chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「918年」で検索した結果

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  • 1918年米騒動
    Template Otheruseslist? 1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)とは、近世から近代にかけての日本における米価格急騰にともなう暴動事件。 背景 米価の暴騰 thumb|300px|[[堂島米会所における当時の米相場]] 第一次世界大戦の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年の中ごろから急激に上昇しはじめた。大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円-25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した。 この背景には資本主義の急速...
  • 朝鮮軍 (日本軍)
    ...称変更、大正7年(1918年)に朝鮮軍となった。司令部は当初漢城の城内に置かれたが、後に郊外の京城府龍山(現・ソウル特別市龍山区)に移転した。 昭和20年(1945年)2月、戦況逼迫に伴い第17方面軍が設けられ朝鮮軍は廃止されたため、管轄区域の朝鮮軍管区は第17方面軍司令部が兼ねた朝鮮軍管区司令部が管轄した。 歴代朝鮮軍司令官 Template 日本陸軍? 韓国駐剳軍司令官 原口兼済中将:明治37年(1904年)3月11日 - 明治37年(1904年)9月8日 長谷川好道大将:明治37年(1904年)9月8日 - 明治41年(1908年)12月21日 大久保春野大将:明治41年(1908年)12月21日 - 明治43年(1910年)10月1日 朝鮮駐剳軍司令官 大久保春野大将:明治43年(1910年)10月1日 - 明治44年(1911年)8月18日 ...
  • 学習院
    ...は旧位置)。 1918年(大正7年) 女学部が青山に移転して、女子学習院となる。 1919年(大正8年) 学習院の初等学科・中等学科・高等学科を初等科・中等科・高等科に改める。 1928年(昭和3年) 学習院開校創立五十年祝典を挙行する。 1935年(昭和10年) 女子学習院開校五十年記念式を挙行する。 1946年(昭和21年) 女子学習院は牛込区戸山町に、学習院中等科(1・2年)は小金井(現在の都立小金井公園の敷地内)に移転する。 1947年(昭和22年) 学習院学制・女子学習院学制廃止 歴代学習院院長一覧 財団法人学習院、学校法人学習院のもとでの歴代院長は学校法人学習院の当該節を参照 代氏名就任時期備考 初代立花種恭1877年 - 1884年三池藩第8代藩主、子爵 第2代谷干城1884年 - 1885年陸軍中将、子爵 第3代大鳥圭介188...
  • 原内閣
    ...大臣  原敬(1918年(大正7年)9月20日 - 1921年(大正10年)11月4日) 内田康哉首相死去により、内田康哉外務大臣が臨時兼任。(1921年(大正10年)11月4日 - 同年11月13日) 外務大臣 内田康哉 内務大臣 床次竹二郎 大蔵大臣 高橋是清 陸軍大臣  田中義一(1918年(大正7年)9月20日 - 1921年(大正10年)6月9日) 山梨半造(1921年(大正10年)6月9日 - 同年11月13日) 海軍大臣 加藤友三郎 司法大臣 原敬(兼任)(1918年(大正7年)9月20日 - 1920年(大正9年)5月15日) 大木遠吉(1920年(大正9年)5月15日 - 1921年(大正10年)11月13日) 文部大臣 中橋徳五郎 農商務大臣 山本達雄 逓信大臣 野田卯太郎 鉄道大臣 元田肇(1920年(大正9年)5月1...
  • 米騒動
    ...0年、1897年、1918年の3度を数える。 1890年の米騒動 1890年1月18日、富山県富山市において市民による市役所・資産家に対する救助要請運動が始まったのをきっかけとして同年4月から9月にかけて鳥取県、新潟県、福島県、山口県、京都府、石川県、福井県、滋賀県、愛媛県、宮城県、奈良県など19箇所において騒動が発生した。特に新潟県佐渡市相川町では6月28日から7月5日にかけて鉱夫を中心として2000名以上が蜂起し、軍隊の出動をもって鎮圧する事態にまで発展している。Template 要出典? 1897年の米騒動 1897年5月下旬の富山県魚津町での騒動をきっかけとして始まった騒動で、同年8月から10月にかけて石川県、長野県、山形県、新潟県、福井県など10箇所において発生した。最も大騒動となったのは長野県飯田町の騒動で9月1日から9月3日の3日間で約2000名の民衆が...
  • 北洋軍閥
    ...(1917年 - 1918年) 徐世昌 中華民国大総統(1918年 - 1922年) 黎元洪 中華民国大総統(1922年 - 1923年) 曹 #37653; 中華民国大総統(1923年 - 1924年) 段祺瑞 臨時執政(1924年 - 1926年) 張作霖 海陸軍大元帥(1926年 - 1928年) 関連項目 軍閥 外部リンク 中国近代史研究 北洋軍閥考 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月8日 (木) 13 38。    
  • 土地調査事業
    ...後の1910年から1918年にかけて実施された。事業には、朝鮮総督府に設置された臨時土地調査局があたり、土地所有権の確定や土地価格の査定などを行った。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月19日 (火) 21 29。    
  • 台湾総督府
    ...5年5月1日 - 1918年6月6日 7 明石元二郎あかし もとじろう 1918年6月6日 - 1919年10月29日 8 田健治郎でん けんじろう 文官 1919年10月29日 - 1923年9月6日 9 内田嘉吉うちだ かきち 1923年9月6日 - 1924年9月1日 10 伊沢多喜男いざわ たきお 1924年9月1日 - 1926年7月16日 11 上山満之進かみやま みつのしん 1926年7月16日 - 1928年6月16日 12 川村竹治かわむら たけじ 1928年6月16日 - 1929年7月30日 13 石塚英蔵いしづか えいぞう 1929年7月30日 - 1931年1月16日 14 太田政弘おおた まさひろ 1931年1月16日 - 1932年3月3日 15 南弘みなみ ひろし 1932年3月3日 - 1932年5月17日 1...
  • 寺内正毅
    ...日 - 大正7年(1918年)9月29日)。元帥陸軍大将従一位勲一等功一級伯爵。  経歴 1852年、現在の山口市に長州藩士宇多田正輔の三男として生まれる。後に母方の寺内家を継いだ。 明治元年(1868年)、御盾隊隊士として戊辰戦争に従軍し、箱館五稜郭まで転戦した。その後山田顕義の推薦によって陸軍士官として累進し、西南戦争最大の激戦とされた田原坂の戦いで負傷して右手の自由をなくした。そのため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。 閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学(駐在武官を兼務)後、明治20年(1887年)陸軍士官学校長に就任。日清戦争では兵站の最高責任者である運輸通信長官を務めた。明治31年(1898年)教育総監、同33年(1900年)参謀次長などを勤め、第1次桂内閣(1901年6月2日 - 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣と...
  • 白虹事件
    ...聞(現朝日新聞)が1918年に起こした筆禍事件。 当時、大阪朝日新聞は大正デモクラシーの先頭にたって言論活動を展開し、特にシベリア出兵や米騒動に関連して寺内正毅内閣を激しく批判していた。1918年8月25日、米騒動問題に関して開かれた関西新聞社通信大会の報道記事の中に「白虹日を貫けり」という一句があったが、これは内乱が起こる兆候を指す故事成語であったため、不穏当だと判断した大阪朝日新聞編集幹部はすぐさま新聞の刷り直しを命じた。しかし、すでに多数の新聞が出回った後だった。後に新聞紙法の「朝憲紊乱」に当たるとして、当局が大阪朝日新聞の発行禁止に持ち込もうとした。当時、激しい批判にさらされていた寺内政権が弾圧の機会を窺っていたと指摘されている。さらに憤激した右翼団員が大阪朝日新聞社に押しかけ、村山龍平社長を街頭に引きずり出して全裸にしたうえ電柱に縛りつけ、首に「国賊村山龍平」と書いた札を...
  • シベリア出兵
    ...ntion)とは、1918年から1924年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が第一次世界大戦から離脱したロシア共和国に対し、「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という名目でシベリアに出兵した事件。 背景 第一次世界大戦でヨーロッパは二つに割れ、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国と、フランス・ロシア帝国・イギリスなどの協商国が争っていた。戦争が長期化し、近代化の遅れていたロシアは開戦後すぐに弾薬が尽き、食料は不足し、財政は破綻した。困窮したロシア市民の支持を得て、レーニンの指導する赤軍が勢力を増し、1917年10月に世界最初の社会主義革命であるロシア革命が起きる。1918年に帝国は崩壊し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が発足した。 ロシア共和国は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト・リト...
  • 東洋拓殖
    ...事業(1910年~1918年)で日本が接収した土地のうちから1万1400町歩が現物出資されるなどし、朝鮮農民の反発を受けて買収が停滞するものの1919年には7万8000町歩(全耕作面積の約1.8%)を保有した。 同社の日本人移民事業は挫折したが、接収した土地で朝鮮人を小作として働かせ、地主兼金融業を中心業務とするようになった。そのため、日本の敗戦に至るまで朝鮮における最大の地主となり、1937年には小作人7万8667人を擁した。また、天皇家が同社の株を所有していたことも含め、名実とも日本の朝鮮経営の中心となった。 1917年に東拓法が改正され、本店が東京に移されると共に満州、モンゴル、華北、南洋にまでその営業範囲を広げた。 関連項目 朝鮮銀行 南満州鉄道株式会社 満州拓殖公社 南洋興発株式会社 台湾拓殖 釜山近代歴史館 - 元釜山支店 参考文献 『東拓十...
  • 普通選挙
    ...が実施された。 1918年 イギリスで男子普通選挙が実施された。 1919年 ドイツ共和政において、世界初の完全普通選挙が実施された。 1920年 アメリカで女性に選挙権が認められる。 1928年 日本で衆議院選挙の際に男子25歳以上の者で実施された。 1928年 イギリスで女子(21歳以上)に選挙権が認められた。 1945年 日本において男女20歳以上の者に選挙権を与える規定に基づき婦人参政権が成立した。 1945年 フランスで女子(21歳以上)の選挙権が認められた。 関連項目 参政権 女性参政権 普通選挙法 制限選挙・被選挙権・供託金 代表なくして課税なし 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月7日 (金) 22 49。    
  • 十四か条の平和原則
    ...いわげんそく)は、1918年1月8日、第一次世界大戦終結のために、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンがアメリカ連邦議会での演説を通じて発表した平和原則。 概要 この提案がドイツの降伏を引き出し、1919年のパリ講和会議では、アメリカの中心的な主張となった。 主に以下のことが柱になっている。 秘密外交の廃止 海洋の自由 経済障壁の撤廃 軍備縮小 国際平和機構の設立 民族自決 植民地問題の公正解決 国際平和機構は後に国際連盟として結実した。 しかしながら、パリ講和会議ではイギリスやフランスに無視され、ドイツに対して過酷な賠償を科すこととなった。形式的に東欧で民族自決の原則により独立が認められた国々があったがこれはあくまでもロシア革命やハンガリー革命から西欧を防衛することを目的とした方便によるものであり(そして、70年後のチェコスロバキア・ユーゴスラビア解体後...
  • 支那駐屯軍
    ...日 - 大正7年(1918年)6月10日 金谷範三 少将 大正7年(1918年)6月10日 - 大正8年(1919年)7月25日 南次郎 少将 大正8年(1919年)7月25日 - 大正10年(1921年)1月20日 鈴木一馬 少将 大正10年(1921年)1月20日 - 大正12年(1923年)8月6日 吉岡顕作 少将 大正12年(1923年)8月6日 - 大正14年(1925年)5月1日 小泉六一 中将 大正14年(1925年)5月1日 - 大正15年(1926年)3月2日 高田豊樹 中将 大正15年(1926年)3月2日 - 昭和2年(1927年)7月26日 新井亀太郎 中将 昭和2年(1927年)7月26日 - 昭和4年(1929年)3月16日 植田謙吉 中将 昭和4年(1929年)3月16日 - 昭和5年(1930年)12月22日 香椎浩平 少将 昭和5年...
  • 第一次世界大戦-2
    ...た。1915年から1918年にかけて、イギリス、フランスおよびロシアとセルビアの残軍はこのところでブルガリアと対峙していた。1917年4月~6月、イギリス軍はブルガリアに対する攻撃に失敗したものの、ギリシャが協商国側で参戦し、協商国側は有利になった。 1918年、連合軍の総攻撃に伴い、兵力が足りないドイツ軍は連合軍に降伏した。既に戦争遂行能力に問題のあったブルガリアでは国内で反乱が起き、民衆の間で戦争をやめる掛け声が高まりつつあった。停戦が宣言されるまで反乱は止まらなかった。敗戦後の混乱で、当時ブルガリア王であったフェルディナンド1世は英仏の圧力を受け、退位しなければならなかった。 ロシア革命 right|thumb|220px|[[10月革命におけるウラジーミル・レーニンペトログラード 1917年]] Template main? 戦争が長期化するにつれて、ロシア政府...
  • 京城帝国大学
    ...立学校規則を公布、1918年に書堂規則を公布し、より教育の統一性を図った。初等学校への就学率は併合時代の最末期で男子が6割、女子が4割程度まで上昇した。 1918年、日本(内地)での高等学校令改正に直接的な影響を受けて、1920年に臨時教育調査委員会が設置され、その答申に基く「第二次朝鮮教育令」(1922年)により、朝鮮でも法的に大学設立が可能となった。この動きには、日本内地における大正デモクラシー(1918年~)や、1919年の三・一独立運動の発生の影響があるとされる。 朝鮮総督府の武断政治から文化政治への政策転換は「内地延長主義」と呼ばれるが、朝鮮での教育に関しては「内鮮共学」と呼ばれる(台湾でもこの頃同様な政策転換があった→日本統治時代 (台湾))。他方、「内鮮共学」対抗し、三・一独立運動以降の1920年頃からは、民族系の団体が私立の「朝鮮民立大学」設立の動きを見せ、また、...
  • 民本主義
    ...の政権運用の目的は1918年(大正7年)に「中央公論」に掲載された「民本主義の意義を説いて再び憲政有終の美を済すの途を論ず」では除かれた)。吉野が敢えて“民主主義”を言わなかったのは、当時の憲法が天皇主権制を採っていた為である。 関連 吉野作造 - 民本主義を率先して提唱した人物。 福田徳三 - 福祉国家論、民本主義を提唱した日本を代表する経済学者。 上杉慎吉 - 民本主義を批判した人物。中央公論で論争に。 大正デモクラシー 民主主義    出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月20日 (木) 07 41。   
  • 柳川平助
    ...大学校教官を経て、1918年に北京陸軍大学校に教官として着任。国際連盟派遣、欧州駐在を経て荒木貞夫陸軍大臣の下で1932年に陸軍次官、真崎甚三郎らと皇道派の重鎮となる。 1934年に第一師団長となるが、荒木・真崎の力が衰えた1935年に台湾軍司令官に追いやられる。1936年の二・二六事件の後に予備役編入。 第二次世界大戦時 1937年に第二次上海事変で中国国民党軍を押し切れない上海派遣軍支援のために、第10軍が編成され、柳川が司令官に任命されて現役に復帰、杭州湾上陸作戦を指揮。上海では国民党軍が退却寸前での作戦であったため、十分な戦果を挙げられなかったが、続いての南京戦で戦果を挙げる。 1938年3月に中支那方面軍の再編成に伴い召集解除、帰還。1938年12月に設立された興亜院の初代総務長官。1940年に第2次近衛内閣で、司法大臣を務め、第3次近衛内閣では国務大臣に転じた...
  • 後藤新平
    ... |退任日2 = 1918年 |退任理由2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 第33代外務大臣 |内閣3 = 寺内内閣 |就任日3 = 1918年 |退任日3 = 1918年 |退任理由3 = |国旗4 = 日本 |職名4 = 第20代逓信大臣 |内閣4 = 第3次桂内閣 |就任日4 = 1912年 |退任日4 = 1913年 |退任理由4 = |国旗5 = 日本 |職名5 = 第18代逓信大臣 |内閣5 = 第2次桂内閣 |就任日5 = 1908年 |退任日5 = 1911年 |退任理由5 = }} 後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。 経歴・人物 伯爵(明治39年(1906年)男爵、大正11年(1...
  • 立憲国民党
    ...え、物議を醸した。1918年(大正7年)6月20日に分裂以後に唯一の常務委員であった犬養を総理(党首)とし、幹事長に鈴木梅四郎、政務調査会長に大口喜六、総務(1名)に関直彦を任命した。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙では29名当選と振るわず、1922年(大正11年)9月1日 解党した。 犬養は11月に革新倶楽部を結成し次の政局に備えることになる。 脚注 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月20日 (月) 18 34。     
  • 皇典講究所
    ...正 1911年~1918年 鍋島直大(元佐賀藩藩主) 1919年~1919年 土方久元(農商務・宮内大臣) 1919年~1920年 小松原英太郎(元文部大臣) 1920年~1925年 一木喜徳郎(枢密顧問官、元文部・内務大臣) 1926年~1933年 江木千之(枢密顧問官、元文部大臣) 1933年~1933年 徳川圀順(水戸徳川家13代) 1933年~1946年 佐佐木行忠(佐佐木高行の孫、貴族院議員) 沿革 1882年 研究機関として発足、同時に教育機関としての役目も担う。3府40県に皇典講究所分所が設置される。 1885年 第1回卒業式を挙行 1888年 補充中学校(現・東京都立戸山高等学校)を設立 1889年 夜間に日本法律学校(現・日本大学)を設立。 1890年 國學院を設立。補充中学校を共立中学校に改称 1893年 國學院の第1回卒業式を挙行 ...
  • 荒木貞夫
    ...ロシア軍に従軍(~1918年4月)。 8月 - 中佐に昇進。参謀本部附仰付(ハルピン特務機関)。 1918年(大正7年)7月24日 - 大佐に昇進。関東都督府附。 11月1日 - ウラジオストク派遣軍参謀。 1919年(大正8年)7月25日 - 歩兵第23連隊長。 1921年(大正10年)4月1日 - 参謀本部欧米課長。 1923年(大正12年)3月17日 - 少将に昇進。歩兵第8旅団長。 1924年(大正13年)1月9日 - 憲兵司令官。 5月 - 国本社理事。 1925年(大正14年)5月1日 - 参謀本部第1部長。 1927年(昭和2年)7月26日 - 中将に昇進。 1928年(昭和3年)8月10日 - 陸軍大学校校長。 1929年(昭和4年)8月2日 - 第6師団長。 1931年(昭和6年)8月1日 - 教育総監部本部長。 12月13日 - ...
  • 土肥原賢二
    ...大尉に昇進。 1918年(大正7年)6月 - 参謀本部員。 1919年(大正8年)7月 - 少佐に昇進。 1920年(大正9年)1月 - 参謀本部員。 4月 - 歩兵第25連隊大隊長。参謀本部附(沿海州・中国出張。) 1921年(大正10年)6月 - 欧米出張。 1922年(大正11年)8月 - 参謀本部員。 12月 - 参謀本部附(中国出張。坂西機関補佐官。) 1923年(大正12年)8月 - 中佐に昇進。 1926年(大正15年)3月 - 歩兵第2連隊附。 1927年(昭和2年)3月 - 歩兵第3連隊附。 4月 - 中国出張。 7月26日 - 大佐に昇進。第1師団司令部附。 1928年(昭和3年)3月20日 - 奉天督軍顧問。 1929年(昭和4年)3月16日 - 歩兵第30連隊長。 1931年(昭和6年)3月 - 中国出張。 7月26日 ...
  • 谷寿夫
    ...(1915年 - 1918年)中、第一次世界大戦にも従軍する。その後、陸軍大学校の教官(兵学)に任命される。その時、兵学の教科書として、日露戦争を研究する時の必読書として知られる、『機密日露戦史』をあらわす。 1935年、第6師団長(熊本)に親補される。1937年12月、中支那方面軍(松井石根司令官)の隷下として第6師団も南京攻略戦に参軍する。このとき、所謂、南京大虐殺がおきたとされる。南京攻略戦の成功により、中部防衛司令官に任命された。 1939年、予備役となる。戦後、南京大虐殺の責任を問われ、中国側に身柄を引き渡され、南京裁判にかけられ処刑される。裁判において谷は、申弁書で、掃討戦は第16師団(当時の師団長は中島今朝吾)が起こしたものであり、第6師団は無関係と主張した。 だが、現在でも中国側からは、南京裁判で処刑されたことで、南京大虐殺の責任者として松井石根につぎ知名度が高...
  • 国立銀行 (明治)
    ...東京に移転した後、1918年に破産 第十五国立銀行(十五銀行)→1944年に帝国銀行に合併。現在の三井住友銀行 第十六国立銀行(十六銀行) 第十七国立銀行(十七銀行)1945年に筑邦銀行(現在の筑邦銀行とは無関係)、嘉穂銀行、福岡貯蓄銀行と合併し、福岡銀行 第十八国立銀行(十八銀行) 第十九国立銀行(第十九銀行)→六十三銀行と合併し八十二銀行(19+63=82) 第二十国立銀行(二十銀行)→1912年に第一銀行に合併 第二十一国立銀行(二十一銀行)→1929年に伊香銀行、江北銀行と合併して湖北銀行となり、その後1942年に滋賀銀行に買収 第二十二国立銀行(二十二銀行)→1923年に当行等11行保善銀行(安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第二十三国立銀行(二十三銀行)→1927年大分銀行に合併され...
  • 大正
    ...原敬が首相となり、1918年本格的政党内閣として原敬内閣が成立する。しかし、1921年に原が東京駅頭で一青年に暗殺された。 続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となったが、政友会の調整能力に欠き、高橋内閣倒閣後は非政党内閣が続いた。 その後、関東大震災や虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した。護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)は選挙で勝利し、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した(1924年、第二次大正政変)。 加藤高明内閣は1925年(大正14年)、普通選挙法を成立させ、ついに身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権を与える普通...
  • 原敬
    ...内閣総理大臣(在任1918年9月29日 - 1921年11月4日)。正二位大勲位。 概説 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満Template 没年齢?。 なお、通称名である「はら けい」が用いられるケースもある(原敬記念館、原敬日記など)。 生涯 生い立ち 原敬は、安政3年(1856年)2月9日、盛岡藩盛岡城外の本宮村(現在の盛岡市本宮)で盛岡藩士原直治の次男として生まれた。後に「平...
  • 阿南惟幾
    ...大尉に昇進。 1918年(大正7年)11月 - 陸軍大学校卒業(30期)。 1919年(大正8年)4月 - 参謀本部附勤務。 12月 - 参謀本部員。 1922年(大正11年)2月 - 少佐に昇進。 1923年(大正12年)8月 - サガレン州派遣軍参謀。 1925年(大正14年)8月 - 中佐に昇進。 1926年(大正15年)4月 - 軍令部参謀。 1927年(昭和2年)8月 - フランス出張。 12月 - 歩兵第45連隊附。 1928年(昭和3年)8月10日 - 歩兵第45連隊留守隊長。 1929年(昭和4年)8月1日 - 侍従武官。 1930年(昭和5年)8月1日 - 大佐に昇進。 1933年(昭和8年)8月1日 - 近衛歩兵第2連隊長。 1934年(昭和9年)8月1日 - 東京陸軍幼年学校長。 1935年(昭和1...
  • 五四運動
    ...四か条の平和原則(1918年)、三一運動(1919年)である。これらは中国におけるナショナリズムの高揚を促進させたといえる。 近景―反日気運の醸成と新文化運動― 政治的背景は2つある。まず対華21ヶ条要求受諾が挙げられる。第一次世界大戦勃発後の1915年1月18日、大隈重信内閣により袁世凱政権に対華21ヶ条要求が出され、袁政権は日本人顧問を置くとする5号条項(7ヶ条分)を除き、要求を受け入れた。国民はこの要求が突きつけられた日(5月7日)と受諾した日(5月9日)を国恥記念日と呼んだ。一説には袁世凱が後に中国皇帝となるのを日本が黙認することが取引条件とされたという。 次の政治的背景には中国軍閥と日本との密接な関係が挙げられる。袁世凱は待望の皇帝となったものの、世論の激しい反発を買い、失意のうちに没した。その後、後継争いが発生し、中国は軍閥割拠の時代に突入するが、自軍強化のため...
  • 仮20
    ...シング協定締結 1918年(大正7年) 米騒動、シベリア出兵 関税自主権回復 護憲運動(憲政擁護運動) 1912年(大正1年) 第一次 1924年(大正13年) 第二次 1923年(大正12年) 関東大震災、虎の門事件 1925年(大正14年) 治安維持法、普通選挙法 昭和(戦前年) 1927年(昭和2年) 昭和金融恐慌、東方会議、山東出兵 1928年(昭和3年) 三・一五事件、張作霖爆殺事件 1929年(昭和4年) 世界恐慌 1931年(昭和6年) 柳条湖事件、満州事変、三月事件、十月事件 1932年(昭和6年) 血盟団事件、五・一五事件 1932年(昭和7年) 第一次上海事変 1933年(昭和8年) 国際連盟脱退、滝川事件、神兵隊事件 1934年(昭和9年) 帝人事件 1935年(昭和10年) 相沢事件、天皇機関説問題 1936年(昭和1...
  • 立憲政友会
    ...7年第一党に復帰、1918年米騒動後、1918年(大正7年)に原敬が首班となって、日本最初の本格的な政党内閣を組織した。 原敬の暗殺後、急遽新総裁に迎えられた高橋是清を支持する横田千之助と、それに反対する床次竹二郎の2派に分裂、床次らは分離して政友本党を結成する。横田らは第二次護憲運動にも参加し、加藤高明護憲三派内閣に参加。 1925年には元陸軍大臣田中義一が総裁となる。田中の下で政友会は次第に親軍的な保守色を帯びるようになる。1927年成立の田中内閣は田中外交と呼ばれる中国での積極政策を推進し左翼運動を弾圧するが、張作霖爆殺事件の処理を巡り退陣する。 昭和に入って数年は民政党と交替で政権をになったが、1932年(昭和7年)、五・一五事件で犬養毅が暗殺されてからは軍部に圧迫されて衰退し、1936年の総選挙では総裁の鈴木喜三郎が落選するなどの大惨敗を喫した。さらに1939年に次期...
  • 梁鴻志
    ...を結び、民国7年(1918年)3月に王が安福倶楽部を創始すると、梁もこれに加わり、さらに参議院議員に当選した。後に、参議院秘書長に就任している。民国9年(1920年)7月の安直戦争で安徽派が敗北すると、梁も指名手配されたため、天津の日本租界に逃げ込んだ。 民国13年(1924年)10月の北京政変(首都革命)で段祺瑞が臨時執政として復権すると、梁鴻志も臨時執政秘書長に就任した。しかし、民国14年(1925年)11月に辞任を余儀なくされ、しばらくして段も失脚してしまい、中央から追われることになった。民国17年(1928年)、中国国民党の北伐勝利と共に、梁も指名手配され、しばらくは大連に隠れ住んだ。民国19年(1931年)の満州事変後に、段が天津から上海に移ると、段が民国25年(1936年)に死去するまで、梁はこれに随従している。 維新政府から南京国民政府へ 日中戦争の本格勃発後...
  • 鈴木商店
    ...、信越電力他 1918年 日本冶金工業、旭石油、東洋マッチ、帝国樟脳他 1919年 帝国炭素、国際汽船他 1920年 帝人、新日本火災保険他 絶頂期 1914年、第一次世界大戦が始まる。当時、戦争はすぐに終結し戦争被害による影響で物価が下がるというのが大方の見方であった。鈴木商店は海外電報を駆使して戦況を集め物価は高騰するとよみ、世界中で投機的な買い付けを行う。 鉄、小麦、船などについて日本を介さない三国間貿易を始めるなど(ちなみにこの三国間貿易を手がけたのが、当時ロンドン支店勤務だった高畑誠一である)、独創的な手法で売り上げが急拡大する。1919年~1920年の全盛時代、鈴木商店の売上げは、16億円(当時の新入社員の初任給が70円、また当時の日本のGNPの約一割)に達した。この額は三井物産や三菱商事を遥かに上回っていた。また、当時のスエズ運河を通過す...
  • 木村兵太郎
    ...。 大正7年(1918年) 7月 - 大尉に昇進。参謀本部員。 8月 - 第3師団参謀。 大正11年(1922年) 1月 - 参謀本部附仰付。 5月 - ドイツ駐在。 大正12年(1923年)8月 - 少佐に昇進。 大正14年(1925年)10月 - 陸軍大学校教官。 大正15年(1926年)8月 - 砲兵第24大隊長。 昭和3年(1928年) 3月 - 中佐に昇進。 7月 - 砲兵監部員。 昭和4年(1929年) 6月 - 陸軍野戦砲兵学校教官。 9月 - 軍令部員(参謀本部員との兼任)。 11月 - ロンドン海軍軍縮会議随員。 昭和6年(1931年)8月1日 - 大佐に昇進。野砲兵第22連隊長。 昭和7年(1932年)8月8日 - 技術本部員(陸軍野戦砲兵学校教官との兼任)。 昭和10年(1935年)3月1...
  • 内閣総理大臣の一覧
    ...6年10月9日- 1918年9月29日 721 長州藩山口県 陸軍軍人 長州閥朝鮮総督現役陸軍大将 19 10 原敬はら たかし 原内閣1918年9月29日- 1921年11月4日 1,133 盛岡藩岩手県 司法省法学校中退郵便報知新聞社記者外務官僚 立憲政友会総裁衆議院議員在任中暗殺 ― (内田康哉)(うちだ こうさい) (原内閣)1921年11月4日- 1921年11月13日 (外務大臣内田康哉が内閣総理大臣臨時兼任) 20 11 高橋是清たかはし これきよ 高橋内閣1921年11月13日- 1922年6月12日 212 仙台藩東京府 ヘボン塾現・明治学院大学日銀総裁 立憲政友会総裁衆議院議員 21 12 加藤友三郎かとう ともさぶろう 加藤友三郎内閣1922年6月12日- 1923年8月24日 440 広島藩広島県 海軍兵学寮卒海軍軍人...
  • アジア主義
    ...1年 辛亥革命 1918年 第一次世界大戦終戦 1919年 パリ講和会議開催、ヴェルサイユ条約締結 1924年 孫文の大アジア主義講演 1927年 山東出兵 1931年 満州事変勃発 1932年 満州国建国 1937年 盧溝橋事件(日中戦争勃発) 1938年 三木清が東亜協同体論を発表 1940年 近衛文麿内閣が基本国策要綱策定(大東亜の新秩序建設理念確立) 1941年 ABCD包囲網施行、太平洋戦争勃発 1943年 大東亜会議開催 1945年 日本国敗戦 人物・組織・思想 興亜会 1880年、海軍軍人で中国での情報活動に従事していた曽根俊虎などを中心に設立された。琉球処分や壬午軍乱などで日清関係が悪化していくなかで両国の提携論を標榜し、最初のアジア主義団体とされている。日清提携のための中国語での機関誌発行や語学教育に力を入れた。のち亜細亜協会と改...
  • 真崎甚三郎
    ...総監第2課長。 1918年(大正7年)1月18日 - 大佐に昇進。 1920年(大正9年)8月10日 - 陸軍省軍事課長。 1921年(大正10年)7月20日 - 近衛歩兵第1連隊長。 1922年(大正11年)8月15日 - 少将に昇進。歩兵第1旅団長。 1923年(大正12年)8月6日 - 陸軍士官学校本科長。 1924年(大正13年)3月 - 欧米出張(~9月)。 1925年(大正14年)5月1日 - 陸軍士官学校幹事兼教授部長。 1926年(大正15年)3月2日 - 陸軍士官学校校長。 1927年(昭和2年)3月5日 - 中将に昇進。 8月26日 - 第8師団長。 1929年(昭和4年)7月1日 - 第1師団長。 1931年(昭和6年)8月1日 - 台湾軍司令官。 1932年(昭和7年)1月9日 - 参謀次長。 1933年(昭和8年)6月19日 -...
  • 松井石根
    ...9年2月)。 1918年(大正7年)7月24日 - 大佐に昇進。 1919年(大正8年)2月20日 - 歩兵第29連隊長。 1921年(大正10年)5月26日 - ウラジオストク派遣軍参謀。 1922年(大正11年)11月6日 - 関東軍司令部附(ハルビン特務機関長)。 1923年(大正12年)3月17日 - 少将に昇進。 1924年(大正13年)2月4日 - 歩兵第35旅団長。 1925年(大正14年)5月1日 - 参謀本部第2部長。 1927年(昭和2年)7月26日 - 中将に昇進。 1928年(昭和3年)12月21日 - 参謀本部附(欧米出張)。 1929年(昭和4年)8月1日 - 第11師団長。 1931年(昭和6年)12月9日 - ジュネーブ一般軍縮会議全権委員。 1933年(昭和8年)3月18日 - 軍事参議官。 8月1日 - 台湾軍司令官。 ...
  • 旧制高等学校
    ...(1894年および1918年)に基づき設置されたもの、を指す。1886年の中学校令により設立されていた第一~第五、山口、鹿児島の7官立高等中学校のうち、鹿児島を除く6校を、1894年高等学校に改組して始まった。当初は専門学部4年、大学予科(後に本科)3年制の2系統があったが、学部は順次廃止ないし専門学校として分離され、大学予科のみとなった。1918年の高等学校令改正後は各地で増設され、大学予科は本科に、さらに文科・理科に分かれた。後期には4年間の前置課程を含めた7年制のものもある。 Template 右? 概要 1894年の高等学校令では、専門学科の教育を行なう機関と定義され、但し書きにて帝国大学入学者のための予科教育が規定されていた。しかし、専門学科教育は主流となることはなく、後に廃止または専門学校として分離され、帝国大学入学前の高等教育機関としてのみ発展した。1918年...
  • 皇室令
    ... 大正7年(1918年) 宮内省旅費臨時増賜ニ関スル件(大正7年7月22日皇室令第7号) 皇宮警手恩給令(大正7年12月11日皇室令第15号) 不要存御料地処分令(大正7年12月28日皇室令第16号) 大正9年(1920年) 帝室林野管理局臨時職員官制(大正9年4月1日皇室令第2号) 朝鮮人タル宮内官ニシテ旧韓国宮内府其ノ他旧韓国政府ニ在官又ハ在職シタル者ノ恩給及遺族扶助料等ニ関スル件(大正9年7月24日皇室令第7号) 宮内省官吏准官吏恩給扶助料増額等ニ関スル件(大正9年12月3日皇室令第12号) 大正10年(1921年) 学習院高等科ニ適用スヘキ規程ニ関スル件(大正10年4月23日皇室令第4号) 宮内奏任官及同判任官ノ優遇ニ関スル件(大正10年5月23日皇室令第5号) 宮内省官制(大正10年10月7日皇室令第7号) 皇后宮職...
  • 日本の学校制度の変遷
    ...年)、高等学校令(1918年)、大学令(1918年)によって確立された学制が以下のものである。戦前の教育課程は、概ね以下の4段階からなる。現在の学制とは異なり複線型教育の特色がかなり強い。 就学前教育機関 初等教育機関  中等教育機関  高等教育機関 最高学府 就学前教育機関 幼稚園 1~3年制(3歳以上)→初等教育1 初等教育機関 小学校尋常科  義務教育6年制(6歳以上)→中等教育1.2.3.5.6.7.8.9:補習科2年制 /(義務教育3年制(6歳以上)→初等教育2.3)  (東京聾唖学校  4年制(9歳以上)/[新規入学] 8年制(10歳以上)→なし) (東京盲学校    5年制(10歳以上)/6年制(10歳以上)→なし) 中等教育機関 小学校高等科   2年制(12歳以上)→中等教育4:補習科2年制 /3年制(12歳以上)→高等教育1:補習科2年...
  • 伏見宮博恭王
    ... 大正7年(1918年)5月29日、恭子女王、侯爵浅野長武に降嫁 大正8年(1919年) 1月16日、恭子女王(浅野恭子)薨去 12月1日、第二艦隊司令長官 12月23日、博義王、一条朝子と成婚 大正9年(1920年)12月1日、軍事参議官 大正11年(1922年) 8月、社団法人帝国水難救済会総裁 12月1日、海軍大将 大正12年(1923年) 2月4日、父・貞愛親王薨去し伏見宮を継承する 10月27日、議定官 大正13年(1924年) 2月5日、佐世保鎮守府司令長官 3月24日、博忠王薨去 大正14年(1924年) 1月26日、知子女王、久邇宮朝融王と成婚 4月15日、軍事参議官 大正15年(1925年) 10月27日、敦子女王、伯爵清棲幸保と成婚 12月7日、博信王、臣籍降下し華頂...
  • 連合艦隊
    ...将 - 大正7年(1918年)9月1日 山下源太郎 - 大将 - 大正8年(1919年)6月1日 山屋他人 - 大将 - 大正9年(1920年)5月1日 栃内曽次郎 - 大将 - 大正9年(1920年)8月24日 栃内曽次郎 - 大将 - 大正10年(1921年)5月1日 竹下勇 - 中将 - 大正11年(1922年)12月1日 鈴木貫太郎 - 大将 - 大正13年(1924年)1月27日 岡田啓介 - 大将 - 大正13年(1924年)12月1日 加藤寛治 - 中将 - 大正15年(1926年)12月10日 谷口尚真 - 大将 - 昭和3年(1928年)12月10日 山本英輔 - 中将 - 昭和4年(1929年)11月11日 小林躋造 - 中将 - 昭和6年(1931年)12月1日 末次信正 - 中将 - 昭和8年...
  • 野村吉三郎
    ...。 大正7年(1918年)10月18日 - 巡洋艦「八雲」艦長。 大正8年(1919年) 2月5日 - 講和全権委員随員。 11月12日 - 免講和全権委員随員。 大正10年(1921年)8月17日 - ワシントン会議随員。 大正11年(1922年)6月1日 - 任海軍少将。 大正12年(1923年)9月15日 - 第一遣外艦隊司令官 大正14年(1925年)9月18日 - 海軍省教育局長。 大正15年(1926年) 7月26日 - 軍令部次長。 12月1日 - 任海軍中将。 昭和4年(1929年)2月1日 - 練習艦隊司令官。 昭和5年(1930年)6月11日 - 呉鎮守府司令長官。 昭和6年(1931年)12月1日 - 横須賀鎮守府司令長官。 昭和7年(1932年) 2月2日 - 第三艦隊司令長官。上海事変に従軍...
  • 鈴木貞一
    ...業(29期)。 1918年(大正7年)7月 - 参謀本部附勤務。 1919年(大正8年)1月 - 大蔵省派遣(~10月)。 1920年(大正9年)4月 - 大尉に昇進。参謀本部員(支那斑)。 11月 - 参謀本部附(上海駐在)。 1922年(大正11年)2月 - 参謀本部員(作戦課)。 1923年(大正12年)8月 - 参謀本部附(北京駐在)。 1925年(大正14年)12月 - 少佐に昇進。歩兵第48連隊附。 1926年(大正15年)8月 - 歩兵第48連隊大隊長。 12月 - 支那出張(~1927年5月)。 1927年(昭和2年)5月 - 参謀本部員(作戦課)。 1929年(昭和4年)2月 - イギリス出張(~10月)。 12月 - 支那公使館付武官補佐官(北京駐在)。 1930年(昭和5年)3月 - 中佐に昇進。 1931年(昭和6年)1月 -...
  • 冊封
    ... 907年、唐滅亡。918年、高麗成立、936年、新羅滅亡。926年、渤海滅亡。契丹の勃興、946年、遼成立。935年、承平天慶の乱。938年、ベトナムの独立。 /REF に目をつけ、東アジア諸国の間に相互連関関係があると提唱していた(「東アジヤに於ける古代の終末」1948年)。 しかしこの前田論に於いては、そういった連関関係を作っている要因に付いては言及されないままであった。それに対して西嶋冊封体制論は冊封に着目することによってこれに一定の回答を与え、「東アジア世界」という「その中で完結した世界」の存在を提唱するに至った。 西嶋は「東アジア世界」を特徴付けるものは漢字・儒教・仏教・律令制の四者であるとし、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしていると見ている REF そのため冊封体制論は基本的に政治構造論であるが、文化論の趣きを得ることにもなる。 /REF 。...
  • 吉田茂-2
    ...得 大正7年(1918年)2月 済南領事 大正8年(1919年)2月 パリ講和会議随員 大正9年(1920年)5月 在英大使館附一等書記官 大正11年(1922年)3月 天津総領事 大正14年(1925年)10月 奉天総領事 昭和3年(1928年) 3月 外駐スウェーデン公使。高等官一等 7月 田中義一内閣の外務次官 昭和5年(1930年) 12月 駐伊大使 昭和11年(1936年)4月 駐英大使 昭和14年(1939年)3月 外務省退官 昭和20年(1945年) 4月 近衛上奏文事件で憲兵隊に拘置 6月 釈放される 9月17日 外務大臣 (東久邇宮内閣) 10月9日 外務大臣に留任 (幣原内閣) 12月19日 貴族院議員に勅任 昭和21年(1946年) 1月 外相のまま終戦連絡事務局総裁を兼任。同次長に...
  • 山東出兵
    ...大戦(1914年~1918年)でドイツ帝国の権益であった山東省と租借地の青島(膠州湾租借地)、植民地である南洋群島を攻略し、山東省については1919年(大正8年)のパリ講和会議およびヴェルサイユ条約によって、ドイツの権益を全て日本が引き継ぐこととなったが、日本はこれに先駆け、中国政府に対して1915年(大正4年)にドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した所謂「21か条の要求」を突きつけ、中国側の反感を買っていた。ヴェルサイユ条約調印直前には、学生を中心にこれに反対する運動が盛んになり、五・四運動となった。 状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、1922年(大正11年)の日中山東条約及び日中山東還付条約によって青島を含んだ山東省を中国に還付することとなった。これは軍縮会議以来、世界規模で進む軍縮の流れによるものでもある(シベリア出兵の本年終了)が、中国は21か条も廃棄するよ...
  • 日ソ基本条約
    ...戦への干渉を決定、1918年初頭にイギリスと共同で居留民保護を名目とした艦隊をウラジオストクに派遣、同年夏にはシベリアで孤立するチェコ軍団の救出を名目としてシベリア出兵を開始。ソビエト政権と日本との間の関係は決定的な対立に陥っていた。1922年、日本軍は撤兵を声明し、9月に日ソの間でもたれた長春会議は決裂するものの、10月までに日本軍は最終的な撤兵を完了する。しかし、依然として北樺太には尼港事件をきっかけとして追加出兵した日本軍が居座っていた。 長春会議決裂と日本軍撤兵にともなって、ソ連は極東地区における緩衝国として維持していた極東共和国を廃止して併合し、1923年より日ソ国交正常化のための直接交渉に入る。中国の北京で行われた交渉は、同年の予備交渉を経て1924年5月から日本側代表芳沢謙吉とソ連側代表レフ・カラハンの間での正式交渉に入り、1925年1月20日に至って北京で日ソ基本条...
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