chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「陛下」で検索した結果

検索 :
  • 日韓併合条約
    ...ル条約 日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ハ両国間ノ特殊ニシテ親密ナル関係ヲ顧ヒ相互ノ幸福ヲ増進シ東洋ノ平和ヲ永久ニ確保セムコトヲ欲シ此ノ目的ヲ達セムカ為ニハ韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如カサルコトヲ確信シ茲ニ両国間ニ併合条約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為日本国皇帝陛下ハ統監子爵寺内正毅ヲ韓国皇帝陛下ハ内閣総理大臣李完用ヲ各其ノ全権委員ニ任命セリ因テ右全権委員ハ会同協議ノ上左ノ諸条ヲ協定セリ 第一条 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス 第二条 日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ケタル譲与ヲ受諾シ且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス 第三条 日本国皇帝陛下ハ韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其ノ后妃及後裔ヲシテ各其ノ地位ニ応シ相当ナル尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ且之ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スヘキコトヲ約ス 第四条 日本国皇帝陛下ハ前条以外ノ韓国...
  • 太皇太后
    ...在の敬称は「太皇太后陛下」であるが、古くは太皇太后宮という様に「宮」(ぐう)の字をつけて敬称した。 日本では律令制の導入以降この称号が使われるようになった。令では中宮職を担当の役所となし、『令義解』では「太皇太后……の宮また自ずから中宮なり」とし、中宮職をもって太皇太后に仕える根拠とするが、実際には中宮職と別個に太皇太后職をおいて奉仕させた。天皇の在位期間が短くなる、平安時代後期には、以前に皇后(中宮)だったものが、のちに新たに皇后が立てられると皇太后と称せられ、さらにまた新たな皇后が立てられると、繰り上がって太皇太后の位を贈られるようになった。 明治になり、律令は廃止されたが、太皇太后の称は残り、皇室典範で太皇太后は皇族とされた。太皇太后への敬称は陛下を用いる。また皇室喪儀令(大正15年皇室令第11号)では、太皇太后の死に際しては宮内大臣が公示し、追号を定め、天皇が喪主となると...
  • 王 (皇族)
    ...書により、「韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其ノ后妃及後裔」に該当する者を王族とし、李王家の当主も王というが、皇族の王と王族の王は全く違うものである。 なお、幕末以後日本が西洋と国交を開いた直後には、西洋の皇帝(=天皇)と王の関係を日本や中国と同様の非対等な関係と誤解をして、帝制の国家と王制の国家あての国書に格差を付けてしまった為に、紛糾したと言われている。 関連項目 皇室典範 皇室身位令 白川伯王家 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月16日 (日) 08 16。    
  • ゴーストップ事件
    ...府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と言明した。6月24日の寺内寿一第4師団長(寺内正毅の息子)と縣(あがた)忍大阪府知事の会見も決裂した。 この結果、問題は寺内と粟屋という軍部と警察(すなわち内務省)との対立の様相を示す。この議論は平行線を辿り、また、新聞をはじめとするマスメディアもこれを「軍部と警察の正面衝突」などと大きく報じたことによって過剰なほどの騒ぎとなった。「天皇陛下の軍隊」に対して「天皇陛下の警察官」(清水重夫)を自任する警保局を中心とする官僚たちは新たな政治勢力として意識され、「新官僚」(後の新々官僚とは別物)と呼ばれた。彼等は主に1910年代に東大を上位の成績で卒業し、中堅の幹部に昇進していた者たちであった。 7月17日、中村一等兵は戸田巡査を相手取り、刑法第195条(特別公務員暴行陵虐)、同第196条(特別公務員職...
  • 天皇
    ...ら呼びかける時には「陛下」、皇太子など後継者に譲位した場合は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められているがこれらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。自称は「朕」。臣下からは「至尊」とも称された。 なお、奈良時代、天平宝字6年(762年)~同8年(764年)に神武から持統天皇までの41代、及び元明・元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されている...
  • 革新官僚
    ...の幹部に昇進し「天皇陛下の軍隊」に対抗して「天皇陛下の警察官」を自称した後藤文夫のほか、松本学、唐沢俊樹、吉田茂(内務省出身。のちの首相は同姓同名の異人)、平沼騏一郎などが挙げられる。 逓信省出身の奥村喜和男が電力国家管理案を実現してから注目されるようになった。星野直樹企画院総裁、岸信介商工次官ら満州で経済統制の実績を挙げていた高級官僚、および美濃部洋次、毛里英於菟(ひでおと)、迫水久常らの中堅官僚が知られる。モデルはソ連の計画経済であり、秘密裡にはマルクス主義が研究されていた。現に革新官僚たちはソ連の五カ年計画方式を導入した。それゆえに戦後には左翼とする論者Template 誰?もいる。革新的・社会主義的な立案を行ったため、「共産主義」として小林一三らの財界人や平沼騏一郎など右翼から強い反発を受け、1941年に企画院事件を生じた。 革新官僚に該当する人物としては、企画院の項目で...
  • 韓日合邦を要求する声明書
    ...であり、我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」 ref name= 警秘第4106号-1 統監府文書 8、警秘第4106号の1と、大韓帝国政府と大日本帝国政府が新たに一つの政治機関を設立し、大韓帝国と大日本帝国が対等合邦して一つの大帝国を作るように求めた。 南北朝鮮では当時一進会が民衆のみならず知識人からも強い批判を受けていたこと、それまで一進会が同じく親日派の李完用首相と共に日本の朝鮮侵出を援護してきたことなどから、この声明書に対して「国権防衛運動、義兵闘争、愛国啓蒙運動などに反するもの」であると非常に批判的である。 ただ日本を含めた諸外国の研究者は、一進会が大日本帝国の侵略の意図を見抜けず韓国を亡国へと導く役割を果たしたことは事実であるが、対等合併論自体は日本の朝鮮併合論(朝鮮が日本に従属...
  • 皇太后
    ...により現在の敬称は「陛下」と定められるが、古くは皇太后宮という様に「宮」(ぐう)の字をつけて敬称した。「おおきさいのみや」と訓じた。 中国では秦・漢の時代から清の時代にまで、在位中の皇帝の生母と先代の皇后を並び尊崇して「皇太后」と呼ぶ。 日本では古く奈良・平安朝に、当代の生母というだけで皇太后若しくは皇太夫人の尊号を奉られることもあったが、江戸初期以来その例はなく、先代の嫡妻をもって太后とするのが慣例になった。 また、大宮御所とは皇太后の御在所のことを言い、皇太后の世話をする部署を皇太后宮職と称する。 皇太后は通常、皇后であった者に対する追号として用いられることはないが、孝明天皇の后であった英照皇太后、明治天皇の后であった昭憲皇太后には例外として用いられる。 「王太后」という称号 Queen Dowagerを参照 王に対しては「王太后(英語 Queen Dowager)...
  • 東亜新秩序
    ...一月三日付 今や、陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要城を勘定したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す。 この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。 帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応へむことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構...
  • 更新blog-6
    ...人の尊厳 開戦 天皇陛下のお言葉に見る、昭和のあの時 南部仏印 超然内閣 アメリカ国民は団結して一つになった。 構造汚職の体質 公議政体 30 item(s) Last-Modified 2019/12/04 13 31 16 # 日々つれづれ # こんばんは ■ なんやよくわかりませんが 日々雑論 従軍慰安婦の自分なりの結論 スケキヨ、名古屋脱原発イベントに行く 日々雑論 原発と日本のムラ社会と その1 日々雑論 土曜日名古屋反原発デモいってきますた 日々雑論 管内閣はとりあえず存続ケテーイですな 世界的にも個人的にもピイピイ言ってました(笑) みなさま明けましておめでとうございます 日々雑論 民主党も「終わった」ねえ 日々雑論 読書メモというかただの覚書というか 日々雑論 小沢氏が強制起訴らしいですね 日々雑論 ウサンクサイケイ抄10月4日 日々雑論 ウ...
  • 樺太・千島交換条約
    ...訳文)全露西亜国皇帝陛下ハ第一款ニ記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤ニ至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島 ・・・途中省略・・・第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及び君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲り而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加地方「ラパッカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス フランス語正文では、『現在自ら所有するところのクリル諸島のグループ』と書かれているが、日本語訳文では『現今所領「クリル」群島』と訳されており、『グループ』が欠落している。さらに、フランス語正文では『従って、上述のクリル諸島のグループは日本国に属する』とあるが、日本語の誤訳にはこの部分が欠落している。そして、日本語誤訳には、フランス語正文に無い『今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ』の句が挿入されている。このため、日本語訳文で...
  • 昭和天皇-3
    ...けぼの集:天皇皇后両陛下御歌集 (木俣修編) (1974年4月、読売新聞社) 生物学研究 200px|thumb|[[興居島でユムシを採取する昭和天皇(1950年3月19日)]] 昭和天皇は生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いでいる。1925年6月に赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、御用掛の服部廣太郎の勧めにより、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学的研究を始めた。1928年9月には皇居内に生物学御研究所が建設された。1929年(昭和4年)には自ら在野の粘菌研究第一人者南方熊楠のもとを訪れて進講を受けた。南方の名は、後の御製にも詠まれて残っている。もっとも、時局の逼迫によりこれらの研究はままならず、研究成果の多くは戦後発表されている。ヒドロ虫類についての研究は裕仁(あるいは昭和天皇)の名で発表されており、『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴ...
  • 第二次日韓協約
    ...代表者トシテ韓國皇帝陛下ノ闕下ニ一名ノ統監(レヂデントゼネラル)ヲ置ク統監ハ專ラ外交ニ關スル事項ヲ管理スル爲京城ニ駐在シ親シク韓國皇帝陛下ニ内謁スルノ權利ヲ有ス日本國政府ハ又韓國ノ各開港場及其他日本國政府ノ必要ト認ムル地ニ理事官(レヂデント)ヲ置クノ權利ヲ有ス理事官ハ統監ノ指揮ノ下ニ從來在韓國日本領事ニ屬シタル一切ノ職權ヲ執行シ並ニ本協約ノ條款ヲ完全ニ實行スル爲必要トスヘキ一切ノ事務ヲ掌理スヘシ 第四條 日本國ト韓國トノ間ニ現存スル條約及約束ハ本協約ノ條款ニ抵觸セサル限總テ其效力ヲ繼續スルモノトス 第五條 日本國政府ハ韓國皇室ノ安寧ト尊嚴ヲ維持スルコトヲ保証ス 右証據トシテ下名ハ本國政府ヲリ相當ノ委任ヲ受ケ本協約ニ記名調印スルモノナリ 明治三十八年十一月十七日 特命全權公使 林權助 光武九年十一月十七日 外部大臣 朴齊純 内容 第1条:日本国政府は今後外...
  • 昭和天皇-2
    ...った。寛仁親王も、「陛下は『あ、そう』ばかりで、けっして会話が上手な方ではなかった」と語っている。もっとも謁見の機会を得た細川隆元は、その「あ、そう」一つとっても、 「ああ、そう、そう」 「あ、そう」 「ああ、そーう」 「ああ、そう、そうか」 「あ、そう、ふーん」 「ああ、そう、うん」 などのバリエーションがあったと書いている。細川曰く「同感の時には、体を乗り出すか、『そう』のところが『そーう』と長くなる」(『天皇陛下と語る』)とのこと。 一方で表情は非常に豊かで、満面の笑みを浮かべる天皇の表情のアップなども写真に残っている。ちなみにこの、『あ、そう』と独特の手の上げ方は非常に印象的で、昭和天皇の癖として小中学生果ては幼稚園児にいたるまで、国民に広く知られており、似た挨拶の仕方をする者に「陛下」との通称がつくほど親しまれていた。この所作を物真似する者も多かった。過...
  • 皇族
    ...・太皇太后・皇太后は陛下、それ以外の皇族は殿下の敬称を称した(旧皇室典範17,18条)。 皇族は天皇の監督を受けた(旧皇室典範35条)。 皇族の後見人は、成年以上の皇族に限られた(旧皇室典範38条)。 皇族の結婚は、皇族同士か特に勅許を受けた華族との間に限られ、勅許を必要とした(旧皇室典範39,40条)。また、大正7年(1918年)11月28日皇室典範増補により、皇族女子は王公族(旧韓国皇室)に嫁することができた。 皇族の養子は禁止された(旧皇室典範42条)。 皇族の国外旅行には勅許を必要とした(旧皇室典範43条)。 皇族を勾引し、裁判所に召喚するには勅許を必要とした(旧皇室典範51条)。 皇族が品位を辱める行いをしたり、皇室に対して忠順を欠くときは勅旨を以って懲戒を受け、重い場合は皇族特権の停止、剥奪を受け、臣籍に降されることもあることになっていた(旧皇...
  • 一進会
    ...である。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、我々も一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」と主張し、韓国と日本の連邦形式の対等合邦を求めた ref name= 警秘第4106号-1 統監府文書 8、警秘第4106号の1。 解散 一進会の主張はあくまで日韓両国民の対等な地位に基づく日韓共栄であって日本の考える韓国の吸収併合とは全く異なるものであることや、日韓併合については韓国側の要求は一切受け入れない方針であったため日本政府は一進会の請願を拒否した。これは、当時の大韓帝国の巨額の債務や土地インフラに膨大な予算が必要になることから日本国民の理解を得ることは難しいとの政治判断からであった。日韓併合後、親日派/非親日派の政治団体の対立による治安の混乱を収拾するため、全ての政治団体を解散させた。この解散は一進会も同様であり、一進会は併合直後の1910年9月...
  • 甲申政変
    ...後殿下ではなく、皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。 清国に対して朝貢の礼を廃止する事。 内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。 宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせる事。 等、14項目の革新政策を発表し、旧弊一新の改革を実現させようとした。 しかしながら、やはり予想通り袁世凱率いる清軍が王宮を守る日本軍に攻め寄りクーデター派は敗退。結局日本軍も撤退し、親清派の守旧派が臨時政権を樹立。開化派による新政権はわずか3日で崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命することとなった。残った開化派人士、及び亡命者も含めた彼らの家族らも概ね三親等までの近親者が残忍な方法で処刑された(ただし、金玉均の妻子は日本側に保護されたとされている)。また金玉均は日本各地を転々とした後に上海に渡り、閔妃の放った刺客に暗殺される。その遺体は朝鮮半島に移送された後に凌遅刑...
  • 鈴木貫太郎
    ...東條をたしなめた。「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか」。このとき、既に沖縄本島には連合軍が上陸しており、国内でも東京を中心とした大都市は、アメリカ軍のB-29からの焼夷弾による絨毯爆撃で大損害を蒙っていた。日本がそこまで追い込まれてきたのは陸軍の責任ではないのかと問われると、東條は反論できずに黙ってしまった。 重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、総理として組閣するように命じた。このときのやりとりについては、侍立した侍従長藤田尚徳の証言(侍従長の回想)がある。あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は言った。命令ではなく、“頼む”から総理をやってくれと言われた人物は、後にも先にもこの鈴木だけであろう。鈴木は自分には政治的手腕は...
  • 皇道派
    ...動を起こした後は、「陛下の下に一切を挙げておまかせすること」 (※2・26事件の首謀者の一人、栗原安秀中尉の尋問調書より)に期待するのみであった。 また、彼らの信頼を集めた荒木や真崎も、自分たちが首班となって内閣をつくることを予期するだけで、その後の計画も無く、各方面の強力な支持者もいなかった。とくに財閥や官僚には皇道派を危険視する空気が強く、彼らが政権を担当する条件そのものが欠落していたのである。 それだけに、成果の見込みの有無を問わず危険な行動に走るという特徴が表面に現れた。その特徴こそ、軍部・官僚・財閥のファッショ的支配を押し進める露払いの役割を果たしたのである。もともと荒木が陸相に就任したこと自体、三月事件・十月事件で政党首脳が恐怖を感じた結果であった。 真崎は教育総監時代、天皇機関説排斥運動の中心となり、政党政治の最後の拠り所までも粉砕する役割を果たした。五・一五事件...
  • 昭和天皇
    ...。会見記録は高橋紘「陛下、お尋ね申し上げまする」に詳しい)。 また後年、昭和天皇は次のように述懐している。「その 惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」(1981年の記者会見より) 田中義一首相を叱責 満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその直後に死去)。 田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる牧野伸顕内大臣の指導の下、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広が...
  • 香淳皇后
    ...4年2月号)に「天皇陛下の『夫婦喧嘩』」という随筆を載せ、側近がたった一度目撃したという夫婦喧嘩の光景を紹介している。 天皇と皇后の晩年の楽しみは皇居内を二人で散歩することで、植物の好きな天皇がよく皇后に説明をしながら歩いたという。またわかれ道にくると、しばしば天皇が「良宮、どちらにしようか」と問い、皇后が「陛下のお好きなほうへ」と答えたというエピソードがある。 朝食のひとときにNHKの連続テレビ小説を見るのが好きだった天皇につきあって、この番組をよく見ていた。、 活発で開明的な姑貞明皇后とは性格の違いもあってうまくゆかず、特に結婚した当初は関係に悩んだともいわれる。 書、刺繍、日本画、謡(観世流)、バラの栽培など多趣味で、バラは皇后自ら鋏をとり、枝の剪定やなどを行っていた。特に、日本画は玄人はだしで、ご成婚以前には高取稚成から大和絵を学び、その後川合玉堂、前田青邨に師事、1...
  • バンザイ突撃
    ...行の前に全員で「天皇陛下万歳」を唱和した事からこう呼ばれるようになったとする説もある。 バンザイ突撃に加わった日本軍兵士の生存者は非常に少ないため、米軍側の視点が主になりやすい。 生きて虜囚の辱めを受けず 戦陣訓によって捕虜になる事は不名誉な事であり、命惜しさに投降するなど言語道断であると教え込まれた日本軍兵士は、太平洋戦争における米軍との攻防戦において、遂に終戦まで自らの命と引き換えに台湾人将兵の投降を認めさせた例以外、殆ど組織的降伏(部隊としての武装放棄・投降)をしなかった。これは近代化された一国の正規の軍隊としては他に例が見られない。 投降に対する認識の差 武器弾薬、食料等が尽きて、それ以上戦闘行為の継続が不可能な状態に追い詰められた場合、近代的軍組織の常識的行動は投降である。適切な状況での軍隊の組織的投降は国際的な常識として認められており、太平洋戦争当時、日...
  • 東條英機-2
    ...放言し岡田啓介から「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめられている。さらに終戦工作に対しても妨害工作を行い「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた『加瀬俊一回想録』。 首相就任の経緯 東條が首相に就任したときに陸相や内相を兼任したのは、近衛内閣の時点で日米交渉がまとまらなかった場合には開戦することが決定されるなど開戦は避けられない状況であったこともあり、日米交渉成立時に開戦派によるクーデターを阻止することや、開戦した場合に陸海軍の統帥を一本化するためだったといわれているが、結局終戦まで陸海軍の統帥が一本化することはなかった。それどころか後任の小磯國...
  • 二・二六事件
    ...たのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである…」に始まる勧告NHK放送博物館、東京都江戸東京博物館で聴くことが出来る。ビラとは若干内容が違い「帰順すれば罪は赦される」の文が入っており、事件後問題とされた。が放送され、同時に投降を呼びかけるビラを飛行機で散布した(冒頭写真)。これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、将校は全員逮捕され、反乱はあっけない終末を迎えた。 なお憲兵隊は、反乱部隊を制圧できるほどの装備・兵力を有していなかったので事件後は表立って決起将校の逮捕は出来ずにいたが、事件を通じて反乱部隊に与せず職務に忠実であった。 3月4日午後2時25分に山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。東京第一衛戍病院に収容されていた河野大尉が3月5日に自殺を図り、6日午前6時40分に死亡した。 3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵...
  • 貞明皇后
    ...年 筧素彦『今上陛下〔昭和天皇〕と母宮貞明皇后』日本教文社、1987年 序文徳川義寛 『貞明皇后』 主婦の友社編 1971年 伝記と歌集 出雲井晶 『天の声 小説・貞明皇后と光田健輔』 展転社 1992年 救らい活動が中心 皇子及びその妃達との関係 姑として香淳皇后には厳しかった。それは皇族久邇宮家の嫡出の王女(身位は女王)であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は五摂家の九条家の出身ではあるものの、嫡出ではなく庶子である)と周囲の人間から考えられていた。 しかし、香淳皇后は皇族出身のいわばお姫様で、性格がかなりおっとりしており、逞しく育った貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった。また香淳皇后の実家久邇宮家は外戚であることをかさに身勝手な振る舞いが多く、それが貞明皇后の不興を買う一因にもなったようである。貞明皇后から香淳皇后に注意は女官長を通じて行なわれ...
  • 牟田口廉也
    ...岩市といわれる)に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した時に、部下から「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、 一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、 黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります。」と言われたが、結局自決することはなかった。 前線では補給不足で苦戦が続くなかで司令部に清明荘という料亭と芸者を随伴させ、遊興に耽っていた。しかも、作戦中も毎日5時を過ぎると自宅へ帰り、そこで浴衣に着替えて料亭へ出向く生活ぶりは英軍に筒抜けであった。英軍はこれを前線でスピーカーを通じて流したため日本軍将兵の士気を著しく下げた。 敗色濃厚と見るや司令部の裏手に祭壇...
  • 皇后
    ...範のもとでの敬称は「陛下」であるが、大宝律令のもとでの敬称は「殿下」であった。また、正式には「太皇太后宮」「皇太后宮」とともに「皇后宮」と呼ばれ、総称して三宮(さんぐう)という。「准三宮」という待遇・称号の語源はここにある。 「皇后」という称号が明文により規定されたのは、大宝律令の制定以後であるから、厳密に言えば、日本最初の皇后は、天平元年(729年)に聖武天皇の皇后となった光明皇后(藤原安宿媛)であるが、『日本書紀』が神武天皇以来の歴代天皇の「オホキサキ」に対して「皇后」の漢字を当てていることから、彼女以前の天皇の正妃についても「皇后」の称で呼ぶ慣行となっている。 大宝律令に皇后になれる資格を規定した条文はないが、皇后より一段下位の妻である妃の資格が「四品以上の内親王」と規定されていることから、皇后も当然内親王でなければなれないものと観念されていたとする考え方がある。『日本書紀...
  • 玉音放送
    ....A.シロニー『天皇陛下の経済学』山本七平監訳、光文社文庫、1986年(昭和61年)。p.153)。。 なおラジオ放送のマイクが天皇の肉声を意図せず拾ってしまい、これが放送されるというアクシデントが1928年(昭和3年)12月2日の大礼観兵式に一度おこっているが天皇の声が電波に乗って正式に放送されたのはこれが最初である。その後宮中筋は天皇の肉声を放送する事は憚り(はばかり)ありとして極端にこれを警戒し、結局戦争の終結まで公式に玉音放送が行われたのはこの1945年(昭和20年)8月15日一度きりであった。 Template multi-listen start? Template multi-listen item? Template multi-listen end? 終戦詔書 終戦詔書は大東亜戦争終結ノ詔書とも呼ばれ、8月14日付けで詔として発布された。大まかな内容は内...
  • 田中隆吉
    ...もの、一人といえども陛下のご意思に反して行動するがごとき、不忠の臣はおりません。いわんや文官においてをや」と大見得を切ってしまった。 これを受けて、アメリカの新聞は「東条、天皇の戦争責任を証言」と書きたてた。これを受けてさらに、ソ連の検事が正式に天皇追起訴を提言してジョセフ・キーナン主席検事に迫った。キーナンと田中は、天皇は開戦の意図を持っていなかった、天皇には責任はないということを、いかにして東條に再度言明させるかを深夜まで協議をした。東條への工作は成功した。 1948年(昭和23年)1月6日の午後の法廷において、東條に「2、3日前にこの法廷で日本臣民たるも者は何人たりとも天皇の命令に従わないと述べたことは、単に個人的な国民感情を述べたにすぎず、天皇の責任とは別の問題であり、大東亜戦争(太平洋戦争)に関しては、統帥部その他自分をふくめて責任者の進言によって、しぶしぶご同意になっ...
  • 大正天皇
    ...内省発表による『天皇陛下御容体書』によって病状は公にされる運びとなった。このため、後々にも「病弱な天皇」として一般に認識されることになった。 その一方で、皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」天皇像を『原敬日記』に記している ref name =hara/ 。 その後は日光・沼津・葉山と転地療養を続けていたが、大正15年(1926年)11月に病状が極度に悪化し、同年12月25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸において、長く会えなかった実母・柳原愛子(二位局)の手を握ったまま、心臓麻痺で崩御。宝算(享年)47。臨終の床に生母を呼んだのは皇后・節子の配慮によるものであったという。 「大正天皇」と追号され、翌年2月8日、神武以来、天皇として史上はじめて関東の地、多摩陵...
  • 宮城事件
    ...れ、「終戦詔書が天皇陛下の直接放送となる可能性があるので至急準備を整えるように」と指示を受けている。 午後3時過ぎ、畑中少佐は東部軍管区司令部の田中静壱大将に面会を求めた。彼は東部軍のクーデター参加を求める予定であったが、入室した途端に田中大将に一喝され、萎縮して一言も喋らぬまま帰途についている。昭和天皇による玉音放送の録音は午後11時30分から宮内省政務室において行われ、録音盤(玉音盤)は徳川義寛侍従に渡されて皇后宮職事務室内の軽金庫に保管された。 8月15日 right|thumb|250px|玉音盤 br / [[NHK放送博物館で保存されている。]] 午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁及び放送協会職員など数名が、坂下門付近において近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉により拘束された。彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守...
  • 乃木希典
    ...、乃木は「軍旗は天皇陛下から給わったもの。詫びなければならない」と言って譲らない。兒玉もついに折れ「わかった。しかし切腹するときは必ず自分に知らせよ」と誓わせた。 この騒動と前後して、乃木は官軍の総指揮官であった山県有朋に待罪書を送り、厳しい処分を求めた。しかし、軍旗紛失後の奮戦も含め、自ら処罰を求めた乃木の行動はかえって潔いと好意的に受け止められ、罪は不問となり、どころか栄達の遠因にすらなった。 後に乃木が殉死した際、遺書とともにこのときの待罪書が見つかった。大将にまで上り詰めた乃木が、若き日の軍旗喪失の責任を忘れていなかったことと、その時果たせなかった切腹による引責を殉死によって遂げたことが明らかになり、その壮烈な責任感は、日本のみならず世界に大きな衝撃を与えた。それまで単なる目印・マークでしかなかった軍旗を神聖視する傾向は、この時より定着したといわれる。 一連の士族争乱は...
  • 平泉澄
    ...日本の君主たる、天皇陛下のほかにありえない」という理由からであり、平泉はその論拠として、源頼朝が、重源が迂闊にも頼朝を「君」と呼んだことに、頼朝が苦言を呈したことを挙げている。『徴古文書・東大寺俊乗房重源宛返書』によると「兼ねて御消息の、君御助力ならずばと候は、頼朝の事にて候か。然れば君の字は恐れ候ふこと也。自今以後も、更に有る可からず候者也」とある。平泉はこの話に触れてより、「○○君」や「諸君」の語を使わないようにしたという。ただ、学生などに「君」を使用しないよう指示はしなかったと言われている。 家永三郎は学生時代平泉の講義を受けて「極端な日本主義で到底ついて行くことができなかった」と述べている。 玉村竹二によると、黒板勝美は留学から帰国した平泉に大きな期待をかけていたが、その豹変に怒って平泉の悪口をいうようになっていったという。 国家の柱石と信ずる先哲には、講義であっ...
  • 松岡洋右
    ...んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし涙を流したという。しかし、開戦二日目に徳富蘇峰に送った書簡が最近発見され、それによると松岡は緒戦の勝利に興奮し、多大な戦果に「欣喜雀躍」と記ている。また同じ書簡で松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第二次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。その一方で開戦したからにはその外交の失敗を反省し、日英米の国交処理をいつかはしなければならない、と蘇峰に書き送っている。このことは、開戦前と後では、松岡の気持ちが変化したことが伺える。 その後結核に倒れた松岡は以前とは別人となったように痩せ細る。敗戦後はA級戦犯容疑者としてGHQ命令により逮捕され、周囲に「...
  • 広田弘毅
    ...を後で聞いた広田は「陛下は自分に対して信任がないのではないか」ととても気にしていた。 西園寺は首相就任を引き受けさせるため近衛文麿と吉田茂(広田とは外交官の同期生)を説得役として派遣した。広田は拒み続けたがついには承諾し1936年(昭和11年)3月5日、天皇から組閣大命が下る。この際、天皇から新総理への注意として歴代総理に与えられた3ヵ条の注意(第一に憲法の規定を遵守して政治を行なうこと。第二に外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように。第三に財界に急激な変動を与えることのないように)の他に「第四に名門を崩すことのないように」という1ヵ条が特に付け加えられた。これにより広田は「自分は50年早く生まれ過ぎたような気がする」と語ったという。 組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでた。好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直...
  • 石原莞爾
    ...したが、石原は逆に「陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ参謀本部に入った。また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられるものの事なきを得ている。 左遷 昭和12年(1937年)の日中戦争(支那事変)開始時には参謀本部作戦部長。参謀本部は当初戦線拡大に反対であり、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原にとっても、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたかった。内蒙古での戦線拡大に作戦本部長として、中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時関東軍参謀長東條英機ら陸軍中枢と対立し、同年9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍に参...
  • 吉田茂
    ...まったが、その代わり陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたという。 昭和39年(1964年)11月の宮中園遊会で、昭和天皇が「大磯はあたたかいだろうね」と吉田に呼びかけた。吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わせている。 日米修好通商百年祭に日本の代表として訪米し外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」。特別の健康法とか、不老長寿の薬でも?という質問には「はい、強いてあげれば人を食っております」とすました顔で即答した『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』 73-74頁。 吉田は米寿をすぎてもまだかくしゃくとしていたが、ある日大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「...
  • 韓国併合
    ...民の間では“(天皇)陛下の赤子に鮮人がなるなど畏れ多い”という差別思想が根強くあり、特に植民地朝鮮においてその程度は根強かった。この根強さは朝鮮総督府の支配政策にとって障害になるほど強固であり、朝鮮憲兵隊は本国政府に対して、朝鮮に植民した日本人(日本政府にとっては棄民に近い扱いだった事情も介在する)が朝鮮人に蔑意をあらわにする実例を個々具体的に報告ことで、日本人の差別意識が朝鮮人の民族意識を涵養しているという警告を再三に渡って送っている。 解放後 日本は、大量のインフラを朝鮮に残したにも拘らず、朝鮮戦争でそれを台無しにした。北部では、行政のプロを対日協力者として公職追放したために、行政のノウハウがない状態で建国しなければならず、朝鮮戦争後にも金日成による相次ぐ粛清によって人材を失い正常な統治が不可能になった。南部では、朝鮮戦争前には権力をめぐる抗争や共産主義者のゲリラ活...
  • 愛新覚羅溥儀
    ...へ対する敬称である「陛下」ではなく、執政に対する呼び方である「閣下」と呼ばれ激怒したと伝えられている。 なお、溥儀が「執政」に就任した直後の3月に、国際連盟から柳条湖事件及び満洲事変と満洲国、および日本の調査のために派遣されたイギリスのヴィクター・リットン卿率いる、いわゆる「リットン調査団」が満洲国を訪問し、5月には溥儀にも調査の一環として調査団を謁見した。 皇帝即位 その後1934年3月1日には満洲国皇帝の座に就き、康徳帝となる。なお、溥儀の皇帝即位に併せて正式国名が満洲帝国に改名され、元号も「康徳」に変更された(満洲国側によって当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更を余儀なくされた)。また、同時に紫禁城時代からの教育掛で総理内務府大臣でもあり、溥儀と日本陸軍との間を取り持った鄭孝胥が国務院総理に就任した。 なお、同日に新京市内で行われた皇帝即...
  • @wiki全体から「陛下」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。