chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「1904」で検索した結果

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  • 社会主義協会 (1900年)
    ...の紹介を行った。 1904年11月、第1次桂内閣により結社禁止となった。 関連項目 社会主義研究会 社会民主党 (日本 1901年) 平民社 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月17日 (木) 19 27。    
  • セオドア・ルーズベルト
    ...ルート1901 - 1904  ウィリアム・ハワード・タフト1904 - 1908  ルーク・エドワード・ライト1908 - 1909 司法長官フィランダー・C・ノックス1901 - 1904  ウィリアム・ヘンリー・ムーディ1904 - 1906  チャールズ・ジョセフ・ボナパルト1906 - 1909 郵政長官チャールズ・E・スミス1901 - 1902  ヘンリー・C・パイン1902 - 1904  ロバート・J・ワイン1904 - 1905  ジョージ・コーテルユー1905 - 1907  ジョージ・フォン・レンガーク・マイヤー1907 - 1909 海軍長官ジョン・デイヴィス・ロング1901 - 1902  ウィリアム・ヘンリー・ムーディ...
  • 朝鮮銀行
    ...行。 新10円券(1904年9月1日発行)、新5円券(1904年9月1日発行)、新1円券(1904年9月1日発行)、50銭券(1904年6月発行)、20銭券(1904年6月発行)、10銭券(1904年6月発行) ※ 日本語で「券面の金額は在韓国各支店に於て日本通貨と引替可申候也」の記載あり。 ※ 図案は10円券・5円券・1円券が渋沢栄一、50銭券・20銭券・10銭券が鳳凰と竜。 ※ 50銭券・20銭券・10銭券は、1912年3月31日限りで通用禁止。 ※ 100円券・50円券の発行も計画されたが、実現しなかった。 1905年(明治38年、光武9年)勅令第73号「株式会社第一銀行ノ韓国ニ於ケル業務ニ関スル件」に基づいて発行。 改造10円券(1909年1月4日発行)、改造5円券(1909年7月1日発行)、改造1円券(1908年8月1日発行) ※ 「大韓国金庫 株...
  • 朝鮮軍 (日本軍)
    ...済中将:明治37年(1904年)3月11日 - 明治37年(1904年)9月8日 長谷川好道大将:明治37年(1904年)9月8日 - 明治41年(1908年)12月21日 大久保春野大将:明治41年(1908年)12月21日 - 明治43年(1910年)10月1日 朝鮮駐剳軍司令官 大久保春野大将:明治43年(1910年)10月1日 - 明治44年(1911年)8月18日 上田有沢中将:明治44年(1911年)8月18日 - 明治45年(1912年)1月14日 安東貞美中将:明治45年(1912年)1月14日 - 大正4年(1915年)1月25日 井口省吾中将:大正4年(1915年)1月25日 - 大正5年(1916年)8月18日 秋山好古中将:大正5年(1916年)8月18日 - 大正6年(1917年)8月6日 松川敏胤中将:大正6年(1917年)8月6日 ...
  • 渡辺錠太郎
    ...長及び大尉任官 1904年7月より9月 日露戦役に出征、負傷 1904年10月 大本営参謀 1905年9月 元老山縣有朋の副官 1906年 清国出張 1907年 ドイツ駐在 1908年12月 少佐任官 1909年5月 ドイツ大使館付武官補佐官 1910年6月 参謀本部勤務 1910年11月 山縣元帥副官 1913年1月 中佐任官 1915年2月 歩兵3連隊付 1916年5月 参謀本部課長 1916年7月 大佐任官 1917年10月 オランダ公使館付武官 1920年8月 歩兵第29旅団長及び少将任官 1922年9月 参謀本部第4部長 1925年5月 陸軍大学校校長及び中将任官 1926年3月 第7師団長 1929年3月 航空本部長 1930年6月 台湾軍司令官 1931年8月 軍事参議官兼航空本部長・大...
  • 日韓議定書
    日韓議定書(にっかんぎていしょ)は、日露戦争中の1904年(明治37)2月23日に、日本と大韓帝国との間で締結された条約である。 概要 漢城(現:ソウル)において、日本の特命全権公使林権助と韓国(李氏朝鮮)の外部大臣臨時署理李址鎔が調印した。 日本による、韓国施政忠告権や臨検収用権など、日本側に有利な条項もあるが、反面、日本政府は、韓国皇室、韓国の独立及び領土を確実に保障し、片務的防衛義務を負うなどとしており、一方的に日本に有利なものとはなっていない。 背景 Template main? 1904年(明治37年)1月21日、韓国政府は日露交戦の折には戦時局外中立をすると宣言、清をはじめイギリス、フランス、ドイツなどがこれを承認した。 他方、2月8日に日本政府は韓国の戦時局外中立宣言を無視する形で、日本軍を仁川へ上陸させ、その後漢城へ進駐し、締結された。 日露戦争にお...
  • 教育総監
    ...0年4月25日 - 1904年3月17日薩摩藩 3寺内正毅1904年3月17日 - 1905年5月9日長州藩 4西寛二郎1905年5月9日 - 1908年12月21日薩摩藩 5大島久直1908年12月21日 - 1911年9月6日秋田藩 6浅田信興1911年9月6日 - 1914年4月22日川越藩 7上原勇作1914年4月22日 - 1914年12月17日陸士旧3期 8一戸兵衛1914年12月17日 - 1919年8月26日陸士旧3期 9大谷喜久蔵1919年8月26日 - 1920年12月28日陸士旧2期 10秋山好古1920年12月28日 - 1923年3月17日陸士旧3期 11大庭二郎1923年3月17日 - 1926年3月2日陸士旧8期 12菊池慎之助1926年3月2日 - 1927年8月26日陸士旧11期 13武藤信義1927年8月...
  • 元老
    ...mplate 和暦?1904年(明治37年)2月18日受 西郷従道薩摩1843}} - Template 和暦?正式の任命手続きを経ていない。 大山巌薩摩1842}} - Template 和暦?1912年(大正元年)8月13日受 桂太郎長州1848}} - Template 和暦?1912年(大正元年)8月13日受 西園寺公望公家1849}} - Template 和暦?1912年(大正元年)12月21日受 1889 1891 1892? 1898 1900 1902 1904 1909 1912 1913 1915 1916 1922 1924 1934 1940 伊藤博文 黒田清隆 山縣有朋 西郷従道 松方正義 ...
  • 平民社
    ...平民新聞』第53号(1904年11月13日)には、新聞創刊1周年の記念として、堺と幸徳の共訳で『共産党宣言』が訳載された。翻訳はサミュエル・ムーア訳の英語訳からの重訳。日本における最初の『共産党宣言』の翻訳であった。 週刊『平民新聞』は、第1面に英文欄を設け、アメリカ合衆国やイギリス、さらに日本にとっては敵国であるロシアの社会主義者らへ情報の発信をおこない、国際的な連帯を訴えた。その成果のひとつは、戦争中の1904年8月にアムステルダムで開催された第二インターナショナルの第6回大会で、片山潜とロシア代表のプレハーノフがともに副議長に選出されて会議場で握手を交わし、社会主義者の国境を越えた連帯と協力を確認したことである。この握手は、国際的連帯の成果として週刊『平民新聞』はもちろん、各国の社会主義陣営の機関誌等で報道された。 関連文献 荒畑寒村『平民社時代-日本社会主義運動の揺籃』...
  • 閑院宮載仁親王
    ...。 日露戦争では、1904年(明治37年)10月12日の本渓湖の戦いで旅団を敵の側背に進出の上、不意討ちの攻撃を実行し、ロシア軍を敗走させた。またこの時、親王のアイデアで機関銃に三脚架を付けて進軍するなど、機関銃を巧妙に活用したことも日本軍の勝利に大いに貢献したという。その後満州軍総司令部付きの武官として従軍し、戦後陸軍中将に進級した。 1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥府に列した。1921年(大正10年)3月3日より同年9月3日まで、皇太子裕仁親王の欧州外遊を補導すべく随行した。1923年(大正12年)9月1日、小田原の閑院宮別邸に家族とともに滞在中、関東大震災に遭遇し一時倒壊した別邸の下敷きとなったが、たいした怪我はなく無事であった。 1931年(昭和6年)に参謀総長に就任。青年時から立派な髭を生やしており、「髭の参謀総長」と呼ばれた。こ...
  • イルティッシュ号投降事件
    ...ドイツで建造された。1904年にロシアがドイツより購入し、艦隊に所属させるために200万ルーブルをかけて改装した。この改装により石炭艙は各種積荷の貯蔵のため乾燥室と石炭室に分割され、名前も西シベリアを流れるオビ川左岸の支流エルティシ川(全長4,248km)からイルティッシュ号と命名された。排水量15,000トン、全長180m、全幅17m、最大速度10.5ノット。兵装として8つの小口径砲を装備していた。 編成乗組員は251名(士官17名、准士官6名、水兵228名)、投降時の乗組員は235名で、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、タタール、ドイツ、ラトビア、エストニア等の出身者で構成されていた。なかでもヴォルガ川支流のオカ川、カマ川流域の艀で働く12~13歳の少年や退役軍人が全体の62%を占めていた。 当直将校グラフは事務長をしており、後に彼の航海日誌の海賊版が出回って、後述する金塊...
  • 学習院
    ...大麓1903年 - 1904年京都帝国大学総長、男爵 第9代山口鋭之助1905年 - 1906年京都大学教授、物理学者 第10代乃木希典1906年 - 1912年陸軍大将、伯爵 第11代大迫尚敏1912年 - 1918年陸軍大将、子爵 第12代北条時敬1918年 - 1921年宮中顧問官 第13代一戸兵衛1921年 - 1923年陸軍大将、教育総監 第14代福原鐐二郎1923年 - 1929年東北大学総長 第15代荒木寅三郎1929年 - 1937年京都大学総長 第16代野村吉三郎1937年 - 1939年海軍大将 第17代山梨勝之進1939年 - 1946年海軍大将 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月16日 (日) 06 46。    
  • 永田鉄山
    ...兵第3連隊付となる。1904年(明治37年)10月24日に陸軍士官学校(16期)を卒業し、陸軍歩兵少尉に任ぜられる。 1908年(明治41年)に陸軍大学校(23期)入校。1910年(明治43年)11月に陸軍大学校を2位(首席は梅津美治郎)で卒業し、恩賜の軍刀を授与される。他の同期に蓮沼蕃、前田利為、猪狩亮介、入江仁六郎、小川恒三郎、小畑敏四郎。 その後、1920年(大正9年)に駐スイス大使館付駐在武官となる。1921年(大正10年)10月頃、陸士同期である小畑敏四郎、岡村寧次や一期下の東條英機と共に、ドイツ南部の温泉地バーデン・バーデンにおいて、陸軍の薩長閥除去を目指す等の「バーデン・バーデンの密約」を行なったという。 以後、麻布歩兵第3連隊長を勤めた後、1930年(昭和5年)に陸軍省軍事課長となる。さらに南次郎陸軍大臣の下で、国家総動員法の策定に関わる。1932年(昭和7年)...
  • 日露戦争
    ... date = 1904年2月8日 - 1905年9月5日 | place = 満州南部、朝鮮半島沿岸 | result = 日本の勝利、ポーツマス条約 | combatant1 = Template flagicon? ロシア帝国 | combatant2 = Template flagicon? 大日本帝国 | commander1 = Template flagicon? ニコライ2世(皇帝)Template flagicon? アレクセイ・クロパトキン(陸軍)Template flagicon? ステパン・マカロフ(海軍)† | commander2 = Template flagicon? 明治天皇(天皇) /br Template flagicon? 大山巌(陸軍)Template flagicon? 東郷平八郎(...
  • 第一次日韓協約
    ...く)は、日露戦争中の1904年(明治37年)8月22日に日本と韓国(李氏朝鮮)が締結した協約。これにより韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。 このときの日本側の代表は特命全権公使林権助、韓国側の代表は外部大臣尹致昊。 日露戦争中ではあるが、この条約が結ばれた時期には朝鮮半島での戦闘は終了し、韓国は事実上日本の占領下に入っていた。しかし、高宗はこれを良しとせず、ロシアに密使を送る、1905年(明治38年)3月26日韓国皇帝のロシア皇帝宛の密書が発覚。その後も7月にロシア、フランスへ、10月にアメリカ、イギリスに密使を送る。これらの行動を受けて、日本政府は大韓帝国が外交案件について日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないとしていた同条約を遵守する意志がないと考え、日本が韓国の外交権を完全に掌握できる第二次日韓協約の締結を要求...
  • 八幡製鐵所
    ...られた。 その後、1904年2月に日露戦争が勃発し、鉄の需要が急激に増えた。政府は、コークス炉の完成を受けて製鐵所の操業再開を決め、4月6日に第2次火入れが行われたが、わずか17日間で操業停止に追い込まれた。そこで、東京帝国大学工学部教授を退任して民間の技術指導に当たっていた野呂景義に、原因調査が依頼された。炉内をより高温に保つため、高炉の形状を改め、操業方法も改善するという野呂の提案を受け、高炉が改造され、7月23日に第3次火入れが行われた。この改良は成功し、その後は順調に操業を進めて、多くの銑鉄を得ることができた。そして、翌年の2月25日には、以前から建設が進められていた東田第二高炉に火入れが行われ、銑鉄の生産量がほぼ2倍になった。 戦争が終わると今度は民間から鉄の需要が増え、技術革新、重工業の発展に伴う需要増加に応えるため、第一期拡張工事(1906年~1910年)、第二期拡...
  • 土肥原賢二
    ...を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させるが、このとき諸外国にその事実が露顕した際には、溥儀もろともその乗船を沈没させる予定だったとも言われる。 その後、華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結。この結果河北省に冀東防共自治政府を成立させた。土肥原は、謀略をも辞さない強硬な対中政策の推進者として昇進を重ね、「満州のローレンス」と畏怖された。特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた。 ...
  • 皇典講究所
    ...文・歴史科とする 1904年 専門学校の認可を得る 1909年 神職養成部を設置 1919年 道義科を設置。 1921年 大学部を廃止 1923年 國學院大學とともに澁谷氷川裏御料地に移転 1927年 専門学校令により附属神職部を設置。高等師範部を4年制として一部・二部に分置 1929年 神職部を神道部に改称 1936年 神道部を4年制とする。 1940年 興亜部を設置 1944年 神道部・高等師範部・興亜部を合併し、3年制専門部とする。國學研究所を設置 1946年 GHQの指導により軍国主義の温床として解散、人員や財産は財団法人國學院大學が吸収 1955年 國學院大學日本文化研究所が設置され、皇典講究所の研究を承継。 1985年 國學院大學・日本大学が共同で皇典講究所跡地(千代田区飯田橋3-5-5 東京区政会館前)に発祥記念碑を建立。 2006年 特許庁...
  • 三国協商
    ...ある孤立」を放棄し、1904年に長年の宿敵・フランスと英仏協商を1902年に日本と日英同盟を結んで、それぞれドイツとロシアの伸張を食い止めようとした。 更に日露戦争におけるロシアの敗戦により、東アジアにおけるロシアの伸張が抑えられた今ならばロシアとの利害の調整が可能になると考え、1907年に英露協商を結んだ。この露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作れる三国の協調関係を指して三国協商と呼ばれる。 また、三国協商成立に伴って三国干渉以来のロシア・フランスによる日本(イギリスの同盟国)の中国大陸進出抑制路線の変更を迫られた。これに基づいて1907年には日仏協商及び第1次日露協商が締結されて、日本も三国協商の枠組に実質上参加することになった。 結果 この三国協商と三国同盟とは当時の列強が二分して合い争う状況を作り出した。しかし三国同盟からは早々にイタリアが脱落しイタリアが三国同盟に...
  • 日英同盟
    ...条約締結から2年後の1904年には日露戦争が発生した。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。 thumb|left|280px|日英同盟の影響で[[ガーター勲章を授与された明治天皇(1906年)]] 第二次日英同盟では、イギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあうとともに、清国に対する両国の機会均等を定め、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けられた(攻守同盟)。 第三次日英同盟では、アメリカが、交戦相手国の対象外に定められた。ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかったが、これは日本、イギリス、ロシアの3国を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次...
  • 李完用
    ...日勢力を圧迫するが、1904年の日露戦争を境に日本寄りの態度を取るようになる。 1905年、学部大臣だった李完用は第二次日韓協約の調印に賛成し、これを推進した。これに賛同した5大臣は韓国で「乙巳五賊」に数えられている。このころから大衆の非難の的にもなった。 1907年、韓国統監伊藤博文の推薦により内閣総理大臣に就任。同年6月の高宗が起こしたハーグ密使事件に際しては日本側に立って、伊藤博文統監と共に日本に対し反抗的な高宗皇帝に強い態度で退位を迫り、ついに廃位に追いやるなどして第三次日韓協約の成立にも重要な役割を担った。 1909年、12月22日に明洞聖堂前で、反対勢力が送り込んだ刺客の李在明に襲われる。全身をメッタ刺しにされ重傷を負ったが、一命をとりとめる。 1910年、8月13日に韓国統監寺内正毅から韓国併合決定を伝えられた場で、韓国の名称を残すように要望するが拒否される。 ...
  • 寺内寿一
    ...(11期)卒業 1904年(明治37年)3月 日露戦争に出征 1909年(明治42年)12月 陸軍大学校(21期)を卒業 1919年(大正8年)7月 大佐に昇進 1919年(大正8年)12月 伯爵を襲爵 1924年(大正13年)2月 少将に昇進 1926年(大正15年)9月 山陽本線特急列車脱線事故に遭遇。34名も死亡した事故であったが、寺内は無傷であった。 1927年(昭和2年) 朝鮮軍参謀長 1929年(昭和4年)8月 中将に昇進 1930年(昭和5年) 第5師団長 1932年(昭和7年)1月9日 第4師団長 1933年(昭和8年)6月17日 ゴーストップ事件 1934年(昭和9年) 台湾軍司令官 1935年(昭和10年)10月 大将に昇進 1936年(昭和11年)3月9日 広田内閣において陸軍大臣に就任 1937年(昭和12年)1月 政友会の代議...
  • 御前会議
    ...主な例では明治時代の1904年2月4日、日露戦争開戦の可否をめぐって開かれている。変わった所では、京成電鉄が恩賜公園である上野公園の敷地の地下を経由して上野に乗り入れる際にも御前会議が招集された。 大東亜戦争(太平洋戦争)と御前会議 昭和時代では、1941年7月2日、独ソ不可侵条約破棄して独ソ戦が開始されたとき、事態対応するための方策として、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定されている。独ソ戦がドイツ有利に戦況が進んだ場合、ソ連に対して開戦すること、「対英米戦準備を整え、対英米戦を辞せず」とし、南部仏印進駐開始を決めた。 同年9月6日、御前会議が開かれて「帝国国策遂行要領」が決議された。これは、「大日本帝国が対米戦争を辞さぬ決意で、10月下旬までに開戦準備を行なう」、「並行して、米英と外交手段を尽くす」、「外交手段が10月上旬までに目処が立たねば、対米開戦決定」というもので...
  • 南次郎
    ...卒業(17期)。 1904年(明治37年)3月 - 日露戦争に出征(~12月)。 12月 - 大本営参謀。 1905年(明治38年)3月 - 少佐に昇進。第13師団参謀。 12月 - 陸軍大学校教官。 1906年(明治39年)9月 - 関東都督府陸軍参謀。 1910年(明治43年)2月 - 中佐に昇進。 1912年(大正元年)12月 - ヨーロッパ出張。 1914年(大正3年)1月20日 - 騎兵第13連隊長。 1915年(大正4年)8月10日 - 大佐に昇進。 1917年(大正6年)8月6日 - 陸軍省軍務局騎兵課長。 1919年(大正8年)7月25日 - 少将に昇進。支那駐屯軍司令官。 1921年(大正10年)1月20日 - 騎兵第3旅団長。 1923年(大正12年)10月10日 - 陸軍士官学校校長。 1924年(大正13年)2月4日 - 中将に...
  • 兒玉源太郎
    ...務大臣・文部大臣 1904年 - 陸軍大将、参謀本部次長 1906年 - 子爵      参謀総長在任中に脳溢血で死去、史上初の金鵄勲章功一級を明治天皇より下賜。他に陸軍次官なども歴任。 1907年 - 日露戦争における兒玉の功績により、長男秀雄が伯爵に陞爵される。 長州藩の支藩「徳山藩」の中級武士(百石)の家に生まれた。父親は早世し、家督を継いだ姉婿に養育された。だが源太郎が13歳のときこの義兄は佐幕派のテロにより惨殺され、家禄を失った一家は困窮した。 熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱鎮圧、同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争・熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験が後の日露戦争に生かされる事となる。ちなみに、この時東京から現地へ真っ先に送られた電報...
  • 第1次桂内閣
    ... 同年10月12日 1904年(明治37年)2月20日 1905年(明治38年)9月16日 同年12月14日 内閣総理大臣 桂太郎 桂太郎 桂太郎 桂太郎 桂太郎 外務大臣 小村壽太郎 小村壽太郎 小村壽太郎 小村壽太郎 小村壽太郎 内務大臣 兒玉源太郎 桂太郎(兼務) 芳川顯正 清浦奎吾(兼務) 清浦奎吾(兼務) 大蔵大臣 曾禰荒助 曾禰荒助 曾禰荒助 曾禰荒助 曾禰荒助 陸軍大臣 寺内正毅 寺内正毅 寺内正毅 寺内正毅 寺内正毅 海軍大臣 山本權兵衞 山本權兵衞 山本權兵衞 山本權兵衞 山本權兵衞 司法大臣 波多野敬直 波多野敬直 波多野敬直 波多野敬直 波多野敬直 文部大臣 久保田讓 久保田讓 久保田讓 久保田讓 桂太郎(兼務) 農商務大臣 清浦奎吾 清浦奎吾 清浦奎吾 清浦奎吾 清浦奎吾 逓信大臣 大浦兼武 大浦兼武 大浦兼武 大浦兼武...
  • アジア主義
    ...年 日英同盟締結 1904年 日露戦争 1905年 ポーツマス条約締結。中国同盟会設立(東京)。 1910年 日韓併合 1911年 辛亥革命 1918年 第一次世界大戦終戦 1919年 パリ講和会議開催、ヴェルサイユ条約締結 1924年 孫文の大アジア主義講演 1927年 山東出兵 1931年 満州事変勃発 1932年 満州国建国 1937年 盧溝橋事件(日中戦争勃発) 1938年 三木清が東亜協同体論を発表 1940年 近衛文麿内閣が基本国策要綱策定(大東亜の新秩序建設理念確立) 1941年 ABCD包囲網施行、太平洋戦争勃発 1943年 大東亜会議開催 1945年 日本国敗戦 人物・組織・思想 興亜会 1880年、海軍軍人で中国での情報活動に従事していた曽根俊虎などを中心に設立された。琉球処分や壬午軍乱などで日清関係が悪化していくなかで...
  • 一進会
    一進会(イルチンフェ・いっしんかい)とは、1904年から1910年まで大韓帝国で活動した当時最大の政治結社。一般に親日団体とみなされる。 宮廷での権力闘争に幻滅し、次第に外国勢力の力を借りてでも韓国の近代化を成し遂げようとする方向に傾いていきつつあった一部開化派の人々が設立した団体。中でも日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった日本に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。日本と韓国の対等な連邦である韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)の実現のために活発に活動した。 当時、大韓帝国では最も大きな政治結社であり、会員数は1908年12月時点で公称80万人から100万人であった ref name= B03041514200 アジア歴史資料センター、レファレンスコードB03041514200。ただ韓国内においては、実数は数万人程度だとする見方が優勢であり、民...
  • 大韓帝国
    ...軍人勅諭を制定。 1904年(明治37年) 李承晩が釈放される。 2月 日韓議定書が成立する。 8月 第一次日韓協約が成立する。 1905年(明治38年) 第二次日韓協約が成立する。 1906年(明治39年) 韓国統監府が置かれる。 1907年(明治40年) 6月 ハーグ密使事件起こる。 7月 高宗が皇帝を退位し、純宗が皇帝に即位。 同月 第三次日韓協約が成立する。 1910年(明治43年) 日韓併合条約により、日本に併合される。 政治 大韓国国制 1899年の大韓国国制により、 大韓帝国が自主独立の国であること、 大韓帝国の政治は万世不変の専制のであること、 皇帝が無限の君権を享有すること、 皇帝は不可侵であること、 皇帝が統帥権を有すること、 皇帝が法律制定権、恩赦権を有すること、 皇帝が行政各部の官制及び俸給を定めること、 皇帝...
  • 真崎甚三郎
    ...附(区隊長)。 1904年(明治37年)2月 - 日露戦争に従軍(~1905年12月)。 6月 - 大尉に昇進。歩兵第46連隊中隊長。 1907年(明治40年)11月 - 陸軍大学校卒業(19期恩賜)。陸軍省軍務局出仕。 1908年(明治41年)10月 - 軍務局課員(軍事課)。 1909年(明治42年)1月 - 少佐に昇進。 1911年(明治44年)5月 - ドイツ駐在(~1914年6月)。 1914年(大正3年)6月 - 歩兵第42連隊大隊長。 11月 - 中佐に昇進。歩兵第53連隊附。 1915年(大正4年)5月25日 - 久留米俘虜収容所長。 1916年(大正5年)11月15日 - 教育総監第2課長。 1918年(大正7年)1月18日 - 大佐に昇進。 1920年(大正9年)8月10日 - 陸軍省軍事課長。 1921年(大正10年)7月20日 ...
  • 参謀本部 (日本)
    ...99年5月16日 1904年6月20日   5 山縣有朋 陸軍大将 山口 1904年6月20日 1905年12月20日   6 大山巌 陸軍大将 鹿児島 1905年12月20日 1906年4月10日   7 児玉源太郎 陸軍大将 山口 1906年4月11日 1906年7月30日 歩兵科 8 奥保鞏 陸軍大将 福岡 1906年7月30日 1912年1月20日 歩兵科 9 長谷川好道 陸軍大将 山口 1912年1月20日 1915年12月16日 歩兵科 10 上原勇作 陸軍大将 宮崎 1915年12月17日 1923年3月17日 工兵科・陸士旧3期 11 河合操 陸軍大将 大分 1923年3月17日 1926年3月2日 歩兵科・陸...
  • 立憲政友会
    ...望が後継総裁となる。1904年日露戦争では桂内閣を支持した。1906年第1次西園寺内閣には2大臣を送る。年来の主張であった鉄道国有化を実現した。つづく第2次桂内閣にも与党、第2次西園寺内閣のもとでは原敬・松田正久を中心に党勢を拡大する。第3次桂内閣に対しては護憲運動を組織して倒閣に追い込んだ(大正政変)。1913年第1次山本内閣の与党となった。西園寺と桂が交代で政権を担当したこの時代は桂園時代と呼ばれる。 大正政変後、公家出身の西園寺は大正天皇から望まれていた第3次桂内閣への協力を拒否した政治的責任を取って辞表を提出した。後任には松田が望まれたが、松田が急死したために原敬が1914年に総裁となる。大正デモクラシーの波にのって成長し、1917年第一党に復帰、1918年米騒動後、1918年(大正7年)に原敬が首班となって、日本最初の本格的な政党内閣を組織した。 原敬の暗殺後、急遽新総...
  • 大本営
    ...戦争における大本営は1904年2月11日に設置された。このときは1903年の大本営条例の改訂により、戦時においても軍令機関が対等となったことから、陸軍の参謀総長、海軍の海軍軍令部長の両名ともに幕僚長とされた。1905年12月20日解散した。 支那事変(日中戦争)は公式には「戦争ではない」とされたため、1937年11月18日、大本営設置を戦時に限定していた大本営条例は勅令第658号によって廃止され、新たに戦時以外に事変でも設置可能にした「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定された。1937年11月20日、大本営が設置され、そのまま太平洋戦争(大東亜戦争)に移行した。戦争末期には長野市松代町に建設された地下壕への遷都も計画されたが(松代大本営)、未完成のまま終戦を迎え、1945年9月13日に廃止された。 組織 大本営の組織の実体はほとんどが参謀本部及び軍令部の組織であった。...
  • 松井石根
    ...- 中尉に昇進。 1904年(明治37年)2月 - 歩兵第6連隊中隊長。 4月 - 日露戦争に従軍(~1906年1月)。 8月 - 大尉に昇進。 1905年(明治38年)7月 - 第2軍副官。 12月 - 第2軍兵站監部参謀。 1906年(明治39年)11月 - 陸軍大学校卒業(18期恩賜)。参謀本部出仕。 1907年(明治40年)1月 - 清(北京・上海)駐在(~1911年4月)。 1908年(明治41年)11月 - 参謀本部員。 1909年(明治42年)11月 - 少佐に昇進。 1913年(大正2年)4月 - フランス領インドシナ出張。 1914年(大正3年)5月 - 欧米出張(~1915年8月)。 1915年(大正4年)8月 - 中佐に昇進。歩兵第22連隊附。 12月 - 参謀本部附(上海駐在)(~1919年2月)。 1918年(大正7年)7月...
  • 第二次日韓協約
    ...本は日露戦争中である1904年の第一次日韓協約締結により韓国の財政・外交に対し関与する立場となっていたが、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約(1905年9月5日)により韓国に対する優越権をロシアから承認され、また高宗が他の国に第一次日韓協約への不満を表す密使を送っていたことが問題となったこともあり、日本からの信頼を無くしていた大韓帝国に対し、より信頼できる行動をとることを求めるため、この協約を結ぶこととなった。 協約締結後の1907年に、協約の無効を主張する高宗の親書をたずさえた密使の派遣が露見する(ハーグ密使事件)。同事件における親書が、本協約の無効を主張したものとした正式な文書である。結局、密使の派遣が問題となり、高宗は李完用らに責任を問われ皇帝の地位を純宗に譲ることとなり、第三次日韓協約の調印へと進むこととなった。 全文 日本國政府及韓國政府ハ兩帝國ヲ結合スル利...
  • 小磯國昭
    ...- 中尉に昇進。 1904年(明治37年)3月 - 日露戦争に従軍(~1905年12月)。 1905年(明治38年)6月 - 大尉に昇進。 1906年(明治39年)3月 - 歩兵第30連隊中隊長。 1910年(明治43年)11月 - 陸軍大学校卒業(22期)。 12月 - 陸軍士官学校教官。 1912年(明治45年)9月 - 関東都督府参謀。 1914年(大正3年)8月 - 少佐に昇進。歩兵第2連隊大隊長。 1915年(大正4年)6月 - 参謀本部員。 8月 - 内モンゴル派遣(~1917年1月)。 1918年(大正7年)7月 - 中佐に昇進。 8月 - 第12師団参謀。 1919年(大正8年)4月15日 - 参謀本部兵站班長。 1921年(大正10年)7月20日 - 航空本部員。 1922年(大正11年)2月8日 - 大佐に昇進。 6月 - ヨー...
  • 野村吉三郎
    ...。 明治37年(1904年)10月19日 - 巡洋艦「済遠」航海長。 明治38年(1905年) 1月12日 - 「京城丸」航海長。 6月14日 - 防護巡洋艦「高千穂」航海長。 11月21日 - 海軍兵学校航海術教官。 明治39年(1906年)10月25日 - 巡洋艦「橋立」航海長。 明治30年(1907年)12月18日 - 巡洋艦「千歳」航海長。 明治41年(1908年) 3月3日 - オーストリア駐在。 9月25日 - 任海軍少佐。 明治43年(1910年)5月23日 - ドイツ駐在。 明治44年(1911年)9月13日 - 防護巡洋艦「音羽」副長。 大正2年(1913年) 2月26日 - 海軍省副官。海軍大臣秘書官。 12月1日 - 任海軍中佐。 大正3年(1914年)2月11日 - 在アメリカ合衆国大使館付...
  • 東郷平八郎
    ...]] 明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦三笠に座乗してロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃(旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。 そして明治38年(1905年)5月27日、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し 」と秋山真之参謀が起草し大本営に一報を打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した晩年になってこの文言を、1932年の軍人勅諭奉戴五十周年記念放送においてレコードに録音した。このことで肉...
  • 荒木貞夫
    ...年学校生徒隊附。 1904年(明治37年)2月 - 近衛後備歩兵第1連隊中隊長。 5月 - 近衛後備混成旅団副官。 8月 - 大尉に昇進。 1905年(明治38年)12月 - 近衛歩兵第1連隊附。 1907年(明治40年)11月 - 陸軍大学校卒業(19期恩賜)。参謀本部出仕(ロシア駐在)。 1908年(明治41年)4月 - 参謀本部員。 1909年(明治42年)11月 - 少佐に昇進。 12月 - ロシア駐在。 1912年(明治45年)5月 - ロシア公使館付武官補佐官。 1913年(大正2年)4月 - 参謀本部員。 1914年(大正3年)3月 - 陸軍省副官。 8月 - 陸軍大学校教官。 1915年(大正4年)4月 - ロシア出張。 6月 - ロシア軍に従軍(~1918年4月)。 8月 - 中佐に昇進。参謀本部附仰付(ハルピン特務機関)。 ...
  • 旅順攻囲戦
    ...t Arthur, 1904年8月19日 - 1905年1月1日)は、日露戦争における戦闘の一つ。ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順を守る要塞を、日本軍が攻略した。 背景 日本が日露戦争に勝利するためには、朝鮮半島周辺海域の制海権を抑えることが必須であった。旅順を母港とするロシア海軍の旅順艦隊(第1太平洋艦隊)と、開戦時にバルト海にあったバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)とを合わせれば、日本海軍の倍近い戦力があった。もし両艦隊の合流を許せば、制海権はロシア側に奪われ、日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続は絶望的になる。そのため日本軍は、バルチック艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要があると想定していた。 開戦後、日本側からの何度にもわたる挑発にも乗らず、旅順艦隊は港を出ることなく、戦力は保全され続けた。日本海軍は旅順港の封鎖を狙って旅順港...
  • 吉田茂-2
    ... 明治37年(1904年) 7月 学習院大学科退校(翌年、学習院大学科が閉鎖されるため) 9月 東京帝国大学入学 明治39年(1906年) 7月 東京帝国大学法科大学政治科卒業 9月 外交官及び領事官試験合格、外務省入省 11月 領事官補として天津に赴任 明治40年(1907年)2月 奉天領事館に赴任 明治42年(1909年)牧野伸顕の長女雪子と結婚後ロンドンに赴任。12月、駐伊大使館附三等書記官 大正元年(1912年)8月 安東領事 大正5年(1916年)8月 在米大使館附二等書記官 大正6年(1917年)7月 文書課長心得 大正7年(1918年)2月 済南領事 大正8年(1919年)2月 パリ講和会議随員 大正9年(1920年)5月 在英大使館附一等書記官 大正11年(1922年)3月 天津総領事 大正14...
  • 斎藤実
    ...。 明治37年(1904年)6月6日 - 海軍中将に進級。 明治38年(1905年)1月7日 - 艦政本部長。 明治39年(1906年)1月7日 - 第1次西園寺内閣において海軍大臣に就任。以後、5つの内閣で海相を歴任し、帝国海軍の整備を推進した。 明治40年(1907年)9月21日 - 男爵。従三位。 大正元年(1912年)10月16日 - 海軍大将に進級。 大正2年(1914年) 4月16日 - シーメンス事件の責任をとって、海軍大臣を辞任。 5月11日 - 予備役編入。 大正8年(1919年)8月12日 - 朝鮮総督に就任(~昭和2年(1927年)12月9日)。「文化政治」を推し進める。 大正14年(1925年)4月9日 - 子爵。 昭和2年(1927年)4月15日 - ジュネーブ海軍軍縮会議全権。 昭和3年(1928年)11月...
  • 山本権兵衛
    ...を取る事になる。 1904年(明治37年)には海軍大将に昇進し、同年から翌年にかけての日露戦争中は海軍大臣の地位にあり、軍政面から戦争を支えた。連合艦隊司令長官に東郷平八郎を推挙する際、明治天皇に「東郷は運の良い男でありますので」と奏したという話は有名である。戦争後にその功績により、伯爵に叙せられた。その後軍部の要人として存在感を強め、護憲運動などにも理解を示した。 総理大臣時代 thumb|[[内閣総理大臣山本權兵衞]] 1913年(大正2年)2月20日に退役となり、立憲政友会を与党として内閣総理大臣に就任した。第一次山本内閣では、軍部大臣現役武官制を廃止したが、シーメンス事件の贈賄疑惑をめぐり内閣は瓦解し、山本は1914年(大正3年)4月16日辞任した。 第二次山本内閣の組閣は関東大震災の被害もまだ明けぬ1923年(大正12年)9月2日である。山本は帝都復興院総裁に...
  • 加藤友三郎
    ...。 明治37年(1904年)9月1日 - 海軍少将に進級。 明治38年(1905年)1月12日 - 連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長。 明治39年(1906年)1月8日 - 海軍次官。 明治41年(1908年)8月28日 - 海軍中将に進級。 明治42年(1909年)12月1日 - 呉鎮守府司令長官。 大正2年(1913年)12月1日 - 第一艦隊司令長官。 大正4年(1915年) 8月10日 - 第10代海軍大臣に就任(~1923年5月15日)。 8月28日 - 海軍大将に進級。 大正9年(1920年)9月7日 - 男爵叙爵。 大正10年(1921年)9月27日 - ワシントン会議全権。 大正11年(1922年)6月12日 - 第21代内閣総理大臣に就任。 大正12年(1923年)8月24日 - 内閣総辞職。海軍元帥に叙せられる。...
  • 板垣征四郎
    ...k2wc 年譜 1904年(明治37年)10月 - 陸軍士官学校卒業(16期)。 11月 - 少尉に昇進。歩兵第4連隊附。 12月 - 日露戦争に従軍(~1906年1月)。 1907年(明治40年)12月 - 中尉に昇進。 1913年(大正2年)8月 - 大尉に昇進。 1916年(大正5年)11月 - 陸軍大学校卒業(28期)。歩兵第4連隊中隊長。 1917年(大正6年)8月6日 - 参謀本部附仰附(昆明駐在)。 1919年(大正8年)4月 - 中支那派遣隊司令部附。 7月 - 中支那派遣隊参謀。 1920年(大正9年)4月 - 少佐に昇進。 1921年(大正10年)4月 - 歩兵第47連隊大隊長。 1922年(大正11年)4月 - 参謀本部員(支那課)。 1923年(大正12年)8月 - 中佐に昇進。 1924年(大正13年)6月 - 支那公使館附...
  • 伏見宮博恭王
    ... 明治37年(1904年) 1月16日、伏見宮復籍 10月5日、海軍省軍務局員兼大本営附 明治38年(1905年) 5月22日、第三王子博信王誕生 8月20日、防護巡洋艦「新高」副長 11月3日、大勲位菊花大綬章受章 明治39年(1906年) 4月1日、功四級金鵄勲章受章・敷設艦「沖島」副長心得 5月11日、防護巡洋艦「浪速」副長心得 5月18日、第二王女敦子女王、第三王女知子女王誕生 9月28日、海軍中佐・浪速副長 11月5日、装甲巡洋艦「日進」副長 明治40年(1907年) 2月15日、海軍大学校選科学生 12月18日、イギリス駐在 明治43年(1910年) 5月23日、命帰朝 7月25日、軍令部出仕 9月26日、防護巡洋艦「高千穂」艦長心得 12月1日、海軍大佐・朝日艦長 明治4...
  • 宇垣一成
    ...年(1902年 - 1904年)最初のドイツ留学。この間に最初の妻・鎮恵死去。 明治39年(1906年)、2度目のドイツ留学。 明治40年(1907年)、小原貞子と再婚。 明治43年(1910年)、陸軍大佐に昇進。 大正2年(1913年)、山本内閣の陸海軍大臣現役制廃止に反対する怪文書をばらまき、陸軍省から左遷される。 大正4年(1915年)、陸軍少将に昇進。 大正5年(1916年)、参謀本部第一部長。 大正8年(1919年)、陸軍中将に昇進。 大正10年(1921年)3月11日、第10師団長 大正12年(1923年)、陸軍次官。 大正13年 - 昭和2年(1924年 - 1927年)清浦内閣で陸軍大臣に就任。以後、加藤高明内閣、第1次若槻内閣まで陸軍大臣を歴任。 大正14年(1925年)、加藤内閣の時、「宇垣軍縮」と呼ばれる陸軍の整理を行...
  • 乃木希典
    ...)に親補せられる 1904年(明治37年) - 休職中の身であったが日露戦争の開戦にともない、第三軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮。2児の勝典、保典が戦死する。 1907年(明治40年) - 学習院院長として皇族子弟の教育に従事。昭和天皇も厳しくしつけられたという。 1912年(大正元年) - 明治天皇大葬の9月13日夜、妻静子とともに自刃。享年62。墓所は港区青山霊園 1916年(大正5年) - 裕仁親王の立太子礼に際して、正二位を追贈される。 評価 秋月の乱・萩の乱、西南戦争 乃木は陸軍入隊後、少佐、連隊長として秋月の乱・萩の乱、つづいて西南戦争に従軍した。秋月・萩の乱では精鋭ぞろいの第一連隊を率いて士族軍をすみやかに鎮定した乃木であったが、当時最強の野戦軍とみられていた薩軍が優勢を誇る熊本戦線に送り込まれた西南戦争では、しばしば包囲されるなど苦戦をつづけ...
  • ニコライ2世
    ...も主戦論を支持して、1904年2月、日本側の攻撃をもって日露戦争が勃発した。しかし、ロシアは小国と侮っていた日本に敗戦を重ね、ロシア民衆は徴兵を逃れて革命の芽を育てた。 1905年1月9日、莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が皇帝への嘆願書をたずさえてサンクト・ペテルブルクの冬宮殿前広場に近づくと、兵士は丸腰の10万もの群衆に発砲し、2,000~3,000人の死者と1,000~2,000人の負傷者を出した。血の日曜日事件である。敗戦による威信の低下に加え、皇帝が民衆に対して友好的であるというイメージも完全に崩れ去った。 この事件により、ニコライ2世はヴィッテを再登用して戦争の早期終結に当たらせると同時に、プレーヴェ暗殺後に内相を務めていたスヴャトポルク=ミルスキーを解任して、後任にアレクサンドル・ブルイギンを任命した。 6月8日、アメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領が日露両...
  • 岡田啓介
    ...海軍大学校教官。 1904年7月13日 - 海軍中佐に進級。 1906年5月11日 - 海軍水雷学校教官。 1908年9月25日 - 海軍大佐に進級。海軍水雷学校校長。 1910年7月25日 - 装甲巡洋艦春日艦長。 1912年12月1日 - 戦艦鹿島艦長。 1913年12月1日 - 海軍少将に進級。 1915年12月13日 - 海軍省人事局長。 1917年12月1日 - 海軍中将に進級。 1920年10月1日 - 艦政本部長。 1923年5月25日 - 海軍次官。 1924年6月11日 - 海軍大将に進級。軍事参議官。 12月1日 - 第一艦隊司令長官。連合艦隊司令長官。 1926年12月10日 - 横須賀鎮守府司令長官。 1927年4月20日、1932年5月26日 - 海軍大臣を拝命。 1933年1月21日 - 予備役編入。 1934年7月8日 ...
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