chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「軍服_(大日本帝国海軍)」で検索した結果

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  • 大日本帝国海軍
    thumb|大日本帝国海軍[[軍艦旗]] 大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん)とは、1945年以前に大日本帝国の天皇が統帥していた海軍である。通常は、単に「日本海軍」や「帝国海軍」と呼ばれた。 概要 軍令は軍令部、軍政は海軍省が行い、最高統帥権を有していたのは天皇であった。大日本帝国憲法では、最高戦略、部隊編成、軍事予算などの軍事大権については、憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属した。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、海軍では軍令部総長、陸軍では参謀総長である。諸外国の多くの軍隊のように、海軍総司令官、陸軍最高司令官のような最高位指揮官の軍職(ポスト)は存在しない。 また、戦時(後に事変を含む)には陸軍と合同で大本営を設置した。主な戦役に日清戦争の黄海海戦や日露戦争時の日本海海戦、太平洋...
  • 大日本帝国
    大日本帝國 国旗 準国章 菊花紋章 標語 (なし) 公用語 日本語(事実上の公用語)朝鮮語、台湾語なども使われていた。 首都 東京 面積 675千km sup 2 /sup (昭和初期の領土) 人口 9770万人 (昭和10年国勢調査での領土内の人口) 政府 1889年以前は絶対君主制、1889年以降は立憲君主制。1930年代以降は軍国主義の傾向。 国家元首 明治天皇 → 大正天皇 → 昭和天皇 内閣総理大臣 内閣総理大臣の一覧を参照 通貨 円 国歌 君が代 大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、旧字体 大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が統治する日本が使...
  • 大日本帝国陸軍
    大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん)とは、1871年から1945年まで、日本の天皇が統帥していた陸軍である。通常は単に日本陸軍と呼び、大日本帝国陸軍とは呼ばない。他に帝国陸軍と呼ばれることもある。また、本来は日本陸海軍を指す呼称である国軍(こくぐん)、皇軍(こうぐん)という呼称も、日本陸軍を指す場合が多い。 概要 大日本帝国憲法制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は、軍事大権については憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。 最高指揮官は天皇で、大元帥として陸海軍を統帥する。軍令を参謀本部、軍政を陸軍省が司った。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、陸軍では参謀総長、海軍では軍令部総長である。 略史 創成期 帝国陸軍の起源は、明治維新後の187...
  • 大日本帝国憲法
    Template 日本の法令?大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法大日本帝国憲法では、表題に「大日本帝国」が使用されているが、正式な国号と定められたものではない。「大日本帝国」が正式な国号と定められた1936年(昭和11年)まで、「日本国」「日本」等の名称も使用された。 。明治憲法、あるいは単に帝国憲法と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法とも呼ばれる。 1876年に公布されたオスマン帝国憲法に次いで、アジアでは2番目の近代憲法である。オスマン帝国憲法は、公布されて間もない1878年に停止され、その後も長らく専制政治が続いたため実際には機能していない。安定的に運用された近代憲法としては、大日本帝国憲法がアジア初である。ま...
  • 日本軍
    日本軍(にっぽんぐん、にほんぐん)とは広義には日本が有する軍隊のこと、狭義には第二次世界大戦で敗戦するまでの日本、すなわち大日本帝国が保持していた軍隊(大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の両軍)を指し、後者の場合は現在旧日本軍、または旧軍と略称される。さらに国軍、皇軍(こうぐん)、皇御軍(すめらみいくさ)、帝国軍、帝国陸海軍、大日本軍などの呼称もある。ここでは旧日本軍について主に記述する。 組織 以下は1937年(昭和12年)頃の、日中戦争勃発以前の平時に於ける日本軍の組織である。 天皇の統帥の下に陸軍と海軍があり、それぞれ陸軍大臣と海軍大臣が軍事行政について天皇を輔弼した。陸軍の軍・師団の司令官、海軍の連合艦隊・艦隊・鎮守府の司令長官は、天皇に直隷して部隊を指揮統率した。空軍は編制せず、陸海軍にそれぞれ航空隊があった。 陸軍は、内地が東部、中部、西部に区分されてそれぞれの地域に防...
  • 軍属
    軍属(ぐんぞく)とは、軍人(武官または徴集された兵)以外で軍隊に所属する者のことをいう。 概要 一般に、以下に例示するような職務に従事する者が軍属であるとされるが、国や時代、政治体制などによる差異が非常に大きく、一概にその職務内容を定義することは困難である。 軍事行政や主計・法務などの事務的業務(軍隊の重要事務であり、軍人が中心となって行うことも非常に多い) 国際法関係の法務業務 通訳 技術部門の研究・開発 軍の学校・教育機関等の教官で一般教養科目や語学等を担当する者(軍事関係科目の教官は武官であることがほとんどであるので混同の無いよう注意が必要である) 車両・航空機や機械・資機材類の保守点検・整備 軍需物資の輸送業務(実際は軍隊の最重要課題であり、軍人による輸送部隊が中心となって行うことも非常に多い) 軍事施設の建設や維持管理 基地・駐屯地や...
  • 第一次世界大戦下の日本
    Template 右? 第一次世界大戦下の日本(だいいちじせかいたいせんかのにっぽん)では、日英同盟に基づき、連合国の一国として第一次世界大戦へ参戦した日本(当時は大日本帝国)について述べる。 参戦 日英同盟に基づく参戦 第一次世界大戦の開戦に際して、イギリスは日英同盟に基づき、ドイツ東洋艦隊を撃滅する必要から日本へ連合国側に立っての参戦を要請した。当時アメリカ合衆国は中立であり、日本の軍部は艦隊の外地派遣によって本土の防備が手薄になることを恐れ、即時参戦には消極的だった。 しかし、1914年8月15日、ドイツに対し最後通牒と云うべき勧告を行った。参戦に慎重だった為、異例の一週間の期限となったが結局ドイツは無回答の意志を示した。 大隈重信首相は、御前会議にもかけない上に、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定した...
  • 日本近代史
    日本近代史(にほんきんだいし) 明治時代 Template see? 大正時代 Template main? 1914年には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘地域は殆どなかったにもかかわらず元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。実質的損害はなく、戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と当時まだまだ新興国家だった米国は貿易を加速させ、空前の好景気となり日本では成金などが出現するなど大きく経済を発展させた。 しかし1917年にはロシア革命が起こり、ソ連が成立した。日本は革命政権の転覆のためシベリアに出兵したが、折から国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣し、代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として...
  • 艦隊派
    艦隊派(かんたいは)とは、大日本帝国海軍内の派閥の一つ。 ロンドン海軍軍縮条約締結により、「条約妥結やむなし」とする条約派(海軍省側)とこれに反対する艦隊派(軍令部側)という対立構造が生まれ、後に統帥権干犯問題に発展した。 中心人物は、伏見宮博恭王、加藤寛治、山本英輔、末次信正、高橋三吉など。ロンドン条約時には東郷平八郎をシンボルとして擁立した。 政治的には関与していないが、漸減邀撃作戦研究を強力に推進した中村良三、政治的には艦隊派ではないが、混乱を恐れて艦隊派の条約派一掃などの要求を拒絶せず丸呑みした大角岑生を艦隊派に含めることもある。また、政治的には僅かな権限しか持たなかったが、海軍省との交渉時に脅迫めいた姿勢で臨んだ南雲忠一のような若手を含めることもある。定義によっては日独伊三国同盟推進派や対米開戦強硬派など、軍縮会議以降の対立で生じた派閥のメンバー(石川信吾・神重徳など)を含...
  • 渡洋爆撃
    渡洋爆撃(とようばくげき)とは、大日本帝国海軍が昭和12年(1937年)から中国大陸本土に対する長距離爆撃を行ったことをいう。 最初の渡洋爆撃と呼ばれるのは、8月15日の南京に対する空襲である。初期は九州大村基地から海を越えて南京に対する攻撃を中心として爆撃していたが、日本軍の占領地の拡大に伴い目的地・発進基地ともに中国奥地へと前進した。中国国民党が遷都した重慶に対する「重慶爆撃」は有名である。機体は双発の九六式陸上攻撃機が用いられ、のちに一式陸上攻撃機が引き継いだ。 なお、陸軍は敵基地限定爆撃に重点をおき、戦略爆撃をおこなっていない。海軍航空隊がどのような判断から市街地を目標として選択したかは不明である。旧日本軍機は防御性能が十分ではなかった為、損害が回を重ねるごとに増えていった。また、護衛の九六式艦上戦闘機の航続距離が短かったのも原因のひとつとされる。この爆撃を見たアメリカやイギリ...
  • 陸軍悪玉論
    陸軍悪玉論(りくぐんあくだまろん)とは、大日本帝国を崩壊に追いやった一連の責任は、大日本帝国陸軍にあるとする思想である。海軍善玉論と1セットで唱えられることが多い。 概要 陸軍悪玉論は、終戦直後から軍隊を評価するにあたって、日本人のなかでは一種の固定概念となっている。代表的なものとしては、「太平洋戦争の開戦にあたって、開戦を強硬に主張したのは陸軍であり、反対したのは海軍である。」というものがある。 全体的に、「大日本帝国陸軍は世界の情勢に疎く暗愚で、しかも暴走し、頑迷であったため多くの戦略的失敗を繰り返し、敗戦をもたらした。」「それに対して大日本帝国海軍は、世界の情勢に明るく、開明的で、連合国には勝てないという情勢を良く把握していたが、陸軍を説得することが出来ず、不承不承ながら戦争を遂行し、壊滅に追い込まれた。」というものが多い。日本陸軍は二・二六事件を起こし、満州事変から日中戦...
  • 条約派
    条約派(じょうやくは)とは、大日本帝国海軍内の派閥の一つ。 ロンドン海軍軍縮条約締結により、「条約妥結やむなし」とする条約派(海軍省側)とこれに反対する艦隊派(軍令部側)という対立構造が生まれ、後に統帥権干犯問題に発展した。 具体的には、財部彪、谷口尚真、山梨勝之進、左近司政三、寺島健、堀悌吉、下村正助等をさす。これらの条約派本来の顔触れは、艦隊派の要求に屈した大角岑生によって、条約締結後数年の間に軒並み予備役に編入された。 ただし、鎮守府長官の身で政治的判断の立場にない米内光政や、政治的には微力だが、軍令部との協議で頑強に反抗した井上成美を条約派に含める事もある。定義によっては日独伊三国同盟反対派や対米避戦派など、軍縮会議以降の対立で生じた派閥のメンバーを含める事もある(古賀峯一・長谷川清など)。この様に「条約派」・「艦隊派」の名は広く知られているものの、明確な定義はない。山本五十...
  • 廃刀令
    Template 日本の法令? 廃刀令(はいとうれい)とは、Template 和暦?3月28日に発せられた大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止の太政官布告の略称。いわゆる帯刀禁止令のことである。 概略 すでに1869年(明治2年)ころから廃刀の議論はおこなわれていた。明治2年3月、公議所がひらかれたとき、制度寮撰修森有礼は佩刀禁止を提議した。はやく蛮風をのぞくべしというものであったが、王政復古からまもないころであったから、公議所の公議人らは反対意見で、廃刀をもって武士の精神をなくし、皇国の元気を消滅させるものとして否決された。明治3年(1870年)には庶民の帯刀を禁止、明治4年8月9日(1871年9月23日)には士族の帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして、Template 和暦?3月28日、廃刀令の発布をみた。 発布の直接の因となったのは、Templat...
  • 大本営
    大本営(だいほんえい)は、戦時中・事変中に設置された大日本帝国陸軍および海軍の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令(大陸命)、大本営海軍部命令(大海令))として発令する最高司令部としての機能を持つ。 日清戦争と日露戦争で設置され、戦時の終了後に解散した。支那事変(日中戦争)では戦時外でも設置できるよう改められ、そのまま太平洋戦争(大東亜戦争)終戦まで存続した。連合国からはインペリアル・ジェネラル・ヘッドクォーターズ(Imperial General Headquarters)と呼ばれた。 概要 大本営は、陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関として、1893年5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された。日清戦争における大本営は1894年6月5日に設置された。1893年制定の海軍軍令部条例により平時において...
  • 軍閥
    軍閥(ぐんばつ)とは多義的な用語であり、一つの定義に規定するのは不可能であるが、主なものについて挙げる。 国家における単一の近代的軍事組織が軍事を独占した状態になっている国家において、その官僚組織としての軍部内部における派閥のこと。特に旧日本軍内における派閥のことを言う。 軍事力を背景に地方に割拠する(国際的に承認・未承認を問わず、ある程度の実効支配地域を持つ)組織・集団のこと。 軍部内部における派閥 旧・大日本帝国陸軍における皇道派・統制派、旧・大日本帝国海軍における艦隊派・条約派などが挙げられる。しかし、軍部内における派閥は日本軍に限らずどこの軍隊にもありえるが、「軍閥」という名称では呼ばれない場合も多い。例えば、韓国軍における秘密組織であった「一心会」(ハナフェ)、やはり秘密組織である旧エジプト王国軍の自由将校団(ナセルなどが在籍)などは、その政治的野心も強かったも...
  • 大日本生産党
    大日本生産党(だいにほんせいさんとう)は1931年に結党された「国粋ファシスト」の政治団体。 概要 当初は黒龍会大阪支部長の吉田益三が提唱し、玄洋社系の内田良平の賛同を得て大阪中央公会堂において結成された。その後、1931年(昭和6年)11月20日、玄洋社系の頭山満・内田良平等の黒龍会の主な構成員、日本国民党、津久井龍雄の急進愛国党などが合同し東京の赤坂の「三会堂」において結党式を行った。約1500名が参集した。本部は当時の東京市麹町区永田町に置かれた。1932年(昭和7年)1月には愛国急進党、大衆党長野県連の秦数馬の一派、大日本帝国陸軍大阪労働組合、横浜自治革正党などが解消・入党し勢力を拡大した。 多くの国家主義団体は上部構造偏重であったが、大日本生産党は大衆に密着し、党員2万人を称していた。 しかし、1933年(昭和8年)7月の神兵隊事件において青年部員が多数連座し検挙され...
  • 五・一五事件
    thumb|300px|五・一五事件を伝える[[朝日新聞|大阪朝日新聞。]] 五・一五事件(ごいちごじけん、ごてんいちごじけん)は、1932年(昭和7年)5月15日に起きた大日本帝国海軍急進派の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退したといわれる。 犯行背景 当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。 しかし、19...
  • 日独戦争
    日独戦争(にちどくせんそう)とは、第一次世界大戦に於ける大日本帝国とドイツ帝国の戦争を指す。 日本は日英同盟に基づき連合国の一員として参戦した。1914年8月23日大日本帝国はドイツ帝国へ宣戦布告。陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島を攻略、海軍は南洋諸島のドイツ要塞を次々に攻略し、第一次世界大戦終結とともに日本が勝った形で終結した。 青島での戦闘の詳細については青島の戦いを参照。 参考文献 斎藤聖二『日独青島戦争』(ゆまに書房、2001年) ISBN 4-87802-058-X 関連項目 膠州湾租借地 第一次世界大戦下の日本 板東俘虜収容所 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月13日 (木) 20 12。    
  • 軍部
    軍部(ぐんぶ)は、最広義には、陸軍・海軍・空軍など、国家が保有する軍隊全体を指していう言葉である。 この「軍部」が用いられるのは、文民政府との関係を論じる文脈で、軍部による政治介入、軍部クーデターによる文民政府の倒壊、軍事専門職集団である軍部に対する文民統制、アジア・ラテンアメリカの権威主義体制下における民政移管など、いわゆる「政軍関係 civil-military relations 」を論じる場合である。 日本における軍部 日本における狭義の軍部は、大日本帝国陸軍及び同海軍の上部組織、すなわち、陸海軍省・陸軍参謀本部・海軍軍令部等の上部組織を指す(空軍は当時の日本に存在しなかった)。 戦前期日本における軍部の制度的前提となったのは、軍部の政府からの独立性を保障した統帥大権(大日本帝国憲法第11条)、軍部大臣現役武官制、帷幄上奏権などであった。 ただし、実際に軍部がその実体...
  • ドーリットル空襲
    Template Battlebox? ドーリットル空襲(-くうしゅう、英語:Doolittle Raid)、またはドゥリットル空襲とは、太平洋戦争中の1942年4月18日に、アメリカ軍が航空母艦に搭載した陸軍の爆撃機によって行った日本本土に対する空襲である。名称は空襲の指揮官の名前に由来する。 背景 真珠湾攻撃以降一方的な敗退を続け、さらに開戦後の1942年2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるアメリカ本土のカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を受け、大きな衝撃を受けたアメリカ軍は、士気を高める方策として帝都・東京を爆撃する計画を立てた。 アメリカ陸軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、ソ連の領土は日ソ中立条約のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。また、アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆...
  • 統制派
    統制派(とうせいは)は、大日本帝国の陸軍内の派閥。 天皇親政の強化や財閥規制など政治への深い不満・関与を旗印に結成されていた皇道派に対し、軍内の規律統制(文民統制の尊重・堅持)の意味から統制派と呼ばれる。皇道派の中心人物である荒木貞夫が陸相に就任した犬養内閣時に断行された露骨な皇道派優遇人事に反発した陸軍中堅層が結集した派閥とされるが、皇道派のような明確なリーダーや指導者は居らず、初期の中心人物と目される永田鉄山も軍内での派閥行動には否定的な考えをもっており、「非皇道派=統制派」が実態だとする考え方も存在する。ただ永田亡き後、統制派の中心人物とされた東條英機や石原莞爾などの行動や主張が、そのまま統制派の主張とされることが多い。 2・26事件遂行に失敗・挫折した皇道派の著しい勢力弱体や世界の列強各国での集産主義台頭、他、世界恐慌に対し有効性を示したブロック経済への羨望が進むにつれ、当初の...
  • 帝国議会
    帝国議会(ていこくぎかい) ドイツ語の Reichstag の訳語の一つ。神聖ローマ帝国の領邦の代表者会議およびドイツ国、オーストリア・ハンガリー帝国の議会の名称。ドイツ国会議事堂を参照。 大日本帝国憲法の下での議会。本稿ではこれを扱う。 帝国議会(ていこくぎかい)とは、1889年に発布された大日本帝国憲法(明治憲法)の下での国会(立法機関)である。1890年11月29日の第1回議会から、1947年3月31日の第92回議会まで行われた。 沿革 明治初期の自由民権運動、国会開設運動を経て1890年(明治23年)に成立。初期議会においては政府の超然主義と衆議院が対立していたが、日清戦争後には政府と両院の提携が行われるようになり、大正デモクラシーにより政党政治が行われるようになると衆議院の立場が強まるが、軍部などの勢力の台頭で議院内閣制は確立できず、1932年(昭和7年...
  • ポツダム宣言
    thumb|240px|[[降伏文書に調印する梅津美治郎]] ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、ポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、昭和20年(1945年)7月26日に大日本帝国に対し発した第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)の終結に関する13条から成る勧告の宣言。 宣言を発した各国の名をとって「米英支ソ四国共同宣言」(玉音放送の原文では「米英支蘇」)ソ連は8月9日に対日参戦して宣言に参加したともいう。1945年8月10日、大日本帝国はこの宣言の受け入れを駐スイス大使館経由で連合国側へ申し出、またラジオトウキョウを通じてアナウンス。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で昭和天皇(元首であり大元帥また正式には大日本帝国陸海軍大将)の裁可を受けた政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅...
  • 帷幄上奏
    帷幄上奏(いあくじょうそう)とは、君主制をとる国家において帷幄機関である軍部が軍事に関する問題を君主にたいして上奏すること。帷幄とは「帷をめぐらせた場所」のことで、転じて君主(天皇)を指す言葉。 ドイツ帝国およびその影響を受けた大日本帝国において制度化された。 大日本帝国 大日本帝国においては、1889年(明治22年)制定の大日本帝国憲法によって一般統治権と軍の統帥権の分離が明記され、同年の内閣官制第7条により制度化され第七条 事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ、内閣総理大臣の国務上の輔弼事項の例外とされた。 本来、国務大臣は憲法上、帝国議会に対してその責任を負ったが、権力分立の外側にあった帷幄機関はその責任がなかった。また、帷幄上奏が認められていたのは、軍事のうちの軍機・軍令に関する問題のみ...
  • 西部軍管区 (日本軍)
    西部軍管区(せいぶぐんかんく)は、大日本帝国陸軍の軍管区の一つ、西部軍の管轄区域であり中国・四国・九州地方を管轄した。 沿革 西部軍は1945年(昭和20年)2月1日第16方面軍の編成により廃止され、その後は第16方面軍司令部が西部軍管区司令部を兼ね九州地方を管轄した。また同年6月15日からは、第55軍司令部が四国軍管区司令部を兼ね四国地方を、第59軍司令部が中国軍管区司令部を兼ね中国地方を管轄した。 西部軍管区の人事 司令官 (兼)横山勇 中将:1945年2月1日 - (第16方面軍司令官) 西原貫治 中将:1945年10月13日 - 11月30日 参謀長 (兼)芳仲和太郎 中将:1945年2月1日 - (第16方面軍参謀長) (兼)稲田正純 中将:1945年5月3日 - (第16方面軍参謀長) 参謀副長 (兼)福島久作 大佐:1945年)2月1...
  • 天皇
    thumb|200px|right|[[十六弁八重表菊紋。天皇および天皇家の御紋である。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。]] 天皇(てんのう)は、日本国憲法において、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴と定められる地位、もしくはその地位にある個人。また、皇帝・君主を敬っていう称号(君主号)もしくは謚号。 古代から世襲により受け継がれた日本の君主であり、古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていたが、連声により「てんのう」に変化したとされる。歴史的仮名遣いでは「てんわう」と表記する。 本項目では、初代神武天皇以降の歴代天皇の地位および個人に関する...
  • 軍人勅諭
    軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)は、Template 和暦?1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。正式には『陸海軍軍人に賜はりたる勅諭』という。 沿革 西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋‎によって加筆修正されたとされる。下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋‎が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。 Template 和暦?6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された。 内容 通常の勅語が漢文調であるのに対し、変体仮名交じりの文語体で、総字数2700字におよぶ長文である...
  • 大韓帝国軍
    大韓帝国軍(だいかんていこくぐん)は大韓帝国の国軍である。皇帝の統帥権の下に置かれた。 概要 大韓帝国の基本法典である「大韓国国制」第5条によると「大韓国大皇帝におかれては、国内陸海軍を統率し、編制を定め、戒厳解戒を命ずる。」とし、大日本帝国軍に倣った国軍を編成することになっていた。しかし日本軍とは異なり、徴兵制度を採用せず、李氏朝鮮時代以来の志願兵制を採用していた。法制上の兵力は約9000人であった。 1907年(光武11年)7月24日に結ばれた第三次日韓協約に伴う秘密協定により、同年8月1日に国軍としての大韓帝国軍は解散され、皇帝を護衛する小規模な近衛兵としての「近衛歩兵隊及び近衛騎兵隊」に再編成された。これを不満とする元将兵の一部は、武力による抗日運動である義兵闘争に参加した。 なお、後身である近衛騎兵隊及び近衛歩兵隊は日韓併合後も「朝鮮騎兵隊」「朝鮮歩兵隊」として存続してい...
  • 輔弼
    輔弼(ほひつ)は、大日本帝国憲法の観念で、天皇の行為としてなされ、あるいは、なされざるべきことについて進言し、その全責任を負うこと。 国務上の輔弼は国務大臣が、宮務上の輔弼は宮内大臣と内大臣が、統帥上の輔弼は参謀総長と軍令部総長が就いていた。ところが、後に国務大臣である筈の陸軍大臣・海軍大臣にも両軍を代表する形で帷幄上奏を行う権利が認められたことから、一般行政にまで統帥権に基づく輔弼行為の行使として帷幄上奏をするようになり、結果的に軍部の暴走を招いた。 歴史 大日本帝国憲法以前にも、「輔弼」という概念は存在した。1871年の太政官制度の改革により三院制が導入され、このうち最高機関である正院においては、天皇の臨御の下、太政大臣、納言(左右大臣)、参議の三職がおかれることになる。三職のうち、天皇を「輔弼」することができるのは前二者のみであり、参議は前二者を「補佐」することしかできない...
  • 勅令
    勅令(ちょくれい) 国王・皇帝・天皇などの君主が直接発する命令・法令のこと。ナントの勅令など。 日本における法令の一形式。この項目で記述する。 勅令(ちょくれい)とは、日本においては天皇が発した法的効力のある命令を指す。ここでは緊急勅令やいわゆる「ポツダム勅令」についての記述を含む。 概要 大日本帝国憲法第9条に定められていた法形式であり、法律を執行するためまたは公共の安寧秩序を保持しおよび国民の幸福を増進するために天皇が制定していた。憲法上法律事項とされていない事項を対象とする場合は勅令による制定が可能であった。法律事項以外でも、軍に関することは軍令で、皇室に関することは皇室令で定めていたので、これらを除いたものが勅令事項とされていた。制定にあたっては内閣が輔弼(事実上の承認)をしていたので、現在では内閣が発する政令とみなされ、位階令など一部には現在でも効力を有している...
  • 韓日合邦を要求する声明書
    韓日合邦を要求する声明書(かんにちごうほうをようきゅうするせいめいしょ)とは、1909年12月4日、大韓帝国で日本の影響下にあった親日団体一進会(公称会員数百万人・実数数万人程度)が皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送った朝鮮と日本の対等合併を要望する声明書である。 この声明書の中で、「これまでの朝鮮の歴史の悲劇は自分達が招いたことであり、我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」 ref name= 警秘第4106号-1 統監府文書 8、警秘第4106号の1と、大韓帝国政府と大日本帝国政府が新たに一つの政治機関を設立し、大韓帝国と大日本帝国が対等合邦して一つの大帝国を作るように求めた。 南北朝鮮では当時一進会が民衆のみならず知識人からも強い批判を受けていたこと、それまで一進会が同じく親日派の李完...
  • 万世一系
    万世一系(ばんせいいっけい)は、天皇の皇位継承について、皇統の一系や天皇制の永続などを主眼とする思想のこと。日本神話に登場する初代神武天皇から現在まで、王朝が断絶することもなく、一貫して天皇家によって日本は統治されてきたとする史観に基づいている。現在では、史実に基づくものか、様々な議論がなされている。 概説 万世一系とは、日本の君主である天皇の地位が、過去一度の例外もなく以下の3つの条件を満たしてきたことを示している。 血統による世襲 男系のみによる皇位継承 皇統が分裂・対立することがない 実際には下記の例にもあるように、皇統が分断する危機があった(大覚寺統と持明院統、他)が、1.と2.については例外は存在しないとされる。 1.について、武烈天皇が後嗣なく崩御し皇統の断絶が危惧されたが、応神天皇5世の孫とされる継体天皇の皇位継承により、血統による世襲は継続した。 2....
  • 天皇制
    天皇制(てんのうせい)は、天皇を君主又は象徴とする国家体制。特に天皇を元首又は象徴とする近代以降の国家体制(近代天皇制)を指すこともある。大日本帝国憲法(明治憲法)では天皇を元首とし、また日本国憲法では天皇を日本国の象徴であり日本国民統合の象徴として位置付けている。明治後期から敗戦までは天皇制などと表現することは不敬な表現であり、国体(=くにがら、くにぶり/漢書成帝紀)とよばれた。 概要 「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語のMonarchieの和訳とされ、本来はマルクス主義者が使用した造語であった。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記し、天皇制と封建階級(寄...
  • 王道楽土
    王道楽土(おうどうらくど)は、1932年、満州国建国の際の理念。 アジア的理想国家(楽土)を、西洋の統治(覇道)ではなく東洋の統治(王道)で造るという意味が込められている。 「五族協和」「王道楽土」と並び称されたが、「五族協和」とは、満日蒙漢朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うとする趣旨の言葉。満州には五族以外にも、ロシア革命後に逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。 満州には内戦の続く疲弊した中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人、そして大日本帝国政府と満州国政府の政策に従った満蒙開拓団(満蒙開拓移民・満州武装移民)らの移住・入植が相次ぎ、人口も急激に増加した。 大日本帝国本土(日本列島地域)においても、(当時の農村不況も相まって)困窮する零細農民や土地を持たぬ小作農、土地を相続できない農家の次男三男以下など、または大陸にて雄飛し名をあげる野望を抱く「大陸浪人」らの間で、...
  • 天皇主権
    天皇主権(てんのうしゅけん)とは、大日本帝国憲法において、天皇が保持するとされた主権。西欧における君主主権を日本に適用したもので、天皇主権を君権ともいう。天皇主権を中心として構成された憲法学説を天皇主権説という。 歴史 Template 和暦?に公布され、翌Template 和暦?に施行された大日本帝国憲法は4条で「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ」と定めた。この条文の解釈や憲法全体の解釈運用にあたっては天皇主権(君権)を重んじる穂積八束や上杉慎吉ら君権学派(神権学派とも言う)と議会制を中心とした立憲主義を重んじる美濃部達吉や佐々木惣一ら立憲学派の二大学派に分かれて論じ合われた。 憲法施行当初は超然主義を唱えた藩閥政治家や官僚らにより天皇主権を中心とした君権学派の解釈が重用された。明治時代の終わりには上杉と美濃部の天皇機関説論争が行われ、大正デモクラシ...
  • 山本権兵衛
    Template 日本の内閣総理大臣? 山本 権兵衛(やまもと ごんべえ または やまもと ごんのひょうえ とも 、1852年11月26日(嘉永5年10月15日) - 1933年(昭和8年)12月8日)は、日本の武士・薩摩藩士、海軍軍人、政治家。第16および第22代の内閣総理大臣。階級位階勲等爵位は海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。本名:進水式で祝詞用に神主がつけた名前のごんのひょうえを通称にしていたが、本称は「ごんべえ」である。諱は盛武。 海軍軍人として数々の軍政改革を行い、日清戦争・日露戦争を屋台骨から支えた。この頃の山本を、司馬遼太郎などは、「日本海軍のオーナー」という言葉で評している。その後大正期に二度首相となりリベラルな姿勢を見せるが、二度ともスキャンダルに見舞われ、満足な業績を残せぬまま辞職した。 また、様々な文献で元帥となっている場合があるが、山本が元帥だった事実は無い。...
  • 南方軍_(日本軍)
    Template 軍隊資料? 南方軍(なんぽうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。 沿革 Template 日本陸軍? 大陸令第555号に基づき昭和16年11月に編制された。ビルマ、タイ、南洋方面などの南方を作戦地域とし、防衛・軍政の任に当った。 南方軍概要 通称号:威集団 編制時期:昭和16年11月6日 総司令官 寺内寿一:陸士11期、昭和16年11月6日~ 総参謀長 昭和17年8月1日から軍政総監を兼勤 氏名陸士就任塚田攻19期昭和16年11月6日黒田重徳21期昭和17年7月1日清水規矩23期昭和18年5月19日飯村穣21期昭和19年3月22日沼田多稼蔵24期昭和19年12月26日 総参謀副長 氏名陸士就任辞任青木重誠25期昭和16年11月13日昭和17年8月17日阪口芳太郎25期昭和16年11月13日昭和17年6月1日高橋坦2...
  • 東部軍管区 (日本軍)
    Template 軍隊資料? 東部軍管区(とうぶぐんかんく)は、大日本帝国陸軍の軍管区の一つ。 沿革 本土決戦に備え、1945年(昭和20年)2月1日に、旧来の東部軍を改編したものである。発足当初は防衛総司令部隷下であったが、その後すぐに防衛総司令部も第1総軍・第2総軍に改編され、第1総軍隷下となった。 もともとは、1923年(大正12年)11月に東京警備司令部令(大正12年勅令第480号)に基づいた東京警備司令部が設置されていた。これは首都圏(東京府東京市、荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡、神奈川県横浜市及び橘樹郡)の警備を目的としたもので、それまでの関東戒厳司令部に代わるものであった。 その後、1935年(昭和10年)8月に東部・中部・西部の各防衛司令部が設置され、東部防衛司令部と東京警備司令部は兼職とされたが、1937年(昭和12年)11月30日から東部防...
  • 朝鮮軍 (日本軍)
    Template 軍隊資料? 朝鮮軍(ちょうせんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つ。朝鮮を管轄した。 概要 日露戦争を機に大韓帝国に駐留した韓国駐剳軍(かんこくちゅうさつぐん)を前身とし、明治43年(1910年)の韓国併合に伴い朝鮮駐剳軍(ちょうせんちゅうさつぐん)に名称変更、大正7年(1918年)に朝鮮軍となった。司令部は当初漢城の城内に置かれたが、後に郊外の京城府龍山(現・ソウル特別市龍山区)に移転した。 昭和20年(1945年)2月、戦況逼迫に伴い第17方面軍が設けられ朝鮮軍は廃止されたため、管轄区域の朝鮮軍管区は第17方面軍司令部が兼ねた朝鮮軍管区司令部が管轄した。 歴代朝鮮軍司令官 Template 日本陸軍? 韓国駐剳軍司令官 原口兼済中将:明治37年(1904年)3月11日 - 明治37年(1904年)9月8日 長谷川好道大将:明治37年(190...
  • 陸軍記念日
    陸軍記念日(りくぐんきねんび)は、大日本帝国陸軍の場合、戦前・戦中の休日のことで、3月10日。 1905年3月10日、日露戦争の奉天大会戦で日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領し、奉天城に入場したのがこの日であった。これを記念して翌1906年から休日としたもの。 1945年の敗戦(第二次世界大戦)に伴い廃止された。 1945年東京大空襲は、意識的にこの日を狙って行なわれたと言われている。実際には、当時の日本でこの記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になってのも事実であるかのように出回ったものである。日本では、事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認出来ない。因みに海軍記念日は5月27日。5月27日には空襲はなく、2日前の5月25日に東京大空襲、2日後の5月29日に横浜大空襲があった。 世界の陸軍記念日 アメリカ合衆国:4...
  • 大日本史料
    大日本史料(だいにほんしりょう)は、明治時代(1901年)から現在まで、刊行が続けられている日本史の史料集である。 六国史(日本書紀~日本三代実録)以降、国史の編纂事業が行われていないため、その欠落部分を埋めるべく、年月日順に史料を掲載するもの。宇多天皇(887年即位)から江戸時代までを対象とする。 概要 1895年(明治28年)に帝国大学文科大学に史料編纂掛(現・東京大学史料編纂所)が設けられて歴史書の編纂が始まった。当初は通史の記述を考えていたが、結局史料集を編纂することになった(明治政府の修史事業参照)。 江戸時代に塙保己一が開設した和学講談所で編纂された「史料」を基礎とした。「史料」は宇多天皇から後一条天皇(1016-1036在位)までが対象である。 宇多天皇の仁和3年(887年)から慶応3年(1867年)を16編に分けて編纂が行われ、「史料稿本」(5600冊程の草稿...
  • 五族協和
    五族協和(ごぞくきょうわ) 大日本帝国が満州国を建国した時の理念。満州国を参照のこと。 1912年に中華民国が成立した際に唱道した理念は、五族共和を参照のこと。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年7月29日 (日) 13 02。     
  • 旧皇室典範
    Template 日本の法令? 皇室典範(こうしつてんぱん、明治22年2月11日裁定(明治天皇勅定))は、大日本帝国における皇位継承順位など皇室に関する制度・構成等について定めた家憲であり、大日本帝国憲法と同格とされた。昭和22年(1947年)5月2日限りで廃止され、日本国憲法下の法律として制定された新たな皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)が同年5月3日に施行された。現行の皇室典範と区別するため、本項では旧皇室典範の呼称を用いる。 概説 1889年(明治22年)2月11日に裁定された旧皇室典範は、制定当初は皇室の家法という性格が与えられていたが、1907年(明治40年)裁定の皇室典範増補で宮内大臣及び各国務大臣の副署がなされ且つ公布の対象となり、国民も拘束するものとされた。もっとも、公式令(明治40年1月31日勅令第6号)制定などで宮務法と国務法の峻別が定められたことから...
  • 超然主義
    超然主義(ちょうぜんしゅぎ)とは、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義をいう。一般的には、大日本帝国憲法発布後、帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る政府が採った立場を指し、政府は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張であるとされる(異説坂野潤治や御厨貴らは、超然主義には本来の意味である議会や政党の存在・主張を無視するという意味の他に、どの政党に対しても親疎の差を付けずに公平に扱い党派争いに関与しないという意味でも用いられており、超然主義及び超然内閣が必ずしも政党そのものを無視・否定したものではないとする説を提示している。また、政府と議会を独立させるという意味では、アメリカ合衆国では大統領を始め、閣僚は非国会議員に限定している。実態として大統領は議会の有力党派で争われるが、議会選挙とは独立して選出されるのはこのためである。あり)。ま...
  • 憲政の常道
    憲政の常道(けんせいのじょうどう)は「天皇による組閣の大命は衆議院の第一党に下されるべきこと、ある内閣が失政によって倒れた時、組閣の大命は野党第一党に下される」とする大日本帝国憲法下の政党政治時代における政界の慣例。あくまでも慣例であり法的拘束力はない。 概説 大正デモクラシー期以降、民本主義思想とイギリスの議院内閣制に倣い、「民意は衆議院議員総選挙を通して反映されるのであるから、衆議院の第一党が与党となって内閣を組閣すべきである。また、内閣が失敗して総辞職に及んだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、それは民意を受けた内閣では無い。それならば直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる第一野党が政権を担当すべきである。」という原理に基づいて元老による内閣首班の推薦が行われるようになった。これが「憲政の常道」と呼ばれる。衆議院第一野党の党首が政権を担当した場合には内閣の基盤を強化する...
  • 連合艦隊
    聯合艦隊(れんごうかんたい、新字体:連合艦隊)とは、旧日本海軍が二個以上の常設の艦隊で編成した、非常設の艦隊である。日本海軍が使用した略称は GF(Grand Fleet または General Fleet から)、ただし英語では Combined Fleet という。 概要 聯合艦隊は2個以上の艦隊で編成された日本海軍の中核部隊である。明治初期、海軍はそれまで有力艦・新鋭艦で編成された主力部隊を「常備艦隊」、老巧艦などで編成された沿岸防備のための二線級部隊を「警備艦隊」と称していた。しかし、日清戦争開戦がせまってくるにつれ「警備艦隊」というのは戦時にふさわしくないという意見がでてきた。一時は「警備艦隊」を「常備艦隊」に統合する案が出たが、当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が「警備艦隊」を「西海艦隊」と改名し、「常備艦隊」と「西海艦隊」をもって「聯合艦隊」を組織するという案を...
  • 戦略爆撃
    thumb|300px|right|ドイツを空襲する連合軍の戦略爆撃機[[B-17 フライングフォートレス]] 戦略爆撃(せんりゃくばくげき)とは、戦争において戦略的理由にもとづいて行なわれる航空機などによる爆撃のことである。 戦略(strategy) とは戦争の全局的な帰趨を国益に導くべく企画する方法論である。具体的には、実働部隊ではなく、戦略的な要地・要線に対して攻撃を加える長距離爆撃をいう。都市、工業地帯や交通拠点に爆撃を加え、生活基盤、産業基盤を破壊する事などで、相手国の経済力や国民の戦意を削ぎ、継戦能力を減ずることを目的としている。これに対し、その戦闘を有利に進める事を目的とした敵部隊に対する直接爆撃は戦術爆撃と呼ばれる。 無差別爆撃や絨毯爆撃と同一視されがちだが、それらは戦略爆撃の手段の一つであり、イコールではない。例えば、現代では誘導爆弾や巡航ミサイルなどの精密誘導兵器...
  • 下関条約
    下関条約(しものせき じょうやく)とは、1895年4月17日に日清戦争後の講和会議で調印された講和条約の通称。日清講和条約(正字体:日清媾和條約 Template DEFAULTSORT ?にっしんこうわじょうやく)ともいう。会議が開かれた山口県の赤間関市(あかまがせき-し、現在の下関市)の別称である「馬関」「赤間関」は本来は「赤馬関」で、江戸時代の漢学者がこれを漢文風に縮めて「馬関」としたもの。をとって、馬関条約(ばかん じょうやく)と呼ばれた条約調印後に「馬関」が「下関」になっても、「馬関海峡」が「関門海峡」になっても、この「馬関条約」は長らく使われ続けた。「下関条約」という言い換えが完全に定着するのは戦後になってからである。。「下関条約」はこの「馬関条約」の言い換えである。なお中国語では現在でも「馬關條約」という。 == 概説 == 主な内容 清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立...
  • 勅語
    勅語(ちょくご)とは、原則として天皇が口頭により発する公務上の意思表示であり、詔勅の一種である。主に明治時代から日本国憲法が施行される前に出され続けた。 勅語を書面に写したものを勅語書という。勅語書に天皇の親署や国務大臣の副署はない。ただし、教育勅語は例外であり、書面により発し、天皇の親署がある(国務大臣の副署はない)。 大日本帝国憲法下の勅語には、帝国議会の開院式に発せられるのをはじめ、「青少年学徒ニ賜リタル勅語」など様々なものがある。 関連項目 教育勅語 軍人勅諭 詔勅 詔書 - 勅書 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月30日 (木) 21 46。    
  • 満州拓殖公社
    満洲拓殖公社(まんしゅうたくしょくこうしゃ)は、満州国の開拓、既存住民からの接収、開拓団の支援などをおこなった大日本帝国の公設企業。 1937年に満洲拓殖株式会社を前身として設立され、1939年までに、1960万220ヘクタールの土地を確保し、開拓をおこなった。新規開拓は、そのうち151万6000ヘクタールを占める。 総裁在任者 二宮治重 予備役中将:1940年6月 - 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月29日 (月) 06 31。     
  • @wiki全体から「軍服_(大日本帝国海軍)」で調べる

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