chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「首相」で検索した結果

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  • 憲政の常道
    ...総辞職が条件のため、首相の体調不良や死亡による総辞職の場合、与党の新党首に組閣の大命が下される。 五・一五事件で犬養毅首相が暗殺された後、軍部の意向を酌んだ妥協の結果として、斎藤実に組閣の大命がくだされ、海軍軍人を首班とする内閣の発足により、憲政の常道は崩壊した。 明治憲法下の政党内閣の推移 明治憲法下の政党内閣の推移 内閣政権政党総辞職理由 加藤高明内閣憲政会首相の病死 第1次若槻内閣憲政会昭和金融恐慌の処理問題 田中義一内閣立憲政友会張作霖爆殺事件の処理問題 濱口内閣立憲民政党首相の体調不良 第2次若槻内閣立憲民政党満州事変の処理問題 犬養内閣立憲政友会首相暗殺 政党内閣なし 幣原内閣日本進歩党・日本自由党総選挙後に衆議院第二党に転落 第1次吉田内閣日本自由党・日本進歩党総選挙後に衆議院第二党に転落 日本国憲法下での憲政の常道 ...
  • 大韓帝国
    ...= 純宗隆熙帝 |首相等肩書 = 首相(en) |首相等年代始1 = 1905年 |首相等年代終1 = 1905年 |首相等氏名1 = Template lang? |首相等年代始2 = 1905年 |首相等年代終2 = 1907年 |首相等氏名2 = 朴斉純 |首相等年代始3 = 1907年 |首相等年代終3 = 1909年 |首相等氏名3 = 李完用 |首相等年代始4 = 1909年 |首相等年代終4 = 1910年 |首相等氏名4 = 朴斉純 |首相等年代始5 = 1910年 |首相等年代終5 = 1910年 |首相等氏名5 = 李完用 |面積測定時期1 = |面積値1 = |人口測定時期1 = |人口値1 = |変遷1 = 朝鮮国より改称 |変遷年月日1 = 1897年10月12日 |変遷2 = 第二次日韓協約調印 |変...
  • 汪兆銘政権
    ...府の一つ。行政院長(首相)は汪兆銘。なお、首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府とも呼称された。 {{基礎情報 過去の国 |略名 =中華民国 |日本語国名 =中華民国南京国民政府 |公式国名 =Template Lang? |建国時期 =1940年 |亡国時期 =1945年 |先代1 =中華民国 |先旗1 =Flag of the Republic of China.svg |次代1 =中華民国 |次旗1 =Flag of the Republic of China.svg |国旗画像 =Wang flag.png |国旗コメント= 青天白日滿地紅旗 |国章画像 =Republic of China National Emblem.svg |標語 =和平・反共・建国 |国歌名 =三民主義 |位置画像 = |公用語 =國語 (中国語)...
  • 重臣会議
    ...五・一五事件後の後継首相奏薦にあたっても元老は首相経験者から意見を聴取しているが、正式な手続きとして定められたものではなかった)。 しかし、二・二六事件による岡田内閣総辞職の際には重臣会議は開催されず、阿部内閣成立時までその形式が続いている。米内内閣成立の際は内大臣が一部の重臣から意見を聴取しており、米内内閣総辞職の後に再び重臣会議が開かれるようになった。 1940年11月の西園寺の死後は内大臣が重臣会議を招集して、重臣達に対して後継総理大臣の選定などを諮問する形式へと変更されることになった。1945年4月の鈴木貫太郎内閣成立時までこの形式が継続した。同年8月15日の鈴木内閣総辞職時には緊急時のこととて重臣会議は招集されず、アメリカ軍の進駐によって重臣会議の権限は消滅したとされる。 次期首相奏薦に伴う重臣会議の出席者 1934年7月 斎藤実・清浦奎吾・若槻礼次郎・高橋是清...
  • 日本の戦争謝罪発言一覧
    ...24日 - 鈴木善幸首相。「過去の戦争を通じ、重大な損害を与えた責任を深く痛感している」 「『侵略』という批判もあることは認識する必要がある」 Template cite book? 1982年8月26日 - 宮澤喜一内閣官房長官。 「一、 日本政府及び日本国民は、過去において、我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んできた。我が国は、韓国については、昭和四十年の日韓共同コミュニケの中において『過去の関係は遺憾であって深く反省している』との認識を、中国については日中共同声明において『過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省する』との認識を述べたが、これも前述の我が国の反省と決意を確認したも...
  • 食い逃げ解散
    ...て退陣を要求した。林首相は、退陣要求に対して強気の姿勢を崩さず、5月15日の地方長官会議(知事会議に相当)の席上、政権維持を言明し、再度の衆議院解散をちらつかせた。政党側も一層態度を硬化させ、倒閣運動は激化する。与党・昭和会の望月圭介は林首相に対し善処を要求し、林も窮した。5月31日、林内閣は総辞職した。 理由ナキ解散 解散直後、衆議院副議長の経験がある小泉又次郎は「責任を政党に転嫁しようとしている」として「理由ナキ解散」として7分間にわたり首相を批判した。この68年後の2005年、小泉又二郎の孫である小泉純一郎が郵政民営化を理由に解散しようとした時(郵政解散)、小泉純一郎の祖父である小泉又次郎の演説が取り上げられた。 関連項目 衆議院解散 第20回衆議院議員総選挙 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月29日 (水...
  • 翼賛議員同盟
    ...1941年に近衛文麿首相が大政翼賛会を政事結社ではなく公事結社であるとして、一切の政治活動を禁じたられたために衆議院倶楽部は解散を余儀なくされ、全ての衆議院議員が無所属議員となってしまったために、衆議院は大混乱に陥った。 一方、近衛側近の前司法大臣風見章は元鉄道大臣前田米蔵と図って、貴族院議員である近衛首相を長とする貴族院・衆議院合同の会派結成を模索する。ところが、長年政党を嫌悪してきた貴族院の華族議員がこれに反発したために失敗に終わった。このため、前田は自主的な形で院内会派を結成することとして、1941年9月2日に衆議院議員326名で翼賛議員同盟を結成し、前田米蔵・永井柳太郎・大麻唯男ら7名を総務に選出した。だが、この動きに反対する鳩山一郎・芦田均・片山哲・尾崎行雄らは同交会、西尾末広・松本治一郎・水谷長三郎・江藤源九郎らは興亜議員同盟を結成してこれに対抗した。 1942年の第...
  • 東條内閣
    ...(前列中央が東條英機首相)。1941年(昭和16年)10月18日、総理大臣官邸にて。}} 概要 前の内閣総理大臣である近衛文麿は、高邁な理想を持って組閣を行っては、軍部の横槍などで嫌気が差し、すぐに内閣を投げ出す気質であったが、前の第3次近衛内閣に至っては、組閣からわずか3ヶ月で瓦解した。近衛も東條も、時局収拾のためという名目で皇族内閣の成立を望み、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を次期首相候補として挙げた。稔彦王は現役の軍人であり、軍部への言い訳も立つという考えもあってのことである。しかし、木戸幸一内大臣が「皇族の指導によって政治・軍事指導が行われたとして、万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として反対したため、あらためて重臣会議に諮られた。結局、「強硬論を主張する東條こそ、逆説的に軍部を抑えられる」という木戸の意見が通り、東條が組閣することになった。なお...
  • 三月事件
    ...友会、民政党の本部や首相官邸を爆撃する。混乱に乗じ、陸軍を出動させて戒厳令を布き、議場に突入して濱口内閣の総辞職を要求。替わって宇垣一成陸相を首班とする軍事政権を樹立させるという運びであったが、直前の3月17日に撤回された。 この計画は決して綿密とはいえないものであった。1万人の大衆動員計画は実現性を欠いたものであり、また橋本、大川らの証言によると、計画の最終段階に至って宇垣がクーデターに反対(非合法的手段によらずに首相に就任する見通しが立ったためとの説がある)、小磯や徳川も計画を中止するよう動いたという。宇垣自身は事件への関与を全面否定しているが、彼が計画にどの程度関わったのかは今もって不明である。 その後 本件は、本来ならば軍紀に照らして厳正な処分がなされるべき事件である。にもかかわらず、計画に関与した者の中に陸軍首脳部も含まれていたことから、事件を知った陸軍は、首謀者...
  • 東久邇宮稔彦王
    ...閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がる。皇族を首相にして内外の危機を押さえようとする構想であったが、皇室に累を及ぼさぬようにということでこの構想は潰れた。戦局が不利になると和平を唱え、東條英機に反対する立場に回った。 留学の経験から欧米と日本の技術力差を感じた東久邇宮は、遅れをとっていたアジアの技術力の向上を目指して興亜工業大学(1942年(昭和17年)設置、のち千葉工業大学)等の教育機関の創設に携わった。特に同大学の航空工学科(戦後GHQにより閉科される)・機械工学科の設置に心血を注いだとされる。 戦後 1945年(昭和20年)8月17日、戦後最初の首相となり東久邇宮内閣を組閣。現役の陸軍大将として陸軍大臣を兼務した。降伏文書の調印、武装解除・軍部解体、民主化など、敗戦処理全般を主たる任務としてこなしたが、一方で旧来の政治体制の大規模な変革までは考えていなかった。 これに...
  • 高橋内閣
    ...tml|大蔵大臣}}首相を除く、すべての大臣を前の原内閣から引き継ぎ、再任した。 閣僚 内閣総理大臣 高橋是清 外務大臣 内田康哉 内務大臣 床次竹二郎 大蔵大臣 高橋是清(兼任) 陸軍大臣 山梨半造 海軍大臣 加藤友三郎 司法大臣 大木遠吉 文部大臣 中橋徳五郎 農商務大臣 山本達雄 逓信大臣 野田卯太郎 鉄道大臣 元田肇 内閣書記官長 三土忠造(1921年(大正10年)11月24日 - 1922年(大正11年)6月21日) 法制局長官  横田千之助(1921年(大正10年)11月24日 - 1922年(大正11年)3月28日) 馬場鍈一(1922年(大正11年)3月28日 - 同年6月21日) 外部リンク 首相官邸 - 高橋内閣 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (...
  • 中華民国維新政府
    ...名1 =梁鴻志 |首相等肩書 = |首相等年代始1 = |首相等年代終1 = |面積測定時期1 = |面積値1 = |人口測定時期1 = |人口値1 = |変遷1 =成立 |変遷年月日1 =1938年3月28日 |変遷2 =南京国民政府に合流 |変遷年月日2 =1940年3月30日 |通貨 = |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |注記 = }} 中華民国維新政府(ちゅうかみんこくいしんせいふ)は、1938年3月28日に南京で成立し、江蘇省、浙江省、安徽省の三省と、南京及び上海の両直轄市を統括していた政権。北洋軍閥系の要人であった梁鴻志が行政院院長として政権のトップにあった。日本が日中戦争時に樹立した傀儡政権である。 国旗には、中華民国の旧国旗で...
  • 濱口雄幸
    ...つも大衆に親しまれた首相が濱口雄幸である。濱口が政治家として過ごした大正から昭和初期は、まさに激動の時代だった。この激動を乗り切って首相に上り詰めたのは、濱口の実直さや正義感、頑固さを高く評価して彼を押し上げていった周囲の政治家・財界人たちの期待の結果である。 濱口は大蔵省入省後、1度上司と衝突、しばらく地方回りをしてかなり苦労した。見るに見かねて若槻禮次郎ら先輩や友人が、東京帰京の嘆願を行って呼び戻したというエピソードもある。その後、濱口の有能さを見込んで後藤新平が財界入りを口説き、さらに政治家となってからは加藤高明が自身の腹心として重用した。やがて蔵相を歴任するなどした濱口は、憲政会の幹部として影響力を増していった。中でも、後に国際協調と呼ばれる軍縮に賛同する姿勢が終始一貫していたのは注目される。第一次世界大戦中より帝国海軍拡張は当然の空気もあり、軍部、とりわけ海軍...
  • ウィンストン・チャーチル
    ...名 = 首相 | 就任日 = 1940年5月10日 | 退任日 = 1945年7月27日 | 元首 = | 国名2 = Template GBR? | 代数2 = 第63 | 職名2 = 首相 | 就任日2 = 1951年10月26日 | 退任日2 = 1955年4月7日 | 元首2 = | 出生日 = 1874年11月30日 | 生地 = オクソン、ウッドストック | 死亡日 = Template 死亡年月日と没年齢? | 没地 = | 配偶者 = | 政党 = 保守党、自由党 | サイン = Winston Spencer Churchill s signature.jpg }} ...
  • 小磯内閣
    ...海相、その左隣が小磯首相。}}1945年(昭和20年)4月5日に内閣総辞職し、次の鈴木貫太郎内閣成立までの間、職務を執行した。 概要 前の東條内閣は、政策・軍事指導の両面に行き詰まっていたため、重臣たちが倒閣に動き、渋る東條英機首相を説得してようやく降ろすことに成功した。しかし、その後任として適当な人物はなかなか見出せず、結局、朝鮮総督の小磯國昭が大命降下を受け、小磯内閣が組閣された。昭和天皇は、久しく中央政官界から離れており、国内にさしたる政治基盤を持たない小磯の指導力不足を懸念し、新内閣は小磯と米内光政元首相の連立内閣という形式を取らせることにした。このため、米内は現役に復帰し、副首相格の海軍大臣に就任した。 小磯本人は、大命降下当時、予備役陸軍大将であったため、現役に復帰した上で、陸軍大臣を兼任し、強力なイニシアティブを取って、軍部を抑えようと目論んだ。しかし、前の首相とと...
  • 岡田啓介
    ...張を通した。 首相就任 1934年(昭和9年)、元老西園寺公望の推奏により組閣の大命降下、内閣総理大臣となる。一時、拓務大臣、逓信大臣も兼務した。斎藤実の後継として中間内閣を組織するが、立憲政友会は高橋是清ら入閣者を除名し、対決姿勢に回ったため、立憲民政党が与党格となる。在任中に天皇機関説をめぐる問題が起こり、岡田内閣倒閣を狙う陸軍の皇道派や、蓑田胸喜など平沼騏一郎周辺の国家主義勢力からも攻撃された。 岡田は最初と2度目の夫人に先立たれ、このときは独身だった。妹の夫松尾伝蔵大佐と2人で首相官邸に住み込んだ。官邸では自分たちの食事も女中の食事も弁当でまかない、炊事は一切やらなかった。この当時、首相の月給は830円であった。岡田はそのうちの約半分、430円で一切の生活費をまかない、残りは首相の小遣いとなったという。 岡田は帝国海軍時代、艦隊勤務では最も厳しいといわれる水雷艇乗...
  • 加藤友三郎内閣
    ...では高橋是清総裁(前首相)・岡崎邦輔・山本悌二郎の両総務・横田千之助幹事長が会談を開き、加藤辞退の場合には候補者不足のために憲政会の加藤高明が推挙されることが予想されたことから、加藤友三郎に対しては「党員入閣でも好意的局外中立でも無条件をもって内閣組織を援助する」意向を伝え、一方元老会議で発言力のある松方正義に対しては床次竹次郎を派遣して加藤高明への大命降下反対の意向を申し出た。このために漸く加藤も組閣を決断した。 海軍大臣を兼務した加藤の主導で軍縮が行われ、ワシントン海軍軍縮条約に従って主力艦14隻を廃止、一部を航空母艦に改造した。このため、陸軍も軍縮に踏み切らざるを得なくなりTemplate 要出典範囲?、5個師団の削減(「山梨軍縮」)とシベリア出兵の中止を決めた。ただし、浮いた予算は装備の近代化と国債償還などに充てられた。また、水野錬太郎内務大臣を委員長とする「衆議院選挙法委...
  • 第2次近衛内閣
    ...|公爵貴族院議員・元首相|画像= |画像説明=第2次近衛内閣の閣僚。近衛文麿首相と国務大臣ら。}} 概要 第2次近衛内閣は、米内内閣のあとを受けて、新体制運動の主導者であった元首相・貴族院議員の近衛文麿が組閣した内閣である。組閣直後の1940年(昭和15年)7月26日、「大東亜新秩序建設」(大東亜共栄圏)を国是とし、国防国家の完成を目指すことなどを決めた「基本国策要綱」を閣議決定する。同年9月27日には日独伊三国軍事同盟を締結し、同年10月12日に新体制運動の指導的組織となる大政翼賛会を結成。翌1941年(昭和16年)4月13日には日ソ中立条約を締結した。同年7月18日に、改組のため内閣総辞職。 閣僚 総理大臣 公爵近衛文麿(貴族院所属 火曜会) 1940年(昭和15年)7月22日 - 1941年(昭和16年)7月18日 外務大臣 松岡洋右(官僚 外務省→政友会...
  • 大政翼賛会
    ...閣倒閣に参加して近衛首相再登板を公言したために合同構想は失敗に終わり、民政党・政友会両派(正統派・革新派)ともに一気に解党へと向かうことになった。 近衛も第3次近衛内閣成立後にこの期待に応えるべく新体制の担い手となる一国一党組織の構想に着手、その結果として大政翼賛会が発足して国民動員体制の中核組織となる。総裁は内閣総理大臣。中央本部事務局の下に下部組織として道府県支部、大都市支部、市区町村支部、町内会、部落会などが設置される。 1940年、既に結社を禁止されていた勤労国民党や右翼政党の東方会を除く全ての政党が自発的に解散し、大政翼賛会に合流していた。もっとも、議院内の会派は旧来のまま存続し、また、大政翼賛会自体は公事結社であるため政治活動は行えず、関連団体である翼賛議員同盟などが政治活動を行った。これは、「バスに乗り遅れるな」という言い回しで知られるが、解散した各政党や内務省等も...
  • 第2次伊藤内閣
    ... 和暦?8月31日に首相を辞任し、同年9月18日に松方正義が組閣するまで、黒田清隆・枢密院議長が内閣総理大臣を臨時兼務した。 概要 前首相の松方正義が自らの閣僚にも見放されて内閣を放り出すという事態は、Template 和暦?8月2日に大命を受けた伊藤にも今後の政権運営に不安を抱かせた。そこで伊藤は主だった元勲の入閣を条件に組閣を行うことを表明、黒田清隆・山縣有朋の両首相経験者の入閣を得て組閣を終えた。このため、「元勲内閣」と称された。なお、同年11月27日に伊藤が乗っていた人力車が馬車と衝突して大破し、転落した伊藤が重傷を負ったために井上馨内務大臣が臨時首相代理を翌年2月7日まで務めるという交通事故が起きている。 民党との「政費節減」・「海軍予算」を巡る攻防では、明治天皇よりの「和衷協同」詔勅と内廷費300万円と官吏の俸禄1割削減を条件に妥協を成立させて予算案を通過させ、続い...
  • 第2次桂内閣
    ...命降下を受けた桂が、首相と大蔵大臣を兼務して発足する。戊申詔書による風紀引き締めと同時に社会主義運動を弾圧、大逆事件(幸徳事件)の摘発や南北朝正閏問題への介入、出版物の取締強化を行った。また、徹底した緊縮財政とともに地方改良運動を起こして地方の立て直しを図った。外交面では韓国併合を実現し、関税自主権の回復による条約改正の終了などが日本の国際的地位向上に尽くした。大逆事件に対する責任追及が上がると、立憲政友会との「情意投合」を宣言して、秘かに西園寺公望への再度の政権譲渡を約束した。 条約改正の終了を機に西園寺への政権譲渡を決断し、内閣総辞職した。 国務大臣 内閣総理大臣 桂太郎(公爵・陸軍大将) 外務大臣 寺内正毅(臨時兼任)(伯爵・陸軍大将) 1908年(明治41年)8月27日 - 1911年(明治44年)8月30日 小村壽太郎(侯爵) 内務大臣 平田東助(子爵) ...
  • 共和演説事件
    ...ら一蓮托生と大隈重信首相に食いさがるが、同年10月24日明治天皇の信任も失い辞任を余儀なくされた。 その後任をめぐって旧進歩党・旧自由党両派の対立は深刻化し、妥協点を見出せないまま、大隈首相は独断で進歩派から犬養毅を後任に推した。これに対し3日後10月27日の就任式当日、内務大臣板垣退助が反対意見を上奏、翌日板垣ら旧自由党派三大臣が辞任、さらに与党憲政党も分裂し、隈板内閣は10月31日に崩壊した。まもなく憲政党は旧自由党派を中心とする憲政党と旧進歩党派を中心とする憲政本党に分裂した。 関連項目 天皇制廃止論 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月16日 (木) 03 49。     
  • 桂園時代
    ...携体制を組んで交互に首相に就任した(この間にも松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たずにいずれも断念に追い込まれている)。特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものである。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけである。 なお、「桂園」は和歌の流派名(桂園派。江戸時代後期の歌人、香川景樹が創始した。香川の号が桂園)とも係っている。桂園派は、当時流行しつつあった冒険的な近代短歌に対して、当たり障りのない『古今和歌集』などの伝統を重んじる保守的な流派である。その当たり障りのなさと、桂・西園寺間の馴れ合いをかけて、これを桂園時代と呼んだもの。 関連項目 第1次桂内閣 第1次西園寺内閣 第2次桂内閣 第2次西...
  • 若槻禮次郎
    ...20日) 加藤高明首相が在職中死去したため、憲政会総裁として内相を兼任し組閣。彼の内閣の時期には左派政党で一種、社会主義的な「無産政党」が数多く結成された。 12月25日に大正天皇が崩御し、その日のうちに昭和と改元された。そのため昭和元年は7日しかない。明けて昭和2年1月、少数与党で臨んだ第52議会冒頭で、おりからの「朴烈事件」と「松島遊郭事件」にかんして野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出した。若槻は政友会の田中義一総裁と政友本党の床次竹二郎総裁を待合に招いて、「新帝践祚のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこの妥協を承諾、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」という語句を含んだ文書にして三人で署名した。「深甚なる考慮」は内閣退陣を暗示し、...
  • 鈴木貫太郎内閣
    ...ム宣言に対して、鈴木首相は、同月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する。」とコメントする。一方で内閣は、戦争の早期終結を図り、日ソ中立条約によって中立国となっていたソビエト連邦を通じた和平工作を模索していた。 しかし、翌8月6日に広島、同月9日には長崎に原子爆弾が投下されて壊滅的な被害を受け、同じ9日にはソ連軍が満州国に侵攻する(ソ連対日参戦)など、和平工作の失敗が明白となった。この8月9日深更から開かれた最高戦争指導会議および閣議の御前会議は、ポツダム宣言を受諾して降伏するか、あくまでも本土決戦を期して戦争を遂行するかで議論は紛糾した。鈴木首相は昭和天皇の聖断を仰ぎ、「国体護持」を条件として、ポツダム宣言受諾に意見統一した。翌8月10日、内閣は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持...
  • 内閣総理大臣
    ...または総理と略され、首相とも通称される。 歴史 明治維新以降、日本の政治は五箇条の御誓文に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針を実現するために設けられた太政官制度によって行われてきた。しかし奈良時代から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を輔弼するのは太政大臣・左大臣・右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔弼責任がない、また太政大臣が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。 1880年 (明治13年) ごろから参議伊藤博文はこの太政官制の改革を試みはじめたが、これに対して保守派の右大臣岩倉具視が反発した。当時の伊藤には岩倉に対抗するだけの政治力が無かった(明治14年の政変による大隈重信追放が岩倉が宮中を動かして進められたために、伊藤も岩倉と...
  • 大日本政治会
    ...年に入ると、小磯国昭首相の意向を受けて本土決戦に備えた大政翼賛会・翼賛政治会の改組を準備していた小林躋造総裁(小磯内閣国務大臣)に対する反発が表面化する。これに対して小林総裁は新党結成を公式に表明して事態の収拾を図るが、脱退者が相次いだ。このため、小林に代わる総裁を立てて出直しを図ることとなった。 1945年3月30日翼賛政治会は解散され、南次郎南は当時枢密顧問官(総裁就任時に辞任)。陸軍大臣・関東軍司令官・朝鮮総督を務め、当時総辞職が時間の問題と見られていた小磯首相の後継候補としても名前が挙がっていた事から、金光庸夫が陸軍と協調出来てかつ首相候補にもなり得る人物として推挙したとされている。を総裁とする大日本政治会が結成された。幹事長には反主流派の岸信介を予定していたが、松岡洋右の総裁擁立を希望していた岸はこれを拒否して護国同志会(後述)に参加してしまう。このため、幹事長には松村謙...
  • 第4次伊藤内閣
    ...党が結成されると、前首相山縣有朋が結党直後の同党を揺さぶるために総裁に就任した伊藤に強引に政権を押し付ける形で成立した。外務大臣と軍部大臣以外は全員が政友会に入党していた。だが、山縣は陸軍と貴族院を利用して政友会攻撃を行い、明治天皇の詔書によって漸く事態を収拾した。加えて政友会の実力者であった逓信大臣星亨が汚職で辞職に追い込まれると、未だに融和が進んでいなかった伊藤系官僚と旧憲政党系の意見対立が露呈する。一方、政友会内部では鉄道の新規着工を要求する予算を求める声が上がり、それを新しい逓信大臣であった原敬が必死に押止めていたが、そんな折に渡辺国武大蔵大臣が「公債に依存した事業の全停止」提案した。当時、鉄道敷設法によって鉄道建設は鉄道公債の発行によって全て賄うこととされており、この提案は新規どころか既存の鉄道工事も全て停止すると言っているのにも等しかった。これに激怒した原や他の閣僚達の抗...
  • 五・一五事件
    ...海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退したといわれる。 犯行背景 当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。 しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたが...
  • 原内閣
    ...月4日) 内田康哉首相死去により、内田康哉外務大臣が臨時兼任。(1921年(大正10年)11月4日 - 同年11月13日) 外務大臣 内田康哉 内務大臣 床次竹二郎 大蔵大臣 高橋是清 陸軍大臣  田中義一(1918年(大正7年)9月20日 - 1921年(大正10年)6月9日) 山梨半造(1921年(大正10年)6月9日 - 同年11月13日) 海軍大臣 加藤友三郎 司法大臣 原敬(兼任)(1918年(大正7年)9月20日 - 1920年(大正9年)5月15日) 大木遠吉(1920年(大正9年)5月15日 - 1921年(大正10年)11月13日) 文部大臣 中橋徳五郎 農商務大臣 山本達雄 逓信大臣 野田卯太郎 鉄道大臣 元田肇(1920年(大正9年)5月15日鉄道省設置) 内閣書記官長 高橋光威 法制局長官 横田千之助 参政官 ...
  • 内大臣府
    ... 公爵・陸軍大将、元首相 伏見宮貞愛親王(1912年12月21日 - 1915年1月13日)  元帥・陸軍大将、皇族 大山巌(1915年4月23日 - 1916年12月10日)  公爵・元帥・陸軍大将、元老 松方正義(1917年5月2日 - 1922年9月18日)  公爵、元老・元首相 平田東助(1922年9月18日 - 1925年3月30日)  伯爵 浜尾新(1925年3月30日、枢密院議長臨時代理)  子爵 牧野伸顕(1925年3月30日 - 1935年2月26日)  伯爵 斎藤実(1935年12月26日 - 1936年2月26日)  子爵・海軍大将、元首相 一木喜徳郎(1936年3月6日、枢密院議長臨時代理)  男爵 湯浅倉平(1936年3月6日 - 1940年6月...
  • 幣原喜重郎
    ...口内閣時代には、濱口首相の銃撃による負傷によって、首相臨時代理を務めたことがある。その際の首相臨時代理在任期間116日は最長記録である。 第2次若槻内閣の総辞職以降は表舞台から遠ざかっていたが、南部仏印進駐の頃に近衛文麿に今後の見通しを訊かれ、「南部仏印に向かっている陸軍の船団をなんとか呼び戻せませんか?それが出来ずに進駐が実現すれば、絶対アメリカとの戦争は避けられません」と直言した逸話が残っている。 戦後 第二次世界大戦が終結し、吉田茂の後押しもあったといわれるが、戦後に内閣総理大臣に就任。当時引退済みで、本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたが、昭和天皇じきじきの説得などもあり政界に返り咲いた。世間で幣原の存在は忘れ去られていたため、「まだ生きていたのか」「とんでもなく古い奴が出てきた」などと言われたが、親英米派としての独自のパイプで活躍、戦後憲法...
  • 東條英機-2
    ...等、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行ったとされ、宰相としての評価は一般に低い(東條の政治手法に反対していた人々は、「東條幕府」と呼んで非難した) ref name= kanji 『秘録・石原莞爾』。 官僚としてはかなり有能であったという評価はあるが、東條と犬猿の仲で後に予備役に左遷させられた石原莞爾は、関東軍在勤当時上官であった彼を「東條一等兵」と呼んで憚らず、嘲笑することしばしばであったという。また戦後東京裁判の検事団から取調べを受けた際「関東軍時代、あなたと東條には意見の対立があったようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見がある。しかし、東條には意見が無い。意見の無い者と対立のしようがないではないか」と答えた。しかし、東條・石原共に、プライドが高く、衝突はかなりあったという(『秘録・石原莞爾』 ...
  • 第2次山本内閣
    ...月24日の加藤友三郎首相の急逝、同年9月1日の関東大震災発生という混乱状態のさなかで組閣された。Template 和暦?12月27日に発生した虎ノ門事件の影響で総辞職した。 大臣と次官に錦城学校(現・錦城高等学校)の出身者が5名(伊集院彦吉外相、井上準之助蔵相、山之内一次鉄道相、小松謙次郎逓信次官、財部彪海相)いたため、錦城内閣とも称された同校公式サイトの学校紹介のページより。ただし、小松謙次郎が「逓信大臣」と誤記されている。。 閣僚 内閣総理大臣 山本権兵衛 外務大臣 山本権兵衛(兼任)(1923年(大正12年)9月2日 - 同年9月12日) 伊集院彦吉(1923年(大正12年)9月12日 - 1924年(大正13年)1月7日) 内務大臣 後藤新平 大蔵大臣 井上準之助 陸軍大臣 田中義一 海軍大臣 財部彪 司法大臣 田健治郎(1923年(大正12年)...
  • 第1次近衛内閣
    ...200px|近衛文麿首相。後方左は[[米内光政海相。]] 総理大臣 公爵近衛文麿(貴族院所属 火曜会) 1937年(昭和12年)6月4日 - 1939年(昭和14年)1月5日 外務大臣 広田弘毅(貴族院所属) 1937年(昭和12年)6月4日 - 1938年(昭和13年)5月26日 宇垣一成(予備役陸軍大将) 1938年(昭和13年)5月26日 - 1938年(昭和13年)9月30日 公爵近衛文麿(首相兼任・貴族院所属 火曜会) 1938年(昭和13年)9月30日 - 1938年(昭和13年)10月29日 有田八郎 1938年(昭和13年)10月29日 - 1939年(昭和14年)1月5日 内務大臣 馬場鍈一(貴族院所属 昭和研究会) 1937年(昭和12年)6月4日 - 同年12月14日 末次信正(予備役海軍大将) 1937年(昭和12年)12月4日...
  • 冀東防共自治政府
    ...名1 =殷汝耕 |首相等肩書 = |首相等年代始1 = |首相等年代終1 = |首相等氏名1 = |面積測定時期1 =1937年 |面積値1 =8,200 |人口測定時期1 =1937年 |人口値1 =6,000,000 |変遷1 =成立 |変遷年月日1 =1935年11月25日 |変遷2 =通州事件 |変遷年月日2 =1937年7月29日 |変遷3 =中華民国臨時政府に合流 |変遷年月日3 =1938年2月1日 |通貨 = |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |注記 = }} 冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は、1935年から1938年まで中国河北省にあった殷汝耕を首班とする政権。冀東政府と表記されることもある。国...
  • 桂太郎
    ...つとめた。1901年首相に就任。以後西園寺公望と交代で総理大臣を務め、「桂園時代」と呼ばれた。総理大臣在職日数2886日は歴代1位。尚、彼は連続して在職してはおらず、連続在職の記録は佐藤栄作に譲る形となっている。 1900年9月15日には拓殖大学の前身である台湾協会学校を創立している。また、現在の獨協大学の前身である獨逸学協会学校の校長を1887年4月から1890年7月までつとめた。 ニコポン宰相 Template Infobox 軍人? 桂太郎は「ニコポン宰相」と呼ばれた。命名者は「東京日日新聞」記者の小野賢一郎で、桂がニコニコ笑って肩をポンと叩き、政治家や財界人を手懐けるのに巧みだったため新聞にそう書いたと言われている。このやり方からすると、桂は下積み時代から苦労して成功したかのように思われがちだが、実は恵まれた上士の出身である。長州藩で伊藤博文や山縣有朋は最下級の中...
  • 竹槍事件
    ...)に発生した東條英機首相による言論弾圧事件。事件対応をめぐり陸軍と海軍が対立する一幕もあった。陸軍悪玉論の根拠として出される。 概要 日米開戦時の首相であった東條英機は、戦争遂行のために「東條幕府」と揶揄されるほどの独裁的政治を行ったことで様々な問題や軋轢を生んでいた。また、軍務や政務に私情を持ち込む傾向があり、反対意見に耳を塞いだのみならず、個人的に嫌いな人物や敵対者を懲罰召集して激戦地に送る仕打ちをした。 東條が出した『非常時宣言』の中の「本土決戦」によると、「一億玉砕」の覚悟を国民に訴え、銃後の婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を実施した。そうした中、1944年2月23日付の毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ」と新名丈夫記者(当時37歳)が執筆した記事が掲載された。 新名の記事は「海空軍力を速やかに増強し洋上で戦え」という趣旨で、陸軍の...
  • 十月事件
    ...かし、要所を襲撃し、首相以下を暗殺するというもので、決行の日を10月24日早暁 ref name= oouchi1967 大内力『日本の歴史 -ファシズムへの道-』。と定め、関東軍により日本からの分離独立する旨の電報を政府にうち、それをきっかけにクーデターに突入するというものであった。 具体的には桜会の構成員など将校120名、近衛歩兵10個中隊、海軍爆撃機13機、陸軍偵察機、抜刀隊10名を出動させ、首相官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部を襲撃、若槻禮次郎首相以下閣僚を斬殺および捕縛。その後閑院宮載仁親王や東郷平八郎・西園寺公望らに急使を派遣し、組閣の大命降下を上奏させ、荒木貞夫陸軍中将を首相に、さらに大川周明を蔵相に、橋本欣五郎中佐を内相に、建川美次少将を外相に、北一輝を法相に、長勇少佐を警視総監に、小林省三郎少将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する、という流れが計画の骨子と...
  • 宮城事件
    ...において、鈴木貫太郎首相はじめ米内光政海軍大臣及び東郷茂徳外務大臣が天皇の地位保証(国体護持)を条件として、阿南惟幾陸軍大臣及び梅津美治郎参謀総長はそれに加え幾つかの条件を付けた上での降伏に賛成した。 午前10時から断続的に開催された会議が終了した後、鈴木首相は天皇臨席の御前会議として再度最高指導者会議を招集した。10日午前0時から宮城内御文庫1945年5月25日の空襲によって宮殿が焼失した後に、天皇の住居は鉄筋コンクリート製の御文庫に移された。この付近の地下には地下壕も構築されており、終戦時の最高戦争指導会議および御前会議などはここで開催されている。地下の防空壕において開かれたこの御前会議の席上で、首相からの「聖断」要請を受けた昭和天皇は外務大臣の意見に賛成し、これによりポツダム宣言の受諾が決定された。連合軍への受諾決定通知は、午前7時から当時軽井沢に疎開していた中立国であるスイ...
  • 岡田内閣
    ...月8日 岡田啓介(首相兼任・退役海軍大将) 1935年(昭和10年)9月9日 - 同年9月12日 望月圭介(政友会除名→昭和会) 1935年(昭和10年)9月12日 - 1936年(昭和11年)3月9日 鉄道大臣 内田信也(政友会除名→昭和会) 1934年(昭和9年)7月8日 - 1936年(昭和11年)3月9日 拓務大臣 岡田啓介(首相兼任・退役海軍大将) 1935年(昭和10年)9月9日 - 同年10月25日 伯爵児玉秀雄(植民地行政官僚) 1935年(昭和10年)10月25日 - 1936年(昭和11年)3月9日 内閣書記官長 河田烈 1934年(昭和9年)7月8日 - 同年10月20日 吉田茂(官僚 内務省) 1934年(昭和9年)10月20日 - 1935年(昭和10年)5月11日 白根竹介(官僚 内務省) 1935年(昭和10年)5月11...
  • 小磯國昭
    ...e 享年?。 首相就任後の迷走 アメリカ軍が本土に迫り風雲急を告げるとき、後継首班の選出はあまりにも安易なものだった。東條英機を退陣させることで重臣の意見が一致し、東条内閣を倒閣した後の後任選びとして、南方軍司令官の寺内寿一と小磯の2人に絞られ、前線指揮官の寺内は動かせないということで、朝鮮総督だった小磯に落ち着いた。重臣達は東条内閣を倒すことのみに目が向いて後任として誰を擁立するかを考えていなかったとされる。 昭和天皇は『昭和天皇独白録』において、「小磯は三月事件(1931年/昭和6年 3月に発覚した、大日本帝国陸軍によるクーデター未遂事件)にも関係があったと云われてゐるし、又神がヽりの傾向もあり、且経済の事も知らない」と述懐している。首相になった時には、予備役にまわされてから7年も経っており、「日本はこんなに負けているのか」と発言するほど、非常に戦況には疎か...
  • 鹿鳴館
    ...で開催された。 首相官邸の仮装舞踏会 井上外交の中でも有名な1887年(明治20年)4月20日の仮装舞踏会(ファンシー・ボール)は鹿鳴館ではなく、首相官邸で行われたものである(一般には伊藤博文首相夫妻主催とされているが、実際にはイギリス公使夫妻主催で、伊藤首相の好意で会場として貸し出されたものとされている)。国粋主義者は、この仮装舞踏会が開催されるや「亡国のきざし」と口を極めて罵った。勝海舟は憂国の感を深め、21か条の時弊を挙げて政府に建白した。 その後 1890年(明治23年)、宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用。1894年(明治27年)6月20日の明治東京地震で被災し、修復後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。 旧鹿鳴館の建物は1927年(昭和2年)、徴兵生命保険(現・大和生命保険)に売却された後も保存されていたが、1940年(昭和15年)に取壊された。なお...
  • 阿部信行
    ...940年1月15日に首相職を辞任、内閣総辞職した。 その後、1942年4月30日に実施された翼賛選挙を前に結成された翼賛政治体制協議会の会長に就任。5月20日に結成された翼賛政治会でも引き続き会長を務めた。1944年より朝鮮総督。その年、息子の信弘がイギリス艦隊に対する特攻で戦死している。戦後、A級戦犯容疑で逮捕されるが、極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷直前になって突如起訴予定者のリストから外されたといわれており、同裁判を巡る謎の一つとされている。 処世の将軍 Template Infobox 軍人? 平沼内閣の突然の崩壊で、それまで首相選びの任に当たってきた元老・西園寺公望も「自分には意見がない」と言い出す有様であった。近衛文麿や広田弘毅の再登板説が出たり、宇垣一成陸軍大将、勝田主計元蔵相の名前が挙がったが、なかなかまとまらない。そんなとき、陸軍が阿部を推し、皆が飛びついた...
  • 軍部大臣現役武官制
    ...33年)に、山縣有朋首相の主導で、軍部大臣現役武官制を明確に規定した。これは、当時勢力を伸張していた政党に対して、軍部を権力の淵源としていた藩閥が、影響力を維持するために執った措置とされる。しかし、日露戦争後の国際状況の安定と政党政治の成熟により藩閥と軍部の影響力は衰え、1913年(大正2年)には軍部大臣の補任資格を「現役」に限る制度が改められた。再び軍部の影響力が強まった1936年(昭和11年)に軍部大臣現役武官制は復活し、1945年(昭和20年)の終戦後、軍部大臣が消滅するまで続いた。 一方、日本以外の国、特に西欧諸国においては、第二次世界大戦以前においても軍部大臣に文官を任用する例も多く、政治の軍事に対する優位を原則とするシビリアン・コントロールの理念が確立している。 沿革 前史 軍部大臣現役武官制は、1871年(明治4年)7月、兵部省職員令に「卿一人 本官少将以...
  • 東久邇宮内閣
    ...村瀬直養。}}皇族が首相となった内閣は史上唯一、在任期間は54日間で史上最短。最後の挙国一致内閣でもある。 1945年(昭和20年)10月5日に内閣総辞職し、次の幣原内閣が発足するまで、職務を執行した。 概要 東久邇宮内閣は、前の鈴木貫太郎内閣の総辞職を受けて、皇族かつ現役陸軍大将である東久邇宮稔彦王が組閣した内閣である。 前の鈴木内閣は、発足当初より終戦内閣として組閣されていたため、終戦の詔書を発して間もない1945年(昭和20年)8月17日に内閣総辞職した。後任人事については、敗戦処理という困難な仕事を遂行するため、強力な権威と実行力を必要とした。これまで何度か、国民及び軍人を強力に統制するため、皇族であり現役の軍人であった稔彦王の首相待望論が持ち出されてきたが、その都度、内大臣木戸幸一の反対により阻止されてきた(東條内閣を参照。)。しかし、こと終戦にいたって、軍の暴走(...
  • 韓日合邦を要求する声明書
    ...、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送った朝鮮と日本の対等合併を要望する声明書である。 この声明書の中で、「これまでの朝鮮の歴史の悲劇は自分達が招いたことであり、我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」 ref name= 警秘第4106号-1 統監府文書 8、警秘第4106号の1と、大韓帝国政府と大日本帝国政府が新たに一つの政治機関を設立し、大韓帝国と大日本帝国が対等合邦して一つの大帝国を作るように求めた。 南北朝鮮では当時一進会が民衆のみならず知識人からも強い批判を受けていたこと、それまで一進会が同じく親日派の李完用首相と共に日本の朝鮮侵出を援護してきたことなどから、この声明書に対して「国権防衛運動、義兵闘争、愛国啓蒙運動などに反するもの」であると非常に批判的である。 ただ日本を含めた諸外国の...
  • 広田弘毅
    ...門である。広田以前の首相は武士や富農の出がほとんどである)。これを後で聞いた広田は「陛下は自分に対して信任がないのではないか」ととても気にしていた。 西園寺は首相就任を引き受けさせるため近衛文麿と吉田茂(広田とは外交官の同期生)を説得役として派遣した。広田は拒み続けたがついには承諾し1936年(昭和11年)3月5日、天皇から組閣大命が下る。この際、天皇から新総理への注意として歴代総理に与えられた3ヵ条の注意(第一に憲法の規定を遵守して政治を行なうこと。第二に外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように。第三に財界に急激な変動を与えることのないように)の他に「第四に名門を崩すことのないように」という1ヵ条が特に付け加えられた。これにより広田は「自分は50年早く生まれ過ぎたような気がする」と語ったという。 組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでた。好ましからざる...
  • 宇垣一成
    ...とになった。近衛文麿首相は事変初期段階での収拾に失敗し(「爾後国民政府ヲ対手トセズ」)、戦火の拡大が懸念された。宇垣は近衛首相に請われて和平実現のために改造内閣(昭和13年(1938年)5月)に外務大臣として入閣、中国との戦争を短期に終結させるべく秘密裏に中国国民政府要人・孔祥煕(行政院長)との交渉を取り付けた。しかしこれも陸軍首脳らの画策により、対中外交を外務省から切り離す「興亜院」の設置が行われて(しかも近衛首相はそれに賛成した)交渉を阻止され、梯子を外された形となり大臣辞任の引き金となった。 人物評 200px|right|thumb|[[岡山県護国神社の宇垣の像]] 上記のように宇垣は優れた政治的手腕と極めて現実的な思考を持っており、当時の日本の置かれていた国際情勢を理解して無謀な戦争を行うことの愚かさを知っていた軍人の一人であった。しかし、陸軍の実力者であった彼を...
  • 最高戦争指導会議
    ...会議。 構成員 首相 外務大臣 陸軍大臣 海軍大臣 参謀総長 軍令部総長 開催記録 設立までの経緯 旧憲法下においては、政府と軍部が独立して天皇に仕える形となっていた。両者を調整する期間として大本営政府連絡会議が1937年に近衛文麿によって設立されたが、統帥権の独立を主張する軍部はこの会議において政府から統帥に口出しすることを拒否してきた。 戦局が悪化する中で両者の緊密な協力が必要となり、小磯内閣は大本営連絡会議を改称する形でこの会議を設立した。 関連項目 統帥権 軍部大臣現役武官制 御前会議 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月17日 (日) 21 15 。     
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