chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「西園寺文庫」で検索した結果

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  • 西園寺公望
    ...ものであり、現在も「西園寺文庫」として立命館大学に貴重コレクションとして保存されている。一回目の寄贈は大正14年(1925年)5月に行われ、英仏書187冊であった。その後、昭和5年(1930年)10月16日に和漢書約300冊、昭和13年(1938年)6月には西園寺家伝来の和綴本739部881冊の寄贈が為された。 この和綴書には、宮中儀式、有職故実関係、改元記録、和歌関係などの貴重文書が含まれている。そして最後、すなわち四回目の寄贈は昭和15年(1940年)5月に行われている。 この最後の寄贈資料は和漢書6,671冊にもおよび、西園寺が特に愛読していたと思われるものが大量に含まれているのが特徴とされる。また公望は西園寺家家紋である「左巴」の旗を立命館大学が使用することを許可しており実際に使用されていた。中川小十朗が「立命館」の名称を用いる事を西園寺に申し出た際には『立命館』の名...
  • 第1次西園寺内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ さいおんじ ないかく|12|西園寺公望|Template 和暦?|1月7日|Template 和暦?|7月14日|立憲政友会|第10回衆議院議員総選挙|(1908年(明治41年)3月1日衆議院議員の任期満了。)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/12.html|立憲政友会総裁}} 概要 日露戦争中に桂太郎との間で交わされた約束によって立憲政友会総裁である西園寺公望が後継に就任した(なお、この禅譲は元老の干渉を恐れた桂が事前に西園寺の後見人である伊藤博文と井上馨の許可を取ったのみで、元老会議は召集されなかった)。だが、桂と元老は人事や政策に条件を付けて制約をかけ、西園寺も自分の両腕と言える原敬と松田正久の2人だけを入閣させる条件で折り合った。桂はこの内閣の後見人を自負して、政権運営にまで関与しようとしたため...
  • 第2次西園寺内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ さいおんじ ないかく|14|西園寺公望|Template 和暦?|8月30日|Template 和暦?|12月21日|立憲政友会|第11回衆議院議員総選挙|(1912年(明治45年)5月15日衆議院議員の任期満了による。)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/14.html|立憲政友会総裁}}この内閣の任期中の1912年(明治45年)7月30日に明治天皇が崩御して明治時代が終わるとともに、同日から大正時代が始まる。 概要 第2次桂内閣が条約改正の成功を機に退陣すると、政権は再度西園寺に回ってきた。立憲政友会の閣僚数は前回より1増加した他、他の閣僚も親政友会系の官僚が複数入閣した。内務大臣に就任した原敬は衆議院議員選挙に小選挙区制を導入しようとするが、貴族院の反対で否決された。だが、貴族院内に親政友会の会派で...
  • 東洋自由新聞
    東洋自由新聞(とうよう じゆう しんぶん)は、明治初期に刊行された新聞。 1881年(明治14年)3月18日に東京で創刊。山城屋の稲田政吉を社主とする東洋自由新聞者発行。社は東京銀座通りの活版印刷所績文社に同居。 自由民権運動が興隆した明治14年10月に結党される自由党の準備会において機関紙発行が否決されたため、フランス留学経験のある華族の西園寺公望や仏学塾を経営する中江兆民(篤助)、光妙寺三郎らフランス派知識人と、新潟の山際七司、信州の松沢求策ら地方で活躍した民権派が合流して独自に創刊された。 幹事の松田正久、監督委員に森新三郎。編集委員には主筆の中江のほか、柏田盛文、上条信次、桑野鋭、松沢求策、林正明らを社員に東京で創刊。自由民権と君民共治、フランス流急進自由主義を主張。当初は2000部を印刷し、後に1600部に減じた。 西園寺の社長就任は明治政府や宮中でも物議を呼び、右大臣岩...
  • 牧野伸顕
    {{政治家 |各国語表記 = まきの のぶあき |画像 = Nobuaki Makino in later years.jpg |画像説明 = 牧野 伸顕 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1861年11月24日(文久元年10月22日) |出生地 = 薩摩国鹿児島城下加治屋町 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = |出身校 = 大学校(中途退学) |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位勲一等旭日桐花大綬章伯爵 |配偶者 = 牧野峰子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第27代外務大臣 |内閣 = 第1次山本内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1913年2月20日 |退任日 = 1914年4月16日 |退任理由...
  • 第4次伊藤内閣
    {{日本の内閣記事|だい4じ いとう ないかく|10|伊藤博文|Template 和暦?|10月19日|Template 和暦?|6月2日|立憲政友会|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/10.html|立憲政友会総裁・元老}} 概要 これまでの3度の伊藤内閣と異なり、伊藤系官僚と旧憲政党によって結成された立憲政友会を与党とする事実上の政党内閣である。Template 和暦?10月1日に同党が結成されると、前首相山縣有朋が結党直後の同党を揺さぶるために総裁に就任した伊藤に強引に政権を押し付ける形で成立した。外務大臣と軍部大臣以外は全員が政友会に入党していた。だが、山縣は陸軍と貴族院を利用して政友会攻撃を行い、明治天皇の詔書によって漸く事態を収拾した。加えて政友会の実力者であった逓信大臣星亨が汚職で辞職に追い込まれると、未だに...
  • 桂園時代
    桂園時代(けいえんじだい/けいおんじだい)とは、陸軍・山縣有朋閥に属する桂太郎と、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁に就いた西園寺公望が、政権を交互に担当した1905年から1912年の8年間をいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。 桂園時代は、桂に代表される官僚・軍部と西園寺に代表される有力政党である立憲政友会が「情意投合」と呼ばれる連携体制を組んで交互に首相に就任した(この間にも松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たずにいずれも断念に追い込まれている)。特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものである。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけである。 なお、「桂園」は和歌の流派...
  • 第2次伊藤内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ いとう ないかく|5|伊藤博文|Template 和暦?|8月31日|Template 和暦?|9月18日|藩閥内閣 |第3回衆議院議員総選挙第4回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月30日Template 和暦?6月2日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/05.html|前職 = 前枢密院議長}} 伊藤はTemplate 和暦?8月31日に首相を辞任し、同年9月18日に松方正義が組閣するまで、黒田清隆・枢密院議長が内閣総理大臣を臨時兼務した。 概要 前首相の松方正義が自らの閣僚にも見放されて内閣を放り出すという事態は、Template 和暦?8月2日に大命を受けた伊藤にも今後の政権運営に不安を抱かせた。そこで伊藤は主だった元勲の入閣を条件に組閣を行うことを表明、黒田清隆・山縣有朋の両首相...
  • 大正政変
    大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)2月、前年末から起こった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れたことを指す。広義には、第2次西園寺内閣の倒壊から、第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされる ref name=okubo 大久保(1964)。 狭義の大正政変 概略 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が「情意投合」1911年(明治44年)1月26日の桂・西園寺会談の結果、1月29日に発表した合意のこと。第2次桂内閣が立憲政友会の支援を必要としていることから、桂は次期首班に政友会を推し、自分は再び政権につかないという確約を政友会の原敬とのあいだに結んだ。これにより、政府と政友会の提携が成立した。のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた(桂園時代と呼ばれる)。 明治天皇崩御...
  • 元老
    元老(げんろう。英:elder statesman)とは、明治時代後期から昭和時代初期にかけて、日本政府の最高首脳であった重臣である。 明治維新に功績のあった人物を元勲と呼ぶが、彼らが明治新政府において長期間に渡って事実上政治を牽引していたことから、主にマスコミ周辺から誕生した略称だと言われている(長老元勲→元勲老→元老、もしくは元勲諸老の略)。 法制上にその定めはなかったが、勅命または勅語によって任命され、天皇の諮問に答えて内閣更迭の際の後継内閣総理大臣の奏薦をはじめとする国家の最高意思決定に参与した。特に宮中問題を執るのが元老の権威の源泉となっており、このことは宮中某重大事件で敗退した山縣有朋が事実上失脚してしまったことからも明らかである。 沿革 最初に元老の詔勅を受け取ったのは、伊藤博文、黒田清隆である。当初は伊藤博文が枢密院議長の職を辞することから、明治天皇が詔勅を出そ...
  • 重臣会議
    重臣会議(じゅうしんかいぎ)は、昭和時代に元老の職掌を引き継ぐ形で、後継の内閣総理大臣の選定や国家の重要事項に関して、天皇の諮問に答える形で開かれた会議。構成要員は内閣総理大臣経験者及び枢密院議長とされている。太平洋戦争終結まで度々開催されている。 沿革 明治以後、内閣総理大臣の選定は元老によって行われてきたが、大正時代末期には元老が西園寺公望ただ一人となった。西園寺は古い元老制度を廃止するためあえて元老の追加には同意しなかったが(山本権兵衛などが候補としてあげられた)、五・一五事件による政党内閣の崩壊と軍部の台頭、自身の高齢化によって西園寺単独による後継選定は不可能な状態となった。そこで、昭和8年(1933年)に西園寺を助ける目的で「重臣」制度が設けられて、総理大臣経験者と枢密院議長が元老西園寺とともに会議を開いて後継選定を図ることにしたのが始まりである(五・一五事件後の後継首相...
  • 第2次松方内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ まつかた ないかく|6|松方正義|Template 和暦?|9月18日|Template 和暦?|1月12日|藩閥内閣(進歩党協力)|第5回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/06.html|前職 = 前大蔵大臣}} 概要 Template 和暦?9月10日、松方に大命が降下したものの、以前の第1次松方内閣のときの帝国議会対策での失敗もあり組閣も順調とはいかなかった。三菱財閥の岩崎弥之助は松方に大隈重信の進歩党との連携を提案した。だが、超然主義者の前首相山縣有朋を始め、松方自身が率いる薩摩閥からも反対論が出た。松方は進歩党からは大隈の外務大臣以外の入閣は認めなかったものの、書記官長・法制局長官、更に当時勅任官であった参事官の一部を進歩党系から出すことで...
  • 立憲政友会
    立憲政友会(りっけんせいゆうかい)は、日本の明治後期から昭和前期までの、立憲民政党とならぶ二大政党の1つである(1900年9月15日 - 1940年7月16日(正統派・統一派)/同7月30日(革新派))。略称は政友会(せいゆうかい)。 沿革 1900年(明治33年)9月15日、超然主義の破綻と政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した。伊藤自身が初代総裁となり、伊藤系官僚と憲政党(旧自由党)・帝国党が中心となって創立された。政党に不信感を持っていた明治天皇は伊藤の政党結党に対して強く反対したが、伊藤は議会の中に天皇と国益を重んじる政党が必要であることを力説して了承を得る(このとき、伊藤を通じて下賜金2万円が政友会に与えられた)。10月に政友会を中心に第4次伊藤内閣を成立させる。だが、依然として超然主義を奉じる貴族院最大会派の研究会は伊藤の入党要請を拒絶する会派決議を...
  • 第3次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい3じ かつら ないかく|15|桂太郎|Template 和暦?|12月21日|Template 和暦?|2月20日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/15.html|元老・内大臣兼侍従長}}在任期間は62日間で、東久邇宮内閣(54日間)に次いで史上第2位の短命内閣である。 概要 これまで「桂園時代」と呼ばれて桂太郎と西園寺公望が交替して政権を担当しており、順番からすれば桂が推挙される筈であったが、この頃、桂と山縣有朋の確執が深刻化し、4ヶ月前の大正天皇践祚を機に内大臣兼侍従長に祭り上げられていた。そのため、元老の中から松方正義が推されたが78歳であることを理由に辞退し、山本権兵衛・平田東助も組閣の自信がないとして辞退した。このため、山縣もやむなく桂を再度推挙することとした。桂は山縣には依存...
  • 帝人事件
    帝人事件(ていじんじけん)は、昭和初期の疑獄事件。斎藤実内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となり、倒閣を目的にしたでっち上げと言われた。 経緯 帝国人造絹絲株式会社(帝人)は鈴木商店の系列であったが、1927年の恐慌で鈴木商店が倒産すると、帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になった。業績が良好で株価が上がったため、この株をめぐる暗躍が起こっていた。元鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、鳩山一郎や「番町会」という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻した。その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。 1934年1月、時事新報(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事を掲載、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。当時文部大臣の鳩山一郎は議会で関連を追及され「明鏡止水の心境」と述べたところ、辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任。(なお...
  • 第2次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ かつら ないかく|13|桂太郎|Template 和暦?|7月14日|Template 和暦?|8月30日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/13.html|陸軍大将・軍事参議官}} 概要 第2次桂内閣は、1908年(明治41年)7月12日に大命降下を受けた桂が、首相と大蔵大臣を兼務して発足する。戊申詔書による風紀引き締めと同時に社会主義運動を弾圧、大逆事件(幸徳事件)の摘発や南北朝正閏問題への介入、出版物の取締強化を行った。また、徹底した緊縮財政とともに地方改良運動を起こして地方の立て直しを図った。外交面では韓国併合を実現し、関税自主権の回復による条約改正の終了などが日本の国際的地位向上に尽くした。大逆事件に対する責任追及が上がると、立憲政友会との「情意投合」を宣言して、秘かに西園...
  • 赤旗事件
    赤旗事件(あかはたじけん)とは、1908年(明治41年)6月22日に発生した社会主義者弾圧事件である。別名「錦輝館事件(きんきかんじけん)」、「錦輝館赤旗事件(きんきかんあかはたじけん)」。 背景 明治期の日本では、極めて過酷な労働環境への反発から労働組合期成会が結成されるなど、社会運動が高まりを見せていた。これに対し、政府側は1900年に治安警察法を制定して運動の規制に乗り出した。1901年5月20日、安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、西川光次郎ら6名を発起人として、日本初の社会主義政党「社会民主党」が結成されるが、第4次伊藤内閣は直後にこれを禁止した。1900年にやはり安部らが結成した社会主義協会は、4年後に第1次桂内閣により解散の憂き目に遭っている。 1906年1月7日、桂太郎に替わって西園寺公望が首相に就任、第1次西園寺内閣が発足した。西園寺は社会主義をみだりに弾圧することを避け、...
  • 近衞文麿
    Template 日本の内閣総理大臣? 近衞 文麿(このえ ふみまろ、明治24年(1891年)10月12日 - 昭和20年(1945年)12月16日)は、日本の政治家。第5代貴族院議長。第34、38、39代内閣総理大臣。 爵位は公爵であり、かつ五摂家筆頭である近衛家の当主。後陽成天皇の12世孫にあたる。 来歴・人物 生い立ち 1891年(明治24年)10月12日、公爵近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵前田慶寧の三女・衍子の間の長男として、東京市麹町区(現:千代田区)で生まれた。文麿は皇別摂家の生まれであり、父系をさかのぼると天皇家に行き着く。しかし母は文麿が幼いときに病没、篤麿は衍子の妹・貞を後妻に迎えるが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかった貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由といわれる。一方の文麿は貞を長年実母と...
  • 第3次伊藤内閣
    {{日本の内閣記事|だい3じ いとう ないかく|7|伊藤博文|Template 和暦?|1月12日|同年|6月30日|藩閥内閣|第6回衆議院議員総選挙|同年6月10日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/07.html|元老}} 概要 地租増徴を目指して衆議院を解散したものの、政局運営に自信を失った前総理松方正義に代わって伊藤が組閣した。だが地租増徴に反対する進歩党と自由党からの協力は得られなかったために、文部・農商務・逓信を自派(「伊藤系官僚」)が、内務・司法・陸軍を山縣有朋系が占める超然内閣を作らざるを得なかった。 第5回衆議院議員総選挙では自由・進歩両党が圧勝、これに対して伊藤は選挙から僅か3ヶ月で再度衆議院を解散した。だが、これに対して進歩党と自由党が合同して憲政党を結成、貴族院も政権に非協力な態度を取った為に、伊藤は自らの政...
  • 宮中某重大事件
    宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)は、1921年(大正10年)に、裕仁親王(当時皇太子、のちの昭和天皇)の妃に内定していた良子女王(のちの香淳皇后)について、家系に色盲の遺伝があるとして、元老・山縣有朋たちが女王及び同宮家に婚約辞退を迫った事件である。 概要 良子女王の兄・朝融王が、学習院の身体検査において色弱だったことが発見されたのが発端となった。元老の山縣らは、良子女王の家系が色盲の遺伝があるとして、女王及び久邇宮家に婚約辞退を迫った。 当時軍部と政界に隠然たる勢力を持っていた山縣による皇室への干渉は、宮中・政府・世間を巻き込んだ騒動になった。1920年(大正9年)6月18日に宮内大臣波多野敬直が更迭され、これに代わって元満鉄総裁の中村雄次郎が色覚異常の真偽を確かめることになった。 これを受けた当初は久邇宮家も辞退やむなしの動きを見せたが、当時病気療養中であ...
  • 第1次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ かつら ないかく|11|桂太郎|Template 和暦?|6月2日|Template 和暦?|1月7日|官僚内閣、帝国党|第7回衆議院議員総選挙第8回衆議院議員総選挙第9回衆議院議員総選挙|(1902年(明治35年)8月10日任期満了)1902年(明治35年)12月28日1903年(明治36年)12月11日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/11.html|陸軍大将}}この後、10年以上にわたって続く桂園時代の初めの内閣である。 概要 前の第4次伊藤内閣の崩壊後、当初井上馨に大命降下されたが、期待していた渋沢栄一の大蔵大臣就任が実現せず、同じく立憲政友会も混乱状態にあったため、井上は組閣辞退を表明した。元勲世代からの総理大臣擁立は困難と考えた元老によって、新たに推されたのが桂であった。山縣有朋系官僚を中心...
  • 憲政本党
    憲政本党(けんせいほんとう)は、明治時代の日本の政党である(1898年11月3日-1910年3月13日)。 概要 1898年、自由党と進歩党が合同して憲政党を結成して第1次大隈内閣を組織するが間もなく分裂、10月29日に先手を打った旧自由党系が憲政党解散決議と同時に党名・綱領・規約はそのままとして役員を全て旧自由党系に入れ替えた新しい憲政党の届出を内務省に提出した。当時の内務大臣は旧自由党の党首であった板垣退助であったことから、直ちに承認された。これに対して大隈重信首相を擁する旧進歩党系(進歩派とも)はこれに対抗して正式な党大会を開催しようとしたが、内務省はこれを違法な政治集会と認定して開催を許可せず、11月2日には旧進歩党系に対して、同一の政党名を用いて結社を行い(旧自由党系)憲政党の政治活動を妨害を企てたとして、「憲政党」という名称の使用禁止命令が発せられた。このため、やむなく...
  • 上原勇作
    上原勇作(うえはらゆうさく、安政3年11月9日(1856年12月6日) - 昭和8年(1933年)11月8日)は、明治~昭和の軍人、元帥陸軍大将、子爵。第2次西園寺内閣時の陸軍大臣、第7代教育総監、参謀総長。日向国都城(現宮崎県都城市)出身。父は薩摩藩士。妻は野津道貫の娘。 人物 1879年陸軍士官学校卒業(同期に秋山好古など)。主にフランス陸軍を範とし日本陸軍工兵の近代化に貢献し、「日本工兵の父」と称される。日露戦争には、岳父野津道貫(第4軍司令官)とともに第4軍参謀長として参加。 以後は軍政畑において重職を歴任し活躍する。1912年、陸相の石本新六が在任中に死去したため後任の陸相に就任。軍事力を強化するために陸軍が提案した2個師団増設案を、西園寺公望首相が財政を緊縮するために拒否したため、帷幄上奏権を行使して大臣を辞任。この後陸軍は、上原の後任者をあえて出さず軍部大臣現役武官...
  • ゾルゲ事件
    ゾルゲ事件(ゾルゲじけん)は、1941年9月から1942年4月にかけて山村八郎 (1949)、21頁。リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして逮捕された事件。この組織の中には近衛内閣のブレーンとして活動した尾崎秀実もいた。 経緯 逮捕 太平洋戦争開戦直前の1941年9月から1942年4月にかけて、ゾルゲや尾崎らのグループはスパイ容疑で警視庁特高一課と同外事課によって逮捕された。軍事情報のスパイは陸軍の憲兵隊の管轄であるが、コミンテルンのスパイとして特別高等警察が取り扱ったゾルゲは実際にはコミンテルンではなく、労農赤軍参謀本部第4局に所属していた。。 まず1941年6月に日本共産党員であった伊藤律が逮捕され、アメリカ共産党員で当時日本に住んでいた北林トモの名を自供、警視庁は北林を9月28日に逮捕。さらに北林がアメリカ共産党の同志...
  • 齋藤内閣
    {{日本の内閣記事|さいとう ないかく|30|齋藤實|Template 和暦?|5月26日|Template 和暦?|7月8日|挙国一致内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/30.html|前朝鮮総督・枢密顧問官}} 概要 五・一五事件によって総裁の犬養毅が暗殺された立憲政友会は、後継総裁として1932年(昭和7年)5月17日に鈴木喜三郎を総裁に選出した。これは、元老西園寺公望がテロ後の首班を同じ政党の党首に推薦してきた慣例を考え、大命降下を待ったものであった。しかし、陸軍が政党内閣を拒否したため、調整の結果、西園寺は齋藤實を推薦することになった。 Template 和暦?9月、満州国の独立を承認し、日満議定書を締結する。Template 和暦?3月、国際連盟を脱退。 閣僚 内閣総理大臣 齋藤實(1932年...
  • 平沼騏一郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日(慶応3年9月28日) - 1952年(昭和27年)8月22日)は、日本の官僚。第35代内閣総理大臣。従二位勲一等、男爵、法学博士。日本大学第2代総長。大東文化学院(後の大東文化大学)初代総長。大東文化協会(大東文化大学の設立母体)三代会頭。国本社の創設者。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、東京裁判でA級戦犯で訴追され終身刑の判決。1952年、病気仮釈放、直後に死去。1978年に靖国神社に合祀された。 人物像 生い立ち 1867年(慶應3年)9月28日、津山城下南新座(後の岡山県津山市)に津山藩士平沼晋の次男としてうまれる。 1872年(明治5年)に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年(明治11年)に東京大学予...
  • 護憲運動
    護憲運動(ごけんうんどう)とは、大正時代に発生した立憲政治を擁護する国民や政党などの運動。憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)とも呼ばれている。 なお、第一次憲政擁護運動については大正政変の項目も併せて参照のこと。 第一次憲政擁護運動 第一次憲政擁護運動の背景と発端 明治時代から大正時代にかけて、日本の政治は元老と呼ばれる9人の実力者たちによって牛耳られていた。この9人は江戸幕府を倒す討幕運動のとき功績を挙げた人物たちで、山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文の9名のことである。この9名のうち、8名は薩摩藩・長州藩の出身者で、法的な規定は無かったが、大日本帝国憲法の下で首相を決定することができる権限を持っていた人物たちで、いわゆる藩閥政治を形成していた。 しかし明治時代が終わり、大正時代という新たな時代を迎えた国民は、このよう...
  • 桂太郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 桂 太郎/桂 清澄(かつら たろう/かつら きよずみ、弘化4年11月28日(1848年1月4日) - 大正2年(1913年)10月10日)は、日本の武士・長州藩士、軍人、政治家。第11・13・15代内閣総理大臣。元老、陸軍大将・正二位・大勲位・功三級・公爵。台湾協会学校(現拓殖大学)創立者初代校長。毛利家の庶流で重臣であった桂家の出身で、大江広元や桂元澄などの子孫に当たる。通称は「太郎」、諱は清澄(きよずみ)。元老第二世代。長州閥で山縣有朋の直系。 経歴 長門国阿武郡萩町、萩城下の武家屋敷地である平安古(現・山口県萩市平安古)に生まれる。父は長州藩士の桂與一右衛門(禄120石余り)で長男、母は藩士中谷家の娘喜代子。桂家の遠祖は戦国時代の桜尾城主・桂元澄と言われ、桂姓は安芸国高田郡桂村に由来するといわれる。 幼少時に阿武郡川島村(現・山口県...
  • 日比谷焼打事件
    日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)は、日露戦争後の賠償に対する不満から、1905年9月5日、東京日比谷公園の集会をきっかけに起こった暴動のこと。 概要 1905年のポーツマス条約によってロシアは樺太全島および遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、同条約では戦勝国であるはずの日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかった為、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。そのため、世論の非難(日本内部)が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令も敷かれた。 原因 1905年、日露戦争は東郷平八郎率いる日本海軍がロシア海軍のバルチック艦隊を撃破したことを契機に、...
  • 教育ニ関スル勅語
    『教育ニ関スル勅語』(きょういくにかんするちょくご)は、明治時代に日本の教育の根幹をなすものとして発表された勅語である。『教育勅語』(きょういくちょくご)ともいう。 内容 教育勅語は、明治天皇が国民に語りかける形式をとる。まず、歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの博愛、学問の大切さ、遵法精神、事あらば国の為に尽くすことなど12の徳目(道徳)が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。以上を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに明治天皇自らこれを守るために努力したいと誓って締めくくる。 これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、それを直接日...
  • 交友倶楽部
    交友倶楽部(こうゆうくらぶ)は、1912年12月24日より1947年5月3日の日本国憲法公布まで存在していた貴族院の院内会派。ただし、上記の設立日は院内交渉団体として届出があった日であり、実際には遅くても同年初めには親睦団体として存在していた(『原敬日記』)。貴族院における立憲政友会系の会派として活動した。 元は立憲政友会の第2次西園寺内閣を支持する勅選議員や多額納税議員の親睦団体であったが、1912年12月24日に院内交渉団体として届出を行って正式に発足した。結成時の幹事は勅選議員(奥田義人・岡野敬次郎・安楽兼道)・多額納税議員(佐藤友右衛門・森田庄兵衛・山下喜兵衛)ともに3名ずつ選出され、他に石渡敏一・杉田定一・水野錬太郎・江原素六・松岡康毅・室田義文らを合わせて25名が参加していた。立憲政友会の勢力拡大とともに会員を常時30名を超え、最盛期には47名を数えた。また、非政党内閣であっ...
  • 内閣総理大臣の一覧
    内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 18...
  • リヒャルト・ゾルゲ
    {{Infobox 軍人 |name=リヒャルト・ゾルゲTemplate lang-ru-short? |lived=1895年10月4日 - 1944年11月7日 |placeofbirth=アゼルバイジャン、バクー |placeofdeath=巣鴨拘置所 |image= |caption=リヒャルト・ゾルゲの功績を称えて発行された旧ドイツ民主共和国の切手 |nickname= |allegiance=ソビエト軍 |serviceyears= |rank= |commands= |unit=労農赤軍参謀本部第4局 |battles= |awards=ソ連邦英雄勲章 (死後) |laterwork= |Mausoleum=多磨霊園 }} リヒャルト・ゾルゲ(Template lang-ru-short?、Template lang-de-shor...
  • 辰丸事件
    辰丸事件(たつまる じけん)は、中国における排日運動の嚆矢となった有名な事件。1908年(明治41年)2月5日に、澳門沖に起きた日本船第二辰丸の拿捕事件である。 経緯 澳門のポルトガル人銃砲商が発注した銃器94函、弾薬40函及び石炭等を積載して神戸を出た汽船第二辰丸は、澳門前面の水域において清国拱北関の巡視船四隻に武器密輸の嫌疑で拿捕され 、日章旗を撤去 、広東に廻航された。日本側は密輸行為を無視し、領海問題、日章旗問題を口実に中国と強硬な交渉を行い、謝罪と10万円の損害賠償を要求した。しかし、清国政府は革命党の問題に悩まされている最中であり、容易に日本の条件を受け入れなかった。一方、日本では、第1次西園寺内閣が様々な国内事情を抱え、帝国議会、軍部、財界の圧力にさらされており、この局面を挽回しようと南清艦隊を動かして清国政府を威嚇した。結果、清国政府は3月15日、辰丸釈放、損害賠償...
  • 山縣有朋
    Template 日本の内閣総理大臣? Template Infobox 軍人? 山縣 有朋(やまがた ありとも、1838年6月14日(天保9年閏4月22日)- 1922年(大正11年)2月1日は、日本の政治家、軍人。幼名は辰之助、通称は小輔、後に狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。 奇兵隊を率いて倒幕で活躍。明治新政府では日本陸軍の基礎を築いた。晩年は陸軍のみならず政界の黒幕として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代内閣総理大臣。元老。位階勲等は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・公爵。また、大英帝国のメリット勲章も受章している。 経歴 幕末期 萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔の長男として生まれる。将来は槍術で身を立てようと少年時代から槍の稽古に励んでいた。 久坂玄瑞の紹介で吉田松陰が主催する...
  • 寺内正毅
    Template 記事名の制約? Template 日本の内閣総理大臣? 寺内 正毅(てらうち まさたけ、嘉永5年2月5日(1852年2月24日) - 大正8年(1919年)11月3日)は、日本の陸軍軍人(元帥)、政治家。第18代内閣総理大臣(在任 大正5年(1916年)10月9日 - 大正7年(1918年)9月29日)。元帥陸軍大将従一位勲一等功一級伯爵。  経歴 1852年、現在の山口市に長州藩士宇多田正輔の三男として生まれる。後に母方の寺内家を継いだ。 明治元年(1868年)、御盾隊隊士として戊辰戦争に従軍し、箱館五稜郭まで転戦した。その後山田顕義の推薦によって陸軍士官として累進し、西南戦争最大の激戦とされた田原坂の戦いで負傷して右手の自由をなくした。そのため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。 閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学(駐...
  • 阿部信行
    Template 日本の内閣総理大臣? 阿部 信行(あべ のぶゆき、明治8年(1875年)11月24日 - 昭和28年(1953年)9月7日)は日本の陸軍軍人、政治家。第36代内閣総理大臣。 人物 石川県金沢市に旧金沢藩士の子としてうまれる。東京府尋常中学(のち東京府立一中)を経て、第四高等学校在学時に日清戦争があり、軍人志望に転換、四高を中退し、陸軍士官学校へ。陸士9期生、陸軍大学校19期生。1930年12月22日に第4師団長となる。1933年、軍事参議官。1936年、二・二六事件後の粛軍の結果、陸軍大将を最後に予備役編入。 1939年8月30日に内閣総理大臣に就任した。参謀本部軍務課長・有末精三が内閣成立に暗躍したともいわれる。また同郷出身者で多くを構成する阿部内閣は「阿部一族」とも「石川内閣」とも呼ばれた。当初は外務大臣を兼任した。2日後の9月1日には第二次世界大戦が勃発した...
  • 加藤高明
    Template 日本の内閣総理大臣? 加藤 高明(かとう たかあき)、1860年1月25日(安政7年1月3日) - 1926年(大正15年)1月28日)は日本の外交官、政治家。第24代内閣総理大臣。正二位 大勲位 伯爵。幼名は総吉。娘は岡部長景の妻。新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。 生涯 財界への歩み 尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として生まれた。父は尾張海東郡佐屋(後の愛知県海部郡佐屋町、現在は愛知県愛西市)の代官の手代だった。明治5年(1872年)祖母加奈子の姉あい子の加藤家に養子に入り、高明と改名。旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)・名古屋洋学校を経て、東京大学法学部を首席で卒業。三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎の長女春路と結婚(このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と揶揄される)。...
  • 原敬
    Template 日本の内閣総理大臣? 原 敬(はら たかし、安政3年2月9日(1856年3月15日) -大正10年(1921年)11月4日)は、日本の政治家。幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣(在任1918年9月29日 - 1921年11月4日)。正二位大勲位。 概説 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満Template 没年齢?。 なお、通称名である「はら けい」が用いられる...
  • 大村益次郎
    大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日))は、幕末期の長州藩(現・山口県)の医師、西洋学者、兵学者。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)。諱は永敏。位階は贈従三位、後に従二位。家紋は丸に桔梗。 生涯 村医 周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじ)字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の門下となり、1844年6月まで学ぶ。弘化3年(1846年)、大坂に出て緒...
  • 大正デモクラシー
    大正デモクラシーとは日本の大正時代に現れた政治・社会・文化の各方面における民主主義、自由主義的な運動を指す。何をもって「大正デモクラシー」とするかの定義については諸説あり、その定義によって大正デモクラシーと呼称される期間もTemplate 和暦?-Template 和暦?とする説、Template 和暦?-Template 和暦?とする説、Template 和暦?-Template 和暦?とする説など諸説あるが、いずれも大正天皇の在位期間(Template 和暦?-Template 和暦?)を中心とし1918年の第一次世界大戦の終了と富山県で発生した米騒動をデモクラシー運動はじまりの中核として取り上げる点については共通している。 概要 大正デモクラシー運動(あるいは単に大正デモクラシー)は、大正時代に興った日本全体を巻き込む民主主義的あるいは自由主義的な風潮・思潮の総称であり、政治...
  • 政党内閣
    政党内閣(せいとうないかく)とは、議会に議席を保持する政党を基礎に組織された内閣のこと。議院内閣制ともいい、議会の信任に基づいて政権を運営する。 現在では議会制民主主義(間接民主制)の制度を取り入れている諸国の内閣が政党内閣の形態である。ただし、アメリカ合衆国のように議院内閣制を採用していない国では、政党政治が実施されていても、その政権をさして政党内閣とは呼ばない場合が多い。また、社会主義・共産主義国家やファシズム国家などに見られる一党独裁体制も政党が政権を掌握していたとしても政党内閣とはいえない。 各国の政党内閣 イギリス 政党内閣が典型的な発展を見せたのは17世紀後半のイギリスである。ホイッグとトーリーの両党派が相互に勢力を競い、後に自由党と保守党による二大政党制へと移行した。1900年前後に議院内閣制の慣行が確立されると政党内閣による政権運営が定着した。 日本 日本...
  • 十月事件
    十月事件(じゅうがつじけん)とは、1931年(昭和6年)10月の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された、クーデター未遂事件である。別名錦旗革命事件(きんきかくめいじけん)。 背景 1931年9月18日深夜、柳条湖事件が発生、これを端緒として満州事変が勃発した。当時外務大臣であった幣原喜重郎を中心とした政府の働きにより、不拡大・局地解決の方針が9月24日の閣議にて決定された。しかし、陸軍急進派はこの決定を不服とし、三月事件にも関わった桜会が中心となり、大川周明・北一輝らの一派と共にこの動きに呼応するクーデターを計画した。 計画の概要 150px|thumb|[[橋本欣五郎(1931年)]] 十月事件の計画概要としてはかつての二・二六事件と同じく軍隊を直接動かし、要所を襲撃し、首相以下を暗殺するというもので、決行の日を10月24日早暁 ref name= oou...
  • 中江兆民
    Template Infobox Celebrity? 中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日(1847年12月8日) - 明治34年(1901年)12月13日)は、江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)である。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、「東洋のルソー」と評される。衆議院当選1回、第1回衆議院議員総選挙当選者の一人。 父は土佐藩足軽の元助で長男、母は土佐藩士青木銀七の娘で柳。弟に虎馬。妻・ちのは長野県出身。子は一男一女。娘の千美は竹内綱の3男虎治の妻で、その娘は中国共産党員であった鈴江言一の妻、浪子。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。 中江家は、初代伝作が明和3年(176...
  • 大同倶楽部
    大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、明治時代の日本の政党である。時期をずらして、民党の大同倶楽部と、吏党の大同倶楽部の二つが結成されたが、いずれも短命であった。 大同倶楽部 (1889年 - 1890年) 大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、日本最初の自由党解散後、大同団結運動の一片として、1889年 (明治22年) 5月10日に結成され、翌1890年 (明治23年) 8月17日に解散した。 1884年に自由党が解散してからしばらく後、1886年に民権派政治家の力を結集するべく、大同団結運動が呼びかけられた。1889年にはこの運動に沿った組織結成の機運が高まったが、この時、まとまった政治団体を志向する河野広中・犬養毅ら政社派と、ゆるやかな連絡組織を望んだ大井憲太郎らの非政社派の対立が表面化した。そして大同団結運動の主導者であった後藤象二郎が突如黒田内閣の逓信大臣として入閣して運動からの離脱を...
  • 広田弘毅
    Template 日本の内閣総理大臣? 広田 弘毅(廣田 弘毅、ひろた こうき。明治11年(1878年)2月14日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の外交官、政治家。第32代内閣総理大臣。 生涯 生い立ち 1878年(明治11年)2月14日、福岡県那珂郡鍛冶町(現・福岡市中央区天神3丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれる。徳平は箱崎の農家の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。今日でも福岡市の東公園内にある亀山上皇像の銘板には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている。 初名は丈太郎(じょうたろう)。信仰している禅宗の僧侶に相談に行き、「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われて『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅...
  • 田中義一内閣
    {{日本の内閣記事|たなかぎいち ないかく|26|田中義一|Template 和暦?|4月20日|Template 和暦?|7月2日|立憲政友会|第16回衆議院議員総選挙|1928年(昭和3年)1月21日普選解散|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/26.html|立憲政友会総裁・貴族院議員}} 概要 昭和金融恐慌の発生によって窮地に陥った第1次若槻内閣は、緊急勅令によって事態切り抜けを図ったが、幣原外交に反感を抱く枢密院の平沼騏一郎や伊東巳代治の策動で否決されて倒れた。元老西園寺公望と内大臣牧野伸顕はともに憲政常道の観点から立憲政友会総裁の田中義一を後継に推挙し、陸軍出身の田中に幣原外交路線の破棄を期待する反西園寺派の平沼・伊東までがこれに便乗した。金融恐慌に動揺する貴族院にも田中待望論の動きが高まった。 大命降下を受けた田中は平沼...
  • 立憲国民党
    立憲国民党(りっけんこくみんとう)は、日本の明治末期・大正時代の政党。 立憲政友会が藩閥政府と妥協したことに反発した、反政友会各派が合同運動を繰り広げるが、1910年(明治43年)3月14日 立憲改進党の系譜につながる憲政本党を中心に又新(ゆうしん)会と戊申倶楽部の3派(代議士は計92名)が合同して結党された。 党首は不在で、憲政本党の大石正巳、犬養毅、又新会の島田三郎、河野広中、戊申倶楽部の片岡直温、仙石貢らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して民党の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする「非改革派」と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る「改革派」が対立していた。1911年(明治44年)1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。第2次桂内閣や第2次西園寺内閣では南北朝正閏問題や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。 19...
  • 清浦奎吾
    Template 日本の内閣総理大臣? 清浦 奎吾(きようら けいご、嘉永3年2月14日(1850年3月27日) - 昭和17年(1942年)11月5日)は、日本の政治家。第23代内閣総理大臣。正二位伯爵。肥後(熊本県)出身。幼名は普寂(ふじゃく)。司法官僚を経験後、貴族院議員となり司法大臣、農商務大臣、枢密院議長を歴任。1924(大正13)年の組閣では、ほぼ全閣僚を貴族院議員としたため(超然内閣)、護憲三派が激しく非難。わずか5ヶ月で総辞職した。清浦首相時代は、大正デモクラシーが最も高揚した時代でもあった。 生涯 山縣有朋側近中の側近 清浦奎吾は1850年(嘉永3年)2月14日、肥後国鹿本郡来民村(現・山鹿市)の明照寺住職・大久保了思の5男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。清浦は1865年(慶応元年)から、豊後日田で、漢学者・広瀬淡窓が主催する咸宜園に学び、日田で知り合った...
  • 枢密院 (日本)
    thumb|right|300px|Template 和暦?[[10月29日、「修正帝国憲法改正案」 (日本国憲法案)を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。]] 日本における枢密院(すうみついん)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。Template 和暦?創設、Template 和暦?に廃止。略称は枢府(すうふ)。議長は枢相(すうしょう)とも呼ばれた。 沿革 Template 和暦?に憲法草案審議を行うため、枢密院官制に基づいて創設され、Template 和暦?に公布された大日本帝国憲法でも天皇の最高諮問機関と位置付けられた。初代議長は、伊藤博文。 国政に隠然たる権勢を誇っていたが、Template 和暦?の満州事変以後、政党勢力が後退して軍部の台頭が顕著になるに連れてその影響力は低下し、日本国憲法施行によ...
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