chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「1905年」で検索した結果

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  • 大韓帝国
    ...首相等年代始1 = 1905年 |首相等年代終1 = 1905年 |首相等氏名1 = Template lang? |首相等年代始2 = 1905年 |首相等年代終2 = 1907年 |首相等氏名2 = 朴斉純 |首相等年代始3 = 1907年 |首相等年代終3 = 1909年 |首相等氏名3 = 李完用 |首相等年代始4 = 1909年 |首相等年代終4 = 1910年 |首相等氏名4 = 朴斉純 |首相等年代始5 = 1910年 |首相等年代終5 = 1910年 |首相等氏名5 = 李完用 |面積測定時期1 = |面積値1 = |人口測定時期1 = |人口値1 = |変遷1 = 朝鮮国より改称 |変遷年月日1 = 1897年10月12日 |変遷2 = 第二次日韓協約調印 |変遷年月日2 = 1905年11月17日 |変遷3 =...
  • 関東都督府
    ...概要 日露戦争後の1905年、遼陽に設置された関東総督府が翌1906年、旅順に移転・改組され関東都督府になった。 関東州の統治のほか、南満州鉄道株式会社の業務監督や満鉄附属地の警備も行った。 1919年の関東軍と関東庁に分かれるまで続いた。 都督 長官の都督は陸軍大将・中将から任命された。都督は「都督府令」を発し、禁錮1年以下又は罰金200円以下の罰則を科すことができた。 外務大臣の監督下で清国(後に中華民国)の地方官と交渉することもできた。 また、都督は軍人であるので、関東州駐屯軍司令官も兼ね強大な権限を持った。 歴代都督 関東総督 大島義昌 大将 (1905年10月18日 - 1906年9月1日) 関東都督 大島義昌 大将 (1906年9月1日 -) 福島安正 中将 (1912年4月26日 -) 中村覚 中将 (1914年9月15...
  • 第二次日韓協約
    ...は、日露戦争終結後の1905年(明治38)11月17日に日本と韓国が締結した協約。これにより韓国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上保護国となった。乙巳保護条約、韓国保護条約とも。 日本側代表は特命全権公使林権助、韓国側代表は外部大臣朴斉純。 経緯 日本は日露戦争中である1904年の第一次日韓協約締結により韓国の財政・外交に対し関与する立場となっていたが、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約(1905年9月5日)により韓国に対する優越権をロシアから承認され、また高宗が他の国に第一次日韓協約への不満を表す密使を送っていたことが問題となったこともあり、日本からの信頼を無くしていた大韓帝国に対し、より信頼できる行動をとることを求めるため、この協約を結ぶこととなった。 協約締結後の1907年に、協約の無効を主張する高宗の親書をたずさえた密使の派遣が露見する(ハーグ密...
  • 大同倶楽部
    ... 大同倶楽部 (1905年 - 1910年) 大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、明治時代後期に存在した日本の政党(1905年12月23日-1910年3月2日)。 第1次桂内閣の崩壊後、同内閣を支持していた帝国党の佐々友房を中心に甲辰倶楽部などが合流して76人結成される。桂太郎ら長州藩閥と親しく、当初は立憲政友会及びその第1次西園寺内閣に対して支持していたが、後に対決姿勢を強めたために親政友会派の脱会を招いた。その後、反政友会勢力再結集を目指して戊申倶楽部と合同して中央倶楽部を結成した。 関連項目 日本の政党一覧   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月11日 (金) 18 00。   
  • 韓国統監府
    ...測所 地方機関 1905年(明治38年)時点 京城理事庁 仁川理事庁 釜山理事庁 元山理事庁 鎮南浦理事庁 木浦理事庁 馬山理事庁 歴代統監 関連項目 大韓帝国 朝鮮総督府 保護国 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月29日 (土) 19 09。     
  • 教育総監
    ...4年3月17日 - 1905年5月9日長州藩 4西寛二郎1905年5月9日 - 1908年12月21日薩摩藩 5大島久直1908年12月21日 - 1911年9月6日秋田藩 6浅田信興1911年9月6日 - 1914年4月22日川越藩 7上原勇作1914年4月22日 - 1914年12月17日陸士旧3期 8一戸兵衛1914年12月17日 - 1919年8月26日陸士旧3期 9大谷喜久蔵1919年8月26日 - 1920年12月28日陸士旧2期 10秋山好古1920年12月28日 - 1923年3月17日陸士旧3期 11大庭二郎1923年3月17日 - 1926年3月2日陸士旧8期 12菊池慎之助1926年3月2日 - 1927年8月26日陸士旧11期 13武藤信義1927年8月26日 - 1932年5月26日陸士3期 14林銑十郎1932年...
  • 東莱府
    ...莱郡に降格されるが、1905年に再び東莱府の名に戻り、1910年10月1日に釜山府となった。 東莱郡も参照 年表 757年 - 統一新羅により東莱郡が置かれる。 1018年 - 東莱県となる。 1547年 - 東莱都護府となる。 1592年 - 文禄・慶長の役、東莱城の戦い。東莱県に降格。 1599年 - 東莱都護府を再設置。 1609年 - 己酉約条。 1692年 - 竹島一件。 1868年 - 対馬藩経由で提出された国書の受け取りを拒絶(書契問題)。 1872年 - 倭館の対馬藩施設を日本外務省が接収し、公使館とする。 1877年 - 日朝修好条規締結。 1895年 - 二十三府制により東莱府(観察使)と東莱郡が置かれる。 1896年 - 十三道制により慶尚南道東莱府が置かれる。 1903年 - 東莱府が東莱郡になる。...
  • 支那駐屯軍
    ...日 - 明治38年(1905年)6月25日 神尾光臣 少将 明治38年(1905年)6月25日 - 明治39年(1906年)11月27日 中村愛三 少将 明治39年(1906年)11月27日 - 明治41年(1908年)11月21日 阿部貞次郎 大佐 明治41年(1908年)11月21日 - 明治45年(1912年)4月24日 支那駐屯軍司令官 佐藤鋼次郎 少将 明治45年(1912年)4月26日 - 大正3年(1914年)8月8日 奈良武次 少将 大正3年(1914年)8月8日 - 大正4年(1915年)7月5日 斎藤季治郎 少将 大正4年(1915年)7月5日 - 大正5年(1916年)5月2日 石光真臣 少将 大正5年(1916年)5月2日 - 大正7年(1918年)6月10日 金谷範三 少将 大正7年(1918年)6月10日 - 大正8年(1919年)7...
  • 陸軍記念日
    ...で、3月10日。 1905年3月10日、日露戦争の奉天大会戦で日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領し、奉天城に入場したのがこの日であった。これを記念して翌1906年から休日としたもの。 1945年の敗戦(第二次世界大戦)に伴い廃止された。 1945年東京大空襲は、意識的にこの日を狙って行なわれたと言われている。実際には、当時の日本でこの記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になってのも事実であるかのように出回ったものである。日本では、事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認出来ない。因みに海軍記念日は5月27日。5月27日には空襲はなく、2日前の5月25日に東京大空襲、2日後の5月29日に横浜大空襲があった。 世界の陸軍記念日 アメリカ合衆国:4月6日(1950年以降廃止、5月の第3土曜日の軍隊記念日(Armed F...
  • 副島種臣
    ...) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の武士・佐賀藩士、官僚、政治家。勲等は勲一等。爵位は伯爵。通称は二郎。号は蒼海、一々学人。書家としても優れた作品を残している。 経歴 父は佐賀藩の藩校・弘道館の教授であった国学者・枝吉南濠。兄は国学者・枝吉神陽。のちに同藩の副島利忠の養子となる。父・兄の影響により、早くから尊王攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間江藤新平や大木喬任と交わる。 嘉永3年(1850年)、兄の枝吉神陽が中心となって結成した楠公義祭同盟に加わる。 嘉永5年(1852年)、京都に遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。元治元年(1864年)、佐賀藩が長崎に設けた洋学校・致遠館の英学生監督となり、英語などを学ぶ。慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩し、勤王の志士として活動するが、捕らえられて佐賀に送還され謹慎処分を受ける。 明...
  • 七博士意見書
    ...、文部大臣久保田譲は1905年8月に文官分限令を適用して休職処分とした。ところが、戸水は金井・寺尾と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出したため、久保田は東京帝国大学総長の山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭した。このため、東京帝国大学・京都帝国大学の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言した。このため、翌年1月に戸水の復帰が認められた(「戸水事件」)。   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月17日 (土) 04 05。    
  • 第1次桂内閣
    ...果たした。このため、1905年(明治38年)12月に総辞職して、約束通りに西園寺公望に組閣の大命が下ることとなった。その在任期間は1681日で、1つの内閣としては日本憲政史上最長である。 以後、元老・山縣有朋に支えられた桂と元老・伊藤博文に支えられた西園寺が交互に首班となって組閣したことから、Template 和暦?の日露戦争後から、Template 和暦?の大正二年の政変までの時期を桂園時代(けいえんじだい)と呼ぶ。 国務大臣 第1次桂内閣 1901年(明治34年)6月2日 同年9月21日 1902年(明治35年)3月27日 同年9月26日 1903年(明治36年)7月15日 同年7月17日 内閣総理大臣 桂太郎 桂太郎 桂太郎 桂太郎 桂太郎 桂太郎 外務大臣 曾禰荒助(臨時兼務) 小村壽太郎 小村壽太郎 小村壽太郎 小村壽太郎 小村壽太郎 内務大臣 内海...
  • 安重根
    ...」。 事績 1905年以降、大韓帝国に於ける日本の影響力が増したことに憤激し、抗日義兵闘争を組織。亡命を繰り返す。1909年10月26日、哈爾浜駅の構内にて、韓国統監府初代統監(暗殺当時枢密院議長)伊藤博文を暗殺した。伊藤は満州・朝鮮問題についてロシア蔵相ココフツォフと会談するためハルビンに赴いていた。旅順の関東都督府地方院で死刑判決を受け、旅順刑務所で絞首刑に処せられた。 彼の決意の堅さを表すものとして、同志と共に薬指を切り、その血をもって国旗に大韓独立の文字を書いたという断指同盟の逸話が伝わっている。 獄中で安の取調べを行った日本人警視からの勧めで自伝「安応七歴史」を著した。 安重根の評価 安重根への評価は日本の植民地支配及び彼の闘争行為を肯定するか否かで分かれる。 大韓民国 (韓国) 現在の韓国では「抗日闘争の英雄」として評価され、「義士」と呼ばれ...
  • 日比谷焼打事件
    ...償に対する不満から、1905年9月5日、東京日比谷公園の集会をきっかけに起こった暴動のこと。 概要 1905年のポーツマス条約によってロシアは樺太全島および遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、同条約では戦勝国であるはずの日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかった為、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。そのため、世論の非難(日本内部)が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令も敷かれた。 原因 1905年、日露戦争は東郷平八郎率いる日本海軍がロシア海軍のバルチック艦隊を撃破したことを契機に、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの仲介のもと...
  • 学習院
    ... 第9代山口鋭之助1905年 - 1906年京都大学教授、物理学者 第10代乃木希典1906年 - 1912年陸軍大将、伯爵 第11代大迫尚敏1912年 - 1918年陸軍大将、子爵 第12代北条時敬1918年 - 1921年宮中顧問官 第13代一戸兵衛1921年 - 1923年陸軍大将、教育総監 第14代福原鐐二郎1923年 - 1929年東北大学総長 第15代荒木寅三郎1929年 - 1937年京都大学総長 第16代野村吉三郎1937年 - 1939年海軍大将 第17代山梨勝之進1939年 - 1946年海軍大将 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月16日 (日) 06 46。    
  • 小村壽太郎
    ...る戦時外交を担当し、1905年ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印。ただし、その後にアメリカの鉄道王ハリマンが満洲における鉄道の共同経営を提案したのを首相や元老の反対を押し切って拒否した件については評価が分かれる。 1908年成立の第2次桂太郎内閣の外務大臣に再任。幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉を行う。1911年に日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。日露協約の締結や、韓国併合にも関り、一貫して日本の大陸政策を進めた。 同年、外務大臣辞任後まもなく死去。墓所は東京都港区の青山霊園にある。 エピソード 仕事は後世の人間が判断することである、として一切日記を付けなかったとされる。 ロシア駐在時、暗い室内で膨大な数の書物を読み込み続けたため、医者からは「これ以上目を使い続けると失明する」と忠告さ...
  • 時事新報
    ...一角を占めた。また、1905年には、大阪へ進出している(以下、後述参照)。 しかし、関東大震災による被災で業績は悪化し、部数も低下。 1934年1月17日から武藤山治社長が率先して行った「番町会を暴く」シリーズでは財界の不正を糾し、帝人事件(昭和初期の大疑獄事件)にまで発展したが、武藤社長が暴漢に射殺されてシリーズは終了。時事新報の前途にますます暗雲が立ちこめる事となった。 この後、慶應義塾出身者で東京日日新聞の高石眞五郎に経営肩代わりの話がくるが、高石は東京日日新聞の経営自体が傾いた時期でもあり、これを固辞。代わりに東京日日新聞の社外役員であり、大阪で「夕刊大阪新聞」・「日本工業新聞」を発行していた前田久吉を推挙し、1935年11月より前田が専務となって経営に当たった。しかしながら前田の大阪的経営手法と慶應閥が多い会社の体質が相反し、社業は遂に行き詰まった。高石は責任を取る形...
  • 渡辺錠太郎
    ...月 大本営参謀 1905年9月 元老山縣有朋の副官 1906年 清国出張 1907年 ドイツ駐在 1908年12月 少佐任官 1909年5月 ドイツ大使館付武官補佐官 1910年6月 参謀本部勤務 1910年11月 山縣元帥副官 1913年1月 中佐任官 1915年2月 歩兵3連隊付 1916年5月 参謀本部課長 1916年7月 大佐任官 1917年10月 オランダ公使館付武官 1920年8月 歩兵第29旅団長及び少将任官 1922年9月 参謀本部第4部長 1925年5月 陸軍大学校校長及び中将任官 1926年3月 第7師団長 1929年3月 航空本部長 1930年6月 台湾軍司令官 1931年8月 軍事参議官兼航空本部長・大将任官 1935年7月 陸軍教育総監に就任 1936年2月26日 二・二六事...
  • 聯合艦隊解散之辞
    ...こととなり、解散式が1905年12月21日に行われた。その解散式において連合艦隊司令長官・東郷により聯合艦隊解散之辞が読まれることとなった。訓示は東郷の筆であるが、文面の起草は参謀秋山真之と言われている。 訓示の骨子は、日露戦争と歴史を紐解きつつ国家における海軍の大事を説き、平時における海軍や海軍軍人のあり方について指し示し、有事に備える心構えの重要さを示している。 アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトはこの訓示に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布している。 原文は神奈川県横須賀市の記念艦三笠に所蔵されている。 Template Wikisource? 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年10月15日 (月) 05 08。     
  • イルティッシュ号投降事件
    ...号が航行不能となり、1905年(明治38年)5月28日午後2時頃、島根県那賀郡都濃村和木(現・江津市和木町)で投降した事件。 イルティッシュ号 イルティッシュ号は、ドイツ海軍の石炭運送船ベリギヤ号(7,500トン)として1903年にドイツで建造された。1904年にロシアがドイツより購入し、艦隊に所属させるために200万ルーブルをかけて改装した。この改装により石炭艙は各種積荷の貯蔵のため乾燥室と石炭室に分割され、名前も西シベリアを流れるオビ川左岸の支流エルティシ川(全長4,248km)からイルティッシュ号と命名された。排水量15,000トン、全長180m、全幅17m、最大速度10.5ノット。兵装として8つの小口径砲を装備していた。 編成乗組員は251名(士官17名、准士官6名、水兵228名)、投降時の乗組員は235名で、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、タタール、ドイツ、ラトビア、...
  • 第一次日韓協約
    ...ロシアに密使を送る、1905年(明治38年)3月26日韓国皇帝のロシア皇帝宛の密書が発覚。その後も7月にロシア、フランスへ、10月にアメリカ、イギリスに密使を送る。これらの行動を受けて、日本政府は大韓帝国が外交案件について日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないとしていた同条約を遵守する意志がないと考え、日本が韓国の外交権を完全に掌握できる第二次日韓協約の締結を要求するようになる。 全文 一 韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人一名ヲ財務顧問トシテ韓国政府ニ傭聘シ財務ニ関スル事項ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ 一 韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人一名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘シ外交ニ関スル要務ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ 一 韓国政府ハ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件即外国人ニ対スル特権、譲与若ハ契約等ノ処理ニ関シテハ予メ日本政府ト協議スヘシ 明治三十七年八月...
  • 日露戦争
    ...04年2月8日 - 1905年9月5日 | place = 満州南部、朝鮮半島沿岸 | result = 日本の勝利、ポーツマス条約 | combatant1 = Template flagicon? ロシア帝国 | combatant2 = Template flagicon? 大日本帝国 | commander1 = Template flagicon? ニコライ2世(皇帝)Template flagicon? アレクセイ・クロパトキン(陸軍)Template flagicon? ステパン・マカロフ(海軍)† | commander2 = Template flagicon? 明治天皇(天皇) /br Template flagicon? 大山巌(陸軍)Template flagicon? 東郷平八郎(海軍) | st...
  • 帝国党
    ...1899年7月5日-1905年12月23日)。国民協会のあとを受け結成された。 概要 国民協会の会頭(党首)であった品川弥二郎が政党活動から撤退を表明したことにより解散されることになった国民協会所属議員の受け皿として、佐々友房・荒川邦蔵らによって結成された。だが、伊藤博文による新党(後の立憲政友会)結成の噂が流れたことによって所属議員は分裂して大岡育造派は新党参加を決定、残された佐々友房派12名が無所属や他党議員8名を加えて計20名で結成することとなった。国体擁護・軍備充実・国権拡張・実業振作・国民精神発揚・社会政策拡充・地方自治完備といった綱領を掲げていた。 だが、実際に立憲政友会が結成されると党内は動揺して元田肇らが離脱してこれに参加、第1次桂内閣では唯一の与党となったものの、20名を切る小政党では活動に限界があった。対露同志会に参加して日露戦争期にはやや勢いを得たものの議...
  • 閑院宮載仁親王
    ...将 明治38年(1905年)5月 大本営附 明治38年(1905年)12月20日 参謀本部附 明治39年(1906年)2月3日 第1師団長 明治44年(1911年)9月6日 近衛師団長 大正元年(1912年)11月27日 陸軍大将・軍事参議官 大正3年(1914年) 昭憲皇太后御大葬総裁 大正5年(1916年)8月 ロシア出張 大正5年(1916年)10月 帰朝 大正8年(1919年)12月12日 元帥 大正10年(1921年)3月3日より 皇太子裕仁親王の御渡欧に随行。 大正10年(1921年)9月3日 皇太子裕仁親王の御渡欧補導の大任を果たし無事帰朝。 大正10年(1921年)9月24日 大勲位菊花章頸飾 大正12年(1923年)9月1日 小田原市の閑院宮御別邸に滞在中関東大震災に遭遇。 大正12年(1923年)10月27日...
  • 桂園時代
    ...政権を交互に担当した1905年から1912年の8年間をいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。 桂園時代は、桂に代表される官僚・軍部と西園寺に代表される有力政党である立憲政友会が「情意投合」と呼ばれる連携体制を組んで交互に首相に就任した(この間にも松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たずにいずれも断念に追い込まれている)。特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものである。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけである。 なお、「桂園」は和歌の流派名(桂園派。江戸時代後期の歌人、香川景樹が創始した。香川の号が桂園)とも係っている。桂園派は、当時流行しつつあった冒険的な近代短歌に対...
  • 小磯國昭
    ... 日露戦争に従軍(~1905年12月)。 1905年(明治38年)6月 - 大尉に昇進。 1906年(明治39年)3月 - 歩兵第30連隊中隊長。 1910年(明治43年)11月 - 陸軍大学校卒業(22期)。 12月 - 陸軍士官学校教官。 1912年(明治45年)9月 - 関東都督府参謀。 1914年(大正3年)8月 - 少佐に昇進。歩兵第2連隊大隊長。 1915年(大正4年)6月 - 参謀本部員。 8月 - 内モンゴル派遣(~1917年1月)。 1918年(大正7年)7月 - 中佐に昇進。 8月 - 第12師団参謀。 1919年(大正8年)4月15日 - 参謀本部兵站班長。 1921年(大正10年)7月20日 - 航空本部員。 1922年(大正11年)2月8日 - 大佐に昇進。 6月 - ヨーロッパ出張(~1923年3月)。 1923年(大...
  • 海軍記念日
    ...おり、休日であった。1905年(明治38年)5月27日に行われた日本海海戦を記念して制定された。1945年に敗戦とともに廃止された。 日露戦争は、アジアの小国日本が欧州の大国ロシアに勝利を収めた。その中でも、遠路ヨーロッパ・バルト海から回航された強力なバルチック艦隊(ロシア名:第2・第3太平洋艦隊)を迎え撃ち これを撃滅した日本海海戦(ロシア名:ツシマ海戦)は、陸上での奉天会戦の勝利(陸軍記念日)と並んで日本国民が記念すべき日とされ、海軍記念日として祝われた。 現在の海上自衛隊も、この日の前後に基地祭などの祝祭イベントを設けている。 主なものに、例年金刀比羅宮で行われる掃海殉職者慰霊祭がある。 詳細は海上自衛隊参照のこと。 関連項目 日本海海戦記念式典 戦前の祝日(祝祭日) 東郷平八郎 軍隊記念日 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipe...
  • 連合艦隊
    ...海海戦(明治38年(1905年)5月27、28日)- 旗艦:戦艦 三笠 太平洋戦争(大東亜戦争) ミッドウェイ海戦(昭和17年(1942年)6月5~7日)- 旗艦:戦艦 大和 歴代司令長官 Template Main? (代)-(氏名)-(就任時階級)-(就任年月日) 伊東祐亨 - 中将 - 明治27年(1894年)7月19日     有地品之允 - 中将 - 明治28年(1895年)5月11日      東郷平八郎 - 中将 - 明治36年(1903年)12月28日   東郷平八郎 - 大将 - 明治38年(1905年)6月14日 伊集院五郎 - 中将 - 明治41年(1908年)10月8日 吉松茂太郎 - 中将 - 大正4年(1915年)11月1日 吉松茂太郎 - 中将 - 大正5年(1916年)9月1日 ...
  • 李完用
    ...取るようになる。 1905年、学部大臣だった李完用は第二次日韓協約の調印に賛成し、これを推進した。これに賛同した5大臣は韓国で「乙巳五賊」に数えられている。このころから大衆の非難の的にもなった。 1907年、韓国統監伊藤博文の推薦により内閣総理大臣に就任。同年6月の高宗が起こしたハーグ密使事件に際しては日本側に立って、伊藤博文統監と共に日本に対し反抗的な高宗皇帝に強い態度で退位を迫り、ついに廃位に追いやるなどして第三次日韓協約の成立にも重要な役割を担った。 1909年、12月22日に明洞聖堂前で、反対勢力が送り込んだ刺客の李在明に襲われる。全身をメッタ刺しにされ重傷を負ったが、一命をとりとめる。 1910年、8月13日に韓国統監寺内正毅から韓国併合決定を伝えられた場で、韓国の名称を残すように要望するが拒否される。 300px|right|thumb|[[大韓帝国皇帝純宗によ...
  • 寺内正毅
    ...01年6月2日 - 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣となり、日露戦争の勝利に貢献した。第1次西園寺内閣や第2次桂内閣(1908年7月14日 - 1911年8月25日)でも再び陸相をつとめた渡辺淳一の直木賞受賞作『光と影』は、寺内の生涯をモデルとしたとされる。。明治39年(1906年)には南満洲鉄道設立委員長・陸軍大将・子爵に相次いで任じられた。 明治42年(1909年)10月26日のハルビンにおける伊藤博文暗殺後、第2代韓国統監曾禰荒助(在任 1909年6月14日 - 1910年5月)が辞職すると同43年(1910年)5月30日陸相のまま第3代韓国統監を兼任し、同年8月22日の日韓併合と共に10月1日、朝鮮総督府が設置されると、引き続き陸相兼任のまま初代朝鮮総督に就任した。なお、陸相兼任は第二次西園寺内閣の成立で石本新六が陸相に就任するまで続いた。朝鮮総督...
  • 梁鴻志
    ...となる。光緒31年(1905年)、京師大学堂(北京大学の前身)に入学した。光緒34年(1908年)の卒業後、山東省の登莱高胶道尹公署で科長に任命され、まもなく教職に転じた。中華民国成立後は、国務院で職に就き、袁世凱が創刊させた新聞である『亜細亜報』で記事を書いた。 民国5年(1916年)6月の袁世凱死後、梁鴻志は段祺瑞率いる安徽派に与し、段芝貴の秘書長を務めた。この間に、王揖唐と親交を結び、民国7年(1918年)3月に王が安福倶楽部を創始すると、梁もこれに加わり、さらに参議院議員に当選した。後に、参議院秘書長に就任している。民国9年(1920年)7月の安直戦争で安徽派が敗北すると、梁も指名手配されたため、天津の日本租界に逃げ込んだ。 民国13年(1924年)10月の北京政変(首都革命)で段祺瑞が臨時執政として復権すると、梁鴻志も臨時執政秘書長に就任した。しかし、民国14年(192...
  • 顧維鈞
    ...約翰書院に入学した。1905年コロンビア大学に入学、1908年文学士、1909年政治学修士、1912年国際法・外交博士を取得した。同大学では中国人留学生の発行する機関紙の編集にも携わり、またアメリカ国際法学会、アメリカ政治学会会員としても活躍し、後に1916年にはイェール大学より名誉法学博士の学位を授与された。袁世凱の英文秘書を経て、1912年8月国務院秘書、1914年外交部参事、1915年7~10月駐メキシコ公使、同年10月~1920年9月駐米公使兼駐キューバ公使となり、第一次世界大戦参戦決定に参与した。 1919年パリ講和会議全権代表、1920年9月~1922年5月駐英公使となり、この間、1920年国際連盟中国首席代表、1921年~1922年ワシントン会議全権代表として国際会議で不平等条約撤廃を要求し続けた。 1922年~1923年外交総長、1924年代総理(国務総理代行)兼...
  • 平民社
    ...日発行の第1号から、1905年1月29日発行の第64号まで刊行された。 週刊『平民新聞』第1号(11月15日)には、「平民社同人」の署名のある「宣言」と、堺と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載されている。「宣言」では、平民社が今後、「平民主義・社会主義・平和主義」を唱えていくことが述べられている。この二つの文書は、1901年に幸徳らによって結成されながらも、ただちに禁止された社会民主党の「社会民主党宣言書」の精神を引き継ぎ、その後の日本における社会主義運動に大きな影響を与えたものであった。 週刊『平民新聞』第53号(1904年11月13日)には、新聞創刊1周年の記念として、堺と幸徳の共訳で『共産党宣言』が訳載された。翻訳はサミュエル・ムーア訳の英語訳からの重訳。日本における最初の『共産党宣言』の翻訳であった。 週刊『平民新聞』は、第1面に英文欄を設け、アメリカ合衆国やイギリス、...
  • 南次郎
    ... 大本営参謀。 1905年(明治38年)3月 - 少佐に昇進。第13師団参謀。 12月 - 陸軍大学校教官。 1906年(明治39年)9月 - 関東都督府陸軍参謀。 1910年(明治43年)2月 - 中佐に昇進。 1912年(大正元年)12月 - ヨーロッパ出張。 1914年(大正3年)1月20日 - 騎兵第13連隊長。 1915年(大正4年)8月10日 - 大佐に昇進。 1917年(大正6年)8月6日 - 陸軍省軍務局騎兵課長。 1919年(大正8年)7月25日 - 少将に昇進。支那駐屯軍司令官。 1921年(大正10年)1月20日 - 騎兵第3旅団長。 1923年(大正12年)10月10日 - 陸軍士官学校校長。 1924年(大正13年)2月4日 - 中将に昇進。 1926年(大正15年)3月2日 - 第16師団長。 1927年(昭和2年)3月5日...
  • ポーツマス条約
    ...。日露講和条約とも。1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを 日露講和会議、ポーツマス会議、ポーツマス講和会議と呼ぶ。 交渉の経緯 thumb|270px|ポーツマス会議。写真中の会議で使われたテーブルは[[博物館明治村にて展示されている]] 日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていた米国に仲介を依頼し交渉を行った。 当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れた...
  • 軍令部
    ...海軍大将・鹿児島):1905年12月19日 伊集院五郎(海軍中将・鹿児島・海兵5期):1909年12月1日 島村速雄(海軍中将・高知・海兵7期):1914年4月22日 山下源太郎(海軍大将・山形・海兵10期):1920年10月1日 鈴木貫太郎(海軍大将・千葉・海兵14期・海大1期):1925年4月15日 加藤寛治(海軍大将・福井・海兵18期):1929年1月22日 谷口尚真(海軍大将・広島・海兵19期・海大3期):1930年6月11日 伏見宮博恭王(海軍大将・皇族・海兵16期):1932年2月2日 海軍軍令部長から軍令部総長に改称。 永野修身(海軍大将・高知・海兵28期・海大8期):1941年4月9日 嶋田繁太郎(海軍大将・東京・海兵32期・海大13期):1944年2月21日 及川古志郎(海軍大将・岩手・海兵31期・海大13期):1944年8月2日 豊田副武(海...
  • 樺太
    ...」を執筆する。 1905年7月、日露戦争末期、日本軍が樺太島に侵攻、全域を占領(樺太作戦)。 南部の日本領期 1905年9月5日、日露戦争後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本へ割譲される。行政機関として樺太民政署が設置される。 1907年4月1日、樺太民政署の発展的解消により樺太庁発足。 1908年3月31日、内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更。 1915年6月26日、勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。 1918年からのシベリア出兵の際に日本は北部も占領したが、1925年に撤兵する。 1929年、拓務省の設置に伴い、樺太庁がこれに編入される。 1929年3月26日、樺太町村制が公示され、町村に自治制が敷かれる。 1937年7月1日、樺太市制により、...
  • ハーグ密使事件
    ... 経緯 日本は、1905年の第二次日韓協約(日韓保護条約)によって大韓帝国の外交権を接収した。皇帝高宗は密使外交を展開することで日本からの支配を打破しようと試みていた。李容泰、沈相薫、金嘉鎮ら大韓帝国内の抗日派は、イギリス人ベッセルやアメリカ人ホーマー・B・ハルバートらと図り、さらに海外にいた李学均、李範晋らと連絡を取り合い、1907年6月、ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に皇帝の密使を派遣し、列強に大韓帝国の外交権保護(第二次日韓協約の無効)を訴えようとした。密使として派遣されたのは李相卨(元議政府参賛)、李儁(前平理院検事)と李瑋鍾(前駐露公使館二等書記官、前駐露公使李範晋の次男)の三人である。 ハーグに到着した彼らは、デ・ヨング (De Jong) ホテル高石は「晩餐五十銭位の安旅館」としている。「韓人の運動」大阪毎日新聞、明治40年7月3日。に投宿し、公然と活動...
  • 日英同盟
    ...た。その後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新され、1923年8月17日に失効した。第一次世界大戦終了時までの間、日本の外交政策の基盤となった。 日英同盟はイギリスのロンドンのランズダウン侯爵邸(現The Lansdowne Club 地図)において、林董駐英公使とイギリスのペティ=フィッツモーリス外相により調印されたそれから遡ること120年前の1782年、アメリカ合衆国の独立を認めるパリ条約が、この全く同じ場所(日英同盟の調印されたランズタウン侯爵邸)でイギリスの首相シェルバーン卿(後のランズダウン侯)とベンジャミン・フランクリンによって作成されている。。 概要 経緯 イギリスは、義和団事変以来満州から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていたが、イギリス単独ではイギリスの中国における利権の維持にあたるには限界があった。そこで、それまでの「栄...
  • アジア主義
    ...04年 日露戦争 1905年 ポーツマス条約締結。中国同盟会設立(東京)。 1910年 日韓併合 1911年 辛亥革命 1918年 第一次世界大戦終戦 1919年 パリ講和会議開催、ヴェルサイユ条約締結 1924年 孫文の大アジア主義講演 1927年 山東出兵 1931年 満州事変勃発 1932年 満州国建国 1937年 盧溝橋事件(日中戦争勃発) 1938年 三木清が東亜協同体論を発表 1940年 近衛文麿内閣が基本国策要綱策定(大東亜の新秩序建設理念確立) 1941年 ABCD包囲網施行、太平洋戦争勃発 1943年 大東亜会議開催 1945年 日本国敗戦 人物・組織・思想 興亜会 1880年、海軍軍人で中国での情報活動に従事していた曽根俊虎などを中心に設立された。琉球処分や壬午軍乱などで日清関係が悪化していくなかで両国の提携論を標榜し、最...
  • 真崎甚三郎
    ... 日露戦争に従軍(~1905年12月)。 6月 - 大尉に昇進。歩兵第46連隊中隊長。 1907年(明治40年)11月 - 陸軍大学校卒業(19期恩賜)。陸軍省軍務局出仕。 1908年(明治41年)10月 - 軍務局課員(軍事課)。 1909年(明治42年)1月 - 少佐に昇進。 1911年(明治44年)5月 - ドイツ駐在(~1914年6月)。 1914年(大正3年)6月 - 歩兵第42連隊大隊長。 11月 - 中佐に昇進。歩兵第53連隊附。 1915年(大正4年)5月25日 - 久留米俘虜収容所長。 1916年(大正5年)11月15日 - 教育総監第2課長。 1918年(大正7年)1月18日 - 大佐に昇進。 1920年(大正9年)8月10日 - 陸軍省軍事課長。 1921年(大正10年)7月20日 - 近衛歩兵第1連隊長。 1922年(大正11年)...
  • 参謀本部 (日本)
    ...04年6月20日 1905年12月20日   6 大山巌 陸軍大将 鹿児島 1905年12月20日 1906年4月10日   7 児玉源太郎 陸軍大将 山口 1906年4月11日 1906年7月30日 歩兵科 8 奥保鞏 陸軍大将 福岡 1906年7月30日 1912年1月20日 歩兵科 9 長谷川好道 陸軍大将 山口 1912年1月20日 1915年12月16日 歩兵科 10 上原勇作 陸軍大将 宮崎 1915年12月17日 1923年3月17日 工兵科・陸士旧3期 11 河合操 陸軍大将 大分 1923年3月17日 1926年3月2日 歩兵科・陸士旧8期 12 鈴木荘六 陸軍大将 新潟 1926年3月2日 1930年2月19日 騎兵...
  • セオドア・ルーズベルト
    ...就任後のことである。1905年には日露戦争で日本・ロシア間の調停をつとめ、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力した。この和平交渉の斡旋によってルーズベルトは1906年ノーベル平和賞を受賞した。 一方で国内では反トラスト法を発動して独占資本を規制し、対外的には海軍力を盾にカリブ海政策を推し進め(棍棒外交)日露戦争後は艦隊(グレート・ホワイト・フリート)を日本に寄港させ強大化しつつある日本を牽制した。 内閣 職名氏名任期 大統領セオドア・ルーズベルト1901 - 1909 副大統領チャールズ・フェアバンクス1905 - 1909 国務長官ジョン・ヘイ1901 - 1905  エリフ・ルート1905 - 1909  ロバート・ベイコン1909 財務長官ライマン・ゲイジ1901 - 1902  レスリー...
  • 大日本帝国
    ...5号)。 竹島:1905年島根県に編入(明治38年島根県告示第40号)。 中ノ鳥島:1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。 沖ノ鳥島:1931年東京府小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。 樺太 日持上人が訪れるなど、古くは鎌倉時代から日本との関わりがあり、江戸時代は松前藩の陣屋やアイヌなどとの交易場所なども設けられていたが、樺太島仮規則などの不平等条約でロシアとの雑居地とされた後、1875年、千島樺太交換条約によりロシアに譲渡。1905年、日露戦争(樺太作戦)で占領し、同年のポーツマス条約(日露講和条約、明治38年勅令号外)により北緯50度以南を割譲させ回復。1943年内地に編入した(昭和18年法律第85号)。樺太庁を参照。 台湾 台湾本島と澎湖島を日清戦...
  • 大本営
    ...もに幕僚長とされた。1905年12月20日解散した。 支那事変(日中戦争)は公式には「戦争ではない」とされたため、1937年11月18日、大本営設置を戦時に限定していた大本営条例は勅令第658号によって廃止され、新たに戦時以外に事変でも設置可能にした「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定された。1937年11月20日、大本営が設置され、そのまま太平洋戦争(大東亜戦争)に移行した。戦争末期には長野市松代町に建設された地下壕への遷都も計画されたが(松代大本営)、未完成のまま終戦を迎え、1945年9月13日に廃止された。 組織 大本営の組織の実体はほとんどが参謀本部及び軍令部の組織であった。大本営会議は天皇、参謀総長、軍令部総長・参謀次長・軍令部次長・参謀本部第1部長(作戦部長)・軍令部第1部長・陸軍大臣・海軍大臣によって構成された。大本営の組織には内閣総理大臣、外務大臣など...
  • 東郷平八郎
    ...橋で指揮をとる東郷、1905年]] 明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦三笠に座乗してロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃(旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。 そして明治38年(1905年)5月27日、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し 」と秋山真之参謀が起草し大本営に一報を打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した晩年になってこの文言を、1932年の軍人勅諭奉戴五十周年記念放送においてレ...
  • 阿南惟幾
    ...幼年学校卒業。 1905年(明治38年)11月 - 陸軍士官学校卒業(18期)。 1906年(明治39年)6月 - 少尉に昇進。歩兵第1連隊附。 1908年(明治41年)12月 - 中尉に昇進。 1910年(明治43年)11月 - 陸軍中央幼年学校生徒監。 1916年(大正5年)11月 - 大尉に昇進。 1918年(大正7年)11月 - 陸軍大学校卒業(30期)。 1919年(大正8年)4月 - 参謀本部附勤務。 12月 - 参謀本部員。 1922年(大正11年)2月 - 少佐に昇進。 1923年(大正12年)8月 - サガレン州派遣軍参謀。 1925年(大正14年)8月 - 中佐に昇進。 1926年(大正15年)4月 - 軍令部参謀。 1927年(昭和2年)8月 - フランス出張。 12月 - 歩兵第45連隊附。 19...
  • 朝鮮銀行
    ...現しなかった。 1905年(明治38年、光武9年)勅令第73号「株式会社第一銀行ノ韓国ニ於ケル業務ニ関スル件」に基づいて発行。 改造10円券(1909年1月4日発行)、改造5円券(1909年7月1日発行)、改造1円券(1908年8月1日発行) ※ 「大韓国金庫 株式会社第一銀行」との記載があり、急速に普及した。 ※ 「光武九年一月大韓国政府の公認に依りて公私去来に無制限で通用す」(各券共通、朝鮮語)、「明治三十八年勅令第七十三号に依り発行するもの也」(1円券、日本語)、「券面の金額は在韓国各支店に於て日本通貨と引替可申候也」(各券共通、日・朝両語)の記載あり。 ※ 図案は10円券が昌徳宮宙合楼、5円券が景福宮光化門、1円券が水原華城華虹門。 韓国銀行期 1909年(明治42年、隆熙3年)韓国法律第22号「韓国銀行条例」に基づいて発行。 10円券(1911年8...
  • 洪思翊
    ...貫は南陽洪氏である。1905年の日韓保護条約締結後、大韓帝国の陸軍武官学校に入学している。1909年に陸軍武官学校廃止にともない、日本の中央幼年学校に国費留学し、首席で卒業した後、間もなく陸軍士官学校に進学した。当時、陸軍士官学校には大韓帝国からの派遣留学生が何人も在籍しており、1910年の日韓併合に衝撃を受けて抗日独立運動に身を投じた者も多数いたが、洪思翊は現在決起するのは朝鮮の独立を回復するのに繋がらず、しばらく研鑽を積み実力を養成した後戦うべきとして級友達と路線を分かつ。 軍歴 1914年に陸軍士官学校を卒業し(26期。卒業時の成績は742人中31番)、日本陸軍に勤務、1923年には陸軍大学校(35期)も卒業している。彼は士官学校時代からの旧友である韓国光復軍司令官池青天から、大韓民国臨時政府に加わったらどうかと誘われたが、朝鮮の独立には未だ時機が至っておらず、今立ち上がる...
  • 一進会
    ... 統監政治 1905年10月、日本政府は韓国保護権の確立の方針を閣議決定し、翌11月には伊藤博文を特使として派遣し、11月28日に第二次日韓協約の締結が強行された。これに先立ち、一進会は1905年11月5日に「外交権を日本政府に委任し日本の指導保護を受け、朝鮮の独立、安定を維持せよ」という宣言書を発表している。 ref name= 朝鮮最近史 『朝鮮最近史』 韓国統治の総責任者伊藤博文は当初早期の韓国併合を反対していたが、やがて韓国併合論へと転向し、日本の朝鮮併合・植民地化への道は確かなものとなる。1909年10月、伊藤博文は満州のハルビン(哈爾浜)にて安重根によって暗殺されたが、短い中継ぎを挟み寺内正毅が第三代韓国統監(就任は1910年5月)となり、義兵戦争への弾圧を継続しつつ韓国併合への準備を進めていった。 韓日合邦の要請 一進会は、1909年12月「韓日合邦...
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