chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「8月」で検索した結果

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  • 東久邇宮内閣
    ...plate 和暦?|8月17日|同年|10月9日|貴族院が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/43.html|皇族・陸軍大将|内閣名=東久邇宮内閣内閣総理大臣としての正式な表記は宮号を冠さない「内閣総理大臣 稔彦王」であり、官報にもそのように掲載された。|画像= |画像説明=東久邇宮内閣の閣僚最前列東久邇宮稔彦王、二列目左より重光葵、米内光政、中島知久平、近衛文麿、岩田宙造、三列目左より松村謙三、千石興太郎、山崎巌、津島寿一、小日山直登、緒方竹虎、最後列が村瀬直養。}}皇族が首相となった内閣は史上唯一、在任期間は54日間で史上最短。最後の挙国一致内閣でもある。 1945年(昭和20年)10月5日に内閣総辞職し、次の幣原内閣が発足するまで、職務を執行した。 概要 東久邇宮内閣は、前の鈴木貫太郎内閣の総辞職を...
  • 鈴木貫太郎内閣
    ...?|4月7日|同年|8月17日|大日本政治会など。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/42.html|枢密院議長|画像= |画像説明=鈴木貫太郎内閣の閣僚}} 概要 鈴木貫太郎内閣は、前の小磯内閣の総辞職を受けて、枢密院議長の鈴木貫太郎が組閣した内閣である。 内閣が発足した1945年(昭和20年)4月30日にベルリンでアドルフ・ヒトラー総統が自殺したため、翌5月7日にナチス・ドイツは無条件降伏した。国内各都市への日本本土空襲は日増しに激しくなり、同年6月23日には沖縄における組織的戦闘が終結するなど、日本の敗色は濃厚となっていた。同年7月26日にアメリカ合衆国・中国・イギリスから発表されたポツダム宣言に対して、鈴木首相は、同月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する。」...
  • 平沼内閣
    ...?|1月5日|同年|8月30日|官僚・軍人が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/35.html|枢密院議長|画像=250px|画像説明=平沼内閣の閣僚}} 概要 平沼内閣は、前の第1次近衛内閣の崩壊を受けて、枢密院議長の平沼騏一郎が組閣した内閣である。日独軍事同盟の締結交渉を進めていたが、1939年(昭和14年)8月に突然、ドイツ(ナチス・ドイツ)がソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結したため、衝撃を受けた平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」との言葉を残して同月末に内閣総辞職。 閣僚 総理大臣 男爵平沼騏一郎(枢密院) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 外務大臣 有田八郎(貴族院所属 昭和研究会)(第1次近衛内閣から留任) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 ...
  • 関東軍
    ...っていなかった。 8月9日に開始されたソビエト連邦軍の侵攻に対して、関東軍は国境で陣地防御を行い、戦況の悪化にしたがって防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させる守勢後退を行った。この作戦によって関東軍は、「開拓殖民を見捨て逃げ出した」と非難されることなった。一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では後方予備として温存していた9個師団を基幹とする第3方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていたが、反撃に移るまでに8月15日の玉音放送を迎え、日本の本土では降伏と停戦命令が発せられ、その命令が満州の関東軍総司令部に伝えられたのは16日夕方であった、伝えられた山田乙三総司令官は「徹底抗戦」を主張する参謀もいる中、夜10時に停戦を決定、戦闘を停止した。 戦後、関東軍将兵は、捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出すことと...
  • 阿部内閣
    ...plate 和暦?|8月30日|Template 和暦?|1月16日|貴族院・軍人が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/36.html|予備役陸軍大将}}Template 和暦?1月14日に総辞職し、次の米内内閣が成立するまでの間、職務を執行した。 概要 阿部内閣は、前の平沼内閣の総辞職を受けて、予備役陸軍大将の阿部信行が組閣した内閣である。組閣直後の1939年(昭和14年)9月、ドイツ(ナチス・ドイツ)がポーランドに侵攻したことにより、イギリスとフランスが対ドイツ宣戦布告して、第二次世界大戦が勃発。阿部内閣は大戦不介入の方針を採り、日中戦争の解決に努めたものの、不調により内閣総辞職。 閣僚 総理大臣 阿部信行(予備役陸軍大将) 1939年(昭和14年)8月30日 - 1940年(昭和15年)1月16日...
  • 朝鮮軍 (日本軍)
    ...44年(1911年)8月18日 上田有沢中将:明治44年(1911年)8月18日 - 明治45年(1912年)1月14日 安東貞美中将:明治45年(1912年)1月14日 - 大正4年(1915年)1月25日 井口省吾中将:大正4年(1915年)1月25日 - 大正5年(1916年)8月18日 秋山好古中将:大正5年(1916年)8月18日 - 大正6年(1917年)8月6日 松川敏胤中将:大正6年(1917年)8月6日 - 大正7年(1918年)6月1日 朝鮮軍司令官 松川敏胤中将:大正7年(1918年)6月1日 - 大正7年(1918年)7月24日 宇都宮太郎中将:大正7年(1918年)7月24日 - 大正9年(1920年)8月16日 大庭二郎中将:大正9年(1920年)8月16日 - 大正11年(1922年)11月24日 菊池慎之助中将:大正11年(19...
  • 支那駐屯軍
    ...との連合軍を構成し、8月に事変は沈静化した。同年10月、第5師団の指揮下にあった混成一個旅団により清国駐屯隊を編成し、他の部隊は順次復員した。明治34年(1901年)5月から清国駐屯隊も順次復員した。 そして、同年5月31日には北京議定書に基づき新たに清国駐屯軍が編成され、日本の公使館、領事館、在留邦人の保護を担うこととなった。その後、清国の滅亡に伴い明治45年(1912年)4月26日に清国駐屯軍を支那駐屯軍と改称した。 昭和11年(1936年)4月18日、北支情勢の悪化に備え支那駐屯歩兵旅団を新設し、それまで駐屯軍全体で歩兵10個中隊程度の規模であったのを混成旅団規模に強化し、同年5月1日から司令官は親補職になった(昭和11年軍令陸第2号「支那駐屯軍司令官の親補に関する件」)。 強化した翌年の、昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発した。盧溝橋事件...
  • 仮11
    ...ん)とは、1945年8月太平洋戦争終戦の混乱の中で、樺太で起きた日本人による一連の朝鮮人虐殺事件。 概要 ソ連軍樺太上陸の恐怖と混乱の中で、朝鮮人がソ連のスパイであるという風説が流れ、スパイ容疑をかけられた朝鮮人が虐殺された。 今日比較的明らかになっているのは、1945年8月18日に敷香郡敷香町上敷香で起こった事例と、同年8月20日から8月23日にかけて真岡郡清水村瑞穂で起こった事例。 事件の経緯 南樺太の日本軍はソ連のスパイに対処するために、樺太少数民族(ウィルタ・ニヴフ・アイヌ)を利用して諜報活動を行っていたが、スパイに朝鮮人を起用することは少なかった樺太警察は朝鮮人の独立運動や独立思想への傾倒が強いことを警戒し、出身地・思想傾向などからランク付けをして厳重に監視した。(崔吉城「樺太における日本人の朝鮮人虐殺」pp.289-291)。この状況はソ連領であった北樺太でも同...
  • 軍需省
    ...としていた1945年8月26日、椎名悦三郎次官らの指導によって商工省に復帰した。 軍需省の組織 大臣官房 文書課 総動員局 総務部 総務課 考査課 監理部 第2部 総動員課 生産拡大課 航空兵器総局 総務局 総務課 第1局 第2局 第3局 機械局 産業機械課 鉄鋼局 軽金属局 非鉄金属局 化学局 工業用塩自給推進本部 燃料局 石油部 石炭部 電力局 外局他 企業整備本部 燃料研究所 中央度量衡検定所 地質調査所 機械試験所 臨時生産防衛対策中央本部 建設部 地方支分部局 関東信越軍需管理局 近畿軍需管理局 東海軍需管理局 中国軍需管理局 福岡軍需管理局 新潟軍需管理局 札幌軍需管理部 ...
  • 第2次大隈内閣
    ...の閣僚を更迭して同年8月10日に内閣改造を行った。だが、即位式と2個師団増設法案の審議が終わると、予算案を巡って内閣と貴族院との対立が激化するとともに、元老はこれ以上の大隈続投は好まず、内閣は総辞職するに至った。その際、大隈は加藤高明を、元老会議は寺内正毅朝鮮総督を奏請するが、大正天皇は後者に組閣を命じることにしたのである。 国務大臣 内閣総理大臣 大隈重信 外務大臣 加藤高明(1914年(大正3年)4月16日 - 1915年(大正4年)8月10日) 大隈重信(兼任)(1915年(大正4年)8月10日 - 同年10月13日) 石井菊次郎(1915年(大正4年)10月13日 - 1916年(大正5年)10月9日) 内務大臣 大隈重信(兼任)(1914年(大正3年)4月16日 - 1915年(大正4年)1月9日) 大浦兼武(1915年(大正4年)1月9日 - 同年...
  • 太平洋戦争の年表
    ...ピン全土占領。 8月 イギリス領インドで反英暴動。 8月7日 米軍、ソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸(ガダルカナル島の戦い、連合軍の本格的反攻始まる)。 8月8日 第一次ソロモン海戦 8月24日 第二次ソロモン海戦 9月9日 伊25潜より発進した艦載機がアメリカ本土のオレゴン州を空襲。 9月15日 伊19潜、米空母ワスプ撃沈。 9月29日 伊25潜より発進した艦載機、アメリカ本土のオレゴン州を再度空襲 10月 英米、中国における治外法権撤廃を声明、不平等条約を廃止。 10月 重慶で英米中ソ対日作戦会議。 10月11日 サボ島沖海戦 10月13日 ヘンダーソン基地艦砲射撃(ヘンダーソン飛行場艦砲射撃) 10月26日 南太平洋海戦。米軍の稼動空母が0隻になる。 11月12日 第三次ソロモン海戦 1...
  • 1918年米騒動
    ...25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した。 この背景には資本主義の急速な発展が指摘されている。第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)は都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していった。このように、農業界からの人材流出と米の消費量の増加が続いた事に加え、大戦の影響によって米の輸入量が減少した事も重なり1914年に約200万石あった輸入額が、1915年に45万石、1916年には31万石に減じている。(米殻統計より)、米価暴騰の原因となった。 国の対応 米価格が高騰することにより、地主や商人は米を米殻投機へまわすようになり、次第に売り惜しみや買い占めが発生しは...
  • 東部軍管区 (日本軍)
    ...35年(昭和10年)8月に東部・中部・西部の各防衛司令部が設置され、東部防衛司令部と東京警備司令部は兼職とされたが、1937年(昭和12年)11月30日から東部防衛司令部に一本化された。1940年(昭和15年)8月1日に、東部軍が設置された。 概要 通称号: 編制時期:昭和20年2月1日(東部軍以前は下記年表参照) 最終位置:東京 上級部隊:天皇直隷 略年表 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災、戒厳令施行 1923年(大正12年)9月3日 - 関東戒厳司令部設置 1923年(大正12年)11月15日 - 戒厳令解除 1923年(大正12年)11月16日- 関東戒厳司令部廃止・東京警備司令部設置 1932年(昭和7年)5月15日 - 五・一五事件 1935年(昭和10年)8月1日 - 東部防衛司令部設置 1936年(昭和11年...
  • 第1次松方内閣
    ...plate 和暦?|8月8日|藩閥内閣|第2回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/04.html|前職 = 大蔵大臣}} 概要 山縣有朋(第1次山縣内閣)の後継総理として伊藤博文や西郷従道、山田顕義などの名前も挙げられたが、5月2日に松方正義に組閣の大命が下った。松方は、組閣にあたって前任者たちの全面協力無くしては引き受けられないと述べて全閣僚の留任を唱えて、総理就任の条件とした。そこで前内閣の閣僚が当面留任することになった。このため、民党からは「黒幕内閣」「二流内閣」と揶揄された。だが直後から辞意を表明する閣僚が続出し、更に大津事件が発生して責任を負って外務大臣や内務大臣などが辞意を表明するなどして、最終的には成立1ヶ月に漸く海軍・農商務・逓信の3大臣以外は全て閣僚を差...
  • 加藤高明内閣
    ...25年(大正14年)8月2日以後、憲政会単独内閣となる。この憲政会単独内閣を組織した際に、摂政裕仁親王(後の昭和天皇)から改めて大命降下を受けて組閣しているため、この時点で内閣は一旦総辞職したものと見なして、同日以後を第2次内閣とする説もあるが、現在の内閣府の公式見解ではこの日以後も第2次内閣として見ず、あくまでも内閣改造と解して1内閣であるとしているだが、後に第2次近衛内閣で松岡洋右外相を更迭したことに関しては、内閣総辞職して第3次近衛内閣として各々1内閣と解しており、明らかに一貫性を欠く。新内閣の組織は、主権者の意思によるものであり、戦前は「大命降下」、戦後は「内閣総辞職」か「総選挙による新しい国会(実質衆議院)構成」の後に行われる。戦前は時折、この内閣総辞職にあたる全閣僚の辞表を取りまとめての提出がされており、しかしその都度受理されずに却下させることも多かった。加藤高明内閣にお...
  • 教育総監
    ...7日 - 1919年8月26日陸士旧3期 9大谷喜久蔵1919年8月26日 - 1920年12月28日陸士旧2期 10秋山好古1920年12月28日 - 1923年3月17日陸士旧3期 11大庭二郎1923年3月17日 - 1926年3月2日陸士旧8期 12菊池慎之助1926年3月2日 - 1927年8月26日陸士旧11期 13武藤信義1927年8月26日 - 1932年5月26日陸士3期 14林銑十郎1932年5月26日 - 1934年1月23日陸士8期 15真崎甚三郎1934年1月23日 - 1935年7月16日陸士9期 16渡辺錠太郎1935年7月16日 - 1936年2月26日陸士8期 17西義一1936年3月5日 - 1936年8月1日陸士10期 18杉山元1936年8月1日 - 1937年2月9日陸士12期 19寺内寿一1937...
  • 興亜院
    ...0日 - 昭和14年8月1日 森岡皐 陸軍少将:昭和14年8月1日 - 昭和15年3月9日 塩沢清宣 陸軍少将:昭和15年4月11日 - 昭和17年11月1日 青島出張所長 柴田弥一郎 海軍大佐:昭和14年3月10日 - 昭和15年8月8日 多田武雄 海軍大佐:昭和15年8月8日 - 昭和16年8月20日 緒方真記 海軍大佐:昭和16年8月20日 - 昭和17年11月1日 蒙彊連絡部長官 酒井隆 陸軍少将:昭和14年3月10日 - 昭和15年3月9日 竹下義晴 陸軍少将:昭和15年3月9日 - 昭和16年12月8日 岩崎民男 陸軍少将:昭和16年12月8日 - 昭和17年11月1日 華中連絡部長官 津田静枝 海軍予備中将:昭和14年3月10日 - 昭和16年5月7日 太田泰治 海軍中将:昭和16年5月7日 - 昭和17年...
  • 上海派遣軍
    ...37年(昭和12年)8月15日 廃止時期:1938年(昭和13年)2月14日 廃止時の上級部隊:中支那方面軍 最終位置:南京 司令官 松井石根 大将:1937年8月15日 - 朝香宮鳩彦王 中将:1937年12月2日 - 1938年2月14日 参謀長 飯沼守 少将:1937年8月15日 - 1938年2月14日 参謀副長 上村利道 大佐:1937年8月15日 - 1937年11月1日 欠員:1937年11月1日 - 廃止時の隷下部隊 第3師団 第9師団 第13師団 第101師団 藤重支隊(台湾守備隊) 野戦重砲兵第5旅団 参考リンク 上海派遣軍編成 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月4日 (火) 16 34。 ...
  • 阿南惟幾
    ...1日 - 1945年8月15日)は、日本の陸軍軍人、陸軍大将、終戦時の陸軍大臣。 人物・経歴 陸軍大臣に上り詰めた逸材だが、異才の多い帝国陸軍にあってはごく平均的な軍務官僚で、実戦においても目立った実績を上げたわけではない。しかし誠実な人柄で人望が厚く、様々に解釈される後述の終戦時のエピソードも相まって評伝が数多く著されるなど、今日でも人気の高い人物である。 大分県竹田市出身。終戦時の鈴木貫太郎総理大臣とは、二・二六事件当時、侍従長と侍従武官の関係だった。 太平洋戦争末期、梅津美治郎参謀総長とともにあくまで本土決戦を唱えるが、昭和天皇の終戦の意志が固いことを知り、最終的には終戦に同意。軍事クーデターをほのめかす部下の軽挙妄動を戒めながら、8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で自刃。介錯を拒み、翌15日朝絶命。「一死をもって大罪を謝し奉る」との遺書は...
  • 戦史叢書
    ... なお、2003年8月に防衛研究所戦史部はこれまで知られていなかった史料・資料(主にソ連の崩壊に伴う旧東側のもの)が利用可能になったため、これらに基づいて戦史叢書の全面的な増補改訂を行なう計画があることを発表している。 巻目 巻番号書名発行年月巻番号書名発行年月 1マレー進攻作戦昭和41年10月52陸軍航空の軍備と運用(1)昭和十三年初期まで昭和46年12月 2比島攻略作戦昭和41年10月53満洲方面陸軍航空作戦昭和47年2月 3蘭印攻略作戦昭和42年1月54南西方面海軍作戦 第二段作戦以降昭和47年3月 4一号作戦(1)河南の会戦昭和42年3月55昭和十七・八年の支那派遣軍昭和47年5月 5ビルマ攻略作戦昭和42年5月56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦昭和47年6月 6中部太平洋陸軍作戦(1)マリアナ玉砕まで昭和42年7月57本土決戦準備(...
  • 永田鉄山
    ...4日 - 1935年8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍省軍務局長、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。追贈であるが、正四位勲一等に叙され瑞宝章を受けている。 略歴・人物 長野県諏訪郡上諏訪町本町出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校をいずれも首席、陸軍大学校も2位で卒業する秀才ぶりで、軍務官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される人物だったが、陸軍内部の派閥抗争に絡んで陸軍中佐相沢三郎に暗殺される。皇道派の領袖、陸軍大将真崎甚三郎を教育総監の要職から更迭したことが暗殺の引き金となっている。死亡当時、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。 郡立高島病院長永田志解理の子として生まれ、高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小学校)、東京牛込北町・愛日高等小学校を経て、1898年(明治31年)9月に東京陸軍幼...
  • 成都事件
    ...36年(昭和11年)8月24日、四川省成都で、大毎特派員渡辺洸三郎、上海毎日新聞社員深川経二、満鉄上海事務所員田中武夫、漢口邦商瀬戸尚の4名が同地の中国人学生をふくむ暴徒の襲撃を受け、渡辺、深川の2名が殺害され、田中、瀬戸の2名が重傷を負った。 これより先、日本の外務省は満州事変後閉館中の成都総領事館を再開すべく岩井総領事代理を派遣したところ、中国側は日本の既得権益を無視し、開館絶対反対を表明し、民衆運動によってこれを阻止しようと図った。 この結果、8月初旬以来、四川省、殊に成都において「開館反対、岩井代理人川阻止」の学生大会、市民大会などがあいついで開かれ、排日の風潮は高まった。 そのため岩井代理は重慶に足止めされ、成都入りはできなくなった。 岩井代理と同行した上記4名は目的が単なる視察であったので、8月21日、重慶を出発し、成都に赴いたところ、24日、宿舎である大川旅館に...
  • 国民義勇隊
    ... 終戦後の1945年8月21日の閣議決定で廃止が決められ、9月2日に解散した。 国民義勇戦闘隊 概要 国民義勇戦闘隊は、1945年6月に成立施行された義勇兵役法にもとづく民兵組織であり、国民義勇隊を基礎として編成されたため、一応異なるものであるが組織の多くが流用され共通している。原則的に従来の市町村国民義勇隊・職域国民義勇隊が基本単位となり、小隊は「戦隊」と呼び変えるなどとされたが、実際の編制・運用は各市町村などに委ねられた。義勇兵役の対象は原則として男子は15歳ないし60歳、女子は17歳ないし40歳となっており、必要に応じて義勇召集し国民義勇戦闘隊とすることができたほか、年齢制限外の者も志願することが認められていた。義勇戦闘隊は2800万人が本土決戦に動員される予定だった。ドイツの国民突撃隊に相当する。 武器などの装備品は基本的に隊員各自が用意することになっており、幕末以前の...
  • 小磯國昭
    ...ツは5月降伏で日本は8月降伏であり、降伏したのはドイツが早かった)。 八方塞がりの中、小磯内閣は8ヶ月の短い生命を終えた。 家族 妻・馨子(新潟県士族牧口義方五女) 長男・昭一 長女・美智子 年譜 1898年(明治31年)12月 - 士官候補生。 1899年(明治32年)6月 - 上等兵。 8月 - 二等軍曹に昇進。 11月 - 一等軍曹に昇進。 12月 - 陸軍士官学校入学。 1900年(明治33年)11月 - 曹長に昇進。陸軍士官学校卒業(12期)。 1901年(明治34年)6月 - 少尉に昇進。歩兵第30連隊附。 1903年(明治36年)11月 - 中尉に昇進。 1904年(明治37年)3月 - 日露戦争に従軍(~1905年12月)。 1905年(明治38年)6月 - 大尉に昇進。 1906年(明治39年)3月 - 歩兵第30連隊中隊...
  • 日中戦争
    ...津地区を制圧。 8月9日 - 日本軍(関東軍)、察哈爾省攻略開始(チャハル作戦)。 8月9日 - 虹橋飛行場(偵察行動中)にて大山海軍中尉(上海特別陸戦隊)が惨殺される。 8月13日 - 包囲していた中国軍と国際租界の日本海軍陸戦隊の交戦が開始される(第二次上海事変)。 8月14日 - 中国空軍機による上海空爆により民間人に大きな被害。 8月15日 - 第一次近衞内閣、戦争目的として「暴支膺懲」を表明。 8月15日 - 日本陸軍、上海派遣軍編成命令。 8月15日 - 日本海軍、南京への渡洋爆撃開始。 8月15日 - 中華民国は全国総動員令を発し、大本営を設置して陸海空軍総司令に蒋介石が就任、戦時体制を確立す。 8月21日 - 中ソ不可侵条約締結(ソ連の軍事援助)。 8月22日 - 共産党軍の国民政府軍への編入。西北地域の紅軍を国民革命軍第8路軍...
  • 日本本土空襲
    ...945年(昭和20)8月15日の終戦当日まで続いた。また、末期には機動部隊艦載機や硫黄島から飛来する単発機による爆撃や機銃掃射も行われた。なお、幾つかの都市では、空襲とあわせて艦砲射撃も行われており、本稿でも記載する。 この結果については、戦後、米国戦略爆撃調査団による報告書が出されている。 概要 日本本土の初空襲は1942年4月18日のドーリットル空襲で、航空母艦から陸上機であるB-25中型爆撃機を発進させ、空爆を成功させた。この空襲は大本営に危機感を抱かせ、ミッドウェー海戦に繋がった。 その後、B-29戦略爆撃機による本格的な大規模空襲は1944年6月より北部九州に対して中国大陸の基地から行われた。同月マリアナ諸島が陥落すると、東京をはじめ日本本土の大半が爆撃圏内に入り、1944年末頃から空襲は熾烈化した。但し、B-29の航続距離限界から北海道に対...
  • 第2次伊藤内閣
    ...plate 和暦?|8月31日|Template 和暦?|9月18日|藩閥内閣 |第3回衆議院議員総選挙第4回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月30日Template 和暦?6月2日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/05.html|前職 = 前枢密院議長}} 伊藤はTemplate 和暦?8月31日に首相を辞任し、同年9月18日に松方正義が組閣するまで、黒田清隆・枢密院議長が内閣総理大臣を臨時兼務した。 概要 前首相の松方正義が自らの閣僚にも見放されて内閣を放り出すという事態は、Template 和暦?8月2日に大命を受けた伊藤にも今後の政権運営に不安を抱かせた。そこで伊藤は主だった元勲の入閣を条件に組閣を行うことを表明、黒田清隆・山縣有朋の両首相経験者の入閣を得て組閣を終えた。このため、「元勲内閣」と称され...
  • 更新blog-6
    ...ウサンクサイケイ抄 8月30日 日々雑論 改めてもう一度東洋近代史を真面目に手持ちの書籍でつついてみます 日々雑論 一般法則論の方のブログが相当凄い 日々雑論 ウサンクサイケイ抄 8月22日 日々雑論 ウサンクサイケイ抄8月15日 ]日々雑論 いつもこの時期はうっとうしい事この上ないんだが… 日々雑論 世の中には暇な方が居るもんで 【出張】 戦争被害者と産経新聞 戦争を反省し戦争被害者を悼む心はどこに 日々雑論 出張 自慰史観は歴史壊す ウサンクサイケイ抄 8月11日 日々雑論 今までしなかったのが遅すぎるくらいなのだがこれで少しはすっきりするだろう。 日々雑論 なんかテレビ見ててすげえ腹たった事 30 item(s) Last-Modified 2100/01/01 02 36 42
  • 第二次上海事変
    ...937年(昭和12)8月13日から始まる中華民国軍の上海への攻撃とそれに続く日本軍の反撃である。 盧溝橋事件により始まった華北(北支)での散発的戦闘に続いて、これ以後華中(中支)において中国内陸部に侵攻し、中国全土に日中戦争が波及した。1932年(昭和7)1月28日に起きた上海事変に対してこう呼ぶ。 発生の背景 発生の背景には異見が色々あるので、主だった見解を2つ挙げる。見解1は、中華民国総統の蒋介石の意向を述べた日本軍上海引き付け作戦であり、見解2は、見解1を含む当時の状況を総括した見解である。 【見解1】 この戦闘の背景には、蒋介石の、万里の長城以南の中国に対する統一を守る(蒋介石は現時点では満州における領土回復は後回しと考えていた)ために、日本軍を華北から撤兵に追い込むという戦略があった。このとき既に日本は華北分離工作によって華北にその影響力を強めており、これは...
  • 武藤章
    ...mplate 和暦?8月 - 中尉に昇進。 Template 和暦?11月 - 陸軍大学校卒業(32期恩賜)。 Template 和暦?4月 - 陸軍士官学校附。 Template 和暦?7月 - 教育総監附勤務。 8月 - 大尉に昇進。 12月 - 教育総監課員。 Template 和暦?6月 - ドイツ駐在(~1926年4月)。 Template 和暦?8月 - 少佐に昇進。 Template 和暦?12月 - 陸軍大学校専攻学生(~1930年11月)。 Template 和暦?11月 - 参謀本部員(ドイツ班)。 Template 和暦?8月 - 参謀本部兵站班長。 Template 和暦?3月 - 参謀本部第4班長。 8月 - 中佐に昇進。 Template 和暦?11月 - ヨーロッパ出張(~1934年1月)。 T...
  • 第2次桂内閣
    ...plate 和暦?|8月30日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/13.html|陸軍大将・軍事参議官}} 概要 第2次桂内閣は、1908年(明治41年)7月12日に大命降下を受けた桂が、首相と大蔵大臣を兼務して発足する。戊申詔書による風紀引き締めと同時に社会主義運動を弾圧、大逆事件(幸徳事件)の摘発や南北朝正閏問題への介入、出版物の取締強化を行った。また、徹底した緊縮財政とともに地方改良運動を起こして地方の立て直しを図った。外交面では韓国併合を実現し、関税自主権の回復による条約改正の終了などが日本の国際的地位向上に尽くした。大逆事件に対する責任追及が上がると、立憲政友会との「情意投合」を宣言して、秘かに西園寺公望への再度の政権譲渡を約束した。 条約改正の終了を機に西園寺への政権譲渡を決断し、内閣総辞職し...
  • 大東亜省
    ...20年(1945年)8月26日に消滅した。 大東亜大臣一覧 辞令のある再任は代として数え、辞令のない留任は数えない。 臨時代理は空位の場合のみ記載し、海外出張等の一時不在代理は記載しない。 大東亜大臣(大東亜省) 1青木一男東條内閣1942年11月1日-1944年7月22日 大東亜大臣(大東亜省)・外務大臣 2重光葵小磯内閣1944年7月22日-1945年4月7日 3鈴木貫太郎鈴木内閣1945年4月7日-1945年4月9日 4東郷茂徳鈴木内閣1945年4月9日-1945年8月17日 5重光葵東久邇内閣1945年8月17日-1945年8月25日 設置当初の幹部人事 ※カッコ内は前職 大東亜次官:田尻愛義 顧問:安岡正篤 大臣官房文書課長:川本邦雄(拓務省官房課長) 大臣官房人事課長:山中徳二(拓務省官房課長) 大臣官房会計課長:...
  • 真崎甚三郎
    ...31年(1956年)8月31日)は、日本の軍人。陸軍大将。皇道派の中心人物。佐賀県出身。弟に海軍少将・衆議院議員の眞崎勝次。 来歴・人物 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)から1895年12月、士官候補生を経て、1896年9月、陸軍士官学校へ。陸士第9期卒後日露戦争に従軍。 陸軍大学校第19期卒業。荒木貞夫、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也が同期にいる。荒木が首席で卒業している。 久留米俘虜収容所長2006年公開の映画「バルトの楽園」で板東英二が演じた久留米俘虜収容所長は真崎がモデルとみられる。、陸軍大佐、軍務局軍事課長、近衛歩兵第1連隊長、陸軍少将、歩兵第1旅団長、陸軍士官学校本科長、教授部長兼幹事、陸軍士官学校長、陸軍中将、第8師団長、1929年7月1日からは第1師団長、台湾軍司令官、参謀次長兼軍事参議官を歴任。 陸軍士官学校校長時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、...
  • 純宗 (朝鮮王)
    ...0日 - 1910年8月29日 | 戴冠日 = 1907年7月20日 | 別号 = 隆煕皇帝昌徳宮李王 | 全名 = 李Template lang? | 出生日 = 1874年3月25日 | 生地 = | 死亡日 = Template 死亡年月日と没年齢? | 没地 = 朝鮮、京城府、昌徳宮 | 埋葬日 = 1926年6月10日 | 埋葬地 = 朝鮮、京畿道南楊州市金谷洞、裕陵 | 継承者 = 李垠 | 継承形式 = 皇太子王世子 | 配偶者1 = 純明孝皇后 | 配偶者2 = 純貞孝皇后 | 子女 = | 王家 = 全州李氏 | 王朝 = 李朝(朝鮮王朝) | 王室歌 =...
  • 日露修好通商条約
    ...通商条約。1858年8月(安政5年7月)に調印され、1859年8月(安政6年7月))批准された。日露修好通商条約では、領事裁判権に加えて最恵国条項が双務的となっている。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって総て無効になった。 関連項目 日露関係史 ロシアの歴史 条約 条約の一覧 日露和親条約 日米修好通商条約 日露間樺太島仮規則 樺太・千島交換条約 ポーツマス条約   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月13日 (木) 18 56。     
  • 南次郎
    ...治7年(1874年)8月10日 - 昭和30年(1955年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。 来歴 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。明治17年(1884年)7月、叔父・宮崎義一の下に単身上京、9月に鞆絵小学校(現・港区立御成門小)初級入学。その後成績良好のために鞆絵小高等科に進級した。明治21年(1888年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。翌・明治22年(1889年)9月、校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機にかねてからの陸士志望であったことから、児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した。明治23年(1890年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。明治25年(1892年)4月、陸士入校。明治28年(1895年)4月、陸士6期卒業。陸軍大学校17期出身。 生年月日がハーバート・フーヴァー(アメリカ合衆国・第31代大...
  • ポツダム宣言
    ...「米英支蘇」)ソ連は8月9日に対日参戦して宣言に参加したともいう。1945年8月10日、大日本帝国はこの宣言の受け入れを駐スイス大使館経由で連合国側へ申し出、またラジオトウキョウを通じてアナウンス。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で昭和天皇(元首であり大元帥また正式には大日本帝国陸海軍大将)の裁可を受けた政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎とが連合国への降伏文書に調印した。 経緯 ポツダム会談の途中で、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに原子爆弾開発実験の成功が密かに伝えられた。 会談に加わっていたソビエト連邦は、大日本帝国に対して中立の立場をとっていたため、宣言に加わらず、アメリカ合衆国、英国、中華民国の3カ国首脳の共同声明として発表された。英国代表として会談に出席していたウィンストン・チャーチル首相は、本国での総選挙敗北の...
  • 伏見宮博恭王
    ...21年(1946年)8月16日)は、日本の皇族、海軍軍人。伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将・大勲位・功一級。初め名を愛賢(なるかた)王といい、華頂宮相続に当り名を博恭と改めた。 日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う。また艦長や艦隊司令官を務める等、皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富であった。 生涯 華頂宮博厚親王薨去に際して、華頂宮の家督を継承し名を博恭と改める。当初実系である伏見宮の家督は弟宮の邦芳王(くにかおう)が継承するはずであったが、邦芳王が病弱との理由から伏見宮に復籍し貞愛親王の継嗣となった。 昭和6年末(1932年)、陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、昭和7年(1932年)2月、海軍もバランスをとる必要から、博恭王を海軍軍令最高位である軍令部長に就任させた。海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令...
  • 最高戦争指導会議
    ...ぎ)とは、1944年8月より小磯内閣により大本営政府連絡会議を改称して開催された会議。 構成員 首相 外務大臣 陸軍大臣 海軍大臣 参謀総長 軍令部総長 開催記録 設立までの経緯 旧憲法下においては、政府と軍部が独立して天皇に仕える形となっていた。両者を調整する期間として大本営政府連絡会議が1937年に近衛文麿によって設立されたが、統帥権の独立を主張する軍部はこの会議において政府から統帥に口出しすることを拒否してきた。 戦局が悪化する中で両者の緊密な協力が必要となり、小磯内閣は大本営連絡会議を改称する形でこの会議を設立した。 関連項目 統帥権 軍部大臣現役武官制 御前会議 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月17日 (日) 21 15 。     
  • 大本営発表
    ...続いていた1945年8月14日、第840回を数えた段階で、実質的に終わった。その後は大本営及帝国政府発表との名称で、第841回(8月21日午後1時)、第842回(8月21日午後5時)、第843回(8月22日午後3時30分)、第844回(8月23日午後5時30分)、第845回(8月24日午後5時30分)、第846回(8月26日午前11時)まで、計6回行われた。内容は日本陸海軍の行動でなく、アメリカを中心とする連合軍の日本占領にかかわる事項を伝えることに終始した。最後の発表(第846回)全文は以下のものであった。 本八月二十六日以降実施予定の連合国軍隊第一次進駐日程中連合国艦隊相模湾入港以外は夫々四十八時間延期せられたり 現代日本における「大本営発表」 転じて、今日でも情報を操作し、政府や有力な組織・団体や有名人を一方的に利するために、政府広報・白書、組織、団体、マスコミなど...
  • 薩英戦争
    ...7月2日(1863年8月15日) - 7月4日(8月17日))とは生麦事件の解決を迫るイギリスと薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における砲撃事件である。鹿児島では「まえんはまいっさ」(前之浜戦)と呼ばれる。薩英戦争の結果、薩摩藩は攘夷が実行不可能であることを理解しイギリスは幕府支持の方針を変更して薩摩藩に接近した。 生麦事件 文久2年8月21日(1862年9月14日) - 生麦事件発生。横浜郊外の生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士・奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷(死亡1名負傷2名)。 交渉 Template 正確性? 交渉までの経緯については、備考を参照のこと。 文久3年(1863年) 5月(5or6月) - イギリス公使代理のジョン・ニールは幕府から生麦事件の賠償金10万ポンドを受け取る。 6月22日(8月6日...
  • 李完用
    ...る。 1910年、8月13日に韓国統監寺内正毅から韓国併合決定を伝えられた場で、韓国の名称を残すように要望するが拒否される。 300px|right|thumb|[[大韓帝国皇帝純宗による全権委任状。1910年8月22日。]] 8月21日に韓国統監府承認のもと、韓国皇帝から全権委員に任命され、22日に韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)を調印し、この事から後に「庚戌国賊」に数えられるようになる。その後、大日本帝国の下で伯爵の爵位を与えられ、1920年には陞爵して侯爵となった(朝鮮貴族)。1926年には大勲位菊花大綬章を授与されている(李王家以外の朝鮮人では戦前唯一の授与)。 1926年、肺炎により死去(李在明に襲撃された際に片方の肺の機能を失っており、この事が原因とされている)。 韓国併合以後、民衆からは韓国植民地化の元凶の一人と見做され、憎悪を一身に受けた。そのため解放...
  • 松井石根
    ...に会長に就任)、同年8月には台湾亜細亜協会を設立した。また日本に留学した蒋介石とも親交があり、蒋が政治的に困難な際に時の日本の首相田中義一との会談を取り持ち事態を打開させたのも松井である。昭和9年(1934年)4月勲一等旭日大綬章。軍紀に厳しいことで知られ、昭和3年(1928年)に起きた張作霖爆殺事件では、首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した(この事から、若手の将校の間では、松井を頑固者扱いして、敬遠する声も多かったと言われている)。 日中戦争期 日中戦争勃発前は予備役であったが、第二次上海事変が勃発すると軍務に復帰、上海派遣軍司令官として上海に派遣された。参謀本部と政府は上海事件の不拡大を望んでいたが、松井は上海近辺に限定されていた権限を逸脱して、当時の首都南京を攻撃・占領した。その際に南京攻略戦前に当時の中国の首都であった“南京攻略要綱”を兵士に徹底してい...
  • 梅津美治郎
    ...mplate 和暦?8月10日 - 陸軍省軍務局軍事課長。 Template 和暦?8月1日 - 陸軍少将に昇進。歩兵第1旅団長。 Template 和暦?8月1日 - 参謀本部総務部長。 Template 和暦?11月1日 - 駐スイス公使館付武官。 Template 和暦?3月5日 - 支那駐屯軍司令官。 8月1日 - 陸軍中将に昇進。 Template 和暦?8月1日 - 第2師団長。 Template 和暦?3月23日 - 陸軍次官。 Template 和暦?5月30日 - 第1軍司令官。 Template 和暦?9月7日 - 関東軍司令官兼特命全権大使。 Template 和暦?8月1日 - 陸軍大将に昇進。 Template 和暦?10月1日 - 関東軍総司令官。 Template 和暦?7月18日 - 参謀総長。 Template 和暦?9月...
  • 近衛師団
    ...45年(昭和20年)8月10日未明にポツダム宣言受諾が決まり、それを天皇自ら国民にラジオ放送を通じて知らせることが決まった。8月15日未明に陸軍省軍務局軍務課課員らが森近衛師団長へ決起を促すが、あくまで昭和天皇の思し召しに従い終戦を受け入れる決意の固い森赳師団長はこれを拒絶する。拒否された将校らは、森師団長及び第2総軍参謀白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令を出して上番中の守衛隊を欺いて玉音盤を奪おうとするが、東部軍や近衛連隊長の同調を得られず失敗する。間もなく東部軍司令官田中静壱大将がこの反乱を知り、反乱将校を制止するとともに憲兵隊に逮捕を命じる(宮城事件)。のちにこの事件は半藤一利(初発表時は諸事情により名義上大宅壮一の名で出版)により『日本のいちばん長い日』として小説化され、映画化も行われた。 ポツダム宣言受諾後、近衛連隊でも軍旗奉焼、復員が行われた。一部の将兵は禁衛府皇宮衛...
  • 加藤友三郎
    ...12年(1923年)8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。第21代内閣総理大臣。元帥海軍大将・正二位・大勲位・功二級・子爵。同じく海軍大将であった加藤隆義は養子。 生涯 海軍軍歴と入閣 広島藩士、加藤七郎兵衛の三男として広島市大手町(現在の中区大手町)に生まれる。父・七郎兵衛は家禄13石の下級藩士だった。 明治17年(1884年)10月、海軍兵学校7期卒業。明治21年(1888年)11月、海大甲号学生。日清戦争に巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍、黄海海戦に大いに活躍した。日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。東郷平八郎司令長官と加藤参謀長は弾丸あめあられの中、戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、兵士の志気を鼓舞した。その後、海軍次官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を経て、大正4年(1915年)...
  • 護国同志会
    ...政治団体。1945年8月15日に解散した。会長は井野碩哉であるが、実際は岸信介を中心としていた。 概要 1945年、太平洋戦争の敗戦が濃厚になると一国一党を目指した東條英機や大麻唯男ら翼賛政治会の幹部たちは大日本政治会の結成に動きだした。しかし、岸信介らはこの動きには加わらず東条とは一線画す護国同志会を結成した。 岸の元に集まったメンバーは、政党解消以前に小会派に所属していた議員では赤城宗徳、小山亮、木村武雄、永山忠則、今井新造らが、翼賛選挙で初当選した議員では井野碩哉、橋本欣五郎、池田正之輔、中谷武世らが、立憲政友会に所属していた議員では船田中が(船田は1939年の政友会分裂後は政党解消まで政友会革新派所属)、社会大衆党に所属していた議員では杉山元治郎、三宅正一、川俣清音、三輪寿壮がおり、反東条のもとに様々な会派から集まったといえる。 内務省は政治団体としての承認を拒否...
  • 木村兵太郎
    ...19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。 ビルマからの撤退 Template see also? 昭和20年(1945年)、イギリス軍のビルマ侵攻が開始され、ビルマの防衛は危機に瀕していた。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、恐怖で手が震え、何も話すことができなくなるほど動揺し、作戦指導はほぼ不可能な状態に陥っていた。 4月13日、ラングーン北西部の防衛戦を指揮していた第28軍司令官桜井省三中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速でいつラングーンが戦場になるかもわからない。ラングーンが攻撃されてから方面軍司令官が移動しては逃げ出したことになり、作戦指導上困難が生ずる」として、「方面軍司令部を速やかにシヤン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と進言したが、木村はこれを却下した。同様に田中新一方面軍参謀長も「方面軍司令部は敢然としてラングーンに踏みとどまり、いまや各...
  • 阿部信行
    ...編入。 1939年8月30日に内閣総理大臣に就任した。参謀本部軍務課長・有末精三が内閣成立に暗躍したともいわれる。また同郷出身者で多くを構成する阿部内閣は「阿部一族」とも「石川内閣」とも呼ばれた。当初は外務大臣を兼任した。2日後の9月1日には第二次世界大戦が勃発した。しかし阿部内閣は、ドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとし、大戦への不介入方針を掲げた。陸軍の反対もあり、翌1940年1月15日に首相職を辞任、内閣総辞職した。 その後、1942年4月30日に実施された翼賛選挙を前に結成された翼賛政治体制協議会の会長に就任。5月20日に結成された翼賛政治会でも引き続き会長を務めた。1944年より朝鮮総督。その年、息子の信弘がイギリス艦隊に対する特攻で戦死している。戦後、A級戦犯容疑で逮捕されるが、極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷直前になって突如起訴予定者のリストから外された...
  • 交換船
    ...については1942年8月の1回、合計3回の交換船が運航されることになった。 運航概要 運航船舶の船籍 交換時において中立国への寄港が行われることから、戦時国際法に沿って「交換船として運航される全ての船舶はすべて民間籍であること」と定められた。 当時日本とイギリス、アメリカは総力戦の真っただ中であったため、各国において交換船として使用されるような大型船舶は殆ど全て戦時徴用されていたものの、交換船として運航されることが決まった船舶は一時的に戦時徴用を解かれ、名目上は日本郵船などの民間籍に戻され運航されることとなった。 なお、第一次及び第二次日米交換船においてアメリカ側では、中立国であるスウェーデンのスウィーディシュ・アメリカン・ライン社のグリップス・ホルム号を借り上げて使用した。 安全保障 なお、世界各国で激戦が繰り広げられていた最中に交換船が運航される...
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