chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「高田事件」で検索した結果

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  • 自由民権運動
    ...田事件・名古屋事件・高田事件・秩父事件等がよく知られている。また大阪事件もこうした一連の事件の延長線上に位置づけられている。この間、自由党は解党し、同年末には改進党も大隈らが脱党し事実上分解した。秩父事件では軍隊が出動している。 大同団結運動以後 その後1886年星亨らによる大同団結運動で民権運動は再び盛り上がりを見せ、中江兆民や徳富蘇峰らの思想的な活躍も見られた。翌年にはさらに、井上馨による欧化主義を基本とした外交政策に対し、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した三大事件建白運動が起り民権運動は激しさを増した。これに対し政府が保安条例の制定や改進党大隈の外相入閣を行うことで運動は沈静化し、1889年の大日本帝国憲法制定を迎えた。翌1890年第1回総選挙が行われ、帝国議会が開かれた。以降、政府・政党の対立は議会に持ち込まれた。 しかしながら、大日本帝国憲法は国民の...
  • 秩父事件
    ...3年(明治16年)の高田事件といったいわゆる「激化事件」は、明治政府が急進的民権家の政府転覆論を口実にして、地域の民権家や民権運動に対する弾圧を行ったものとされる。彼ら急進派の政府転覆計画は結局は具現化をみるには至らなかったが、その後発生した1884年(明治17年)6月の群馬事件は、群馬県の下部自由党員が、妙義山麓に困窮に苦しむ農民を結集し、圧制打倒の兵をあげようとしたものであり、さらに同年9月に発生した加波山事件は、茨城県の加波山に爆裂弾で武装した16人の急進的な民権運動家が挙兵し、警官隊と衝突するというものであった。 とくに加波山事件は、「完全なる立憲政体を造出」するため「自由の公敵たる専制政府」を打倒すると公言した武装蜂起で、政府に大きな衝撃を与えた。規模はきわめて小規模で、当面の目標も栃木県庁落成式に出席する政府高官への襲撃程度のものであったが、自由党急進派は、前年の188...
  • ゴーストップ事件
    ゴーストップ事件(―じけん)は、1933年に大阪市の天六交叉点で起きた出来事、およびそれに端を発する日本陸軍と日本警察の大規模な抗争。満州事変後の大陸での戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて動き、国家の統制がきかなくなるきっかけの一つとなった。ゴーストップとは信号機を指す。別名は天六事件。 事件の経過 発端 1933年6月17日午前11時40分頃、大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点で、慰労休暇中の陸軍第4師団第8連隊第6中隊の中村政一一等兵が信号無視をしたとして、交通整理中であった曽根崎警察署の戸田忠夫(中西忠夫)巡査が注意し、天六派出所まで連行した。その際中村一等兵が「軍人は警官の命令には従わない」と反論したためつかみ合いの喧嘩になり、互いに負傷、中村一等兵は鼓膜損傷全治3週間、戸田巡査は全治一週間の怪我を負った。 この時騒ぎを見かねた見物人が大手前憲兵分隊へ通報し...
  • 自由党 (日本)
    ...年の福島事件、翌年の高田事件が勃発して弾圧が強化、更に過激な行動に奔るという悪循環となる。更に同じ民権派の立憲改進党との対立も党内の混乱に拍車をかけた。帰国した板垣はこの現状を見て党の先行きに不安を感じ、解党するか党再建のために10万円の政治資金を調達するかのいずれかの選択を提議した。だが、松方デフレによる有力な資金提供者であった豪農層の没落が相次ぎ資金集めに失敗、1885年3月に総理権限を強化して板垣の下に党員の結集を図るが執行部は地方の急進派を押さえきれず、9月の加波山事件によって解党論が高まり、10月29日に解党大会を開いた(なお、当時獄中にいた星亨が獄中から解党反対の電報を打って板垣からは「バカイフナ(馬鹿言うな)」と返電された)。なお、急進派による最大の事件(事実上の反乱)である秩父事件はその直後に発生している。 立憲自由党 (日本 1890-1898) {{政党 ...
  • 大逆事件
    大逆事件(たいぎゃくじけん) 1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。 特に一般には1910,1911年(明治42,43年)に社会主義者幸徳秋水らが天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す(幸徳事件ともいわれる)。 thumb|280px|right|大逆事件の犠牲者を顕彰する会による碑「志を継ぐ」([[和歌山県新宮市)]] 概要 政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理...
  • 横浜事件
    横浜事件(よこはまじけん)とは、第二次世界大戦中の1942-1945年におきた言論弾圧事件のことである。 1942年、雑誌『改造』に掲載された論文が問題になり、執筆者が治安維持法違反で検挙された。これを発端に編集者、新聞記者ら約60人が神奈川県警察特別高等警察課によって逮捕された。横浜地裁は敗戦から治安維持法廃止までの期間に約30人に有罪判決を下し、4人の獄死者を出した。 戦後、無実を訴える元被告人やその家族・支援者らが再審請求を繰り返し、2005年に再審が開始されることになったが、最終的に罪の有無を判断せず裁判を打ち切る免訴が確定した(後述)。なお、別の遺族が2002年3月に申し立てた第4次再審請求について、2008年10月31日、開始される事が決定した。 経緯 1942年、総合雑誌『改造』(8-9月号)に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が共産主義的でソ連を賛美...
  • 済南事件
    済南事件(さいなんじけん)は1928年(昭和3)5月3日、中国山東省の済南で、日本の権益確保と日本人居留民保護のため派遣された日本軍(第二次山東出兵)と北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。 事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。 衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は攻撃を開始、5月11日、済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。 当時の状況 当時、中国は南軍と北軍に別れて内戦状態にあり、治安は悪化していたが、済南は主要な商業都市であり、...
  • 通州事件
    通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺を指す。 事件の概要 通州とは、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)の中心都市である。当時ここには、日本の傀儡政権であった冀東防共自治政府が置かれていたが、1937年7月29日、約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民(当時、日本統治下だった朝鮮出身者を含む。)約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。 事件の原因は、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復であるとする説明が一...
  • 三月事件
    三月事件(さんがつじけん)とは、1931年(昭和6年)3月の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された、クーデター未遂事件である。 計画 1930年(昭和5年)に政治結社「桜会」を結成した橋本欣五郎中佐、長勇(ちょう いさむ)少佐、田中清少佐らは、「我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」との主張の下、軍部による国家改造を目指して国家転覆を画策した。これに小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長ら当時の陸軍上層部や社会民衆党の赤松克麿、亀井貫一郎、右翼の思想家大川周明や右翼活動家・清水行之助らも参画。また、活動資金として徳川義親が20万円を出資(戦後返還)した。 計画では、3月下旬に大川、亀井らが1万人の大衆を動員して議会を包囲。また政友会、民政党の本部や首相官邸を爆撃する。混乱に乗じ、陸軍を出動させて戒厳令を布き、議場に突入して濱口内閣の総辞職を要求...
  • 亀戸事件
    亀戸事件(かめいどじけん)とは、1923年9月3日、関東大震災直後の混乱の中で、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、同月4日~5日に習志野騎兵第13連隊によって刺殺された事件。また、同月4日に警察に反抗的な自警団員4名が軍により殺された事件を「第一次亀戸事件」と呼び、この事件の被害者に加えることもある。 この事件の事実は発生から1ヶ月以上経過した10月10日になってようやく警察により認められた。犠牲者の遺族や友人、自由法曹団、南葛飾労働会などが事件の真相を明らかにするため糾弾運動を行なったが、「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付されたのである。 震災時にはこの外、無政府主義者の大杉栄夫妻が殺害された甘粕事件が起こった。 また軍隊・憲兵隊によって人々の不安が...
  • 甘粕事件
    甘粕事件(あまかすじけん)は、関東大震災の直後の1923年9月16日、アナキストの大杉栄・伊藤野枝とその甥の計3名が憲兵隊に強制連行・殺害された事件。主犯は憲兵大尉・甘粕正彦らとされる。大杉事件ともいう。 事件発生 関東大震災後、東京や神奈川が混乱に陥り戒厳令が発せられていたさなか、大杉栄は内縁の妻伊藤野枝と、神奈川県橘樹郡鶴見町(現在の横浜市鶴見区)に住む大杉の妹あやめを見舞い、その息子の橘宗一(6歳)をつれて東京に戻る途中、行方不明になった。 彼らが憲兵隊に連れ去られたといううわさが広まり、9月20日、時事新報や読売新聞などにより大杉ら3人の殺害が報じられた。日本を騒がせるアナキストであり恋愛スキャンダル(日蔭茶屋事件)でも世間に有名になった大杉・伊藤の二人に加え、6歳の小児までも殺されたとあって世間は騒然となった。 軍と対立する警視庁は捜査を要求。また、殺された大杉の甥・橘宗...
  • 福島事件
    福島事件(ふくしまじけん)は、自由民権運動のなかで1882年(明治15年)、福島県の自由党員・農民が県令三島通庸の圧政に反抗した事件。喜多方事件ともいい、民権激化事件のひとつ。 三島通庸は、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道(会津三方道路)の工事をさせるために人夫、または人夫賃を出させるなど、農民に大きな負担をかけた。さらに、工事に従事しない者の財産を競売に出すなどした。 これがきっかけで、県会議長河野広中を中心に自由党員や農民が団結して反対運動を展開。11月には数千人の人々が喜多方警察署におしかけ、約2000人が逮捕され、河野広中が軽禁獄7年の刑を受けるなど6名が処罰された。 また、この事件に反抗した青年自由党員が加波山事件を起こすことになる。 関連項目 加波山事件 自由民権運動 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_20...
  • 滝川事件
    滝川事件(たきがわじけん)は、1933(昭和8)年に京都帝国大学で発生した思想弾圧事件。京大事件とも呼ばれる。 経緯 事件の発端 事件は、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が、1932年10月中央大学法学部で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容(トルストイの思想について「犯罪は国家の組織が悪いから出る」などと説明)が無政府主義的として文部省および司法省内で問題化したことに端を発するが、この時点では宮本英雄法学部長が文部省に釈明し問題にはならなかった。ところが1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法官赤化事件」が起こり状況は一変することになった。この事件をきっかけに蓑田胸喜ら原理日本社の右翼、および菊池武夫(貴族院)や宮澤裕(衆議院・政友会所属)らの国会議員は、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」...
  • 相沢事件
    相沢事件(あいざわじけん)は、1935年(昭和10年)8月12日に、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が陸軍省において、統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した事件である。 概要 日本陸軍においては皇道派と統制派が対立し、1931年の三月事件、1935年7月の皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭問題が起こる。林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告されると、真崎は統制派の永田の陰謀と反論する。 義憤を感じたとされる相沢は、台湾転任を前に陸軍省内軍務局長室において永田を刺殺した。事件後の相沢の公判は二・二六事件により一時中断され、翌1936年の7月に第1師団軍法会議による公開裁判が行われ、相沢は死刑となる。 なお、事件発生時は永田は軍務局長室で陸軍内部の綱紀粛正(過激さを増していた皇道派の青年将校に対する抑制策)に関する打ち合わせを行っており、兵務課長・山田長三郎大佐と東京憲兵隊長・新見英...
  • 霧社事件
    霧社事件(むしゃじけん)は、1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民による最大にして最後の抗日蜂起事件。 背景 背景として、日本の警察官(当時2名のタイヤル族警察官がいたほかは全て日本人警察官)が、地元のタイヤル族住民に対し固有の文化を無視した生活指導を行ったこと、材木を担いで運ばせるなど重い労務を課したこと、商取引の利益を中間搾取していたことなどが指摘されている。 蜂起の直接の原因といわれているのが、1930年10月7日に吉村克己巡査が原住民の若者を殴打した事件である。その日、吉村巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(タイヤル族の村落の一つマヘボ社のリーダー)の息子、タダオ・モーナが吉村巡査の手を取ったところ、巡査は「其ノ不潔ナル宴席ヲ嫌ヒ拒絶セントシテ握...
  • 北海事件
    北海事件(ほっかいじけん)は、1936年に起きた中国広東省北海における殺人事件である。 概要 1936年9月3日の夕方、北海に長く住まう薬種商の日本人・中野順三が暴徒により殺害された。同地方は広西軍の新編独立第一師翁照垣麾下の旧十九路軍及び第六十一師丘北琛部隊の暫駐地であり、排日意識が暴動の背因をなしていた。 事件の一報が伝わると、当時成都事件直後の日中関係は緊迫していたため日本は軍艦を派遣、また調査員を送った。9月20日、翁照垣軍の撤退を待って現地調査を行い、9月24日調査を完了。近郊に隠れていた被害者の妻(中国人)及び子供を救出した。 事件について日本側は大使川越を通じて成都事件とあわせて厳重な交渉を国民政府と行い、幾多の紛糾を重ねて12月30日、国民政府の陳謝、責任者及び犯人の処罰、被害者の遺族に対し3万元を贈ることその他を決定した。 出典 フリー百科事典『ウ...
  • 十月事件
    十月事件(じゅうがつじけん)とは、1931年(昭和6年)10月の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された、クーデター未遂事件である。別名錦旗革命事件(きんきかくめいじけん)。 背景 1931年9月18日深夜、柳条湖事件が発生、これを端緒として満州事変が勃発した。当時外務大臣であった幣原喜重郎を中心とした政府の働きにより、不拡大・局地解決の方針が9月24日の閣議にて決定された。しかし、陸軍急進派はこの決定を不服とし、三月事件にも関わった桜会が中心となり、大川周明・北一輝らの一派と共にこの動きに呼応するクーデターを計画した。 計画の概要 150px|thumb|[[橋本欣五郎(1931年)]] 十月事件の計画概要としてはかつての二・二六事件と同じく軍隊を直接動かし、要所を襲撃し、首相以下を暗殺するというもので、決行の日を10月24日早暁 ref name= oou...
  • 帝人事件
    帝人事件(ていじんじけん)は、昭和初期の疑獄事件。斎藤実内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となり、倒閣を目的にしたでっち上げと言われた。 経緯 帝国人造絹絲株式会社(帝人)は鈴木商店の系列であったが、1927年の恐慌で鈴木商店が倒産すると、帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になった。業績が良好で株価が上がったため、この株をめぐる暗躍が起こっていた。元鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、鳩山一郎や「番町会」という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻した。その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。 1934年1月、時事新報(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事を掲載、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。当時文部大臣の鳩山一郎は議会で関連を追及され「明鏡止水の心境」と述べたところ、辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任。(なお...
  • 尼港事件
    尼港事件(にこうじけん、Nikolayevsk Incident)は、シベリア出兵中の1920年(大正9)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いる露中共産パルチザン(遊撃隊)によって黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコライエフスク・ナ・アムーレ)の大日本帝国陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民が無差別に虐殺された事件。 パルチザンに対して一旦休戦した後、パルチザンが騙し討ちをし、大日本帝国陸軍側が反撃するも敗北。生き残った日本人は軍人であるか民間人であるかを問わず捕虜とされた。そして、5月に日本陸軍がニコライエフスクへ援軍を送るやパルチザンは全ての捕虜を殺害した上で逃亡した。また、日本人以外の市民も殺害した上、町を焼き払った。 のちにこのパルチザンの責任者はソビエト連邦政府により死刑に処せられることとなった...
  • 大津事件
    大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国の皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した、暗殺未遂事件である。行政の干渉から司法の独立を確立し、三権分立の意識を広めた近代史上重要な事件。  事件の内容 シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ニコライは艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問した。ニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向かった。いまだ小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待、公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)を任命、京都では季節外れの五山送り火まで行われた。 そして5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光からの帰り道、ニコ...
  • 神戸事件
    right|180px|thumb|当時のものと同型の[[大砲]] 神戸事件(こうべじけん)とは慶応4年1月11日(1868年2月4日)、神戸三宮神社前で備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵を負傷させた事件である。明治政府初の外交問題となった。 この事件により一時、外国軍が神戸中心部を占拠するなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た。 相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けた。 事件の発端 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が開戦、間も無く、徳川方の尼崎藩(現・兵庫県)を牽制するため、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警備を命じた。備前藩では1月5日(1月29日)までに2,000人の兵を出撃させ、このうち家老・日置帯刀(へきたてわき)率いる500人(800人説もある)は...
  • 成都事件
    成都事件(せいとじけん)は、1936年(昭和11年)に四川省成都でおきた、日本人4名が殺傷された排日事件である。 概要 1936年(昭和11年)8月24日、四川省成都で、大毎特派員渡辺洸三郎、上海毎日新聞社員深川経二、満鉄上海事務所員田中武夫、漢口邦商瀬戸尚の4名が同地の中国人学生をふくむ暴徒の襲撃を受け、渡辺、深川の2名が殺害され、田中、瀬戸の2名が重傷を負った。 これより先、日本の外務省は満州事変後閉館中の成都総領事館を再開すべく岩井総領事代理を派遣したところ、中国側は日本の既得権益を無視し、開館絶対反対を表明し、民衆運動によってこれを阻止しようと図った。 この結果、8月初旬以来、四川省、殊に成都において「開館反対、岩井代理人川阻止」の学生大会、市民大会などがあいついで開かれ、排日の風潮は高まった。 そのため岩井代理は重慶に足止めされ、成都入りはできなくなった。 岩井代理と...
  • 水国事件
    水国事件(すいこくじけん)は、1923年(大正11年)3月、奈良県の水平社と国粋会(1919年 - 1942年に存在した、ヤクザ・土建業者で結成された右翼団体)とが衝突した事件。水国争闘事件ともいう。 一人の老人が被差別部落出身者の婚礼に対して差別的言動を行い、それに対する水平社の謝罪要求に対し、国粋会幹部であった土建業者が介入、水平社に対して襲撃をかけた。双方とも奈良県内外から援軍を動員、水平社側の4人が重軽傷を負った。官憲や軍隊が鎮圧して水平社側35人、国粋会側12人が有罪となった。襲撃に熱心だった国粋会側よりも水平社側に重罪判決が多く、この事件以降水平社運動、融和運動が全国的に隆盛した。 関連項目 部落問題 右翼 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月14日 (日) 02 22。 ...
  • 赤旗事件
    赤旗事件(あかはたじけん)とは、1908年(明治41年)6月22日に発生した社会主義者弾圧事件である。別名「錦輝館事件(きんきかんじけん)」、「錦輝館赤旗事件(きんきかんあかはたじけん)」。 背景 明治期の日本では、極めて過酷な労働環境への反発から労働組合期成会が結成されるなど、社会運動が高まりを見せていた。これに対し、政府側は1900年に治安警察法を制定して運動の規制に乗り出した。1901年5月20日、安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、西川光次郎ら6名を発起人として、日本初の社会主義政党「社会民主党」が結成されるが、第4次伊藤内閣は直後にこれを禁止した。1900年にやはり安部らが結成した社会主義協会は、4年後に第1次桂内閣により解散の憂き目に遭っている。 1906年1月7日、桂太郎に替わって西園寺公望が首相に就任、第1次西園寺内閣が発足した。西園寺は社会主義をみだりに弾圧することを避け、...
  • 西安事件
    西安事件(せいあんじけん、西安事変 -じへん、ともいう)は民国25年(1936年)12月12日に西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件。 概要 1936年10月、国民政府主席蒋介石は、紅軍(共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じた。この攻撃に参加していた張学良は、父である張作霖が殺害されたことから抗日的気運が高く、共産党の内戦の停止、一致抗日の主張に対してシンパシーを感じており、紅軍に対する攻撃が消極的となっていた。蒋介石は消極的な張学良を督戦するため、12月4日に西安に行った。西安に来た蒋介石に対し、張学良は内戦を停止するように説いたが、蒋介石にこれを拒絶された。このことを切っ掛けに、蒋介石を監禁し、以下の8項目の要求を全国に流した。 8項目の要求 南京政府の改組、諸党派共同の救国 内戦の停止 抗日七君子の釈放 政治犯の釈放 民衆愛国運動の解禁 人民の政...
  • 生麦事件
    生麦事件(なまむぎじけん)は、江戸時代末期の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷した事件である。この事件の賠償問題から薩英戦争が起こり、結果として、薩摩藩とイギリスが相互理解を深めるきっかけとなった。京急本線生麦駅近くに事件の石碑が残る。 事件の概要 thumb|350px|『生麦之発殺』早川松山画 明治になって想像で描かれた錦絵で、名前が出ているのは[[島津久光と小松帯刀のみ。当時は久光の武勇伝として一般に親しまれていた。]] 文久2年(1862年)、薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父・島津久光は、幕政改革を志し、700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いていたが、ほぼ目的を達し、勅使・大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。...
  • 相馬事件
    相馬事件(そうまじけん)とは、明治年間に起こった御家騒動の一つ。精神病患者への処遇や、新興新聞によるセンセーショナルな報道の是非を巡り、世間へ大きな影響を与えた。 経緯 旧中村藩主、相馬誠胤(そうまともたね)の統合失調症(推定)の症状が悪化。 1879年に家族が宮内省に自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁、後に癲狂院(現在の精神病院に相当)へ入院。 1883年、旧藩士の錦織剛清(にしごりたけきよ)が主君の病状に疑いを持ち、家族による不当監禁であるとして家令・志賀直道(志賀直哉の祖父)ら関係者を告発したことから事件が表面化した。 告発を行った錦織に対し、世間からは忠義者として同情が集まった。 当時は精神病の診断も未熟であり、高名な大学教授等による精神病の診断がまちまちの結果となった。正常との判断を下す医師もおり、混乱の度合いが増すこととなった。 1887年、錦織が相馬誠胤が入院し...
  • 幸徳事件
    幸徳事件(こうとくじけん)とは、1910年11月、旧刑法73条(大逆罪、1908年10月より実施、1947年現刑法より削除。「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」)により幸徳秋水ら25名が大審院に付され翌年1月に24名に死刑判決(12名は翌日無期に減刑)が出され12名が処刑された事件。 刑法73条が適用された初めての事件であり、被告とされた人数が多いことから、一般的には固有名を付けず「大逆事件」といわれる。「幸徳事件」の名称は他の「大逆罪適用事件」と区別する場合に用いられ、被告たちの中心人物とされた幸徳秋水の姓による。他に「幸徳秋水事件」の呼称もある。 被告の内、宮下太吉外3人は爆裂弾により明治天皇への攻撃を考えていたが実行計画は中途半端なままで実現に至るには曖昧なものであった。 それは大審院判決理由において「爆裂弾を用い馬...
  • 辰丸事件
    辰丸事件(たつまる じけん)は、中国における排日運動の嚆矢となった有名な事件。1908年(明治41年)2月5日に、澳門沖に起きた日本船第二辰丸の拿捕事件である。 経緯 澳門のポルトガル人銃砲商が発注した銃器94函、弾薬40函及び石炭等を積載して神戸を出た汽船第二辰丸は、澳門前面の水域において清国拱北関の巡視船四隻に武器密輸の嫌疑で拿捕され 、日章旗を撤去 、広東に廻航された。日本側は密輸行為を無視し、領海問題、日章旗問題を口実に中国と強硬な交渉を行い、謝罪と10万円の損害賠償を要求した。しかし、清国政府は革命党の問題に悩まされている最中であり、容易に日本の条件を受け入れなかった。一方、日本では、第1次西園寺内閣が様々な国内事情を抱え、帝国議会、軍部、財界の圧力にさらされており、この局面を挽回しようと南清艦隊を動かして清国政府を威嚇した。結果、清国政府は3月15日、辰丸釈放、損害賠償...
  • 伏石事件
    伏石事件(ふせいしじけん)とは、香川県香川郡太田村伏石(現在の高松市伏石町)で、大正12年(1923年)に起きた小作争議である。後述のとおり、日本農民組合(日農)香川県連合会長および顧問弁護士を巻き込んだ一大刑事事件に発展し、抗議行動が全国で行われたため、各種の小作争議を扱った文書でも伏石事件と呼ばれる事が多い。 概要 伏線 伏石での小作争議は、小作農民側が大正11年(1922年)夏に日農伏石支部を結成し、小作料を恒久的に30パーセント減額するよう地主に要求して、小作米の70パーセントから80パーセントのみを納入したことに端を発する。 これに対し地主側も団体を結成し減額を拒否するとともに、未納分の小作米の納入を求める訴訟を起こしている。 差押え・競売と刈り取り・脱穀 翌年、大正12年(1923年・ちなみにこの年は全国的な旱魃で稲は不作であったという)に入っても、小作農民側は引き続...
  • 企画院事件
    企画院事件(きかくいんじけん)は、1939年から1941年にかけて、多数の企画院職員・調査官および関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された事件。企画院事件は、1939年以降の「判任官グループ」事件、および1940年以降の「高等官グループ」事件の複合体である。 経緯 1938年10月の京浜工業地帯の労働者による研究会に対する弾圧事件(「京浜グループ」事件)において、同研究会で講師を務めていた企画院属の芝寛が逮捕された。芝による自供をもとに、企画院内若手判任官による研究会(これ自体は同院内部で認可された小規模な勉強会であった)の存在が警察の認識するところとなり、これが「官庁人民戦線」の活動として扱われ、1939年11月から翌1940年までに岡倉古志郎・玉城肇ら4名が検挙された(「判任官グループ」事件)。 さらに検挙は1940年10月から1941年4月にかけて、...
  • 岐阜事件
    thumb|right|250px|板垣退助が襲われた場所に建つ板垣退助の銅像 br / [[岐阜公園にて(岐阜市)]] 岐阜事件(ぎふじけん)とは、1882年(明治15年)4月6日に岐阜で、自由党党首板垣退助が暴漢(相原尚褧)に襲われた事件である。板垣退助遭難事件、岐阜遭難事件ともいう。このとき板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとして知られるが、事実であるかは不明である。 事件前の状況 1881年(明治14年)10月18日、10年後の帝国議会開設の詔が出されたのを機に自由党(日本初の政党の一つ)が結成され、自由民権運動は頂点を迎える。そのような中、11月9日に板垣退助は自由党総理(党首)に就任する。 1882年(明治15年)3月10日、板垣退助は竹内綱、宮地茂春、安芸喜代香らとともに、東海道遊説旅行の為に東京を出発。静岡、浜松を経て、3月29日に名古屋で演説後、4月5...
  • 森戸事件
    森戸事件(もりとじけん)は、大正9年(1920年)に起きた経済学者・森戸辰男の筆禍事件。 東京帝国大学助教授・森戸辰男はこの年、経済学部機関誌『経済学研究』にロシアの無政府主義者クロポトキンに関する「クロポトキンの社会思想の研究」を発表した。このことが上杉慎吉を中心とする学内の右翼団体から攻撃を受けて、雑誌は回収処分となった。さらに、新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により森戸は起訴され、休職処分となる。当時の助教授・大内兵衛も掲載の責任を問われて起訴される。 10月2日、大審院は上告を棄却して有罪が確定。両名は失職し、同じ頃ILO日本代表派遣問題をめぐって東大を辞職した師の高野岩三郎(初代経済学部長)とともに大原社会問題研究所に参加、同所の中核メンバーとなった。その後、大内は復職したが、人民戦線事件で検挙、再び東大を追われた。 同じ経済学部の教授である渡辺銕蔵などは、森戸の論文は論理も学...
  • 盧溝橋事件
    盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国では七七事変ともいう)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。 事件の経緯 7月7日 22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。 23時00分頃:行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり) 7月8日 現地の動き 3時25分:...
  • 川俣事件
    川俣事件は、1900年2月13日、群馬県邑楽郡佐貫村川俣(現明和町)で、足尾鉱毒事件に関して、政府に請願するために出かける途中の農民と警官が衝突した事件。当時は兇徒聚集事件と呼ばれた。明治期の大規模な集会・言論弾圧事件として有名。 農民67名が逮捕され、うち51名が兇徒聚集罪などで起訴されたが、1902年12月25日、仙台控訴審で起訴無効という判決が下り、実質的に全員不起訴という形で決着した。 概要 第1回~第3回押出し 足尾銅山による鉱毒被害が増大すると、衆議院議員田中正造の主導の下、1896年10月4日、群馬県邑楽郡渡瀬村(現館林市)にある雲龍寺に、栃木・群馬両県鉱毒事務所がおかれた。 農民らは結束して東京に請願に出かけることにし、1897年3月2日、第1回の請願が行われた。当時、このような活動には名前がなく、農民らは東京大挙押出しと呼んだ。参加者は2000人。農民らは、米を持...
  • 白虹事件
    白虹事件(はっこうじけん)とは、大阪朝日新聞(現朝日新聞)が1918年に起こした筆禍事件。 当時、大阪朝日新聞は大正デモクラシーの先頭にたって言論活動を展開し、特にシベリア出兵や米騒動に関連して寺内正毅内閣を激しく批判していた。1918年8月25日、米騒動問題に関して開かれた関西新聞社通信大会の報道記事の中に「白虹日を貫けり」という一句があったが、これは内乱が起こる兆候を指す故事成語であったため、不穏当だと判断した大阪朝日新聞編集幹部はすぐさま新聞の刷り直しを命じた。しかし、すでに多数の新聞が出回った後だった。後に新聞紙法の「朝憲紊乱」に当たるとして、当局が大阪朝日新聞の発行禁止に持ち込もうとした。当時、激しい批判にさらされていた寺内政権が弾圧の機会を窺っていたと指摘されている。さらに憤激した右翼団員が大阪朝日新聞社に押しかけ、村山龍平社長を街頭に引きずり出して全裸にしたうえ電柱に縛りつ...
  • 中山事件
    中山事件(なかやまじけん)は、1935年に中国、上海で起こった、中国人による、日本人水兵射殺事件である。 1935年11月9日午後9時ころ、上海共同租界と中国人街との境界道路である竇楽安路路上において、日本の上海特別陸戦隊勤務中山秀雄一等兵水兵が中国人によって背後から射殺された。 日本側の抗議と工部局、日本総領事館の両警察当局の督促によって、1936年春になって、租界工部局は被疑者である同仁会主席委員楊文道、同会会員葉海生、周我栄以下数名を逮捕、起訴した。 しかし抗日団体などの脅迫などのために裁判はなかなか進まず、10月2日にようやく上海第一特区法院において楊、葉の2名は死刑、周は無罪と断案が下され、中国側はこれによって抗日秘密結社の存在を認めた。 楊、葉の2名は上告したが、11月9日の上訴判決でふたたび死刑判決が下され、事件はいちおうの解決を見た。 出典 フリー百...
  • 加波山事件
    加波山事件(かばさんじけん)とは、1884年9月に発生した栃木県令三島通庸らの暗殺未遂事件。 概要 民権激化事件の一つ。自由民権運動のなかで、急進的な考えを抱いた若き民権家たちが起こす。福島事件に関わった河野広体(河野広中の弟)らのグループが中心で、これに茨城の富松正安や栃木県の民権家が加わっている。栃木県庁落成時に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣たちを爆殺する計画であったが爆弾を製造中に誤爆。計画が明らかになると、茨城県の加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」などの旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。また警察署や豪商の襲撃も行なっている。 その後 後日の再集結を約して解散するが次々に逮捕された。その後、自由党幹部である内藤魯一や、田中正造・小久保喜七をはじめとして300名に及ぶとまでいわれる民権家が逮捕された。しかし、政治犯とはならず、...
  • 虎ノ門事件
    虎ノ門事件(とらのもんじけん)は、1923年12月27日に、虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が難波大助に狙撃された事件である。 事件発生 1923年12月27日、摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、自動車で貴族院へ向かっていた皇太子に、虎ノ門外で群衆の中にいた難波大助が接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した。銃弾は車の窓ガラスを破り、皇太子には命中しなかったが、同乗していた侍従長・入江為守が軽傷を負った。なお、皇太子は事件後、側近に「空砲だと思った」と平然と語ったとされる。 その直後、難波は周囲の群衆によって袋叩きにされ、難波の身柄を確保しようとする巡査は身をもって難波に対する殴打を防がなければならなかった。難波はのちに大逆罪で死刑判決を受けている。 この事件の背景には、亀戸事件などの労働運動弾圧があった。 影響 当時の内閣総理大...
  • 張鼓峰事件
    Template Battlebox? 張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)は1938年(昭和13年、康徳5年)の7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争。ソ連側は、これをハサン湖事件(ハーサン湖事件)と呼んだ。 背景 張鼓峰は満州領が朝鮮とソ連領の間に食い込んだ部分にある標高150メートルの丘陵であり、西方には豆満江が南流している。当時ソ連は国境線は張鼓峰頂上を通過していると考え、日本側は張鼓峰頂上一帯は満洲領であるとの見解であった。いずれにしても、この方面の防衛を担当していた朝鮮軍第19師団は国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。 戦闘の経過 1938年7月、張鼓峰頂上にソ連兵が進軍し、兵力は次第に増強された。朝鮮軍第19師団がこれを撃退したところ、8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始した。...
  • 徳川事件
    徳川事件(とくがわじけん)とは、1928年に水平社と徳川家との間に起こった一連の事件をさす。徳川幕府の子孫である徳川家達公爵に対し、水平社は部落差別の原因は徳川家が作ったとして辞爵を要求。家達側はこれを拒否。後に、暗殺を企てたとして水平社のメンバー数名が逮捕され、1名が獄死。戦後に参議院議員や部落解放同盟委員長となる松本治一郎もこのとき逮捕され、これに怒った松本の知人・浜嘉蔵が徳川邸(900坪)に放火し、全焼させた。 関連項目 部落問題 水平社 徳川家達 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月20日 (日) 11 33。     
  • 桜田門事件
    桜田門事件(さくらだもんじけん)とは、1932年(昭和7年)1月8日に昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件(大逆事件)である。なお犯人(後述)は現在の刑法では廃止されている天皇に対する暗殺未遂の罪である大逆未遂罪に問われ、処刑された。 事件の概要 桜田門は皇居にある門のひとつであり、1860年には井伊直弼が殺害された桜田門外の変の現場でもある。1932年1月8日に昭和天皇が乗車した馬車が桜田門外を進行中に、沿道からの手榴弾が投げつけられた。しかし手榴弾は威力が小さかった上に的を大きく外れ、宮内大臣一木喜徳郎乗車の馬車左後輪付近で炸裂した。結果として近衛兵一人が負傷、馬車を破壊し馬2頭も負傷した。 事件の背景 犯人は、朝鮮半島に対する日本の植民地支配からの解放を目指す金九が首班の「大韓民国臨時政府」(在・中国上海)が組織した抗日武装組織韓人愛国団によって刺客として派遣され...
  • 綏遠事件
    Template Battlebox? 綏遠事件(すいえんじけん)は、1936年末の、綏遠省東部での内蒙軍と、中国軍との戦闘である。中国側では綏東事件とも。 内蒙における自治の要求はつとに強いものであったが、1933年7月、百霊廟の自治会議から雲王、徳王を中心とする自治運動がめざましくなった。10月の百霊廟の五次会議、11月の中央の黄紹雄、趙丕廉の派遣を経て、翌年2月行政院直属の蒙古地方自治政務委員会(蒙政会)を設けて、何応欽を指導長官とし、雲王、徳王などを委員とした。 西北問題、内蒙古問題が発展すると、国民政府はこれに安んじることなどなく、1936年1月、綏遠省境内蒙古各盟旗政務委員会(綏境蒙政会)を設け、閻錫山を指導長官とし、傅作義(zh)の監督の下に沙王以下の委員を任命し、中央的色彩を濃くした。これをもって勢力は二分された。 1935年12月、省主席代理との折衝で宝昌、沽源、...
  • 大輝丸事件
    大輝丸事件(だいきまるじけん)は、1922年(大正11年)におこった、日本の海賊によるロシア人殺害事件である。 概要 大正11年9月、茨城県結城町の江連力一郎(当時34歳)は、神戸西之宮の相沢汽船会社所有の船 大輝丸740トンを用船し、オホーツク海に砂金採取に行くと称して、人夫60名を募集した。 9月26日、北海道・小樽を出航し、黒竜江河口の沖合でロシアのランチ1隻、発動機船1隻を略奪し、さらに北樺太のポコピー、デスカストリー付近で帆船1隻およびその積荷を略奪し、それと同時にロシア人船長以下12名および先の発動機船の乗組員4名を大輝丸の船員室に監禁した。 10月22日、23日、この全員を甲板に引き出し、日本刀で殺害した。江連は、略奪品を小樽に荷揚げしたのち、人夫らを脅迫し僅かの金銭をあたえて解散した。 この事件は、人夫であった田中三木蔵および菊池種松の自首によって発覚した。 ...
  • 西来庵事件
    right|thumb|250px|西来庵事件で[[台南刑務所より法院に押送される逮捕者]] 西来庵事件(せいらいあんじけん)は、1915年(大正4年)に日本領台湾の台南庁噍吧哖(タパニー、現・玉井郷)で発生した武装蜂起。地名から「タパニー事件」とも、首謀者が余清芳であったことから「余清芳事件」ともいう。本島人による最後の抗日武装蜂起であった。 概要 首謀者の余清芳は、かつて台湾総督府警察の警察官であった。その後警察を退職し、職を転々と変えた後、最終的に西来庵に出入りするようになった。そして布教活動の傍ら、西来庵をアジトに抗日武装蜂起を計画するようになった。 1915年、基隆で同志が逮捕されたことから計画が発覚、余清芳一党は逸早く山間部に逃げ込み、ゲリラ戦を展開した。余清芳は「大明慈悲国奉旨平台征伐天下大元帥余」を自称し、西来庵の祭神である「王爺」の神勅を利用するな...
  • 哲学館事件
    哲学館事件(てつがくかんじけん・てつがっかんじけん)とは1902年に私立哲学館(現在の東洋大学)で発生した事件である。 明治期の初め、学校の卒業と同時に無試験で教員になることができたのは国立の学校のみで私立にはその権利がなかった。しかし、哲学普及のために教育者を育成することを目標としていた私立哲学館の井上円了は私立学校にも卒業生に対して無資格で教員となることができるよう、1890年から当時の文部省に対して陳情を行っていた。文部省からなかなか良い返事をもらえなかった井上は、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)、國學院(現在の國學院大學)、東京専門学校(現在の早稲田大学)と私立学校の連合を組んで再度陳情を行い、1899年に中等学校の教員免許について、卒業と同時に無試験で認可されることとなった。 1902年にはこの4校で最初の卒業生が誕生し、私立学校ではじめての無試験教員が誕生するはずであった。し...
  • 中山艦事件
    中山艦事件(ちゅうざんかんじけん)は、1926年3月20日中華民国の広州で軍艦中山艦の回航をきっかけに、黄埔軍官学校長蒋介石が中国共産党員らの弾圧を開始した事件。「三二〇事件」「広州事変」とも。この事件をきっかけに中国国民党内での蒋介石の地位が急速に上昇し、また翌年4月の上海クーデターで第一次国共合作が破綻へ向かう端緒となったが、事件の中核の経緯は未だにはっきりしていない。 事件の背景 1924年中国国民党は第一次全国代表大会で「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示。ソ連のコミンテルンの指示を受けた中国共産党もこれに応じ、共産党員が国民党に入党するという形式で両党の間に国共合作が行われることになった。それよりやや以前から国民党総理孫文(孫中山)はソ連式の軍人教育にならって将校を育成する機関の必要性を感じ、蒋介石をソ連へ派遣していたが、これを機に広東省広州の長洲島にある黄埔に軍官学校(...
  • 105人事件
    105人事件(105人じけん)とは、1910年8月の日本の韓国併合後まもない時期に「発生」した、「寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件」・「宣川事件」・「朝鮮陰謀事件」ともいう事件である。 1910年9月30日に日本の一地方となった「朝鮮」での統治を行なう機関として設置された朝鮮総督府の筆頭である朝鮮総督に翌日の10月1日に就任した寺内は、朝鮮において憲兵警察制度の実施に象徴される「武断統治」を行なった。寺内は1910年12月、朝鮮北西部の平壌、宣川、新義州などを視察したが、その間に朝鮮人が何度か彼の暗殺を試みたものの、いずれも失敗に終わったという噂が、1911年になって広まった。それをうけて、朝鮮総督府は、同年9月までに約700人の朝鮮人を逮捕し、証拠不十分で釈放された人たち以外の122人への裁判が翌1912年に始まった。そして、朝鮮総督府や朝鮮語紙『毎日申報』、日本語紙『京城日報』、英字紙『...
  • 万宝山事件
    万宝山事件(まんぽうざんじけん)とは、1931年7月2日に満州内陸に位置する長春の北、三姓堡万宝山の朝鮮人農民を、中国人農民が水利の利害関係より襲撃、さらに日本の警察官とも衝突した事件。この事件を契機に朝鮮半島で中国人排斥の暴動が発生し、多くの死者重軽傷者がでた。 原因と経緯 この事件の経緯については、中国、朝鮮語版とも全く異なる解説をしているので、中立の立場からすべて翻訳し、記述した。確認は詳細を見られたい。中国、朝鮮語版では侵略の口実を作る日本の陰謀であるとしている。 なお、アジア歴史資料センターの資料によれば、中国語版WIKIPEDIAの記述内容は、中国共産党の宣伝パンフレットの内容に一致している。また、朝鮮語版WIKIPEDIAに関しては外部リンク(韓国語)の内容と一致している。 ref name= shibun 参看 亜細亜歴史中心 資料 Ref.B0203017...
  • 山城屋事件
    山城屋事件(やましろやじけん)は、明治5年(1872年)に発覚した近代日本初の大掛かりな汚職事件。 山縣有朋ら長州系の官僚が陸軍省の公金を勝手に陸軍御用達の商人、山城屋和助に貸し付け、その見返りに金銭的な享受を受けていたとされる。陸軍省から山城屋に貸し付けた公金は約65万円、当時の国家歳入の1%という途方もない額であった。 ヨーロッパでの生糸相場に失敗した山城屋は陸軍省から更に金を借り出しフランスに渡り、商売そっちのけで豪遊。これがフランス駐在の鮫島尚信やイギリス駐在の寺島宗則の耳に入り、日本の外務省に連絡が入った。それを聞いた陸軍省会計監督・種田政明が密かに調査を始め汚職が発覚、桐野利秋ら薩摩系陸軍人や江藤新平率いる司法省の激しく追及するところとなり、同年7月山縣は陸軍中将・近衛都督を辞任。司法省による本格的な調査が始まろうとした同年11月、公金返済が不可能であった山城屋は陸軍省内部...
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