chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「講和」で検索した結果

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  • パリ講和会議
    thumb|240px|right|パリ講和会議における各国首脳、写真左から[[ロイド・ジョージ(イギリス)、ジョルジュ・クレマンソー(フランス)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド(イタリア)、ウッドロウ・ウィルソン(アメリカ)]] パリ講和会議(パリこうわかいぎ、Paris Peace Conference)は、1919年1月18日に開会され、第一次世界大戦における連合国が同盟国の講和条件について討議した会議である。ヴェルサイユ宮殿で講和条約の調印式が行われたことから、ヴェルサイユ会議とも呼ばれているが、実際の討議のほとんどはパリのフランス外務省内で行われており、正しい呼称とは言えない(なお、調印式だけをヴェルサイユ宮殿で行った事の理由については、ヴェルサイユ条約を参照のこと)。 概要 第一次世界大戦は、1918年11月にウィルソンアメリカ合衆国大統領の14か条をドイツ...
  • 下関条約
    ...17日に日清戦争後の講和会議で調印された講和条約の通称。日清講和条約(正字体:日清媾和條約 Template DEFAULTSORT ?にっしんこうわじょうやく)ともいう。会議が開かれた山口県の赤間関市(あかまがせき-し、現在の下関市)の別称である「馬関」「赤間関」は本来は「赤馬関」で、江戸時代の漢学者がこれを漢文風に縮めて「馬関」としたもの。をとって、馬関条約(ばかん じょうやく)と呼ばれた条約調印後に「馬関」が「下関」になっても、「馬関海峡」が「関門海峡」になっても、この「馬関条約」は長らく使われ続けた。「下関条約」という言い換えが完全に定着するのは戦後になってからである。。「下関条約」はこの「馬関条約」の言い換えである。なお中国語では現在でも「馬關條約」という。 == 概説 == 主な内容 清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するよ...
  • ポーツマス条約
    ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく)は、日露戦争の講和条約。日露講和条約とも。1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを 日露講和会議、ポーツマス会議、ポーツマス講和会議と呼ぶ。 交渉の経緯 thumb|270px|ポーツマス会議。写真中の会議で使われたテーブルは[[博物館明治村にて展示されている]] 日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていた米国に仲介を依頼し交渉を行った。 当初ロ...
  • ヴェルサイユ条約
    ...た、第一次世界大戦の講和条約。ヴェルサイユ宮殿・鏡の間で調印されたことからこの名がある。ベルサイユ条約とも表記される。 この条約によりもたらされた国際秩序をヴェルサイユ体制という。 概要 thumb|220px|right|パリ講和会議における各国首脳、左から順に[[ロイド・ジョージ(イギリス)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド(イタリア)、ジョルジュ・クレマンソー(フランス)、ウッドロウ・ウィルソン(アメリカ)]] ヴェルサイユ条約は、6か月に渡るパリ講和会議の結果として締結され、この条約により第一次世界大戦は公式に終了した。敗戦国であるドイツの条約調印式は1919年6月28日に行われた。 ヴェルサイユ条約は1920年1月10日に批准され、その結果ドイツとその同盟国は戦争を引き起こした責任として、莫大な賠償金(後に1320億金マルクと決定、当時のドイツGNP2...
  • 李鴻章
    ...せん)。 日清戦争の講和条約である下関条約では清国の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行った。 来歴 安徽省合肥出身。1847年(道光27年)の進士となる。太平天国の乱の際には団練を率いて太平天国軍と戦い、その後曽国藩の幕僚となり、団練を元に曽国藩の湘勇に倣って淮勇を組織し、太平天国討伐に功績を上げた。 太平天国鎮圧後の捻軍鎮圧にも功績を上げ、1870年曽国藩の後を継ぎ直隷総督に就任した。この時に北洋大臣も兼ねたので淮軍はその後、北洋軍と呼ばれるようになった。 1876年、江華島事件に関連して、李氏朝鮮の宗属関係について日本の森有礼と協議。 その後は清の最高為政者として西太后の信任を得て清の洋務運動に尽力した。この時期には清のみならず世界でも指折りの政治家として各国から尊敬を受けた。 1884年の清仏戦争においては早々に講和をしベトナムに対する宗主権をフランスに明け渡...
  • 日比谷焼打事件
    ...位などを認めることで講和条約であるポーツマス条約に調印したのであった。 この条件は、国民が考えていた条件とは大きくかけ離れるものであった(日本側は賠償金50億円、遼東半島の権利と旅順-ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡などを望んでいた。一部右翼活動家の中にはイルクーツク地方以東のロシア帝国領土割譲がされると国民を扇動する者までいた)。このため、朝日新聞(9月1日付)に「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」などと書かれるほどであった。しかし、小村の交渉を伊藤博文などは高く評価している。また、首相の桂太郎と海相の山本権兵衛は小村を新橋駅に出迎え両脇を挟む様に歩き、爆弾等を浴びせられた場合は共に倒れる覚悟であったという。 長きにわたる戦争で戦費による増税に苦しんできた国民にとって、賠償金が取れなかった講和条約に対する不満が高まった。このため、...
  • 連合国軍最高司令官総司令部
    ...よって、日本との早期講和を行い、主権回復させて自力で防衛させることとなり、日本国との平和条約および日米安全保障条約の発効に至った。 GHQ/SCAPによるこれらの政策は、後に良くも悪くも論じられるが、日本が主権回復した後も、日本の国家の形態や日本人の精神・思想に多大な影響を及ぼし続けていると考えられている。 「慰安所」の設置 終戦直後の8月18日に、内務省は全国の警察に対して慰安所の設置を指令し、8月20日には近衛文麿国務相が特殊慰安施設協会(RAA)の設置を決めた。このような日本政府による「良家の子女を守るため」という大義名分を基に日本各地に慰安所が設置された。多数のアメリカ兵が利用したが、アメリカ兵による性犯罪も多発し、犯罪防止の効果は不明である。 対日講和 日本政府は終戦によって軍人や強硬派政治家・官僚が失脚し、吉田茂(外務大臣、後首相)など国際協調派が主...
  • 十四か条の平和原則
    ...し、1919年のパリ講和会議では、アメリカの中心的な主張となった。 主に以下のことが柱になっている。 秘密外交の廃止 海洋の自由 経済障壁の撤廃 軍備縮小 国際平和機構の設立 民族自決 植民地問題の公正解決 国際平和機構は後に国際連盟として結実した。 しかしながら、パリ講和会議ではイギリスやフランスに無視され、ドイツに対して過酷な賠償を科すこととなった。形式的に東欧で民族自決の原則により独立が認められた国々があったがこれはあくまでもロシア革命やハンガリー革命から西欧を防衛することを目的とした方便によるものであり(そして、70年後のチェコスロバキア・ユーゴスラビア解体後にこの事が批判を受けることになる)、アジア・アフリカの西欧列強の支配下に置かれた植民地の独立は反故にされた。 関連項目 大西洋憲章 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wik...
  • 奉天会戦
    ...日本軍有利の今の内に講和を結ぶため、賭けとも言える総力戦を挑んだ。大山巌は「本作戦は、今戦役の関ヶ原とならん」と訓示し、その決意を将兵たちに示した。 経緯 前哨戦(2月21~28日) ロシア側は、当初日本側左翼(第二軍、特に秋山支隊が防衛する黒溝台付近)に対する攻勢を企図していたが、2月21日、それよりわずかに早く日本軍最右翼の鴨緑江軍(満州軍揮下)が陽動のために進軍を開始し、清河城にこもるロシア軍を攻撃した。しかし鴨緑江軍は、乃木第三軍より編入された四国善通寺第11師団と後備第1師団によって編成されており、このうち第11師団は現役兵師団ではあったが旅順攻囲戦によって現役兵を大量に失い、応召兵によって補充されていたため戦力的には問題があった。このため、日本軍得意の夜襲をかけても逆にロシア軍から夜襲を受けるなど、開戦時の日本軍に比べると攻撃に精彩を欠いていた。鴨緑江軍は何と...
  • 吉田茂
    ...に「イギリスを通して講和を進めるために荷物扱いでもいいから潜水艦か航空機で自分を運んで欲しい」と懇願した。しかし小沢からは十中八九沈められる旨と憲兵隊に目を付けられている点を指摘し丁重に断られた。憲兵隊に拘束されたのはその翌日だった、と著している。 第二次世界大戦後 終戦後の昭和20年(1945年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。翌・昭和21年(1946年)5月、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾。首相に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。 昭和22年(1947...
  • 七博士意見書
    ...ムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張したため、文部大臣久保田譲は1905年8月に文官分限令を適用して休職処分とした。ところが、戸水は金井・寺尾と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出したため、久保田は東京帝国大学総長の山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭した。このため、東京帝国大学・京都帝国大学の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言した。このため、翌年1月に戸水の復帰が認められた(「戸水事件」)。   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月17日 (土) 04 05。    
  • 樺太
    ...連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本政府は国際法上、南樺太は所属未定地であるとしている。また、太平洋戦争において日本本土最後の地上戦が行われた。 この項目では、原則的には、日本が敗戦により行政権を失う前について記述する。それ以降についてはサハリン州の項目も参照されたい。 名称 「からふと」の名は、一説には、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ kamuy kar put ya mosir」と呼んだ事に由来すると言う。これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる。 江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。 「サハリン」ま...
  • 顧維鈞
    ...行、各国の公使、パリ講和会議、ワシントン会議、関税会議の各中国全権代表などの要職を歴任した。 祖父は郷紳の出身で、江蘇省嘉定県(現 上海市嘉定区)の官職にあったが、太平天国の時期に暴徒によって拷問の上、殺害され、財産を奪われた。顧の誕生後、父・顧溶は官営の招商局所属の汽船の会計係となり、生活は安定した。 1899年キリスト教衛理公会経営の上海英華学院に入学、初めて英語を学習した。1900年には病気のため、実家の近くにある育才学校に転校。 1901年キリスト教聖公会経営の上海聖約翰書院に入学した。1905年コロンビア大学に入学、1908年文学士、1909年政治学修士、1912年国際法・外交博士を取得した。同大学では中国人留学生の発行する機関紙の編集にも携わり、またアメリカ国際法学会、アメリカ政治学会会員としても活躍し、後に1916年にはイェール大学より名誉法学博士の学位を授与され...
  • 日清戦争
    ...に向かった。 講和条約 開戦直後からイギリスは講和斡旋へ動き、清も1895年1月に講和使節を日本に派遣した。しかし、日本は遼東半島の完全占領を目指していたため、この講和条件を受け入れなかった。1895年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれた。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意した。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行った。 条約の主な内容は次の通り 清は朝鮮が独立国であることを認める。 清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。 清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。 このほかにもイギリスが清に要求して、まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、イギリスの立場を日本が代弁してい...
  • 対華21ヶ条要求
    ...19年、大戦後のパリ講和会議でも日本の要求が認められたが、中国国内では学生デモを発端に各地でストライキが起こり、軍閥政権は屈服した(五四運動)。日本の中国政策を批判する国際(特にアメリカの)世論が高まり、ワシントン海軍軍縮条約の場を借りた二国間協議で、日本は山東省権益などを放棄した。 正式な名称と「通称」 対華21ヶ条要求には正式な名称は存在しない。したがって、次のような言い方は、いずれも 通称 であり、いずれも間違いとはいえない。 「対華」、「対支」、「対中」、または入れないか 「5号」、「五号」、または入れないか(横書きならば数字が、縦書きならば漢数字が、それぞれ使われることが多い) 「21」、「二十一」、「二一」(横書きならば数字が、縦書きならば漢数字が、それぞれ使われることが多い) 「か条」、「ヵ条」、「カ条」、「ヶ条」、「ケ条」、「箇条」、「個条」、「条」...
  • 第一次世界大戦-2
    ...ボリシェヴィキ政府と講和したことで、東部戦線から西部戦線へ部隊を転進させることができるようになった。西部戦線へ送り込まれるドイツ軍の増援と、新しく連合軍に加わるアメリカ軍とによって、戦争の最終結果は西部戦線で決定されることになった。皮肉なことではあるが、ブレスト=リトフスク条約で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかもしれない。 ドイツ参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフは、アメリカ軍の到着により、これ以上長引く戦争に勝利することはできないことを悟っていた。更に、戦争の長期化によりヨーロッパ全土で社会崩壊と革命の可能性が高まることを恐れるようになった。しかし、東部戦線からの増援と新しい歩兵戦術の使用により、西部戦線での迅速な攻勢によって決定的な勝利を得ることに大きな望みを賭けていた。作戦は英仏両軍の中間に攻勢をか...
  • 遼東半島
    ... 日本は日清戦争の講和条約である1895年の下関条約でここを割譲させたが、三国干渉にあって返還した。しかし日露戦争後のポーツマス条約で、日本は遼東半島のうち先端部にあたる関東州の租借地をロシアから獲得した。 その後、関東軍がこの近辺で満州事変を起こした。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月13日 (土) 05 28。    
  • 天津条約
    ...んだ条約 清仏戦争の講和条約。清はベトナムに対する宗主権を放棄、フランスの保護権・中国南部における通商、鉄道建設をみとめた。 1885年、清国と日本が結んだ条約 甲申事変後の1885年4月に清と日本の間に結ばれた条約。この条約によって、日清両国の漢城(ソウル)からの即時撤退、将来朝鮮に出兵する場合の相互通知等が約された。 関連項目 天津教案 揚州教案 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月19日 (金) 20 09。      
  • 野村吉三郎
    ...本大使館附武官・パリ講和会議とワシントン軍縮会議の全権団に随員として加わるなど、海外経験が豊富であった。海軍大学校は出ておらず、「僕を教えられる人がいるのかね」と言ったという逸話がある。後にアメリカ大統領となるフランクリン・ルーズベルト(米海軍次官 1913−20年)ら海外の政治家とも親交があった。やがて大正15年(1926年)には軍令部次長となり、以後呉・横須賀の両鎮守府司令長官などを歴任した。 昭和7年(1932年)、第三艦隊司令長官として上海事変に参加している折に、朝鮮人尹奉吉によるテロ事件にあって右目を失明する。一命を取り留めて海軍大将昇進および勲一等旭日大綬章を受章、昭和12年(1937年)海軍を退役して学習院院長となる。 日米交渉とその決裂 野村は国際法の権威であったことから、昭和14年(1939年)9月25日、阿部内閣において外務大臣に抜擢される。ま...
  • 三国干渉
    ...きないと考えた。更に講和会議の過程で日本が清に対して開市・開港場での製造業従事権を清に要求していたものの、それを実現させるだけの資金的裏づけがなかった日本は、秘かにイギリスに対してのみ、この要求の事実を打ち明けて共同経営の誘いを行ったことが他の列強に知られたために、この話に与れなかったドイツやロシア、フランスの姿勢を更に硬化させた。 勧告の主旨 「日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する」 列強の思惑 ロシア ロシアは極東進出のために不凍港が必要であり、南下政策を取り満州における権益拡大をはかっていた。ロシアは遼東半島を日本に奪われることで南満州の海への出口を失うことを恐れ、日本の極東進出阻止を目論んだ。当初、日本が朝鮮の独立を尊重するならば日本が中国を占...
  • 小村壽太郎
    ...0年の義和団事件では講和会議全権として事後処理にあたった。 1901年に第1次桂太郎内閣の外務大臣に就任。1902年締結の日英同盟を積極的に主張した。日露戦争における戦時外交を担当し、1905年ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印。ただし、その後にアメリカの鉄道王ハリマンが満洲における鉄道の共同経営を提案したのを首相や元老の反対を押し切って拒否した件については評価が分かれる。 1908年成立の第2次桂太郎内閣の外務大臣に再任。幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉を行う。1911年に日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。日露協約の締結や、韓国併合にも関り、一貫して日本の大陸政策を進めた。 同年、外務大臣辞任後まもなく死去。墓所は東京都港区の青山霊園にある。 エピソード 仕事は後世の人間が判断すること...
  • 日露戦争
    ...を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。 近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、...
  • 牧野伸顕
    ...一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。一行の首席は西園寺公望であったが実質的には牧野が采配を振っており、随行員には近衛文麿や女婿吉田茂などがいた。パリ講和会議では日本の次席全権大使として人種的差別撤廃提案を行っている。 大正10年(1921年)、宮内大臣に就任し、大久保侯爵家に連なることから特に子爵を授爵。穏健な英米協調派で自由主義的傾向がつよい牧野を宮内大臣に推したのは、天皇および宮中周辺に狂信的な皇室崇拝者を置くことで皇室が政治的な騒乱に巻きこまれることを嫌った元老の西園寺公望の意向であるという。これ以降、牧野は西園寺の意を体して、宮中における自由主義を陰に陽に守り抜くことをその政治的使命とする。 大正14年(1925年)、内大臣に転じ、昭和10年(1935年)まで在任。退任とともに伯爵に陞爵する。牧野に対する天皇の信頼は厚く、この多難な時期に退任の意向を聞い...
  • 日泰攻守同盟条約
    ...年には日本軍の介入で講和。これによってタイは旧領土のほとんどを回復し、日本への協力姿勢を強めた。 参戦 日泰攻守同盟条約では、アジアにおける新秩序建設、相互の独立主権の尊重・相互の敵国または、第三国との交戦の場合の相互同盟国としての義務を果たすことなどが明記された。昭和16年(1941年)12月21日に公布され、条約に基づいて日本軍がタイに進駐した際には、一部軍人が少年兵を率いた義勇軍が反抗したが、タイ政府は日本の戦争へ積極的な協力姿勢を内外に示した。なお、この条約は、昭和16年(1941年)12月8日の日本の対米英宣戦布告の後であったために、12月8日にタイ南部へ上陸した日本軍はタイ軍と小規模な戦闘を行っている。 条約を知った英米軍は、翌昭和17年(1942年)1月8日からタイ国内の都市攻撃を始めたため、タイ政府は1月25日に英米に対して宣戦布告した。 戦後 条約...
  • 五四運動
    ... 経緯 パリ講和反対デモ 大戦が終結し、パリ講和会議において日本側の「日本がドイツから奪った山東省の権益を容認」という主張が列強により国際的に承認されると、その少し前に朝鮮で起きた三・一独立運動の影響もあって、北京の学生数千人が1919年5月4日、天安門広場からヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をしたり、曹汝霖宅を焼き討ちにしたりした。 中国政府の反応と運動の広がり 袁の後継者である北京の軍閥政権は学生を多数逮捕し、事態の収拾に努めたが、北京の学生はゼネラル・ストライキを敢行、亡国の危機と反帝国主義を訴え、各地の学生もこれに呼応して全国的な反日・反帝運動に発展した。労働者によるストライキも全国的な広がりを見せ、6月10日には最終的に学生を釈放せざるをえなくなった。また、6月28日に中国政府はヴェルサイユ条約調印を最終的に拒否した。 またこ...
  • 日英同盟
    ...後の1919年、パリ講和会議で利害が対立し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残りMSN産経ニュース【グローバルインタビュー】 - ヒュー・コータッツイ元駐日英大使「日本の人種差別撤廃条項を米英が否決したのは誤り」、1921年、国際連盟規約への抵触、日英双方国内での日英同盟更新反対論、日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑、日本政府の対米協調路線を背景にワシントン会議が開催され、ここで、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の更新は行わないことが決定され、1923年、日英同盟は拡大解消した2007年2月18日 NHK BS特集『世界から見たニッポン 大正編 日本はなぜ孤立したのか』。 経過 1901年 - 10月16日から交渉開始。締結までの間に伊藤博文が日露協商交渉を実施し...
  • 東郷茂徳
    ...なかった。だが、早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。その後、大東亜省の設立に反対し、東条首相と対立したため外務大臣を辞職。 鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣。終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入という凄惨な事態を回避する事が出来た。それにも関わらず戦後、開戦時の外相であったがために連合国側から戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。 外務省事務次官を務めた東郷文彦は女婿。元ワシントンポスト記者の東郷茂彦、元オランダ大使・外務省欧亜局長の東郷和彦は双子の孫。 略歴 明治15年(1882年) 鹿児島県日置郡苗代川村(後の下伊集院村。現在の日置市東市来町美山)で、陶工・朴寿勝の長男「朴茂德」として生まれる(誕生日は12月20日、12月10日、10月25日など諸説...
  • 吉田茂-2
    ...919年)2月 パリ講和会議随員 大正9年(1920年)5月 在英大使館附一等書記官 大正11年(1922年)3月 天津総領事 大正14年(1925年)10月 奉天総領事 昭和3年(1928年) 3月 外駐スウェーデン公使。高等官一等 7月 田中義一内閣の外務次官 昭和5年(1930年) 12月 駐伊大使 昭和11年(1936年)4月 駐英大使 昭和14年(1939年)3月 外務省退官 昭和20年(1945年) 4月 近衛上奏文事件で憲兵隊に拘置 6月 釈放される 9月17日 外務大臣 (東久邇宮内閣) 10月9日 外務大臣に留任 (幣原内閣) 12月19日 貴族院議員に勅任 昭和21年(1946年) 1月 外相のまま終戦連絡事務局総裁を兼任。同次長に白洲次郎を起用 5月22日 内閣総理大臣兼外務大臣(第1次...
  • 日独伊三国軍事同盟
    ...直前、来栖三郎が対米講和の特命全権大使に任命され、野村吉三郎駐米大使を補佐した。しかし、来栖は日独伊軍事同盟の調印者であり、逆にアメリカの感情を逆撫でしたものとして、対米交渉が不調に終わった一因にされたとも言われている。 ヒトラーの対米宣戦布告 同盟条約の条文に拠れば、いずれか一ヵ国が米国から攻撃を受けた場合にのみ相互援助義務が生じる。日本が真珠湾を先制攻撃した場合には相互援助義務は生じないにも関わらず、ヒトラーは12月11日に米国に対して宣戦布告した。その後3国によって、日独伊単独不講和協定(1941年12月11日締結、17日公布)が締結された(連合国側もこれに対抗して翌年1月1日に同様の宣言を発している)。 1945年(昭和20年)1月19日、連合国に降伏したイタリアが同盟を破棄、同年5月7日にドイツが、8月15日に日本が降伏し、三国軍事同盟は消滅した。 関連人物...
  • 大東亜戦争
    ...。しかし、神道指令が講和独立によって失効した後に制定された法令の条文などでも、大東亜戦争という言葉は使用されず、「太平洋戦争」あるいは「今次の戦争」という表現が使用されている。「今次の戦争」という表現は、「罹災都市借地借家臨時処理法」(昭和21年8月27日法律第13号)、「認知の訴の特例に関する法律」(昭和24年6月10日法律第206号)といった戦後早い段階の法令にみられる。 また、「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年6月1日法律第173号)を皮切りに、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」(昭和52年5月18日法律第40号)、「沖縄振興特別措置法」(平成14年3月31日法律第14号)等で使用されている。このうち「沖縄振興特別措置法」の別表には、「…指定区間内の国道を構成する敷地である...
  • 下関戦争
    ...2人だった。 講和 8月8日、戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じた。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊旗艦のユーリアス号に乗り込んでキューパー司令官との談判に臨んだ。イギリス側通訳のアーネスト・サトウはこの時の高杉の様子を非常に傲然としていたが、出された要求は何の反対もせずに全て受け入れたと述べている。 18日に下関海峡の外国船の通行の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立した。 ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになった。これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能なこともあるが、今回の外国船への攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったまでという名目であ...
  • 日ソ基本条約
    ...相互不干渉 日露講和条約の有効性再確認 漁業資源に関する条約の維持確認および改訂 ソ連側天然資源の日本への利権供与 議定書 日本軍の北樺太撤退期限 日本側の北樺太石油利権に関する規定 条約調印に至る日本側の背景 もともと日本政府の首脳は共産主義への敵視が強かったため、シベリアからの撤兵後も国交正常化の動きには冷淡であった。しかし、ソビエト連邦の安定化とともに、冷却した日ソ関係が日本経済に大きな不利益を発生させていた。例えば、敦賀港・舞鶴港を通して沿海州と貿易を行っていた関西財界は輸送網を遮断されてしまい、オホーツク海で漁業を行っていた漁師らは、ソ連の沿岸住民らの妨害にさらされた。このようにして、世論にはソ連との修好回復を望む声があらわれたので、日本も国交正常化に前向きとならざるを得なかった。 また、ソ連は極東では混乱の渦中にあった中国との連携を図っ...
  • 台湾抗日運動
    ...た清朝は、戦争の早期講和を目指して同年4月17日に日本と下関条約を締結し、その際に日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)の割譲を承認した。 しかし台湾に住む清朝の役人と中国系移民の一部が清朝の判断に反発して同年5月25日「台湾民主国」を建国、丘逢甲を義勇軍の指揮官とし日本の接収に抵抗した。しかし日本軍が台北への進軍を開始すると、傭兵を主体として組織された台湾民主国軍は間もなく瓦解、台南では劉永福が軍民を指揮、また各地の民衆も義勇軍を組織して抵抗を継続したが、同年6月下旬、日本軍が南下、圧倒的な兵力・武器の差の前に敗退した。10月下旬に劉永福が大陸に逃亡、日本軍が台南を占領したことで台湾民主国は崩壊した。台湾軍民で戦死又は殺害された者は14,000人(『台湾史小事典』)に及んだ。 抗日運動 台湾民主国の崩壊後、台湾総督樺山資紀は1895年11月8日に東京の大本営に対し台湾全島の...
  • 時事新報
    ...締結、1921年パリ講和会議やワシントン軍縮会議で伊藤正徳特派員が世界的スクープを獲得し活躍。大正中期までは「日本一の時事新報」と呼ばれ、東京五大新聞(東京日日・報知・國民・東京朝日・時事)の一角を占めた。また、1905年には、大阪へ進出している(以下、後述参照)。 しかし、関東大震災による被災で業績は悪化し、部数も低下。 1934年1月17日から武藤山治社長が率先して行った「番町会を暴く」シリーズでは財界の不正を糾し、帝人事件(昭和初期の大疑獄事件)にまで発展したが、武藤社長が暴漢に射殺されてシリーズは終了。時事新報の前途にますます暗雲が立ちこめる事となった。 この後、慶應義塾出身者で東京日日新聞の高石眞五郎に経営肩代わりの話がくるが、高石は東京日日新聞の経営自体が傾いた時期でもあり、これを固辞。代わりに東京日日新聞の社外役員であり、大阪で「夕刊大阪新聞」・「日本工業新聞」を...
  • 三国協商
    ...翌年に単独でドイツと講和し、これにより三国協商は消滅した。 脚注 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月1日 (日) 21 04。     
  • 十五年戦争
    ...ン等の中立国を通じて講和する、という(甘い)見通しで始めた。 しかし、緒戦こそ善戦したものの、戦争が長引くにつれ、経済力と技術力に勝る米国に押し返され、 1945年5月、頼みの綱のドイツは降伏し、同年8月8日、ソ連が対日参戦、「ソ連を通じての講和」の構想も不可能になり、ほぼ同時に広島と長崎への原爆投下もあり、最終的に同年9月2日、日本も降伏文書に調印した。 結果・犠牲 十五年戦争では、日本において軍、民間人あわせて三百万人の犠牲者(死者)が出た。アメリカにおいては、太平洋戦争期、主に軍人に9万人の戦死者を出している。 中国側の犠牲者数については諸説あるが、1951年9月6日の沈釣儒報告「戦犯の検挙と懲罰について」の中で、「中国軍民の蒙った生命の損失は一千万人以上である」との言及が見られ、しばらくはこの数字がしばしば引用されていた。 その後『中国新民主主義革命時期通史』...
  • 近衛上奏文
    ...いるが、アメリカとの講和以外に途は無いこと、軍部を抑えることで和平に導くべきであるということを主張した。昭和天皇から見れば、近衛の「敗戦」「共産革命」という上奏文、および内閣後継人事の意見は、常軌を逸したものであり、「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」として近衛の話には否定的だった。これが、東京大空襲から長崎原爆投下などの惨事を招いたとする、「遅過ぎた聖断」として批判する意見の論拠とされている。 上奏の前、近衛は書き上げた「近衛上奏文」を持って吉田茂邸を訪れた。吉田もこれに共感したため、牧野伸顕に見せようと写しをとった。しかし、吉田邸の女中とその親類を名乗る書生は実はスパイであり、写しが憲兵側に漏れたために吉田は拘引され、その他近衛周辺の人物も次々と、近衛を取り締まる布石も兼ねて取調べを受けることとなる。二人のスパイは、吉田拘引後は近衛邸の床下に入り盗聴を...
  • 西園寺公望
    ...一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)に日本の全権特使として出席した西園寺とパリ留学時代を同じ下宿ですごした親友クレマンソーとの友情は、講和会議での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。 パリ留学で自由思想を学んだ西園寺は自由民権運動に傾倒し、明治14年(1881年)3月18日には、自由党結党に向けて創刊された『東洋自由新聞』の社長となり、中江兆民、松田正久らと共に発行に携わる。西園寺が自由民権運動に加担することは政府や宮中で物議を呼び、内大臣岩倉具視が働きかけた明治天皇の内勅により退社を余儀なくされ、東洋自由新聞は4月30日発行の第34号にて廃刊に追い込まれた。この時の西園寺はあらゆる圧力に屈することはなかったが、明治天皇の内勅がでるとあっけないほど簡単に身をひいてしまった。この事件での彼の行動は彼の生涯にわたる世界観、政治観を端的にあらわしているともいえる。 ...
  • 山東出兵
    ...年(大正8年)のパリ講和会議およびヴェルサイユ条約によって、ドイツの権益を全て日本が引き継ぐこととなったが、日本はこれに先駆け、中国政府に対して1915年(大正4年)にドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した所謂「21か条の要求」を突きつけ、中国側の反感を買っていた。ヴェルサイユ条約調印直前には、学生を中心にこれに反対する運動が盛んになり、五・四運動となった。 状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、1922年(大正11年)の日中山東条約及び日中山東還付条約によって青島を含んだ山東省を中国に還付することとなった。これは軍縮会議以来、世界規模で進む軍縮の流れによるものでもある(シベリア出兵の本年終了)が、中国は21か条も廃棄するよう求め、日本はこれを拒否した。中国市民はこれに怒り、また日本は1900年の義和団事変(北清事変)以来、北京議定書に基づいて、イギリス、アメリカ合衆国...
  • アジア主義
    ... 1919年 パリ講和会議開催、ヴェルサイユ条約締結 1924年 孫文の大アジア主義講演 1927年 山東出兵 1931年 満州事変勃発 1932年 満州国建国 1937年 盧溝橋事件(日中戦争勃発) 1938年 三木清が東亜協同体論を発表 1940年 近衛文麿内閣が基本国策要綱策定(大東亜の新秩序建設理念確立) 1941年 ABCD包囲網施行、太平洋戦争勃発 1943年 大東亜会議開催 1945年 日本国敗戦 人物・組織・思想 興亜会 1880年、海軍軍人で中国での情報活動に従事していた曽根俊虎などを中心に設立された。琉球処分や壬午軍乱などで日清関係が悪化していくなかで両国の提携論を標榜し、最初のアジア主義団体とされている。日清提携のための中国語での機関誌発行や語学教育に力を入れた。のち亜細亜協会と改称し、東亜同文会が設立されるとこれに合流した。 ...
  • 第一次世界大戦下の日本
    ...大国の一国としてパリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの山東省権益と、パラオやマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島を委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟の常任理事国となった。 対華21ヶ条要求 Template main? 青島攻略後の1915年1月18日、日本は中華民国の袁世凱政権に14か条の要求と7か条の希望条項を提示した。これは次のような内容であった。 ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること 関東州の租借期限を延長すること 南満州鉄道の権益期限を延長すること 沿岸部を外国に割譲しないこと 要求に対して中国国内では反対運動が起こったが、日本側は5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた。これにより中国人の反日感情が高まり、蒋介石の北伐に伴う山東出兵(1927年 - 1928年)のきっかけとなる。 シベ...
  • シベリア出兵
    ...は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結んで連合国から離脱する。このため、ドイツは東部戦線の兵を西部戦線に集中することができ、フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はロシアの極東ウラジオストクに「チェコ軍捕囚の救出」を名目に出兵し、ドイツの目を再び東部に向けさせようとした。同時にロシアの社会主義革命勢力に対して楔を打ち込む意味もあった。 すでに西部戦線で手一杯になっているイギリス・フランスに大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。連合国は地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診した。アメリカは日本がシベリアに勢力を伸ばすのではないかと警戒したが、日本の寺内内閣は当初慎重であった。のちに総理大臣となる原敬は臨時外交調査会で、アメリカとの協力なしには出兵は難しいと主張し、アメリカと共同...
  • 明治
    ...動が発展していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、外相小村寿太郎は米大統領セオドア・ルーズベルトに仲介を頼み、講和に持ち込んだ。日露戦争を終結させたポーツマス条約の内容は以下の通りである。 ロシアは日本の韓国においての政治・軍事・経済の優先権を認める。 清領内の旅順、大連の租借権及び、長春以南の鉄道とその付属の権利を日本に譲渡する。 北緯50度以南の樺太(すなわち南樺太)とその付属の諸島を譲渡する オホーツク海、ベーリング海の漁業権を日本に認める。 しかし賠償金は全く取れなかったため、日本国内では国民の怒りが爆発し、日比谷焼打事件が起こった。また堺利彦・片山潜らの反戦運動や与謝野晶子やキリスト教の立場からする内村鑑三の非戦論も唱えられた。 日露戦争における日本の勝利は、白色人種の大国に対する有色人種の小国の、また絶対主義国家に...
  • 李氏朝鮮
    ...えていた後金側は結局講和を行う事になった。だが後金の提示した条件に対し、主戦派の斥和論と講和派の主和論を巡って論争が繰り広げられた。既に後金と戦う余力が無い朝鮮側は、結局講和を呑むことになり、後金を兄、朝鮮を弟とする条件を呑む代わりに朝鮮は明には敵対しない事を条件に講和した(丁卯約条)。講和が成立すると、一旦金軍は撤収する。 1636年、後金は清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた。この時は斥和論が伸張しており、朝鮮がこの条件を拒むと、同年、清は太宗(ホンタイジ)自ら12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した(丙子胡乱)。朝鮮側は南漢山城に籠城したものの、城内の食料は50日分ほどしかなく、その中で主戦派と主和派に別れての論戦が繰り広げられていた。しかし、江華島が攻め落とされたと言う報告が届くと45日で降伏し、清軍との間で和議が行われた。この...
  • 独ソ戦
    ...連を倒せばイギリスが講和してくると考えた。 1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。イギリス・フランスとの戦争は対ポーランド戦の関係から結果的に始まったものであるが、対ソビエトの戦争はヒトラーにとって、ドイツの生存圏の拡大というナチスの思想上、避けられないものであった。この地政学的な発想に基づく争いにより、ドイツ国とソビエト連邦の二大列強の戦いは第二次世界大戦における他の戦線と異なり、民族の存亡を賭けた壮絶な戦いを繰り広げることとなるのである。 開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方やウクライナの一部の住民はドイツ軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。しかし、あくまでスラブ民族と共産主義...
  • 樺太・千島交換条約
    ... サンフランシスコ講和条約 北方領土問題   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月19日 (金) 20 05。   
  • 近衞文麿
    ...一次世界大戦後のパリ講和会議に日本全権として参加した際にも近衞を秘書として伴っている。こうして文麿は、父のアジア主義よりも、西園寺の欧米型自由主義に感化されることとなったが、自らの後継者を育てたいという西園寺の思惑とは裏腹に、文麿は次第に目先の新しいものに目移りする無定見さを見せ始めるようになるこの頃近衞は『英米本位の平和主義を排す』という論文を書いて英米覇権主義を批判、西園寺を困惑させている。。 学習院中等科を修了後、華族の子弟は学習院高等科にそのまま進学するのが通例だが、当時旧制一高の校長であった新渡戸稲造に感化され、一高を受験して進学。続いて東京帝国大学(戦後の東京大学)で哲学を学んだが飽き足らず、高名な経済学者であり、当時急速にマルクス経済学に傾倒しつつあった河上肇に学ぶため、京都帝国大学(戦後の京都大学)法学部に転学した。在学中の1914年(大正3年)には、第三次『新思潮...
  • 本土決戦
    ...待すれば日本との単独講和などの不確定要素が飛び出しかねない、という不安材料もあった。その為、日本全土を陸戦によって完全に占領する方策は最初から検討せず、あくまで首都圏制圧による政府指導力への打撃を主目的としていたと見られる。 本土決戦が行われていた場合、廃案となった日本の分割統治計画が現実の物となり、東西ドイツのように日本が分断国家となっていただろうという想定もされているが、1945年当時の極東における米ソの軍事力の集結状況と、ドイツ降伏時のそれを比較すると、本作戦実行によって即分割統治が確実とは断定しきれない。しかし仮に本土決戦によって太平洋戦争(大東亜戦争)が長期化し、ソ連が日本本土に侵攻する事態となった場合、ドイツ・東欧諸国や樺太・千島・北方四島などのケースから見ても日本降伏までに占領した地域を簡単に放棄するとは思われず、北海道や東北地方がなし崩し的にソ連の衛星国家となるか、...
  • 台北帝国大学
    ...日 サンフランシスコ講和条約により官制上も廃止。 組織 昭和20年度時点における組織は以下の通りであった。 本部 庶務課 会計課 学生課 附属図書館 文政学部 哲学科 史学科 文学科 政学科 理学部 化学科 動物学科 植物学科 地質学科 附属植物園 農学部 農学科 農業経済学科 農業土木学科 農芸化学科 獣医学専攻 附属農場 医学部 附属医院 工学部 機械工学科 電気工学科 応用化学科 土木工学科 予科 文科 理科理農類 理科医類 理科工類 附属医学専門部 熱帯医学研究所 熱帯医学科 熱帯衛生学科 細菌血清学科 化学科 厚生医学科 庶務課 士林支所 台中支所 台南支所 南方...
  • 板垣征四郎
    ...、「蒋介石の下野」を講和の条件とする強硬論をぶち上げ、結果として交渉不成立の原因を招いた。平沼内閣でも陸相を務めた。その後は、支那派遣軍総参謀長に転出し、1941年に大将に昇進したと同時に朝鮮軍司令官となる。昭和20年(1945年)4月、第7方面軍司令官。 前述の様に、一流の軍歴を歩んでいるが、部下の参謀や少壮の将校達の言うがままに動くところがあり、「頭に祭り上げられる型の軍人」と評する声もある。 戦後 thumb|right|250px|東京の料亭で開かれた謝恩会で[[盛岡一高|盛岡中学時代の恩師・冨田小一郎(左から二人目)を囲む板垣陸相(最左)と米内海相(最右)。政治的立場も思想も異なる米内は同郷出身の先輩で、板垣とはなにかとウマが合った。(1939年6月3日)]] 終戦は、第7方面軍司令官としてシンガポールで迎え、イギリス軍に身柄を拘束されていた。しかし、A級戦犯に指定...
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