chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「1883年」で検索した結果

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  • 元老院 (日本)
    ...真孝1882年9月-1883年6月 黒田清綱1882年9月-1886年6月 細川潤次郎1883年6月-1886年6月 関連法令 元老院官制(明治19年勅令第11号) 元老院議長副議長議官書記官官等年俸(明治19年勅令第12号) 元老院廃止ノ件(明治23年勅令第255号) 元老院議長副議長議官特別賞与ノ件(明治23年勅令第256号) 参考文献 角田茂「太政官制・内閣制下の元老院 職制と勅任官人事を中心に」(明治維新史学会 編『明治維新の政治と権力』(吉川弘文館、1992年 ) ISBN 4642036377) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月18日 (木) 19 54。    
  • 真土事件
    ...獄を許可される。 1883年(明治16年)4月29日、大住郡堀山下村61名の総代として、南条繁次郎以下十数名が、同村山口太平宅に押し寄せて恐迫。 1883年(明治16年)10月14日、同郡小易村農民40余名が、同村字丹沢山に集結して竹槍などを持ち出して、同村大森幾太郎、大津定右衛門、鈴木三右衛門らを襲おうと計画。 1884年(明治17年)3月29日夜、同郡吉際村ほか7ヶ村の民40余名が大神村字八幡下に集結して戸田村小塩八郎右衛門からの負債返済方法を協議し、不穏の形勢を示す。 1884年(明治17年)3月、冠弥右衛門鎌倉の光明寺に徒弟入りし、全国の寺社巡礼開始。 1884年(明治17年)5月15日、淘綾郡山下村の近藤甚蔵ほか10名が同郡一色村の高利貸露木卯三郎とその雇人露木幸助を大磯宿の旅館川崎屋に襲って両人を斬殺。首謀者5名は大磯宿で斬罪の酷刑。以後、この種の事件止む。 ...
  • 河本大作
    ...こうもと だいさく、1883年1月24日 - 1953年8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の実行犯として知られる。 出自 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現佐用町)に生まれた。高等小学校、陸軍大阪地方幼年学校、中央幼年学校を経て、明治36年.11に陸軍士官学校(15期)を卒業し、大正3年に陸軍大学校(26期)を卒業した。 張作霖爆殺事件 関東軍高級参謀として勤務していた昭和3年6月4日、北京から満州に帰還する途上にあった張作霖を奉天近郊の南満州鉄道線路上で爆殺した(当時は満州某重大事件と報道された)。当初日本の新聞では蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の仕業であるとも報道されていたが、その後の調査で河本が計画立案をし、現場警備を担当していた独立守備隊の東宮鉄男大尉及び朝鮮軍から分遣されていた桐原貞寿工兵中尉らを使...
  • 立憲帝政党
    ...め存在意義を失い、翌1883年9月24日に解党した。 なお、大東日報は解党以後も独立系の政府派新聞として存続し、1885年5月15日には内外新報と改題するものの、1887年4月8日に廃刊している。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月20日 (月) 18 34。     
  • 立志社 (政治団体)
    ...思想の普及に努めた。1883年に解散。 関連項目 立志社の獄 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月19日 (木) 12 18。     
  • アーネスト・サトウ
    ...年)の下で活躍した。1883年まで日本に滞在した。 1884年-1887年、シャム駐在総領事代理、1889年-1893年ウルグアイ駐在領事、1893年-1895年、モロッコ駐在領事を経て、1895年7月28日、駐日特命全権公使として日本に戻った(1900年まで)。 1900年-1906年、駐清公使として北京に滞在、義和団事件の後始末を付け、日露戦争を見届けた。1906年、枢密院顧問官。1907年、第2回ハーグ平和会議に英国代表次席公使。引退後はイングランド南西部デヴォン州に隠居し、著述に従事。 英国大使館の桜並木は、サトウが植樹を始めたもの。「サトウ」という姓はスラヴ系の希少姓で、当時スウェーデン領生まれドイツ系人だった父の姓であり、もともと日本と関係はなかったが、親日家のサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」という日本名を名乗った。本人も自らの姓が日本人に親しみやす...
  • 鹿鳴館
    ...)があり3年がかりで1883年(明治16年)7月、落成。設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドルである。施工は土木用達組(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織)が担当した(大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流である)。 煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。バーやビリヤードも設備されていた。 鹿鳴館時代 1883年(明治16年)11月28日、1200名を招待して落成の祝宴が行われた。鹿鳴の名は詩経「鹿鳴の詩」から引用して中井弘(桜洲)が名付けた。祝宴当日は井上馨の誕生日であった。 鹿鳴館では外国からの賓客接待ばかりでなく、天長節(11月3日、明治天皇誕生日)の祝賀会行事をはじめ数々の国内行事も行われるようになった。これらの夜会、舞踏会、婦人慈善会が世間の注目を集めた。 ...
  • 秩父事件
    ...より、1882年から1883年にかけて生糸の国内価格の大暴落が発生した。 埼玉県秩父地方は昔から養蚕が盛んであったが、当時の同地方の産業は生糸の生産にやや偏っており、さらには信州(長野県)など他の養蚕地域に比べてフランス市場との結びつきが強く(秩父郡内における最初の小学校はフランスの援助で設立され、そのために当時の在日フランス公使館の書記官が秩父を訪れたほどである)、上述の大暴落の影響をより強く受けることとなった。養蚕農家の多くは毎年の生糸の売上げをあてにして金を借り、食料の米麦その他の生活物資等を外部から購入していたため、生糸市場の暴落と増税等が重なるとたちまち困窮の度を深め、他の各地と同様、その窮状につけこんだ銀行や高利貸等が彼らの生活をさらに悲惨なものにしていた。 当時、明治政府は政府主導による憲法制定・国会開設を着々と準備する一方で、民権運動に対する弾圧政策を強化していた...
  • 立憲改進党
    ...成された。 だが、1883年頃から政府の圧力が強まり、加えて自由党の板垣退助の洋行問題を巡る疑惑追及を行うと、逆に自由党側からも前島や尾崎・犬養と関係が強く同党の機関紙となっていた郵便報知新聞などが政府の資金を受けているとの疑惑が出されてTemplate 要出典? 岩崎弥太郎を海坊主になぞらえた 木村時夫 『知られざる大隈重信』 集英社新書 集英社 2000年、 8頁「海坊主退治」キャンペーンが繰り広げられたことから、泥仕合となった。 1884年に組織改革を巡って紛糾したために解党論が浮上する。大隈・河野敏鎌らが脱党したが、慶應義塾系と嚶鳴社系を中心とする事務委員7名による集団指導体制によって辛うじて解党は防がれたが、活動はほとんど不可能となった。大隈は後に復党する。三大事件建白運動・大同団結運動では旧自由党系と連携して民党の一翼を担うが、大同団結運動の失敗と1888年の大隈の...
  • 相馬事件
    ...に相当)へ入院。 1883年、旧藩士の錦織剛清(にしごりたけきよ)が主君の病状に疑いを持ち、家族による不当監禁であるとして家令・志賀直道(志賀直哉の祖父)ら関係者を告発したことから事件が表面化した。 告発を行った錦織に対し、世間からは忠義者として同情が集まった。 当時は精神病の診断も未熟であり、高名な大学教授等による精神病の診断がまちまちの結果となった。正常との判断を下す医師もおり、混乱の度合いが増すこととなった。 1887年、錦織が相馬誠胤が入院していた東京府癲狂院に侵入。相馬誠胤の身柄の奪取に一旦は成功するものの一週間で逮捕。錦織は、家宅侵入罪に問われ禁固処分を受けるとともに、偏執的な行動が批判を受ける。 1892年、相馬誠胤が病死。錦織はこれを毒殺によるものとし、1893年、再び相馬家の関係者を告訴、遺体を発掘して毒殺説を裏付けようとした。しかし最終的に、死因が毒殺と...
  • 新聞紙条例
    ...はさらに明治16年(1883年)4月16日に改正・強化され、1ヶ月以内に47紙が廃刊し、前年には355紙あったものが、年末には199紙に激減したという。このために俗に「新聞撲滅法」とも称された。この法規は明治43年(1910年)12月28日に法律41号の「新聞紙法」に継承されて失効した。 第8条「筆名・変名の禁止」 第8条には「筆名、変名ヲ用ヒタル時ハ、禁獄三十日罰金十円ヲ課ス」とあり、禁止された。このため仮名垣魯文は戸籍名の野崎文三を仮名垣魯文に改めて、執筆活動を継続した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月17日 (日) 23 03。     
  • 中江兆民
    ...となる。明治16年(1883年)には日本出版会社を設立。明治18年(1885年)には長野県出身のちのと結婚。外相井上馨の条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加し、明治20年(1887年)には長野で演説、後藤象二郎の伊藤内閣辞職を求める封書を代筆するなど運動に関わったため、同年公布の保安条例で東京を追われる。また、明治21年(1888年)には仏学塾も廃塾となる。 明治21年(1888年)に大阪で創刊した『東雲新聞』の主筆も務める。翌年明治22年(1889年)には大日本帝国憲法発布の恩赦を得て追放処分が解除され、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙では大阪4区から出馬する。被差別部落民らの支持を得て、1352票を獲得して一位で当選、国会議員となる。兆民は民党結成のために奔走し、明治24年(1891年)9月に立憲自由党が結党され、『立憲自由新聞』の主筆を務めたが、自由党土佐派の...
  • 板垣退助
    ... 明治16年(1883年)6月、洋行から帰国。 明治17年(1884年)10月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党した。 明治20年(1887年)5月、辞退するも伯爵、叙爵。 帝国議会開設以後 明治23年(1890年)、帝国議会開設後、旧自由党を立憲自由党として再興した。 明治24年(1891年)、立憲自由党を自由党に改称しその総裁に就任。 明治29年(1896年)、第2次伊藤内閣・第2次松方内閣に内務大臣として入閣。 明治30年(1897年)3月、自由党総理辞職。 明治31年(1898年)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は通称隈板内閣(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ば...
  • 李完用
    ...畿道広州に生まれる。1883年、科挙に合格し、1887年からアメリカで3年間の海外勤務を経験した後、国際派の政治家として頭角を現す。 1895年の閔妃暗殺事件(乙未事変)の後、同年11月28日に、親日政権打倒の為のクーデターを親露派、親米派勢力の李範晋、李学均、李允用などと画策するが失敗に終わり、在米公館に逃げ込む。1896年に高宗がロシア公館に逃げ込む露館播遷を成功させ、親日政権を瓦解させた反日親露派の重鎮となって外部大臣(外務大臣)に就任する。翌年、学部大臣(文部大臣)になるが、ロシア公使ウェーベルと対立し、地方に転出される。1901年中央に戻り、親米派の立場をとり親日勢力を圧迫するが、1904年の日露戦争を境に日本寄りの態度を取るようになる。 1905年、学部大臣だった李完用は第二次日韓協約の調印に賛成し、これを推進した。これに賛同した5大臣は韓国で「乙巳五賊」に数えられて...
  • 岩倉具視-2
    ... 明治16年(1883年) 4月7日、宮内省編纂局総裁心得兼務。 7月20日、死去。 7月23日、贈太政大臣。 7月25日、国葬。 明治18年(1885年)7月20日、贈正一位。 岩倉具視幽棲旧居 京都・洛北の実相院近く(現・京都市左京区岩倉上蔵町)にあり、今は住宅や病院に囲まれている。数えの38歳で辞官・落飾した岩倉具視は地元の大工から古家を譲り受け、文久2年(1862年)9月から慶応3年(1867年)11月までの5年余り住んだ。幽居中とはいえ活発に政治活動を続けた具視はここでも浪士らにつけ狙われた。 建物は質素な平屋建て二棟で、うち南側(表側)の1棟は移住後の元治元年(1864年)に、増加する来客に対応するため増築したもの。具視死去後の明治35年(1902年)に、移住当初から建っていた北側の棟の屋根の一部が茅葺きから瓦葺きに改築され...
  • 加藤友三郎
    ...。 明治16年(1883年)11月2日 - 海軍少尉に任官。 明治17年(1884年)10月6日 - 海軍兵学校卒業(7期)。 明治19年(1886年)12月21日 - 海軍大尉に進級。 明治21年(1888年)11月15日 - 海大甲号学生。 明治24年(1891年)10月20日 - 防護巡洋艦「吉野」回航委員。 明治28年(1895年)2月26日 - 海軍少佐に進級。 明治29年(1896年)11月17日 - 海軍大学校教官。 明治30年(1897年)12月1日 - 海軍中佐に進級。 明治31年(1898年)10月1日 - 巡洋艦「筑紫」艦長。 明治32年(1899年)9月29日 - 海軍大佐に進級。 明治36年(1903年)12月28日 - 第二艦隊参謀長。 明治37年(1904年)9月1日 - 海軍少将に進級。 明治38年(...
  • 徴兵令
    ...お、この代人料制度は1883年に廃止。、「官省府県の役人、兵学寮生徒、官立学校生徒」、「養家に住む養子」は徴兵免除とされた。このため、徴兵逃れに養子になる等の徴兵忌避者が続出し、徴兵免除の解説書まで出版されたりもした史料紹介『徴兵免役心得』。この結果、二十歳以上の男子の3%~4%くらいしか徴兵できなかった(もともと政府の財政難により、成人男子全員を徴兵することは到底無理ではあった)。 さらに各地で徴兵令反対の一揆が起こった。徴兵告諭に「血税」という言葉があったためとされ、「血税一揆」と呼ばれた。この一揆、特に岡山県で激しかった。「血税」とは、フランス語の「impôt du sang」の直訳であり、「impôt」が「税」、「sang」が「血」の意である。 「徴兵告諭」の一節:「人たるもの固(もと)より心力を尽し国に報ひざるべからず。西人(西洋人)之を称して血税と云ふ。其生血を以て...
  • 陸奥宗光
    ...込んだ。出獄ののちの1883年にベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』は『利学正宗』の名で刊行されている。山形監獄が火災にあったとき、陸奥焼死の誤報が流れたが、誤報であることがわかると、1878年伊藤博文が手を尽くして当時もっとも施設の整っていた宮城監獄に移させた。 明治16年(1883年)1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。1884年にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。ロンドンで陸奥が書いたノートが今も7冊残されている。内閣制度の仕組みはどのようなものか、議会はどのように運営されていのか、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々をさかんに吸収したあとがみられる。また、ウィーンではシュタインの国家学を学んだ...
  • 明治十四年の政変
    ...とされている。伊藤は1883年に岩倉の死に合わせるかのようにして帰国して、本格的な憲法制定作業に取り掛かることになった。 参考文献 坂本一登『伊藤博文と明治国家形成―「宮中」の制度化と立憲制の導入―』(吉川弘文館、1991年) ISBN 464203630X 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月11日 (土) 13 45。     
  • 鳩山一郎
    ...はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。正二位 大勲位。 初代自民党総裁であり、日本国とソビエト社会主義共和国連邦との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣でもある。 経歴 1883年(明治16年) 東京市牛込区東五軒町に出生、父・鳩山和夫は文部省第1期留学生、弁護士、東京府議会議員。母・春子は東京女子師範学校の英語教師、明治19年共立女子職業学校(共立女子大学)を創立 1907年(明治40年) 東京帝国大学英法科卒、父の弁護士事務所に勤める 1908年(明治41年) 右翼団体玄洋社出身の衆議院議員秘書課長寺田栄の長女寺田薫と結婚。 1911年(明治44年) 父・和夫が死去(衆議院議員兼東京市議、東京弁護士会会長) 1912年(大正元年) 父の...
  • 閑院宮載仁親王
    ...、由比光衛等がいる。1883年(明治16年)幼年学校を卒業するや、フランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、フランスの陸軍大学校を卒業し軽騎兵第7連隊付を経て1891年(明治24年)帰国。 同年12月19日、三条実美の二女智恵子と結婚。日清戦争では当初第一軍司令部付大尉として従軍、鴨緑江岸虎山付近の戦闘の際、伝令将校として弾雨を冒して馬を馳せ、その任務を達成し、「宮様の伝令使」のエピソードを残した。その後騎兵第一連隊長、参謀本部に勤務の後、1901年(明治34年)に陸軍少将に進級し騎兵第二旅団長に就任。 日露戦争では、1904年(明治37年)10月12日の本渓湖の戦いで旅団を敵の側背に進出の上、不意討ちの攻撃を実行し、ロシア軍を敗走させた。またこの時、親王のアイデアで機関銃に三脚架を付けて進軍するなど、機関銃を巧妙に活用したことも日本軍の勝利に大いに貢献した...
  • 甲午農民戦争
    ...民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。そんな中、1894年春に全羅道古阜郡で起きた民乱が、甲午農民戦争に発展した。 全羅道古阜郡の民乱も当初は他の民乱となんら変わるところはなく、自分達の生活を守ろうとするものでしかなかった。しかし、この民乱の指導者に成長した全琫準を含め農民の多くが東学に帰依していたことから、この東学の信者を通じて民乱が全国的な内乱に発展してゆく。 全琫準は下層の役人であった。しかし、17世紀から普及し始めた平民教育で、全琫準のような非両班知識人が、形成されていた。この全琫準が発した呼びかけ文が東学信者の手で全道に撒かれ、呼びかけに応じた農民で、数万の軍勢が形成された。瞬く間に農民軍は全道を席巻し、地方官は追放された。中央から派遣された制圧軍も敗退し、全国で全羅道の農民に呼応する蜂起が起こり始めた。 驚いた閔氏政権は、清国に援軍...
  • 井上馨
    ...を歴任。明治16年(1883年)、外務卿として不平等条約改正交渉のため、鹿鳴館を建設。さらにパリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進めた(井上辞任に伴い頓挫した)。 また実業界の発展にも力を尽くし、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業につとめた。明治17年(1884年)華族令で伯爵、明治40年(1907年)には侯爵に陞った。日本郵船・藤田組と密接に関係し、特に三井財閥においては最高顧問になるなど、これを快く思わなかった西郷隆盛からは“三井の大番頭”ともいわれた。尾去沢銅山事件に代表されるように実際に三井、長州系列の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私服を肥やし、散財するという行為が当時から世間において批判され、貪官汚吏の権化とされていた。第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて内閣総理大臣に就任する予定になったが、政局の運営に見通しが立たないと判断すると、総理大臣就任...
  • 土肥原賢二
    ...けんじ、明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。 生涯 出自 岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させるが、このとき諸外国にそ...
  • 三菱財閥
    ...同運輸会社が設立、翌1883年営業を開始した。三菱はいつも通りの値下げ攻勢で共同運輸も潰そうとしたが、政府の後援のある共同運輸は更なる値下げで対抗。 続く2年間はダンピング競争で海上運賃は大幅に安くなったが両社は完全に消耗し、守勢に回った三菱は路線や人員の削減で倒産寸前となった。さすがに過当競争を見かねた政府が間に入り、1885年に共同運輸との対等合併で日本郵船会社が設立された。三菱は中心事業である海運業を一時的に失ったが数年後には人的にも経営の実権を握ることとなった。 1885年の弥太郎死去後、その弟・弥之助が後を継いだ。岩崎弥之助は三菱社と改名し1881年に買収した高島炭鉱と1884年に借り受けた官営長崎造船所(後の三菱重工業)を中核として、事業の再興を図った。 炭鉱、鉱山事業の拡充、1887年の長崎造船所の払い下げとその後の積極的な造船業の拡充、1885年に第百十九国立銀...
  • 秩禄処分
    ...報告書に現れている。1883年の統計によると、全士族約41.8万人のうち現職官公吏(軍人含む)もしくは府県議会の選挙権を持つ有権者(地租5円以上で非官公吏)の合算が全体の37.6%であったという。逆に言えば全体の2/3が没落士族に相当すると言えるのであった。 脚注 参考文献 落合弘樹『秩禄処分 明治維新と武士のリストラ』(中公新書、1999年) ISBN 4-12-101511-8 落合弘樹『明治国家と士族』(吉川弘文館、2001年) ISBN 4-642-03736-5 関連項目 日本史の出来事一覧 リストラ 外部リンク 秩禄公債証書見本・300円(国立公文書館)   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月3日 (金) 15 54。  ...
  • 仮20
    日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上のおもな出来事を年代順に記述する。 小学校学習指導要領に定める、「社会科」で取り上げるべき人物については、下線を引いた。 古代 弥生時代 57年 倭国王、後漢に遣使。 107年 倭国王、後漢に遣使。 倭国大乱 239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使。 古墳時代・飛鳥時代 350年頃 ヤマト王権の統一。 369年 任那の成立。 413年以後 しばしば中国に遣使(倭の五王)。 527年 筑紫国国造、磐井の乱。 538年(一説に552年) 百済の聖王、仏像及び経綸を献ず(儒教伝来、仏教公伝)。 562年 任那の日本府が新羅に滅ぼされる。 渡来人(帰化人)の来航。 593年 四天王寺造立。 593年 - 622年 聖徳太子の摂政。 603年 冠位十二階を制定。 604年 憲法十七条...
  • 伏見宮博恭王
    ...生 明治16年(1883年) 4月23日、華頂宮継承 6月11日、博恭と改名 明治19年(1886年)4月5日、海軍兵学校予科生徒 明治22年(1889年) 9月17日、海軍兵学校退校 9月28日、ドイツ留学 明治24年(1891年)10月5日、ドイツ海軍兵学校通学 明治25年(1892年)4月8日、ドイツ海軍兵学校入校 明治26年(1893年)3月30日、海軍少尉候補生 明治27年(1894年) 4月20日、海軍少尉 10月3日、ドイツ海軍大学校通学 明治28年(1895年) 8月15日、ドイツ海軍大学校卒業 9月、貴族院議員(皇族議員) 10月28日、帰朝 10月29日、巡洋艦「厳島」分隊士 明治29年(1896年)4月20日、巡洋艦「松島」乗組 明治30年(1897年) 1月9日、徳川経...
  • 鉄道国有法
    ...のである。 井上は1883年(明治16年)、工部卿宛てに意見書「私設鉄道に関する論旨」を提出した。この中で、鉄道の用途は国道と同様であって、これを民営に委ねるべきでないことを原則として、民営に委ねた場合に発生する、無用の競争や改良努力の怠慢など8項目の弊害をあげて、自説を主張している。 一方で、政府の手厚い保護を受けていたとはいえ、日本鉄道が好調な決算を発表すると、各地で私設鉄道設立ブームが起こった。1884年(明治17年)阪堺鉄道や、1887年(明治20年)の伊予鉄道を皮切りに、両毛鉄道、山陽鉄道、水戸鉄道(初代)、九州鉄道、大阪鉄道(初代)などが認可され、それまでの官設官営の原則が崩れて、日本の幹線鉄道は、官設・私設の両方により建設されることとなったが、中には無謀な計画や投資を誘発したものもあり、それは1890年(明治23年)の経済恐慌となってはね返り、建設工事の停滞や株式払...
  • 鈴木貫太郎
    ...桃井小学校)卒 1883年(明治16年) - 旧制前橋中学(現・群馬県立前橋高等学校)卒 1883年(明治16年) - 海軍兵学校受験準備のため、攻玉社に進む 1884年(明治17年) - 海軍兵学校入校 1887年(明治20年)7月25日 - 海軍兵学校(14期)卒 1888年(明治21年) - 任海軍少尉。日清戦争に従軍。大沼とよと結婚。 1892年(明治25年)12月21日 - 任海軍大尉。 1897年(明治30年)3月30日 - 海大砲術学生。 1898年(明治31年)4月29日 - 海大甲種学生。 6月28日 - 任海軍少佐。 12月19日 - 海軍大学校(1期)卒。「春日」乗組。 1901年(明治34年)7月29日 - ドイツ駐在(~1903年12月30日)。 1903年(明治36年)9月26日 - 任海軍中佐。 19...
  • 明治天皇
    Template 基礎情報 天皇? 明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、第122代天皇(在位 慶応3年(1867年) - 明治45年(1912年))。諱は睦仁(むつひと)。幼少時の御称号は祐宮(さちのみや)。印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した。その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝(Mutsuhito the Great)とも呼ばれたこともあった。 略歴 出生 明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・慶子(よしこ)。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、京都・中山忠能邸で生まれ、父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名した。 万延元年(1860年)5月、儲君(皇太子)となる。9月28日、孝明天皇から親王宣下を受け、「睦仁」...
  • 内閣総理大臣の一覧
    内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 18...
  • 日本の政党一覧
    日本の政党一覧(にほんのせいとういちらん)では、現在活動している日本の政党と、現在活動していない日本の政党の一覧を示す。 現在活動している政党 国会に議席を有する政党と議席数 政党名 衆議院 参議院 計 自由民主党 (1955-) 305 83 388 民主党 (1996-)  114 109 223 公明党 (1964-1994,1998-) 31 21 52 日本共産党 (1922-) 9 7 16 社会民主党 (1996-) 7 4 11 国民新党 (2005-) 5 4 9 改革クラブ (2008-) 1 4 5 新党大地 (2005-) ※ 1 0 1 沖縄社会大衆党 (1950-) ※ 0 1 1 新党日本 (2005-) 0 1 1 政党所属人数と院内会派の所属数とは一致しない 無所属...
  • 明治
    ...1881年1882年1883年1884年1885年1886年1887年 干支戊寅己卯庚辰辛巳壬午癸未甲申乙酉丙戌丁亥 明治21年22年23年24年25年26年27年28年29年30年 西暦1888年1889年1890年1891年1892年1893年1894年1895年1896年1897年 干支戊子己丑庚寅辛卯壬辰癸巳甲午乙未丙申丁酉 明治31年32年33年34年35年36年37年38年39年40年 西暦1898年1899年1900年1901年1902年1903年1904年1905年1906年1907年 干支戊戌己亥庚子辛丑壬寅癸卯甲辰乙巳丙午丁未 明治41年42年43年44年45年大正 西暦1908年1909年1910年1911年1912年 干支戊申己酉庚戌辛亥壬子 関連書籍 湯沢雍彦、奥田都子、中原順子、佐藤裕紀子 『百年前の家庭生活』...
  • 松方正義
    Template 日本の内閣総理大臣? 松方 正義(まつかた まさよし、1835年3月23日(天保6年2月25日) - 1924年(大正13年)7月2日)は日本の武士・薩摩藩士、政治家。幼名は金次郎。通称は助左衛門。近代日本を代表する財政家であり、明治13年(1880年)に内務卿、明治14年(1881年)に大蔵卿を歴任、翌・明治15年(1882年)に日本銀行を設立。第4代、第6代内閣総理大臣。ほか大蔵大臣、内大臣などを歴任。元老従一位大勲位公爵。 経歴 生い立ち 現在の鹿児島県に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。わずか13歳にして両親を亡くす。弘化4年(1847年)、薩摩の武士の子弟が通う藩校造士館に入る。 嘉永3年(1850年)、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得る。この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認め...
  • 閔妃
    ...日済物浦条約 1883年 当五銭を発行 1884年 12月 甲申政変  日本軍、王宮を占領。 明成皇后失脚。 明成皇后 袁世凱と清軍の助けで政権奪回。日本公使館焼失、居留民被害。(→漢城条約、天津条約) 金玉均、朴泳孝、徐載弼らは3日間で失脚 日本へ亡命(家族は服毒自殺、処刑等) 1885年 1月9日 日朝 漢城条約(日本:井上馨、朝鮮:金弘集) 4月15日 巨文島事件 4月18日 日清 天津条約(日本:伊藤博文、清:李鴻章)日清両軍の撤退 朝露密約. 日本 清に大院君の帰還要請。明成皇后側 大院君帰国の通達に難色 10月3日 大院君 清から帰国(仁川) 1891年 玄洋社設立 ref name= genyousya 梶川光・藤勝顕らが暗殺事件に参加したとされる。 1892年 高宗29年春 大院君爆殺計画失敗 ref na...
  • 西園寺公望
    ...。 明治16年(1883年)12月24日、参事院議官に転任。 明治17年(1884年7月7日、華族令の施行により侯爵を受爵。 明治18年(1885年)2月14日、オーストリア特命全権公使として赴任。 明治19年(1886年)8月6日、法律取調委員を兼任。 明治20年(1887年) 6月4日、ドイツ特命全権公使に異動。 6月28日、ベルギー特命全権公使を兼任。 明治24年(1891年)9月4日、帰国し、賞勲局総裁に異動。 明治25年(1892年)10月7日、民法商法施行取調委員長を兼任。 明治26年(1893年) 4月13日、法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)を兼任。 11月13日、貴族院副議長に異動。 12月11日、従二位に昇叙。 明治27年(1894年) 5月10日、枢密顧問官及び賞勲局総裁を兼任。 5月12日、貴...
  • 山縣有朋
    ...定にかかわった。 1883年(明治16年)には内務卿に就任して、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。 1889年(明治22年)に内閣総理大臣に就任。超然主義をとり軍備拡張を進める。第1回帝国議会では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保のために軍事予算の拡大が必要であると説いた。1891年(明治24年)に辞任第1回帝国議会での予算案審議に際し、立憲自由党議員の一部を買収して予算案を通過させたことに対する批判の責任を取ったもの。し、元老となる。日清戦争や日露戦争では戦争遂行の指揮をとったが的外れのものが多く、日清戦争時は「天皇に軍情報告せよ」という名目で第一線から呼び返されたこともある。 1898年(明治31年)、第2次山縣内閣発足。 1899年(明治32年)、文官任用令を改正省庁、特に内務省の高級官僚から憲政党などの政党員を締め出し、子...
  • 日本の鉄道史
    ...線より建設をはじめ、1883年(明治16年)7月28日に初の路線である上野駅~熊谷駅間を開業させた後、1884年(明治17年)8月20日に前橋駅まで延長、更に1891年(明治24年)9月1日には現在の東北本線にあたる上野駅~大宮駅~仙台駅~青森駅間を開業させるなど、短期間で急速に路線を延ばしていく事になった。 日本鉄道の営業成績は政府の保護を受けたこともあってよかったため、以後山陽鉄道・九州鉄道など幹線の整備を行う私鉄会社が、同じ様な方式で次々と誕生する事になる(なお上記に北海道炭礦鉄道と関西鉄道を加えたものは、明治の五大私鉄と呼ばれる)。この動きは1890年頃に一旦沈静化するが、その後、中規模から小規模の路線を運営する会社が設立されるようになり、1906年(明治39年)の鉄道国有法公布までその流れは続いた。一方、国有鉄道(国鉄)でも紆余曲折がありながら路線整備が進められ、1889...
  • 汪兆銘
    汪 兆銘(おう ちょうめい、Wāng Zhàomíng、 1883年5月4日 - 1944年11月10日)は、知日派として知られた中国の政治家。字は季新。号は精衛。 日本留学から東南アジアでの活動まで 1884年、10人兄弟の末子として広東省番禺県に生まれる。1904年9月、清朝の官費生として日本の法政大学に留学。留学中に孫文の革命思想に触れ、1905年、革命党に入党した。やがて孫文の来日を機に同年8月中国同盟会が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務めることになる。この頃から汪は「精衛」という号を用いるようになった。 1906年6月、法政大学速成科を卒業。官費留学の期限は切れたが、汪はそのまま法政大学の専門部へ進み、革命運動を続けることとした。この頃、ペナン島の有力華僑の出であり、のちに汪の妻となる陳壁君も運動に参加している。 やがて清朝の意を受けた日本政府の取締りに...
  • 第1次山縣内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ やまがた ないかく|3|山縣有朋|Template 和暦?|12月24日|Template 和暦?|5月6日|藩閥内閣|第1回衆議院議員総選挙|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/03.html|前職 = 陸軍中将・監軍}} Template 和暦?11月29日に大日本帝国憲法が施行されたため、この内閣の在任時に日本で議会制度(帝国議会)が開始された。 概要 条約改正交渉に失敗して倒れた黒田内閣の後を受けて成立した。内閣職権を廃して内閣官制を導入、「大宰相主義」を否定して内閣総理大臣を「同輩中の首席」と位置づけた。教育勅語の発布、第1回衆議院議員総選挙の実施(Template 和暦?7月1日)、府県制・郡制の導入などを行った。 1890年(明治23年)11月25日に召集された第1議会において、...
  • 廃藩置県
    ...) 明治16年(1883年)5月9日 佐賀県(長崎県より分離) 宮崎県(鹿児島県より分離) 富山県(石川県より分離) 明治20年(1887年)11月4日:奈良県(大阪府(旧堺県)より分離) 明治21年(1888年)12月3日:香川県(愛媛県より分離) 尚、明治政府は長野県も2分割(長野県、筑摩県)する方針であったが筑摩県庁の焼失により分割が中止された。 またこれとは別に、北海道が函館県・札幌県・根室県に分割されていた時期がある(明治15~19年(1882~1886年)、三県一局時代を参照)。 参考文献・関連書籍 松尾正人『廃藩置県』(中央公論社・中公新書 ISBN 978-4121008053) 丹羽邦男『地租改正法の起源―開明官僚の形成』(ミネルヴァ書房、平成7年(1995年)) ISBN 4623025101 福地惇『明治新政権の権力構造』(吉川...
  • 寺島宗則
    寺島 宗則(てらじま むねのり、1832年6月21日(天保3年5月23日)- 1893年(明治26年)6月6日)は、江戸時代後期の幕臣、明治時代の政治家である。爵位は伯爵。名は徳太郎、または藤太郎。別称に松木弘安(松木弘庵)。通称は陶蔵。 日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。 来歴・人物 1832年、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現・阿久根市脇本)の郷士長野成宗の次男として生まれる。江戸に出て蘭学を学び、薩摩藩主島津斉彬の侍医となったが、斉彬の死後に藩を離れて幕府の蕃書調所に勤める。 1861年、幕府の第1次遣欧使節の一員として渡海する。 1863年、薩英戦争においては捕虜となる。 1865年、第2次遣欧使節に参加する。 明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。 1873年、参議兼外務卿。 西南戦争後の政府の財政難から税権回復を...
  • 学習院
    学習院(がくしゅういん)は、旧宮内省が設置した官立学校。 沿革 学習院大学等の関連項目の当該節も参照されたい 1847年(弘化4年) 京都御所日御門前に学習院開講する。 1849年(嘉永2年) 「学習院」の勅額下賜される。 1868年(明治元年) 京都学習院を大学寮代と改称する。 1877年(明治10年) 華族学校学則制定。神田錦町にて開業式挙行。 1884年(明治17年) 宮内省所轄の官立学校となる。 1885年(明治18年) 四谷区尾張町に華族女学校を設置する。 1888年(明治21年) 学習院が麹町区三年町の工部大学校跡に移転する。 1889年(明治22年) 華族女学校が麹町区永田町に移転する。 1890年(明治23年) 学習院が四谷区尾張町に移転する。 1906年(明治39年) 華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称する。 19...
  • 大日本帝国憲法
    ...物だと評している。翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど、憲法制定と議会開設の準備を進めた。 1885年(明治18年)には、太政官制を廃止して内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。井上は、政府の法律顧問であったドイツ人・ロエスレル(ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)やモッセ(Albert Mosse)などの助言を得て起草作業を行い、1887年(明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。この草案を元に、夏島(神奈川県横須賀市)にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、伊東巳代治、金子堅太郎らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年(明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は、天皇の諮問機関として枢密院を設置し...
  • 日朝修好条規
    ...て1880年に元山、1883年に仁川が開港した。 第七款 朝鮮の沿岸は島嶼岩礁が険しいため、きわめて危険であるので、日本の航海者が自由に沿岸を測量してその位置や深度を明らかにして地図を編纂して両国客船の安全な航海を可能とするべし。 第九款 通商については、各々の人民に任せ、自由貿易を行うこと。両国の官吏は少しもこれに関係してはならない。貿易の制限を行ったり、禁止してはならない。しかし詐欺や貸借の不払いがあれば両国の官吏はこれを取り締まり追徴すべし。 自由貿易について定めた条項。 第十款 日本人が開港にて罪を犯した場合は日本の官吏が裁判を行う。また朝鮮人が罪を犯した場合は朝鮮官吏が裁判を行うこと。しかし双方は、その国法をもって裁判を行い、すこしも加減をすることなく努めて公平に裁判することを示すべし。 領事裁判権に関する条項。この項目については三条実美からは何ら指示...
  • 参謀本部 (日本)
    Template 日本陸軍? 参謀本部(さんぼうほんぶ)は大日本帝国陸軍(明治36年までは海軍の軍令を統括した)の軍令を司った機関。 参謀総長(最終的な名称)を長として、作戦計画の立案等を職務とする。なお、軍政は陸軍省が担当したが、当然のことながら軍政と軍令を明確に分けることは不可能で、広範囲にあいまいな領域が生じた結果、混乱を招くことにもなった。 なお、明治19年から明治21年までの間、海軍の軍令機関が陸軍と統合されていた時期を除いた、海軍の軍令機関(明治21年乃至明治22年の海軍参謀本部を含む。)については軍令部を参照。 沿革 1971年(明治4年)7月 - 兵部省に陸軍参謀局が設けられる。 1872年(明治5年)2月 - 兵部省が陸軍省及び海軍省に分割され、陸軍参謀局は陸軍省参謀局となる。 1873年(明治6年)4月1日 - 参謀局が第六局に改称される。 ...
  • 三条実美
    三条 実美(さんじょう さねとみ、正字体:三條 實美、天保8年2月7日(1837年3月13日)- 明治24年(1891年)2月18日)は、江戸時代後期、幕末から明治の公卿、政治家である。明治政府の太政官では最高官の太政大臣を務めた。内閣制度発足後は最初の内大臣を務めている。 藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつ三条家の生まれ。父は贈右大臣実万、母は土佐藩主山内豊策の女紀子。妻は関白鷹司輔煕の九女治子(1848-1924)。「梨堂」と号す。華族制度の発足後は本人の功が考慮され公爵となった。 来歴 三條實美は安政元年(1854年)、兄の三条公睦の早世により家を継いだ。安政の大獄で処分された父・実万と同じく尊皇攘夷(尊攘)派の公家として、文久2年(1862年)に勅使の1人として江戸へ赴き、14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促し、この年国事御用掛となった。長州と密接な...
  • 皇典講究所
    皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ 1882年 - 1946年)は、日本に設置された神道の研究・教育機関である。 1867年(明治元年)に大教宣布の詔が発布され、1876年(明治9年)に神道事務局に生徒寮を設置して神職の養成に力を注いだ明治新政府であったが、政教分離・信教の自由論が世の中に広まり、教導職制が廃止された。それに伴い神道事務局の中では、旧典練習所をより発展させた機関を設置する必要があるとの考えが強くなっていた。この大教宣布の不振、それに続く祭神論争によりその教学の未成熟さを実感した神道はその教学の深化に迫られ、1882年(明治15年)8月23日に、有栖川宮幟仁親王の令旨を奉じた山田顕義ら内務省高官と、松野勇雄ら数名の国文学者が「専ら国典を講究するため」として研究機関を設立した。 内務省の委託を受けて神職を育成を行ったほか、各種の講演会、『古事類苑』・『延喜式』の編纂事業を行...
  • 軍令部
    軍令部(ぐんれいぶ)とは日本海軍の中央統括機関(海軍省と共同で行う)である。海軍省が内閣に従属し軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼(ほよく)する立場から、海軍全体の作戦・指揮を統括する。 概要 長たるものは軍令部長(後に軍令部総長)であり、天皇によって海軍大将又は中将が任命される。また、次長は総長を補佐する。この二官は御前会議の構成員でもある。 軍令部は主として作戦立案、用兵の運用を行う。また、戦時は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する。 設置当初、政府上層部は陸軍を尊重していたため、参謀本部での軍令部は陸軍の下に置かれた。しかし、太平洋戦争時の最高戦争指導会議では大きな発言力を持つこととなる。 沿革 1884年2月 海軍省達丙第21号により海軍省の外局組織として軍事部が設置 1886年3月 参謀本...
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