話の根拠とされる「明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来」に記されている官命では、会津軍、新政府軍双方の戦死者に対する一切の処置を禁止す...
  • 軍人勅諭
    ...とされる。下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋‎が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。 Template 和暦?6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された。 内容 通常の勅語が漢文調であるのに対し、変体仮名交じりの文語体で、総字数2700字におよぶ長文であるが、軍人は暗誦できることが求められた。特に陸軍では、将兵は全文暗誦できることが当然とされた。しかし、海軍では「御勅諭の精神を覚えておけばよい。御勅諭全文より諸令則等を覚えよ」とされることが多く、全文暗誦を求められることは多くなかっ...
  • 明治六年政変
    ...した。また佐賀の乱、西南戦争などの士族反乱や自由民権運動の発端ともなった。 後日譚 ただし、これで征韓論争が終わった訳ではない。なぜなら、朝鮮との国交問題そのものは未解決であること、伊地知正治のように征韓派でも政府に残留した者も存在すること、そして天皇の勅裁には朝鮮遣使を「中止」するとは書かれず、単に「延期」するとなっており、その理由も当時もっとも紛糾していたロシアとの問題のみを理由として掲げていたからである。つまり、ロシアとの国境問題が解決した場合には、改めて朝鮮への遣使が行われるという解釈も成立する可能性があった。そして、それは千島樺太交換条約の締結によって、政府内に残留した征韓派は今度こそ朝鮮遣使を実現するようにという意見を上げ始めたのである。ところが、台湾出兵の発生と大院君の失脚によって征韓を視野に入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに純粋な外交による国交回復のための...
  • 征韓論
    ...の乱から1877年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となった。 脚注 関連項目 留守政府 外部リンク [小説・木戸孝允]明治六年秋(七) 征韓論 (その1) [小説・木戸孝允]明治六年秋(七) 征韓論 (その2) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年12月12日 (金) 10 32。      
  • 三菱財閥
    ...れを機に明治10年の西南戦争のときには、さらなる巨万の富を掌中にする。 商会はこの戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得ることになった。政府が西南戦争で支払った戦費は4,150万円といわれるが、そのうち1,500万円が三菱の儲けだった。しかし、その裏には後藤象二郎を通じてときの最大の権力者大久保利通、大隈重信といった政府要人の後ろ盾があったことは言うまでもない(ちなみに三井財閥は、長州閥の伊藤博文、井上馨らに肩入れして対抗していた)。 だが、政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がった。そんなさなか弥太郎の後援者だった大久保利通が暗殺され(明治11年)、明治14年には大隈重信が失脚する。勢いをえた長州閥と三井はここぞとばかりに三菱バッシングに打って出た。その最大のものが、海運業を独占して...
  • 条約改正
    ...は、外務卿寺島宗則が西南戦争後の財政難のため税権回復を中心に交渉し、駐米公使の吉田清成とアメリカのエバーツ国務長官との間で税権回復の新条約(吉田・エバーツ条約)を調印するが、イギリス及びドイツの反対と法権の優先を求める世論の反対で挫折する(アメリカとの条約は他国と同内容の条約を結ぶことが条件になっていたため、発効しなかった)。 1885年(明治18年)に太政官制度が廃止され内閣制度が発足。条約改正は明治憲法制定と同時並行で取り組まれ、伊藤博文内閣の外相井上馨は鹿鳴館に代表される欧化政策を行いつつ交渉を進めた。1886年(明治19年)、井上は東京において諸外国の使節団と改正会議を行うが、井上案は関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示したため、政府内で農商務大臣谷干城や法律顧問ボアソナードらからの反対意見を受けた。翌1887年(明治20年)、国民がこの案を知るところとなると、折か...
  • 大久保利通
    ...(1877年)には、西南戦争で政府軍を指揮した。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていたが、明治11年(1878年)5月14日、石川県士族島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)(享年49〈数え年〉、満47歳没)。墓所は東京都の港区の青山霊園。 余録 趣味は囲碁。島津久光に接近するために碁を学んだとの話も伝えられるが誤りである(19歳の頃の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある)。大変なヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用しており、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった(また、朝用のパイプと夜用のパイプを分けて使っていた)。茶は京都宇治の玉露を濃く淹れたものを好んだ。漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪か...
  • 大津事件
    ...という。また事件前、西南戦争で敗死した西郷隆盛が実はロシアに逃げ延び、ニコライと共に帰って来るという噂がささやかれており、西南戦争で勲章を授与されていた津田はもし西郷が帰還すれば自分の勲位も剥奪されるのではないかと危惧していたという説もある。ただしニコライを殺害する意図は薄かったらしく、事件後の取り調べにおいても「殺すつもりはなく、一本(一太刀)献上したまで」と供述していたと言う記録もある。他にも当時はニコライの訪日が軍事視察であるという噂もあり、シベリア鉄道もロシアの極東進出政策を象徴するとして国民の反発があったことは確かである。 日本政府の動き 当時の日本は、何とか欧米の植民地にならずに済んだだけで、まだロシアに軍事的に対抗する力を持っていなかったため、賠償金や領土の割譲まで要求してくるのではないかと危惧された。そこで政府は事件を所轄する裁判官に対して旧刑法116条に規定...
  • 頭山満
    ...る。このため、翌年の西南戦争を頭山満は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)したが、それに参加し尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっているといえる。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷の死の翌日であった。彼らは、海の中道に開墾社を創設し、松林を伐採し田畑を開墾して自給自足の生活を行いながら心身の鍛錬に励み、来るべき時に備える日々を送る。 自由民権運動への参加 板垣退助 西南戦争の翌年の明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺された。西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して、頭山は高知に旅立つ。しかし、板垣退助は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。自由民権運動に目覚めた頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体...
  • 山本権兵衛
    ...受けたとの話も残る。西南戦争では西郷軍に従軍しようとしたが、西郷自らの説得により兵学寮に戻った。卒業席次は17人中16席。1877年(明治10年)に海軍少尉として任官、翌年には津沢鹿助の三女登喜子と結婚、その後世界各地を周航した。帰国後、「高雄」・「高千穂」の艦長などを歴任した。 海軍省勤務時代 1891年(明治24年)、西郷従道海軍大臣の下で海軍省大臣官房主事に就任した。山本は従道の全幅の信頼のもと、陸軍の従属的立場に扱われがちであった海軍の地位向上を目指し、「島国の国防はまず海上権を先にすべきものであり、せめて陸海軍を平等な立場にすべきである」と主張し、十年間をかけて海軍軍令部の独立という成果を引き出した。 さらに山本が行ったのが、将官8人、尉佐官89人に及ぶ海軍軍人の予備役編入であり、このリストには海軍中将・軍令部長の中牟田倉之助すら入っていた。これは、藩閥出身のため...
  • 大村益次郎
    ...争後に西からの反乱(西南戦争)を予言していたとされる。西郷隆盛を全く評価していなかった1人であり(大隈重信も同様)、西郷を建武の新政で反旗を翻した足利尊氏に見立てていたという。 まだ若かった西園寺公望は大村に師事しており、京都にいた西園寺が大村を訪問しようとしたとき、旧友に会ったために訪問できなくなったところ、そのとき大村は刺客に襲われ、西園寺は巻き込まれずに済んだといわれている。 日本初の軍歌・行進曲とされる、品川弥二郎作詞の「トコトンヤレ節」(宮さん宮さん)の作曲者とも言われている。この曲は、有栖川宮熾仁親王が東征大総督に就任して京都を発った慶応4年2月頃から一斉に歌われるようになったものといわれ、歌詞を刷った刷り物も頒布されて、東征軍将兵のみならず一般民衆にも広められた。 明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(後の靖国神社)の建立を献策し...
  • 明治
    ...西郷隆盛が挙兵した(西南戦争)がいずれも政府により鎮圧された。西郷の死により、武力による政府転覆ではなく、言論による政府批判へと時代は変わっていく。 その後、Template 和暦?、大久保利通は暗殺され(紀尾井坂の変)、前年の西南戦争のさなかに木戸孝允も病没した為、明治新政府は、伊藤博文、大隈重信を中心に運営されることとなる。 自由民権運動 自由民権運動の発展に対し、Template 和暦?、開拓使官有物払下げ事件に端を発した明治十四年の政変で、伊藤博文は即時国会開設を唱えていた急進派の大隈重信一派を政府から追放する一方、「国会開設の詔勅」を発し、Template 和暦?に議会を開設することを国民に約束した。その結果、明治政府から追放されることとなった板垣退助は自由党を、大隈重信は立憲改進党を結成し、来る国会開設の準備を図ろうとした。 また、大隈重信...
  • 日本軍
    ...反乱である佐賀の乱や西南戦争など内乱鎮圧を主たる任務とした。徴兵制度の施行に伴い国民軍としての体裁を整えていった。その後陸軍は師団制に移行。海外において外国軍隊との戦争を行いうる軍制に移行した。設立の基礎が明治維新時の薩長軍であったために永らく藩閥支配が払拭できず、陸軍では長州藩、海軍では薩摩藩の出身者が要職を固めた。1872年に陸軍省が兵部省から分離し、1878年には参謀本部が独立する。新政府は廃藩置県や廃刀令で武士階級を事実上消滅させた後、1873年に徴兵令を施行する。陸軍卿には奇兵隊出身の山縣有朋が就任する。山県は普仏戦争(1870年)でプロイセンが勝利した事をうけ、フランス式の軍制からドイツ式への転換を行った。海軍は当初から英国の海軍制度に倣って編成された。 陸海軍共に初期の仮想敵国はロシアであったが、日露戦争後は陸軍はロシア革命後のソ連を、海軍はアメリカを仮想敵国と見なし...
  • 秩禄処分
    ...と並び、神風連の乱や西南戦争(1877年)など明治初期の士族反乱は、秩禄処分により収入が激減した士族階級の不平が原因であった考えられているが、一方で士族反乱に参加した士族の大半は金禄公債証書発行以前から政府を批判しており、また決起の趣旨に秩禄処分が挙げられているケースが少ない事も指摘されているなお、石高を金額に金禄公債に換算するための貢納石代相場額が、旧薩摩藩の鹿児島県士族には1石あたり6円2銭、旧土佐藩の高知県士族には1石あたり5円40銭と実際の米価より水増しすることで、士族反乱を起こす危険が高いとされた両県士族に対して懐柔を行っている。。士族の救済政策として士族授産が行われ、屯田兵制度による北海道開発も実施された。 だが、秩禄処分によって武士の生活が苦しくなったのもまた事実である。金禄公債の金利(下級武士に充てられた7分付き公債の場合)の日割額は当時の東京の労働者の最低賃金の1...
  • 東郷平八郎
    ...帰国途上、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際、東郷の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。 日清戦争 明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。 日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。これは後の対米戦備での位置づけから閑職であったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定...
  • 明治十四年の政変
    ...にあって、財政政策(西南戦争後の財政赤字を外債によって克服しようと考えていた)を巡って松方正義らと対立していた。更に宮中にいた保守的な宮内官僚も「天皇親政」を要求して政治への介入工作を行うなど、政情は不安定であった。 1880年に入ると、立憲体制に消極的であった岩倉も自由民権運動への対応から、参議や諸卿から今後の立憲体制導入の手法について意見を求めることにした。伊藤は同年暮れに意見書を提出し、漸進的な改革と上院設置のための華族制度改革を提議した(後者は公家出身の岩倉が嫌う点であるが、伊藤は敢えて提出したのである)。ただし、どこの国の制度を参考にするかは明らかにしなかった。伊藤に相前後して参議らから次々に意見書が出され、様々な意見が出される中で1人大隈だけが意見書の提出を先延ばしにしていた。1881年3月、漸く大隈が左大臣(岩倉からみて上位)の有栖川宮熾仁親王に対して「密奏」という形...
  • 西郷従道
    ...0年(1877年)の西南戦争で敗死すると、代わって薩摩閥の重鎮となる。明治15年(1882年)1月11日、黒田清隆が開拓長官を辞すると、参議・農商務卿兼務のまま開拓長官に任じられる。同年2月8日に開拓使が廃止されるまで、短期間ながら開拓使長官を務めた。明治17年(1884年)の華族令制定に伴い、維新時の偉功によって伯爵を授けられる。伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。 明治25年(1892年)には元老として枢密顧問官に任じられる。同年、国民協会を設立。明治27年(1894年)に海軍大将となり、明治28年(1895年)には侯爵に陞爵。明治31年(1898年)に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。 エピソード 名は維新後に太政官に名を登録する際、「隆道」をリュウドウと呼んで口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」となって...
  • 政党の歴史
    ...0年(1877年)の西南戦争で不平士族が敗北し、明治政府を武力で転覆することが挫折し、言論による闘争が志向されるようになっていく。 勃興する自由民権運動に対して、明治14年(1881年)明治天皇の御名で「国会開設の勅諭」が下り、明治政府は、明治22年(1899年)に議会を開設することを国民に約束した。これにともない、明治14年自由党が板垣退助を中心として、翌明治15年(1882年)立憲改進党が大隈重信らによって結成される。また、福地源一郎ら親政府の要人による立憲帝政党も結党された。だが、政府は「超然主義」の方針を打ち出す一方、自由民権運動の弾圧強化に乗り出した。このため、自由党は一時解散に追い込まれ、立憲改進党は分裂状態となり、立憲帝政党も政府から見捨てられる形で自然消滅を余儀なくされた。 明治22年(1889年)大日本帝国憲法の公布とともに、衆議院議員選挙法が公布され、25歳以...
  • 兒玉源太郎
    ...年(1877年)には西南戦争・熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験が後の日露戦争に生かされる事となる。ちなみに、この時東京から現地へ真っ先に送られた電報「児玉少佐ハ無事ナリヤ」は、当時24歳の一少佐にかける期待がどれほどのものであったかを物語る逸話として有名。 台湾総督時代には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を総督府民政長官に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して弾圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。二人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。 日露戦争開戦前には内務大臣を勤めていたが、 明治36年(1903年)に対露戦計画...
  • 木戸孝允
    ...苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で謎の脳病再発により死の床に就き、朦朧状態の中でも西郷と明治政府双方の行く末を案じながら、息を引き取った。 昭和21年(1946年)正月元旦、昭和天皇による「人間宣言」の際、戦後の大方針として木戸孝允による「五箇条の御誓文」があらためて示されている。 名前 「木戸」姓以前の旧姓は、15歳以前が「和田」、15歳以後が「桂」である。小五郎、貫治、準一郎は通称名である。命を特に狙われ続けた幕末には、「新堀松輔」「広戸孝助」など10種以上の変名を使用した。 「小五郎」は生家和田家の由緒ある祖先の名前であり、五男という意味ではなく長男である。 「木戸」姓は、第2次長幕戦争前(慶応2年(1866年))に藩主毛利敬親から賜ったものである。それ以降、それまでの「桂」姓に替えて使用し始める。 「孝允」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱(い...
  • 大日本帝国海軍
    ...海軍が主であったが、西南戦争により政府内で薩摩藩閥が退行すると、陸軍重点主義が取られるようになる。 参謀本部が設立され、海軍大臣の西郷従道や山本権兵衛らが海軍増強を主張し、艦隊の整備や組織改革が行われ、日清戦争時には軍艦31隻に水雷艇24隻、日露戦争時には軍艦76隻水雷艇76隻を保有する規模となる。 日露戦争後は、1920年に海軍増強政策である八八艦隊案を成立させ、アメリカを仮想敵国に建艦競争をはじめる。1922年のワシントン海軍軍縮条約及び1930年のロンドン海軍軍縮条約により主力艦の建艦は一時中断されるが、ロンドン海軍軍縮会議が決裂した後に再開され、太平洋戦争開戦時には艦艇385隻、零戦などの航空機3260機余りを保有する規模であった。第二次世界大戦の敗北に伴って解体される。 また、日露戦争後はアメリカ合衆国、イギリスと並び、世界三大海軍と呼ばれていた。その後、太平洋戦争が...
  • 中江兆民
    ...年)に辞職。同年には西南戦争が起こっているが、仏学塾で学んだとも言われる宮崎八郎の薩摩軍参加を止めるために兆民が熊本へ赴いたという伝承もある。明治13年(1879年)には高知県士族の娘の鹿と結婚するが、翌年には離婚している。 元老院の辞職後は家塾経営や翻訳業のほか、漢学修行を続けている。自由民権運動の気運が盛り上がる中、明治14年(1881年)3月に西園寺らと創刊した『東洋自由新聞』の主筆を務めるが、すぐに廃刊となり、翌明治15年(1882年)には仏学塾から『社会契約論』の漢文訳『民約約解』を刊行。自由党の旗揚げに関わり、翌明治15年に創刊した党発行の新聞である『自由新聞』社説掛となる。明治16年(1883年)には日本出版会社を設立。明治18年(1885年)には長野県出身のちのと結婚。外相井上馨の条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加し、明治20年(1887年)には長野で演説、後藤象...
  • 戊辰戦争
    ...遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している(逆に、薩摩藩に恨みを抱く旧会津藩出身者は新政府側として参戦し、「会津抜刀隊」が「田原坂の戦い」で西郷軍を破り、薩摩藩の敗戦を決定づけた)。 任侠・博徒らを集め「衝撃隊」を創設し、その隊長としてゲリラ活動を行い新政府軍に恐れられた仙台藩士細谷直英は、自らも参戦した「旗巻峠の戦い」で仙台藩が新政府軍に敗れて降伏すると、衝撃隊を解散して逃亡・潜伏した。新政府の捕縛を逃れた細谷直英は、戊辰戦争の大赦令がだされると北海道に渡って北海道開拓に尽力し、警視庁小隊長となったのち、仙台龍雲寺の住職として戦没者を弔った。 米沢藩の強硬派である米沢藩士雲井龍雄は、北部政府の降伏後いったん新政府に仕えたが、まもなく辞任し、全国の士族たちを新政府の常備軍へ入れて反乱を起こそうと企てた。新政府は雲井ら七十余人を逮捕し、雲井を含む十一人が処刑さ...
  • 陸奥宗光
    ...0年(1877年)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆のちに陸奥はこのことを「粗豪にして身を誤ること三十年」(『山形繋獄』)と詩によんでいる。を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡『日本及日本人』所載「雲間寸観」によれば、林・大江は暗殺すべき人物として秘簿をつくった。そのなかには大隈重信の 名もあったが、陸奥はこれを一見して、一人重要な人間が抜けているといい、自ら筆をとって伊藤博文の名を加えたという。林は大江は、陸奥は平生より伊藤と 親しいから、志成った場合は伊藤を推してもよいだろうと考えていたので、陸奥が伊藤の名を加えたのを見て、ひそかに驚いたという。を取り合っていた。翌年にこのことが発覚し、除族のうえ禁錮5年の刑を受け、投獄された。 山形監獄に収容された陸奥は、せっせと妻亮子に手紙を書く一方で、自著をあらわし、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ...
  • 秩父事件
    ...によって、明治政府が西南戦争に準じた「反乱」として認識していた事実を指摘している(なお、取調調書には参加者の最終的な目標が「天朝様(天皇)を倒す」ことであるとする自白があったとする記述がある)。また、佐藤政憲は「秩父事件は貧しいから起きたのではなく、段々豊かになるときにつぶされたところに秩父農民の怒りがある」と指摘している。 参考文献 井上幸治『秩父事件 自由民権期の農民蜂起』(中公新書、1968年) ISBN 4121001613 浅見好夫『秩父事件史』(言叢社、1990年) ISBN 4905913381 石井孝『明治維新と自由民権』(有隣堂、1993年) ISBN 4896601157 秩父事件研究顕彰協議会 編『ガイドブック秩父事件』(新日本出版社、1999年) ISBN 4406026908 若狭蔵之助『秩父事件 農民蜂起の背景と思想』(埼玉新聞社...
  • 鉄道国有法
    ...る原因となったのは、西南戦争による過大な戦費の支出であった。これにより、鉄道建設のための予算がなくなり、それまでに完成していた京浜間、京阪神間鉄道を民間に売却して、その代金により新線建設を行なおうという案まで出たほどであった。鉄道網速成の方針と財政窮乏のジレンマが、幹線鉄道建設の一部を民間に委ねる方針転換をさせることになる。こうして1881年(明治14年)、日本初の私設鉄道、日本鉄道が設立されたのである。 井上は1883年(明治16年)、工部卿宛てに意見書「私設鉄道に関する論旨」を提出した。この中で、鉄道の用途は国道と同様であって、これを民営に委ねるべきでないことを原則として、民営に委ねた場合に発生する、無用の競争や改良努力の怠慢など8項目の弊害をあげて、自説を主張している。 一方で、政府の手厚い保護を受けていたとはいえ、日本鉄道が好調な決算を発表すると、各地で私設鉄道設立ブーム...
  • 木戸孝允-2
    ...て余りにも時代錯誤な西南戦争の最中に、この世に見切りを付けたかの如く象徴的に去って行ってしまうのである。 木戸孝允と板垣退助 土佐の板垣は、木戸が早くから、土佐を倒幕に動かし得る重要人物として龍馬に対しても特に念を押して推奨したほど大いに買っていた人物である。事実、龍馬亡き後も、その通り土佐を討幕に動かした開明的で統率力のある人物である。 しかし、板垣は、木戸の大胆にして細心な漸進路線を理解することが出来ず、着実かつ大胆に明治政府内で実行していくよりも、薩摩と組んでの「不平士族」的な路線闘争に走ったり、下野して薩長政府を急進的に攻撃する「民権」闘争に走ってしまったりなどしたため、木戸の大胆にして着実な開明路線を最も継承しやすい立場にありながら、また、一度は木戸と手を組んで明治政府に復帰していながら、木戸とすら離反してしまい、結局のところ、最も政権運営から遠ざかってしまった。...
  • 大隈重信
    ...出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。自由民権運動に同情して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、明治14年(1881年)10月12日、参議を免官となった。 いわゆる明治十四年の政変である。大隈は、10月15日付で辞表を提出した。明治13年(1880年)には、会計検査院創設のための建議をおこなっている。 下野後 野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと東京専門学校を東京郊外の早稲田に開設した。 明治20年(1887年)、伯爵に叙された。 外務大臣から総理大臣へ  ...
  • 大日本帝国陸軍
    ...賀の乱、神風連の乱、西南戦争ほか)などを担った。当初、兵部省は1871年(明治4年)に東京・大阪の2個鎮台を置き、遅れて鎮西鎮台、東北鎮台を設置した。 陸軍省と改まった2年後の1873年(明治6年)には全国を6個の軍管区(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)に分けて、それぞれに1個ずつの鎮台を置き、反乱士族の鎮圧などに当った。1888年(明治21年)に6個鎮台はそのまま師団に改変されて第1ないし第6師団が置かれ、近衛は近衛師団となり禁闕守護を任務とすることとなった。 外征の開始 1874年(明治7年)の台湾出兵以降、徐々に外征軍としての性格を色濃くするようになり、1888年(明治21年)には、拠点守備の側面の強い鎮台制から、後方支援部隊を組み込んで機動性の高い師団制への改組を行った。 1894年(明治27年)の日清戦争開戦時には、常設師団は7個であったが、戦争後の189...
  • 明治維新
    ...断行(1872年)、西南戦争の終結(1877年)、内閣制度の発足(1885年)、立憲体制の確立(1889年)までとするなど諸説ある。 この期間の政府(一般的には1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古以後に成立した政権『歴史学事典 12王と国家』(弘文堂、2005年 ISBN 4335210434)「維新政権」(松尾正人)より。)を特に「明治政府(めいじせいふ)」「新政府(しんせいふ)」「維新政府(いしんせいふ)」などと呼称することが多い。主に旧薩摩藩・長州藩および一部の公家による専制政治として実行されたため「藩閥政府」と揶揄されることもあるが、中級官僚以上でも旧親藩・旧幕臣などから採用された者も少なくなく、一概に一部雄藩のみが主導したともいえない。なお、「明治維新」という語が一般に流布したのは昭和以降Template 要出典?で、当時の人々からは主に大政奉還と廃藩置県を...
  • 西郷隆盛
    ...、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。しかし、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟との降伏交渉に当たっては、新政府の後ろ盾となっていたイギリスが、江戸湾を拠点とした貿易に支障がでることを恐れて新政府に江戸総攻撃の中止を命令したため、西郷隆盛をはじめとする新政府はイギリスの命令に従い、江戸総攻撃を中止した(江戸無血開城)。 そ...
  • 日本の鉄道史
    ...有を主張していたが、西南戦争などによって政府の財政が窮乏してしまったため、この頃までに開通していた鉄道は新橋駅~横浜駅間の他、北海道の幌内鉄道(後、手宮線・函館本線の一部・幌内線)や釜石鉱山鉄道、それと大津駅~神戸駅間にとどまり、これでは延々として鉄道整備など進まない事が予想されたことから、岩倉具視や伊藤博文を中心として、私有資本を用いての鉄道建設を望む声が強くなっていき、結局政府の保護を受けた半官半民の会社として「日本鉄道」が創立された。 日本鉄道はまず東京から養蚕地の群馬県へ向かう鉄道路線より建設をはじめ、1883年(明治16年)7月28日に初の路線である上野駅~熊谷駅間を開業させた後、1884年(明治17年)8月20日に前橋駅まで延長、更に1891年(明治24年)9月1日には現在の東北本線にあたる上野駅~大宮駅~仙台駅~青森駅間を開業させるなど、短期間で急速に路線を延ばしてい...
  • 犬養毅
    ...知新聞)の記者として西南戦争に従軍(ちなみに、抜刀隊が「戊辰の復讐!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。東海経済新報記者をへて、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、活躍する。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を作る。後に中国地方出身議員とともに中国進歩党を結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派を組んでいた)が、進歩党・憲政本党の結成に参加、1898年(明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。1913年(大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削...
  • 日本史の出来事一覧
    ...plate 和暦? 西南戦争 Template 和暦? 竹橋事件 Template 和暦? 開拓使官有物払下げ事件、明治十四年の政変 Template 和暦? 壬午事変 Template 和暦? 群馬事件、加波山事件、秩父事件、甲申政変、大同団結運動 Template 和暦? 大阪事件、内閣制度発足 Template 和暦? ノルマントン号事件 Template 和暦? 保安条例 Template 和暦? 大日本帝国憲法 Template 和暦? 大津事件、足尾銅山鉱毒事件 Template 和暦? 日清戦争 Template 和暦? 下関条約、治安警察法、八幡製鉄所 Template 和暦? 日英同盟 Template 和暦? 日露戦争 Template 和暦? ポーツマス条約、日比谷焼打事件、日韓協約、ハーグ密使事件 Template 和暦? 赤旗事...
  • 仮20
    ...7年(明治10年) 西南戦争 1878年(明治11年) 竹橋事件 1881年(明治14年) 開拓使官有物払下げ事件、明治十四年の政変 1882年(明治15年) 壬午事変 1884年(明治17年) 群馬事件、加波山事件、秩父事件、甲申政変、大同団結運動 1885年(明治18年) 大阪事件、内閣制度発足 1886年(明治19年) ノルマントン号事件 1887年(明治20年) 保安条例 1889年(明治22年) 大日本帝国憲法 1891年(明治24年) 大津事件、足尾銅山鉱毒事件 1894年(明治27年) 日清戦争 1895年(明治28年) 下関条約、治安警察法、八幡製鉄所 1902年(明治35年) 日英同盟 1904年(明治37年) 日露戦争 1905年(明治38年) ポーツマス条約、日比谷焼打事件、日韓協約、ハーグ密使事件 1908年(明治41年) 赤旗事...
  • 軍歌
    ...ャルル・ルルー 西南戦争田原坂の激戦における警視庁抜刀隊の活躍を歌ったもの。新体詩で有名な外山の歌詞に、当時のお雇い外国人であるルルーが曲をつけたたもので、日本初の洋式音楽と言われる。また完成度が高く庶民の間でも広く愛唱され、かの明治天皇も御前演奏にて大層気に入っていた事でも有名である。後には行進曲(陸軍分列行進曲)に編曲されて陸軍の正式行進曲として使用され、現在も陸上自衛隊、そして警察にて幅広く使用されている。 道は六百八十里 作詞 石黒行平 作曲 永井建子 陸軍教導団に勤務していた作詞者が明治24年に作った曲。歌詞には未だ意味が完全に解析されていない部分がある。本来の曲は永井作曲のものだが、三善和気作曲の「凱旋」の曲を流用したもののほうがよく歌われた。 見渡せば 作詞:鳥居忱 作曲:ジャン=ジャック・ルソー 外国の曲を流用して作られた軍歌(戦闘歌)の一例。メロ...
  • 奉直戦争
    Template Battlebox? 奉直戦争(ほうちょくせんそう、Template lang?、Template ピン音?)は軍閥の支配時代における中華民国での戦争。直隷派の呉佩孚と奉天派の張作霖の間で1922年(第一次)と1924年(第二次)の二回、戦争が行われた。1922年は直隷派が勝利したが、1924年は奉天派が勝利し、張作霖が政権を掌握した。 第一次奉直戦争 第一次奉直戦争(1922年4月28日~5月5日)の原因は、直皖戦争の勝利の成果に対する分配の不均等と親日親奉的な梁士詒内閣の不満に起因するものであった。直隷派の曹錕、呉佩孚に対抗するため、張作霖、段祺瑞、孫文は同盟した。張作霖は自身を総司令に、孫烈臣を副総指令に、楊宇延を参謀長に任命し、奉天派の軍隊は山海関に入った。4月29日、第一次奉直戦争が勃発した。直隷派の呉佩孚総司令は7個師団、5個旅団約10万人を指揮し、...
  • 日露戦争
    {{Battlebox | battle_name = 日露戦争 | campaign = 日露戦争 |colour_scheme = background #ffccaa | image = | caption = | conflict = | date = 1904年2月8日 - 1905年9月5日 | place = 満州南部、朝鮮半島沿岸 | result = 日本の勝利、ポーツマス条約 | combatant1 = Template flagicon? ロシア帝国 | combatant2 = Template flagicon? 大日本帝国 | commander1 = Template flagicon? ニコライ2世(皇帝)Template f...
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