chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「8月6日」で検索した結果

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  • 朝鮮軍 (日本軍)
    ...正6年(1917年)8月6日 松川敏胤中将:大正6年(1917年)8月6日 - 大正7年(1918年)6月1日 朝鮮軍司令官 松川敏胤中将:大正7年(1918年)6月1日 - 大正7年(1918年)7月24日 宇都宮太郎中将:大正7年(1918年)7月24日 - 大正9年(1920年)8月16日 大庭二郎中将:大正9年(1920年)8月16日 - 大正11年(1922年)11月24日 菊池慎之助中将:大正11年(1922年)11月24日 - 大正13年(1924年)8月20日 鈴木荘六中将:大正13年(1924年)8月20日 - 大正15年(1926年)3月2日 森岡守成大将:大正15年(1926年)3月2日 - 昭和2年(1927年)3月5日 金谷範三中将:昭和2年(1927年)3月5日 - 昭和4年(1929年)8月1日 南次郎中将:昭和4年(1929年)...
  • 支那駐屯軍
    ...12年(1923年)8月6日 吉岡顕作 少将 大正12年(1923年)8月6日 - 大正14年(1925年)5月1日 小泉六一 中将 大正14年(1925年)5月1日 - 大正15年(1926年)3月2日 高田豊樹 中将 大正15年(1926年)3月2日 - 昭和2年(1927年)7月26日 新井亀太郎 中将 昭和2年(1927年)7月26日 - 昭和4年(1929年)3月16日 植田謙吉 中将 昭和4年(1929年)3月16日 - 昭和5年(1930年)12月22日 香椎浩平 少将 昭和5年(1930年)12月22日 - 昭和7年(1932年)2月29日 中村孝太郎 少将 昭和7年(1932年)2月29日 - 昭和9年(1934年)3月5日 梅津美治郎 少将 昭和9年(1934年)3月5日 - 昭和10年(1935年)8月1日 多田駿 少将 昭和10年(1935年...
  • 太平洋戦争の年表
    ...英米首脳会談。 8月6日 ベラ湾夜戦 9月 イタリア、連合国に降伏。 9月10日 鳥取地震が発生。鳥取市が壊滅し1083名(1100名以上とも)が死亡。情報統制の中、国内外から支援。 9月17日 連合軍、ラエを占領。 9月30日 御前会議で絶対国防圏構想を決定。 10月 日本軍、フィリピン独立を許可。 10月6日 ベララベラ海戦 10月21日 東京・明治神宮外苑にて出陣学徒壮行式開催(学徒出陣のはじまり)。 10月24日 スバス・チャンドラ・ボースがシンガポールで自由インド仮政府の成立を宣言。 10月26日 自由インド、英米に宣戦布告。 11月 東京で大東亜会議を開催、大東亜共同宣言を発表。 11月1日 ブーゲンビル島沖海戦 11月21日 米軍、マキン島・タラワ島上陸(11月23日 日本軍玉砕)。 11月22日~26日 エジプト...
  • 東部軍管区 (日本軍)
    ...45年6月1日 - 8月6日 小沼治夫 少将:1945年8月5日 - 11月1日(兼第12方面軍参謀副長) 小野打寛 少将:1945年9月10日 - 関連項目 東部軍管区教育隊 近衛師団 第1師団 第1総軍 東京湾要塞 外部リンク 中野文庫:関東戒厳司令部条例(大正12年勅令第400号) 中野文庫:東京警備司令部令(大正12年勅令第480号) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月10日 (月) 14 40。     
  • 近衛師団
    ...; 15大正6年8月6日由比光衛  16大正7年8月9日久邇宮邦彦王  17大正8年11月25日藤井幸槌  18大正11年2月8日中島正武  19大正12年8月6日森岡守成  20大正14年5月1日田中国重  21大正15年7月28日津野一輔  22昭和3年2月28日長谷川直敏  23昭和4年8月1日林銑十郎  24昭和5年12月22日岡本連一郎  25昭和7年2月29日鎌田弥彦  26昭和8年8月1日朝香宮鳩彦王  27昭和10年12月2日橋本虎之助二・二六事件では宮城警備を指揮する。 28昭和11年3月23日香月清司  29昭和12年3月1日西尾寿造  30昭和12年8月26日飯...
  • 南次郎
    ...917年(大正6年)8月6日 - 陸軍省軍務局騎兵課長。 1919年(大正8年)7月25日 - 少将に昇進。支那駐屯軍司令官。 1921年(大正10年)1月20日 - 騎兵第3旅団長。 1923年(大正12年)10月10日 - 陸軍士官学校校長。 1924年(大正13年)2月4日 - 中将に昇進。 1926年(大正15年)3月2日 - 第16師団長。 1927年(昭和2年)3月5日 - 参謀次長。 1929年(昭和4年)8月1日 - 朝鮮軍司令官。 1930年(昭和5年)3月7日 - 大将に昇進。 12月22日 - 軍事参議官。 1931年(昭和6年)4月14日 - 第22代陸軍大臣。 1934年(昭和9年)12月10日 - 関東軍司令官兼駐満州国大使。 1936年(昭和11年)4月22日 - 予備役編入。 8月5日 - 第8代朝鮮総督。 1942年(...
  • 第1次松方内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ まつかた ないかく|4|松方正義|Template 和暦?|5月6日|Template 和暦?|8月8日|藩閥内閣|第2回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/04.html|前職 = 大蔵大臣}} 概要 山縣有朋(第1次山縣内閣)の後継総理として伊藤博文や西郷従道、山田顕義などの名前も挙げられたが、5月2日に松方正義に組閣の大命が下った。松方は、組閣にあたって前任者たちの全面協力無くしては引き受けられないと述べて全閣僚の留任を唱えて、総理就任の条件とした。そこで前内閣の閣僚が当面留任することになった。このため、民党からは「黒幕内閣」「二流内閣」と揶揄された。だが直後から辞意を表明する閣僚が続出し、更に大津事件が発生して責任を負って外務大臣や内務大臣...
  • 軍需省
    軍需省(ぐんじゅしょう)は太平洋戦争期に設置された日本の行政機関の一つ。戦時の軍需産業強化の必要性のため、1943年11月1日、商工省の大半と企画院とを統合して設置(軍需省官制(昭和18年勅令第824号)による)された省。軍需大臣(ぐんじゅだいじん)を長として、軍需次官以下、内部部局の大臣官房、総動員局と八つの局、および外局、さらに地方支分部局によって構成され、軍需関連会社を所管した。 軍部と密接に関わる行政だったことから陸海軍人が要職に就く例が多かった。1945年2月、戦局の更なる悪化、本土への空襲の本格化に対応して軍需工場の疎開を円滑に行う為、省内に臨時生産防衛対策中央本部が設置された。同本部の総裁は軍需大臣、事務総長は総動員局長、事務次長は総動員局第2部長がそれぞれ就いた。戦後の進駐軍上陸を目前としていた1945年8月26日、椎名悦三郎次官らの指導によって商工省に復帰した。 ...
  • 真崎甚三郎
    ...23年(大正12年)8月6日 - 陸軍士官学校本科長。 1924年(大正13年)3月 - 欧米出張(~9月)。 1925年(大正14年)5月1日 - 陸軍士官学校幹事兼教授部長。 1926年(大正15年)3月2日 - 陸軍士官学校校長。 1927年(昭和2年)3月5日 - 中将に昇進。 8月26日 - 第8師団長。 1929年(昭和4年)7月1日 - 第1師団長。 1931年(昭和6年)8月1日 - 台湾軍司令官。 1932年(昭和7年)1月9日 - 参謀次長。 1933年(昭和8年)6月19日 - 大将に昇進。軍事参議官。 1934年(昭和9年)1月23日 - 教育総監(軍事参議官との兼任)。 1936年(昭和11年)3月10日 - 予備役編入。 脚注 _           出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』...
  • 関東軍
    ...月11日~大正12年8月6日) 川田明治少将(陸士10期:大正12年8月6日~大正14年12月2日) 斎藤恒少将(陸士10期:大正14年12月2日~昭和3年8月10日) 三宅光治少将(陸士13期:昭和3年8月10日~昭和7年4月11日) 橋本虎之助少将(陸士14期 昭和7年4月11日~昭和7年8月8日) 小磯国昭中将(陸士12期 昭和7年8月8日~昭和9年3月5日) 西尾寿造中将(陸士14期 昭和9年3月5日~昭和11年3月23日) 板垣征四郎少将(陸士16期 昭和11年3月23日~昭和12年3月1日) 東條英機中将(陸士17期 昭和12年3月1日~昭和13年5月30日) 磯谷廉介中将(陸士16期 昭和13年6月18日~昭和14年9月7日) 飯村穣中将(陸士21期 昭和14年9月7日~昭和15年10月22日) 木村兵太郎中将(陸士20期 昭...
  • 南方軍_(日本軍)
    Template 軍隊資料? 南方軍(なんぽうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。 沿革 Template 日本陸軍? 大陸令第555号に基づき昭和16年11月に編制された。ビルマ、タイ、南洋方面などの南方を作戦地域とし、防衛・軍政の任に当った。 南方軍概要 通称号:威集団 編制時期:昭和16年11月6日 総司令官 寺内寿一:陸士11期、昭和16年11月6日~ 総参謀長 昭和17年8月1日から軍政総監を兼勤 氏名陸士就任塚田攻19期昭和16年11月6日黒田重徳21期昭和17年7月1日清水規矩23期昭和18年5月19日飯村穣21期昭和19年3月22日沼田多稼蔵24期昭和19年12月26日 総参謀副長 氏名陸士就任辞任青木重誠25期昭和16年11月13日昭和17年8月17日阪口芳太郎25期昭和16年11月13日昭和17年6月1日高橋坦2...
  • 張鼓峰事件
    ...れを撃退したところ、8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始した。その北方の沙草峰でもソ連軍が攻勢を仕掛け、両高地をめぐって激しい争奪戦が展開された。ソ連軍がこの時期に大攻勢に出た背景は色々と取り沙汰されてはいるが、はっきりした結論は得られていない。以下に戦闘の経緯を詳述する。 7月12日、ソ連軍は張鼓峰に侵入、占領し、峰一帯に陣地を構築し、13日、これを監視中の松島伍長を不法に殺害した。日本政府は15日、西代理大使を通してソ連政府に至急撤兵を要求し、満洲国も14日に同様の抗議をおこなった。しかしソ連側は、現地はソ連領であるとして譲らず、外交交渉は物別れに終わった。現地では、18日、軍使をもって、煙秋警備司令官に撤兵を要求したが、なんら回答はなかった。ソ連軍は29日、峰北方の沙草峰にも越境し、陣地を構築しようとして日本守備隊に撃退された。30日夜半から31日にかけ...
  • 第2次山本内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ やまもと ないかく|22|山本権兵衛|Template 和暦?|9月2日|Template 和暦?|1月7日||なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/22.html|退役海軍大将}} Template 和暦?8月24日の加藤友三郎首相の急逝、同年9月1日の関東大震災発生という混乱状態のさなかで組閣された。Template 和暦?12月27日に発生した虎ノ門事件の影響で総辞職した。 大臣と次官に錦城学校(現・錦城高等学校)の出身者が5名(伊集院彦吉外相、井上準之助蔵相、山之内一次鉄道相、小松謙次郎逓信次官、財部彪海相)いたため、錦城内閣とも称された同校公式サイトの学校紹介のページより。ただし、小松謙次郎が「逓信大臣」と誤記されている。。 閣僚 内閣総理大臣 山本権兵衛 外務大臣 山本権兵衛...
  • 小磯國昭
    ...陸軍大学校教官。 8月6日 - 歩兵第51連隊長。 1925年(大正14年)5月1日 - 参謀本部編制動員課長。 1926年(大正15年)12月1日 - 少将に昇進。 1927年(昭和2年)7月26日 - 航空本部総務部長。 1929年(昭和4年)8月1日 - 陸軍省整備局長。 1930年(昭和5年)8月1日 - 陸軍省軍務局長。 1931年(昭和6年)8月1日 - 中将に昇進。 1932年(昭和7年)2月29日 - 陸軍次官。 8月8日 - 関東軍参謀長兼特務部長。 1934年(昭和9年)3月5日 - 第5師団長。 1935年(昭和10年)12月2日 - 朝鮮軍司令官。 1937年(昭和12年)7月21日 - 大将に昇進。 1938年(昭和13年)7月29日 - 予備役編入。 1939年(昭和14年)4月7日 - 第15代拓務大臣(~8月30日)。 ...
  • 第1次山縣内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ やまがた ないかく|3|山縣有朋|Template 和暦?|12月24日|Template 和暦?|5月6日|藩閥内閣|第1回衆議院議員総選挙|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/03.html|前職 = 陸軍中将・監軍}} Template 和暦?11月29日に大日本帝国憲法が施行されたため、この内閣の在任時に日本で議会制度(帝国議会)が開始された。 概要 条約改正交渉に失敗して倒れた黒田内閣の後を受けて成立した。内閣職権を廃して内閣官制を導入、「大宰相主義」を否定して内閣総理大臣を「同輩中の首席」と位置づけた。教育勅語の発布、第1回衆議院議員総選挙の実施(Template 和暦?7月1日)、府県制・郡制の導入などを行った。 1890年(明治23年)11月25日に召集された第1議会において、...
  • 教育総監
    教育総監(きょういくそうかん)は、日本陸軍の教育を掌る役職で、その事務は教育総監部が行った。 概要 教育総監及び総監部は、明治20年5月31日に監軍部条例(明治20年勅令第18号)によって設置された監軍(事務は監軍部)が前身で、1898年(明治31年)1月20日に教育総監部条例(明治31年勅令第7号)により設置された、陸軍における教育統轄機関であり、所轄学校や陸軍将校の試験、全部隊の教育を掌った。ただし、航空に関しては航空総監部が教育の大半を行い、参謀の養成は参謀本部が管掌した。 総監は陸軍中将以上をもって補職した。陸軍大臣・参謀総長と総称して陸軍三長官と呼ばれた。 教育総監の発言は重視され、渡辺錠太郎大将は、天皇機関説に理解を示す発言をしたこと、及び皇道派将校の信奉する真崎甚三郎大将の後任として教育総監に就任したことから、皇道派による襲撃の対象となり、渡辺総監は在職中に二・二六事...
  • 鈴木貫太郎内閣
    ...いた。 しかし、翌8月6日に広島、同月9日には長崎に原子爆弾が投下されて壊滅的な被害を受け、同じ9日にはソ連軍が満州国に侵攻する(ソ連対日参戦)など、和平工作の失敗が明白となった。この8月9日深更から開かれた最高戦争指導会議および閣議の御前会議は、ポツダム宣言を受諾して降伏するか、あくまでも本土決戦を期して戦争を遂行するかで議論は紛糾した。鈴木首相は昭和天皇の聖断を仰ぎ、「国体護持」を条件として、ポツダム宣言受諾に意見統一した。翌8月10日、内閣は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると付言して、連合国側に申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明...
  • 阿部信行
    ...23年(大正12年)8月6日 - 参謀本部総務部長。 9月3日 - 兼関東戒厳参謀長(~11月)。 1926年(大正15年)7月28日 - 陸軍省軍務局長。 1927年(昭和2年)3月5日 - 中将に昇進。 1928年(昭和3年)8月10日 - 陸軍次官。 1930年(昭和5年)12月22日 - 第4師団長。 1932年(昭和7年)1月9日 - 台湾軍司令官。 1933年(昭和8年)6月19日 - 大将に昇進。 8月1日 - 軍事参議官。 1936年(昭和11年)3月10日 - 予備役編入。 1939年(昭和14年)8月30日 - 第36代内閣総理大臣。 1940年(昭和15年)1月15日 - 内閣総辞職。 4月1日 - 駐華特命全権大使(~12月7日)。 1942年(昭和17年)5月20日 - 翼賛政治会会長。 5月28日 - 貴族院議員。 1...
  • ポツダム宣言
    ...削除されていた。 8月6日に広島市への原子爆弾投下が、3日後の8月9日には長崎市への原子爆弾投下がなされ、同日(一方でヤルタ協定中の秘密条項で「ドイツ降伏の日の2ヶ月または3ヶ月後を経」た参戦を約束しながら)日ソ中立条約を結んでいたソ連対日参戦により満州国へ侵攻が起こった(ソ連は条約の不延長・破棄を直前に通告して来ていたが、条約の有効期間は破棄後一年であり、明確かつ一方的に中立条約を反故にした上での侵攻)。ソ連の満州国侵攻に衝撃を受けた日本の戦争指導者たちは、8月9日の御前会議で「国体の護持」を条件に受諾を決定し、8月10日に連合国に打電した。翌11日アメリカ合衆国は「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」とし、また「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属する(subject to)...
  • 板垣征四郎
    ...917年(大正6年)8月6日 - 参謀本部附仰附(昆明駐在)。 1919年(大正8年)4月 - 中支那派遣隊司令部附。 7月 - 中支那派遣隊参謀。 1920年(大正9年)4月 - 少佐に昇進。 1921年(大正10年)4月 - 歩兵第47連隊大隊長。 1922年(大正11年)4月 - 参謀本部員(支那課)。 1923年(大正12年)8月 - 中佐に昇進。 1924年(大正13年)6月 - 支那公使館附武官補佐官(北平駐在)。 1927年(昭和2年)5月28日 - 歩兵第33旅団参謀。 7月 - 第10師団司令部附。 9月 - 支那出張。 1928年(昭和3年)3月8日 - 大佐に昇進。歩兵第33連隊長。 1929年(昭和4年)5月14日 - 関東軍高級参謀。 1931年(昭和6年)10月5日 - 関東軍第2課長。 1932年(昭和7年)8月8日 - ...
  • 十五年戦争
    ...ポツダム宣言。 8月6日 - 広島市へアメリカが原子爆弾を使用。 8月8日 - ソ連、ヤルタ協定に基づき日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦布告、日本保護領満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻。 8月9日 - 長崎市へアメリカが原子爆弾を使用。 9月2日 - 日本、降伏文書に調印、太平洋戦争終結。 9月下旬 - 中国大陸の日本軍全面降伏、日中戦争終結。 1937年から1945年までは日中戦争も参照 1941年から1945年までは太平洋戦争の年表も参照 日中摩擦 日中戦争(支那事変、日華事変)が起こるまでに、日中摩擦が起こっている。 第一次世界大戦後、日本は『21か条の要求』を中国につきつけ、侵略の意図をあらわにした。それに対し中国人は反発し五四運動、前後して日貨排斥運動が起こった。1928年、日本は北伐から山東省権益を守るべく山東出兵を行い、...
  • 日本本土空襲
    ...者1323人。 8月6日 広島原爆 8月7日 豊川海軍工廠空襲 死者2477人。 8月8日 福山大空襲 B29・91機。死者354人、負傷者864人、焼失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(福山市民82%が被災)。同年6月にはグラマンF6F艦上戦闘機によって福山海軍航空隊への機銃掃射が行われていた。 8月9日 長崎原爆 8月9日 大湊空襲。死者129名、負傷者300名以上。敷設艦常磐などが大破。 8月9日 釜石艦砲射撃。2回目。少なくとも死者301人。爆音は秋田市まで響いたという。 8月10日 花巻空襲、熊本空襲 8月11日 久留米空襲 死者212人。焼失家屋4506戸。 8月13日 長野空襲 長野市、上田市に艦載機による空襲。 8月14日 熊谷空襲 B29・82機。死傷者687人。 8月14日 岩国大空襲 この空襲の帰りに光に...
  • 内閣総理大臣の一覧
    内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 18...
  • 内大臣府
    内大臣府(ないだいじんふ)は、大日本帝国(日本)において、宮中にあって天皇を補佐し、宮廷の文書事務などを所管した政府機関である。1885年創設、1945年廃止。長は内大臣(ないだいじん)。 概要 明治政府が1885年に太政官制を改め内閣制度を発足させた折に、内閣を構成し政務を司る内閣総理大臣はじめ国務大臣と分離し、閣外の宮中職としての内大臣の官職を復活させ、その職掌を司る庁として創設された。 明治政府下における内大臣は常に天皇の側にあって補佐する宮中の官職であり、御璽・国璽を保管し、詔勅・勅書その他の宮廷の文書に関する事務などを所管した。また、人民より天皇に奉呈する請願を取り継ぎ、天皇の意向に従って、これを処理するなど側近としての重要な役割を果たした。内大臣の職務・権限・助言できる範囲は、憲法学者ですら明確に定義することができないほど、非常に曖昧かつ抽象的なもので、全ては就任した...
  • 台湾総督府
    thumb|250px|石川欽一郎作・台湾総督府([[1916年)]] 台湾総督府(たいわんそうとくふ、旧字体:臺灣總督府)は、清国から日本へ割譲され、日本領となった台湾を統治するために設置された当時の日本の官庁名である。 台北市に設置された台湾総督府本庁舎は、現在も中華民国の総統府として使用されている。また昨今の国際情勢の影響により、近隣にはミサイルを多数配備し、憲兵が小銃を装備し護衛にあたっている。 概略 1895年の下関条約の締結から1945年の日本の敗戦まで台湾を支配・統治した。台湾総督は台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持ったため「土皇帝」と呼ばれた程である(後に軍事権が台湾軍司令官に移譲されたことにより、文官の総督就任が可能になる)。但し台湾総督は内閣総理大臣、内務大臣、拓務大臣の指揮監督を受けることになっており、天皇直属の朝...
  • 1918年米騒動
    ...るよう嘆願した。 8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。 この件は地方新聞を通じ、全国の新聞に「越中女一揆」として報道された。米騒動の始まりであった。 騒動の広がり thumb|240px|8月11日に[[神戸市|神戸で起きた騒動によって焼き払われた鈴木商店本社]] 米価の暴騰はとどまりを見せず、1918年8月1日には1石35円を超え、同5日には40円を超え、9日には50円を超えた。8月10日には京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。米騒動は移出の取りやめ、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する...
  • 薩英戦争
    ...。 6月22日(8月6日) - ジョン・ニールは薩摩藩との直接交渉のため、7隻の艦隊(旗艦ユーライアラス(艦長J・ジョスリング大佐)、コルベット「パール」(艦長J・ボーレイス大佐)、同「パシューズ」(艦長A・キングストン少佐)、同「アーガス」(艦長L・ムーア少佐)、砲艦「レースホース」(艦長C・ボクサー少佐)、同「コケット」(艦長J・アレキサンダー少佐)、同「ハボック」(艦長G・プール大尉)、指揮官:イギリス東インド艦隊司令長官オーガスト・クーパー中将)と共に横浜を出港。 6月27日(8月11日) 鹿児島湾(錦江湾)沖に到着。生麦事件犯人の逮捕と処罰、および生麦事件の遺族への賠償金2万5000ポンドを要求。しかし、薩摩藩は拒否。処罰の対象を、犯人ではなく藩主だと勘違いしたためという説がある(要求文翻訳を担当した福沢諭吉が急いでいたために、原文を直訳してしまい事件の責任者と...
  • 第1次山本内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ やまもと ないかく|16|山本権兵衛|Template 和暦?|2月20日|Template 和暦?|4月16日|立憲政友会|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/16.html|海軍大将}} 概要 第一次護憲運動によって第3次桂内閣が倒れたのに伴い発足した。山本権兵衛は薩摩藩出身ではあったものの内実は政党内閣に近いものであり、これ以後日本の政治は藩閥政治から政党政治へと移ってゆく。 シーメンス事件の影響により総辞職。 閣僚 内閣総理大臣 山本権兵衛 外務大臣 牧野伸顕 内務大臣 原敬 大蔵大臣 高橋是清 陸軍大臣  木越安綱(1913年(大正2年)2月20日 - 同年6月24日) 楠瀬幸彦(1913年(大正2年)6月24日 - 1914年(大正3年)4月16日) 海軍大臣...
  • 第2次大隈内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ おおくま ないかく|17|大隈重信|Template 和暦?|4月16日|Template 和暦?|10月9日|立憲同志会、中正会、大隈伯後援会|第12回衆議院議員総選挙|1914年(大正3年)12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/17.html|早稲田大学総長}} 概要 第1次山本内閣崩壊後、徳川家達・清浦奎吾に大命降下されるがいずれも組閣に失敗(鰻香内閣を参照)、元老会議はやむなく1907年(明治40年)の憲政本党の内紛を機に政界を引退していた大隈重信を後継に奏請した。Template 和暦?4月13日に大命降下を受けた大隈は旧憲政本党以来の議員が所属していた立憲同志会・中正会から閣僚を入れて組閣を行った。立憲同志会の指導者で大隈と密接な三菱財閥と血縁関係にある加藤高明が外務大臣として大隈を...
  • 大審院
    大審院(たいしんいん、だいしんいん)とは、明治時代初期から現在の最高裁判所が設置されるまで存続した日本における最高の司法裁判所である。 概要 フランスの破棄院をモデルとして設置され、主として民事・刑事の終審として、特別裁判所(大日本帝国憲法60条。皇室裁判所・軍法会議など。)及び行政裁判所(同憲法61条)の管轄に属しない事項について、裁判を行った。現在の最高裁判所に相当し、大審院長は最高裁判所長官に相当する。 大審院は、終審として上告及び控訴院等がした決定・命令に関する抗告を受け、また、第一審かつ終審として刑法の皇室に対する罪(不敬罪など。昭和22年削除。)、内乱に関する罪、皇族の犯した罪にして禁錮以上の刑に処すべきものの予審及び裁判を行うものとされた(裁判所構成法50条)。 大審院の重要な判例は、1921年(大正10年)までのものについては『大審院判決録』(民録・刑録)に、1...
  • 齋藤内閣
    {{日本の内閣記事|さいとう ないかく|30|齋藤實|Template 和暦?|5月26日|Template 和暦?|7月8日|挙国一致内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/30.html|前朝鮮総督・枢密顧問官}} 概要 五・一五事件によって総裁の犬養毅が暗殺された立憲政友会は、後継総裁として1932年(昭和7年)5月17日に鈴木喜三郎を総裁に選出した。これは、元老西園寺公望がテロ後の首班を同じ政党の党首に推薦してきた慣例を考え、大命降下を待ったものであった。しかし、陸軍が政党内閣を拒否したため、調整の結果、西園寺は齋藤實を推薦することになった。 Template 和暦?9月、満州国の独立を承認し、日満議定書を締結する。Template 和暦?3月、国際連盟を脱退。 閣僚 内閣総理大臣 齋藤實(1932年...
  • 新聞紙条例
    Template 日本の法令? 新聞紙条例(しんぶんしじょうれい)は明治時代の日本における、新聞を取り締まるための条例のこと。 反政府的言論活動を封ずることを目的として制定された。 沿革 明治8年(1875年) 従前の新聞紙発行条目(明治6年10月19日太政官第352号(布))を実質的に改正するかたちで成立した。 明治42年(1909年) 新聞紙法(明治42年5月6日法律第41号)の成立により失効。 概要 自由民権運動の高揚するなか、新聞・雑誌による反政府的言論活動を封ずるため制定した。 新聞紙発行条目を全面改定し、適用範囲を新聞以外の雑誌・雑報にまで広げたものであった。 以下主な内容を示す。 発行を許可制とした。 違反の罰金・懲役を明確に定めた。 社主、編集者、印刷者の権限・責任を個別に明示し、違反時の罰則を定めた。 同時発布の讒謗律との関係...
  • 憲兵 (日本軍)
    ...一 少将(1923年8月6日 -) 柴山重一 少将(1923年9月20日 -) 荒木貞夫 少将(1924年1月9日 -) 松井兵三郎 中将(1925年5月1日 -) 峯幸松 少将(1927年3月5日 -) 外山豊造 中将(1931年8月1日 -) 秦真次 中将(1932年2月29日 -) 田代皖一郎 中将(1934年8月1日 -) 岩佐禄郎 中将(1935年9月21日 -) 中島今朝吾 中将(1936年3月23日 -) 藤江恵輔 少将(1937年8月2日 -) 田中静壱 中将(1938年8月2日 -) 平林盛人 少将(1939年8月2日 -) 豊島房太郎 中将(1940年8月1日 -) 田中静壱 中将(1940年9月28日 -) 再任 中村明人 中将(1941年10月15日 -) 加藤泊治郎 少将(1943年1月4日 -) 大木繁 中将(1943年8...
  • 昭和-2
    ...(20年):広島市(8月6日)長崎市(8月9日)に原子爆弾投下 1945年(20年):ソ連が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告(8月9日)、千島・樺太に侵攻 昭和中期 1945年(20年):ポツダム宣言受諾、8月15日 玉音放送。終戦。(終戦記念日) 1946年(21年):1月1日 天皇の人間宣言。11月3日、日本国憲法公布 1947年(22年):5月3日 日本国憲法施行、地方自治法成立 1948年(23年):4月3日 朝鮮の済州島で大量虐殺(済州島四・三事件)が発生。島民が日本に多数流入。6月28日、福井地震発生 1949年(24年):ドッジ・ライン実施 1950年(25年):朝鮮戦争が発生。日本は朝鮮特需により経済復興が加速 1951年(26年):サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約調印 1952年(27年):日米行政協定 1953年(28年):テレ...
  • 帝国国策遂行要領
    帝国国策遂行要領(ていこくこくさくすいこうようりょう) は、昭和16年(1941年)9月6日第3次近衛内閣時に御前会議において決定された国策。また、同11月5日東條英機内閣時に御前会議において再決定された国策(甲案乙案含む)もいう。 経緯 昭和16年(1941年)8月のアメリカ対日石油輸出全面禁止を受け、アメリカ・イギリスに対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アメリカ・オランダ・イギリスに対する開戦方針が定められた。 しかし、9月6日の御前会議において、昭和天皇は開戦に反対しこの決定を拒否、あくまで外交により解決を図るよう命じた。その際、以下の明治天皇の御歌が引用されている。 Template cquote? 一般的にこの歌は軍部も政府に協力して外交に努力せよという意味だと解されているTemplate 要出典?。 ...
  • 河本大作
    Template Infobox 軍人? 河本 大作(こうもと だいさく、1883年1月24日 - 1953年8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の実行犯として知られる。 出自 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現佐用町)に生まれた。高等小学校、陸軍大阪地方幼年学校、中央幼年学校を経て、明治36年.11に陸軍士官学校(15期)を卒業し、大正3年に陸軍大学校(26期)を卒業した。 張作霖爆殺事件 関東軍高級参謀として勤務していた昭和3年6月4日、北京から満州に帰還する途上にあった張作霖を奉天近郊の南満州鉄道線路上で爆殺した(当時は満州某重大事件と報道された)。当初日本の新聞では蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の仕業であるとも報道されていたが、その後の調査で河本が計画立案をし、現場警備を担当していた独立守備隊の東宮鉄男大尉...
  • 甲州勝沼の戦い
    Template Battlebox? 甲州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい、慶応4年3月6日(1868年3月29日))は、戊辰戦争における戦闘の一つである。柏尾の戦い、勝沼・柏尾の戦い、甲州戦争、甲州柏尾戦争とも呼ばれる。 概要 新選組は会津藩指揮下で京都市街の治安維持などに従事していたが、慶応4年1月、旧幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦い、淀千両松の戦いで新政府軍と戦って敗れ、江戸へ移った。新政府軍は東海道・東山道・北陸道に別れ、江戸へ向けて進軍した。 新選組局長の近藤勇は、抗戦派と恭順派が対立する江戸城において勝海舟と会い、天領である甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう出陣を命じられた(一説には、江戸開城を控えた勝海舟が、暴発の恐れのある近藤らを江戸から遠ざけたとも言われる)。新選組は甲陽鎮撫隊と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は内藤隼人と変...
  • 第2次近衛内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ このえ ないかく|38|近衛文麿|Template 和暦?|7月22日|Template 和暦?|7月18日|大政翼賛会など。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/38.html|公爵貴族院議員・元首相|画像= |画像説明=第2次近衛内閣の閣僚。近衛文麿首相と国務大臣ら。}} 概要 第2次近衛内閣は、米内内閣のあとを受けて、新体制運動の主導者であった元首相・貴族院議員の近衛文麿が組閣した内閣である。組閣直後の1940年(昭和15年)7月26日、「大東亜新秩序建設」(大東亜共栄圏)を国是とし、国防国家の完成を目指すことなどを決めた「基本国策要綱」を閣議決定する。同年9月27日には日独伊三国軍事同盟を締結し、同年10月12日に新体制運動の指導的組織となる大政翼賛会を結成。翌1941年(昭和16年)...
  • 斎藤実
    Template 日本の内閣総理大臣? 齋藤 実(さいとう まこと、正字体:齋藤 實、安政5年10月27日(1858年12月2日) - 昭和11年(1936年)2月26日)は日本の海軍軍人で政治家。 第30代内閣総理大臣(在任1932年 - 1934年)。官位は海軍大将従一位大勲位子爵。ボーイスカウト日本連盟第2代総長。 略歴 ※日付は生年のみ旧暦 安政5年(1858年10月27日 - 水沢藩士・齋藤耕平の子として陸奥国水沢(現:岩手県奥州市)に生まれる。 明治6年(1873年)10月27日 - 海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学。 明治12年(1879年)4月20日 - 海軍兵学校卒業(6期)。 明治15年(1882年)9月8日 - 海軍少尉に任官。 明治17年(1884年) 2月25...
  • 戦史叢書
    『戦史叢書』(せんしそうしょ)とは防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)によって1966年(昭和41年)から1980年(昭和55年)にかけて編纂され、朝雲新聞社(あさぐもしんぶんしゃ)より刊行された公刊戦史である。 概要 陸軍68巻、海軍33巻、共通年表1巻、全102巻から構成され、別に図・表類が付属する。一時期、『大東亜戦争叢書』『太平洋戦史叢書』とも呼ばれたが、その後単に『戦史叢書』と表記され、一般では『公刊戦史』と呼ばれる。 記述の元となったのは、戦中に占領軍の接収から秘匿されて残された大本営内部の文書(大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』など)と、引き揚げてきた部隊の関係者が執筆を求められて執筆した準公式の報告書、及び、自発的に執筆された私的な回想録が主である。 刊行された年代が古いため、現在から見ると若干の誤りも指摘されているが(特に対ソ関係やノモ...
  • 青木周蔵
    {{政治家 |各国語表記 = あおき しゅうぞう |画像 = Aoki Shuzo.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1844年3月3日(天保15年1月15日) |出生地 = 萩藩厚狭郡生田村 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = |出身校 = 明倫館出身 |前職 = 外務省次官 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = 勲一等旭日桐花大綬章子爵 |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = JPN |職名 = 第15代外務大臣 |内閣 = 第2次山縣内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1898年11月8日 |退任日 = 1900年10月19日...
  • 大東亜共同宣言
    大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亜宣言とも。本来の表記は大東亞共同宣言)は1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議にて採択された共同宣言。 宣言全文 大東亞共同宣言 抑〻世界各國ガ各〻其ノ所ヲ得、相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ。然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家、他民族ヲ抑壓シ、特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ、大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞シウシ、遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ。大東亞戰爭ノ原因ココニ存ス。大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ、大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ、其ノ自存自衞ヲ全ウシ、左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ、以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス 一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ、道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス 一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ...
  • 岐阜事件
    thumb|right|250px|板垣退助が襲われた場所に建つ板垣退助の銅像 br / [[岐阜公園にて(岐阜市)]] 岐阜事件(ぎふじけん)とは、1882年(明治15年)4月6日に岐阜で、自由党党首板垣退助が暴漢(相原尚褧)に襲われた事件である。板垣退助遭難事件、岐阜遭難事件ともいう。このとき板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとして知られるが、事実であるかは不明である。 事件前の状況 1881年(明治14年)10月18日、10年後の帝国議会開設の詔が出されたのを機に自由党(日本初の政党の一つ)が結成され、自由民権運動は頂点を迎える。そのような中、11月9日に板垣退助は自由党総理(党首)に就任する。 1882年(明治15年)3月10日、板垣退助は竹内綱、宮地茂春、安芸喜代香らとともに、東海道遊説旅行の為に東京を出発。静岡、浜松を経て、3月29日に名古屋で演説後、4月5...
  • 皇室会議
    皇室会議(こうしつかいぎ)は、皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇室典範28条以下に定められる。重要事項について、皇室会議の「議を経」または「議によ」ることとされ、諮問機関とは一線を画する。 なお、宮内庁長官が議員として参加する、会議が宮内庁本庁舎において行われる等宮内庁とは関係は深いものの、それぞれはお互いに独立した機関である。 皇室会議で決すべき事項 「皇室会議は、この法律及び他の法律に基く権限のみを行う」(皇室典範37条)と定められているので、皇室会議で決すべき事項は、新たな法律の制定・改廃がされない限り以下のもののみである。※印が付されているものは、出席議員の3分の2以上の多数で決する事項。 皇位継承関係 皇位継承順位の変更(皇室典範3条)※ 婚姻関係 立后(天皇の婚姻)と皇族男子の婚姻(皇室典範10条) 他の事項が皇室会議の「議による」...
  • 大日本帝国憲法
    ...は用いていた。しかし8月6日、伊藤らが横浜へ娯遊中に泥棒が入り、草案の入った鞄が盗難に遭ったことから、その後は伊藤別荘で作業は進められた。鞄は後に近くの畑で見つかり、草案は無事だったという。 東屋には、憲法ゆかりの地であることを記念して、1935年(昭和10年)に、起草メンバーの一人であった金子堅太郎書による「憲法草創の処」の碑が建てられた。その後東屋は廃業し、一時的に野島公園(同区)に碑も移転したが、現在は東屋跡地に近い洲崎広場に設置されている。 なお、夏島にあった伊藤の別荘は、後に小田原に移築され、関東大震災で焼失しているため現存しない。夏島の跡地には、明治憲法起草地記念碑が建てられてる。また、のちに伊藤が建てた別荘が野島に残っている(伊藤博文記念館)。 現行法制度との関係 大日本帝国憲法は、第73条に定める改正手続を経て全面改正され日本国憲法となる。日本国憲法は19...
  • 会津戦争
    Template Battlebox? 会津戦争(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦いである。主に現在の福島県、新潟県、栃木県が戦場となった。なお、同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として区別される場合が多い。 背景 文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、尊攘派志士の取り締まりや禁門の変において幕府方の中核となって奮闘した。この経緯もあり、薩摩・長州を中心とした新政府に幕府方の首謀者として会津藩は、鳥羽・伏見の戦い後の慶応4年(1868年)、新政府から追討令を受ける。追討を命じられた仙台藩、米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽...
  • 元老
    元老(げんろう。英:elder statesman)とは、明治時代後期から昭和時代初期にかけて、日本政府の最高首脳であった重臣である。 明治維新に功績のあった人物を元勲と呼ぶが、彼らが明治新政府において長期間に渡って事実上政治を牽引していたことから、主にマスコミ周辺から誕生した略称だと言われている(長老元勲→元勲老→元老、もしくは元勲諸老の略)。 法制上にその定めはなかったが、勅命または勅語によって任命され、天皇の諮問に答えて内閣更迭の際の後継内閣総理大臣の奏薦をはじめとする国家の最高意思決定に参与した。特に宮中問題を執るのが元老の権威の源泉となっており、このことは宮中某重大事件で敗退した山縣有朋が事実上失脚してしまったことからも明らかである。 沿革 最初に元老の詔勅を受け取ったのは、伊藤博文、黒田清隆である。当初は伊藤博文が枢密院議長の職を辞することから、明治天皇が詔勅を出そ...
  • 太政官
    ...その結果、1870年8月6日(明治3年7月10日)に大久保が主導して両省の再分離が決定された。だが、最終的に両派の間で妥協が成立して、1870年12月12日に(明治3年閏10月20日)殖産興業を専門に扱う工部省の分離と引き換えに1871年9月11日(明治4年7月27日)に民部・大蔵両省の再合併が決定された。これは廃藩置県などの推進の過程で大久保が中央集権の必要性を認めて木戸らの方針に同意する方向へと変わると同時に、殖産興業の分離で合併後の新省が持つ権限の分割に成功したこと、更には将来の政府を担う開明派若手官僚との全面衝突を避けたいとの思惑があったからであると言われている。更に1871年に入ると廃藩置県に向けた政府内の動きが密かに動き出し、薩摩・長州・土佐3藩の兵を御親兵として集めるとともに、郷里に帰っていた西郷隆盛と板垣退助を呼び戻した。 廃藩置県後の官制 1871年8月29...
  • 日中戦争
    日中戦争(にっちゅうせんそう)とは、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)の間に大日本帝国と中華民国の間で行われた事変及び戦争である1931年(昭和6年)の満洲事変を起点として「日中十五年戦争」ととらえる見方もある。。 日本での公式の呼称は支那事変であり、現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦である中華民国政府は八年抗战・中日戰爭など、中華人民共和国政府は中国人民抗日战争などと表記する(詳細は本記事の中国語版を参照)。また英語では、Second Sino-Japanese Warと表記するFirst Sino-Japanese Warは日清戦争。。 Template Main2? 「戦争」か「事変」か 日本では当初、北支事変(ほくしじへん)、後に支那事変(しなじへん)と称しており、新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が...
  • 第2次松方内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ まつかた ないかく|6|松方正義|Template 和暦?|9月18日|Template 和暦?|1月12日|藩閥内閣(進歩党協力)|第5回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/06.html|前職 = 前大蔵大臣}} 概要 Template 和暦?9月10日、松方に大命が降下したものの、以前の第1次松方内閣のときの帝国議会対策での失敗もあり組閣も順調とはいかなかった。三菱財閥の岩崎弥之助は松方に大隈重信の進歩党との連携を提案した。だが、超然主義者の前首相山縣有朋を始め、松方自身が率いる薩摩閥からも反対論が出た。松方は進歩党からは大隈の外務大臣以外の入閣は認めなかったものの、書記官長・法制局長官、更に当時勅任官であった参事官の一部を進歩党系から出すことで...
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