chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「遣米使節」で検索した結果

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  • 小栗忠順
    ...7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するアメリカ海軍軍艦ポーハタン号で渡米。随行艦として咸臨丸に勝海舟が乗っており、奉行従者には福澤諭吉がいた。2ヶ月の船旅でサンフランシスコに到着し、歓迎される。代表は新見正興であったが、目付の忠順が代表と勘違いされ、行く先々で取材などを受け、新聞などにも忠順の名が上がっている。勘違いの理由として、多くの同乗者は異人と接したことがなく困惑していたが、詰警備役として異人との交渉経験がある忠順は落ち着いていたために、代表に見えたと言われている。 またフィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ。これは日米修好通商条約で定められた通貨の交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていた為である。忠順は小判と金貨の分析実験を行って交換比率の改定に成功し、多くのアメリカ新聞は絶賛の記事を掲載する。また忠順がアメリカの造船所...
  • 岩倉使節団
    thumb|350px|左から[[木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通]] 岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視を正使とし、政府のトップや留学生を含む総勢107名で構成された。 概要 明治4年(1871年)に横浜港を船で出発し、サンフランシスコに上陸。アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問した後、ヨーロッパへ渡り各国を訪問した。ヨーロッパでの訪問国は、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・オーストリア・イタリア・スイスの12カ国に上る。帰途はアジア各国への訪問も行われたがこれはヨーロッパでの滞在に比べれば短いものであった。日本に帰国したのは出発から2年後の明治...
  • 勝海舟
    ...艦奉行並となり、勝は遣米使節の補充員として乗船した。 米海軍からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉が同乗した。通訳ジョン万次郎、木村の従者福沢諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を、勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある。船酔いでダウン寸前だった勝がアメリカが見えた途端に大いばりを始め、さらに自分の羽織を棒にくくりつけて練り歩こうとしたのをみっともないからやめろと同行者に止められたともいう。これは目撃した福澤が本に書き残している逸話であり、福澤が勝を軽蔑するようになった一因ともいわれる福澤の勝嫌いは、その著作『痩我慢の説』に端的にあらわれているこの時の勝の船酔いについては、実は勝が何らかの伝染病に罹っており、自らを隔離するために船室に引き籠...
  • 明治維新
    Template 日本の歴史? 明治維新(めいじいしん)とは、江戸幕府による幕藩体制から、明治政府による倒幕運動および天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の戦争(戊辰戦争)・改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。 概要 開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする)。終了時期につ...
  • 寺島宗則
    寺島 宗則(てらじま むねのり、1832年6月21日(天保3年5月23日)- 1893年(明治26年)6月6日)は、江戸時代後期の幕臣、明治時代の政治家である。爵位は伯爵。名は徳太郎、または藤太郎。別称に松木弘安(松木弘庵)。通称は陶蔵。 日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。 来歴・人物 1832年、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現・阿久根市脇本)の郷士長野成宗の次男として生まれる。江戸に出て蘭学を学び、薩摩藩主島津斉彬の侍医となったが、斉彬の死後に藩を離れて幕府の蕃書調所に勤める。 1861年、幕府の第1次遣欧使節の一員として渡海する。 1863年、薩英戦争においては捕虜となる。 1865年、第2次遣欧使節に参加する。 明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。 1873年、参議兼外務卿。 西南戦争後の政府の財政難から税権回復を...
  • 明治六年政変
    明治六年政変(めいじろくねんせいへん, 1873年(明治6年))は、征韓論に端を発した明治初期の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。 経緯 そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣したが、その文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、朝鮮は受理を拒んだ。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館に相当する機関であった倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど殊更非礼な態度を取ったため、武力行使も辞さないという強硬派が現われ...
  • 来栖三郎 (外交官)
    来栖 三郎(くるす さぶろう、1886年3月6日 - 1954年4月7日)は日本の外交官。駐ドイツ特命全権大使、駐米特命全権大使等を歴任。 プロフィール 生い立ち 神奈川県横浜市生まれ。旧制横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒、1909年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部領事科卒。 外交官 1909年外交官及び領事官試験合格、1910年外務省入省。ハンブルク総領事等を経て、1932年外務省通商局長、1936年駐ベルギー特命全権大使、1939年駐ドイツ特命全権大使。 日独伊三国軍事同盟締結時の駐ドイツ大使として、日本代表として同同盟の調印式に出席した。その後、近衛文麿内閣では戦争回避のための日米交渉を担当する遣米特命全権大使を拝命、異例の「第二の大使」としてワシントン入りし、野村吉三郎駐米大使を補佐するかたちで日米交渉にあたるが、この人事はかえっ...
  • 征韓論
    thumb|350px|征韓議論図。[[西郷隆盛は中央に着席。明治10年(1877年)作。]] 征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようとする主張である。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われている毛利敏彦『明治六年政変』中央公論社〈中公新書〉、1979年(ISBN 4-12-100561-9)による。。 江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。 ...
  • 条約改正
    条約改正(じょうやくかいせい)とは、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約を改正するための外交交渉をさす。 概説 江戸時代後期に、たびたび日本へ来航して鎖国を行う日本に通商や国交を求める諸外国に対し、江戸幕府は1859年(安政6年)に安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を結ぶ。五カ国条約は関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する(一説には一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請とする説もある川島信太郎『条約改正関係日本外交文書別冊・条約改正経過概要』(日本国際連合協会 1950年)35ページ)内容であった。この条約が尊皇攘夷運動を活性化させることになり、これが討幕運動につながることになった。 江戸幕府が王政復古により倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を...
  • 殖産興業
    殖産興業(しょくさんこうぎょう)とは、明治政府が西洋諸国に対抗し、産業、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策を指す。 歴史 江戸時代後期、鎖国体制から開国した日本は、西洋との圧倒的な国力の差を意識する。王政復古により成立した明治新政府は富国強兵をスローガンに、積極的に自ら産業を興こす政策を取った。地租改正や秩禄処分で税制改革を行い1870年には工部省を設置、ヨーロッパからお雇い外国人を多数採用し、岩倉使節団に合わせて留学生を派遣するなど産業技術の移植に務めた。1872年には官営鉄道や汽船が発足し、国内の交通網が発達した。鉱山などの事業を行い、群馬県に富岡製糸場などの官営工場を開設した。1873年には官営事業を統括する内務省が設立される。北海道には開拓使を置き、屯田兵を派遣した。金融では1871年に新貨条例を、1872年に国立銀行条例を布告。 1880年に軍関係を除く官営事業...
  • 秩禄処分
    秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が1876年に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。 明治初期の財政 江戸時代後期の1867年に15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い幕府が解体され、王政復古により明治政府が成立する。明治政府は抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争における戦費などで発足直後から財政難で全国3000万石のうち800万石を確保できているのみであり、また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持された。 江戸時代の幕藩体制において、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成、維持されていたが、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ、士族などに対して支給されていた。年に行われた維新功労者に対する賞典禄の支給により74万5750石...
  • 日清修好条規
    日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、日本と清の間で結ばれた条規。日本側大使は大蔵卿伊達宗城、清側大使は直隷総督李鴻章であった。 概要 李氏朝鮮との国交問題が暗礁に乗り上げている中、朝鮮の宗主国である清との国交締結を優先にすべきとの考えから1870年7月27日(明治3年6月29日)柳原前光・花房義質を派遣して予備交渉を行い、次いで正規の大使として伊達が送られ、副使となった柳原とともに詰めの交渉を行った。平等条約ではあったが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であった。日清戦争勃発まではその効力が続いていた。 具体的には 外交使節の交換および双方に領事を駐在させる(第4条、第8条) 制限的な領事裁判権をお互いに認める(第8条、第9条、第13条) 通商関係...
  • 山城屋事件
    山城屋事件(やましろやじけん)は、明治5年(1872年)に発覚した近代日本初の大掛かりな汚職事件。 山縣有朋ら長州系の官僚が陸軍省の公金を勝手に陸軍御用達の商人、山城屋和助に貸し付け、その見返りに金銭的な享受を受けていたとされる。陸軍省から山城屋に貸し付けた公金は約65万円、当時の国家歳入の1%という途方もない額であった。 ヨーロッパでの生糸相場に失敗した山城屋は陸軍省から更に金を借り出しフランスに渡り、商売そっちのけで豪遊。これがフランス駐在の鮫島尚信やイギリス駐在の寺島宗則の耳に入り、日本の外務省に連絡が入った。それを聞いた陸軍省会計監督・種田政明が密かに調査を始め汚職が発覚、桐野利秋ら薩摩系陸軍人や江藤新平率いる司法省の激しく追及するところとなり、同年7月山縣は陸軍中将・近衛都督を辞任。司法省による本格的な調査が始まろうとした同年11月、公金返済が不可能であった山城屋は陸軍省内部...
  • 三大事件建白運動
    三大事件建白運動(さんだいじけんけんぱくうんどう)とは、1887年(明治20年)10月に片岡健吉が元老院に提出した建白書(「三大事件建白」)をきっかけに起きた政治運動。大同団結運動と並んで自由民権運動の最後を飾る運動として知られている。 1886年、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨が条約改正のための会議を諸外国の使節団と改正会議を行うが、その提案には関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示した。このため、小村寿太郎や鳥尾小弥太、法律顧問ボアソナードがこれに反対意見を提出し、更に翌1887年には農商務大臣谷干城が辞表を提出する騒ぎとなった。 これを知った民権派が一斉に政府を非難し、東京では学生や壮士によるデモも起こされた。このような中で片岡健吉を代表とする高知県の民権派が、今回の混乱は国辱的な欧化政策と言論弾圧による世論の抑圧にあると唱えて、①言論の自由の確立②地租軽減による民心の安定...
  • 日朝修好条規
    日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年、朝鮮暦高宗13年)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。江華島事件後に調印されたため江華(島)条約(Template lang?)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約ともいう。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。 概要 1875年におきた江華島事件の後、日朝間で結ばれた条約であるが、条約そのものは全12 款から成り、それとは別に具体的なことを定めた付属文書が全11款、貿易規則11則、及び公文がある。これら全てを含んで一体のものとされる。 朝鮮が清朝の冊封から自立した国家であることを明記していること、片務的領事裁判権の設定や関税自主権の喪失といった不平等条約的条項を内容とすることなどが、その特徴である。 それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝...
  • 日泰攻守同盟条約
    日泰攻守同盟条約(にったいこうしゅどうめいじょうやく)(昭和16年条約第20号)は、大東亜戦争(太平洋戦争)中に大日本帝国とタイ王国の間に結ばれた同盟に関する条約である。 歴史 背景 欧米側の都合と巧妙な外交手腕によって侵略を免れ、大日本帝国と同じく独立を保ってきたタイは、同じアジア人として日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後のリットン調査団の報告によって、国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。また、元帥プレーク・ピブーンソンクラームによる独裁体制が固められ、フランス領インドシナに日本軍が進駐すると、かつてフランスに奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留フランス軍と紛争となったが、翌年には日本軍の介入で講和。これによってタイは旧領土のほとんどを回復し、日本への協力姿勢を強めた。 参戦 日泰攻守同盟条約では、アジアにおける新...
  • 岩倉具視-2
    前半は岩倉具視参照 官歴 ※日付は明治4年までは旧暦。 天保9年(1838年) 10月28日、従五位下叙位。 12月11日、元服し、昇殿を許される。 天保12年(1841年)6月4日、従五位上昇叙。 弘化2年(1845年)2月18日、正五位下昇叙。 嘉永7年1854年) 3月20日、侍従任官。 6月10日、従四位下昇叙し、侍従元の如し。 万延元年(1860年)12月29日、右近衛権少将に転任。 万延2年(1861年)1月5日、正四位下昇叙し、右近衛権少将元の如し。 文久2年(1862年) 5月15日、左近衛権中将に転任。 8月20日、左近衛権中将辞任し、蟄居。 8月22日、落餝。法名:友山 慶応3年(1867年) 12月9日、明治政府参与兼務。 12月27日、明治政府参与から議定に異動兼務。 慶応4年...
  • 連合国軍最高司令官総司令部
    連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、聯合国軍最高司令官総司令部)とは、第二次世界大戦終結に際してポツダム宣言の執行のために日本を占領し、間接統治を行なった連合国軍の日本における司令本部である。日本では「GHQ」という通称が用いられた。連合国軍総数は20万人、うち12万人が横浜市に上陸した。 名称 英語の General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers の日本語訳。「総司令部/ 聯合国軍最高司令官」が正式名称となるが、この記事名のほか、「軍」という語を使わずに連合国最高司令官総司令部、これを略して連合国総司令部としたり、軍を含めて連合国軍最高司令部日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)、...
  • 仮20
    日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上のおもな出来事を年代順に記述する。 小学校学習指導要領に定める、「社会科」で取り上げるべき人物については、下線を引いた。 古代 弥生時代 57年 倭国王、後漢に遣使。 107年 倭国王、後漢に遣使。 倭国大乱 239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使。 古墳時代・飛鳥時代 350年頃 ヤマト王権の統一。 369年 任那の成立。 413年以後 しばしば中国に遣使(倭の五王)。 527年 筑紫国国造、磐井の乱。 538年(一説に552年) 百済の聖王、仏像及び経綸を献ず(儒教伝来、仏教公伝)。 562年 任那の日本府が新羅に滅ぼされる。 渡来人(帰化人)の来航。 593年 四天王寺造立。 593年 - 622年 聖徳太子の摂政。 603年 冠位十二階を制定。 604年 憲法十七条...
  • 日本史の出来事一覧
    日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上のおもな出来事を年代順に記述する。 小学校学習指導要領に定める、「社会科」で取り上げるべき人物については、下線を引いた。 古代 弥生時代 57年 倭国王、後漢に遣使。 107年 倭国王、後漢に遣使。 倭国大乱 239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使。 古墳時代・飛鳥時代 350年頃 ヤマト王権の統一。 369年 任那の成立。 413年以後 しばしば中国に遣使(倭の五王)。 527年 筑紫国国造、磐井の乱。 538年(一説に552年) 百済の聖王、仏像及び経綸を献ず(儒教伝来、仏教公伝)。 562年 任那の日本府が新羅に滅ぼされる。 渡来人(帰化人)の来航。 593年 四天王寺造立。 593年 - 622年 聖徳太子の摂政。 603年 冠位十二階を制定。 604年 憲法十七条...
  • 牧野伸顕
    {{政治家 |各国語表記 = まきの のぶあき |画像 = Nobuaki Makino in later years.jpg |画像説明 = 牧野 伸顕 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1861年11月24日(文久元年10月22日) |出生地 = 薩摩国鹿児島城下加治屋町 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = |出身校 = 大学校(中途退学) |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位勲一等旭日桐花大綬章伯爵 |配偶者 = 牧野峰子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第27代外務大臣 |内閣 = 第1次山本内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1913年2月20日 |退任日 = 1914年4月16日 |退任理由...
  • 日清戦争
    Template Battlebox? 日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国語では中日甲午戦争と呼ぶ。英語ではFirst Sino-Japanese War(第一次中日戦争)と呼ぶ。 日本の戦費総額は2億テール(日本円で3億円)、死者1.3万人。この戦争期間は10ヶ月であった。 経緯 開戦まで 征韓論 日本は明治政府成立直後から、朝鮮半島に対し経済進出を含む深い関心を抱いており、その成立直後から朝鮮との国交渉を始めていた。当時、朝鮮は鎖国状態で、国王高宗の父である大院君が政治の実権を握っていたが、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交樹立に反...
  • 岩倉具視
    {{政治家 |各国語表記 = いわくら ともみ |画像 = Tomomi Iwakura 3.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1825年10月26日(旧暦)1825年9月15日 |出生地 = 京都 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 京都 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 正一位・大勲位 |配偶者 = 野口槇子 |国旗 = 日本 |職名 = 第2代外務卿 |内閣 = |当選回数 = |就任日 = 1871年7月14日 (旧暦) |退任日 = 1871年11月4日 (旧暦) |退任理由 = |元首職 = 天皇 |元首 = 明治天皇 }} 岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日)- 明治16年(1883年)...
  • 李氏朝鮮-2
    前半は、李氏朝鮮参照 開国圧力と大韓帝国 - 高宗時代前期~中期 59年間に渡る安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなくなっていたために、手をこまねいているしかなかったが、その中から安東金氏より権力を取り戻そうという動きが出てくる。1863年に第26代王高宗が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)とTemplate lang?応(Template lang?は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。Template lang?応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を孝明...
  • 大久保利通
    {{政治家 |各国語表記 = おおくぼ としみち |画像 = Toshimichi Okubo 4.jpg |画像説明 = 大久保利通 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1830年9月26日 |出生地 = 薩摩国鹿児島城下 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 東京府麹町区 |称号・勲章 =従一位、勲一等旭日大綬章 |配偶者 = 大久保満寿子 |国旗 = 日本 |職名 = 第3代大蔵卿 |就任日 = 1871年8月13日 |退任日 = 1873年10月12日 |退任理由 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 初代内務卿 |就任日2 = 1873年11月29日 |退任日2 = 1874年2月14日 |退任理由2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 第3代内務卿 |就任日3 = ...
  • 中江兆民
    Template Infobox Celebrity? 中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日(1847年12月8日) - 明治34年(1901年)12月13日)は、江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)である。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、「東洋のルソー」と評される。衆議院当選1回、第1回衆議院議員総選挙当選者の一人。 父は土佐藩足軽の元助で長男、母は土佐藩士青木銀七の娘で柳。弟に虎馬。妻・ちのは長野県出身。子は一男一女。娘の千美は竹内綱の3男虎治の妻で、その娘は中国共産党員であった鈴江言一の妻、浪子。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。 中江家は、初代伝作が明和3年(176...
  • 日朝関係史
    Template 日本の国際関係?  日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係について述べる。 古代 古代には、朝鮮が中国と日本(7世紀まで倭国と呼ばれていた)を媒介する位置にあったことから、鉄や紙の生産技術・仏教・医学は中国から朝鮮を通過して日本に伝来したと言われている。稲作も朝鮮経由と言われてきたが、稲遺伝子の研究や各種遺跡からの出土品、水耕田跡の証左などから、南方の東南アジア経由にて伝来したという学説が、考古学的には主流となりつつある。静岡大学農学部佐藤洋一郎助教授やアメリカの多くのバイオ系研究機関の分析によると、日本及び朝鮮半島、遼東半島などの極東アジアに存在する稲は、温帯性ジャポニカ種及び熱帯性ジャポニカ種の大きく2種類にわけられ、その一部遺伝子を持つ種苗群の遺伝子を確認すると、中...
  • 明治
    Template 日本の歴史? 明治(めいじ)は、日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。明治元年1月1日(1868年1月25日)からTemplate 和暦?7月30日までの期間を指す。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは慶応4年9月8日(1868年10月23日)で、同年1月1日に遡って明治元年とすると定めた。 改元 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) - 明治天皇の即位による代始改元。 ただし、改元の詔書には「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて、明治元年となす)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。 Template 和暦?7月30日(Template 和暦?にグレゴリオ暦を施行) - 明治天皇崩御、...
  • 黒田清隆
    Template 記事名の制約? Template 日本の内閣総理大臣? 黒田 清隆(くろだ きよたか、天保11年10月16日(1840年11月9日) - 明治33年(1900年)8月23日)は、日本の武士・薩摩藩士、政治家。 通称は仲太郎、了介。第2代内閣総理大臣(在職 1888年4月 - 1889年10月)。階級は陸軍中将。位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。元老。 主な事績 薩摩藩の藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、1868年から1869年の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で参謀として指揮をとった。開拓次官、後に開拓長官として1870年から1882年まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、1876年に日朝修好条規を締結し、1877年の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺される...
  • 西郷隆盛-2
    前半は西郷隆盛参照 参議 大政改革と廃藩置県 明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士・集議院徴士横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して『丁丑公論』に詳しい、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五。12月、危機感を抱いた政府から勅使岩倉具視・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革...
  • エルトゥールル号遭難事件
    エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni)が、和歌山県串本沖、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した事件。この事件は、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。 現在、和歌山県串本町の樫野崎灯台そばには、エルトゥールル号遭難慰霊碑およびトルコ記念館が立つ。また、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。 事件の経過 木造フリゲート艦エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応えることを目的に、訓練不足のオスマン帝国海軍の練習航海を兼ねて日本へ派遣されることとなった。 1889年7月、イスタンブルを出港。数々の困難に遭...
  • 木戸孝允
    {{政治家 |各国語表記 = |画像 = Takayoshi Kido suit.jpg |画像説明 = |国略称 = |生年月日 = 天保4年6月26日(1833年8月11日) |出生地 = Template JPN?長門国・萩・呉服町(現:山口県・萩市) |没年月日 = 明治10年(1877年)5月26日 |死没地 = |出身校 = |前職 = 長州藩士 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = 木戸松子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = JPN |職名 = 第2代文部卿 |就任日 = 明治7年(1874年)1月25日 |退任日 = 明治7年5月13日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = JPN |職名2 = 第2代内務...

  • Template 基礎情報 過去の国? Template 中国の歴史? 清(しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝。首都は盛京(瀋陽)、後に北京。 満洲族の愛新覚羅氏(アイシン・ギョロ氏)が立てた王朝で、満洲語でダイチン・グルン(Daicing gurun, 大清国)といい、中国語では大清(ダーチン、ピン音 Dàqīng)と号した。 国号について 諸説ある。 漢民族の宋が女真族の金によって南方に追われたことがあったため、明に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音異字の「清」としたという説。 五行説にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」をあらわす「氵」と、『周礼』で東(満洲は中国の東北部にあたる)を象徴する色とされる「青」を組み合わせ、中原進...
  • 伊藤博文
    Template 日本の内閣総理大臣? 伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の政治家である。 明治憲法の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長・兵庫県知事(官選)を務めた。立憲政友会を結成・初代総裁。元老。位階勲等は従一位大勲位。爵位は公爵。称号は名誉博士(エール大学)。死後に大韓帝国より功績を讃えられ、「文忠公」の諡号が送られた。 幼名は利助、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」などと号し、「春畝公」と表記されることも多い。名の博文を「ハクブン」と有職読みすることもある。 生涯 幼年期 - 挙兵 周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻...
  • 日英関係
    Template 日本の国際関係? 日英関係(にちえいかんけい)は、日本とイギリスの関係のこと。 年表 right|thumb|[[ウィリアム・アダムス]] 18世紀以前 1587年 イギリス人「航海者」のトーマス・カヴェンディッシュ(en)、スペイン領バハ・カリフォルニア(現在のメキシコ領カリフォルニア半島)沖でスペイン船を拿捕し、乗船していた2人の日本人(クリストファー(20歳)とコスマス(16歳)(en))を自分の船に加える。この2人が初めてイギリスを訪問した日本人となったが、1592年に遭難死。 1600年 ウィリアム・アダムスが九州に上陸したのが公式な日英関係の始まり。後にアダムスの仲介によって東インド会社が平戸に商館を設置する。 1623年 アンボン虐殺事件の発生による英蘭関係の悪化と貿易の不振により平戸のイギリス商館を閉鎖、日英関係は事実上断絶する。 1673...
  • 樺太
    樺太(からふと)は、日本列島最北端、北海道の北に位置する樺太島(露:Template lang?(サハリン)、中:庫頁島(クイェとう、ピン音Kùyè))を指す地域名称である。また、この名称は、日本領有下において南樺太及びその付属島嶼を指す行政区画名として使用された。現在はロシア連邦が自国領である北サハリンに加え、南部も実効支配しているが、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本政府は国際法上、南樺太は所属未定地であるとしている。また、太平洋戦争において日本本土最後の地上戦が行われた。 この項目では、原則的には、日本が敗戦により行政権を失う前について記述する。それ以降についてはサハリン州の項目も参照されたい。 名称 「からふと」の名は、一説には、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ kamuy kar put ya mosir」と呼んだ事に由来...
  • 西郷隆盛
    Template Infobox 軍人? 西郷 隆盛(さいごう たかもり、文政10年12月7日〈グレゴリオ暦1828年1月23日・ユリウス暦1828年1月11日〉 - 明治10年〈グレゴリオ暦1877年〉9月24日)は、日本の武士・薩摩藩士、軍人、政治家。薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。 人物 名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。西郷家の家長は吉兵衛と名乗り、西郷の本名は8代目西郷吉兵衛隆永と言う、初代は熊本より鹿児島に移り住む、幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛の名は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大...
  • 李氏朝鮮
    李氏朝鮮/李朝 朝鮮語表記 ハングル 조선(왕조)시대 朝鮮の漢字 朝鮮(王朝)/李朝(封建)時代 片仮名転写 チョソン(ワンジョ)/リジョ(ボンゴン)シデ ラテン文字転写 Joseon/Chosŏn Wangjo 中国語表記 繁体字 李氏朝鮮/李朝 簡体字 李氏朝鲜/李朝 ピンイン lǐshì cháoxiǎn/lǐcháo 英語表記 アルファベット Joseon Dynasty 李氏朝鮮(りしちょうせん、1392年 - 1910年)は、朝鮮半島の最後の王朝。李朝(りちょう)とも言う(李王朝の意)。高麗の次の王朝。 現在の大韓民国(だいかんみんこく)では、李氏朝鮮が統治していた時代を「朝鮮時代」(ちょうせんじだい)、李氏朝鮮の王室を「朝鮮王朝」(ちょうせんおうちょう)と言う。 139...
  • 五箇条の御誓文
    五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)とは、明治元年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇(当時15歳)が公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。正式名称は御誓文であり、以下では御誓文と表記する。 歴史 起草の過程 明治新政府は発足当初から公議を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。明治元年正月、福井藩出身の参与由利公正が、坂本龍馬の船中八策と似ている部分が多い議事之体大意五箇条を起案し、参与東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。 制度取調参与の福岡孝弟は、この由利五箇条に対して第一条冒頭に「列侯会議を興し」の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も会盟に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり王...
  • 下関戦争
    下関戦争(しものせきせんそう)とは、幕末に起きた馬関戦争(ばかんせんそう)の現代的表現である。 馬関戦争は、幕府による安政の開国(1854年)後も過激な攘夷政策をとっていた長州藩と、英 仏 蘭 米の列強四国との間に起きた、前後二回にわたる武力衝突事件である: 前段: 1863年(文久三年)5月、攘夷実行という大義のもと長州藩が馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖、航行中の米仏商船に対して砲撃を加えた。約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。 後段: 1864年(元治元年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は、長州に対する懲戒的報復措置をとることを決定し、仏 蘭 米の三国に参加を呼びかけて、艦船17隻で連合艦隊を...
  • 後藤新平
    {{政治家 |各国語表記 = ごとう しんぺい |画像 = Shimpei Gotō.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1857年7月24日 |出生地 = 陸奥国胆沢郡塩釜村 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 京都 |出身校 = 須賀川医学校 |所属政党 = |称号・勲章 = 伯爵 |配偶者 = 後藤和子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第39代内務大臣 |内閣 = 第2次山本内閣 |就任日 = 1923年 |退任日 = 1924年 |退任理由 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 第34代内務大臣 |内閣2 = 寺内内閣 |就任日2 = 1916年 |退任日2 = 1918年 |退任理由...
  • 東郷茂徳
    Template 日本の閣僚? 東郷 茂徳(とうごう しげのり、明治15年(1882年)12月10日 - 昭和25年(1950年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。 人物 東条英機内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避する事は出来なかった。だが、早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。その後、大東亜省の設立に反対し、東条首相と対立したため外務大臣を辞職。 鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣。終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入という凄惨な事態を回避する事が出来た。それにも関わらず戦後、開戦時の外相であったがために連合国側から戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。 外務省事務次官を務め...
  • 廃藩置県
    廃藩置県(はいはんちけん)とは明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 背景 慶応3年12月9日(1868年1月3日)に勃発した王政復古のクーデターは事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、中央集権を進めるには各地に未だ残る大名領(藩)の存在をどうするかが問題であった。 明治2年6月17日(1869年7月25日)、274大名に版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。 一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを府藩県三治制という。なお「藩」とい...
  • 戊辰戦争
    Template Battlebox? 戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦。慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。この戦争の結果、薩長、薩長協力藩(佐賀藩、土佐藩等)出身者が明治政府の主体となり、うねる時代のなかで日本は近代的な中央集権国家への道を歩んでいった。 概要 戊辰戦争は、徳川慶喜の処分の問題に起因する「鳥羽・伏見の戦い」の段階、松平容保の処分の問題に起因する「東北戦争(北越戦争と会津戦争を含む)」の段階、旧幕府勢力が最後の抵抗を試みた「箱館戦争」の段階の3段階に区分できる。 鳥羽・伏見の戦いの段階では、石高や兵力数では旧幕府軍が優勢であり、新政府軍では天皇を連れて京都から撤退することも検討していたと言われる。しかし、旧幕府軍...
  • 昭和天皇-2
    前半は、昭和天皇参照 エピソード 皇太子時代 幼少時、養育係の足立たか(後の鈴木貫太郎夫人)を敬慕し、多大な影響を受けた。学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か?」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。教師が理由を聞くと、「おじじ様(明治天皇)の事はよく知らないが、義経公の事はたかがよく教えてくれたから」と答えたという。 初等科時代の学習院院長・乃木希典を「院長閣下」と呼び尊敬していた。ある人が「乃木大将」と乃木を呼び捨てたのに対し、「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したという。1912年(大正元年)の乃木殉死の日、乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、裕仁親王は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問した。乃木の殉死に薄々感づいていたのかもしれ...
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