chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「長閥」で検索した結果

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  • 山縣有朋
    ...要職に就かせる手法は長閥と呼ばれ、嫌う者も非常に多かった。また近代日本初の大掛かりな汚職疑惑に絡み、一旦は辞職もしている(山城屋事件)。とはいえ、明治の元勲だけあって、軍部への影響力は計りしれないものがあった。 1912年(大正元年)に起きた「陸軍二個師団増設問題」において、第2次西園寺内閣の陸軍大臣であった上原勇作に辞表を提出するように意見書を出している実際に送られた書簡をインターネットで閲覧できる。3-1 2個師団増設問題(国立国会図書館)参照。。 陸軍内部でもこの問題への賛否が分かれていたが、最終的に辞表は提出された。そして、山縣の思惑通り、新たな陸軍大臣が推薦されることはなく、内閣は総辞職当時は軍部大臣現役武官制が施行されており、陸軍が新たな陸軍大臣を推薦しない限り、内閣総辞職をするほかなかった。して、第3次桂内閣が発足するに至ったただし、山縣自身は倒閣までは予期していな...
  • 永田鉄山
    ...ンにおいて、陸軍の薩長閥除去を目指す等の「バーデン・バーデンの密約」を行なったという。 以後、麻布歩兵第3連隊長を勤めた後、1930年(昭和5年)に陸軍省軍事課長となる。さらに南次郎陸軍大臣の下で、国家総動員法の策定に関わる。1932年(昭和7年)に陸軍少将に昇進。 1934年(昭和9年)に陸軍省軍務局長となる。1935年(昭和10年)7月15日に真崎甚三郎教育総監を更迭。同年7月19日に有末精三中佐の紹介により歩兵第41連隊付の相沢三郎中佐と面会し辞職を迫られる。同年8月12日、その相沢に軍務局長室で斬殺された(相沢事件)。死亡時は陸軍少将であったが、特に陸軍中将に昇進される。墓所は東京都港区青山霊園附属立山墓地。 永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、後に皇道派の青年将校が二・二六事件を起こすに至る。その後、永田が筆頭であった統制派は、東條英機が継承し、石原...
  • 黒田清隆
    ...考えた伊藤・黒田ら薩長閥は、明治十四年の政変で大隈を失脚させた。しかし払い下げは中止になり、黒田は開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退いた。 醜聞と疑獄事件は後々まで世人に記憶され、黒田の名声を傷つけた。しかし薩摩閥の重鎮たることは変わらず、明治20年(1887年)に第1次伊藤内閣の農商務大臣となり、伊藤の後をうけて明治21年(1888年)4月に二人目の内閣総理大臣となった。在任中もっとも大きな事件は、大日本帝国憲法の発布であったが、黒田自身は憲法制定に深く関与しなかった。この憲法公布の翌日、鹿鳴館において、「政府は議会・政党の意思に制約されることなく独自性を貫くべき」とする主張、いわゆる超然主義を表明する超然主義演説を行っている。黒田内閣は、大隈重信が主導した不平等条約改正交渉の失敗によって大隈が襲撃され、翌明治22年 (1889年)10月に倒れた。改正の条件に外国人の裁判官をおく...
  • 坂本龍馬
    ...政府を牛耳っていた薩長閥に対し、土佐出身者が挽回を図るべく、土佐出身の維新の功労者として、坂本龍馬を持ち上げたのである。勝海舟も坂本龍馬を持ち上げたひとりであるが、旧幕臣という立場で薩長閥に対する反発があったのは、想像に難く無い。 その他 京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。それは淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った「梅椿図」という作品である。付着した血痕は暗殺された龍馬らのものとされている。 『竜馬がゆく』でも描かれているように、剣術の腕は相当なものだったと暗殺された時の状況から推測できる。龍馬は刺客からの「不意」をつかれた「突然」の攻撃から、二の太刀目で身をひねって刀に手を伸ばし、三の太刀目には鞘で受け止めるまで防御の体制を取っている。 逸話 龍馬の人生・人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻である伊興の実家、...
  • 桂太郎
    ...の首相経験があり、薩長閥の大物で残っているのは西郷従道と井上馨の2人である。西郷は例によって兄・隆盛を持ち出して断ったが、井上は引き受ける決心をし、大命を受けて組閣にとりかかった。財政難を切り抜ける手腕のある大蔵大臣を誰にするか。すぐれた作戦家だが、軍政には適していない兒玉を変えるかどうか。井上は蔵相に渋沢栄一、陸相に桂の再任を求めたが、両者に拒否されてあっさり組閣を断念した。 元老会議は桂を推し、明治天皇は桂に組閣を命じた。1901年(明治34年)6月、山本権兵衛海軍大臣、兒玉陸相の留任を除いて、小粒な内閣が発足した。蔵相兼外務大臣の曾禰荒助をはじめ、初めて大臣になるという官僚が大半で、その多くが内務省出身の山県閥官僚であった。世人は「第二流内閣」と揶揄した。桂は首相就任と同時に予備役となるはずであったが、明治天皇の意向により現役軍人であり続けた。 桂は9月に小村寿太郎を外相に...
  • 昭和天皇
    ...思って進言したのだが長閥の巨頭として非難された。山縣は責任を感じて大正10年3月、枢密院議長・元老など全ての辞表を提出したが 5月、優詔にて却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。 婚礼の儀の延期と関東大震災 1923年(大正12年)の関東大震災により、同年秋季予定されていた皇太子裕仁親王(当時摂政であった)の婚礼の儀は延期されることとなった。本来なら関東という一地方で起きた地震であるので、国事である皇族の婚礼を延長することはせず遷都するのが通例であったが、東京の惨状を視察した裕仁親王の意向により延期となった。 この関東大震災で裕仁親王は、後に「加藤のおかげで命拾いをした」と語っている。背景には、霞関離宮が修理中であったため箱根(大きな震災を被った)に行く予定であったが、加藤友三郎内閣総理大臣が死去し、政変が起きていたため東京の宮城(皇居)に留まっ...
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