chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「1912年」で検索した結果

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  • 内大臣府
    ...が内大臣を務めた例(1912年 - 1915年)がある。 当初は事務方であった内大臣も、昭和以降に入ると、元老に代わって、後継総理の奏薦などで次第に強い発言力を持つようになっていき、宮中だけでなく府中(政府内)にも力を持った。太平洋戦争終戦を契機として1945年11月24日、連合国最高司令官(SCAP)指令により廃止された。 組織構成 1907年以降の内大臣府は計11人という少数の職員によって構成されていた。廃止されるまで、以下のような人員構成で職務を行っていた。 内大臣 内大臣府を統轄し、天皇に従い責任を負う。1人、親任官。 秘書官長 宮内の文書を掌理する。1人、勅任官。 秘書官 文書の管理や庶務を分掌する。3人、奏任官。 属 庶務を担当する。6人、判任官。 歴代の内大臣(近代) ※カッコ内は任期 三条実美(1885年12月22日 - 1891年...
  • 第2次西園寺内閣
    ...衆議院議員総選挙|(1912年(明治45年)5月15日衆議院議員の任期満了による。)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/14.html|立憲政友会総裁}}この内閣の任期中の1912年(明治45年)7月30日に明治天皇が崩御して明治時代が終わるとともに、同日から大正時代が始まる。 概要 第2次桂内閣が条約改正の成功を機に退陣すると、政権は再度西園寺に回ってきた。立憲政友会の閣僚数は前回より1増加した他、他の閣僚も親政友会系の官僚が複数入閣した。内務大臣に就任した原敬は衆議院議員選挙に小選挙区制を導入しようとするが、貴族院の反対で否決された。だが、貴族院内に親政友会の会派である交友倶楽部が形成され、次第に貴族院にも勢力を伸ばしていく。また、衆議院でも多数を確保して安定した政権運営が期待された。だが、伊藤博文の暗殺によって元老間の権力...
  • 交友倶楽部
    交友倶楽部(こうゆうくらぶ)は、1912年12月24日より1947年5月3日の日本国憲法公布まで存在していた貴族院の院内会派。ただし、上記の設立日は院内交渉団体として届出があった日であり、実際には遅くても同年初めには親睦団体として存在していた(『原敬日記』)。貴族院における立憲政友会系の会派として活動した。 元は立憲政友会の第2次西園寺内閣を支持する勅選議員や多額納税議員の親睦団体であったが、1912年12月24日に院内交渉団体として届出を行って正式に発足した。結成時の幹事は勅選議員(奥田義人・岡野敬次郎・安楽兼道)・多額納税議員(佐藤友右衛門・森田庄兵衛・山下喜兵衛)ともに3名ずつ選出され、他に石渡敏一・杉田定一・水野錬太郎・江原素六・松岡康毅・室田義文らを合わせて25名が参加していた。立憲政友会の勢力拡大とともに会員を常時30名を超え、最盛期には47名を数えた。また、非政党内閣であっ...
  • 支那駐屯軍
    ...亡に伴い明治45年(1912年)4月26日に清国駐屯軍を支那駐屯軍と改称した。 昭和11年(1936年)4月18日、北支情勢の悪化に備え支那駐屯歩兵旅団を新設し、それまで駐屯軍全体で歩兵10個中隊程度の規模であったのを混成旅団規模に強化し、同年5月1日から司令官は親補職になった(昭和11年軍令陸第2号「支那駐屯軍司令官の親補に関する件」)。 強化した翌年の、昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発した。盧溝橋事件発生後、まず朝鮮の第20師団と関東軍の独立混成第1・第11旅団を隷下に入れ、さらに7月27日に内地の第5・第6・第10師団も隷下に入れた。その後8月31日には第1軍に改編され、支那駐屯軍は廃止された。廃止に当たり直属部隊は支那駐屯混成旅団に改編された支那駐屯混成旅団は翌年の昭和13年(1938年)3月12日に支那駐屯歩兵第3連隊が増加され支那駐屯...
  • 元老
    ...mplate 和暦?1912年(大正元年)8月13日受 桂太郎長州1848}} - Template 和暦?1912年(大正元年)8月13日受 西園寺公望公家1849}} - Template 和暦?1912年(大正元年)12月21日受 1889 1891 1892? 1898 1900 1902 1904 1909 1912 1913 1915 1916 1922 1924 1934 1940 伊藤博文 黒田清隆 山縣有朋 西郷従道 松方正義 井上馨 大山巌 桂太郎 西園寺公望 重臣...
  • 顧維鈞
    ...909年政治学修士、1912年国際法・外交博士を取得した。同大学では中国人留学生の発行する機関紙の編集にも携わり、またアメリカ国際法学会、アメリカ政治学会会員としても活躍し、後に1916年にはイェール大学より名誉法学博士の学位を授与された。袁世凱の英文秘書を経て、1912年8月国務院秘書、1914年外交部参事、1915年7~10月駐メキシコ公使、同年10月~1920年9月駐米公使兼駐キューバ公使となり、第一次世界大戦参戦決定に参与した。 1919年パリ講和会議全権代表、1920年9月~1922年5月駐英公使となり、この間、1920年国際連盟中国首席代表、1921年~1922年ワシントン会議全権代表として国際会議で不平等条約撤廃を要求し続けた。 1922年~1923年外交総長、1924年代総理(国務総理代行)兼外交総長。1924年7月ソ連代表レフ・カラハンと中ソ協定に調印、ソ連との...
  • 朝鮮軍 (日本軍)
    ...日 - 明治45年(1912年)1月14日 安東貞美中将:明治45年(1912年)1月14日 - 大正4年(1915年)1月25日 井口省吾中将:大正4年(1915年)1月25日 - 大正5年(1916年)8月18日 秋山好古中将:大正5年(1916年)8月18日 - 大正6年(1917年)8月6日 松川敏胤中将:大正6年(1917年)8月6日 - 大正7年(1918年)6月1日 朝鮮軍司令官 松川敏胤中将:大正7年(1918年)6月1日 - 大正7年(1918年)7月24日 宇都宮太郎中将:大正7年(1918年)7月24日 - 大正9年(1920年)8月16日 大庭二郎中将:大正9年(1920年)8月16日 - 大正11年(1922年)11月24日 菊池慎之助中将:大正11年(1922年)11月24日 - 大正13年(1924年)8月20日 鈴木荘六中将:大...
  • 学習院
    ...希典1906年 - 1912年陸軍大将、伯爵 第11代大迫尚敏1912年 - 1918年陸軍大将、子爵 第12代北条時敬1918年 - 1921年宮中顧問官 第13代一戸兵衛1921年 - 1923年陸軍大将、教育総監 第14代福原鐐二郎1923年 - 1929年東北大学総長 第15代荒木寅三郎1929年 - 1937年京都大学総長 第16代野村吉三郎1937年 - 1939年海軍大将 第17代山梨勝之進1939年 - 1946年海軍大将 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月16日 (日) 06 46。    
  • 土肥原賢二
    ...士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させるが、このとき諸外国にその事実が露顕した際には、溥儀もろともその乗船を沈没させる予定だったとも言われる。 その後、華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結。この結果河北省に冀東防共自治政府を成立させた。土肥原は、謀略をも辞さない強硬な対中政策の推進者として昇進を重ね、「満州のローレンス」と畏怖された。特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた。 戦犯 第二次世界大戦終結後、A級戦犯とし...
  • 五族協和
    ...国を参照のこと。 1912年に中華民国が成立した際に唱道した理念は、五族共和を参照のこと。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年7月29日 (日) 13 02。     
  • 105人事件
    ...122人への裁判が翌1912年に始まった。そして、朝鮮総督府や朝鮮語紙『毎日申報』、日本語紙『京城日報』、英字紙『Seoul Press』といった総督府系の報道機関は、逮捕者の多くがキリスト教徒だったことから在朝米国人宣教師(特に長老教)が彼らの背後で扇動したのではと疑った。一方、米国政府やニューヨークに本部があった長老教教会は、「事件」との関わりを否定し、逆に朝鮮総督府が自白を得るために逮捕者を拷問しているのではと疑った。 1912年になると、在朝米国人宣教師と寺内との会見、長老教教会および三人の上院議員などによる駐米日本大使館との折衝(その際に、かつて米国にも留学した「首謀者」尹致昊への善処を求める嘆願がなされた)などによる「事件」解決、日米関係打開のための動きがみられた。そして、当時の京城(現在のソウル)地方法院(裁判所)は同年9月28日、前述の122人の中で17人だけを無罪...
  • 関東都督府
    ... 福島安正 中将 (1912年4月26日 -) 中村覚 中将 (1914年9月15日 -) 中村雄次郎 中将 (1917年7月31日 - 1919年4月12日) 組織機構 都督官房 陸軍部(後に関東軍として独立する。) 民生部 庶務課 警務課 財務課 土木課 監獄署 関連項目 関東州 関東州警察 関東軍・関東庁→関東局・関東州庁 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月18日 (金) 20 51。    
  • 俘虜の待遇に関する条約
    ...1年11月6日批准、1912年1月13日公布)を充実する形で作られ、日本は署名を行ったが軍部、枢密院の反対により批准しなかった。 太平洋戦争中における扱い 上述のように日本は本条約を批准していないが、太平洋戦争開戦後の1941年12月27日、アメリカ合衆国は当時の日本における利益代表国であったスイスを通じて、同国が本条約を遵守する意思があることを伝え、また日本の意向について問い合わせてきた。1942年1月3日には、英国およびその自治領が同様に利益代表国のアルゼンチンを通じて問い合わせを行った。 1942年1月29日、日本政府はスイス、アルゼンチン外交代表に対し「適当なる変更を加えて (mutatis mutandis)同条約に依るの意思ある」との声明を発表した。 関連項目 捕虜 交戦者 極東国際軍事裁判 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikiped...
  • 袁世凱
    ...退任日 = 1912年2月12日 | 副大統領 = | 元首 = 宣統帝 | 国名2 = Template CHN1912? | 代数2 = 第2 | 職名2 = 臨時大総統 | 就任日2 = 1912年3月10日 | 退任日2 = 1913年10月10日 | 副大統領2 = 黎元洪(中華民国臨時副総統) | 元首2 = | 国名3 = Template CHN1912? | 代数3 = 初 | 職名3 = 大総統 | 就任日3 = 1913年10月10日 | 退任日3 = 1915年12月12日 | 副大統領3 = 黎元洪(中華民国副総統) | 元首3 = | 出生日 = 1859年9月16日 | 生地...
  • 牧野伸顕
    ... |退任日2 = 1912年12月21日 |退任理由2 = |元首職2 = |元首2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 第30代文部大臣 |内閣3 = 第2次西園寺内閣 |選挙区3 = |当選回数3 = |就任日3 = 1912年11月9日 |退任日3 = 1912年12月21日 |退任理由3 = |元首職3 = |元首3 = |国旗4 = 日本 |職名4 = 第27代文部大臣 |内閣4 = 第1次西園寺内閣 |選挙区4 = |当選回数4 = |就任日4 = 1906年3月27日 |退任日4 = 1908年7月14日 |退任理由4 = |元首職4 = |元首4 = |国旗5 = |職名5 = |内閣5 = |選挙区5 = |当選回数5 = |就任日5 = |退任日5 = |退任...
  • 日露協約
    ... 第三次日露協約 1912年(明治45年)7月8日調印。辛亥革命に対応するため、内蒙古の西部をロシアが、東部を日本がそれぞれ利益を分割することを協約した。 第四次日露協約 1916年(大正5年)7月3日調印。第一次世界大戦における日露の関係強化と第三国の中国支配阻止、極東における両国の特殊権益の擁護を相互に再確認した。 関連項目 日露関係史   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月19日 (金) 01 43。    
  • 辛亥革命
    ...代表が南京に集まり、1912年1月には、孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府を成立した。清朝は袁世凱に民国の討伐を命じたが、袁は民国側と交渉して、同年2月には宣統帝を退位させ、自分が孫文にとって代わり、いくつかの交換条件とともに大総統に就任した(この年を以って中華民国暦元年とする。なお、宣統帝は清室優待条件により退位後も紫禁城に居住し大清皇帝の尊号を用いた)。 中華民国は、アジア最初の共和国であり、同年3月には、基本法たるいわゆる臨時約法を公布している。 しかしその後、袁世凱は、孫文らとの約束を反故にし宋教仁暗殺、臨時約法廃止、一時は中華帝国皇帝になるなど反民主的・専制的な政治をしたため革命の理想はやぶれた。 革命側は、1913年の第二革命で抵抗したが破れ、1915年の第三革命では袁世凱の帝政打倒という結果に結びついたものの、1928年の北伐完了までは、中国全土に軍閥が割拠する時...
  • 中華民国の歴史
    中華民国の歴史(ちゅうかみんこくのれきし)は、1912年に中国で建国されたアジア最初の共和制国家である中華民国の歴史を記述する。なお、本稿では中華民国が中国大陸を支配していた1949年までの歴史を記述する。それ以降の中華民国の歴史については台湾の歴史と国民政府を、現在の中華民国政府自体については中華民国を参照のこと。 概要 中華民国は、1926年以降の中国国民党による北伐の前後で、北京政府期と南京国民政府期に大別される。建国初期の袁世凱による統治期を除いて、中華民国の代表政府が同時期に2つ存在する時期もあるなど各地の軍閥がそれぞれ「中国を統治する国家」を主張していた時期もあるが、日本やイギリス、フランスやアメリカなどのいわゆる「列強」をはじめとする国際社会(その中には世界最初の社会主義国家であるソビエト連邦も含まれる)では「中国を統治する国家」と認識されている。 第二次世界大戦後の1...
  • 閑院宮載仁親王
    ...中将に進級した。 1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥府に列した。1921年(大正10年)3月3日より同年9月3日まで、皇太子裕仁親王の欧州外遊を補導すべく随行した。1923年(大正12年)9月1日、小田原の閑院宮別邸に家族とともに滞在中、関東大震災に遭遇し一時倒壊した別邸の下敷きとなったが、たいした怪我はなく無事であった。 1931年(昭和6年)に参謀総長に就任。青年時から立派な髭を生やしており、「髭の参謀総長」と呼ばれた。この参謀総長就任は、当時の陸軍大臣荒木貞夫の思惑があったとされる。在任中は皇族という出自もあり、部下の思惑通りに動かされるお飾りであった。派閥争いの激しかった陸軍内部では、どの勢力も参謀総長宮を抱え込むことによる発言権の伸張を図ったが、当人は皇道派の真崎甚三郎への反感から統制派に肩入れし、真崎が教育総監を追われた際には、渡辺...
  • 大正
    ...天皇の在位期間である1912年7月30日から1926年12月25日までの期間を指す。 改元 明治45年(1912年)7月30日 - 大正天皇即位の為、改元の詔書を公布、即日施行した。 大正15年(1926年)12月25日 - 昭和天皇即位の為、昭和に改元、同日は昭和元年12月25日となった。 出典 「大正」の由来は『易経』の「大享以正天之道也」(大いに享を正すをもって天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。 大正年間の概要 thumb|300px|竣工当時の[[東京駅。1914年(大正3年)に完成した。]] 本時代は後世から振り返った時、大正デモクラシーに基づいた安定期として見られる事が多い。しかし、同時代的には、近代日本の象徴であった明治天皇の崩御、そして病弱であった大正天皇の即位、という不安感を拭きれない状況から始ま...
  • 柳川平助
    ...尉で日露戦争に従軍。1912年に陸軍大学校(24期)を優等で卒業。 陸軍騎兵実施学校教官、陸軍大学校教官を経て、1918年に北京陸軍大学校に教官として着任。国際連盟派遣、欧州駐在を経て荒木貞夫陸軍大臣の下で1932年に陸軍次官、真崎甚三郎らと皇道派の重鎮となる。 1934年に第一師団長となるが、荒木・真崎の力が衰えた1935年に台湾軍司令官に追いやられる。1936年の二・二六事件の後に予備役編入。 第二次世界大戦時 1937年に第二次上海事変で中国国民党軍を押し切れない上海派遣軍支援のために、第10軍が編成され、柳川が司令官に任命されて現役に復帰、杭州湾上陸作戦を指揮。上海では国民党軍が退却寸前での作戦であったため、十分な戦果を挙げられなかったが、続いての南京戦で戦果を挙げる。 1938年3月に中支那方面軍の再編成に伴い召集解除、帰還。1938年12月に設立された興亜院...
  • 南次郎
    ...- 中佐に昇進。 1912年(大正元年)12月 - ヨーロッパ出張。 1914年(大正3年)1月20日 - 騎兵第13連隊長。 1915年(大正4年)8月10日 - 大佐に昇進。 1917年(大正6年)8月6日 - 陸軍省軍務局騎兵課長。 1919年(大正8年)7月25日 - 少将に昇進。支那駐屯軍司令官。 1921年(大正10年)1月20日 - 騎兵第3旅団長。 1923年(大正12年)10月10日 - 陸軍士官学校校長。 1924年(大正13年)2月4日 - 中将に昇進。 1926年(大正15年)3月2日 - 第16師団長。 1927年(昭和2年)3月5日 - 参謀次長。 1929年(昭和4年)8月1日 - 朝鮮軍司令官。 1930年(昭和5年)3月7日 - 大将に昇進。 12月22日 - 軍事参議官。 1931年(昭和6年)4月14日 - 第22代...
  • 第3次桂内閣
    ... 桂太郎(兼任、1912年(大正元年)12月21日 - 1913年(大正2年)1月29日) 加藤高明(1913年(大正2年)1月29日 - 同年2月20日) 内務大臣 大浦兼武 大蔵大臣 若槻禮次郎 陸軍大臣 木越安綱 海軍大臣 斎藤実 司法大臣 松室致 文部大臣 柴田家門 農商務大臣 仲小路廉 逓信大臣 後藤新平 内閣書記官長 江木翼 法制局長官 一木喜徳郎 外部リンク 首相官邸 - 第3次桂内閣 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 14 25。     
  • 桂園時代
    ...当した1905年から1912年の8年間をいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。 桂園時代は、桂に代表される官僚・軍部と西園寺に代表される有力政党である立憲政友会が「情意投合」と呼ばれる連携体制を組んで交互に首相に就任した(この間にも松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たずにいずれも断念に追い込まれている)。特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものである。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけである。 なお、「桂園」は和歌の流派名(桂園派。江戸時代後期の歌人、香川景樹が創始した。香川の号が桂園)とも係っている。桂園派は、当時流行しつつあった冒険的な近代短歌に対して、当たり障...
  • 永田鉄山
    ...卒業(23期)。 1912年(明治45年)5月 - 教育総監附勤務(第1課)。 1913年(大正2年)8月 - 大尉に昇進。 10月 - ドイツ駐在(~1914年8月)。 1915年(大正4年)3月 - 俘虜情報局御用掛。 6月 - デンマーク駐在。 11月 - スウェーデン駐在(~1917年9月)。 1917年(大正6年)11月 - 臨時軍事調査委員。 1919年(大正8年)4月 - 少佐に昇進。 1921年(大正10年)6月 - スイス大使館附武官。 1923年(大正12年)2月 - 参謀本部附。 3月 - 教育総監課員。 8月 - 中佐に昇進。 10月 - 陸軍大学校教官(兼任)。 1924年(大正13年)8月 - 歩兵第50連隊附。 12月 - 陸軍技術本部附、軍事課高級課員、陸軍大学校教官(兼任)。 1925年(大正14年)6月 - ...
  • 1918年米騒動
    Template Otheruseslist? 1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)とは、近世から近代にかけての日本における米価格急騰にともなう暴動事件。 背景 米価の暴騰 thumb|300px|[[堂島米会所における当時の米相場]] 第一次世界大戦の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年の中ごろから急激に上昇しはじめた。大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円-25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した。 この背景には資本主義の急速...
  • 乃木希典
    ...11月11日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士・長府藩士、軍人。陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年)。 「乃木大将」、「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い。 東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健な普魯西(プロイセン)軍人に感化され、帰国後は質素な古武士のような生活を旨とするようになったという。 乃木は他の将官と違い省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを軍司令官として過した。 また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は、当時の日本国民に多大な衝撃を与えた。 山口県、栃木県、東京都、北海道など、複数の地に乃木を祀った乃木神社がある。 年譜 1849年(嘉永2年) - 現在の東京都港区に...
  • 皇室令
    ... 明治45年(1912年) 皇室会計令(明治45年7月10日皇室令第2号) 旧堂上華族保護資金令(明治45年7月10日皇室令第3号) 大正時代 大正元年(1912年) 皇太后宮職官制(大正元年7月30日皇室令第1号) 当分ノ内侍従長二人ヲ置クノ件(大正元年7月30日皇室令第6号) 皇太后宮職職員ノ任用ニ関スル件(大正元年7月30日皇室令第7号) 宮内職員ノ懲戒免除ニ関スル件(大正元年10月11日皇室令第16号) 大正2年(1913年) 皇子附職員官制(大正2年4月9日皇室令第2号) 初叙官等ノ制限ヲ受ケサル宮内高等官他ノ宮内高等官トナリ又ハ初叙官等ノ制限ヲ受ケサル高等文官初叙官等ノ制限ヲ受クル宮内高等官トナル場合ノ官等ニ関スル件(大正2年4月9日皇室令第5号) 地租地租附加税及段別割ニ関スル法規ヲ皇族所有ノ土地ニ適用スルノ件...
  • 五族共和
    五族共和(ごぞくきょうわ)は、1912年に中華民国が成立した際に唱道された理念で、中国国内の主な種族である漢族、満州族、蒙古族、回(現在の回族ではなくウイグル族など新疆のイスラム系諸民族を指す)およびチベット族の5種族が協同して新共和国の建設に当たることを意味する。孫文ら革命の指導者たちは中華民国成立以前の清朝中国は満州族が権力を握り、他の4族はすべて奴隷的地位に圧迫されていたとし、五族が平等の立場にたち、同心協力して、国家の発展を策し、平和と大同を主張し、世界人類の幸福を中国人によって保証しようというスローガンを唱えた。 しかし、清の政体は五族のそれぞれが別の国家とも言える政体を維持し、清朝皇帝はその五つの政体に別個の資格で君主として君臨するという一種の同君連合というのが実態であった。そのため、漢族社会に深く溶け込んでいた満州族を除くモンゴル(蒙古族)、西域ムスリム社会(回)、チベット...
  • 国民政府
    ...して清朝が打倒され、1912年1月1日に孫中山が総統府にて中華民国臨時政府の臨時大総統に就任する。袁世凱の臨時大総統就任により1912年4月に、中華民国臨時政府は北京へ移り(北京政府)、黄興により総統府は南京留守府に変わり、1913年の第二革命により袁世凱討伐軍の総司令部が置かれる。1913年から1927年の間には、江蘇都督府、江蘇督軍署、江蘇将軍府、江蘇督弁公署、副総統府などが置かれる。1927年に蒋介石により南京国民政府が置かれる。日中戦争下の1937年12月、日本軍により南京が陥落すると、傀儡政権である汪兆銘の中華民国維新政府(後の汪兆銘政権)が発足し行政院、立法院、監察院、考試院、交通部、鉄道部、日本陸軍第16師団司令部などが置かれる。1945年に日本が連合国に対し降伏したことにより、汪兆銘政権も崩壊する。1946年5月に重慶国民政府が南京に戻り、社会部、地政部、水利部、僑務...
  • 小磯國昭
    ...士官学校教官。 1912年(明治45年)9月 - 関東都督府参謀。 1914年(大正3年)8月 - 少佐に昇進。歩兵第2連隊大隊長。 1915年(大正4年)6月 - 参謀本部員。 8月 - 内モンゴル派遣(~1917年1月)。 1918年(大正7年)7月 - 中佐に昇進。 8月 - 第12師団参謀。 1919年(大正8年)4月15日 - 参謀本部兵站班長。 1921年(大正10年)7月20日 - 航空本部員。 1922年(大正11年)2月8日 - 大佐に昇進。 6月 - ヨーロッパ出張(~1923年3月)。 1923年(大正12年)3月17日 - 陸軍大学校教官。 8月6日 - 歩兵第51連隊長。 1925年(大正14年)5月1日 - 参謀本部編制動員課長。 1926年(大正15年)12月1日 - 少将に昇進。 1927年(昭和2年)7月26日...
  • 尾崎行雄
    ...年(明治36年)から1912年(明治45年)まで東京市長、1912年(大正元年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と桂太郎首相を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党し、以後中正会・憲政会・革新倶楽部と移る。第2次大隈内閣では司法大臣となる。 当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、第一次世界大戦後のヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、一貫した軍縮論者となった。また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍...
  • 参謀本部 (日本)
    ...06年7月30日 1912年1月20日 歩兵科 9 長谷川好道 陸軍大将 山口 1912年1月20日 1915年12月16日 歩兵科 10 上原勇作 陸軍大将 宮崎 1915年12月17日 1923年3月17日 工兵科・陸士旧3期 11 河合操 陸軍大将 大分 1923年3月17日 1926年3月2日 歩兵科・陸士旧8期 12 鈴木荘六 陸軍大将 新潟 1926年3月2日 1930年2月19日 騎兵科・陸士1期 13 金谷範三 陸軍大将 大分 1930年2月19日 1931年12月23日 歩兵科・陸士5期 14 閑院宮載仁親王 陸軍大将 皇族 1931年12月23日 1940年10月3日 騎兵科 15 杉山元 陸軍大将 福岡 1940年10月3日 1944年...
  • 内閣総理大臣の一覧
    ...11年8月30日- 1912年12月21日 480通算1,400 (略) (略) 大正 15 桂太郎 第三次桂内閣1912年12月21日- 1913年2月20日 62通算2,886 (略) (略) 16 8 山本權兵衞やまもと ごんべえ 第一次山本内閣1913年2月20日- 1914年4月16日 421 薩摩藩鹿児島県 海軍兵学寮卒海軍軍人 薩摩閥(予備役海軍大将) 17 大隈重信 第二次大隈内閣1914年4月16日- 1916年10月9日 908通算1,040 (略) (略) 18 9 寺内正毅てらうち まさたけ 寺内内閣1916年10月9日- 1918年9月29日 721 長州藩山口県 陸軍軍人 長州閥朝鮮総督現役陸軍大将 19 10 原敬はら たかし 原内閣1918年9月29日- 1921年11月4日 1,133 ...
  • 荒木貞夫
    ... ロシア駐在。 1912年(明治45年)5月 - ロシア公使館付武官補佐官。 1913年(大正2年)4月 - 参謀本部員。 1914年(大正3年)3月 - 陸軍省副官。 8月 - 陸軍大学校教官。 1915年(大正4年)4月 - ロシア出張。 6月 - ロシア軍に従軍(~1918年4月)。 8月 - 中佐に昇進。参謀本部附仰付(ハルピン特務機関)。 1918年(大正7年)7月24日 - 大佐に昇進。関東都督府附。 11月1日 - ウラジオストク派遣軍参謀。 1919年(大正8年)7月25日 - 歩兵第23連隊長。 1921年(大正10年)4月1日 - 参謀本部欧米課長。 1923年(大正12年)3月17日 - 少将に昇進。歩兵第8旅団長。 1924年(大正13年)1月9日 - 憲兵司令官。 5月 - 国本社理事。 1925年(大正14年)5月1...
  • 明治天皇
    ...) - 明治45年(1912年)7月30日)は、第122代天皇(在位 慶応3年(1867年) - 明治45年(1912年))。諱は睦仁(むつひと)。幼少時の御称号は祐宮(さちのみや)。印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した。その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝(Mutsuhito the Great)とも呼ばれたこともあった。 略歴 出生 明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・慶子(よしこ)。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、京都・中山忠能邸で生まれ、父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名した。 万延元年(1860年)5月、儲君(皇太子)となる。9月28日、孝明天皇から親王宣下を受け、「睦仁」の名を賜る(=睦仁親王となる)。 慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が俄かに...
  • 朝鮮銀行
    ...0銭券・10銭券は、1912年3月31日限りで通用禁止。 ※ 100円券・50円券の発行も計画されたが、実現しなかった。 1905年(明治38年、光武9年)勅令第73号「株式会社第一銀行ノ韓国ニ於ケル業務ニ関スル件」に基づいて発行。 改造10円券(1909年1月4日発行)、改造5円券(1909年7月1日発行)、改造1円券(1908年8月1日発行) ※ 「大韓国金庫 株式会社第一銀行」との記載があり、急速に普及した。 ※ 「光武九年一月大韓国政府の公認に依りて公私去来に無制限で通用す」(各券共通、朝鮮語)、「明治三十八年勅令第七十三号に依り発行するもの也」(1円券、日本語)、「券面の金額は在韓国各支店に於て日本通貨と引替可申候也」(各券共通、日・朝両語)の記載あり。 ※ 図案は10円券が昌徳宮宙合楼、5円券が景福宮光化門、1円券が水原華城華虹門。 韓国銀行期 ...
  • ジョン・マギー
    ...ツバーグ出身の牧師。1912年 - 1940年まで中国で宣教師として活動した。日本軍による南京占領期間中は、国際赤十字南京委員会主席・南京国際委員会会長を務めた。 極東国際軍事裁判での証言 極東国際軍事裁判(東京裁判、1946年 - 1948年)では南京大虐殺の証人として証言台に立ち、日本軍による殺人、強姦、略奪事件について、被害者からの直接聴取、自ら行った被害調査などを基礎に膨大な証言を行った。例えばその中の夏淑琴事件の場合、マギーは現場で死体を確認し、関係者から事情聴取を行った上で証言を行っている。「マギー牧師の解説書」参照=『ドイツ外交官の見た南京事件』資料51 これに対してブルックス弁護人は「不法行為若しくは殺人行為と云ふものの現行犯を、あなた御自身幾ら位御覧になりましたか」との反対尋問を行い、マギーは「唯僅か一人の事件だけは自分で目撃致しました」と回答し、誰何され...
  • 日本統治時代の朝鮮
    ...史』祥伝社。総督府は1912年、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字法を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である諺文綴字法を作成し、それを用いた。ただし公学校に朝鮮語教育について、その内容や時間数に対し朝鮮人言語学者からの不満がたびたび寄せられ、また朝鮮語の時間以外の教授言語はあくまで日本語であった。 日中戦争以降、総督府は兵士として朝鮮人を動員することなども視野に入れ、「内鮮一体」の名の下朝鮮人の日本人化を急ぐようになった。そのため本格的に朝鮮語の排除と、日本語による置き換えが開始され、公教育から事実上朝鮮語が追放された。賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動(PDF文書)これに関しては、「朝鮮が日本領である以上朝鮮語は日本語の方言であり、内地の方言同様最終的には消滅させるべきである」という朝...
  • 伏見宮博恭王
    ... 明治45年(1912年) 3月1日、巡洋戦艦「伊吹」艦長 改元して大正元年10月4日、第四王子博英王誕生 12月1日、海軍大学校選科学生 大正2年(1913年)8月31日、海軍少将・横須賀鎮守府艦隊司令官 大正3年(1914年) 8月18日、海軍大学校長 8月29日、兼軍令部出仕 大正4年(1915年)12月13日、第2戦隊司令官 大正5年(1916年)12月1日、海軍中将・将官会議議員・軍令部出仕 大正7年(1918年)5月29日、恭子女王、侯爵浅野長武に降嫁 大正8年(1919年) 1月16日、恭子女王(浅野恭子)薨去 12月1日、第二艦隊司令長官 12月23日、博義王、一条朝子と成婚 大正9年(1920年)12月1日、軍事参議官 大正11年(1922年) 8月、社団法人帝国水難救済会総裁 1...
  • 木村兵太郎
    ...進。 大正元年(1912年) 11月 - 陸軍砲工学校高等科卒業。 12月 - 陸軍野戦砲兵射撃学校教官。 大正5年(1916年)11月 - 陸軍大学校卒業(28期)。 大正6年(1917年))9月 - 参謀本部附勤務。 大正7年(1918年) 7月 - 大尉に昇進。参謀本部員。 8月 - 第3師団参謀。 大正11年(1922年) 1月 - 参謀本部附仰付。 5月 - ドイツ駐在。 大正12年(1923年)8月 - 少佐に昇進。 大正14年(1925年)10月 - 陸軍大学校教官。 大正15年(1926年)8月 - 砲兵第24大隊長。 昭和3年(1928年) 3月 - 中佐に昇進。 7月 - 砲兵監部員。 昭和4年(1929年) 6月 - 陸軍野戦砲兵学校教官。 9月 - 軍令部員(参謀本部員との兼任)。 ...
  • 岡田啓介
    ...巡洋艦春日艦長。 1912年12月1日 - 戦艦鹿島艦長。 1913年12月1日 - 海軍少将に進級。 1915年12月13日 - 海軍省人事局長。 1917年12月1日 - 海軍中将に進級。 1920年10月1日 - 艦政本部長。 1923年5月25日 - 海軍次官。 1924年6月11日 - 海軍大将に進級。軍事参議官。 12月1日 - 第一艦隊司令長官。連合艦隊司令長官。 1926年12月10日 - 横須賀鎮守府司令長官。 1927年4月20日、1932年5月26日 - 海軍大臣を拝命。 1933年1月21日 - 予備役編入。 1934年7月8日 - 内閣総理大臣及び拓務大臣(~1934年10月24日)を拝命。 1935年9月9日 - 逓信大臣を拝命(~9月12日)。 1936年3月9日 - 内閣総辞職。 1938年1月21日 - 退役。 ...
  • 斎藤実
    ...位。 大正元年(1912年)10月16日 - 海軍大将に進級。 大正2年(1914年) 4月16日 - シーメンス事件の責任をとって、海軍大臣を辞任。 5月11日 - 予備役編入。 大正8年(1919年)8月12日 - 朝鮮総督に就任(~昭和2年(1927年)12月9日)。「文化政治」を推し進める。 大正14年(1925年)4月9日 - 子爵。 昭和2年(1927年)4月15日 - ジュネーブ海軍軍縮会議全権。 昭和3年(1928年)11月17日 - 退役。 昭和4年(1929年)8月17日 - 朝鮮総督に就任(~昭和6年(1931年)6月17日)。 昭和7年(1932年)5月26日 - 第30代内閣総理大臣及び第47代外務大臣(~7月5日)に就任。 昭和9年(1934年) 3月3日 - 第53代文部大臣に就任。 7月3日 - 内...
  • 吉田茂-2
    ...記官 大正元年(1912年)8月 安東領事 大正5年(1916年)8月 在米大使館附二等書記官 大正6年(1917年)7月 文書課長心得 大正7年(1918年)2月 済南領事 大正8年(1919年)2月 パリ講和会議随員 大正9年(1920年)5月 在英大使館附一等書記官 大正11年(1922年)3月 天津総領事 大正14年(1925年)10月 奉天総領事 昭和3年(1928年) 3月 外駐スウェーデン公使。高等官一等 7月 田中義一内閣の外務次官 昭和5年(1930年) 12月 駐伊大使 昭和11年(1936年)4月 駐英大使 昭和14年(1939年)3月 外務省退官 昭和20年(1945年) 4月 近衛上奏文事件で憲兵隊に拘置 6月 釈放される 9月17日 外務大臣 (東久邇宮内閣) 10月9日 外務大...
  • 汪兆銘
    ...により清朝は崩壊し、1912年1月1日に中華民国が成立したが、この成立宣言の文章を起草したのは汪である。この年汪は、革命運動の同志になっていた陳壁君と結婚した。 1912年3月、袁世凱が臨時大総統に就任したが、「皇帝」への野心を持つ袁世凱と孫文らの対立が表面化し(第二革命)、1913年、孫文は日本へ、汪はフランスへ亡命することとなった。袁世凱政府が崩壊して新政府が誕生すると、1917年、汪はフランスから帰国。孫文の下で、汪は広東軍政府の最高顧問を務めることとなる。1925年の孫文死去に際しては、孫文の遺言を起草。病床にて孫文の同意を得たと伝えられる。 国民政府との関わり 孫文の死後、汪は広東で国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任する。この政府には、毛沢東ら中国共産党メンバーも参加していた。(のち北伐開始後、政府は武漢に移る) しかし1926年3月、中山艦事件により蒋介...
  • 国立銀行 (明治)
    ...十銀行)→1912年に第一銀行に合併 第二十一国立銀行(二十一銀行)→1929年に伊香銀行、江北銀行と合併して湖北銀行となり、その後1942年に滋賀銀行に買収 第二十二国立銀行(二十二銀行)→1923年に当行等11行保善銀行(安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第二十三国立銀行(二十三銀行)→1927年大分銀行に合併され大分合同銀行(現大分銀行) 第二十五国立銀行(二十五銀行)→1928年合併し敦賀二十五銀行(最終的には三和銀行に合併) 第二十七国立銀行(二十七銀行)→1920年に東京渡辺銀行に改称。 第二十九国立銀行(第二十九銀行)→1934年八幡浜商業銀行、大洲銀行と合併し豫州銀行(現伊予銀行) 第三十国立銀行(三十銀行)→1929年三十四銀行(三和銀行の前身の一つ)に買収され...
  • 白鳥敏夫
    ...第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学経済学科卒。 1913年(大正2年)10月に高等文官試験・外交官及び領事官試験に合格し、外務省に入省。1930年(昭和5年)に同省情報部長となり、満州事変当時、内閣書記官長だった森恪や鈴木貞一陸軍中佐(当時)と提携し、事変に対する国際連盟の批判に対抗するための外交政策の代表的役割を果たした。 事変後も、連盟脱退など軍部と連携して英米に対する強硬外交を推進し、そのための世論誘導に努めた。そのため、元々は連盟脱退反対派だった松岡洋右が国際連盟脱退の英雄として扱われるようになったことには、露骨に不快感を表していたという。 以来、皇道精神やアジアモンロー主義を提唱して、国内外で「型破り」といった評価を受けるようになった。 そのことから、1933年(昭和8年)より3年間スカンジナビア四国公使として、ストックホルムに追...
  • 大正政変
    ...皇崩御(死去)直後の1912年12月、第2次西園寺内閣は日露戦争後の財政難日露戦争の戦費は日清戦争の8倍、開戦前年の国家財政の約7倍に達した。その8割は公債であり、戦後、償還の負担等が財政を圧迫した。から緊縮財政の方針をとり、陸軍の二個師団増設要求を拒んだ。それに対し、陸軍大臣上原勇作は帷幄上奏権を利用して、単独で即位直後の大正天皇に直接辞表を提出した。陸軍は後任を送らなかったため、西園寺内閣は総辞職に追いこまれる事態となった。これにさきだつ1900年(明治33年)に山縣有朋は軍部大臣現役武官制を成立させていた。 元老会議は後継首相に桂太郎を指名したが、桂は半年前に内大臣兼侍従長になったばかりであり、この点に関して「宮中・府中の別」1885年(明治17年)に創設された内閣制度では、宮内省を内閣の外に設け、宮中と府中(行政府)との別を明らかにし、さらに天皇を補佐する内大臣をおいていた...
  • 上原勇作
    ...職を歴任し活躍する。1912年、陸相の石本新六が在任中に死去したため後任の陸相に就任。軍事力を強化するために陸軍が提案した2個師団増設案を、西園寺公望首相が財政を緊縮するために拒否したため、帷幄上奏権を行使して大臣を辞任。この後陸軍は、上原の後任者をあえて出さず軍部大臣現役武官制を利用し西園寺内閣を総辞職させる(二個師団増設問題)など、陸軍のプレゼンスの向上に腐心した。 1915年参謀総長に就任し、陸軍三長官をすべて経験した最初の例となる(その後の例としては杉山元のみ)。参謀総長として遂行していたシベリア出兵においては、国際協定によって1920年4月に撤退することになったが、上原はこれを「統帥権干犯」として拒絶、原内閣が陸軍大臣の田中義一の同意を得て撤退を閣議決定すると、現地政府との撤退協定が締結される前夜4月4日の晩にロシア側に総攻撃をかけてウラジオストクを占領してしまった。この...
  • 帷幄上奏
    ...殺された。 だが、1912年(大正元年)の陸軍大臣による帷幄上奏による二個師団増設が認可され、これを権限の逸脱であるとして拒否した第2次西園寺内閣が軍部によって倒されると、国民の反発が高まり、第1次護憲運動の原因となった。これを機に再び違憲論が高まり、吉野作造が「帷幄上奏廃止論」を唱えた立憲政友会ではシベリア出兵における政府と軍部の対立から「帷幄上奏廃止」と「軍部大臣文官制」を掲げたが、元陸軍大臣の田中義一を総裁に迎えた後に田中の要求によって廃止された。。 第1次世界大戦後の総力戦の時代に入ると軍事力のみでの戦争遂行は不可能となり、統帥権干犯問題をめぐる争い1930年のロンドン海軍軍縮条約締結に反対する軍令部長加藤寛治が条約反対の帷幄上奏を行おうとしたが、侍従長で前任の軍令部長でもある鈴木貫太郎が軍令部長の権限を逸脱すると反対したため帷幄上奏が行えず、条約締結後に加藤は帷幄上奏を...
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