chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「842年」で検索した結果

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  • 領事裁判権
    ...ないことを理由に、1842年の南京条約で中国に押し付けられたのをはじめ、タイ王国や植民地化以前の朝鮮でも行われた。 関連項目 領事館警察 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年10月4日 (木) 17 52。     
  • 仮20
    ... 令義解の撰上。 842年(承和9年) 承和の変 858年(天安2年) 藤原良房、摂政の職務を行う。 866年(貞観8年) 応天門の変 878年(元慶2年) 元慶の乱 887年(仁和3年) 藤原基経、関白となる(関白の初め)。 摂関政治 888年(仁和4年) 阿衡事件 893年?(寛平5年) 初めて滝口武者(滝口の武士)を置く。 武士の登場 894年(寛平6年) 遣唐使を廃止する。 901年(昌泰4年) 昌泰の変(菅原道真、大宰権帥に左遷される。) 905年(延喜5年) 『古今和歌集』の成立。 927年(延長5年) 延喜式の撰上(施行は967年(康保4年)から)。 935年(承平5年) - 941年(天慶4年) 承平・天慶の乱 937年(承平7年) 官符を下して、平将門を追捕せしむ。 939年(天慶2年) 平将門の乱 939年(天慶2年) 藤原純友...
  • 交換船
    thumb|right|330px|[[横浜港に戻った第1次日英交換船の鎌倉丸]] 交換船(こうかんせん、戦時交換船や抑留者交換船などとも呼ばれる)は、第二次世界大戦当時に、開戦により枢軸国、連合国双方の交戦国や断交国に取り残された外交官や駐在員、留学生などを帰国させるために運航された船のことである。 いきさつ 1941年12月8日の日本とイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国とのいわゆる大東亜戦争/太平洋戦争の開戦に伴い、両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残された外交官や民間人(企業の駐在員や宗教関係者、研究者、留学生とそれらに帯同した家族など)の帰国方法が問題になった。 しかし、開戦後に両陣営の国家同士の国交が断絶され、それぞれの国に駐在する外交官の資格が停止されたことに伴い、政府間の直接交渉が不可能になったことから、まずアメリカの国務省が、12月17日に中立国で...
  • 戦史叢書
    『戦史叢書』(せんしそうしょ)とは防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)によって1966年(昭和41年)から1980年(昭和55年)にかけて編纂され、朝雲新聞社(あさぐもしんぶんしゃ)より刊行された公刊戦史である。 概要 陸軍68巻、海軍33巻、共通年表1巻、全102巻から構成され、別に図・表類が付属する。一時期、『大東亜戦争叢書』『太平洋戦史叢書』とも呼ばれたが、その後単に『戦史叢書』と表記され、一般では『公刊戦史』と呼ばれる。 記述の元となったのは、戦中に占領軍の接収から秘匿されて残された大本営内部の文書(大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』など)と、引き揚げてきた部隊の関係者が執筆を求められて執筆した準公式の報告書、及び、自発的に執筆された私的な回想録が主である。 刊行された年代が古いため、現在から見ると若干の誤りも指摘されているが(特に対ソ関係やノモ...
  • 東條内閣
    {{日本の内閣記事|とうじょう ないかく|40|東條英機|Template 和暦?|10月18日|Template 和暦?|7月22日|大政翼賛会など。|第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)|(1942年(昭和17年)4月30日任期満了前の第20回衆議院議員総選挙が行われたのは1937年(昭和12年)4月30日であったため、本来の任期は1941年(昭和16年)4月30日までであった。しかし、1年間任期延長したため、1942年(昭和17年)4月30日に任期満了を迎え、同日、第21回衆議院議員総選挙の投票が行われた。)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/40.html|陸軍大臣|画像= |画像説明=東條内閣の閣僚(前列中央が東條英機首相)。1941年(昭和16年)10月18日、総理大臣官邸にて。}} 概要 前の内閣総理大臣である近衛文麿...
  • 俘虜の待遇に関する条約
    俘虜の待遇に関する条約(ふりょのたいぐうにかんするじょうやく)は、1929年にジュネーヴで締結された条約であり、いわゆるジュネーヴ条約の4条約のうちのひとつ。1929年7月27日に作成された。 「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ条約、1911年11月6日批准、1912年1月13日公布)を充実する形で作られ、日本は署名を行ったが軍部、枢密院の反対により批准しなかった。 太平洋戦争中における扱い 上述のように日本は本条約を批准していないが、太平洋戦争開戦後の1941年12月27日、アメリカ合衆国は当時の日本における利益代表国であったスイスを通じて、同国が本条約を遵守する意思があることを伝え、また日本の意向について問い合わせてきた。1942年1月3日には、英国およびその自治領が同様に利益代表国のアルゼンチンを通じて問い合わせを行った。 1942年1月29日、日本政府はスイス、アルゼン...
  • 大本営発表
    thumb|250px|大本営海軍部による発表([[1941年12月8日)]] thumb|250px|大本営陸軍部による発表([[1942年1月3日)]] 大本営発表(だいほんえいはっぴょう)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)において、日本の大本営の陸軍部及び海軍部が行った、戦況などに関する公式発表のことである。 当初はほぼ現実通りの発表を行っていたが、以下に記載する通りミッドウェー海戦の頃から損害の過少発表が目立ち始め、不適切な言い換えがまかり通るようになり、最終的には勝敗が逆転した発表すら行ったことから、現在では「内容を全く信用できない虚飾的・詐欺的な公式発表」の代名詞になっている。 概要 第一回 第一回の大本営発表は、1941年12月8日午前6時に行われたものであり、内容は開戦の第一報で、NHKラジオより報道された。以下はチャイム流されたのは楽曲ではなく臨時ニュースの...
  • 来栖三郎 (外交官)
    来栖 三郎(くるす さぶろう、1886年3月6日 - 1954年4月7日)は日本の外交官。駐ドイツ特命全権大使、駐米特命全権大使等を歴任。 プロフィール 生い立ち 神奈川県横浜市生まれ。旧制横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒、1909年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部領事科卒。 外交官 1909年外交官及び領事官試験合格、1910年外務省入省。ハンブルク総領事等を経て、1932年外務省通商局長、1936年駐ベルギー特命全権大使、1939年駐ドイツ特命全権大使。 日独伊三国軍事同盟締結時の駐ドイツ大使として、日本代表として同同盟の調印式に出席した。その後、近衛文麿内閣では戦争回避のための日米交渉を担当する遣米特命全権大使を拝命、異例の「第二の大使」としてワシントン入りし、野村吉三郎駐米大使を補佐するかたちで日米交渉にあたるが、この人事はかえっ...
  • ドーリットル空襲
    Template Battlebox? ドーリットル空襲(-くうしゅう、英語:Doolittle Raid)、またはドゥリットル空襲とは、太平洋戦争中の1942年4月18日に、アメリカ軍が航空母艦に搭載した陸軍の爆撃機によって行った日本本土に対する空襲である。名称は空襲の指揮官の名前に由来する。 背景 真珠湾攻撃以降一方的な敗退を続け、さらに開戦後の1942年2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるアメリカ本土のカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を受け、大きな衝撃を受けたアメリカ軍は、士気を高める方策として帝都・東京を爆撃する計画を立てた。 アメリカ陸軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、ソ連の領土は日ソ中立条約のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。また、アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆...
  • 翼賛議員同盟
    翼賛議員同盟(よくさんぎいんどうめい)は、昭和時代に存在した衆議院の院内会派(1941年9月2日-1942年5月19日)。 概説 1940年の大政翼賛会の結成によって既成の政党は全て解党され、12月20日には翼賛会の下に衆議院統一会派である衆議院倶楽部(435名)が結成されたが、一部右翼からの「大政翼賛会違憲論」に押されて、翌1941年に近衛文麿首相が大政翼賛会を政事結社ではなく公事結社であるとして、一切の政治活動を禁じたられたために衆議院倶楽部は解散を余儀なくされ、全ての衆議院議員が無所属議員となってしまったために、衆議院は大混乱に陥った。 一方、近衛側近の前司法大臣風見章は元鉄道大臣前田米蔵と図って、貴族院議員である近衛首相を長とする貴族院・衆議院合同の会派結成を模索する。ところが、長年政党を嫌悪してきた貴族院の華族議員がこれに反発したために失敗に終わった。このため、前田は自...
  • 日系人の強制収容
    Template 加筆? 330px|right|thumb|[[マンザナール強制収容所]] 330px|right|thumb|アメリカ軍により発せられた強制立ち退き令を報じる[[羅府新報]] 日系人の強制収容(にっけいじんのきょうせいしゅうよう)とは、太平洋戦争/大東亜戦争時において大日本帝国の対戦国であったアメリカ合衆国政府によって行われた日系アメリカ人や日本人移民、及びペルーやブラジルなどの中南米の連合国に在住する日系人と日本人移民に対する強制収容所への収監政策である。 強制収容開始までの経緯 日系人に対する監視 大日本帝国陸軍による仏領インドシナや中国大陸への軍事行動に対して、アメリカ合衆国政府は1941年7月に自国内の日本人資産の凍結、通商航海条約の一方的破棄を通告。その後8月1日には大日本帝国への石油の全面禁輸に踏み切るなど、日米間の関係が緊迫度...
  • 満州重工業開発
    満州重工業開発株式会社(まんしゅうじゅうこうぎょうかいはつ かぶしきかいしゃ)は、満州国の特殊法人で、満州国内の鉱工業を一元的に統制することを目的に設立された持株会社。通称は満業(まんぎょう)。 概要 満州国の経済運営で巨大な南満州鉄道が影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じ、日本鉱業(現・新日鉱ホールディングス)や日立製作所、日産重工業(現・日産自動車)を傘下に持つ日産コンツェルンの総帥・鮎川義介が、満州全土の鉱業から各種製造まで一貫した計画の元に生産することを目的に、1937年にグループの持株会社である日本産業を満州に移転・改組させて設立した。総裁は鮎川が勤め、傘下に満鉄から譲渡を受けた昭和製鋼所や満州炭鉱などの鉱工業会社を置き、これらの会社を統制したが、次第に関東軍や満州国政府の経営干渉を盛んに受けるようになった。鮎川は当初、アメリカ資本の導入を検討していたが、軍需物資の...
  • 満蒙開拓移民
    満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)は太平洋戦争下に日本政府の国策によって推進された、大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民の総称。 概要 1931年の満州事変以降に本格化した日本からの満州国への移民は、当時の広田弘毅内閣は1936年に「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画、これを日本政府により推めた。この政策には、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画も打ち出されており、国策に裏打ちされた入植者の大陸への送り込みが図られた。 日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。 背景 日本の政府により戦前に進められていた、北米アメリカ、南米ブラジ...
  • 新聞紙条例
    Template 日本の法令? 新聞紙条例(しんぶんしじょうれい)は明治時代の日本における、新聞を取り締まるための条例のこと。 反政府的言論活動を封ずることを目的として制定された。 沿革 明治8年(1875年) 従前の新聞紙発行条目(明治6年10月19日太政官第352号(布))を実質的に改正するかたちで成立した。 明治42年(1909年) 新聞紙法(明治42年5月6日法律第41号)の成立により失効。 概要 自由民権運動の高揚するなか、新聞・雑誌による反政府的言論活動を封ずるため制定した。 新聞紙発行条目を全面改定し、適用範囲を新聞以外の雑誌・雑報にまで広げたものであった。 以下主な内容を示す。 発行を許可制とした。 違反の罰金・懲役を明確に定めた。 社主、編集者、印刷者の権限・責任を個別に明示し、違反時の罰則を定めた。 同時発布の讒謗律との関係...
  • 皇室令
    Template 日本の法令? 皇室令(こうしつれい)は大日本帝国において皇室典範(旧皇室典範)を根拠とし、皇室典範に属する法体系、いわゆる「宮務法」のもとで制定されていた皇室に関係する一連の諸法を指す。これは大日本帝国憲法を根拠とし、憲法に属する法体系、いわゆる「国務法」とは異なり、皇室典範と同様、制定・改定には帝国議会は関与しない。 日本国憲法施行に伴い、1947年(昭和22年)5月2日を最後に廃止された。 概説 皇室典範(旧皇室典範)に基づく諸規則、宮内官制及びその他の皇室の事務に関して、勅定を経た規定で発表を要するものは、皇室令として制定し、上諭を附してこれを公布した。皇族に準じた礼遇を受けていた王公族や、貴族である華族・朝鮮貴族の権利・義務などについてもこの法形式で規律していた。日本国憲法施行に伴い、この法形式が廃止されることとなり、1947年(昭和22年)5月2日公...
  • 国立銀行条例
    国立銀行条例(こくりつぎんこうじょうれい)は、1872年に制定された日本の法律である。 制定までの経緯 それまで日本は兌換貨幣(金との交換が保証された通貨)を使用していた。だが海外流出などで金不足が深刻化しており、兌換制度を止める必要があった。1871年に新貨条例が出され、「円」を貨幣とする最初の近代貨幣制度が導入された。しかし金本位制のため金貨不足のせいで銀貨がよく使われるようになった。その後伊藤博文が発券銀行制度を導入しているアメリカ合衆国のナショナル・バンク制度(国法銀行制度)を参考に建議し、国立銀行条例として1872年に制定した。これにより、渋沢栄一が1873年に日本初の国立銀行である第一国立銀行(現 みずほ銀行)を設立。その後もこの条例を基に民間が数多くの国立銀行を設立した。 制定当時の内容 兌換制度を止める。 そして、国立銀行が発行する銀行券には金貨などの兌換硬貨との...
  • 日本史の出来事一覧
    ... 令義解の撰上。 842年(承和9年) 承和の変 858年(天安2年) 藤原良房、摂政の職務を行う。 866年(貞観8年) 応天門の変 878年(元慶2年) 元慶の乱 887年(仁和3年) 藤原基経、関白となる(関白の初め)。 摂関政治 888年(仁和4年) 阿衡事件 893年?(寛平5年) 初めて滝口武者(滝口の武士)を置く。 武士の登場 894年(寛平6年) 遣唐使を廃止する。 901年(昌泰4年) 昌泰の変(菅原道真、大宰権帥に左遷される。) 905年(延喜5年) 『古今和歌集』の成立。 927年(延長5年) 延喜式の撰上(施行は967年(康保4年)から)。 935年(承平5年) - 941年(天慶4年) 承平・天慶の乱 937年(承平7年) 官符を下して、平将門を追捕せしむ。 939年(天慶2年) 平将門の乱 939年(天慶2年) 藤原純友...
  • 南洋庁
    南洋庁(なんようちょう)は、ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島に設置された施政機関。所在地はパラオ諸島のコロール島。その下に支庁が置かれた。1922年に開設され、1945年に事実上消滅した。 人口 昭和14年12月末現在(『第9回南洋庁統計年鑑 昭和14年』による) 総人口 129,104人 内訳 日本人(台湾人・朝鮮人を含む) 77,257人 島民(チャモロ族・カナカ族) 51,723人 外国人 124人 年表 1919年5月7日 - パリ講和会議の英米仏首相会議で、赤道以北のドイツ領諸島は日本の委任統治に決定。 1919年6月28日 - 「同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書」(ヴェルサイユ条約)、調印式。 ドイツの植民地放棄(第118条)と放棄された植民地を国際連盟の委任統治とすること(第22条)などを規程...
  • バー・モウ
    thumb|280px|大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、[[張景恵、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース]] ドクター・バー・モウ(ラテン文字転写:Dr. Ba Maw, バーモウ、バモウ、バモー、バーモーとも、1893年2月8日 - 1977年5月29日)は、ビルマ(現ミャンマー)の独立運動家、政治家。 略歴 1893年に、当時イギリスの植民地であったビルマの裕福な法律家の家庭に生まれた。その後ラングーンで中等教育を受け、1924年に、留学先のフランスのボルドー大学で博士号を取得した。 1934年にはビルマ州政府(当時はイギリス領インドの一州)の教育相、1937年にビルマがインドから分離されて別個の植民地になると、その初代首相となるが、退任後、反乱のかどで投獄された。 大東亜戦争(太平洋戦争)開戦後の1941年...
  • 南方作戦
    南方作戦(なんぽうさくせん, Southern Operations)は、太平洋戦争緒戦における日本軍の東南アジア各地への攻略作戦である。1941年12月8日の真珠湾攻撃と英領マレーへの奇襲上陸をもって開始され、1942年5月のビルマ制圧をもって完了した。南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は作戦目標を完全に達成した。 背景 1941年9月3日、日本では、アメリカ合衆国やイギリスとの関係悪化を受け、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。 10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職した。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で...
  • ゾルゲ事件
    ゾルゲ事件(ゾルゲじけん)は、1941年9月から1942年4月にかけて山村八郎 (1949)、21頁。リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして逮捕された事件。この組織の中には近衛内閣のブレーンとして活動した尾崎秀実もいた。 経緯 逮捕 太平洋戦争開戦直前の1941年9月から1942年4月にかけて、ゾルゲや尾崎らのグループはスパイ容疑で警視庁特高一課と同外事課によって逮捕された。軍事情報のスパイは陸軍の憲兵隊の管轄であるが、コミンテルンのスパイとして特別高等警察が取り扱ったゾルゲは実際にはコミンテルンではなく、労農赤軍参謀本部第4局に所属していた。。 まず1941年6月に日本共産党員であった伊藤律が逮捕され、アメリカ共産党員で当時日本に住んでいた北林トモの名を自供、警視庁は北林を9月28日に逮捕。さらに北林がアメリカ共産党の同志...
  • 元老
    元老(げんろう。英:elder statesman)とは、明治時代後期から昭和時代初期にかけて、日本政府の最高首脳であった重臣である。 明治維新に功績のあった人物を元勲と呼ぶが、彼らが明治新政府において長期間に渡って事実上政治を牽引していたことから、主にマスコミ周辺から誕生した略称だと言われている(長老元勲→元勲老→元老、もしくは元勲諸老の略)。 法制上にその定めはなかったが、勅命または勅語によって任命され、天皇の諮問に答えて内閣更迭の際の後継内閣総理大臣の奏薦をはじめとする国家の最高意思決定に参与した。特に宮中問題を執るのが元老の権威の源泉となっており、このことは宮中某重大事件で敗退した山縣有朋が事実上失脚してしまったことからも明らかである。 沿革 最初に元老の詔勅を受け取ったのは、伊藤博文、黒田清隆である。当初は伊藤博文が枢密院議長の職を辞することから、明治天皇が詔勅を出そ...
  • 清浦奎吾
    Template 日本の内閣総理大臣? 清浦 奎吾(きようら けいご、嘉永3年2月14日(1850年3月27日) - 昭和17年(1942年)11月5日)は、日本の政治家。第23代内閣総理大臣。正二位伯爵。肥後(熊本県)出身。幼名は普寂(ふじゃく)。司法官僚を経験後、貴族院議員となり司法大臣、農商務大臣、枢密院議長を歴任。1924(大正13)年の組閣では、ほぼ全閣僚を貴族院議員としたため(超然内閣)、護憲三派が激しく非難。わずか5ヶ月で総辞職した。清浦首相時代は、大正デモクラシーが最も高揚した時代でもあった。 生涯 山縣有朋側近中の側近 清浦奎吾は1850年(嘉永3年)2月14日、肥後国鹿本郡来民村(現・山鹿市)の明照寺住職・大久保了思の5男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。清浦は1865年(慶応元年)から、豊後日田で、漢学者・広瀬淡窓が主催する咸宜園に学び、日田で知り合った...
  • 全国水平社
    全国水平社(ぜんこくすいへいしゃ)とは大正デモクラシー期の日本において被差別部落の地位向上と人間の尊厳の確立を目的として結成された団体である。 1922年3月3日、京都市岡崎公会堂にて創立大会が行われ、日本最初の人権宣言といわれる水平社創立宣言を採択した。結成メンバーは西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作(柏原の3青年)らが中心。昭和初期の日本のファシズム化や内部分裂などにより、1942年1月20日に消滅。戦後、元水平社のメンバーや融和事業団体の役員たちにより、部落解放全国委員会(部落解放同盟の前身)が京都で設立された。 融和運動との比較 差別の原因が部落の劣悪な環境や教育水準にあるとして富裕層の力を借りての部落の経済的向上を目指した融和運動に対し、差別の原因はあくまで「差別する側」にあるとして、差別への糾弾や啓発に重点を置いた。 関連項目 水平社創立宣言 荊冠旗 部...
  • 水国事件
    水国事件(すいこくじけん)は、1923年(大正11年)3月、奈良県の水平社と国粋会(1919年 - 1942年に存在した、ヤクザ・土建業者で結成された右翼団体)とが衝突した事件。水国争闘事件ともいう。 一人の老人が被差別部落出身者の婚礼に対して差別的言動を行い、それに対する水平社の謝罪要求に対し、国粋会幹部であった土建業者が介入、水平社に対して襲撃をかけた。双方とも奈良県内外から援軍を動員、水平社側の4人が重軽傷を負った。官憲や軍隊が鎮圧して水平社側35人、国粋会側12人が有罪となった。襲撃に熱心だった国粋会側よりも水平社側に重罪判決が多く、この事件以降水平社運動、融和運動が全国的に隆盛した。 関連項目 部落問題 右翼 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月14日 (日) 02 22。 ...
  • 満鉄調査部
    満鉄調査部(まんてつちょうさぶ)は、戦前に存在した南満州鉄道の調査機関である。 設立は明治40年(1907年)。 概要 1906年に南満州鉄道(満鉄、総裁後藤新平)が発足した翌年、満鉄調査部が設置された。当初は満鉄の経営のための調査をはじめ中国東北地区などの政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究を行なったが、その後の日本の中国進出の拡大に呼応してその対象を広げ、中国そのものを対象とした本格的な調査研究も行うようになっていった。 他方、多数の調査要員を必要としたこともあり、日本国内で活動の場を失っていた多数の自由主義者、マルクス主義者などを取り込むようになり、やがてその活動は軍部の忌避するところとなって2度にわたる弾圧事件を受け、活動を縮小した。 満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクであるとしばしば形容される。日本の敗戦と満州国の消滅により満鉄が消滅した後も、満鉄...
  • 樺太
    樺太(からふと)は、日本列島最北端、北海道の北に位置する樺太島(露:Template lang?(サハリン)、中:庫頁島(クイェとう、ピン音Kùyè))を指す地域名称である。また、この名称は、日本領有下において南樺太及びその付属島嶼を指す行政区画名として使用された。現在はロシア連邦が自国領である北サハリンに加え、南部も実効支配しているが、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本政府は国際法上、南樺太は所属未定地であるとしている。また、太平洋戦争において日本本土最後の地上戦が行われた。 この項目では、原則的には、日本が敗戦により行政権を失う前について記述する。それ以降についてはサハリン州の項目も参照されたい。 名称 「からふと」の名は、一説には、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ kamuy kar put ya mosir」と呼んだ事に由来...
  • 大東亜省
    大東亜省(だいとうあしょう)は、大日本帝国の委任統治領であった地域及び同国が第二次世界大戦(大東亜戦争)に於いて占領した地域を統治するために置かれた省である。 概説 東條英機内閣(提案の中心となったのは鈴木貞一企画院総裁)によって、昭和17年(1942年)11月1日に設置される。拓務省が他省庁(興亜院、対満事務局、外務省東亜局及び南洋局)とともに一元化され、官房、参事、総務局、満洲事務局、支那事務局及び南方事務局によって構成される。いわゆる大東亜共栄圏諸国を他の外国とは別扱いとして外務省の管轄から分離させて、日本の対アジア・太平洋地域政策の中心に据える構想であった。イギリスにおけるインド植民省をモデルとしていた。 が、当時の外務大臣東郷茂徳はこれは「二元外交」を招くもので、アジア諸国や敵国(連合国)に日本がこれらの地域の植民地支配を画策していると言う誤ったメッセージとして受け取られか...
  • 吉田茂-2
    前半は、吉田茂参照 年譜 明治11年(1878年)9月22日 東京神田駿河台に生まれる 明治14年(1881年)8月 吉田家と養子縁組 戸太町立太田学校(現・横浜市立太田小学校)卒業 明治22年(1889年)2月 寄宿制私立中学耕余義塾入学 明治27年(1894年) 4月 耕余義塾卒業 9月 日本中学校(現・日本学園 )入学 明治28年(1895年) 9月 高等商業学校(現・一橋大学)入学 11月 高等商業学校退校 明治29年(1896年) 3月 正則尋常中学校(現・正則高等学校)卒業 9月 東京物理学校(現・東京理科大学)入学 明治30年(1897年)10月 学習院高等学科入学 明治34年(1901年) 8月 学習院高等学科卒業 9月 学習院大学科入学 明治37年(1904年) 7月 学習...
  • 満鉄調査部事件
    満鉄調査部事件(まんてつちょうさぶじけん)は、第二次世界大戦中、多数の満鉄調査部員が関東軍の憲兵隊によって2回にわたり検挙された事件。満鉄事件とも呼ばれる。1941年に起こった合作社事件をきっかけとして、1942年には調査部員の第一次検挙、1943年には第二次検挙が行われた。 経緯 満鉄調査部は、1939年の拡充に伴う人員増強により、日本内地で活動の場を失った左翼からの転向者が多数就職していた。彼らは内地ではもはや不可能となったマルクス主義的方法による社会調査・分析に従事しており、そのことが関東軍の憲兵隊を中心とする満州国治安当局からの監視の目を強めさせることになった。 橘樸の影響を受けていた佐藤大四郎は、1937年1月以降、北満州の浜江省綏化県で、貧農を合作社(協同組合)に組織して生産力を向上させ彼らの救済をはかる運動に従事していた。この運動は多くの日本人「前歴者」が結集したこ...
  • 阿部信行
    Template 日本の内閣総理大臣? 阿部 信行(あべ のぶゆき、明治8年(1875年)11月24日 - 昭和28年(1953年)9月7日)は日本の陸軍軍人、政治家。第36代内閣総理大臣。 人物 石川県金沢市に旧金沢藩士の子としてうまれる。東京府尋常中学(のち東京府立一中)を経て、第四高等学校在学時に日清戦争があり、軍人志望に転換、四高を中退し、陸軍士官学校へ。陸士9期生、陸軍大学校19期生。1930年12月22日に第4師団長となる。1933年、軍事参議官。1936年、二・二六事件後の粛軍の結果、陸軍大将を最後に予備役編入。 1939年8月30日に内閣総理大臣に就任した。参謀本部軍務課長・有末精三が内閣成立に暗躍したともいわれる。また同郷出身者で多くを構成する阿部内閣は「阿部一族」とも「石川内閣」とも呼ばれた。当初は外務大臣を兼任した。2日後の9月1日には第二次世界大戦が勃発した...
  • 南次郎
    Template Infobox 軍人? 南 次郎(みなみ じろう、明治7年(1874年)8月10日 - 昭和30年(1955年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。 来歴 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。明治17年(1884年)7月、叔父・宮崎義一の下に単身上京、9月に鞆絵小学校(現・港区立御成門小)初級入学。その後成績良好のために鞆絵小高等科に進級した。明治21年(1888年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。翌・明治22年(1889年)9月、校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機にかねてからの陸士志望であったことから、児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した。明治23年(1890年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。明治25年(1892年)4月、陸士入校。明治28年(1895年)4月、陸士6期卒業。陸軍大学校17期出身...
  • 朝鮮銀行
    Template 朝鮮の事物? 朝鮮銀行(ちょうせんぎんこう、朝鮮語:Template lang?)は、日本の特殊銀行の一つである。略称は鮮銀(せんぎん)。 前身 近代金融制度の基盤がないまま欧米や日本の資本主義の影響を受けた李氏朝鮮では、1884年以後日本の第一銀行韓国総支店(1878年設立)に関税収入の管理を委託し、やがてそれを担保にして同銀行からの融資を受けるようになった。1902年以降大韓帝国(李氏朝鮮が改称)で第一銀行券を発行して、それを韓国の公用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行化した。 第一次日韓協約により目賀田種太郎が韓国の財務顧問につくと、民間銀行に過ぎない第一銀行が外国の中央銀行業務を行っている事を問題視して韓国統監伊藤博文との相談した結果、日韓併合直前の1909年に大韓帝国政府、日本皇室、韓国皇室および個人から資本金により設立され...
  • 京城帝国大学
    京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、6番目の帝国大学(但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督府)であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。 歴史 前史 李氏朝鮮では、1895年の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた金ワンソプ『親日派の弁明』p104。 そのため1906年には韓国統監府より普通学...
  • 大日本生産党
    大日本生産党(だいにほんせいさんとう)は1931年に結党された「国粋ファシスト」の政治団体。 概要 当初は黒龍会大阪支部長の吉田益三が提唱し、玄洋社系の内田良平の賛同を得て大阪中央公会堂において結成された。その後、1931年(昭和6年)11月20日、玄洋社系の頭山満・内田良平等の黒龍会の主な構成員、日本国民党、津久井龍雄の急進愛国党などが合同し東京の赤坂の「三会堂」において結党式を行った。約1500名が参集した。本部は当時の東京市麹町区永田町に置かれた。1932年(昭和7年)1月には愛国急進党、大衆党長野県連の秦数馬の一派、大日本帝国陸軍大阪労働組合、横浜自治革正党などが解消・入党し勢力を拡大した。 多くの国家主義団体は上部構造偏重であったが、大日本生産党は大衆に密着し、党員2万人を称していた。 しかし、1933年(昭和8年)7月の神兵隊事件において青年部員が多数連座し検挙され...
  • 国立銀行 (明治)
    国立銀行(こくりつぎんこう)は、1872年(明治5年)の国立銀行条例に基づいて開設された金融機関のこと。 概要 時の大蔵少輔・伊藤博文のもとで制度が創られた。アメリカのnational bank(現在では国法銀行と訳すことが多い)の直訳で、国家が設立した銀行ではなく、渋沢栄一、三井組などの民間資本が設立したものである。金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持ち、当初は第一から第五の4行(当時、第三は欠番)が設立された。 1876年、不換紙幣の発行も認められるようになると急増し、1879年までに153の国立銀行が開設された(これ以降は設立許可は認められなかった)。 銀行は設立順に番号を名乗っており、これを「ナンバー銀行」と呼ぶこともある。これらのナンバー銀行は現存する物もあるが、現在存在する八十二銀行だけは第十九銀行と六十三銀行が合併し、両者の数字の和を取って名付けられた銀行(82...
  • 横浜事件
    横浜事件(よこはまじけん)とは、第二次世界大戦中の1942-1945年におきた言論弾圧事件のことである。 1942年、雑誌『改造』に掲載された論文が問題になり、執筆者が治安維持法違反で検挙された。これを発端に編集者、新聞記者ら約60人が神奈川県警察特別高等警察課によって逮捕された。横浜地裁は敗戦から治安維持法廃止までの期間に約30人に有罪判決を下し、4人の獄死者を出した。 戦後、無実を訴える元被告人やその家族・支援者らが再審請求を繰り返し、2005年に再審が開始されることになったが、最終的に罪の有無を判断せず裁判を打ち切る免訴が確定した(後述)。なお、別の遺族が2002年3月に申し立てた第4次再審請求について、2008年10月31日、開始される事が決定した。 経緯 1942年、総合雑誌『改造』(8-9月号)に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が共産主義的でソ連を賛美...
  • 樺太庁
    世界 アジア 東アジア 大日本帝国 樺太地方 樺太庁 樺太庁のデータ 面積 36090.3km² (海豹島・海馬島含む) 樺太の位置 東端 東経144度45分00(北知床岬)西端 東経141度12分45(海馬島)南端北緯45度47分25(二丈岩)北端 北緯50度線(北緯50度以北は、ロシア領) 世帯数 ?世帯(年月日) 総人口 406,557人(1941年12月1日) 樺太庁 所在地 樺太豊原市東4条南5丁目 樺太庁(からふとちょう、Template lang-ru?、Template lang-en?)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。 この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。 1...
  • 企画院
    企画院(きかくいん)は、日本における戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関。 概要 前身は昭和10年5月10日に設置された内閣総理大臣直属各省大臣と同様の立場での行政事務の分担及びその補助部局→新憲法施行後に総理庁→総理府へ統合。他方で、「合議体としての内閣」の所管部局に法制局と賞勲局があったの国策調査機関である内閣調査局にある。「重要産業統制法」(昭和6年7月公布)から始まり、五・一五事件を経て二・二六事件以後の陸軍内での統制派の勃興以後、所謂「新々官僚(新官僚)」の牙城・内閣調査局の権限は強まり、より強力な重要政策を立案する組織として、昭和12年5月14日に企画庁へ改組。同年10月25日に内閣資源局大正7年の軍需工業動員法制定の後、物資動員企画立案機関として昭和2年5月27日に設立と統合し企画院が発足した。重要政策の企画立案と物資動員の企画立案を統合し、以後、戦時下...
  • 日英関係
    ...は、異国船打払令を1842年に撤廃。 1854年 10月14日、日英和親条約が調印。徳川幕府を代表している長崎奉行とジェームズ・スターリング提督(Admiral Sir James Stirling)により締結。イギリス側の通訳は音吉が務める。不平等条約。 1858年 7月18日、日英修好通商条約が徳川幕府とエルギン卿の間で調印。 関税自主権の制限や治外法権承認(領事裁判権)など、日本に不利な不平等条約が継続・強化される。同年、長崎に日本初の公的な英語教育機関として英語伝習所が設立。 1859年 ジャーディン・マセソン商会の代理人としてスコットランド人のトーマス・ブレーク・グラバーが長崎へ来日、以後幕末・明治の日本の政財界と深く関わる。 1862年 イギリス書記官アーネスト・サトウの来日、そのすぐ後に生麦事件が発生。薩摩藩士によりイギリス人が殺害。その後も日本国内でのイギリス...
  • 翼賛議会
    翼賛議会(よくさんぎかい)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)中に於ける帝国議会の呼称。その始期については新体制運動の中で既存政党が解党されて大政翼賛会が結成された1940年とするのが一般的であるが、翼賛議会としての体裁が本格的に整うのは、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)以後のことである。 概説 戦時下で行われた唯一の国政選挙となる1942年4月30日の第21回衆議院議員総選挙は、大政翼賛会が推薦した候補者(主に大政翼賛会の別働隊的院内会派である翼賛議員同盟の議員を中心としていた)に対してよく翼賛会の下部組織の一つである大日本翼賛壮年団(翼壮)をはじめとする官民からの支援が行われ、逆に非推薦候補者に対しては選挙干渉とも言えるような圧迫が加えられたとされている。この結果、466の定数のうち381名の翼賛会推薦議員が当選した。このため、この選挙を翼賛選挙とも呼ぶ。 翼賛選挙...
  • 中野正剛
    中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は昭和期のジャーナリスト、右翼団体東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。 経歴 生い立ち・学生時代 旧福岡藩士中野泰次郎と母トラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区荒戸)の伯父中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。 福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)修猷館を卒業後早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社で...
  • 昭和-2
    前半は昭和参照 略年表 ()内は昭和での年代を表す。 昭和 X 年と西暦 Y 年とは X = Y - 1925 の関係にある。 昭和前期 1927年(2年):昭和金融恐慌 1928年(3年):張作霖を爆殺。男子普通選挙実施 1929年(4年):世界恐慌 1930年(5年):金輸出解禁 1931年(6年):柳条湖事件、満州事変 1932年(7年):満洲国建国、血盟団事件、五・一五事件 1933年(8年):12月23日 継宮明仁親王(のちの皇太子となり、後に今上天皇)誕生、滝川事件、国際連盟脱退 1935年(10年):天皇機関説問題 1936年(11年):二・二六事件、日独防共協定締結 1937年(12年):日中戦争開戦 、日独伊防共協定締結 朝鮮で皇国臣民ノ誓詞を発布する。 1938年(13年):国家総動員法制定 1939年(14年):ノモンハン事件、ドイツが...
  • 寺内寿一
    寺内 寿一(てらうち ひさいち、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日は、日本の陸軍軍人、元帥陸軍大将、政治家。伯爵。第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。山口県出身。 経歴 東高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、成城学校を経て 1899年(明治32年)11月 陸軍士官学校(11期)卒業 1904年(明治37年)3月 日露戦争に出征 1909年(明治42年)12月 陸軍大学校(21期)を卒業 1919年(大正8年)7月 大佐に昇進 1919年(大正8年)12月 伯爵を襲爵 1924年(大正13年)2月 少将に昇進 1926年(大正15年)9月 山陽本線特急列車脱線事故に遭遇。34名も死亡した事故であったが、寺内は無傷であった。 1927年(昭和2年) 朝鮮軍参謀長 1929年(昭和4年)8月 中将に昇進 193...
  • 普通選挙法
    普通選挙法(ふつうせんきょほう)とは、1925年(大正14年)、加藤高明内閣によって成立した、成年男子による普通選挙を規定する法律である。普通選挙法というのは通称であり、実体は衆議院議員選挙法を改正したものである。 成立 既に起こっていた第一次護憲運動により、民衆の普通選挙を求める運動が高まっていたさなか、貴族院を背景とした清浦奎吾内閣は衆議院を無視して内閣を組閣する。これに対し、高橋是清、犬養毅、加藤高明の3人が中心となって、護憲三派を形成、第二次護憲運動が始まる。この運動は政党内閣の結成、普通選挙の実施を公約に掲げて行われ、護憲三派は衆議院選挙で勝利を収め、憲政会総裁である加藤高明内閣を組閣する。 こうして公約通り1924年6月11日衆議院議員選挙法(普通選挙法)は改正(成立)された。しかし、政府原案中の、選挙・被選挙権資格規定に関しては、1925年2月の枢密院の修正(被選挙...
  • 大村益次郎
    ...れる。天保13年(1842年)、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の門下となり、1844年6月まで学ぶ。弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎で1年間遊学し、その後適塾の塾頭まで進んだ。 嘉永3年(1850年)、父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵と名乗る。翌年、隣村の農家の娘琴子と結婚した。だが口数が少なく無愛想で、村人が診てもらうと身体のしくみ等を何やら小難しい言葉でくどくどと説明したので「大坂で何の勉強したのやら」とあまり評判のよい医者ではなかったという。 講武所教授 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代となり、大村は伊予宇和島藩の要請で出仕する。このとき藩主伊達宗城は参勤交代で不在、家老も京都へ出張中であった。宇和島藩...
  • 東方会
    東方会(とうほうかい)とは、1933年(昭和8年)、中野正剛によって結成された日本の思想団体及び政治団体。 概要 元来、1917年に中野が東則正の『東方時論』に招かれたのを機に開かれた勉強会の名称であった。当時は小村欣一・荒木貞夫・林銑十郎・金子直吉・吉野作造・内藤湖南などが会員として名を連ねていた。後に中野の政界転出などで自然消滅するが、1933年に中野の手によって同名の新たな勉強会・思想団体として再建された。 立憲民政党を離党し国民同盟を結成していた中野正剛は、1935年(昭和10年)、国家社会主義化していった国民同盟を離脱。翌1936年(昭和11年)5月、「内なる民主主義、外なる民族主義」を標榜した思想団体だった東方会を政治団体とした。 1939年(昭和14年)、社会大衆党の麻生久らと東方会と社会大衆党の合同を画策するも失敗。社会大衆党は翌1940年(昭和15年)に解党し...
  • 幸徳秋水
    Template Infobox 革命家? 幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、明治4年9月23日(1871年11月5日) - 明治44年(1911年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、アナキスト。本名は幸徳傳次郎(こうとく でんじろう)。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件で処刑された12名の1人。 経歴 高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家であった。なお、妻の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。 明治20年(1887年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。新聞記者をめざし、『自由新聞』などに勤めた。明治31年(1898年)より『万朝報』記者...
  • 明治天皇
    Template 基礎情報 天皇? 明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、第122代天皇(在位 慶応3年(1867年) - 明治45年(1912年))。諱は睦仁(むつひと)。幼少時の御称号は祐宮(さちのみや)。印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した。その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝(Mutsuhito the Great)とも呼ばれたこともあった。 略歴 出生 明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・慶子(よしこ)。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、京都・中山忠能邸で生まれ、父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名した。 万延元年(1860年)5月、儲君(皇太子)となる。9月28日、孝明天皇から親王宣下を受け、「睦仁」...
  • 日泰攻守同盟条約
    日泰攻守同盟条約(にったいこうしゅどうめいじょうやく)(昭和16年条約第20号)は、大東亜戦争(太平洋戦争)中に大日本帝国とタイ王国の間に結ばれた同盟に関する条約である。 歴史 背景 欧米側の都合と巧妙な外交手腕によって侵略を免れ、大日本帝国と同じく独立を保ってきたタイは、同じアジア人として日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後のリットン調査団の報告によって、国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。また、元帥プレーク・ピブーンソンクラームによる独裁体制が固められ、フランス領インドシナに日本軍が進駐すると、かつてフランスに奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留フランス軍と紛争となったが、翌年には日本軍の介入で講和。これによってタイは旧領土のほとんどを回復し、日本への協力姿勢を強めた。 参戦 日泰攻守同盟条約では、アジアにおける新...
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