chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「1523年」で検索した結果

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  • 仮20
    ...7年) 三浦の乱 1523年(大永3年) 寧波の乱 1531年(享禄4年) 享禄の乱 1532年(天文元年) - 1535年(天文4年) 天文の乱 1536年(天文5年) 天文法華の乱 1543年(天文12年、一説に1542年(天文11年)) ポルトガル人、大隅国種子島に漂着し、鉄砲を伝える。 1549年(天文18年) フランシスコ・ザビエル、薩摩国鹿児島に上陸し、キリスト教を伝える。 1550年代 南蛮貿易はじまる。 1553年(天正22年) - 1564年(永禄7年) 川中島の戦い 1553年(天文22年) 第1次合戦 1555年(天文24年) 第2次合戦 1557年(弘治3年) 第3次合戦 1561年(永禄4年) 第4次合戦。最大の激戦。 1564年(永禄7年) 第5次合戦 1555年(弘治元年) 厳島の戦い 1560年(永禄3年) 桶狭間の戦い...
  • 加藤友三郎内閣
    {{日本の内閣記事|かとうともさぶろう ないかく|21|加藤友三郎|Template 和暦?|6月12日|Template 和暦?|9月2日|官僚、貴族院を基盤。立憲政友会の閣外協力。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/21.html|海軍大将}} 概要 高橋内閣の総辞職後、元老会議は立憲政友会の内紛を理由に高橋以外の人選を進め、加藤を後任として推挙したが、現役海軍大将である加藤は衆議院における政治基盤の無さを理由にこれを辞退する。一方、政友会では高橋是清総裁(前首相)・岡崎邦輔・山本悌二郎の両総務・横田千之助幹事長が会談を開き、加藤辞退の場合には候補者不足のために憲政会の加藤高明が推挙されることが予想されたことから、加藤友三郎に対しては「党員入閣でも好意的局外中立でも無条件をもって内閣組織を援助する」意向を伝え、一方...
  • 日本史の出来事一覧
    ...7年) 三浦の乱 1523年(大永3年) 寧波の乱 1531年(享禄4年) 享禄の乱 1532年(天文元年) - 1535年(天文4年) 天文の乱 1536年(天文5年) 天文法華の乱 1543年(天文12年、一説に1542年(天文11年)) ポルトガル人、大隅国種子島に漂着し、鉄砲を伝える。 1549年(天文18年) フランシスコ・ザビエル、薩摩国鹿児島に上陸し、キリスト教を伝える。 1550年代 南蛮貿易はじまる。 1553年(天正22年) - 1564年(永禄7年) 川中島の戦い 1553年(天文22年) 第1次合戦 1555年(天文24年) 第2次合戦 1557年(弘治3年) 第3次合戦 1561年(永禄4年) 第4次合戦。最大の激戦。 1564年(永禄7年) 第5次合戦 1555年(弘治元年) 厳島の戦い 1560年(永禄3年) 桶狭間の戦い...
  • 慶応
    Template 改名提案? 慶應(けいおう、新字体では慶応)は、日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。 改元 元治2年4月7日(グレゴリオ暦1865年5月1日) 禁門の変や社会不安などの災異のために改元 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) 明治に改元、同年1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用。 江戸時代最後の改元。将軍徳川家茂が朝廷に対して「何以被採用所存無之候」「叡慮之通慶応可然被存候」と述べて改元については孝明天皇の意向に全て従うという意見書を出し、改元当日の御所での儀式を諸藩代表に公開するなど、江戸幕府創設以来幕府が指示してきた改元制度が終焉した事を示すものとなった。 ちなみに、慶應改元の際には候補の一つとして「平...
  • 仮82
    Template 改名提案? 慶應(けいおう、新字体では慶応)は、日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。 改元 元治2年4月7日(グレゴリオ暦1865年5月1日) 禁門の変や社会不安などの災異のために改元 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) 明治に改元、同年1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用。 江戸時代最後の改元。将軍徳川家茂が朝廷に対して「何以被採用所存無之候」「叡慮之通慶応可然被存候」と述べて改元については孝明天皇の意向に全て従うという意見書を出し、改元当日の御所での儀式を諸藩代表に公開するなど、江戸幕府創設以来幕府が指示してきた改元制度が終焉した事を示すものとなった。 ちなみに、慶應改元の際には候補の一つとして「平...
  • 東部軍管区 (日本軍)
    Template 軍隊資料? 東部軍管区(とうぶぐんかんく)は、大日本帝国陸軍の軍管区の一つ。 沿革 本土決戦に備え、1945年(昭和20年)2月1日に、旧来の東部軍を改編したものである。発足当初は防衛総司令部隷下であったが、その後すぐに防衛総司令部も第1総軍・第2総軍に改編され、第1総軍隷下となった。 もともとは、1923年(大正12年)11月に東京警備司令部令(大正12年勅令第480号)に基づいた東京警備司令部が設置されていた。これは首都圏(東京府東京市、荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡、神奈川県横浜市及び橘樹郡)の警備を目的としたもので、それまでの関東戒厳司令部に代わるものであった。 その後、1935年(昭和10年)8月に東部・中部・西部の各防衛司令部が設置され、東部防衛司令部と東京警備司令部は兼職とされたが、1937年(昭和12年)11月30日から東部防...
  • 震災手形
    震災手形(しんさいてがた)は、関東大震災のため支払いができなくなった手形のこと。往時の報道では震手と略称された。特別に震災手形と呼ばれるものが出回ったのではなく、一般に流通する手形のうち、被災地に関わるもののみが緊急勅令によるモラトリアムや法令により日本銀行が再割引することで補償の対象となり、こう呼ばれる。再割引の際にはスタンプを捺して識別した。但し、混乱に乗じて、折からの不況で不良債権となったものも大量に紛れ込んだ。 起因 1923年9月1日に起こった関東大震災は当時の日本銀行の推計で45.7億円の損害が出た。当時の国家予算が15億円であった事を見ても、甚大な被害であることが判る。このため被害を受けた企業が支払いが出来なくなる事態を想定して、9月7日緊急勅令によるモラトリアムが出され、9月中に支払期限を迎える金融債権のうち被災地域の企業・住民が債務者となっているものについては支払期限...
  • 内閣総理大臣の一覧
    内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 18...
  • 第2次山本内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ やまもと ないかく|22|山本権兵衛|Template 和暦?|9月2日|Template 和暦?|1月7日||なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/22.html|退役海軍大将}} Template 和暦?8月24日の加藤友三郎首相の急逝、同年9月1日の関東大震災発生という混乱状態のさなかで組閣された。Template 和暦?12月27日に発生した虎ノ門事件の影響で総辞職した。 大臣と次官に錦城学校(現・錦城高等学校)の出身者が5名(伊集院彦吉外相、井上準之助蔵相、山之内一次鉄道相、小松謙次郎逓信次官、財部彪海相)いたため、錦城内閣とも称された同校公式サイトの学校紹介のページより。ただし、小松謙次郎が「逓信大臣」と誤記されている。。 閣僚 内閣総理大臣 山本権兵衛 外務大臣 山本権兵衛...
  • 第1次山縣内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ やまがた ないかく|3|山縣有朋|Template 和暦?|12月24日|Template 和暦?|5月6日|藩閥内閣|第1回衆議院議員総選挙|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/03.html|前職 = 陸軍中将・監軍}} Template 和暦?11月29日に大日本帝国憲法が施行されたため、この内閣の在任時に日本で議会制度(帝国議会)が開始された。 概要 条約改正交渉に失敗して倒れた黒田内閣の後を受けて成立した。内閣職権を廃して内閣官制を導入、「大宰相主義」を否定して内閣総理大臣を「同輩中の首席」と位置づけた。教育勅語の発布、第1回衆議院議員総選挙の実施(Template 和暦?7月1日)、府県制・郡制の導入などを行った。 1890年(明治23年)11月25日に召集された第1議会において、...
  • 学習院
    学習院(がくしゅういん)は、旧宮内省が設置した官立学校。 沿革 学習院大学等の関連項目の当該節も参照されたい 1847年(弘化4年) 京都御所日御門前に学習院開講する。 1849年(嘉永2年) 「学習院」の勅額下賜される。 1868年(明治元年) 京都学習院を大学寮代と改称する。 1877年(明治10年) 華族学校学則制定。神田錦町にて開業式挙行。 1884年(明治17年) 宮内省所轄の官立学校となる。 1885年(明治18年) 四谷区尾張町に華族女学校を設置する。 1888年(明治21年) 学習院が麹町区三年町の工部大学校跡に移転する。 1889年(明治22年) 華族女学校が麹町区永田町に移転する。 1890年(明治23年) 学習院が四谷区尾張町に移転する。 1906年(明治39年) 華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称する。 19...
  • 大審院
    大審院(たいしんいん、だいしんいん)とは、明治時代初期から現在の最高裁判所が設置されるまで存続した日本における最高の司法裁判所である。 概要 フランスの破棄院をモデルとして設置され、主として民事・刑事の終審として、特別裁判所(大日本帝国憲法60条。皇室裁判所・軍法会議など。)及び行政裁判所(同憲法61条)の管轄に属しない事項について、裁判を行った。現在の最高裁判所に相当し、大審院長は最高裁判所長官に相当する。 大審院は、終審として上告及び控訴院等がした決定・命令に関する抗告を受け、また、第一審かつ終審として刑法の皇室に対する罪(不敬罪など。昭和22年削除。)、内乱に関する罪、皇族の犯した罪にして禁錮以上の刑に処すべきものの予審及び裁判を行うものとされた(裁判所構成法50条)。 大審院の重要な判例は、1921年(大正10年)までのものについては『大審院判決録』(民録・刑録)に、1...
  • 平沼騏一郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日(慶応3年9月28日) - 1952年(昭和27年)8月22日)は、日本の官僚。第35代内閣総理大臣。従二位勲一等、男爵、法学博士。日本大学第2代総長。大東文化学院(後の大東文化大学)初代総長。大東文化協会(大東文化大学の設立母体)三代会頭。国本社の創設者。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、東京裁判でA級戦犯で訴追され終身刑の判決。1952年、病気仮釈放、直後に死去。1978年に靖国神社に合祀された。 人物像 生い立ち 1867年(慶應3年)9月28日、津山城下南新座(後の岡山県津山市)に津山藩士平沼晋の次男としてうまれる。 1872年(明治5年)に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年(明治11年)に東京大学予...
  • 閑院宮載仁親王
    Template Infobox 軍人? 閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、慶応元年9月22日(1865年11月10日) - 昭和20年(1945年)5月20日)は日本の皇族、陸軍軍人。伏見宮邦家親王第16王子。元帥陸軍大将大勲位功一級。 経歴 3歳で出家し真言宗醍醐派総本山三宝院門跡を相続するが、明治4年(1871年)伏見宮に復籍のうえ、翌年前当主閑院宮第5代愛仁親王の没後、孝仁親王妃吉子が当主格に遇されていた閑院宮家を継承する。 1877年(明治10年)上京し陸軍幼年学校に入学、1878年(明治11年)8月26日に親王宣下、幼名「易宮」を改めて載仁親王と称した。幼年学校の同期には明石元二郎、由比光衛等がいる。1883年(明治16年)幼年学校を卒業するや、フランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、フランスの陸軍大学校を卒業し軽騎兵第7連隊...
  • 昭和-2
    前半は昭和参照 略年表 ()内は昭和での年代を表す。 昭和 X 年と西暦 Y 年とは X = Y - 1925 の関係にある。 昭和前期 1927年(2年):昭和金融恐慌 1928年(3年):張作霖を爆殺。男子普通選挙実施 1929年(4年):世界恐慌 1930年(5年):金輸出解禁 1931年(6年):柳条湖事件、満州事変 1932年(7年):満洲国建国、血盟団事件、五・一五事件 1933年(8年):12月23日 継宮明仁親王(のちの皇太子となり、後に今上天皇)誕生、滝川事件、国際連盟脱退 1935年(10年):天皇機関説問題 1936年(11年):二・二六事件、日独防共協定締結 1937年(12年):日中戦争開戦 、日独伊防共協定締結 朝鮮で皇国臣民ノ誓詞を発布する。 1938年(13年):国家総動員法制定 1939年(14年):ノモンハン事件、ドイツが...
  • 木村兵太郎
    Template 基礎情報 軍人? 木村 兵太郎(きむら へいたろう、明治21年(1888年)9月28日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、昭和期の陸軍軍人、陸軍大将。太平洋戦争後、A級戦犯として逮捕、極東国際軍事裁判にて死刑の判決を受け、絞首刑に処された。 略歴 生い立ち・前歴 埼玉県出身。広島一中、広島陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校卒。 昭和15年(1940年)、関東軍参謀長。昭和16年(1941年)4月から同18年(1943年)3月まで陸軍次官。昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。 ビルマからの撤退 Template see also? 昭和20年(1945年)、イギリス軍のビルマ侵攻が開始され、ビルマの防衛は危機に瀕していた。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、恐怖で手が震え、何も話すことができなくなるほど動揺し、作戦指導...
  • 壬申戸籍
    壬申戸籍 (じんしんこせき) は、明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に編製された戸籍である。1872年の干支からとって、壬申戸籍と呼び慣わす。 概要 江戸時代の宗門人別改帳にかわり、皇族から平民までを戸を単位に集計した。また、江戸幕府の国別人口調査と異なり、全国一律の基準で集計した点でも画期的であった。この戸籍により、当時の日本の総人口は、3311万人と集計された。 明治6年(1873年)から大正8年(1919年)までの人口統計は、壬申戸籍に対する増減をもとに算出したものである。しかし転出、転入の届けなしの移動が相当数に及ぶため、地域別人口のずれが年々拡大した。また、壬申戸籍自体が、役所の戸籍簿の集計であり、直接の人口調査によるものではなかったため、無視できない脱漏を残していた。 後の統計は集計値のほかに推計値を載せるようになり、大正9年(192...
  • 加藤友三郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、文久元年2月22日(1861年4月1日) - 大正12年(1923年)8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。第21代内閣総理大臣。元帥海軍大将・正二位・大勲位・功二級・子爵。同じく海軍大将であった加藤隆義は養子。 生涯 海軍軍歴と入閣 広島藩士、加藤七郎兵衛の三男として広島市大手町(現在の中区大手町)に生まれる。父・七郎兵衛は家禄13石の下級藩士だった。 明治17年(1884年)10月、海軍兵学校7期卒業。明治21年(1888年)11月、海大甲号学生。日清戦争に巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍、黄海海戦に大いに活躍した。日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。東郷平八郎司令長官と加藤参謀長は弾丸あめあられの中、戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔...
  • 松井石根
    Template Infobox 軍人? 松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、ハルピン特務機関長、陸軍大将。正三位勲一等功一級。ポツダム宣言受諾後、南京大虐殺の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(BC級戦犯松井は東京裁判でA級戦犯容疑で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、訴因第55項で有罪となったため、実際にはBC級戦犯である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという認識が浸透している。)を受け、処刑された。現在は靖国神社に...
  • 虎ノ門事件
    虎ノ門事件(とらのもんじけん)は、1923年12月27日に、虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が難波大助に狙撃された事件である。 事件発生 1923年12月27日、摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、自動車で貴族院へ向かっていた皇太子に、虎ノ門外で群衆の中にいた難波大助が接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した。銃弾は車の窓ガラスを破り、皇太子には命中しなかったが、同乗していた侍従長・入江為守が軽傷を負った。なお、皇太子は事件後、側近に「空砲だと思った」と平然と語ったとされる。 その直後、難波は周囲の群衆によって袋叩きにされ、難波の身柄を確保しようとする巡査は身をもって難波に対する殴打を防がなければならなかった。難波はのちに大逆罪で死刑判決を受けている。 この事件の背景には、亀戸事件などの労働運動弾圧があった。 影響 当時の内閣総理大...
  • 教育総監
    教育総監(きょういくそうかん)は、日本陸軍の教育を掌る役職で、その事務は教育総監部が行った。 概要 教育総監及び総監部は、明治20年5月31日に監軍部条例(明治20年勅令第18号)によって設置された監軍(事務は監軍部)が前身で、1898年(明治31年)1月20日に教育総監部条例(明治31年勅令第7号)により設置された、陸軍における教育統轄機関であり、所轄学校や陸軍将校の試験、全部隊の教育を掌った。ただし、航空に関しては航空総監部が教育の大半を行い、参謀の養成は参謀本部が管掌した。 総監は陸軍中将以上をもって補職した。陸軍大臣・参謀総長と総称して陸軍三長官と呼ばれた。 教育総監の発言は重視され、渡辺錠太郎大将は、天皇機関説に理解を示す発言をしたこと、及び皇道派将校の信奉する真崎甚三郎大将の後任として教育総監に就任したことから、皇道派による襲撃の対象となり、渡辺総監は在職中に二・二六事...
  • 明治天皇
    Template 基礎情報 天皇? 明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、第122代天皇(在位 慶応3年(1867年) - 明治45年(1912年))。諱は睦仁(むつひと)。幼少時の御称号は祐宮(さちのみや)。印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した。その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝(Mutsuhito the Great)とも呼ばれたこともあった。 略歴 出生 明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・慶子(よしこ)。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、京都・中山忠能邸で生まれ、父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名した。 万延元年(1860年)5月、儲君(皇太子)となる。9月28日、孝明天皇から親王宣下を受け、「睦仁」...
  • 台湾総督府
    thumb|250px|石川欽一郎作・台湾総督府([[1916年)]] 台湾総督府(たいわんそうとくふ、旧字体:臺灣總督府)は、清国から日本へ割譲され、日本領となった台湾を統治するために設置された当時の日本の官庁名である。 台北市に設置された台湾総督府本庁舎は、現在も中華民国の総統府として使用されている。また昨今の国際情勢の影響により、近隣にはミサイルを多数配備し、憲兵が小銃を装備し護衛にあたっている。 概略 1895年の下関条約の締結から1945年の日本の敗戦まで台湾を支配・統治した。台湾総督は台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持ったため「土皇帝」と呼ばれた程である(後に軍事権が台湾軍司令官に移譲されたことにより、文官の総督就任が可能になる)。但し台湾総督は内閣総理大臣、内務大臣、拓務大臣の指揮監督を受けることになっており、天皇直属の朝...
  • 土肥原賢二
    Template 基礎情報 軍人? 土肥原 賢二(どいはら けんじ、明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。 生涯 出自 岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇...
  • 伏石事件
    伏石事件(ふせいしじけん)とは、香川県香川郡太田村伏石(現在の高松市伏石町)で、大正12年(1923年)に起きた小作争議である。後述のとおり、日本農民組合(日農)香川県連合会長および顧問弁護士を巻き込んだ一大刑事事件に発展し、抗議行動が全国で行われたため、各種の小作争議を扱った文書でも伏石事件と呼ばれる事が多い。 概要 伏線 伏石での小作争議は、小作農民側が大正11年(1922年)夏に日農伏石支部を結成し、小作料を恒久的に30パーセント減額するよう地主に要求して、小作米の70パーセントから80パーセントのみを納入したことに端を発する。 これに対し地主側も団体を結成し減額を拒否するとともに、未納分の小作米の納入を求める訴訟を起こしている。 差押え・競売と刈り取り・脱穀 翌年、大正12年(1923年・ちなみにこの年は全国的な旱魃で稲は不作であったという)に入っても、小作農民側は引き続...
  • 小磯國昭
    Template 日本の内閣総理大臣? 小磯 國昭(こいそ くにあき、「國」は「国」の正字体、1880年(明治13年)3月22日 - 1950年(昭和25年)11月3日)は、日本の第41代内閣総理大臣。陸軍大将、従二位、勲一等、功二級。 経歴 栃木県宇都宮に山形県士族で警察署警部・小磯進の長男として生まれる。山形県中学校・陸軍士官学校(12期)・陸軍大学校(22期)卒業。陸軍省軍務局長・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・朝鮮総督などを歴任。 朝鮮軍司令官時代に、大命が降下された宇垣一成から陸相入閣要請があった。この要請は軍部大臣現役武官制のため、陸軍が陸相候補を擁立拒否をしたため、現役武官だった小磯を入閣させて、宇垣内閣を発足させることを意図したものであった。結局、小磯は入閣しなかったため、宇垣内閣は組閣流産となった。 1922年(大正11年)の欧州航空兵力視察の経験から、空軍力の...
  • 南次郎
    Template Infobox 軍人? 南 次郎(みなみ じろう、明治7年(1874年)8月10日 - 昭和30年(1955年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。 来歴 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。明治17年(1884年)7月、叔父・宮崎義一の下に単身上京、9月に鞆絵小学校(現・港区立御成門小)初級入学。その後成績良好のために鞆絵小高等科に進級した。明治21年(1888年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。翌・明治22年(1889年)9月、校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機にかねてからの陸士志望であったことから、児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した。明治23年(1890年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。明治25年(1892年)4月、陸士入校。明治28年(1895年)4月、陸士6期卒業。陸軍大学校17期出身...
  • 鉄道国有法
    鉄道国有法(てつどうこくゆうほう;明治39年3月31日法律第17号)は、全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するため、私鉄を国有化することを定めた日本の法律である。 Template 日本の法令? 1906年(明治39年)3月31日公布、1920年(大正9年)8月5日改正。1987年(昭和62年)4月1日、日本国有鉄道改革法等施行法(昭和61年法律第93号)第110条の規定により廃止。 これにより、1906年から翌年の1907年(明治40年)にかけて、下記の17社の2,812.0哩(約4,500km)が買収された。買収前には1,600哩(約2,600km)に過ぎなかった官設鉄道は、4,400哩(約7100km)と3倍に増え、私鉄は地域輸送のみに限定されることとなった。 鉄道国有論の展開 日本の鉄道は創業以来、官設官営を基本方針とした。これは、草創期の日本の鉄道行政を頂点に立って牽引し...
  • 支那駐屯軍
    Template 軍隊資料? 支那駐屯軍(しなちゅうとんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つであり、中華民国成立以前は清国駐屯軍(しんこくちゅうとんぐん)であった。天津にあったことから天津軍とも通称される。 沿革 Template 日本陸軍? 明治33年(1900年)5月、北清事変が勃発し、日本政府は清国臨時派遣隊を天津に送った。その後の事態の悪化により、6月に第5師団を中心とした部隊を増派し、欧米諸国との連合軍を構成し、8月に事変は沈静化した。同年10月、第5師団の指揮下にあった混成一個旅団により清国駐屯隊を編成し、他の部隊は順次復員した。明治34年(1901年)5月から清国駐屯隊も順次復員した。 そして、同年5月31日には北京議定書に基づき新たに清国駐屯軍が編成され、日本の公使館、領事館、在留邦人の保護を担うこととなった。その後、清国の滅亡に伴い明治45年(1912年)4月...
  • 南洋庁
    南洋庁(なんようちょう)は、ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島に設置された施政機関。所在地はパラオ諸島のコロール島。その下に支庁が置かれた。1922年に開設され、1945年に事実上消滅した。 人口 昭和14年12月末現在(『第9回南洋庁統計年鑑 昭和14年』による) 総人口 129,104人 内訳 日本人(台湾人・朝鮮人を含む) 77,257人 島民(チャモロ族・カナカ族) 51,723人 外国人 124人 年表 1919年5月7日 - パリ講和会議の英米仏首相会議で、赤道以北のドイツ領諸島は日本の委任統治に決定。 1919年6月28日 - 「同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書」(ヴェルサイユ条約)、調印式。 ドイツの植民地放棄(第118条)と放棄された植民地を国際連盟の委任統治とすること(第22条)などを規程...
  • 孫文
    孫 文 初代中華民国臨時大総統 プロフィール 出生 1866年11月12日Template QIN1890?広東省 死去 1925年3月12日Template Flagicon?北京 出身地 清国広東省中山市(香山県) 職業 政治家、革命家、中華民国臨時大総統 政党 同盟会、 中国国民党 各種名称 譜名 德明 幼名 帝象 字名 載之 号・教名(受洗名) 日新、逸仙 日本名 中山樵(なかやましょう)、高野長雄(たかのながお) 慣称 孫中山 各種表記 簡体字 孙中山 繁体字 孫中山 ピン音 Sūn Zhōngshān 和名読名 そん ちゅうざん 発音転記 スン ヂョンシャン ラテン字 Sun Chung-shan 英語名 Sun Yat-sen ■ ポータル ■テンプレート ■ノート...
  • 教育ニ関スル勅語
    『教育ニ関スル勅語』(きょういくにかんするちょくご)は、明治時代に日本の教育の根幹をなすものとして発表された勅語である。『教育勅語』(きょういくちょくご)ともいう。 内容 教育勅語は、明治天皇が国民に語りかける形式をとる。まず、歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの博愛、学問の大切さ、遵法精神、事あらば国の為に尽くすことなど12の徳目(道徳)が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。以上を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに明治天皇自らこれを守るために努力したいと誓って締めくくる。 これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、それを直接日...
  • 教科書疑獄事件
    教科書疑獄事件(きょうかしょぎごくじけん)は、1902年(明治35年)に発覚した、学校の教科書採用をめぐる教科書会社と教科書採用担当者との間の贈収賄事件である。この時期までの学校教科書は検定制だったが、この事件をきっかけに国定化され、第二次世界大戦終戦まで続いた。 概要 事件の背景 明治期の学校教科書は、当初認可制であった。その後、政府が1886年(明治19年)に「教科用図書検定条例」を定め、翌1887年(明治20年)5月に「教科用図書検定規則」を定めたことで、教科書会社が発行した教科書を検定する制度が実施されるようになった。当時の小学校教科書は、各道府県ごとに審査委員を配置し、道府県単位で検定された教科書の採択を行うようになった。 そのような状況の下で、教科書会社による採択働きかけや売り込みなどの活動も激しくなっていった。教科書採択をめぐって不正行為があるという疑惑は、たび...
  • 美濃部達吉
    美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年(明治6年)5月7日 - 1948年(昭和23年)5月23日)は、日本の憲法学者。天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職する。勲一等旭日大綬章(1948年(昭和23年))を受章。 妻の多美子は菊池大麓菊池大麓(箕作阮甫の孫)は東京帝大総長。の長女である。東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男。商工省および企画院官僚だった美濃部洋次は甥にあたる。 人物・来歴 前半生 美濃部達吉は、1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町の漢方医・美濃部秀芳の次男として生まれた。長じて東京帝国大学に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。1897年(明治30年)に大学を卒業し、内務省に勤務する。1899年(明治32年)にドイツやフランス、イギリスに留学し、翌1900年(明治33年)に東京帝国大学助教授、1902年(明治35年)に教授となる。帝国大...
  • 板垣征四郎
    Template Infobox 軍人? 板垣 征四郎(いたがき せいしろう、明治18年(1885年)1月21日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、昭和期の陸軍軍人である。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 敗戦後、東京裁判にて死刑判決を受ける。現在は靖国神社に合祀されている。 元参議院議員の板垣正は次男。 生涯 出自 岩手県盛岡市出身。盛岡中学、仙台の陸軍幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。 父板垣政徳は旧盛岡藩士族苗字は板垣だが板垣退助(土佐藩出身)と血縁関係はない。で、江刺郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。 満洲時代 昭和4年(1929年)に関東軍の高級参謀になった。昭和6年(1931年)、石原莞爾らと謀り、満州事変を実行した。現在、柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人...
  • 田中隆吉
    Template Infobox 軍人? 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、陸軍少将。第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、太平洋戦争開戦時の陸軍省兵務局長という要職にありながら、東京裁判において検事側の証人として被告に不利な証言もした。 田中は日本軍の数々の謀略に直接関与しており、日本軍の闇の部分に通じた人物であった。また、驚異的な記憶力の持ち主で、これらが東京裁判において発揮された。 略歴 1893年(明治26年) - 島根県安来市の商家に生まれる。島根県立松江中学校へ進む。 1907年(明治40年) - 陸軍広島地方幼年学校入学。 1910年(明治43年) - 陸軍中央幼年学校入学。 1913年(大正2年)3月 - 陸軍士官学校砲兵科卒業(26...
  • 岡田啓介
    Template 日本の内閣総理大臣? 岡田 啓介(おかだ けいすけ、慶応4年1月20日(1868年2月13日)) - 昭和27年(1952年)10月17日)は、日本の軍人、政治家。海軍大将。第31代内閣総理大臣。 生涯 海軍時代 1868年(慶応4年)福井藩士・岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。1884年(明治17年)9月、旧制福井中学(のち藤島高校)を卒業。翌1885年(明治18年)1月に上京し、一時上級学校進学のために須田学舎や共立学校(のち開成高校)などの受験予備校に在籍したが、学資の援助を受けていたことを心苦しいと感じ、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意、陸士受験に志望変更した。陸士受験に必須であったドイツ語を学ぶため、当時陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学したが、12月1日、結局は海軍兵学校に入校した。...
  • 亀戸事件
    亀戸事件(かめいどじけん)とは、1923年9月3日、関東大震災直後の混乱の中で、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、同月4日~5日に習志野騎兵第13連隊によって刺殺された事件。また、同月4日に警察に反抗的な自警団員4名が軍により殺された事件を「第一次亀戸事件」と呼び、この事件の被害者に加えることもある。 この事件の事実は発生から1ヶ月以上経過した10月10日になってようやく警察により認められた。犠牲者の遺族や友人、自由法曹団、南葛飾労働会などが事件の真相を明らかにするため糾弾運動を行なったが、「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付されたのである。 震災時にはこの外、無政府主義者の大杉栄夫妻が殺害された甘粕事件が起こった。 また軍隊・憲兵隊によって人々の不安が...
  • 国立銀行 (明治)
    国立銀行(こくりつぎんこう)は、1872年(明治5年)の国立銀行条例に基づいて開設された金融機関のこと。 概要 時の大蔵少輔・伊藤博文のもとで制度が創られた。アメリカのnational bank(現在では国法銀行と訳すことが多い)の直訳で、国家が設立した銀行ではなく、渋沢栄一、三井組などの民間資本が設立したものである。金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持ち、当初は第一から第五の4行(当時、第三は欠番)が設立された。 1876年、不換紙幣の発行も認められるようになると急増し、1879年までに153の国立銀行が開設された(これ以降は設立許可は認められなかった)。 銀行は設立順に番号を名乗っており、これを「ナンバー銀行」と呼ぶこともある。これらのナンバー銀行は現存する物もあるが、現在存在する八十二銀行だけは第十九銀行と六十三銀行が合併し、両者の数字の和を取って名付けられた銀行(82...
  • 宇垣一成
    Template Infobox 軍人? 宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)は日本の陸軍軍人、政治家である。成城学校から陸軍士官学校、陸軍大学校卒。陸軍大将従三位勲一等功四級。拓殖大学第5代学長。元参議院議員。 略年譜 慶応4年(1868年)、備前国磐梨郡潟瀬村大内(現・岡山県岡山市瀬戸町大内)の農家に5人兄弟の末子として生まれる。幼名は杢次(もくじ)。 明治23年(1890年)7月26日、陸軍士官学校卒業(1期)。 明治24年(1891年)3月24日、陸軍歩兵少尉任官。 明治29年(1896年)、一成と改名。 明治33年(1900年)陸軍大学校卒業(14期恩賜)。 明治35年 - 明治37年(1902年 - 1904年)最初のドイツ留学。この間に最初の妻・鎮恵死去。 明治39...
  • 山本権兵衛
    Template 日本の内閣総理大臣? 山本 権兵衛(やまもと ごんべえ または やまもと ごんのひょうえ とも 、1852年11月26日(嘉永5年10月15日) - 1933年(昭和8年)12月8日)は、日本の武士・薩摩藩士、海軍軍人、政治家。第16および第22代の内閣総理大臣。階級位階勲等爵位は海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。本名:進水式で祝詞用に神主がつけた名前のごんのひょうえを通称にしていたが、本称は「ごんべえ」である。諱は盛武。 海軍軍人として数々の軍政改革を行い、日清戦争・日露戦争を屋台骨から支えた。この頃の山本を、司馬遼太郎などは、「日本海軍のオーナー」という言葉で評している。その後大正期に二度首相となりリベラルな姿勢を見せるが、二度ともスキャンダルに見舞われ、満足な業績を残せぬまま辞職した。 また、様々な文献で元帥となっている場合があるが、山本が元帥だった事実は無い。...
  • 永田鉄山
    Template Infobox 軍人? 永田 鉄山(ながた てつざん、1884年1月14日 - 1935年8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍省軍務局長、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。追贈であるが、正四位勲一等に叙され瑞宝章を受けている。 略歴・人物 長野県諏訪郡上諏訪町本町出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校をいずれも首席、陸軍大学校も2位で卒業する秀才ぶりで、軍務官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される人物だったが、陸軍内部の派閥抗争に絡んで陸軍中佐相沢三郎に暗殺される。皇道派の領袖、陸軍大将真崎甚三郎を教育総監の要職から更迭したことが暗殺の引き金となっている。死亡当時、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。 郡立高島病院長永田志解理の子として生まれ、高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小...
  • 北洋軍閥
    北洋軍閥(ほくようぐんばつ)とは、中国の辛亥革命後における袁世凱が指揮をとっていた軍による政権である。 元々は、清朝末期の淮軍として結成されていた地方軍が主体となっている。 1901年、袁世凱は清の北洋大臣に就任し、西洋式の新しい北洋軍を設立した。その後、北洋軍が拡大し、北洋だけではなく中央や各地方にも鎮守することになった。辛亥革命後、袁世凱は革命軍に協力して、清王朝を滅亡させた。そのため、彼は中華民国の臨時大総統に就任した。 1916年に袁世凱が死ぬと北洋軍閥は、いくつかの分派に分裂する。 直系(直隷派) 皖系(安徽派) そのほか細かい分派には、以下などがある。 東北の奉系 (奉天派) 雲南のTemplate lang?(雲南派) 廣西の桂系 最初に中央政府の実権を握ったのは、日本の後押しを受けた段祺瑞の皖系だったが、1920年の安直戦争で直系と奉系...
  • 愛国公党
    愛国公党(あいこくこうとう)は、 最初の自由民権運動の政治結社。 明治時代中期の政党。 愛国公党 (1874年) 征韓論、明治六年の政変で下野した板垣退助らは、幸福安全社を基礎に明治7年(1874年)1月12日、東京の京橋区銀座副島種臣邸に同士を集めて結成。天賦人権論に基づき、基本的人権を保護し民撰議院設立を政府に要求することが当面の政治課題の第一であると謳っている。1月17日、板垣、副島らは政府に対して『民撰議院設立建白書』を提出した。建白書には、この他、後藤象二郎、江藤新平、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋が署名している。愛国公党は、日本でも初期の政治結社に数えられるが、議会の開催前に活動を開始したこともあり、その誕生は時代の流れよりも早すぎた、という感は否めない。後に板垣退助や片岡健吉が帰郷し、江藤も佐賀の乱に加わったため活動を停止し、自然消滅を迎えることとな...
  • 鈴木貫太郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、海軍軍人、政治家。連合艦隊司令長官、海軍軍令部長等を歴任し、終戦時の第42代内閣総理大臣。官位は海軍大将、従一位鈴木は死後12年を経た1960年(昭和35年)8月15日(終戦15周年記念日)に、最高位階である従一位を贈位されている。従一位を没時追賜した例は多いが、死去から年数を経て贈位するのは例が少なく、日本国憲法施行後はこの鈴木が唯一の例である。勲一等功三級、男爵。最後の江戸時代生まれの総理大臣でもある。 経歴 大阪府堺市中区伏尾(和泉国大鳥郡久世村伏尾、関宿藩の飛び地)に関宿藩士の鈴木由哲・きよの長男として生まれる。本籍地は、千葉県野田市(旧・関宿町)。 前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、1884...
  • 山梨軍縮
    山梨軍縮(やまなしぐんしゅく)とは、加藤友三郎内閣の陸軍大臣山梨半造により、Template 和暦?8月と翌年4月の二度にわたって行われた陸軍史上初の軍縮のこと。 概要 第一次世界大戦後、世界的に軍縮が大勢となって海軍力の軍縮が主要国で協議され、ワシントン海軍軍縮条約において一応成功した形になった。 この結果、アメリカとの衝突の可能性も当面無くなり、一方ロシアについても1917年に起きたロシア革命の結果、国内の政治的混乱に未だ収拾のめどはついていない状態であったため、日本に直接大きな脅威を与える国は、当面の間は見当たらない状況になった。 そうした状況下で海軍が大規模な軍縮に着手している以上、陸軍としても議会の軍縮要求にまったく耳を貸さないでいることは許されなくなる。 そこで、時の陸軍大臣・山梨半造は、ついに軍備の整理・縮小に着手することになり、1922年8月に第一次軍備整理、...
  • 平泉澄
    平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)2月16日 - 1984年(昭和59年)2月18日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。白山神社第3代宮司、名誉宮司。皇学館大学学事顧問。文学博士。号は布布木の屋・寒林子・白山隠士。専門は日本中世史。福井県出身。 戦前戦中に、いわゆる皇国史観を主導し、政治・社会・学界に大きな影響を与えた。 略年譜 1895年(明治28年)、誕生。 1901年(明治34年)、龍池尋常小学校入学。 1905年(明治38年)、成器高等小学校入学。 1907年(明治40年)、大野中学校入学。 1912年(大正元年)、第四高等学校入学。 1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学国史学科入学。 1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大学国史学科卒業。 1921年(大正10年)、文部省宗教制度調査嘱託。 1923年(大正12年)、...
  • 近衛上奏文
    近衛上奏文(このえじょうそうぶん)とは、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文である。  概要 近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した敗戰タケナラハ國體上ハサマテ憂フル要ナシト存候、國體護持ノ建前ヨリ最モ憂フルヘキハ敗戰ヨリモ敗戰ニ伴フテ起ルコトアルヘキ共産革命ニ御座候。。 「大東亜戦争」(太平洋戦争)は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであること抑々滿洲事變、支那事變ヲ起シ、之ヲ擴大シテ遂ニ大東亞戰爭ニマテ導キ來レルハ是等軍部内ノ意識的計畫ナリシコト今ヤ明瞭ナリト存候。滿洲事變當時、彼等カ事變ノ目的...
  • 参謀本部 (日本)
    Template 日本陸軍? 参謀本部(さんぼうほんぶ)は大日本帝国陸軍(明治36年までは海軍の軍令を統括した)の軍令を司った機関。 参謀総長(最終的な名称)を長として、作戦計画の立案等を職務とする。なお、軍政は陸軍省が担当したが、当然のことながら軍政と軍令を明確に分けることは不可能で、広範囲にあいまいな領域が生じた結果、混乱を招くことにもなった。 なお、明治19年から明治21年までの間、海軍の軍令機関が陸軍と統合されていた時期を除いた、海軍の軍令機関(明治21年乃至明治22年の海軍参謀本部を含む。)については軍令部を参照。 沿革 1971年(明治4年)7月 - 兵部省に陸軍参謀局が設けられる。 1872年(明治5年)2月 - 兵部省が陸軍省及び海軍省に分割され、陸軍参謀局は陸軍省参謀局となる。 1873年(明治6年)4月1日 - 参謀局が第六局に改称される。 ...
  • 桂太郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 桂 太郎/桂 清澄(かつら たろう/かつら きよずみ、弘化4年11月28日(1848年1月4日) - 大正2年(1913年)10月10日)は、日本の武士・長州藩士、軍人、政治家。第11・13・15代内閣総理大臣。元老、陸軍大将・正二位・大勲位・功三級・公爵。台湾協会学校(現拓殖大学)創立者初代校長。毛利家の庶流で重臣であった桂家の出身で、大江広元や桂元澄などの子孫に当たる。通称は「太郎」、諱は清澄(きよずみ)。元老第二世代。長州閥で山縣有朋の直系。 経歴 長門国阿武郡萩町、萩城下の武家屋敷地である平安古(現・山口県萩市平安古)に生まれる。父は長州藩士の桂與一右衛門(禄120石余り)で長男、母は藩士中谷家の娘喜代子。桂家の遠祖は戦国時代の桜尾城主・桂元澄と言われ、桂姓は安芸国高田郡桂村に由来するといわれる。 幼少時に阿武郡川島村(現・山口県...
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