chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「議員を半減させる会」で検索した結果

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  • 日本の政党一覧
    ...1988-) 議員を半減させる会(旧 国会議員を半分に減らす会、1989-) 女性党 (1993-) 維新政党・新風 (1995-) 進歩自由連合 (1995-) 世界経済共同体党 (1997-) 新党フリーウェイクラブ(2006-) 9条ネット(2007-) 日本スマイル党(2007-) 現在活動している地域政党 日本の地域政党を参照。 現在活動していない政党 国会に議席を有したことのある政党 緑風会 (1947-1960) → 参議院同志会 (1960-1962) → (第二院クラブに参加、1962-1964) → 緑風会 (1964-1965) 日本農民党 (1947-1949)→ (農民新党と合併) 農民新党 (1948-1949)→ 農民協同党 (1949-1952) 新自由党 (1948?-1949...
  • 翼賛議会
    翼賛議会(よくさんぎかい)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)中に於ける帝国議会の呼称。その始期については新体制運動の中で既存政党が解党されて大政翼賛会が結成された1940年とするのが一般的であるが、翼賛議会としての体裁が本格的に整うのは、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)以後のことである。 概説 戦時下で行われた唯一の国政選挙となる1942年4月30日の第21回衆議院議員総選挙は、大政翼賛会が推薦した候補者(主に大政翼賛会の別働隊的院内会派である翼賛議員同盟の議員を中心としていた)に対してよく翼賛会の下部組織の一つである大日本翼賛壮年団(翼壮)をはじめとする官民からの支援が行われ、逆に非推薦候補者に対しては選挙干渉とも言えるような圧迫が加えられたとされている。この結果、466の定数のうち381名の翼賛会推薦議員が当選した。このため、この選挙を翼賛選挙とも呼ぶ。 翼賛選挙...
  • 貴族院 (日本)
    貴族院(きぞくいん)は、大日本帝国憲法下において1890年(明治23年)から1947年(昭和22年)まで存在した帝国議会の一院。衆議院とは同格の関係にあった(ただし衆議院には予算先議権があった)。 非公選の皇族議員・華族議員・勅任議員によって構成され、解散はなく、議員の多くが終身任期だった。その一方、有識者が勅任により議員となる制度が存在し、良くも悪くも「衆議院のカーボンコピー」という批判は存在しなかった。 概要 thumb|250px|[[1936年(昭和11年)、貴族院開院式にて貴族院議長近衛文麿が勅語奉答文を朗読]] 議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令(明治22年勅令第11号)その他の法令に定められた。 議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員のうち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち勅選議員については終身議員とされた。華族議員のうち伯爵・子爵・男爵議員...
  • 革新倶楽部
    革新倶楽部(かくしんくらぶ)は、日本の大正時代の政党である。 1922年11月8日、立憲国民党を解党した犬養毅、尾崎行雄、島田三郎、古島一雄らを中心に結成された。立憲国民党・無所属倶楽部や憲政会脱退派などの非政友会系を合同して絶対多数であった立憲政友会に対抗した。政治的主張として、普通選挙に基づく政党内閣制、軍部大臣現役武官制廃止、師団半減などの軍縮、知事公選、行財政整理、金解禁、義務教育の延長、労働および小作問題の立法的解決、ソビエト連邦承認などを掲げていた。 第二次護憲運動では、立憲政友会、憲政会と護憲三派を組んで、清浦奎吾内閣を打倒した。選挙後、成立した加藤高明を首班とする護憲三派内閣では犬養は逓信大臣として入閣した。だが、この時の総選挙で立憲政友会と憲政会の間で埋没した形となった革新倶楽部は議席を43から30に大幅に減らした事から、両党への不信感や党の将来に対する不安を抱く議員...
  • 尾崎行雄
    尾崎 行雄(おざき ゆきお、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月20日)11月20日(1858年12月24日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、日本の政治家。 号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市津久井町又野)生まれ。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。 略歴・人物 11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父・行正に従い、1868年(明治元年)に番町の平田塾にて学び、一家も1871年(明治4年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。そこで初めて「学校」に入った。その後、1872年(明治5年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。1874年(明治7年)に弟と共に上京し慶應義塾童児局に入学するが、塾長の福沢諭吉に反抗して退学、...
  • 反軍演説
    反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会の衆議院で斎藤隆夫が行った演説。日中戦争に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。 経緯 演説 斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである ref name= hangun-kaiko 『回顧七十年』「国家総動員法案、質問演説」より。以下のカギ括弧内引用は断りが無い限りこのページからのものである。 第一は、近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか 第二は、いわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか 第三は、世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和より延(ひ)いて世界の平和が得らるべきものであるか 第四は、近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問 第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等 「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は...
  • 進歩党 (日本)
    進歩党(しんぽとう)は、かつて存在した日本の政党。 進歩党 (日本 1896-1898) 進歩党(しんぽとう)は、明治時代中期に結成された政党(1896年3月1日 ‐ 1898年6月20日)。 明治29年(1896年)、立憲改進党・立憲革新党・大手倶楽部・帝国財政革新会・中国進歩党などが合同して代議士99名で結成。大隈重信が事実上の党首であったが正式な役職には就かず、形式的には犬養毅・尾崎行雄・大東義徹・柴四朗(東海散士)・長谷場純孝の5名の総務委員が代表者となっていた。「国権拡張」「責任内閣」「財政整理」などを掲げた。大隈の人気と同党が掲げた対外硬路線に対する支持から結成直後に党員5万人を数え、更に同年成立した第2次松方内閣に大隈が外務大臣として入閣し、高橋健三が内閣書記官長、神鞭知常が法制局長官に任命されたことなど党幹部の政府入りが実現したことで、更に期待が高まって同年中に1...
  • 立憲民政党
    立憲民政党(りっけんみんせいとう)は、昭和時代の政党。1927年6月1日に憲政会と政友本党が合併して成立した。濱口内閣・第2次若槻内閣を組織して、立憲政友会との二大政党制を実現させたが1940年8月15日に解党して立憲政友会とともに大政翼賛会に合流した。 概要 1927年、政友会の田中義一内閣に対抗する形で若槻前政権の与党であった憲政会と田中義一の政友会総裁就任に反対して政友会を離党した床次竹二郎らの政友本党が合同して成立、6月1日上野精養軒にて結党式が開かれ、濱口雄幸を総裁とし、若槻禮次郎(前首相・憲政会総裁)・床次竹二郎(政友本党総裁)・山本達雄・武富時敏を党顧問、桜内幸雄を幹事長、安達謙蔵・町田忠治・小泉又次郎・斎藤隆夫ら10名を総務とし、「議会中心主義」・「人種・貧富の差の解消」・「国際正義に基づく協調主義」・「国民の自由の擁護」などを掲げた。支持基盤としては、地主などが支...
  • 美濃部達吉
    美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年(明治6年)5月7日 - 1948年(昭和23年)5月23日)は、日本の憲法学者。天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職する。勲一等旭日大綬章(1948年(昭和23年))を受章。 妻の多美子は菊池大麓菊池大麓(箕作阮甫の孫)は東京帝大総長。の長女である。東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男。商工省および企画院官僚だった美濃部洋次は甥にあたる。 人物・来歴 前半生 美濃部達吉は、1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町の漢方医・美濃部秀芳の次男として生まれた。長じて東京帝国大学に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。1897年(明治30年)に大学を卒業し、内務省に勤務する。1899年(明治32年)にドイツやフランス、イギリスに留学し、翌1900年(明治33年)に東京帝国大学助教授、1902年(明治35年)に教授となる。帝国大...
  • 独立協会
    独立協会(どくりつきょうかい)は、1896年から1898年まで李氏朝鮮にあった開化派の運動団体。甲午農民戦争を率いた徐載弼が李完用とともに創設し、朝鮮における立憲君主制導入を目指した。 当時、李氏朝鮮は清の属国から解放されたものの、李氏朝鮮に対するロシアの支配力が強くなった。このような背景の中、国の自主独立を願う徐載弼が、李氏朝鮮がロシアの保護国化・植民地化を危惧し、開化思想を民衆に啓蒙するために、1896年に独立協会を設立。同年4月より独立新聞を発行し、協会の主張を啓蒙している。 独立協会は、李氏朝鮮の国内勢力と対抗しロシア公使館に逃げていた高宗に対し、王宮に戻ることを進言。後に、高宗は王宮に戻り、高宗は朝鮮初の皇帝に即位し(別名 光武皇帝)、国号を大韓帝国と改め、李氏朝鮮の自主独立を世界に宣言した。 また独立協会は、日本と清との日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で清に朝...
  • 加藤高明
    Template 日本の内閣総理大臣? 加藤 高明(かとう たかあき)、1860年1月25日(安政7年1月3日) - 1926年(大正15年)1月28日)は日本の外交官、政治家。第24代内閣総理大臣。正二位 大勲位 伯爵。幼名は総吉。娘は岡部長景の妻。新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。 生涯 財界への歩み 尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として生まれた。父は尾張海東郡佐屋(後の愛知県海部郡佐屋町、現在は愛知県愛西市)の代官の手代だった。明治5年(1872年)祖母加奈子の姉あい子の加藤家に養子に入り、高明と改名。旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)・名古屋洋学校を経て、東京大学法学部を首席で卒業。三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎の長女春路と結婚(このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と揶揄される)。...
  • 衆議院
    {{議会 |国略称 = Template JPN? |議院名 = 衆議院 |公用語名 = 衆議院 |画像 = |画像説明 = 国会議事堂(手前が衆議院) |上下院、一院制 = 下院 |議長歴代 = 17 |議長氏名 = 河野洋平 |議長出身党派 = 自由民主党 |副議長歴代 = 17 |副議長氏名 = 横路孝弘 |副議長出身党派 = 民主党 |成立年月日 = 帝国議会 - 1890年11月29日国会 - 1947年5月3日 |郵便番号 = 100-0014 |所在地 = 東京都千代田区永田町1丁目7番地1号 |任期 = 4年(任期途中に解散有) |定数 = 480(小選挙区300・比例代表選挙区180) |選挙制度 = 小選挙区比例代表並立制 |議会運営 = 委員会中心主義 |ウェブサイト = http //www.shugiin.go.j...
  • 国会開設の詔
    国会開設の詔(こっかいかいせつのみことのり、国会開設の勅諭)とは、1881年(明治14年)10月12日に、明治天皇が出した詔勅。1890年(明治23年)を期して、議員を召して国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明した。官僚の井上毅が起草し、太政大臣の三条実美が奉詔。 当時、開拓使官有物払下げ事件が明るみに出たことにより、自由民権運動が盛んになったため、近い将来の議会制度確立を約束して、運動の尖鋭化を抑えようとした。 本文 原文(適宜、句読点を挿入している。) 朕祖宗二千五百有餘年ノ鴻緒ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ總覽シ、又夙ニ立憲ノ政體ヲ建テ、後世子孫繼クヘキノ業ヲ爲サンコトヲ期ス。嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ歩ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。 顧ミル...
  • 濱口内閣
    {{日本の内閣記事|はまぐち ないかく|27|濱口雄幸|Template 和暦?|7月2日|Template 和暦?|4月14日|立憲民政党|第17回衆議院議員総選挙|1930年(昭和5年)1月21日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/27.html|立憲民政党総裁・衆議院議員}} 概要 立憲民政党を中心とする政党内閣であるが、一方で貴族院の親民政党議員を多く入閣させたところに特色がある。 外務大臣には、協調外交で知られる幣原喜重郎を起用。 財界からの信任のある井上準之助蔵相を起用して金解禁、緊縮政策、産業合理化を断行し、また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結んだ。これらが右翼からの反感を買い、1930年(昭和5年)11月に濱口雄幸が銃撃され、幣原喜重郎が臨時代理を務めた。その後、濱口が復帰するが病状の悪化により総...
  • コーデル・ハル
    Template Thumbnail begin? Template Thumbnail 画像? Template Thumbnail ノーベル賞受賞者? Template Thumbnail end? コーデル・ハル(Cordell Hull、1871年10月2日 - 1955年7月23日)は、アメリカ合衆国の政治家。フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトの下で1933年から1944年まで国務長官を務めた。1945年のノーベル平和賞の受賞者。 経歴 ハルはテネシー州ピケット郡で生まれた。彼は1889年から1890年までオハイオ州レバノンの国立師範大学で学び、1890年にテネシー民主党大会に代表を務めた。19歳のときにハルはクレイ郡民主党の議長に選ばれた。1891年にカンバーランド大学法律学校を卒業し法曹界入りする。彼の政治経歴は1893年のテネシー州議会で始まった。...
  • 国体明徴声明
    国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)とは、1935年(昭和10年)の天皇機関説事件の中で、美濃部達吉の天皇機関説を排撃することで政治的主導権を握ろうとした立憲政友会・軍部・右翼諸団体が時の岡田内閣に迫って出させた政府声明。天皇機関説が天皇を統治機構の一機関としているのに対し、天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家であると宣言した。 国体明徴運動の経緯 そもそも大正期半ばから昭和初期にかけて、天皇機関説は国家公認の憲法学説であり、昭和天皇が天皇機関説を当然のものとして受け入れていたことはよく知られている。しかし、軍部ファシズムの台頭と共に起こった国体明徴運動の中で、天皇機関説は国体に反する学説として排撃を受け始めた。 1935年2月19日、貴族院本会議の演説において菊池武夫議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難した。この...
  • 護憲運動
    護憲運動(ごけんうんどう)とは、大正時代に発生した立憲政治を擁護する国民や政党などの運動。憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)とも呼ばれている。 なお、第一次憲政擁護運動については大正政変の項目も併せて参照のこと。 第一次憲政擁護運動 第一次憲政擁護運動の背景と発端 明治時代から大正時代にかけて、日本の政治は元老と呼ばれる9人の実力者たちによって牛耳られていた。この9人は江戸幕府を倒す討幕運動のとき功績を挙げた人物たちで、山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文の9名のことである。この9名のうち、8名は薩摩藩・長州藩の出身者で、法的な規定は無かったが、大日本帝国憲法の下で首相を決定することができる権限を持っていた人物たちで、いわゆる藩閥政治を形成していた。 しかし明治時代が終わり、大正時代という新たな時代を迎えた国民は、このよう...
  • 愛国社
    愛国社(あいこくしゃ)は、 明治時代の自由民権運動前期の政治団体。 昭和時代初期の右翼団体。 1. 愛国社 (1875年-1880年) 明治8年(1875年)2月22日、大阪会議に参加した板垣退助が、大阪で旧愛国公党の同志に再結集を呼びかけ創設した。愛国社に参加したのは、西日本の士族層で、これを板垣など高知県の立志社員が中心になって運営にあたった。本社を東京に置き、愛国社に加盟する各地方の政社からは、委員を本社に送って中央と地方での情報収集及び相互連絡に当たることになっていたが、結成後間もなく、板垣が参議に復帰した上、参加者のうち、西南戦争に西郷軍に参加した者も多く、自然消滅した。 西南戦争後、自由民権運動は、武力による専制政府打倒から、言論と大衆組織による運動へと転換することになる。明治11年(1878年)4月に立志社が中心となり、愛国社の再建を決定。9月に石川、愛知、和歌山...
  • 翼賛議員同盟
    翼賛議員同盟(よくさんぎいんどうめい)は、昭和時代に存在した衆議院の院内会派(1941年9月2日-1942年5月19日)。 概説 1940年の大政翼賛会の結成によって既成の政党は全て解党され、12月20日には翼賛会の下に衆議院統一会派である衆議院倶楽部(435名)が結成されたが、一部右翼からの「大政翼賛会違憲論」に押されて、翌1941年に近衛文麿首相が大政翼賛会を政事結社ではなく公事結社であるとして、一切の政治活動を禁じたられたために衆議院倶楽部は解散を余儀なくされ、全ての衆議院議員が無所属議員となってしまったために、衆議院は大混乱に陥った。 一方、近衛側近の前司法大臣風見章は元鉄道大臣前田米蔵と図って、貴族院議員である近衛首相を長とする貴族院・衆議院合同の会派結成を模索する。ところが、長年政党を嫌悪してきた貴族院の華族議員がこれに反発したために失敗に終わった。このため、前田は自...
  • 高橋是清
    Template 日本の内閣総理大臣? 高橋 是清(たかはし これきよ、愛称だるまさん、1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日) - 1936年(昭和11年)2月26日)は、日本の政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任 1921年(大正10年)11月13日 - 1922年(大正11年)6月12日)。大勲位子爵。幼名は和喜次。 経歴 嘉永7年閏7月27日幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町に生まれた。母のきんは魚屋の娘で川村家に子守奉公にきていた女中であった。庄右衛門の妻は身重になったきんに同情しこっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させときどき見舞って世話をしたという『高橋是清―財政家の数奇な生涯』 7頁 。生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子に出される。 その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院...
  • 第1次西園寺内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ さいおんじ ないかく|12|西園寺公望|Template 和暦?|1月7日|Template 和暦?|7月14日|立憲政友会|第10回衆議院議員総選挙|(1908年(明治41年)3月1日衆議院議員の任期満了。)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/12.html|立憲政友会総裁}} 概要 日露戦争中に桂太郎との間で交わされた約束によって立憲政友会総裁である西園寺公望が後継に就任した(なお、この禅譲は元老の干渉を恐れた桂が事前に西園寺の後見人である伊藤博文と井上馨の許可を取ったのみで、元老会議は召集されなかった)。だが、桂と元老は人事や政策に条件を付けて制約をかけ、西園寺も自分の両腕と言える原敬と松田正久の2人だけを入閣させる条件で折り合った。桂はこの内閣の後見人を自負して、政権運営にまで関与しようとしたため...
  • 翼賛政治会
    翼賛政治会(よくさんせいじかい)は、昭和時代に存在した衆議院・貴族院合同の院内会派・政治団体(1942年5月20日-1945年3月30日)。略称は翼政会。 日本の歴史上、唯一の「一国一党」体制を樹立した団体である。 概説 1942年4月30日の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)においては、大政翼賛会及びその傘下の大日本翼賛壮年団推薦を受けた候補者が過半数を遥かに上回る議席数を獲得したものの、東條内閣に批判的な非推薦候補も少なからず当選した。これを憂慮した内閣総理大臣東條英機は、5月7日に政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用した。その後、現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、5月14日に会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送した。だが...
  • 第1次松方内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ まつかた ないかく|4|松方正義|Template 和暦?|5月6日|Template 和暦?|8月8日|藩閥内閣|第2回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/04.html|前職 = 大蔵大臣}} 概要 山縣有朋(第1次山縣内閣)の後継総理として伊藤博文や西郷従道、山田顕義などの名前も挙げられたが、5月2日に松方正義に組閣の大命が下った。松方は、組閣にあたって前任者たちの全面協力無くしては引き受けられないと述べて全閣僚の留任を唱えて、総理就任の条件とした。そこで前内閣の閣僚が当面留任することになった。このため、民党からは「黒幕内閣」「二流内閣」と揶揄された。だが直後から辞意を表明する閣僚が続出し、更に大津事件が発生して責任を負って外務大臣や内務大臣...
  • 憲政党
    憲政党(けんせいとう)は、明治時代の日本の政党である(1898年6月22日-同10月29日、自由系 1898年10月29日-1900年9月13日)。1898年(明治31年)、板垣退助の自由党と、大隈重信の進歩党が8月10日に予定されていた第6回衆議院議員総選挙に備えて藩閥政府に反対するために合同してできたものである。だが、総選挙直後に再分裂して旧自由党側が「憲政党」の名称保護を強行して引き続き「憲政党」を名乗り、旧進歩党側は憲政本党と名乗った。 本項記事では、1898年6月22日から同年10月29日までの統一された憲政党と10月29日から1900年9月13日の旧自由党系の憲政党(「自由派憲政党」などと呼称されることが多い)の双方を扱うものとする。 概要 憲政党 第2次松方内閣が計画した地租増徴法案に対して同内閣の与党であった進歩党は与党離脱を決定して、野党自由党との連携を強め...
  • 立憲政友会
    立憲政友会(りっけんせいゆうかい)は、日本の明治後期から昭和前期までの、立憲民政党とならぶ二大政党の1つである(1900年9月15日 - 1940年7月16日(正統派・統一派)/同7月30日(革新派))。略称は政友会(せいゆうかい)。 沿革 1900年(明治33年)9月15日、超然主義の破綻と政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した。伊藤自身が初代総裁となり、伊藤系官僚と憲政党(旧自由党)・帝国党が中心となって創立された。政党に不信感を持っていた明治天皇は伊藤の政党結党に対して強く反対したが、伊藤は議会の中に天皇と国益を重んじる政党が必要であることを力説して了承を得る(このとき、伊藤を通じて下賜金2万円が政友会に与えられた)。10月に政友会を中心に第4次伊藤内閣を成立させる。だが、依然として超然主義を奉じる貴族院最大会派の研究会は伊藤の入党要請を拒絶する会派決議を...
  • 中野正剛
    中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は昭和期のジャーナリスト、右翼団体東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。 経歴 生い立ち・学生時代 旧福岡藩士中野泰次郎と母トラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区荒戸)の伯父中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。 福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)修猷館を卒業後早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社で...
  • 交友倶楽部
    交友倶楽部(こうゆうくらぶ)は、1912年12月24日より1947年5月3日の日本国憲法公布まで存在していた貴族院の院内会派。ただし、上記の設立日は院内交渉団体として届出があった日であり、実際には遅くても同年初めには親睦団体として存在していた(『原敬日記』)。貴族院における立憲政友会系の会派として活動した。 元は立憲政友会の第2次西園寺内閣を支持する勅選議員や多額納税議員の親睦団体であったが、1912年12月24日に院内交渉団体として届出を行って正式に発足した。結成時の幹事は勅選議員(奥田義人・岡野敬次郎・安楽兼道)・多額納税議員(佐藤友右衛門・森田庄兵衛・山下喜兵衛)ともに3名ずつ選出され、他に石渡敏一・杉田定一・水野錬太郎・江原素六・松岡康毅・室田義文らを合わせて25名が参加していた。立憲政友会の勢力拡大とともに会員を常時30名を超え、最盛期には47名を数えた。また、非政党内閣であっ...
  • 松岡洋右
    {{政治家 |各国語表記 = まつおか ようすけ |画像 = Yōsuke Matsuoka.jpg |画像説明 = 松岡 洋右 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1880年3月4日 |出生地 = 山口県光市室積 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 東京都 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = |配偶者 = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第63代外務大臣 |内閣 = 第2次近衛内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1935年 |退任日 = 1939年 |退任理由 = |元首職 = |元首 = }} 松岡 洋右(まつおか ようすけ、明治13年(1880年)3月4日 - 昭和21年(...
  • 山縣有朋
    Template 日本の内閣総理大臣? Template Infobox 軍人? 山縣 有朋(やまがた ありとも、1838年6月14日(天保9年閏4月22日)- 1922年(大正11年)2月1日は、日本の政治家、軍人。幼名は辰之助、通称は小輔、後に狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。 奇兵隊を率いて倒幕で活躍。明治新政府では日本陸軍の基礎を築いた。晩年は陸軍のみならず政界の黒幕として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代内閣総理大臣。元老。位階勲等は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・公爵。また、大英帝国のメリット勲章も受章している。 経歴 幕末期 萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔の長男として生まれる。将来は槍術で身を立てようと少年時代から槍の稽古に励んでいた。 久坂玄瑞の紹介で吉田松陰が主催する...
  • 超然主義
    超然主義(ちょうぜんしゅぎ)とは、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義をいう。一般的には、大日本帝国憲法発布後、帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る政府が採った立場を指し、政府は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張であるとされる(異説坂野潤治や御厨貴らは、超然主義には本来の意味である議会や政党の存在・主張を無視するという意味の他に、どの政党に対しても親疎の差を付けずに公平に扱い党派争いに関与しないという意味でも用いられており、超然主義及び超然内閣が必ずしも政党そのものを無視・否定したものではないとする説を提示している。また、政府と議会を独立させるという意味では、アメリカ合衆国では大統領を始め、閣僚は非国会議員に限定している。実態として大統領は議会の有力党派で争われるが、議会選挙とは独立して選出されるのはこのためである。あり)。ま...
  • 大正政変
    大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)2月、前年末から起こった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れたことを指す。広義には、第2次西園寺内閣の倒壊から、第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされる ref name=okubo 大久保(1964)。 狭義の大正政変 概略 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が「情意投合」1911年(明治44年)1月26日の桂・西園寺会談の結果、1月29日に発表した合意のこと。第2次桂内閣が立憲政友会の支援を必要としていることから、桂は次期首班に政友会を推し、自分は再び政権につかないという確約を政友会の原敬とのあいだに結んだ。これにより、政府と政友会の提携が成立した。のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた(桂園時代と呼ばれる)。 明治天皇崩御...
  • 第2次山縣内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ やまがた ないかく|9|山縣有朋|Template 和暦?|11月8日|Template 和暦?|10月19日|藩閥内閣、官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/09.html|貴族院議員・元老}} 概要 憲政党分裂騒動によって前内閣が倒れると、Template 和暦?11月5日に山縣が大命降下を受けて、自派の藩閥官僚を中心とした組閣を行った。当初、地租増徴を実現させるために憲政党(自由派)と連携して地租増徴や日本興業銀行法を実現させた。だが、その後、同党からの入閣の約束を一方的に反故にして、文官任用令改正を行い、続いて文官分限令・文官懲戒令・治安警察法の制定、軍部大臣現役武官制の導入などで、政党を政府から排して超然主義による国家運営を目指した。だが、これによって衆議院を敵に回した山縣の政...
  • 原敬
    Template 日本の内閣総理大臣? 原 敬(はら たかし、安政3年2月9日(1856年3月15日) -大正10年(1921年)11月4日)は、日本の政治家。幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣(在任1918年9月29日 - 1921年11月4日)。正二位大勲位。 概説 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満Template 没年齢?。 なお、通称名である「はら けい」が用いられる...
  • 辻政信
    thumb|250px|出身地[[東谷奥村の中心であった加賀市山中温泉荒谷町入り口に建つ「辻政信之碑」]] 辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日 - 1961年?)は、日本の陸軍軍人、陸軍大佐、政治家。1952年から衆議院議員を四期、参議院議員を一期務めた。 辻を巡っては、“作戦の神様”と謳われ、マレー作戦等の辣腕振りが評価される一方、陸軍士官学校事件、ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進などにおける責任を追及する意見もある。またポートモレスビー攻略作戦やガダルカナル島の戦いにおける日本軍の敗戦は、辻が独断で拙劣な作戦指揮をした結果であるといわれる。毀誉褒貶両極端の評価を受けているが、GHQでは「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」とされた(後述)。 1961年4月に東南アジアの視察のために出国後、ラオスで行方不明となる。そのまま、1968年7月20...
  • 1918年米騒動
    Template Otheruseslist? 1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)とは、近世から近代にかけての日本における米価格急騰にともなう暴動事件。 背景 米価の暴騰 thumb|300px|[[堂島米会所における当時の米相場]] 第一次世界大戦の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年の中ごろから急激に上昇しはじめた。大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円-25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した。 この背景には資本主義の急速...
  • 清浦奎吾
    Template 日本の内閣総理大臣? 清浦 奎吾(きようら けいご、嘉永3年2月14日(1850年3月27日) - 昭和17年(1942年)11月5日)は、日本の政治家。第23代内閣総理大臣。正二位伯爵。肥後(熊本県)出身。幼名は普寂(ふじゃく)。司法官僚を経験後、貴族院議員となり司法大臣、農商務大臣、枢密院議長を歴任。1924(大正13)年の組閣では、ほぼ全閣僚を貴族院議員としたため(超然内閣)、護憲三派が激しく非難。わずか5ヶ月で総辞職した。清浦首相時代は、大正デモクラシーが最も高揚した時代でもあった。 生涯 山縣有朋側近中の側近 清浦奎吾は1850年(嘉永3年)2月14日、肥後国鹿本郡来民村(現・山鹿市)の明照寺住職・大久保了思の5男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。清浦は1865年(慶応元年)から、豊後日田で、漢学者・広瀬淡窓が主催する咸宜園に学び、日田で知り合った...
  • 自由党 (日本)
    自由党(じゆうとう)は、かつて存在した日本の政党。 現在、日本において「自由党」の名称を持つ政党は存在しない(政治団体としては存在する)。 自由党 (明治) 本節では、明治時代に創設された日本最初の近代政党である「自由党」と同党解散後、帝国議会開設時の大同団結運動を経て、旧自由党勢力による再結集によって再興された「立憲自由党」(後に旧称である「自由党」に戻す)を扱う。 自由党 (日本 1881-1884) {{政党 |国名 = Template JPN? |党名 = 自由党 |公用語名 = |成立年月日 = 1881年10月18日 |解散年月日 = 1885年10月29日 |解散理由 = 内部対立のため |後継政党 = |郵便番号 = |本部所在地 = |政治的思想・立場 = 自由主義 |機関紙 = |シンボル = |国際組織 = |...
  • 鰻香内閣
    鰻香内閣(まんこうないかく)とは、1914年のシーメンス事件による山本権兵衛内閣の総辞職後に、枢密院顧問清浦奎吾が組閣の大命降下を受けながら辞退に追い込まれた騒動を皮肉った表現である。 貴族院と山本内閣倒閣運動 シーメンス事件で山本権兵衛首相の出身母体である海軍と特定企業の癒着が問題になった際に、新年度予算案における海軍予算の削減が問題となった。貴族院では最大会派の研究会と同じく有力会派の茶話会が実現不可能な削減要求を成立させて山本内閣を総辞職に追い込んだ。研究会と茶話会はいずれも元老山縣有朋の側近である清浦奎吾と平田東助が貴族院議員時代に代表者を務めていた会派であり、超然主義を奉じて政党政治に否定的な姿勢を示していた。特に当時貴族院の最大会派であった研究会は政党との関係を持っただけで議員が会派から除名されるほどの徹底ぶりであったとされるほどの反政党主義であり、ともに山本が立憲政友...
  • 特高課長講演問題
    特高課長講演問題(とっこうかちょうこうえんもんだい)とは、大政翼賛会の結成を巡って千葉県で1940年に起きた政争。中央を舞台として大政翼賛会結成を推進した新体制運動と、地方政治の中心であった内務官僚を中心とする県庁及び地方政界を代表する県議会との意識格差が露呈され、のちの大政翼賛会の行政補助機関化の嚆矢となった事件の一つである。 大政翼賛会に対する千葉県の対応 大政翼賛会の結成に際して、地方でも立憲政友会・立憲民政党をはじめとする諸政党が解党され、自由民権運動を由来とする現存の数少ない政治結社であった夷隅郡の以文会(当時は政友会郡支部を兼ねていた)も同年10月13日解散した。 当時、右翼(主として革新系)は、現状に不満を抱く青年団や戦時体制強化を進める警察の一部と連携して千葉県内でも新体制運動を推進しようとした。だが、大政翼賛会の支部を構成する常務委員会の人選は県知事に事実上一任...
  • 久米邦武筆禍事件
    久米邦武筆禍事件(くめくにたけひっかじけん)とは、久米邦武の論文「神道ハ祭天ノ古俗」を1892年(明治25年)に田口卯吉が主宰する『史海』に転載したのをきっかけに問題となり、帝国大学教授職を辞することとなった事件。 この問題は、学問の自由(特に歴史学)と国体とのかかわり方について一石を投じた。政治に対する学問の独立性及び中立性を考えさせるものになった。 経過 1891年1月 「神道ハ祭天ノ古俗」を『史学雑誌』に発表する。 1892年 『史海』に転載する。このとき、主宰者の田口卯吉は以下の文を掲載する。 「余ハ此篇ヲ読ミ、私ニ我邦現今ノアル神道熱心家ハ決シテ緘黙スベキ場合ニアラザルヲ思フ、若シ彼等ニシテ尚ホ緘黙セバ余ハ彼等ハ全ク閉口シタルモノト見做サザルベカラズ」 と述べ、神道家を挑発する。 1892年2月28日 神道家の倉持治休、本郷貞雄、藤野達二、羽生田守雄は久米邦...
  • 原内閣
    {{日本の内閣記事|はら ないかく|19|原敬|Template 和暦?|9月20日|Template 和暦?|11月13日|立憲政友会|第14回衆議院議員総選挙|1920年(大正9年)2月26日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/19.html|立憲政友会総裁・衆議院議員}}陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣を除く、すべての大臣に立憲政友会の党員を起用したことから、日本初の本格的政党内閣と言われる。 高等教育の拡充、産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充の「四大政綱」を重要な政策課題と位置付けた。 閣僚 内閣総理大臣  原敬(1918年(大正7年)9月20日 - 1921年(大正10年)11月4日) 内田康哉首相死去により、内田康哉外務大臣が臨時兼任。(1921年(大正10年)11月4日 - 同年11月13日) 外務大臣 内...
  • 大逆事件
    大逆事件(たいぎゃくじけん) 1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。 特に一般には1910,1911年(明治42,43年)に社会主義者幸徳秋水らが天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す(幸徳事件ともいわれる)。 thumb|280px|right|大逆事件の犠牲者を顕彰する会による碑「志を継ぐ」([[和歌山県新宮市)]] 概要 政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理...
  • ウィンストン・チャーチル
    {{大統領 | 人名 = ウィンストン・スペンサー=チャーチル | 各国語表記 = Sir Winston Leonard Spencer-Churchill | 画像 = Churchill portrait NYP 45063.jpg | 画像サイズ = | 国名 = Template GBR? | 代数 = 第61 | 職名 = 首相 | 就任日 = 1940年5月10日 | 退任日 = 1945年7月27日 | 元首 = | 国名2 = Template GBR? | 代数2 = 第63 | 職名2 = 首相 | 就任日2 = 1951年10月26日 | 退任日2 = 1955年4月7日 | 元首2 = ...
  • 鳩山一郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。正二位 大勲位。 初代自民党総裁であり、日本国とソビエト社会主義共和国連邦との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣でもある。 経歴 1883年(明治16年) 東京市牛込区東五軒町に出生、父・鳩山和夫は文部省第1期留学生、弁護士、東京府議会議員。母・春子は東京女子師範学校の英語教師、明治19年共立女子職業学校(共立女子大学)を創立 1907年(明治40年) 東京帝国大学英法科卒、父の弁護士事務所に勤める 1908年(明治41年) 右翼団体玄洋社出身の衆議院議員秘書課長寺田栄の長女寺田薫と結婚。 1911年(明治44年) 父・和夫が死去(衆議院議員兼東京市議、東京...
  • 仮70
    中山艦事件(ちゅうざんかんじけん)は、1926年3月20日中華民国の広州で軍艦中山艦の回航をきっかけに、黄埔軍官学校長蒋介石が中国共産党員らの弾圧を開始した事件。「三二〇事件」「広州事変」とも。この事件をきっかけに中国国民党内での蒋介石の地位が急速に上昇し、また翌年4月の上海クーデターで第一次国共合作が破綻へ向かう端緒となったが、事件の中核の経緯は未だにはっきりしていない。 事件の背景 1924年中国国民党は第一次全国代表大会で「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示。ソ連のコミンテルンの指示を受けた中国共産党もこれに応じ、共産党員が国民党に入党するという形式で両党の間に国共合作が行われることになった。それよりやや以前から国民党総理孫文(孫中山)はソ連式の軍人教育にならって将校を育成する機関の必要性を感じ、蒋介石をソ連へ派遣していたが、これを機に広東省広州の長洲島にある黄埔に軍官学校(...
  • 中山艦事件
    中山艦事件(ちゅうざんかんじけん)は、1926年3月20日中華民国の広州で軍艦中山艦の回航をきっかけに、黄埔軍官学校長蒋介石が中国共産党員らの弾圧を開始した事件。「三二〇事件」「広州事変」とも。この事件をきっかけに中国国民党内での蒋介石の地位が急速に上昇し、また翌年4月の上海クーデターで第一次国共合作が破綻へ向かう端緒となったが、事件の中核の経緯は未だにはっきりしていない。 事件の背景 1924年中国国民党は第一次全国代表大会で「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示。ソ連のコミンテルンの指示を受けた中国共産党もこれに応じ、共産党員が国民党に入党するという形式で両党の間に国共合作が行われることになった。それよりやや以前から国民党総理孫文(孫中山)はソ連式の軍人教育にならって将校を育成する機関の必要性を感じ、蒋介石をソ連へ派遣していたが、これを機に広東省広州の長洲島にある黄埔に軍官学校(...
  • 関東軍特殊演習
    関東軍特殊演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは関東軍が1941年(昭和16年)7月7日に満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目に約70万の兵力を満州国に派遣したこと。事実上の対ソ連戦争準備行動であった。略称として、関特演(かんとくえん)が使われる。 戦争準備行動 1941年6月22日に開戦した独ソ戦に対し関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を主張、ドイツ軍と協力して東西からソ連軍を挟撃しようとした。しかし、大本営や閣僚、東条英機陸軍大臣をはじめとする軍部はアメリカによる経済制裁によって生じた石油備蓄量低下を理由に南方資源の獲得、日ソ中立条約破棄によるソ連軍との全面戦争の勝機が薄い事を理由に南方進出を支持。だが近衛文麿首相はノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(九五式軽戦車、軽装甲車等の車輌約90輌、航空機約50機、兵員約28万名)では戦力不足と判断、満州工業地帯の防衛が困...
  • 立憲国民党
    立憲国民党(りっけんこくみんとう)は、日本の明治末期・大正時代の政党。 立憲政友会が藩閥政府と妥協したことに反発した、反政友会各派が合同運動を繰り広げるが、1910年(明治43年)3月14日 立憲改進党の系譜につながる憲政本党を中心に又新(ゆうしん)会と戊申倶楽部の3派(代議士は計92名)が合同して結党された。 党首は不在で、憲政本党の大石正巳、犬養毅、又新会の島田三郎、河野広中、戊申倶楽部の片岡直温、仙石貢らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して民党の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする「非改革派」と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る「改革派」が対立していた。1911年(明治44年)1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。第2次桂内閣や第2次西園寺内閣では南北朝正閏問題や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。 19...
  • 井上準之助
    Template Infobox Celebrity? 井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和7年(1932年)2月9日)は、大正~昭和初期の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。 来歴・人物 浜口内閣で行った金輸出解禁(金本位制への復帰)や緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き、血盟団事件で暗殺される。 金輸出解禁政策は失敗であったが、当時としては異例の全国各地を歩いて国民に政策の理解を求めるPR活動を行うなどの真摯な態度や、当時の経済学において正統な経済のあり方とされた金本位制を維持しようとしたのは常識的判断であり世界恐慌の深刻さがそれを上回ったと擁護する向きもある。しかし、金融界の意向に配慮した旧平価解禁の強行やその後のドル買事件に際しては一転して金融界と過度な全面衝突を起こすなど...
  • 袁世凱
    {{大統領 | 人名 = 袁世凱 | 各国語表記 = | 画像 = Yuan Shikai in uniform.jpg | 画像サイズ = 200px | 国名 = 大清帝国 | 代数 = 第2 | 職名 = 内閣総理大臣 | 就任日 = 1911年11月16日 | 退任日 = 1912年2月12日 | 副大統領 = | 元首 = 宣統帝 | 国名2 = Template CHN1912? | 代数2 = 第2 | 職名2 = 臨時大総統 | 就任日2 = 1912年3月10日 | 退任日2 = 1913年10月10日 | 副大統領2 = 黎元洪(中華民国臨時副総統) | 元首2 = | 国...
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