chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「4月16日」で検索した結果

検索 :
  • 第1次山本内閣
    ...plate 和暦?|4月16日|立憲政友会|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/16.html|海軍大将}} 概要 第一次護憲運動によって第3次桂内閣が倒れたのに伴い発足した。山本権兵衛は薩摩藩出身ではあったものの内実は政党内閣に近いものであり、これ以後日本の政治は藩閥政治から政党政治へと移ってゆく。 シーメンス事件の影響により総辞職。 閣僚 内閣総理大臣 山本権兵衛 外務大臣 牧野伸顕 内務大臣 原敬 大蔵大臣 高橋是清 陸軍大臣  木越安綱(1913年(大正2年)2月20日 - 同年6月24日) 楠瀬幸彦(1913年(大正2年)6月24日 - 1914年(大正3年)4月16日) 海軍大臣 斎藤実 司法大臣  松田正久(1913年(大正2年)2月20日 - 同年11月11日) 奥田義人...
  • 第2次大隈内閣
    ...plate 和暦?|4月16日|Template 和暦?|10月9日|立憲同志会、中正会、大隈伯後援会|第12回衆議院議員総選挙|1914年(大正3年)12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/17.html|早稲田大学総長}} 概要 第1次山本内閣崩壊後、徳川家達・清浦奎吾に大命降下されるがいずれも組閣に失敗(鰻香内閣を参照)、元老会議はやむなく1907年(明治40年)の憲政本党の内紛を機に政界を引退していた大隈重信を後継に奏請した。Template 和暦?4月13日に大命降下を受けた大隈は旧憲政本党以来の議員が所属していた立憲同志会・中正会から閣僚を入れて組閣を行った。立憲同志会の指導者で大隈と密接な三菱財閥と血縁関係にある加藤高明が外務大臣として大隈を補佐した。 第1次世界大戦が勃発すると、ドイツに宣戦を布告した。...
  • 立憲改進党
    ...党の一つ(1882年4月16日-1896年3月1日)。略称は改進党。初代総理(党首)は大隈重信、副総理は河野敏鎌。 概要 明治14年の政変によって政府を追放された大隈が新党結成を構想、1882年3月14日に新党の趣意書を発表して4月16日に東京の明治会堂で結党式を開催した。都市の商業資本家・知識人層・三菱を支持基盤として、「王室の尊栄」・「人民の幸福」を2大方針として政治漸進主義を唱え、イギリス流立憲君主制・二院制議会・財産制限選挙制・国権拡張などの穏健な立憲政治を目標に掲げた。総理には大隈、副総理には河野、これを補佐する掌事には小野梓・牟田口元学・春木義彰が就任した。主なメンバーとしては他に矢野文雄、沼間守一、犬養毅、尾崎行雄、前島密、鳩山和夫、島田三郎、箕浦勝人らがいる。だが、メンバーも多彩で慶應義塾系や自由党結成時に分裂した嚶鳴社系、東京専門学校(現早稲田大学)の設立メ...
  • 興亜院
    興亜院(こうあいん)は、昭和13年(1938年)12月16日に設立された日本の国家機関の一つ。中国大陸での戦線が拡大し占領地域が増えた為、占領地に対する政務・開発事業を統一指揮する為に設けられた。長は総裁で、内閣総理大臣が兼任した。総裁の下に副総裁4名と総務長官、政務部・経済部・文化部の各部長で構成された。現地に連絡機関として華北・蒙彊・華中・厦門に「連絡部」が設けられた。華北連絡部には出張所が置かれ、後に大東亜省に改編されたときには青島総領事館となった。占領地では軍政を行う為興亜院の幹部も主に陸海軍の将校で占められた。昭和17年(1942年)11月1日に拓務省・対満事務局・外務省東亜局・同省南洋局と共に統合・改編され大東亜省に変わる。 後に内閣総理大臣となる大平正芳は興亜院の蒙疆連絡部や経済部で勤務していたことがある。大平内閣の閣僚でもあった大来佐武郎、伊東正義もまた官僚時代、興亜院勤...
  • 内閣総理大臣の一覧
    ...20日- 1914年4月16日 421 薩摩藩鹿児島県 海軍兵学寮卒海軍軍人 薩摩閥(予備役海軍大将) 17 大隈重信 第二次大隈内閣1914年4月16日- 1916年10月9日 908通算1,040 (略) (略) 18 9 寺内正毅てらうち まさたけ 寺内内閣1916年10月9日- 1918年9月29日 721 長州藩山口県 陸軍軍人 長州閥朝鮮総督現役陸軍大将 19 10 原敬はら たかし 原内閣1918年9月29日- 1921年11月4日 1,133 盛岡藩岩手県 司法省法学校中退郵便報知新聞社記者外務官僚 立憲政友会総裁衆議院議員在任中暗殺 ― (内田康哉)(うちだ こうさい) (原内閣)1921年11月4日- 1921年11月13日 (外務大臣内田康哉が内閣総理大臣臨時兼任) 20 11 高橋是清たかはし これきよ ...
  • 軍需省
    ...月11日~1945年4月16日) 原乙未生陸軍中将(1945年4月16日~解体、軍需官兼任) 福岡軍需管理部長 堀内茂礼海軍中将(1943年12月27日~1944年8月12日) 鉾立金矢海軍中将(1944年8月12日~1945年9月15日) 新潟軍需管理部長 桑原虎雄海軍中将(1943年12月27日~1945年2月11日) ナチス・ドイツにおける軍需省 かつてのナチス・ドイツにも軍需省は存在した。フリッツ・トートやアルベルト・シュペーアが、その大臣を務め、特にシュペーアは1944年代に一気にドイツの軍需品生産量を高めるなど多大な功績を挙げた。それはシュペーア革命と呼ばれ、連合軍を最後まで苦しめた。だが、戦局を巻き返す事はできず、無条件降伏によるナチ党一党独裁体制の崩壊に伴い、消滅した。 関連項目 国家総動員法 本田宗一郎 戦時中に航空...
  • 濱口内閣
    {{日本の内閣記事|はまぐち ないかく|27|濱口雄幸|Template 和暦?|7月2日|Template 和暦?|4月14日|立憲民政党|第17回衆議院議員総選挙|1930年(昭和5年)1月21日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/27.html|立憲民政党総裁・衆議院議員}} 概要 立憲民政党を中心とする政党内閣であるが、一方で貴族院の親民政党議員を多く入閣させたところに特色がある。 外務大臣には、協調外交で知られる幣原喜重郎を起用。 財界からの信任のある井上準之助蔵相を起用して金解禁、緊縮政策、産業合理化を断行し、また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結んだ。これらが右翼からの反感を買い、1930年(昭和5年)11月に濱口雄幸が銃撃され、幣原喜重郎が臨時代理を務めた。その後、濱口が復帰するが病状の悪化により総...
  • 台湾総督府
    thumb|250px|石川欽一郎作・台湾総督府([[1916年)]] 台湾総督府(たいわんそうとくふ、旧字体:臺灣總督府)は、清国から日本へ割譲され、日本領となった台湾を統治するために設置された当時の日本の官庁名である。 台北市に設置された台湾総督府本庁舎は、現在も中華民国の総統府として使用されている。また昨今の国際情勢の影響により、近隣にはミサイルを多数配備し、憲兵が小銃を装備し護衛にあたっている。 概略 1895年の下関条約の締結から1945年の日本の敗戦まで台湾を支配・統治した。台湾総督は台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持ったため「土皇帝」と呼ばれた程である(後に軍事権が台湾軍司令官に移譲されたことにより、文官の総督就任が可能になる)。但し台湾総督は内閣総理大臣、内務大臣、拓務大臣の指揮監督を受けることになっており、天皇直属の朝...
  • 新聞紙条例
    ...16年(1883年)4月16日に改正・強化され、1ヶ月以内に47紙が廃刊し、前年には355紙あったものが、年末には199紙に激減したという。このために俗に「新聞撲滅法」とも称された。この法規は明治43年(1910年)12月28日に法律41号の「新聞紙法」に継承されて失効した。 第8条「筆名・変名の禁止」 第8条には「筆名、変名ヲ用ヒタル時ハ、禁獄三十日罰金十円ヲ課ス」とあり、禁止された。このため仮名垣魯文は戸籍名の野崎文三を仮名垣魯文に改めて、執筆活動を継続した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月17日 (日) 23 03。     
  • 太平洋戦争の年表
    thumb|開戦時の日本首相[[東條英機]] 太平洋戦争の年表(たいへいようせんそうのねんぴょう)では、3年8ヶ月に及ぶ日本、満洲国、タイ王国とアメリカ合衆国、イギリス、オランダ、ソビエト連邦ら連合国の戦争の経過を示す。中華民国との間の戦争は日中戦争を参照のこと。 開戦までの経緯(簡略) 1937年(昭和12年)7月7日に始まった日中戦争(支那事変)によって、日本の満州事変以来の軍国主義的膨張を警戒する英米仏と日中戦争の長期化は欧米の対中軍事支援によるとする日本の関係は急速に悪化、アメリカ合衆国が航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限するなど、日本の締め上げが図られた。それでも中国から撤退しない日本は、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦を繰り広げるドイツ・イタリアと1940年に日独伊三国軍事同盟を締結し、仏領インドシナへ進駐し事態を打開しようとするが、アメリカは石油輸出全面禁止など...
  • 伏見宮博恭王
    Template Infobox 軍人? 伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう、明治8年(1875年)10月16日 - 昭和21年(1946年)8月16日)は、日本の皇族、海軍軍人。伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将・大勲位・功一級。初め名を愛賢(なるかた)王といい、華頂宮相続に当り名を博恭と改めた。 日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う。また艦長や艦隊司令官を務める等、皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富であった。 生涯 華頂宮博厚親王薨去に際して、華頂宮の家督を継承し名を博恭と改める。当初実系である伏見宮の家督は弟宮の邦芳王(くにかおう)が継承するはずであったが、邦芳王が病弱との理由から伏見宮に復籍し貞愛親王の継嗣となった。 昭和6年末(1932年)、陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、昭和7年(1932年)...
  • 提岩里虐殺事件
    ...ど。。 しかし、翌4月16日に現地視察にやってきた駐ソウルアメリカ総領事館領事、在ソウル米国人宣教師、AP通信のソウル特派員がこの事件に関する報告書の作成・本国への提出を行い、さらにその数日後には駐ソウル英国総領事館からも現地調査団が現地に送られ、事件は世界中に報道されるにいたり、事件の真相は軍による虐殺・放火であると認識された長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係―朝鮮独立運動とアメリカ 1910-1922』平凡社、2005年2月。。 さらに、近年発見された、当時の朝鮮軍司令官、宇都宮太郎の日記によれば、事件は日本兵が30人ほどの住民を教会に閉じこめたあと一方的に殺害、放火したもので、その「事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども」それでは「虐殺、放火を自認することと為り、帝国の立場は甚しく不利益」となるという判断から、幹部と協議した結果「抵抗したるを以て殺戮したるものとして虐殺...
  • 支那駐屯軍
    Template 軍隊資料? 支那駐屯軍(しなちゅうとんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つであり、中華民国成立以前は清国駐屯軍(しんこくちゅうとんぐん)であった。天津にあったことから天津軍とも通称される。 沿革 Template 日本陸軍? 明治33年(1900年)5月、北清事変が勃発し、日本政府は清国臨時派遣隊を天津に送った。その後の事態の悪化により、6月に第5師団を中心とした部隊を増派し、欧米諸国との連合軍を構成し、8月に事変は沈静化した。同年10月、第5師団の指揮下にあった混成一個旅団により清国駐屯隊を編成し、他の部隊は順次復員した。明治34年(1901年)5月から清国駐屯隊も順次復員した。 そして、同年5月31日には北京議定書に基づき新たに清国駐屯軍が編成され、日本の公使館、領事館、在留邦人の保護を担うこととなった。その後、清国の滅亡に伴い明治45年(1912年)4月...
  • 台北帝国大学
    台北帝国大学(たいほくていこくだいがく)は、日本領時代の台湾に設置された帝国大学。当時は臺北帝國大學と表記された。 日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に設立。文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には予科(豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。 1945年11月15日に中華民国に接収され台湾大学と改名され、今に至る。 沿革 1928年3月16日 勅令第30号により設立。文政学部、理農学部の2学部と附属図書館設置。 文政学部に哲学科、史学科、文学科、政学科の4学科、理農学部に生物学科、化学科、農学科、農芸化学科を設置。 文政学部は国語学・国文学/東洋史学/哲学・哲学史/心理学/土俗学・人種学/憲法/行政法、理農学部は植物学/動物学/...
  • 日本本土空襲
    ... 3月19日 4月16日 5月11日 京都御所へ空襲。 6月26日 死者43人、負傷者66人、被害家屋292戸(全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸)。被災者850名 主要地方都市 1944年 1944年6月15日 八幡空襲 10月10日 十・十空襲 沖縄県全域に対しての空襲。那覇市街での被害が大きかったため、那覇空襲とも呼ばれる。 10月25日 大村大空襲。当時東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠があった長崎県大村市を狙った空襲。死者約500名。 11月21日 熊本初空襲 1945年3月 1945年3月18日朝 大分空襲 航空隊施設を狙ったものと見られ、宇佐・大分・佐伯が空襲を受けた。 3月19日 アメリカ軍機動部隊、室戸岬沖80キロの近海に来襲。米艦載機350機が呉軍港空襲を敢行。航空母艦3巡洋艦2敷設艦2が大...
  • 渡辺錠太郎
    渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年4月16日 - 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。 家族 愛知県の出身。煙草店・和田武右衛門の長男。のちに農家の渡辺庄兵衛の養子となる。実弟の和田庫吉も陸士20期卒で陸軍少佐になっている。子息の恭二は陸士57期の陸軍中尉。 次女にノートルダム清心学園理事長で修道女の渡辺和子がいる。二・二六事件に際して、父の殺害を目撃した。 教育総監への就任 1930年代前半、陸軍内部では皇道派の勢力が伸張していたが、中心人物である荒木貞夫陸相は強権的人事により評判が低下した。荒木が1934年に病気を理由に陸相を辞任したことで、皇道派の勢いは衰え、陸相の後任には荒木の要望に反して林銑十郎が就任した。 翌年7月、荒木の腹心の部下である真崎甚三郎教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた渡辺が選...
  • 華北分離工作
    ...日本では、1937年4月16日の「第三次北支処理要綱」において、華北分離工作の放棄も検討されたが、それも確固とした政策とはならず、盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争に突入していくこととなった。 参考文献 臼井勝美『新版 日中戦争』中公新書、2000年 太平洋戦争研究会・編、森山康平・著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年 伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』吉川弘文館、2007年 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 19 10。    
  • 国民政府
    thumb|250px|国民政府が使用した[[中華民国の国旗。1928年12月17日に、「青天白日滿地紅旗」が中国の正式な国旗として制定された。]] 国民政府(こくみんせいふ)とは、中華民国における中国国民党による政府のことである。略称は国府(こくふ)。国家元首は主席(しゅせき)。ただし日本と中国では、一般的な「国民政府」の定義にそれぞれ差異がある。 日本:1925年以降に国民党が樹立した政府。中華人民共和国の意向を反映し、1925年から1949年までの間に国民党が中国大陸で樹立した政府とする場合もある。いずれにせよ、1971年に中華民国が国際連合から脱退し、その後日本との国交が断絶してからは、国民政府という呼び方は用いられなくなった。 中国:1925年の広州国民政府樹立から、1948年に中華民国憲法に基づく政府が樹立(憲政の開始)されるまでの間、「訓政時期約法」に...
  • 斎藤実
    ...(1914年) 4月16日 - シーメンス事件の責任をとって、海軍大臣を辞任。 5月11日 - 予備役編入。 大正8年(1919年)8月12日 - 朝鮮総督に就任(~昭和2年(1927年)12月9日)。「文化政治」を推し進める。 大正14年(1925年)4月9日 - 子爵。 昭和2年(1927年)4月15日 - ジュネーブ海軍軍縮会議全権。 昭和3年(1928年)11月17日 - 退役。 昭和4年(1929年)8月17日 - 朝鮮総督に就任(~昭和6年(1931年)6月17日)。 昭和7年(1932年)5月26日 - 第30代内閣総理大臣及び第47代外務大臣(~7月5日)に就任。 昭和9年(1934年) 3月3日 - 第53代文部大臣に就任。 7月3日 - 内閣総辞職。 昭和10年(1935年) 6月 - 日本ボーイスカウト連盟...
  • 万宝山事件
    ...録 1931年4月16日 郝永德が万宝山付近12戸の中国人の土地を騙し取る。郝永德は騙し取った土地を違法にも朝鮮人 李升薰等188名に又貸し耕作をはじめさせた。 4月16日郝永德が蕭翰林等周辺11戸の土地の10年間租借契約を結んだ。(県政府の承認が無ければ無効であった)県政府の正式承認を得ないで、この土地を朝鮮農民李昇薫等8人に10年間賃貸契約を締結し、さらに李昇薫はこの契約を根拠で朝鮮農民180余人をこの地方に移住させて開拓に取り掛かった。 上記新聞報道で確認するも12戸ではない。 これらの朝鮮人は『馬家哨口』から『姜家窝堡』まで関を設けて堤を作って水渠を20里(1里=約500m)にわたって掘った。(写真) 朝鮮農民は最初に伊通河に通じる潅漑水路工事(長さ約 2,000余里、幅約9メートル)をおこなった。 同左 1931年5月20日 5月20日 馬家哨口...
  • 参謀本部 (日本)
    Template 日本陸軍? 参謀本部(さんぼうほんぶ)は大日本帝国陸軍(明治36年までは海軍の軍令を統括した)の軍令を司った機関。 参謀総長(最終的な名称)を長として、作戦計画の立案等を職務とする。なお、軍政は陸軍省が担当したが、当然のことながら軍政と軍令を明確に分けることは不可能で、広範囲にあいまいな領域が生じた結果、混乱を招くことにもなった。 なお、明治19年から明治21年までの間、海軍の軍令機関が陸軍と統合されていた時期を除いた、海軍の軍令機関(明治21年乃至明治22年の海軍参謀本部を含む。)については軍令部を参照。 沿革 1971年(明治4年)7月 - 兵部省に陸軍参謀局が設けられる。 1872年(明治5年)2月 - 兵部省が陸軍省及び海軍省に分割され、陸軍参謀局は陸軍省参謀局となる。 1873年(明治6年)4月1日 - 参謀局が第六局に改称される。 ...
  • 阿部内閣
    {{日本の内閣記事|あべ ないかく|36|阿部信行|Template 和暦?|8月30日|Template 和暦?|1月16日|貴族院・軍人が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/36.html|予備役陸軍大将}}Template 和暦?1月14日に総辞職し、次の米内内閣が成立するまでの間、職務を執行した。 概要 阿部内閣は、前の平沼内閣の総辞職を受けて、予備役陸軍大将の阿部信行が組閣した内閣である。組閣直後の1939年(昭和14年)9月、ドイツ(ナチス・ドイツ)がポーランドに侵攻したことにより、イギリスとフランスが対ドイツ宣戦布告して、第二次世界大戦が勃発。阿部内閣は大戦不介入の方針を採り、日中戦争の解決に努めたものの、不調により内閣総辞職。 閣僚 総理大臣 阿部信行(予備役陸軍大将) 1939年(昭和14年...
  • 米内内閣
    {{日本の内閣記事|よない ないかく|37|米内光政|Template 和暦?|1月16日|同年|7月22日|官僚・軍人が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/37.html|海軍大将}} 概要 前の阿部内閣が総辞職した後、新内閣の首相には当初陸軍大臣畑俊六が噂されていた。しかし、昭和天皇が当時の日独伊三国同盟締結を求める風潮を憂慮したために、海軍良識派である海軍大将の米内光政に組閣の大命が降下された。米内は組閣と同時に自ら現役を退き予備役となるが、親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、近衛文麿らによる新体制運動にも冷淡な姿勢を貫いたこと等により陸軍や親軍的な世論から不評を買う。米内内閣成立後の斎藤隆夫(立憲民政党)による反軍演説も陸軍の反発を招いた。 組閣から半年後の1940年(昭和15年)6月、フランス...
  • 教育総監
    教育総監(きょういくそうかん)は、日本陸軍の教育を掌る役職で、その事務は教育総監部が行った。 概要 教育総監及び総監部は、明治20年5月31日に監軍部条例(明治20年勅令第18号)によって設置された監軍(事務は監軍部)が前身で、1898年(明治31年)1月20日に教育総監部条例(明治31年勅令第7号)により設置された、陸軍における教育統轄機関であり、所轄学校や陸軍将校の試験、全部隊の教育を掌った。ただし、航空に関しては航空総監部が教育の大半を行い、参謀の養成は参謀本部が管掌した。 総監は陸軍中将以上をもって補職した。陸軍大臣・参謀総長と総称して陸軍三長官と呼ばれた。 教育総監の発言は重視され、渡辺錠太郎大将は、天皇機関説に理解を示す発言をしたこと、及び皇道派将校の信奉する真崎甚三郎大将の後任として教育総監に就任したことから、皇道派による襲撃の対象となり、渡辺総監は在職中に二・二六事...
  • 土肥原賢二
    Template 基礎情報 軍人? 土肥原 賢二(どいはら けんじ、明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。 生涯 出自 岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇...
  • 板垣退助
    {{政治家 |各国語表記 = いたがき たいすけ |画像 = Taisuke Itagaki 2.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1837年5月21日(天保8年4月17日) |出生地 = 土佐国高知藩(土佐藩) |没年月日 = 1919年(大正8年)7月16日 |死没地 = 東京市 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位勲一等旭日桐花大綬章伯爵 |配偶者 = |国旗 = 日本 |職名 = 第17代内務大臣 |内閣 = 第1次大隈内閣 |当選回数 = |就任日 = 1898年6月30日 |退任日 = 1898年11月8日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = }} 板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919...
  • 山本権兵衛
    ...914年(大正3年)4月16日辞任した。 第二次山本内閣の組閣は関東大震災の被害もまだ明けぬ1923年(大正12年)9月2日である。山本は帝都復興院総裁に後藤新平を任命して東京の復興事業を行う一方、普通選挙実現に動くなどしたが、同年12月27日に起きた摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が難波大助に狙撃された虎ノ門事件の責任を取り、翌1924年(大正13年)1月7日内閣は総辞職した。 明治日本海軍の父としてその手腕は高く評価される反面、首相在任中に於ける不運が惜しまれる。 元老の候補として何度も名前が挙げられたが、西園寺公望の反対により実現しなかったとも言われる。 栄典 1906年(明治39年)4月1日 功一級金鵄勲章 1933年(昭和8年)12月9日 大勲位菊花章頸飾 家族親族 長女イネは海軍大臣を務めた財部彪海軍大将夫人、次女すゑは山路一善海軍中将夫人、三女ミね...
  • 関東軍
    Template 軍隊資料? 関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。 概要 Template 日本陸軍? 南満州鉄道附属地警備を目的とした守備隊が前身で、1919年(大正8年)に関東軍と改称する。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都新京(現・吉林省長春)に移転。名称は警備地の関東州に由来する。 張作霖爆殺事件や満州事変の画策・実行は、20年代からの既存の国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級の参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく左右する端緒となった。 また、これら一連の行動は参謀本部・陸軍省等当時の軍中央での国防政策の指針からも逸脱しており、その後の陸軍内の「下克上」的な組織体質、「手続軽視・結果重視」といった軍の運用体質を作りあげていった、という批判もある。 また、...
  • 皇室会議
    皇室会議(こうしつかいぎ)は、皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇室典範28条以下に定められる。重要事項について、皇室会議の「議を経」または「議によ」ることとされ、諮問機関とは一線を画する。 なお、宮内庁長官が議員として参加する、会議が宮内庁本庁舎において行われる等宮内庁とは関係は深いものの、それぞれはお互いに独立した機関である。 皇室会議で決すべき事項 「皇室会議は、この法律及び他の法律に基く権限のみを行う」(皇室典範37条)と定められているので、皇室会議で決すべき事項は、新たな法律の制定・改廃がされない限り以下のもののみである。※印が付されているものは、出席議員の3分の2以上の多数で決する事項。 皇位継承関係 皇位継承順位の変更(皇室典範3条)※ 婚姻関係 立后(天皇の婚姻)と皇族男子の婚姻(皇室典範10条) 他の事項が皇室会議の「議による」...
  • 鈴木貞一
    Template 基礎情報 軍人? 鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年12月16日 - 1989年7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東条英機側近三奸の一人とされる。 略歴 千葉県の地主である鈴木八十吉の長男として生まれ、東京の成蹊学舎、京北中学校を経て、1910年に陸軍士官学校(22期)、1917年に陸軍大学校(29期)を卒業。元々は満州の森林開発に携わることを志望しており、卒業後も支那問題に関する研究を続けたことから、参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、上海及び北京、武漢に駐在。 1929年5月19日、石原莞爾・永田鉄山・東條英機・板垣征四郎ら陸軍中堅将校が結成した一夕会に参加。1931年、三月事件に参加。情報戦・宣伝戦のエキスパートとされ、北京時代以来、古野伊之助との縁も深い。 鈴木は前述の通り、...
  • 野村吉三郎
    {{基礎情報 軍人 | 氏名 = 野村 吉三郎 | 各国語表記 = | 生年月日 = 1877年12月16日 | 没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? | 画像 = Kichisaburo Nomura as Foreign Minister 1939 cropped.jpg | 画像サイズ = | 画像説明 = 阿部内閣の外務大臣に迎えられ記者団を前に抱負を語る野村(1939年9月26日) | 渾名 = | 生誕地 = 和歌山県 | 死没地 = | 所属政体 = Template JPN? | 所属組織 = 大日本帝国海軍 | 軍歴 = 1898 - 1937 | 最終階級 = 海軍大将 | 指揮 = 第三艦隊司令長官呉鎮守...
  • 柳原愛子
    柳原 愛子(やなぎはら なるこ、安政6年5月26日(1859年6月26日) - Template 和暦?10月16日)は、明治天皇の典侍。大正天皇の母。 位階の正二位をもって二位の局と称される。女房名は梅ノ井、早蕨内侍など。 幕末の議奏・権中納言正二位 柳原光愛の次女で、伯爵・柳原前光の妹。「筑紫の女王」柳原白蓮は姪にあたる。 明治3年(1870年)、皇太后宮小上臈として出仕し、掌侍(勾当内侍)を経てTemplate 和暦?権典侍となった。 明治天皇の宮人となって、第二皇女・梅宮薫子内親王、第二皇子・建宮敬仁親王、第三皇子・明宮嘉仁親王を出産したが、のちに大正天皇となる嘉仁親王のみが成人できた。 Template 和暦?典侍に任官。 所生の皇子の即位後、Template 和暦?7月正三位皇后宮御用掛・御内儀監督となり、Template 和暦?12月1日、従二位に叙された。Templa...
  • 小村壽太郎
    小村 壽太郎(こむら じゅたろう、1855年10月26日(安政2年9月16日) - 1911年(明治44年)11月26日)は、明治の外務官僚。外交官、外務大臣などを務めた。侯爵。小村寿太郎とも表記される。初代拓務次官の小村欣一は養子。 経歴 日向国飫肥藩(おび、宮崎県日南市)に下級武士の子として生まれる。1870年大学南校(東京大学の前身)入学。第1回文部省海外留学生に選ばれハーバード大学へ留学、法律を学んだ。 帰国後、司法省に入省し大審院判事を経て外務省へ転出。陸奥宗光に認められ、清国代理公使を務めた。日清戦争の後、駐韓弁理公使、外務次官、駐米・駐露公使を歴任。1900年の義和団事件では講和会議全権として事後処理にあたった。 1901年に第1次桂太郎内閣の外務大臣に就任。1902年締結の日英同盟を積極的に主張した。日露戦争における戦時外交を担当し、1905年ポーツマス会議日本...
  • 第1次伊藤内閣
    {{Infobox |tnavbar = 日本の内閣記事 |above = 第1次伊藤内閣 |label1 = 内閣総理大臣 |data1 = 初代 伊藤博文 |label2 = 成立年月日 |data2 = Template 和暦?12月22日 |label3 = 終了年月日 |data3 = Template 和暦?4月30日 |label4 = 与党等 |data4 = 藩閥内閣 |label5 = 施行した選挙 |data5 = なし(帝国議会未設置) |label6 = 衆議院解散 |data6 = なし(帝国議会未設置) |below = 内閣閣僚名簿(首相官邸) }} 第1次伊藤内閣(だい1じ いとう ないかく)は、参議の伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命され、Template 和暦?12月22日からTemplate 和暦?4月30日まで続いた...
  • 犬養内閣
    {{日本の内閣記事|いぬかいないかく|29|犬養毅|Template 和暦?|12月13日|Template 和暦?|5月26日|立憲政友会|第18回衆議院議員総選挙|1932年(昭和7年)1月21日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/29.html|立憲政友会総裁・衆議院議員}} 概要 立憲政友会を中心とする政党内閣である。しかし、この内閣は五・一五事件により崩壊し、これ以後日本は一気に軍国主義に傾くため、これが事実上戦前最後の政党内閣となる。 1932年(昭和7年)5月の五・一五事件によって犬養毅が暗殺され、宮中席次の序列に則り、大蔵大臣高橋是清が内閣総理大臣臨時代理を務めた。 閣僚 総理大臣 犬養毅(1931年(昭和6年)12月13日 - 1932年(昭和7年)5月16日) 高橋是清(臨時兼任、1932...
  • 鰻香内閣
    ...信に大命が降下されて4月16日に大隈重信内閣が成立した。 清浦は組閣辞退の直前に記者団に対して「大和田の前を通っているようなもので、匂いだけはするが、御膳立てはなかなか来ない」とぼやいた。大和田とは当時人気の鰻屋現在も「鰻割烹 大和田」として営業している。のことで、前を通っていると美味しい匂いはするが、中に入れば混雑していていつまで待ってもうな丼にはありつけないという有様を組閣の現状に重ね合わせたものであったが、世間はうなぎの匂い(大命降下)だけで結局うな丼(首相の地位)にはありつけなかった清浦を嘲笑してこれを「鰻香内閣」(匂いだけで現実には味わえない幻の内閣)と呼んだのである。 後日譚と清浦内閣 一方、清浦とその支持勢力であった研究会はこの顛末にひどく失望した。特に研究会の議員は元は平田と茶話会が仕掛けた倒閣運動に由来するのに、清浦が組閣に失敗したのは平田が清浦に大命降下...
  • 南次郎
    Template Infobox 軍人? 南 次郎(みなみ じろう、明治7年(1874年)8月10日 - 昭和30年(1955年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。 来歴 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。明治17年(1884年)7月、叔父・宮崎義一の下に単身上京、9月に鞆絵小学校(現・港区立御成門小)初級入学。その後成績良好のために鞆絵小高等科に進級した。明治21年(1888年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。翌・明治22年(1889年)9月、校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機にかねてからの陸士志望であったことから、児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した。明治23年(1890年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。明治25年(1892年)4月、陸士入校。明治28年(1895年)4月、陸士6期卒業。陸軍大学校17期出身...
  • 東方会議 (1921年)
    東方会議(とうほうかいぎ)は、1921年5月16日から26日まで東京市で開催された会議。資料によっては時局会議(じきょくかいぎ)とも呼ばれているが、外務・陸軍・海軍省における公式名称は東方会議である。 背景 1917年11月にロシア十月革命が発生すると寺内内閣は警戒感を強め、翌年1月に居留民の保護のためにウラジオストクに兵を送った(シベリア出兵)。翌年8月、アメリカ・イギリス・フランスなどと協調して本格的なシベリア派兵に踏み切って、ロシア革命への本格的な干渉に乗り出した。9月に成立した原内閣も出兵継続を決めたが、あくまでも各国との合意の範疇に留める考えであり、当時の陸軍大臣田中義一もその方針であった。 ところが、ロシア革命では革命政府(ボリシェヴィキ、後のソ連共産党)が次第と優勢となり、また朝鮮半島における三・一独立運動、中華民国における五四運動など、日本に大陸進出に対する反対運...
  • 軍令部
    軍令部(ぐんれいぶ)とは日本海軍の中央統括機関(海軍省と共同で行う)である。海軍省が内閣に従属し軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼(ほよく)する立場から、海軍全体の作戦・指揮を統括する。 概要 長たるものは軍令部長(後に軍令部総長)であり、天皇によって海軍大将又は中将が任命される。また、次長は総長を補佐する。この二官は御前会議の構成員でもある。 軍令部は主として作戦立案、用兵の運用を行う。また、戦時は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する。 設置当初、政府上層部は陸軍を尊重していたため、参謀本部での軍令部は陸軍の下に置かれた。しかし、太平洋戦争時の最高戦争指導会議では大きな発言力を持つこととなる。 沿革 1884年2月 海軍省達丙第21号により海軍省の外局組織として軍事部が設置 1886年3月 参謀本...
  • 労働者農民党
    労働者農民党(ろうどうしゃのうみんとう)とは、労働者と農民の共闘を目指した社会主義政党(革新政党)である。1948年から1957年まで存続した。 概要 戦後の一時期、日本社会党を除名された最左派により結成された、非共産党系の左翼政党。党首の名称を毛沢東にあやかり主席という名称にし、外交的には親中国派の立場を取り、国内的には労農派・毛沢東主義の非共産党系左翼政党として行動した。 歴史 初代主席は黒田寿男。当時の社会党は、保守政党の民主党、国民協同党との連立政権を組んでいた。しかし、社会党内の左派は政権から事実上閉め出され、党内野党となっていた。1948年7月7日、黒田寿男ら6名が芦田内閣の予算案に造反して反対したため、党を除名。12月2日、他の離党者も合わせて労働者農民党を結成した。結党時には、衆参18人の勢力となっていた。 結党宣言では社会党を「階級闘争を放棄し(中略)ブ...
  • 八幡製鐵所
    ...21年(大正10年)4月16日 - 東洋製鐵の工場を借入れ、戸畑作業所とする。 1928年(昭和3年)11月7日 - 九州製鋼の工場を借入れ、西八幡工場とする。 1930年(昭和5年)2月 - 専用鉄道(炭滓線)運転開始。 1934年(昭和9年)1月29日 - 官営製鐵所、九州製鋼などが合同し、日本製鐵株式會社発足。日本製鐵八幡製鐵所となる。 1934年(昭和9年)2月1日 - 日本製鐵営業開始。 1934年(昭和9年)3月28日 - 日本製鐵が東洋製鐵を合併。 1938年(昭和13年) - 洞岡第三高炉火入れ。洞岡第五コークス炉作業開始。 1941年(昭和16年) - 製造年表示が神武皇紀になる(1943年まで)。 1945年(昭和20年) - 燃料不足により操業休止。 1946年(昭和21年) - 操業再開。 1950年(昭和25年)4月1...
  • 皇室令
    Template 日本の法令? 皇室令(こうしつれい)は大日本帝国において皇室典範(旧皇室典範)を根拠とし、皇室典範に属する法体系、いわゆる「宮務法」のもとで制定されていた皇室に関係する一連の諸法を指す。これは大日本帝国憲法を根拠とし、憲法に属する法体系、いわゆる「国務法」とは異なり、皇室典範と同様、制定・改定には帝国議会は関与しない。 日本国憲法施行に伴い、1947年(昭和22年)5月2日を最後に廃止された。 概説 皇室典範(旧皇室典範)に基づく諸規則、宮内官制及びその他の皇室の事務に関して、勅定を経た規定で発表を要するものは、皇室令として制定し、上諭を附してこれを公布した。皇族に準じた礼遇を受けていた王公族や、貴族である華族・朝鮮貴族の権利・義務などについてもこの法形式で規律していた。日本国憲法施行に伴い、この法形式が廃止されることとなり、1947年(昭和22年)5月2日公...
  • 第2次伊藤内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ いとう ないかく|5|伊藤博文|Template 和暦?|8月31日|Template 和暦?|9月18日|藩閥内閣 |第3回衆議院議員総選挙第4回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月30日Template 和暦?6月2日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/05.html|前職 = 前枢密院議長}} 伊藤はTemplate 和暦?8月31日に首相を辞任し、同年9月18日に松方正義が組閣するまで、黒田清隆・枢密院議長が内閣総理大臣を臨時兼務した。 概要 前首相の松方正義が自らの閣僚にも見放されて内閣を放り出すという事態は、Template 和暦?8月2日に大命を受けた伊藤にも今後の政権運営に不安を抱かせた。そこで伊藤は主だった元勲の入閣を条件に組閣を行うことを表明、黒田清隆・山縣有朋の両首相...
  • トラウトマン工作
    トラウトマン工作とは、昭和12年(1937年)11月初から昭和13年(1938年)1月16日までの期間にドイツの仲介で行われた、日本と中華民国国民政府間の和平交渉である。当時のオスカー・トラウトマン (Oscar P. Trautmann 1877年5月 - 1950年12月10日) 駐華ドイツ大使の名を取って、こう呼ばれる。工作という言葉の負のイメージを嫌ってトラウトマン和平工作とも呼ばれる事もある。 和平交渉の期間は、日中戦争(支那事変)時の上海陥落直前から南京陥落1箇月後の間にあたる。実際には7月に起こった蘆溝橋事件直後より和平の道は探られていたが、具体的な和平交渉が始まったのは、11月初旬である。 概要 当時、ドイツは中国に軍事顧問を派遣するなど友好関係を築いていた。ただし、中国侵出の意欲は低く、また日本の目が中国に向かって北方のソ連から逸れるのは望まざるところであったので、...
  • 大本営
    大本営(だいほんえい)は、戦時中・事変中に設置された大日本帝国陸軍および海軍の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令(大陸命)、大本営海軍部命令(大海令))として発令する最高司令部としての機能を持つ。 日清戦争と日露戦争で設置され、戦時の終了後に解散した。支那事変(日中戦争)では戦時外でも設置できるよう改められ、そのまま太平洋戦争(大東亜戦争)終戦まで存続した。連合国からはインペリアル・ジェネラル・ヘッドクォーターズ(Imperial General Headquarters)と呼ばれた。 概要 大本営は、陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関として、1893年5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された。日清戦争における大本営は1894年6月5日に設置された。1893年制定の海軍軍令部条例により平時において...
  • 朝鮮軍 (日本軍)
    Template 軍隊資料? 朝鮮軍(ちょうせんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つ。朝鮮を管轄した。 概要 日露戦争を機に大韓帝国に駐留した韓国駐剳軍(かんこくちゅうさつぐん)を前身とし、明治43年(1910年)の韓国併合に伴い朝鮮駐剳軍(ちょうせんちゅうさつぐん)に名称変更、大正7年(1918年)に朝鮮軍となった。司令部は当初漢城の城内に置かれたが、後に郊外の京城府龍山(現・ソウル特別市龍山区)に移転した。 昭和20年(1945年)2月、戦況逼迫に伴い第17方面軍が設けられ朝鮮軍は廃止されたため、管轄区域の朝鮮軍管区は第17方面軍司令部が兼ねた朝鮮軍管区司令部が管轄した。 歴代朝鮮軍司令官 Template 日本陸軍? 韓国駐剳軍司令官 原口兼済中将:明治37年(1904年)3月11日 - 明治37年(1904年)9月8日 長谷川好道大将:明治37年(190...
  • 寺内内閣
    {{日本の内閣記事|てらうち ないかく|18|寺内正毅|Template 和暦?|10月9日|Template 和暦?|9月29日|立憲政友会|第13回衆議院議員総選挙|1917年(大正6年)1月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/18.html|元帥陸軍大将・軍事参議官}} 総辞職したのはTemplate 和暦?9月21日だが、次の原内閣成立まで職務を執行した。 概要 寺内内閣はTemplate 和暦?、第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された。海軍大臣以外は全部山縣系という超然内閣であったことから、「ビリケン内閣」とも呼ばれた(寺内が当時流行のビリケン人形にそっくりであったことと、「非立憲(主義)」をかけたもの)。当初、第1党の立憲同志会(後に憲政会を結成)と第3党の立憲国民党は野党の立場を取ったものの、...
  • 連合国軍最高司令官総司令部
    ...51年(昭和26年)4月16日より同国のマシュー・リッジウェイ中将(就任直後に大将に昇進)。 連合国軍最高司令官総司令部の統治は、日本の政治機構をそのまま利用し、日本政府に指示・命令する間接統治であった。連合国軍の命令の多くは1945年(昭和20年)9月20日の勅令「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」に基づいていわゆるポツダム命令(ポツダム勅令。新憲法施行後はポツダム政令)などの形で公布・施行され、日本政府にとっては絶対的・超法規的な性格をもっていた。1946年(昭和21年)2月には政策決定の最高機関として各国代表による極東委員会が、4月には最高司令官の諮問機関として対日理事会が設置されたが、実質は最大の占領軍を派遣し、また最高司令官を出していたアメリカによる間接統治という性格は変わらなかった。 日本はまず軍事機構と国家警察を解体され、続いて政治の民主化と政教分離、財...
  • 企画院
    企画院(きかくいん)は、日本における戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関。 概要 前身は昭和10年5月10日に設置された内閣総理大臣直属各省大臣と同様の立場での行政事務の分担及びその補助部局→新憲法施行後に総理庁→総理府へ統合。他方で、「合議体としての内閣」の所管部局に法制局と賞勲局があったの国策調査機関である内閣調査局にある。「重要産業統制法」(昭和6年7月公布)から始まり、五・一五事件を経て二・二六事件以後の陸軍内での統制派の勃興以後、所謂「新々官僚(新官僚)」の牙城・内閣調査局の権限は強まり、より強力な重要政策を立案する組織として、昭和12年5月14日に企画庁へ改組。同年10月25日に内閣資源局大正7年の軍需工業動員法制定の後、物資動員企画立案機関として昭和2年5月27日に設立と統合し企画院が発足した。重要政策の企画立案と物資動員の企画立案を統合し、以後、戦時下...
  • 南方軍_(日本軍)
    Template 軍隊資料? 南方軍(なんぽうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。 沿革 Template 日本陸軍? 大陸令第555号に基づき昭和16年11月に編制された。ビルマ、タイ、南洋方面などの南方を作戦地域とし、防衛・軍政の任に当った。 南方軍概要 通称号:威集団 編制時期:昭和16年11月6日 総司令官 寺内寿一:陸士11期、昭和16年11月6日~ 総参謀長 昭和17年8月1日から軍政総監を兼勤 氏名陸士就任塚田攻19期昭和16年11月6日黒田重徳21期昭和17年7月1日清水規矩23期昭和18年5月19日飯村穣21期昭和19年3月22日沼田多稼蔵24期昭和19年12月26日 総参謀副長 氏名陸士就任辞任青木重誠25期昭和16年11月13日昭和17年8月17日阪口芳太郎25期昭和16年11月13日昭和17年6月1日高橋坦2...
  • @wiki全体から「4月16日」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。