chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「107年」で検索した結果

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    ...王、後漢に遣使。 107年 倭国王、後漢に遣使。 倭国大乱 239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使。 古墳時代・飛鳥時代 350年頃 ヤマト王権の統一。 369年 任那の成立。 413年以後 しばしば中国に遣使(倭の五王)。 527年 筑紫国国造、磐井の乱。 538年(一説に552年) 百済の聖王、仏像及び経綸を献ず(儒教伝来、仏教公伝)。 562年 任那の日本府が新羅に滅ぼされる。 渡来人(帰化人)の来航。 593年 四天王寺造立。 593年 - 622年 聖徳太子の摂政。 603年 冠位十二階を制定。 604年 憲法十七条を制定。 607年 小野妹子を隋に遣わす。遣隋使の初め。 607年 法隆寺の創建。 630年 犬上御田鍬を唐に遣わす。遣唐使の初め。 645年(大化元年) 中大兄皇子と中臣鎌足によって、蘇我氏が滅ぼされる(乙巳の変)...
  • 大韓帝国
    大韓帝国(だいかんていこく、Template lang?、テハンジェグク)とは、1897年 - 1910年に李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(Template lang?、テハングク)、韓国(Template lang?、ハングク)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国」と呼ばれることもある。清の冊封国時代と日本統治時代の狭間の短い時期であり、朝鮮半島最後の専制君主国である。 {{基礎情報 過去の国 |略名 = 韓国 |日本語国名 = 大韓帝国 |公式国名 = Template Lang? |建国時期 = 1897年 |亡国時期 = 1910年 |先代1 = 李氏朝鮮 |先旗1 = Flag of Korea 1882.svg |次代1 = 日本統治時代の朝鮮 |次旗1 = Flag of Japan - variant.svg |次代2 ...
  • 純宗 (朝鮮王)
    {{基礎情報 君主 | 人名 = 純宗 | 各国語表記 = Template lang? | 君主号 = 大韓帝国皇帝 | 画像 = 2-1.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = | 在位 = 1907年7月20日 - 1910年8月29日 | 戴冠日 = 1907年7月20日 | 別号 = 隆煕皇帝昌徳宮李王 | 全名 = 李Template lang? | 出生日 = 1874年3月25日 | 生地 = | 死亡日 = Template 死亡年月日と没年齢? | 没地 = 朝鮮、京城府、昌徳宮 | 埋葬日 = 1926年6月10日 | 埋葬地 = 朝鮮、京畿道南楊州市金谷洞、裕...
  • 樺太庁
    世界 アジア 東アジア 大日本帝国 樺太地方 樺太庁 樺太庁のデータ 面積 36090.3km² (海豹島・海馬島含む) 樺太の位置 東端 東経144度45分00(北知床岬)西端 東経141度12分45(海馬島)南端北緯45度47分25(二丈岩)北端 北緯50度線(北緯50度以北は、ロシア領) 世帯数 ?世帯(年月日) 総人口 406,557人(1941年12月1日) 樺太庁 所在地 樺太豊原市東4条南5丁目 樺太庁(からふとちょう、Template lang-ru?、Template lang-en?)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。 この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。 1...
  • 韓国統監府
    韓国統監府(かんこくとうかんふ)は、第二次日韓協約に基づき大韓帝国の外交権を掌握した日本が漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁である。1910年(明治43年)の韓国併合後、大韓帝国政府の組織と統合の上、朝鮮総督府に改組された。 一般に「韓国統監府」と呼ばれているが、頭に韓国を冠記せず、単に「統監府」と称するのが官制における正式名称である。 組織 内部部局 1907年(明治40年)時点 総務部 秘書課、人事課、文書課、会計課、地方課 農商工務部 商工課、農林課、水産課、鉱務課 警務部 警務課、保安課、衛生課 外務部 韓国課、外国課 法制審査会 所属官庁 1907年(明治40年)時点 通信官署 鉄道管理局 法務院 財政監査庁 観測所 地方機関 1905年(明治38年)時点 京城理事庁 仁川理事庁 釜山理事庁 元山理事庁 鎮南浦...
  • ハーグ密使事件
    ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん)は、1907年(明治40年)に大韓帝国がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送り、自国の外交権保護を訴えるも国際社会から完全に拒絶された事件。 経緯 日本は、1905年の第二次日韓協約(日韓保護条約)によって大韓帝国の外交権を接収した。皇帝高宗は密使外交を展開することで日本からの支配を打破しようと試みていた。李容泰、沈相薫、金嘉鎮ら大韓帝国内の抗日派は、イギリス人ベッセルやアメリカ人ホーマー・B・ハルバートらと図り、さらに海外にいた李学均、李範晋らと連絡を取り合い、1907年6月、ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に皇帝の密使を派遣し、列強に大韓帝国の外交権保護(第二次日韓協約の無効)を訴えようとした。密使として派遣されたのは李相卨(元議政府参賛)、李儁(前平理院検事)と李瑋鍾(前駐露公使館二等書記官、前駐露公使李範晋の次...
  • 日本史の出来事一覧
    ...王、後漢に遣使。 107年 倭国王、後漢に遣使。 倭国大乱 239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使。 古墳時代・飛鳥時代 350年頃 ヤマト王権の統一。 369年 任那の成立。 413年以後 しばしば中国に遣使(倭の五王)。 527年 筑紫国国造、磐井の乱。 538年(一説に552年) 百済の聖王、仏像及び経綸を献ず(儒教伝来、仏教公伝)。 562年 任那の日本府が新羅に滅ぼされる。 渡来人(帰化人)の来航。 593年 四天王寺造立。 593年 - 622年 聖徳太子の摂政。 603年 冠位十二階を制定。 604年 憲法十七条を制定。 607年 小野妹子を隋に遣わす。遣隋使の初め。 607年 法隆寺の創建。 630年 犬上御田鍬を唐に遣わす。遣唐使の初め。 645年(大化元年) 中大兄皇子と中臣鎌足によって、蘇我氏宗家が滅ぼされる(乙巳の...
  • 鉄道国有法
    鉄道国有法(てつどうこくゆうほう;明治39年3月31日法律第17号)は、全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するため、私鉄を国有化することを定めた日本の法律である。 Template 日本の法令? 1906年(明治39年)3月31日公布、1920年(大正9年)8月5日改正。1987年(昭和62年)4月1日、日本国有鉄道改革法等施行法(昭和61年法律第93号)第110条の規定により廃止。 これにより、1906年から翌年の1907年(明治40年)にかけて、下記の17社の2,812.0哩(約4,500km)が買収された。買収前には1,600哩(約2,600km)に過ぎなかった官設鉄道は、4,400哩(約7100km)と3倍に増え、私鉄は地域輸送のみに限定されることとなった。 鉄道国有論の展開 日本の鉄道は創業以来、官設官営を基本方針とした。これは、草創期の日本の鉄道行政を頂点に立って牽引し...
  • 高宗 (朝鮮王)
    {{基礎情報 君主 | 人名 = 高宗 | 各国語表記 = Template lang? | 君主号 = 朝鮮国王・大韓帝国皇帝 | 画像 = Korea-Portrait of Emperor Gojong-01.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = 『高宗皇帝御眞』(作者未詳、国立故宮博物館蔵) | 在位 = 朝鮮国王:1863年12月12日-1897年10月12日大韓帝国皇帝:1897年10月12日-1907年7月20日 | 戴冠日 = | 別号 = 大韓帝国光武大皇帝大韓帝国太皇帝徳寿宮李太王 | 全名 = 李熈 | 出生日 = 1852年9月8日(旧暦7月25日) | 生地 = 李氏朝鮮、漢城、雲Template lang?宮 | 死...
  • 旧皇室典範
    Template 日本の法令? 皇室典範(こうしつてんぱん、明治22年2月11日裁定(明治天皇勅定))は、大日本帝国における皇位継承順位など皇室に関する制度・構成等について定めた家憲であり、大日本帝国憲法と同格とされた。昭和22年(1947年)5月2日限りで廃止され、日本国憲法下の法律として制定された新たな皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)が同年5月3日に施行された。現行の皇室典範と区別するため、本項では旧皇室典範の呼称を用いる。 概説 1889年(明治22年)2月11日に裁定された旧皇室典範は、制定当初は皇室の家法という性格が与えられていたが、1907年(明治40年)裁定の皇室典範増補で宮内大臣及び各国務大臣の副署がなされ且つ公布の対象となり、国民も拘束するものとされた。もっとも、公式令(明治40年1月31日勅令第6号)制定などで宮務法と国務法の峻別が定められたことから...
  • 李完用
    Template 韓国の人物? 李完用(イ・ワニョン、り・かんよう、1856年 - 1926年2月12日)は、李氏朝鮮王朝末期の政治家で、日本による韓国併合に大きな働きをした人物。字は敬徳(キョンドク、Template lang?)、号は一堂(イルダン、Template lang?)、本貫は牛峰李氏。 人物 京畿道広州に生まれる。1883年、科挙に合格し、1887年からアメリカで3年間の海外勤務を経験した後、国際派の政治家として頭角を現す。 1895年の閔妃暗殺事件(乙未事変)の後、同年11月28日に、親日政権打倒の為のクーデターを親露派、親米派勢力の李範晋、李学均、李允用などと画策するが失敗に終わり、在米公館に逃げ込む。1896年に高宗がロシア公館に逃げ込む露館播遷を成功させ、親日政権を瓦解させた反日親露派の重鎮となって外部大臣(外務大臣)に就任する。翌年、学部大臣(文部大臣...
  • 朝鮮貴族
    朝鮮貴族(ちょうせんきぞく)とは、貴族制度の一種で、李王の血族で王公族とならなかった者及び門地又は功労があった朝鮮人に与えられた身分をいう「朝鮮貴族令」第2条。1910年(明治43年)の日韓併合条約第5条及びそれに基づく朝鮮貴族令(明治43年皇室令第14号)によって設けられたもので、1947年(昭和22年)皇室令第12号(皇室令及附属法令廃止ノ件)によって廃止された。 朝鮮貴族は、公侯伯子男爵に分類され、華族と同一の礼遇を享け、叙位についても華族と同一に取り扱われるなど、従来の日本の華族令による華族とほぼ同様に扱いがなされた。但し、東京在住が義務付けられず、貴族院の有爵者議員となる資格はないなど、華族と違う取り扱いもなされた。 朝鮮貴族に列せられた者 侯爵 李載完 興宣大院君の甥。 李載覚 荘献世子の玄孫。 李海昌 昌山君。 李海昇 全渓...
  • 帝国大学
    帝国大学(ていこくだいがく)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された大学のことである。以下のように、1校のみの時期はその大学の名称として、2校以上になってからは大学群の総称として使われた。 1886年~1897年:日本唯一の大学であった東京大学(1877年設立)が帝国大学令に基いてつけられた名称。 1897年~:帝国大学令に基いて設置された複数の大学群の総称。最終的に、内地に7校、外地に2校設置された。 概要 帝国大学は、前身となる高等教育機関を改組・改称して設置され、後に学部を新設したり、他の高等教育機関を包摂したりして、日本で有数の、あるいは各地域を代表する総合大学となっていった。 大正時代まで、卒業時、学科ごとに最優秀のものには天皇から恩賜の銀時計が下賜された。1886年(明治19年)には、卒業生のクラブとして学士会(本部・東京都)が設けられ...
  • エルトゥールル号遭難事件
    エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni)が、和歌山県串本沖、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した事件。この事件は、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。 現在、和歌山県串本町の樫野崎灯台そばには、エルトゥールル号遭難慰霊碑およびトルコ記念館が立つ。また、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。 事件の経過 木造フリゲート艦エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応えることを目的に、訓練不足のオスマン帝国海軍の練習航海を兼ねて日本へ派遣されることとなった。 1889年7月、イスタンブルを出港。数々の困難に遭...
  • 米騒動
    米騒動(こめそうどう)とは米の流通量の減少や価格高騰によって民衆が米を入手しづらくなることが要因となって起こる、騒ぎなどのことである。 背景 米の重要性について 米を主食として食す国の場合、米の価格高騰、国内流通量の減少は治安悪化や国家の運営を揺るがす事態に直結する問題となる。そのため国家元首は米の価格、流通に対し神経質になるという ref name= syokuryosoudatsu 『食料争奪』 柴田明夫 日本経済新聞出版社 2007年。 また、消費者側の状況を見ると特に貧困層はエンゲル係数が高く、食料費の高騰の影響を受けやすい『アジアで食料価格高騰、貧困層に大打撃』 2008年2月12日付配信 AFP。 国際取引について 米は三大穀物とも呼ばれ大量に生産されているが、生産量に比べ国際間の取引流通量は少ない。これは主に生産国内でまず主食として消費されるため、国外...
  • 中央倶楽部
    中央倶楽部(ちゅうおうくらぶ)は、明治・大正時代に存在した日本の政党(1910年3月1日-1913年2月5日)。 日露戦争後の立憲政友会の勢力拡大に危機感を抱いた反政友会党派の間で統一新党を目指す動きが生じたが、政党政治を目指す憲政本党・又新会と藩閥に近い大同倶楽部・戊申倶楽部との間で路線対立が明らかとなり、前者は立憲国民党を結成、これに対して後者が結成したのが中央倶楽部である。 桂内閣の衆議院における別働隊であり、桂太郎側近の大浦兼武・安達謙蔵が中心として活動し、日韓併合や陸軍の2個師団増設を支持した。大正政変に伴って浮上した桂を中心とする「桂新党」構想において中心的な役割を果たし、桂の没後に発足した立憲同志会に合流して解散した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年5月20日 (日) 13 24。 ...
  • 日露協約
    日露協約(にちろきょうやく)は日露戦争後に締結した日本とロシア帝国がお互いに権益を認め合った4次にわたる協約。秘密条項では日本はロシアの外モンゴルにおける権益、ロシアは日本の朝鮮における権益を認めた。しかし、1917年のロシア革命でロシア帝国が滅亡すると、協約はソビエト政府によって破棄され、日本は中国権益の危機を迎えることとなる。 第一次日露協約 1907年(明治40年)7月30日調印。公開協定では日露間及び両国と清国の間に結ばれた条約を尊重することと、清国の独立、門戸開放、機会均等の実現を掲げる一方で、秘密協定では日本の南満州、ロシアの北満州での利益範囲を協定した。また、ロシアの外蒙古、日本の朝鮮(大韓帝国)での特殊権益も互いに認めた。 第二次日露協約 1910年(明治43年)7月4日調印。アメリカの南満州鉄道中立案(ノックス提案)の拒否を協定し、両国の満州権益の確保を確...
  • 士族反乱
    士族反乱(しぞくはんらん)は、日本の明治初期に旧武士階級であった士族が明治政府に対して起こした一連の反政府活動である。 江戸時代後期に開国し、王政復古により成立した明治政府は四民平等政策のもと、大名、武士階級を廃止して華族、士族を創設する。秩禄処分により俸禄(家禄)制度は撤廃され、廃刀令の施行など身分的特権も廃された。また、明治政府が行う文明開化、殖産興業政策による西洋技術・文化の輸入、朝鮮出兵を巡る征韓論で政府が紛糾し、明治六年の政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれる。 1874年には江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱(佐賀の乱)し、1876年(明治9)には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士による秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧される。1877年には鹿児...
  • 第三次日韓協約
    第三次日韓協約(だいさんじにっかんきょうやく)は、1907年(明治40年)7月24日に締結された協約。 ハーグ密使事件をうけて、日本は1907年7月18日に高宗を退位させた。第二次日韓協約によって日本の保護国となりすでに外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この条約により、高級官吏の任免権を韓国統監が掌握すること(第4条)、韓国政府の官吏に日本人を登用できること(第5条)などが定められた。これによって、朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散・司法権と警察権の委任が定められた。 全文 第一條 韓國政府ハ施政改善ニ關シ統監ノ指導ヲ受クルコト 第二條 韓國政府ノ法令ノ制定及重要ナル行政上ノ處分ハ豫メ統監ノ承認ヲ經ルコト 第三條 韓國ノ司法事務ハ普通行政事務ト之ヲ區別スルコト 第四條 韓國高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト ...
  • 五族協和
    五族協和(ごぞくきょうわ) 大日本帝国が満州国を建国した時の理念。満州国を参照のこと。 1912年に中華民国が成立した際に唱道した理念は、五族共和を参照のこと。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年7月29日 (日) 13 02。     
  • 台湾銀行
    台湾銀行(たいわんぎんこう) 第二次世界大戦までにあった特殊銀行(#日本統治時代で記述)。 現在、台湾にある金融機関。台湾銀行(#第二次世界大戦後で記述)。 日本統治時代 台湾銀行(たいわんぎんこう)は1895年の台湾統治後、日本政府の国策により設置された台湾の中央銀行で、紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。1899年に開業、1945年に閉鎖された。 台湾における産業の育成、中国への投資などを行った。第一次世界大戦中の戦争景気で投機的な取引を行い莫大な利益を上げた鈴木商店に資金を融通し、この頃から、台湾内の取引額より、日本での取引額が上回った。昭和始めの時点で、総貸出額7億円余りのうち、半分近くの3億5千万円が鈴木商店への貸出しであった。 戦後不況で鈴木商店が危機に陥ると、震災手形で一時凌ぐが、膨大な不良債権を抱え、1927年の昭和金融恐慌で休業に陥る。モラトリア...
  • 愛国公党
    愛国公党(あいこくこうとう)は、 最初の自由民権運動の政治結社。 明治時代中期の政党。 愛国公党 (1874年) 征韓論、明治六年の政変で下野した板垣退助らは、幸福安全社を基礎に明治7年(1874年)1月12日、東京の京橋区銀座副島種臣邸に同士を集めて結成。天賦人権論に基づき、基本的人権を保護し民撰議院設立を政府に要求することが当面の政治課題の第一であると謳っている。1月17日、板垣、副島らは政府に対して『民撰議院設立建白書』を提出した。建白書には、この他、後藤象二郎、江藤新平、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋が署名している。愛国公党は、日本でも初期の政治結社に数えられるが、議会の開催前に活動を開始したこともあり、その誕生は時代の流れよりも早すぎた、という感は否めない。後に板垣退助や片岡健吉が帰郷し、江藤も佐賀の乱に加わったため活動を停止し、自然消滅を迎えることとな...
  • 吉田茂-2
    前半は、吉田茂参照 年譜 明治11年(1878年)9月22日 東京神田駿河台に生まれる 明治14年(1881年)8月 吉田家と養子縁組 戸太町立太田学校(現・横浜市立太田小学校)卒業 明治22年(1889年)2月 寄宿制私立中学耕余義塾入学 明治27年(1894年) 4月 耕余義塾卒業 9月 日本中学校(現・日本学園 )入学 明治28年(1895年) 9月 高等商業学校(現・一橋大学)入学 11月 高等商業学校退校 明治29年(1896年) 3月 正則尋常中学校(現・正則高等学校)卒業 9月 東京物理学校(現・東京理科大学)入学 明治30年(1897年)10月 学習院高等学科入学 明治34年(1901年) 8月 学習院高等学科卒業 9月 学習院大学科入学 明治37年(1904年) 7月 学習...
  • 柳川平助
    Template Infobox 軍人? 柳川 平助(やながわ へいすけ、1879年10月2日 - 1945年1月22日)は、長崎県出身の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。司法大臣、国務大臣。 出自 1879年に長崎県西彼杵郡村松(むらまつ)村(2007年現在・長崎市村松町、旧西彼杵郡琴海(きんかい)町村松郷大石)に生まれる。幼少時に佐賀県の柳川家に養子に出る。実兄・楠木志能夫(くすきしのぶ、1953年死去)は、長崎県大村市の開業医(眼科)。 村松小から旧制長崎中学を経て、1900年に陸軍士官学校(12期)を卒業。中尉で日露戦争に従軍。1912年に陸軍大学校(24期)を優等で卒業。 陸軍騎兵実施学校教官、陸軍大学校教官を経て、1918年に北京陸軍大学校に教官として着任。国際連盟派遣、欧州駐在を経て荒木貞夫陸軍大臣の下で1932年に陸軍次官、真崎甚三郎らと皇道派の重鎮となる。...
  • 川島芳子
    川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 - 1948年3月25日)は清朝粛親王の王女。生名は愛新覚羅 顕シ(あいしんかくら けんし)(シは王ヘンに子)、字は東珍、中国語名は金璧輝。 日本人の養女となり日本で教育を受ける。清朝復辟のために日本軍に協力し、戦後中華民国政府によって「漢奸」として訴追され刑死。 経歴 粛親王善耆第十四王女 粛親王善耆の第十四王女として光緒33年旧暦4月12日(西暦1907年5月24日)北京に生まれた。生母は粛親王の第四側妃。粛親王家は清朝太宗ホンタイジの第一子武粛親王豪格を祖とし、親王位の世襲を認められた名門であった。(通常は皇族の爵位は一代ごとに降格する) 本名愛新覚羅顕シ(シは王ヘンに子)、字東珍、別名金璧輝。字の由来は日本へ養女にいく際に東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いがこめられてつけられた。別名の金璧輝は兄金壁東からと...
  • コーデル・ハル
    Template Thumbnail begin? Template Thumbnail 画像? Template Thumbnail ノーベル賞受賞者? Template Thumbnail end? コーデル・ハル(Cordell Hull、1871年10月2日 - 1955年7月23日)は、アメリカ合衆国の政治家。フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトの下で1933年から1944年まで国務長官を務めた。1945年のノーベル平和賞の受賞者。 経歴 ハルはテネシー州ピケット郡で生まれた。彼は1889年から1890年までオハイオ州レバノンの国立師範大学で学び、1890年にテネシー民主党大会に代表を務めた。19歳のときにハルはクレイ郡民主党の議長に選ばれた。1891年にカンバーランド大学法律学校を卒業し法曹界入りする。彼の政治経歴は1893年のテネシー州議会で始まった。...
  • 桜会
    桜会(さくらかい)とは、日本の軍事国家化と翼賛議会体制への改造を目指して1930年(昭和5年)に結成された超国家主義的な秘密結社である。 参謀本部の橋本欣五郎中佐、長勇(ちょう いさむ)少佐らは、政党政治が腐敗しているとして国民の大多数を占める農民の窮状に日本の将来が危惧されるとして、いわゆる満蒙問題を主張し農民の窮状解決の活路を求めた。また、従来の反ソ親米路線を廃し反米反中への転換と政党内閣を廃して軍事政権を樹立する国家改造構想を抱いていた。彼らは1930年(昭和5年)9月に桜会を結成、参謀本部や陸軍省の中佐以下の中堅将校100余名が参加した。 同会は大川周明らと結んで、1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画(いずれも未遂)。軍部の独走を助けた。 組織は十月事件後に解散させられたが、同会に所属していた会員の中から多くの将校が統制派として台頭。対立する皇道派...
  • 満鉄調査部
    満鉄調査部(まんてつちょうさぶ)は、戦前に存在した南満州鉄道の調査機関である。 設立は明治40年(1907年)。 概要 1906年に南満州鉄道(満鉄、総裁後藤新平)が発足した翌年、満鉄調査部が設置された。当初は満鉄の経営のための調査をはじめ中国東北地区などの政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究を行なったが、その後の日本の中国進出の拡大に呼応してその対象を広げ、中国そのものを対象とした本格的な調査研究も行うようになっていった。 他方、多数の調査要員を必要としたこともあり、日本国内で活動の場を失っていた多数の自由主義者、マルクス主義者などを取り込むようになり、やがてその活動は軍部の忌避するところとなって2度にわたる弾圧事件を受け、活動を縮小した。 満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクであるとしばしば形容される。日本の敗戦と満州国の消滅により満鉄が消滅した後も、満鉄...
  • 日仏協約
    日仏協約(にちふつきょうやく)とは、1907年6月10日にパリにおいて日本・フランス両国間で締結された条約。 駐フランス大使栗野慎一郎とフランス外相ステファン・ピションの間で調印され、アジアにおける両国の利益と安全保護を約束した。これによってフランスは日本との関係を相互的最恵国待遇に引き上げることを同意する代わりに日本はフランスのインドシナ半島支配を容認して、ベトナム人留学生による日本を拠点とした独立運動(ドンズー運動)を取り締まることを約束した。また、両国は清国の独立を保全するとともに清国内におけるお互いの勢力圏を認め合った。これによってフランスは広東・広西・雲南省を、日本は満州と蒙古、それに秘密協定によって福建省を自国の勢力圏として相手国側に承認させたのである。なお、フランス側が議会・世論対策のために自国マスコミに交渉内容をリークしたために、清国側からの抗議を受ける事態も生じた。また...
  • ジョン・ラーベ
    ジョン・ラーベ(John H. D. Rabe, 1882年11月23日 - 1950年1月5日)は、ドイツの実業家一説には、ラーべは対中国国民党の武器商人とされている(田中正明による主張。ただし田中はその根拠を示しておらず、また田中の説に同調する歴史学者も存在しない。)。南京安全区国際委員会委員長。 経歴 ハンブルクに生まれる。商社での修業ののちアフリカにわたって数年を過ごし、1908年に中国に移り、1910年からジーメンス社の中国支社で勤務。1937年、日本軍による南京攻略戦の際に、他の10数人の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会の委員長となって、中国民間人を保護する。そのほか自分の所有する土地にハーケンクロイツ旗を掲げ、民間人を日本軍の爆撃から守ろうとした(602人が避難してきたという)。南京陥落後は、非人道的行為の防止に尽力する。 1938年2月28日に南京を去り...
  • 大同協和会
    大同協和会(だいどうきょうわかい)は、日本最初の自由党解散後、大同団結運動の一片として、1889年 (明治22年) 5月10日に結成され、翌1890年 (明治23年)1月21日に解散した。 1884年に自由党が解散してからしばらく後、1886年に民権派政治家の力を結集するべく、大同団結運動が呼びかけられた。1889年にはこの運動に沿った組織結成の機運が高まったが、この時、まとまった政治団体を志向する河野広中・犬養毅ら政社派と、ゆるやかな連絡組織を望んだ大井憲太郎らの非政社派の対立が表面化した。そして大同団結運動の主導者であった後藤象二郎が突如黒田内閣の逓信大臣として入閣して運動からの離脱を表明したのを機に両派は4月に決別し、5月に政社派の団体として大同倶楽部が、非政社派の団体として大同協和会が発足した。 大井は新井省吾・小久保喜七・石阪昌孝らとともに自由党再興を目指して運動を繰り広げる...
  • 領事裁判権
    領事裁判権(りょうじさいばんけん)とは、不平等条約によって定められた治外法権のひとつで、在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国法に則り裁判する権利を言う。 日本では1858年に締結された日米修好通商条約に 第6條  日本人に對し法を犯せる亞墨利加(アメリカ)人は、亞墨利加コンシュル裁斷所(領事裁判所)にて吟味の上、亞墨利加の法度(法律)を以て罰すへし。亞墨利加人に對し法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を以て罰すへし。 とあり、その後安政年間にイギリス、フランス、オランダ、ロシアと締結した安政五カ国条約にすべて領事裁判権の定めがある。 領事は本来、外交官であって裁判官ではないから、領事裁判ではしばしば本国人に極めて有利な判決が下された。治外法権撤廃は明治政府の外交にとって大きな課題となり、1911年までに完全に撤廃された。 治外法権による領事裁判権は、15世紀...
  • 戦術爆撃
    戦術爆撃(せんじゅつばくげき)は火砲、戦車、艦船などの戦術的な目標に爆撃を加えること。工場や都市部などの戦略目標に爆撃を浴びせる戦略爆撃と対比される。 概要 戦術爆撃が始まったのは第一次世界大戦においてである。戦術爆撃は戦闘機、戦闘爆撃機(攻撃機)または軽爆撃機によって行われる。戦術目標は戦略目標と異なり、移動能力を有するため高高度からの水平爆撃ではなく、急降下爆撃によって行われることが多かった。一般に戦術爆撃が行われる目的は地上部隊の援護である。例えば第二次世界大戦においてはJu87スツーカは電撃戦において、重要な役割を果たした。 現代の戦術爆撃は対空兵装が進化したことにより、精密誘導爆弾などによる高高度からの爆撃となっている。このため、以前は戦略爆撃と戦術爆撃は目標と方法の両方が異なっていたのに対し、現在では目標のみの差になりつつある。 戦術爆撃機 戦術爆撃を主な目的とす...
  • 聯合艦隊解散之辞
    聯合艦隊解散之辞(れんごうかんたいかいさんのじ)とは、日露戦争終結後の連合艦隊解散式において東郷平八郎長官が読み上げた訓示のことである。海軍・海軍軍人の心得を示し、名文の誉れが高い。 概要 日露戦争は日本にとっての総力戦であり、各所で苦戦しつつもロシア軍に勝利を収めることができた。日本海軍は、ロシア海軍に対抗するために、開戦時に常備艦隊を再編成し、連合艦隊を編成した。連合艦隊は旅順や日本海海戦でロシア艦隊を撃破し、日本の勝利に貢献した。 終戦後、戦時編成の連合艦隊を解散し、平時編成に戻すこととなり、解散式が1905年12月21日に行われた。その解散式において連合艦隊司令長官・東郷により聯合艦隊解散之辞が読まれることとなった。訓示は東郷の筆であるが、文面の起草は参謀秋山真之と言われている。 訓示の骨子は、日露戦争と歴史を紐解きつつ国家における海軍の大事を説き、平時における海軍や海...
  • 荒木貞夫
    Template Infobox 軍人? 荒木 貞夫(あらき さだお、1877年5月26日 - 1966年11月2日)は大正~昭和の陸軍大将、第一次近衛内閣、平沼内閣の文部大臣。皇道派の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。 来歴・人物 東京都狛江市出身。小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。誕生日は木戸孝允の命日でもある。日本中学中退を経て、1897年11月陸軍士官学校卒業。1907年11月陸軍大学校を首席で卒業。 第一次世界大戦中はロシア従軍武官。シベリア出兵では特務機関長にて参加。その後、憲兵司令官等を歴任。 1931年より犬養毅・斎藤実内閣陸相。1934年、軍事参議官。1935年、男爵。1936年、二・二六事件の粛軍の結果、予備役に編入される。 1938年~1939年、第1次近衛文麿内閣・平沼騏一郎内閣文相として国民...
  • 大隈重信
    Template 日本の内閣総理大臣? 大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現:早稲田大学)の創立者。幼名は八太郎。 略歴 生い立ち 佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学、後に復学を許されたが戻らず、この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。安政...
  • 渡辺錠太郎
    渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年4月16日 - 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。 家族 愛知県の出身。煙草店・和田武右衛門の長男。のちに農家の渡辺庄兵衛の養子となる。実弟の和田庫吉も陸士20期卒で陸軍少佐になっている。子息の恭二は陸士57期の陸軍中尉。 次女にノートルダム清心学園理事長で修道女の渡辺和子がいる。二・二六事件に際して、父の殺害を目撃した。 教育総監への就任 1930年代前半、陸軍内部では皇道派の勢力が伸張していたが、中心人物である荒木貞夫陸相は強権的人事により評判が低下した。荒木が1934年に病気を理由に陸相を辞任したことで、皇道派の勢いは衰え、陸相の後任には荒木の要望に反して林銑十郎が就任した。 翌年7月、荒木の腹心の部下である真崎甚三郎教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた渡辺が選...
  • 有司専制
    有司専制(ゆうしせんせい)とは、明治政府の藩閥官僚中心・超然主義の政府を批判した言葉。 1874年に板垣退助・後藤象二郎らによって政府へ出された『民選議院設立建白書』の中にある「臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラス下人民ニ在ラス、而独有司ニ帰ス」の言に由来しており、「有司」とは政府官僚を指して議会政治によらず彼らの合議だけで国家の方針を決めている現状は、国民の「輿論公議」を重んじるとした『五箇条の御誓文』の精神に反すると痛烈に批判し、以後自由民権運動における政府批判と議会設置を求めるスローガンとして用いられた。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年5月27日 (日) 18 57。     
  • 大川周明
    Template Infobox Celebrity? 大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 - 1957年12月24日)は、戦前の代表的な思想家の一人。 なお戦後は、イスラームへの興味から、コーランの全文翻訳するなど日本のイスラーム研究にも貢献した。 出自 山形県酒田市出身。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。「特許植民会社制度の研究」で法学博士(1926年取得)。東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務の後、法政大学教授大陸部(専門部)部長を経て拓殖大学教授。 学生時代 後にともに活動する北一輝らと同様に、平民新聞の読者であった。 荘内中学時代は、庄内藩の儒者・角田俊次宅に下宿し、このときに漢学の素養を身につけた。 五高時代には、栗野事件で活躍した。 戦前の活動 インドの独立運動を支援。ヘー...
  • 桂園時代
    桂園時代(けいえんじだい/けいおんじだい)とは、陸軍・山縣有朋閥に属する桂太郎と、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁に就いた西園寺公望が、政権を交互に担当した1905年から1912年の8年間をいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。 桂園時代は、桂に代表される官僚・軍部と西園寺に代表される有力政党である立憲政友会が「情意投合」と呼ばれる連携体制を組んで交互に首相に就任した(この間にも松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たずにいずれも断念に追い込まれている)。特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものである。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけである。 なお、「桂園」は和歌の流派...
  • リヒャルト・ゾルゲ
    {{Infobox 軍人 |name=リヒャルト・ゾルゲTemplate lang-ru-short? |lived=1895年10月4日 - 1944年11月7日 |placeofbirth=アゼルバイジャン、バクー |placeofdeath=巣鴨拘置所 |image= |caption=リヒャルト・ゾルゲの功績を称えて発行された旧ドイツ民主共和国の切手 |nickname= |allegiance=ソビエト軍 |serviceyears= |rank= |commands= |unit=労農赤軍参謀本部第4局 |battles= |awards=ソ連邦英雄勲章 (死後) |laterwork= |Mausoleum=多磨霊園 }} リヒャルト・ゾルゲ(Template lang-ru-short?、Template lang-de-shor...
  • 鈴木貞一
    Template 基礎情報 軍人? 鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年12月16日 - 1989年7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東条英機側近三奸の一人とされる。 略歴 千葉県の地主である鈴木八十吉の長男として生まれ、東京の成蹊学舎、京北中学校を経て、1910年に陸軍士官学校(22期)、1917年に陸軍大学校(29期)を卒業。元々は満州の森林開発に携わることを志望しており、卒業後も支那問題に関する研究を続けたことから、参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、上海及び北京、武漢に駐在。 1929年5月19日、石原莞爾・永田鉄山・東條英機・板垣征四郎ら陸軍中堅将校が結成した一夕会に参加。1931年、三月事件に参加。情報戦・宣伝戦のエキスパートとされ、北京時代以来、古野伊之助との縁も深い。 鈴木は前述の通り、...
  • カイロ宣言
    thumb|300px|[[カイロ (エジプト)|カイロ会談における中華民国軍事委員会委員長蒋介石・アメリカ大統領ルーズベルト・イギリス首相チャーチル。(1943年11月25日)]] カイロ宣言(Cairo Declaration)は、第二次世界大戦中の1943年に開かれたカイロ会談を経て示された宣言。連合国の対日方針などが定められた。 概要 1943年11月、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国主席の蒋介石によってカイロ会談が行われ、その内容を踏まえて11月27日に署名、12月1日に発表された声明が「カイロ宣言」と称される。この声明は後日、連合国の対日基本方針となった。主要な内容は以下の通りである。 米英中の対日戦争継続表明 日本国ポツダム宣言の「日本軍の無条件降伏 the unconditional surrende...
  • 萬朝報
    萬朝報(よろずちょうほう)は、かつて存在した日本の日刊新聞。紙名は「よろず重宝」のシャレから来ている。 1892年11月1日、都新聞を辞した黒岩涙香の手により、東京で創刊される。発行所名は「朝報社」であり、学術論文にすら見られる「萬朝報社」という誤記は、紙名からくる間違いである。 日本におけるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルについて執拗なまでに追及。「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した。一時淡紅色の用紙を用いたため「赤新聞」とも呼ばれた。また第三面に扇情的な社会記事を取り上げた事で「三面記事」の語を生んだ。 「永世無休」を掲げ、「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」をモットーとし、低価格による販売と黒岩自身による翻案小説の連載(『鉄仮面』『白髪鬼』『幽霊塔』『巌窟王』『噫無情』等々)、家庭欄(百人一首かるたや連珠(五目並べ)を流行らせた)や英...
  • 永田鉄山
    Template Infobox 軍人? 永田 鉄山(ながた てつざん、1884年1月14日 - 1935年8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍省軍務局長、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。追贈であるが、正四位勲一等に叙され瑞宝章を受けている。 略歴・人物 長野県諏訪郡上諏訪町本町出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校をいずれも首席、陸軍大学校も2位で卒業する秀才ぶりで、軍務官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される人物だったが、陸軍内部の派閥抗争に絡んで陸軍中佐相沢三郎に暗殺される。皇道派の領袖、陸軍大将真崎甚三郎を教育総監の要職から更迭したことが暗殺の引き金となっている。死亡当時、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。 郡立高島病院長永田志解理の子として生まれ、高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小...
  • 水平社宣言
    水平社宣言(すいへいしゃせんげん)は、全国水平社創立に際して、その告文として発された宣言文であり、日本最初の人権宣言ともいわれる。西光万吉を起草者として、平野小剣など幾人かの添削を経て完成に至り、京都は岡崎公会堂において開かれた全国水平社創立大会の場において、大正11年3月3日、起草者の西光自らによって読み上げられ、ここに部落解放運動の勃興が全国に知らしめられた。 特徴 集団および個人としての諸姿勢の訓戒等 余話 米国、ロシア、英国、フランス等においては、『日本で初めての本来民衆による解放運動が起こった』との旨で、トップニュースで伝えられたという。 締めの一文である『人の世に熱あれ、人間に光あれ』は人権標語などにたびたび用いられることで今にも広く認知を得ている。 関連項目 部落問題   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007年5月...
  • 東洋自由新聞
    東洋自由新聞(とうよう じゆう しんぶん)は、明治初期に刊行された新聞。 1881年(明治14年)3月18日に東京で創刊。山城屋の稲田政吉を社主とする東洋自由新聞者発行。社は東京銀座通りの活版印刷所績文社に同居。 自由民権運動が興隆した明治14年10月に結党される自由党の準備会において機関紙発行が否決されたため、フランス留学経験のある華族の西園寺公望や仏学塾を経営する中江兆民(篤助)、光妙寺三郎らフランス派知識人と、新潟の山際七司、信州の松沢求策ら地方で活躍した民権派が合流して独自に創刊された。 幹事の松田正久、監督委員に森新三郎。編集委員には主筆の中江のほか、柏田盛文、上条信次、桑野鋭、松沢求策、林正明らを社員に東京で創刊。自由民権と君民共治、フランス流急進自由主義を主張。当初は2000部を印刷し、後に1600部に減じた。 西園寺の社長就任は明治政府や宮中でも物議を呼び、右大臣岩...
  • 三月事件
    三月事件(さんがつじけん)とは、1931年(昭和6年)3月の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された、クーデター未遂事件である。 計画 1930年(昭和5年)に政治結社「桜会」を結成した橋本欣五郎中佐、長勇(ちょう いさむ)少佐、田中清少佐らは、「我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」との主張の下、軍部による国家改造を目指して国家転覆を画策した。これに小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長ら当時の陸軍上層部や社会民衆党の赤松克麿、亀井貫一郎、右翼の思想家大川周明や右翼活動家・清水行之助らも参画。また、活動資金として徳川義親が20万円を出資(戦後返還)した。 計画では、3月下旬に大川、亀井らが1万人の大衆を動員して議会を包囲。また政友会、民政党の本部や首相官邸を爆撃する。混乱に乗じ、陸軍を出動させて戒厳令を布き、議場に突入して濱口内閣の総辞職を要求...
  • 唐生智
    唐生智(とう せいち、1889年 - 1970年4月6日)は、中華民国の軍人、中華人民共和国の政治家。 1937年12月における南京防衛戦の総指揮官を蒋介石より任命される。7日に蒋介石が南京を脱出した後も徹底抗戦の指示を守り、12月9日の日本軍からの降伏勧告にも抵抗を以て返答。その後、南京陥落直前の12日夕方に全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」という命令を出し自らは南京城を脱出。この時に明確な撤退命令を出さず、更にこの指示は中国軍の末端までは伝わらず、多くの中国兵が指揮系統不在のまま南京に取り残され、結果、その後も散発的に戦闘が続けられる事になった南京陥落時の混乱については南京大虐殺参照。。中華人民共和国の成立以降も大陸に残る。1949年、湖南省の知事に命じられ、中国国民党革命委員会の委員、全国人民代表大会の常務委員を歴任した。 中国語版翻訳2007年6月1日の版で...
  • 坂本龍馬-2
    前半は坂本龍馬-2参照 文献 原典 1935年 坂本龍馬、由利公正著、尾佐竹猛解題『近世社会経済学説大系』第14、誠文堂新光社 各巻タイトル 坂本龍馬・由利公正集 / 尾佐竹猛解題 1978年5月 平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 限定版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p907 - 952 1980年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補改訂版 1982年11月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補3訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p987 - 1032 1988年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店、ISBN 4875194005 増補4訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p1045 - 1090 1988年12月、岩崎英重...
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