chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「起訴」で検索した結果

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  • ニュルンベルク裁判
    ...、フランス人によって起訴され、裁かれた。彼らは、多くの時間と努力、誇張した表現を使って、連合国を免責し、第二次大戦の唯一の責任をドイツに負わせようとした。裁判の民族的な偏りについて私が述べたことは、検事側にも当てはまる。これらの裁判を設立する動機として宣言された高い理想は、実現されなかった。検事側は、復讐心、有罪判決を求める個人的な野心に影響されて、客観性を維持することを怠った。将来の戦争に歯止めをかけるためになるような先例を作り出す努力も怠った。ドイツは有罪ではなかった。ここでの全体的な雰囲気は不健康であった。法律家、書記、通訳、調査官はつい最近にアメリカ人となった人々(亡命したユダヤ系住民の事)が雇われていた。これらの人々の個人的な過去は、ヨーロッパへの偏見と憎悪に満ちていた。裁判は、ドイツ人に自分たちの指導者の有罪を納得させるはずであったが、実際には、自分たちの指導者は凶暴な征...
  • 帝人事件
    ...職の原因となったが、起訴された全員が無罪となり、倒閣を目的にしたでっち上げと言われた。 経緯 帝国人造絹絲株式会社(帝人)は鈴木商店の系列であったが、1927年の恐慌で鈴木商店が倒産すると、帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になった。業績が良好で株価が上がったため、この株をめぐる暗躍が起こっていた。元鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、鳩山一郎や「番町会」という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻した。その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。 1934年1月、時事新報(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事を掲載、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。当時文部大臣の鳩山一郎は議会で関連を追及され「明鏡止水の心境」と述べたところ、辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任。(なお、3月に武藤山治射殺事件が起きたが、本事件との関係は不明で...
  • 川俣事件
    ...名が兇徒聚集罪などで起訴されたが、1902年12月25日、仙台控訴審で起訴無効という判決が下り、実質的に全員不起訴という形で決着した。 概要 第1回~第3回押出し 足尾銅山による鉱毒被害が増大すると、衆議院議員田中正造の主導の下、1896年10月4日、群馬県邑楽郡渡瀬村(現館林市)にある雲龍寺に、栃木・群馬両県鉱毒事務所がおかれた。 農民らは結束して東京に請願に出かけることにし、1897年3月2日、第1回の請願が行われた。当時、このような活動には名前がなく、農民らは東京大挙押出しと呼んだ。参加者は2000人。農民らは、米を持参して徒歩で数日がかりで東京に向かった。当時、鉄道はあったが、鉱毒被害地から東京までの運賃が、鉱毒で貧困化していた農民らにとっては非常に高かったため、徒歩という方法がとられた。第1回押出しは、榎本武揚農商務大臣との面会に成功し、榎本はこの直後、現地視察を行っ...
  • 森戸事件
    ...憲紊乱罪により森戸は起訴され、休職処分となる。当時の助教授・大内兵衛も掲載の責任を問われて起訴される。 10月2日、大審院は上告を棄却して有罪が確定。両名は失職し、同じ頃ILO日本代表派遣問題をめぐって東大を辞職した師の高野岩三郎(初代経済学部長)とともに大原社会問題研究所に参加、同所の中核メンバーとなった。その後、大内は復職したが、人民戦線事件で検挙、再び東大を追われた。 同じ経済学部の教授である渡辺銕蔵などは、森戸の論文は論理も学術的価値もない、と批判した。 なお岸信介は森戸を排斥した興国同志会に属していたが、この事件をきっかけに興国同志会と決別している。岸はマルクス的社会主義にある種の共感を持っていたともいわれている。 参考文献 「私の履歴書 文化人20 森戸辰男」 日本経済新聞社、1984年。 原彬久 『岸信介』 岩波書店、1995年。 塩田潮 『岸信介...
  • 大阪商大事件
    ...0名のうち約30名が起訴され3名が実刑判決を受けた(うち若干名は執行猶予により釈放された)。起訴されなかった者もそのまま未決囚として拘置所・刑務所に拘留された。このため拷問、栄養失調などにより3名が獄死、数名が精神に異常をきたす結果となった。この事件の被告・拘留者は、1945年10月のGHQ/SCAPによる政治犯釈放指令をまって初めて解放された。 関連書籍 上林貞治郎 『大阪商大事件の真相;大阪市大で何が起こったか』 日本機関紙出版センター、1986年。 関連項目 満鉄調査部事件 横浜事件 外部リンク 戦後の1948年に米軍が撮影した空中写真 - 杉本学舎と堺市にある大阪刑務所は大和川と阪和線(旧阪和電気鉄道)を隔てているがそれほど離れていない。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月4日 (日) 17...
  • 企画院事件
    ...持法違反として検挙・起訴された事件。企画院事件は、1939年以降の「判任官グループ」事件、および1940年以降の「高等官グループ」事件の複合体である。 経緯 1938年10月の京浜工業地帯の労働者による研究会に対する弾圧事件(「京浜グループ」事件)において、同研究会で講師を務めていた企画院属の芝寛が逮捕された。芝による自供をもとに、企画院内若手判任官による研究会(これ自体は同院内部で認可された小規模な勉強会であった)の存在が警察の認識するところとなり、これが「官庁人民戦線」の活動として扱われ、1939年11月から翌1940年までに岡倉古志郎・玉城肇ら4名が検挙された(「判任官グループ」事件)。 さらに検挙は1940年10月から1941年4月にかけて、稲葉秀三・正木千冬・佐多忠隆・和田博雄・勝間田清一・和田耕作ら中心的な企画院調査官および元調査官(高等官)に波及し、検挙者は合...
  • 中山事件
    ...我栄以下数名を逮捕、起訴した。 しかし抗日団体などの脅迫などのために裁判はなかなか進まず、10月2日にようやく上海第一特区法院において楊、葉の2名は死刑、周は無罪と断案が下され、中国側はこれによって抗日秘密結社の存在を認めた。 楊、葉の2名は上告したが、11月9日の上訴判決でふたたび死刑判決が下され、事件はいちおうの解決を見た。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月7日 (日) 15 01。     
  • 陸軍士官学校事件
    ...は証拠不十分として不起訴処分となるが、村中・磯部両名は停職、士官学校生徒5名が退学処分となった。 この逮捕は統制派による謀略であり、以前から皇道派の有力将校を狙い撃ちされたものであった。これは辻政信の陰謀によるものとの説が有力であるが、片倉衷が辻に加担したとも、また永田鉄山軍務局長の指示によるとも言われる。事件摘発後に磯部は、辻と片倉によるでっち上げだとして二人を誣告罪で訴えたが、軍法会議で却下された。 この事件が皇道派の結束力を深め、相沢事件や二・二六事件を起こす一因となったとの見方がある。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月3日 (金) 10 39。     
  • 加波山事件
    ...よって裁かれたため、起訴されたのは加波山に立てこもった16人に加え、内藤ら若干名にとどまった。7名に死刑判決が下され(うち1人は刑執行前に獄死)、3名が無期懲役となった。但し服役者も獄死者を除き、特赦によって明治27年までには出獄している。 この事件を期に、政府は、爆発物の使用に対して刑法(いわゆる旧刑法)の規定よりも厳格に取り締まるため、爆発物取締罰則を制定した。 関連項目 福島事件   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年9月21日 (日) 09 52。    
  • 人民戦線事件
    ...たとして治安維持法で起訴され、多く(第二次検挙で逮捕された教授グループは全員)は、1944年9月2日の二審で無罪が確定したが、加藤・鈴木・山川らは有罪とされた。戦後、1945年に免訴となる。 この事件を機に、日本共産党に限定されていた検挙が、マルキスト・社会主義者一般に及ぶようになり、日本での社会主義革命運動の主力はその後、司法省・内務省の管轄外にある陸軍の革新将校が中核となっていった。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月2日 (木) 08 49。     
  • シーメンス事件
    ...へ帰国、恐喝未遂罪で起訴されたことに始まる。 大正3年(1914年)1月21日の外電は、リヒテルに対するベルリン公判廷での判決文の中で、彼の盗んだ書類中に発注者の日本海軍将校に会社側がリベートを贈ったとの記載があると伝えたので、1月23日、第31議会衆議院予算委員会で、立憲同志会の島田三郎がこの件について厳しく追及した。山本内閣は、この議会に海軍拡張案とその財源として営業税・織物消費税・通行税の増税の予算案を提出していたことから、これに反対する民衆の攻撃の的となり、新聞は連日海軍の腐敗を報道し、海軍内部からの内部告発もあり世論は沸騰した。 1月末から2月初めにかけて、関係者の喚問や家宅捜索が開始され、2月7日、藤井光五郎機関少将(艦政本部第4部長)、沢崎寛猛大佐が検挙され、海軍軍法会議に付された。2月10日野党の立憲同志会・立憲国民党・中正会は衆議院に内閣弾劾決議案を上程した。そ...
  • 谷寿夫
    ...鳩彦王は皇族であり不起訴となったため、生き残っていた谷に責任がまわってきたことは不運であった。 著書 『機密日露戦史』新装版、原書房、2004年。 ISBN 4-562-03770-9 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2009年1月11日 (日) 16 52。    
  • 内閣総理大臣
    ... 極東国際軍事裁判で起訴され、収監を前に自邸で青酸カリを飲んで自殺。 自殺未遂した内閣総理大臣経験者: 東條英機 極東国際軍事裁判で起訴され、収監を前に自邸で拳銃で自らの心臓を撃つが失敗。 法務死した内閣総理大臣経験者: 東條英機、廣田弘毅 極東国際軍事裁判で絞首刑判決。 獄死した内閣総理大臣経験者: 小磯國昭 極東国際軍事裁判で終身禁固刑判決、のち獄中で病死。 疑獄 逮捕収監され起訴された内閣総理大臣経験者: 芦田均、田中角榮 公判で有罪判決を受けた内閣総理大臣経験者: 田中角榮 芦田は昭電疑獄で逮捕収監され起訴された。公判で無罪が確定。 田中はロッキード事件で逮捕収監され起訴された。公判では一審と二審で有罪判決、上告審の審理途中で被告死去により公訴棄却。 かつて逮捕収監され起訴されたことがある内閣総理大臣: 田中角...
  • 京都学連事件
    ...法違反・不敬罪により起訴された。京都地裁による1927年5月の第1審判決では出版法違反および不敬罪については特赦となったが、治安維持法違反については是枝恭二(東大文)ら4名の禁固1年を筆頭に37名が有罪となった。弁護人と検察は共に控訴し、その後の三・一五事件の影響で公判は紆余曲折の経緯をたどり、1929年12月の大阪控訴院判決では18名に対し懲役7年以下とより厳しい量刑となった。そして1930年5月、大審院による上告棄却で有罪が確定した。 影響 1926年6月29日、岡田良平文部大臣はこの事件を受けて学生・生徒による社会科学研究の禁止を通達、1928年4月17日には東京帝大が新人会に解散命令を出し、以降各帝大社研に解散命令が下された。東大新人会は1929年11月7日に解散を声明した。 事件の意義 最初の治安維持法適用事件である。この事件が起こった時点では日本共産党は再...
  • 真崎甚三郎
    ...反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、事件関与を否認。論告求刑は反乱者を利す罪で禁錮13年であったが、1937年9月25日の判決で無罪となる。しかし、この結果皇道派の力が衰え、統制派の力が増すことになる。 終戦後の1945年11月19日に、A級戦犯として逮捕命令が発令され、巣鴨プリズンに入所する。第一回の尋問は巣鴨への収監に先立つ12月2日に第一ホテルで行われた。以降は、3回に亘って尋問が行われたが、供述内容は責任転嫁と自己弁明に終始した。特に、敵対していた東條英機等統制派軍人や木戸幸一に対する敵意と憎悪に満ちた発言と、親米主義の強調は事あるごとに繰り返しており、その態度からは「皇道派首領としての威厳や格調、陸軍を過ちへ導いた事への自責の念は全く見られなかった」と野口恒等から酷評されている。極東国際軍事裁判で不起訴処分。 1956年死去。 年譜 1897年(明治30年)11月...
  • 更新blog-6
    ...々雑論 小沢氏が強制起訴らしいですね 日々雑論 ウサンクサイケイ抄10月4日 日々雑論 ウサンクサイケイ抄 10月2日 日々雑論 気分を変えて今日注文した本 日々雑論 ウサンクサイケイ抄 9月26日 日々雑論 落ち着いてきたので民主党代表選の感想なんかを ウサンクサイケイ抄 8月30日 日々雑論 改めてもう一度東洋近代史を真面目に手持ちの書籍でつついてみます 日々雑論 一般法則論の方のブログが相当凄い 日々雑論 ウサンクサイケイ抄 8月22日 日々雑論 ウサンクサイケイ抄8月15日 ]日々雑論 いつもこの時期はうっとうしい事この上ないんだが… 日々雑論 世の中には暇な方が居るもんで 【出張】 戦争被害者と産経新聞 戦争を反省し戦争被害者を悼む心はどこに 日々雑論 出張 自慰史観は歴史壊す ウサンクサイケイ抄 8月11日 日々雑論 今までしなかったのが遅すぎるくらいなのだがこれで少しは...
  • A級戦犯
    ...決を受けた者をさす。起訴された者を含む場合もある。 逮捕までの経緯 1945年7月26日、ポツダム会談での合意に基づいて米英中により、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言(ポツダム宣言)が行われた。第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。 同年8月8日、米英仏ソが「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここで「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という新しい戦争犯罪の概念が登場。 同年8月10日、日本がポツダム宣言を受諾。15日、終戦。 同年8月29日、アメリカ政府は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー(米陸軍元元帥)に暫定的な「日本降伏後初期の対日政策」を無線で指令。その指令書の一項に「連合国の捕虜...
  • 重光葵
    ...重光をA級戦犯として起訴するよう要求してきた。当初、GHQは重光を戦犯として起訴する意思は皆無で、キーナンをはじめとするアメリカ側検事団も強く反対した。しかし、当時の民主党政権は「要求を受け入れられないのなら、裁判に参加しない」というソ連側の揺さぶりに屈する形となり、マッカーサーも要求を容認さぜるを得なくなった。結局、4月29日の起訴当日に逮捕され、昭和23年(1948年)11月12日に有罪判決を受けた。裁判においては、高柳賢三・ジョージ・ファーネス両弁護人の尽力などもあって、その判決は禁固7年というA級戦犯の中では最も軽いものとなったが、日本だけではなく当時の欧米のメディアも重光の無罪は間違いないと予想していただけに、有罪判決はGHQによるソ連を満足させるための政治的妥協によるものだと評する声も多かった。事実、当時の巣鴨プリズンで憲兵を務めていたブルーム大尉は「驚いた。貴下の無罪は...
  • 幸徳事件
    ...平四郎は7月14日に起訴決定。熊本関連は新美卯一郎、飛松与次郎、佐々木道元を松尾と同じく8月3日に起訴決定。 松尾、飛松は前年から新聞紙条例違反の禁錮刑で熊本監獄に在監していた。架空の「11月謀議」時に巣鴨平民社に同居していた森近運平は岡山に戻っていたが6月15日に起訴決定。巣鴨時代の平民社に住込み、その後幸徳から離れた坂本清馬は8月9日起訴決定されている(7月26日、東京にて印刷所で労働中、浮浪罪で拘引、数日後に拘束)。 さらに1910年8月21日、大阪にて内山愚童の皇太子暗殺計画(「オヤジをやめて、セガレをやれば胆をつぶして死ぬだろう」という発言)から2つめの「大逆罪」を認定、内山の歴訪した大阪から武田九平、岡本顕一郎、三浦安太郎は8月28日に起訴決定。神戸から神戸平民倶楽部の岡林寅松、小松丑治を9月28日に起訴決定、内山愚童を10月18日に起訴決定した(内山は出版法、爆発物取...
  • 松井石根
    ...裁判でA級戦犯容疑で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、訴因第55項で有罪となったため、実際にはBC級戦犯である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという認識が浸透している。)を受け、処刑された。現在は靖国神社に合祀されている。 生涯 出自 愛知県出身。旧尾張藩士松井武国、ひさの六男として生まれた。成城学校から陸軍士官学校(9期次席)、陸軍大学校(18期首席)を卒業。陸大在学中に日露戦争に従軍した。 中国に駐在中は孫文の大亜細亜主義に強く共鳴し、孫文の革命を支援。中国国民党の袁世凱打倒に協力。昭和8年(1933年)に大亜細亜協会の設立...
  • 治安警察法
    ...安警察法違反の疑いで起訴された事件。 外部リンク 二村一夫著『高野房太郎とその時代』(90)治安警察法公布 昭和3年4月10日閣議決定「労働農民党、日本労働組合評議会及全日本無産青年同盟ノ3結社治安警察法第8条ニ依リ禁止ノ件」(国立国会図書館) 昭和3年12月21日閣議決定「治安警察法第8条第2項ニ依リ無産党結社禁止ニ関スル件」(国立国会図書館) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月9日 (火) 04 18。     
  • 日本の戦争犯罪
    ...和に対する罪』として起訴された者など、戦争の原因とされた者の主張は受け入れられにくい」といった点を指摘し、審理が一方的だったとする意見がある。 また、「戦勝国側の行為、特に アメリカ合衆国の広島・長崎への原子爆弾投下は、非戦闘員への無差別殺害を意図したものだ」として、「第二次世界大戦における、ナチスのユダヤ人虐殺などと同じく国際法に違反するおそれが高い行為であり、b項の「戦争犯罪」として起訴されるに足る行為でありながら起訴されておらず、戦争犯罪を裁くための裁判であるなら、勝者の行為であっても公平に罪を問われるべきだ」という意見も多い。 その他にも、「平和に対する罪」「人道に対する罪」などは、日本とドイツを裁くために後付けで提唱されたものであるとして、法の不遡及や罪刑法定主義が保証されず、法学的な根拠を持たないとする意見もある。 上官の命令に従っただけであるにも関わらず戦争犯罪人...
  • 大川周明
    ...戦後、A級戦犯として起訴される。東京裁判に出廷した被告の中で唯一の民間人だった。 大川は水色のパジャマを着、素足に下駄を履いて東京裁判に出廷した。休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がする程はたいたり(軍人は坊主頭)、「インダー、コメンジー!(「Inder kommen Sie! 独訳 インド人よ来たれ!」、アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア、コメディ!(「It s a comedy! 英訳 これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ、シンク」と奇声を発するなど、常識を逸した行動をとり、法廷は爆笑の渦に巻き込まれた。 翌日の法廷で、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、1947年4月9日に、大川を正式に裁判から除外した(この時下記のように脳梅毒に罹っていたた...
  • 満鉄調査部事件
    ...44名のうち40名が起訴、鈴江言一ら4名は保釈された。その後大上末広・佐藤晴生ら5名が獄中死、さらに伊藤武雄・花房森ら15名が保釈された。残余の20名は1945年5月に判決を受け、共産主義的結社に関与したとされる渡辺雄二ら2名の徒刑5年を最高刑にして、全員が執行猶予を付けられた。憲兵隊は被検挙者の中からスパイ組織を作って在満日本人の動向を探らせており、これへの参加を断った者は石堂清倫のように軍への懲罰召集を受けることもあった。 取調中に作成された被検挙者の手記・意見書はソ連侵攻時に関東軍の憲兵隊の手で処分されたと考えられていたが、戦後その一部が中華人民共和国吉林省人民政府により発見され、現在では公開されている。 関連項目 満鉄調査部 ゾルゲ事件 上海反戦グループ事件 泊事件 関連文献 関東憲兵隊司令部編 『在満日系共産主義運動』【復刻版】 極東研究所出版会、1...
  • 大逆事件
    ...皇暗殺計画容疑として起訴した荻野富士夫『思想検事』岩波新書(2000年)p.11。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした荻野富士夫前掲書p.12。 1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新見卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(菅野スガ)が処刑された。特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。 赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村『寒村茶...
  • 美濃部達吉
    ...べを受けた(ただし、起訴猶予処分となっている)。同年9月、美濃部は貴族院議員を辞職し、公職を退いたものの、翌1936年(昭和11年)には、天皇機関説の内容に憤った右翼暴漢の襲撃を受けて重傷を負った。この一連の天皇機関説事件の中で、政府は2度わたって「国体明徴声明」を出し、天皇機関説は異端の学説と断罪した。 戦後 第二次世界大戦後、占領軍の対日民主化政策により憲法改正作業が行われ、美濃部も内閣の憲法問題調査会顧問や枢密顧問官として憲法問題に関与した。しかし、占領軍は国家の根本規範を改正する権限を有しないとの理解を前提に、新憲法の有効性について懐疑的見解を示し、しかも国民主権原理に基づく憲法改正は「国体変更」であるとして反対。枢密院における新憲法草案の審議でも、議会提出前の採決で唯一人反対の態度を示し、議会通過後の採決も欠席棄権するなどして抵抗し、「オールド・リベラリストの...
  • 翼賛議会
    ...政治会には刑事事件で起訴された2名を除く全ての衆議院議員が参加した。翼政会の下での帝国議会においては「派閥政治の一掃と真の国家的見地に立った行動」が求められ、戦争を有利に進めるために政府提出法案を無修正で速やかに成立させることが帝国議会議員の義務とされたただし、これをもって単純にこの時期の議会が政府・軍部の支配下に入ったというのは早計である。なぜなら、政府や軍部に批判的な政治家でも日本が戦争に敗北することを支持していた政治家は皆無であり、重大な問題があるものでなければ戦争遂行のための法案に反対する理由が無かったからである。。この議会は「翼賛議会」と称されて、これによって名実ともに一党支配の政治体制が完成された。だが、形式的には大日本帝国憲法によって権力分立が維持されて法律や予算の成立には議会の賛同が必要であったために、政府(官僚)や軍部が協力な権限を保持していても超然主義による戦争遂...
  • BC級戦犯
    ...2名の容疑者を逮捕・起訴した。イギリス軍を主体とする連合軍東南アジア司令部は1946年5月の時点で8,900名を逮捕し、この他にソビエト連邦軍やアジア各国で逮捕されている。正確な容疑者の逮捕総数を示す資料はないが、第一復員局法務調査部では1946年10月上旬の時点で約11,000名が海外で逮捕されたと推計していることなどから、その数が1万名をはるかに超すものと考えられている。 戦犯逮捕の過程では、敵軍の裁きを潔しとしないという理由で自らの命を絶った者もいた。主なものを挙げると、杉山元(陸軍元帥)は拳銃自殺、橋田邦彦(文部大臣)、近衛文麿(元首相)の2名は服毒自殺、小泉親彦(東條内閣の厚生大臣、軍医中将)、本庄繁(元関東軍司令官、陸軍大将)は割腹自殺を行っている。なお東條英機(元首相、陸軍大将)は自殺を図ったが未遂に終わっている。 朝鮮人・台湾人の戦争犯罪人 BC級戦犯の中に...
  • 田中隆吉
    ...の検事が正式に天皇追起訴を提言してジョセフ・キーナン主席検事に迫った。キーナンと田中は、天皇は開戦の意図を持っていなかった、天皇には責任はないということを、いかにして東條に再度言明させるかを深夜まで協議をした。東條への工作は成功した。 1948年(昭和23年)1月6日の午後の法廷において、東條に「2、3日前にこの法廷で日本臣民たるも者は何人たりとも天皇の命令に従わないと述べたことは、単に個人的な国民感情を述べたにすぎず、天皇の責任とは別の問題であり、大東亜戦争(太平洋戦争)に関しては、統帥部その他自分をふくめて責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが実情である」と発言させることに成功したのだった。これにより、この危機は救われた。 東京裁判の席上、田中隆吉が東條を指差し、東條を激怒させた。特に武藤章においては「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」という田中の証言により、...
  • 1918年米騒動
    ...た。また7786名が起訴うち700余名が騒乱罪によるもので起訴されている。され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。 被差別部落との関わり 米騒動での検事処分者は8185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったからである。処分は死刑をも含む重いものであった。1920年、事態を重く見た原敬内閣は部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。 政府対応 政府は8月13日に1000万円の国費を米価対策資金として支出する事を発表し...
  • 三・一独立運動
    ...立運動を行い、逮捕・起訴後懲役3年の有罪判決を受けてソウルの西大門刑務所に収監され、獄中で死去したという梨花学堂学生柳寛順(ユグァンスン)(当時17歳)である。彼女は、後に「独立烈士」として顕彰され、韓国ではフランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクになぞらえ「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、現在まで尊敬を集めている。一方で、彼女についての実際の記録はほとんどなく、膨張され過ぎて伝えられてきたと指摘もされている。柳寛順研究所の研究員は「柳寛順への盲目的な思い込みから、いい加減な事実が広まっており、子供向けの伝記にまで膨張した話が掲載されている」と問題視している2002年2月26日中央日報。 運動の終息 朝鮮総督府当局による武力による鎮圧(弾圧)の結果、運動は次第に終息していった日本側対応の形容について 三一運動の弾圧については、たとえば「すさまじい弾圧」(朝鮮史研究会 編『朝鮮の...
  • 鶴見騒擾事件
    ...改正により騒乱罪)で起訴されているため鶴見騒擾事件と呼ばれる。 なお鶴見駅周辺から見た場合、鶴見川対岸の潮田地区が主な闘争の現場であるため、本来は事件を別の名称で呼ぶべきであったとする向きもある(注)。当時は橋一つの「川向こう」でも風土や歴史には大きな違いがあり、そこには日本の資本主義の成長の歪みがあった。 (注)事件当時の行政区域は市制施行前の「橘樹郡鶴見町」であるが、事件現場となる「橘樹郡潮田町」と合併した直後であり、その町境が鶴見川であったことから。 大正電力戦争 未曾有の大惨事となった関東大震災は、同時に工場用地が東京市及びその近郊から移転する契機となり神奈川の建設ラッシュに拍車がかかる。松永安左エ門(当時、東邦電力副社長)は関東の電力会社を買収し都心南部および京浜地帯への電力供給を目的とした東京電力(現在の東京電力とは別、通称「東力」)を興す。ここにおいて九州、...
  • 死のう団事件
    ...月16日、江川らは不起訴処分が下るのを覚悟の上で、交渉を打ち切った。満腔の怒りを込めて「バカヤロウ!」「一切の交渉御断り申上候」などと書かれた文書が、交渉を行った警部補らの郵便受けに投函された。 果たして3ヶ月後、横浜検事局は特高課員の不起訴処分を決定した。江川らは抗告状を提出したが、無駄であろうことは予想が付いた。 1935年2月、第67帝国議会で衆議院議員久山智之が党員に対する特高の拷問について質問。国会議員が動いたことにより事態を重大視した警視庁は、全ての党員の動向を監視することを決めた。党員の実家にも警官が繰り返し訪れた。会館に寄り付く者には執拗な職務質問を行った。 同年9月、公訴院が抗告状を棄却。事件を法廷に持ち込もうとした彼らの望みは断たれた。 壊滅 餓死殉教の行 1936年6月、江川らは会館に常駐する警官を排除し、「餓死殉教の行」と称する籠城生活に突入した。会...
  • 極東国際軍事裁判
    ...後、裁判が行われた。起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われ、27億円の裁判費用は、日本政府が支出した。 連合国(戦勝国)からの判事としては、アメリカ、英国、ソ連、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、フィリピンの11ヶ国が参加した。 当初55項目の訴因があげられたが最終的に10項目の訴因にまとめられた。なお判決に影響しなかった訴因のうち、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」、「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外された。 1946年5月3日より審理が開始し、1948年(昭和23年))11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は、英文1200ページを超える膨大なもので、...
  • ゾルゲ事件
    ...、23頁。などにより起訴され、一審によって刑が確定し、それぞれに1年半・執行猶予2年(西園寺)から死刑(ゾルゲ、尾崎)までの判決が言い渡された。ゾルゲや尾崎らは巣鴨拘置所に拘留され、日本、ドイツ両国の敗色が濃厚となってきた1944年11月7日のロシア革命記念日に死刑が執行された。 死刑が執行される直前の最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」と語ったと言われている。翌1945年1月にはヴーケリッチも北海道の網走刑務所で獄死したが、マックス・クラウゼンは戦後夫婦ともども連合軍によって釈放され、生きて故郷の東ドイツに戻ることができた。 関連書籍 ゾルゲに関するものはリヒャルト・ゾルゲおよびリヒャルト・ゾルゲを参照。 山村八郎(中村絹次郎) 『ソ連はすべてを知つていた』 紅林社、1949年。 チャールズ・ウィロビー著、福田太郎訳 『...
  • ひかりごけ事件
    ...船長を死体損壊容疑で起訴。刑法には食人についての規定が無いため、食人の是非については裁判では問われなかった。8月、船長に対する心神耗弱が認められ、懲役1年の判決が下りた。 1954年、武田泰淳はこの事件をモチーフとした小説『ひかりごけ』を発表した。 風評 船長による食人は人口に膾炙したが、新聞報道は行われなかった。裁判記録は廃棄され、捜査記録も戦後発生した火災により焼失したことから、事件の詳細が知られることはなく、逆にさまざまな憶測が流れることとなった。 戦後、羅臼郷土史に難破船事件として採録されるが、噂をもとに構成されており、細部は実際の事件と異なっている。武田泰淳が羅臼郷土史および現地の噂をもとに小説『ひかりごけ』を著すと、その内容が事実として受け入れられることとなってしまった。 結果、船長が船員をつぎつぎと殺害して食べたという噂が流れることになった。 船長の心情 ...
  • 尾崎行雄
    ...であるとされ不敬罪で起訴される(一審で有罪、1944年(昭和19年)大審院で無罪確定)。 戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力するが、1953年のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選して、政界を引退した。名誉議員の称号を贈られる。95歳まで衆議院議員を務めたのは日本史上最高齢記録であり、当選25回・議員勤続63年も同じく日本記録である(アメリカではストロム・サーモンドが連邦上院議員を100歳まで務めている)。る。1950年には英語国語化論を提唱したこともある。 1954年(昭和29年)10月6日、直腸ガンによる栄養障害と老衰のため死去。96歳。墓所は鎌倉の円覚寺。 永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。 相模原市津久井町と伊勢市に、それぞれ尾...
  • 日本共産党査問リンチ事件
    ...治を傷害致死罪でしか起訴できなかったという。現在の刑事裁判ならば、「極刑をもって断罪する。」という赤旗の声明からみても、未必の故意による殺人罪に問えるケースであったとしている。 宮本顕治 党中央委員 無期懲役 袴田里見 党中央委員 懲役15年 秋笹政之助 党中央委員 懲役10年 逸見重雄 党中央委員 懲役5年 木島隆明 党中央組織委員 懲役5年 加藤亮 懲役3年 木俣鈴子 執行猶予判決 ref name=yasuhara510130 / 復権問題 1945年8月の終戦後、10月4日にGHQは、政治犯の釈放等を命ずる覚書を発出した。これを受けて日本政府は、直ちに治安維持法違反等の政治犯釈放の措置に入った。10月9日、宮本顕治は、刑の執行を停止するという形で網走刑務所から釈放され、 ref name=yasuhara510130/ 袴田も19日はに...
  • 進歩党 (日本)
    ...告訴合戦は双方とも不起訴に終わった。横浜地方裁判所で続いていた山口県連党員と進歩党所属鎌倉市議会議員助川邦男助川はその後、鎌倉市議会議長となるが、市の公務を無視して海外旅行に行っていたことが発覚し、辞任の民事訴訟は山口県連党員の実質勝訴だった。 党勢の推移 衆議院 選挙 当選/候補者 定数 備考 (結党時) 1/- 512   第39回総選挙 ○1/7 512   参議院 選挙 当選/候補者 非改選 定数 備考 (結党時) 0/- - 252   第15回通常選挙 0/10 0 252   第16回通常選挙 0/1 0 252   当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。 註 Template reflist? 関連項目 日本の政党一覧 新自由クラブ 進歩党をまじめに考える会 ...
  • 阿部信行
    ...開廷直前になって突如起訴予定者のリストから外されたといわれており、同裁判を巡る謎の一つとされている。 処世の将軍 Template Infobox 軍人? 平沼内閣の突然の崩壊で、それまで首相選びの任に当たってきた元老・西園寺公望も「自分には意見がない」と言い出す有様であった。近衛文麿や広田弘毅の再登板説が出たり、宇垣一成陸軍大将、勝田主計元蔵相の名前が挙がったが、なかなかまとまらない。そんなとき、陸軍が阿部を推し、皆が飛びついた。阿部は陸軍大学校では成績優秀の「恩賜の軍刀」組。日露戦争、シベリア出兵で出征はしたものの、実戦には参加せず、「戦わぬ将軍」のあだ名で有名だった。その代わり、軍務局長、陸軍次官の職を無難にこなし、事務屋として力量を発揮した。また陸軍次官の時、宇垣一成陸相が病気入院し、その代理として陸軍大臣を代行した。統制派、皇道派のどちらにも属さず、無色であることも幸...
  • 百人斬り競争
    ...南京軍事法廷において起訴され、死刑判決を受け、1948年1月28日に南京郊外で処刑された。 論争 その後この事件は忘れられていたが、1971年に本多勝一が書いたルポルタージュ『中国の旅』(朝日新聞連載、のちに単行本化された)でこの事件とその報道が取り上げられた。これに対し、イザヤ・ベンダサン(山本七平とされる)が百人斬り競争は「伝説」だとし、これに対し本多が反論した。その後、鈴木明が議論に加わった。更に、山本七平は『中国の旅』批判の一部として“100人を斬り殺すなど不可能”として議論した。これらの議論に対して洞富雄が批判を行った。 それ以来、南京大虐殺について虐殺「あった」派から「百人斬り競争」が言及され、大虐殺「なかった」派は『肯定論の非論理性』を指摘するという構図となっている。そもそも南京大虐殺は日本軍による組織的な事件とされていることから「百人斬り競争」をその事実肯定...
  • 荒木貞夫
    ...常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウェッブ裁判長から注意された。判決時にはモーニング姿で被告席に現れた。しかし、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な言動をとるようになるなど、その思考には多少短絡的な部分もあったようだ。 皇道派のシンボル 昭和初期の陸軍首脳は、「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、1929年(昭和4年)当時、第1師団長であった真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやったときに、荒木も左遷される運命にあった。 しかし、教育総監の武藤信義が「せめて荒木は助けてやってくれ」と詫びを入れる形で、荒木は第6師団長から教育総監部本部長に栄転し東京に残った。武藤はどちらかというと反宇垣で皇道派の庇護者であった為、統制派の独裁を嫌い、特に荒木を可愛がったらしい。この頃の荒木の人気と云うのは...
  • 鈴木貞一
    ...う文官としての立場で起訴された)。終身禁固の判決を受け服役する。1955年9月17日に橋本欣五郎、賀屋興宣とともに仮釈放され、1958年に赦免された。 赦免後は、「電力王」と呼ばれた松永安左エ門の要請で産業計画会議委員へ一度就いたが、岸信介内閣成立後の1959年に、自民党から参院選出馬への要請を受けるも、「もう私の時代は終わった」「一度、頂点の舵取りを誤った者は、二度とその職に付くべきではない」と拒否し、公的な役職に就くことはなかった。しかし、保守派の御意見番として、自民党の国会議員から意見を求められることが多く、佐藤栄作のブレインとして彼を支え続けたほか、岸信介や福田赳夫、三木武夫とも懇意にしていたと言われている。 その後は、1973年に東京都世田谷区から千葉県山武郡芝山町にある生家に居住し、静かな余生を送った。ちなみに、近所の住民からは「閣下」と呼ばれていたという。 平成元...
  • 滝川事件
    ...された学生2名が逮捕起訴された。同年9月に開かれた被告2名の初公判では、被告側の弁護人として11名の弁護士(この中には先述の佐伯千仭が含まれている)のほか、田畑茂二郎ら3名の法学部教官が特別弁護人として参加した。滝川はこの3教官に対し罷免を示唆しつつ公の場で繰り返し非難を行い、結局のところ3人全員が特別弁護人を辞退した。このことは滝川総長自らがかつての主張を覆し教授会の人事権を否定したものとされ、戦後の滝川に反動的な人物とのイメージを付け加えることになったという者もいる。公判自体は滝川自身の監禁に対する証言の曖昧さもあって、1959年大阪高裁での控訴審判決により確定し、被告2名のうち1名の暴行罪のみを認定した(両名の不退去罪および傷害罪は無罪となった)。 事件をモデルとした作品 この事件(およびゾルゲ事件)をモデルとした映画が、黒沢明監督の戦後第1作『わが青春に悔なし』(19...
  • 牟田口廉也
    ...だけであったため、不起訴処分となって釈放された。 戦後は東京都調布市で余生を送るが、インパール作戦失敗の責任を問われると、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と牟田口は頑なに自説を曲げずに自己弁護に終始した。さらにラジオやテレビ、雑誌などで、機会さえあれば同様の主張を繰り返している。ついには国立国会図書館が盧溝橋事件についての証言の録音を牟田口に求めたときにも、最初予定のなかったインパール作戦の録音を無理に頼み込んで行わせた。1966年死去。なお兵士たちへの謝罪の言葉は死ぬまで無かった。それどころか遺言を残して、自分の葬儀においても、自己弁護を印刷したチラシを参列者に対して配布させた。 エピソード これらのエピソードは常軌を逸しているものが多いが、高木俊朗著 文藝春秋刊『インパール』、『抗命』、『全滅』等をはじめとする関連書籍に関係者達の証言として伝えら...
  • 南京大虐殺
    ...(当時、陸軍中将)が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で虐殺は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅(当時、陸軍少尉)と向井敏明(当時、陸軍少尉)、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。 一方、上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦(当時、陸軍中将)については訴追されなかった。これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。 南京陥落までの状況 日本側 1937年11月、第2次上海事件に投入された上海派遣軍と第10軍は、上海で中国軍を撃ち破った勢いに乗り、軍中央の不拡大方針を無視して首都 南京に攻め上った。12月1日、軍中央は、現地軍の方針無視を追認する形で、中支那方面軍(上海派遣軍と第10軍...
  • 中国国民党
    ...職容疑(横領容疑)で起訴された馬英九の主席辞任を受け、2007年2月13日から呉伯雄が代理主席を務め、同年4月7日の主席選挙で改めて呉伯雄が主席に選出された。 1949年以来現在に至るまで、中国国民党は台湾を活動の拠点とし、それ以前の活動の拠点であった中国大陸では実質的な政治活動を行っていない。そのため、日本ではメディアを中心に台湾国民党とも称されていた。 歴史 孫文によって1894年11月にハワイで結成された興中会を母体として、1919年10月10日に、ロシア革命の影響を受け、広東において孫文等により結成された(国民革命党からの単なる「改組」「改称」である、との指摘もある)。同年の五四運動に民衆の政治意識の高揚を読み取った上での孫文の決断であり、結成された当初の主要メンバーは、孫文の他、汪兆銘(汪精衛)など。なお、宋教仁により1912年に結成された「国民党」は、別の政党で...
  • リヒャルト・ゾルゲ
    ...維持法違反などにより起訴され、一審によって刑が確定し、それぞれに1年半、執行猶予2年(西園寺)から死刑(ゾルゲ、尾崎)までの判決が言い渡された。ゾルゲや尾崎らは巣鴨拘置所に拘留され、日本、ドイツ両国の敗色が濃厚となってきた1944年11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」と語ったと言われている。 ソ連邦英雄 ゾルゲが逮捕されて以降、ゾルゲがソ連のスパイであることを自供したものの、ソ連政府はかたくなにゾルゲが自国のスパイであることを否定し、その後もソ連の諜報史からゾルゲの存在は消し去られていた。しかしその後、1964年11月5日に、ゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」が授与された。このタイミングは、スターリンの死後にその大粛清などを批判した指導者ニキータ・フルシチョフ首相が失脚した直...
  • 天皇機関説
    ...より取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職した。美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となった。当時の岡田内閣は、同年8月3日には「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。」とし、同年10月15日にはより進んで「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする国体明徴声明を発表して、天皇機関説を公式に排除、その教授も禁じられた。 昭和天皇の見解 昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。国体明徴声明に対しては軍部に不信感を持ち「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていた(『本庄繁日記』)。また鈴木貫太郎侍従長に...
  • 大久保利通
    ...側の一人として逮捕・起訴され有罪判決を受けた。「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったという。 曾孫に吉田健一(作家)、大久保利晃(放射線影響研究所理事長、前産業医科大学長)、玄孫に寛仁親王妃信子、牧野力(通産事務次官)、麻生太郎(内閣総理大臣)、武見敬三(元参議院議員)。 系譜 大久保氏 明確ではないが藤原氏末流を称している。家紋は三つ藤巴。戦国時代末に京都から薩摩に移るというが、系図は貞享年間に市来郷川上に中宿(城下に籍を残したまま他郷へ移住すること)した仲兵衛より始まる。 仲兵衛━勘之丞━正左衛門━正左衛門━利辰━利政━利敬┳利建=利世━利通━┳利和==利武┳利謙━┳利泰━洋子                           ┣利貞  ↑    ┣伸顕━伸通↑┣利正 ┗成子                           ┗利世――┘ ...
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