chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「935年」で検索した結果

検索 :
  • 岡田内閣
    ...年)7月8日 - 1935年(昭和10年)9月5日 川島義之(軍人 陸軍大将) 1935年(昭和10年)9月5日 - 1936年(昭和11年)3月9日 海軍大臣 大角岑生(軍人 海軍大将)(斎藤内閣から留任) 1934年(昭和9年)7月8日 - 1936年(昭和11年)3月9日 司法大臣 小原直(司法官) 1934年(昭和9年)7月8日 - 1936年(昭和11年)3月9日 文部大臣 松田源治(立憲民政党) 1934年(昭和9年)7月8日 - 1936年(昭和11年)2月1日 川崎卓吉(立憲民政党) 1936年(昭和11年)2月2日 - 同年3月9日 農林大臣 山崎達之輔(政友会除名→昭和会) 1934年(昭和9年)7月8日 - 1936年(昭和11年)3月9日 商工大臣 町田忠治(立憲民政党) 1934年(昭和9年)7月8日 - 1936...
  • 冀東防共自治政府
    ... |建国時期 =1935年 |亡国時期 =1938年 |先代1 =中華民国 |先旗1 =Flag of the Republic of China.svg |次代1 =中華民国臨時政府 (北京) |次旗1 =Flag of the Republic of China 1912-1928.svg |国旗画像 =Flag of the Republic of China 1912-1928.svg |国旗リンク = |国旗説明 = |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = |国章リンク = |国章説明 = |国章幅 = |標語 = |国歌名 = |国歌追記 = |位置画像 = |位置画像説明 = |公用語 =中国語 |首都 =通州唐山 |元首等肩書 =政務長官 |元首等年代始1 =1935年 |元首等年代終1 =1937年 |元首等氏...
  • 国体明徴声明
    国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)とは、1935年(昭和10年)の天皇機関説事件の中で、美濃部達吉の天皇機関説を排撃することで政治的主導権を握ろうとした立憲政友会・軍部・右翼諸団体が時の岡田内閣に迫って出させた政府声明。天皇機関説が天皇を統治機構の一機関としているのに対し、天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家であると宣言した。 国体明徴運動の経緯 そもそも大正期半ばから昭和初期にかけて、天皇機関説は国家公認の憲法学説であり、昭和天皇が天皇機関説を当然のものとして受け入れていたことはよく知られている。しかし、軍部ファシズムの台頭と共に起こった国体明徴運動の中で、天皇機関説は国体に反する学説として排撃を受け始めた。 1935年2月19日、貴族院本会議の演説において菊池武夫議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難した。この...
  • 中山事件
    中山事件(なかやまじけん)は、1935年に中国、上海で起こった、中国人による、日本人水兵射殺事件である。 1935年11月9日午後9時ころ、上海共同租界と中国人街との境界道路である竇楽安路路上において、日本の上海特別陸戦隊勤務中山秀雄一等兵水兵が中国人によって背後から射殺された。 日本側の抗議と工部局、日本総領事館の両警察当局の督促によって、1936年春になって、租界工部局は被疑者である同仁会主席委員楊文道、同会会員葉海生、周我栄以下数名を逮捕、起訴した。 しかし抗日団体などの脅迫などのために裁判はなかなか進まず、10月2日にようやく上海第一特区法院において楊、葉の2名は死刑、周は無罪と断案が下され、中国側はこれによって抗日秘密結社の存在を認めた。 楊、葉の2名は上告したが、11月9日の上訴判決でふたたび死刑判決が下され、事件はいちおうの解決を見た。 出典 フリー百...
  • 支那駐屯軍
    ... - 昭和10年(1935年)8月1日 多田駿 少将 昭和10年(1935年)8月1日 - 昭和11年(1936年)5月1日 田代皖一郎 中将 昭和11年(1936年)5月1日 - 昭和12年(1937年)7月11日 香月清司 中将 昭和12年(1937年)7月11日 - 昭和12年(1937年)8月26日 歴代参謀長 支那駐屯軍参謀長 松本健児 中佐 昭和3年(1928年)8月10日 - 昭和6年(1931年)年8月1日 武内俊二郎 中佐 昭和6年(1931年)年8月1日 - 昭和7年(1932年)1月9日 菊池門也 大佐 昭和7年(1932年)1月9日 - 昭和9年(1934年)8月1日 酒井隆 大佐 昭和9年(1934年)8月1日 - 昭和10年(1935年)12月2日 永見俊徳 大佐 昭和10年(1935年)12月2日 - 昭和10年(1936年)8...
  • マイナー・シール・ベイツ
    ... 1934年-1935年 ハーヴァード大学にて日本語・ロシア語を学ぶ 1935年 イェール大学にて中国史研究による哲学の博士号を取得 1936年 長野県野尻湖畔の教会に避暑のため家族で訪れる 1937年9月中旬 避暑のため家族で野尻湖畔に訪れていたが、日中戦争が開始と南京空爆を知ると単身南京へ戻る。以降、南京において民衆救済活動に従事する。 1937年11月22日 南京安全区国際委員会の委員となる 1937年12月13日 南京陥落 1938年1月13日 金陵大学副学長に任命される 1938年 蒋介石より勲章を授かる。 1946年 蒋介石より勲章を授かる。 関連項目 南京事件 南京大虐殺 南京大虐殺論争 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月14日 (水) 01 22。 ...
  • 昭和会
    昭和会(しょうわかい)は、昭和初期に存在した親軍派政党(1935年12月23日 - 1937年5月24日)。 立憲政友会は鈴木喜三郎総裁のもと、岡田内閣に対して野党路線を貫き、入閣した床次竹二郎・山崎達之輔・内田信也を除名処分高橋是清も入閣したが、総裁経験者の除名による党内の混乱を恐れた鈴木は「別離」(訣別)を宣言して除名の代わりとした。とし、続いて内閣審議会委員となった水野錬太郎・望月圭介も除名した。これに除名議員及びその直系議員は反発し、床次を盟主に「第二の政友本党」結成に動くが、1935年9月8日に床次が急死したため、挫折した。そこで被除名者とこれに抗議して離党した代議士18名で結成されたのが昭和会である。除名者には実力者が多く、亡くなった床次に代わる党首を決定することは困難であったために党首は置かれなかった。 同党設置後、政友会からの離党者が続出して最大25名までに増え、岡田・...
  • 相沢事件
    相沢事件(あいざわじけん)は、1935年(昭和10年)8月12日に、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が陸軍省において、統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した事件である。 概要 日本陸軍においては皇道派と統制派が対立し、1931年の三月事件、1935年7月の皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭問題が起こる。林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告されると、真崎は統制派の永田の陰謀と反論する。 義憤を感じたとされる相沢は、台湾転任を前に陸軍省内軍務局長室において永田を刺殺した。事件後の相沢の公判は二・二六事件により一時中断され、翌1936年の7月に第1師団軍法会議による公開裁判が行われ、相沢は死刑となる。 なお、事件発生時は永田は軍務局長室で陸軍内部の綱紀粛正(過激さを増していた皇道派の青年将校に対する抑制策)に関する打ち合わせを行っており、兵務課長・山田長三郎大佐と東京憲兵隊長・新見英...
  • 朝鮮軍 (日本軍)
    ... - 昭和10年(1935年)12月2日 小磯国昭中将:昭和10年(1935年)12月2日 - 昭和13年(1938年)7月15日 中村孝太郎大将:昭和13年(1938年)7月15日 - 昭和16年(1941年)7月7日 板垣征四郎大将:昭和16年(1941年)7月7日 - 廃止 編制 大正10年(1921年) 朝鮮軍司令部 第19師団 第20師団 永興湾要塞司令部 鎮海湾要塞司令部 朝鮮憲兵隊 関連項目 憲兵警察制度 (朝鮮総督府) 朝鮮人日本兵 朝鮮軍人 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月23日 (火) 03 20。     
  • 東部軍管区 (日本軍)
    ...った。 その後、1935年(昭和10年)8月に東部・中部・西部の各防衛司令部が設置され、東部防衛司令部と東京警備司令部は兼職とされたが、1937年(昭和12年)11月30日から東部防衛司令部に一本化された。1940年(昭和15年)8月1日に、東部軍が設置された。 概要 通称号: 編制時期:昭和20年2月1日(東部軍以前は下記年表参照) 最終位置:東京 上級部隊:天皇直隷 略年表 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災、戒厳令施行 1923年(大正12年)9月3日 - 関東戒厳司令部設置 1923年(大正12年)11月15日 - 戒厳令解除 1923年(大正12年)11月16日- 関東戒厳司令部廃止・東京警備司令部設置 1932年(昭和7年)5月15日 - 五・一五事件 1935年(昭和10年)8月1日 - 東部防衛司令部設置 ...
  • 内大臣府
    ...年3月30日 - 1935年2月26日)  伯爵 斎藤実(1935年12月26日 - 1936年2月26日)  子爵・海軍大将、元首相 一木喜徳郎(1936年3月6日、枢密院議長臨時代理)  男爵 湯浅倉平(1936年3月6日 - 1940年6月1日)  元会計検査院長 木戸幸一(1940年6月1日 - 1945年11月24日)  侯爵 関連項目 Template wikisource? 太政官   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月28日 (火) 08 11。    
  • 永田鉄山
    ...年1月14日 - 1935年8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍省軍務局長、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。追贈であるが、正四位勲一等に叙され瑞宝章を受けている。 略歴・人物 長野県諏訪郡上諏訪町本町出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校をいずれも首席、陸軍大学校も2位で卒業する秀才ぶりで、軍務官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される人物だったが、陸軍内部の派閥抗争に絡んで陸軍中佐相沢三郎に暗殺される。皇道派の領袖、陸軍大将真崎甚三郎を教育総監の要職から更迭したことが暗殺の引き金となっている。死亡当時、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。 郡立高島病院長永田志解理の子として生まれ、高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小学校)、東京牛込北町・愛日高等小学校を経て、1898年(明治31年)9月に東...
  • 教育総監
    ...年1月23日 - 1935年7月16日陸士9期 16渡辺錠太郎1935年7月16日 - 1936年2月26日陸士8期 17西義一1936年3月5日 - 1936年8月1日陸士10期 18杉山元1936年8月1日 - 1937年2月9日陸士12期 19寺内寿一1937年2月9日 - 1937年8月26日陸士11期 20畑俊六1937年8月26日 - 1938年2月14日陸士12期 21安藤利吉1938年2月14日 - 1938年4月30日陸士16期 22西尾寿造1938年4月30日 - 1939年9月12日陸士14期 代理河辺正三1939年9月12日 - 1939年10月14日陸士19期 23山田乙三1939年10月14日 - 1944年7月18日陸士14期 24杉山元1944年7月18日 - 1944年7月22日陸士12期 代理野田謙吾19...
  • 華北分離工作
    ... 1934年冬から1935年1月にかけては、満州国と中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華北に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華北での日本の経済権益を伸張すること、華北に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が唱えられた。 こうして支那駐屯軍や関東軍は、それぞれ軍事力を背景に国民政府に対して高圧的な協定(6月10日の梅津・何応欽協定・6月27日の土肥原・秦徳純協定)を結ばせ、河北省から国民党勢力と中国軍を、察哈爾省からも国民党勢力と第29軍をそれぞれ撤退さ...
  • 東方会
    ...ていた中野正剛は、1935年(昭和10年)、国家社会主義化していった国民同盟を離脱。翌1936年(昭和11年)5月、「内なる民主主義、外なる民族主義」を標榜した思想団体だった東方会を政治団体とした。 1939年(昭和14年)、社会大衆党の麻生久らと東方会と社会大衆党の合同を画策するも失敗。社会大衆党は翌1940年(昭和15年)に解党した。 1940年(昭和15年)10月12日、国民の統制や強大な政治体制を目的とし、当時の既成政党は解体され合流を余儀なくされた国の機関、大政翼賛会に東方会も例外なく合流したが思想団体としても継続した。その後、1942年(昭和17年)5月23日、東條英機による翼賛政治会に半ば強制的に入会させられる。 1943年(昭和18年)、中野は翼賛政治会を離脱後、反東條色を強め、同年、東條内閣倒閣工作容疑で中野正剛らが検挙・投獄される。出獄後、中野正剛の突然の自...
  • 何応欽
    ...任ぜられ塘沽協定、1935年には梅津・何応欽協定を結ぶ。日中戦争時は、第四戦区司令長官・軍政部長・参謀総長等を務めた。 1945年、支那派遣軍総司令官岡村寧次が降伏文書に調印し、中国代表の何応欽に呈示。その後は国防部長・行政院院長を務めるが、1949年、国共内戦に敗れ蒋介石らとともに台湾へ脱出。渡台後は、総統府戦略顧問委員会主任委員・台湾紅十字総会会長・中日文経協会会長等を歴任した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月12日 (月) 23 33。        
  • 谷寿夫
    ...』をあらわす。 1935年、第6師団長(熊本)に親補される。1937年12月、中支那方面軍(松井石根司令官)の隷下として第6師団も南京攻略戦に参軍する。このとき、所謂、南京大虐殺がおきたとされる。南京攻略戦の成功により、中部防衛司令官に任命された。 1939年、予備役となる。戦後、南京大虐殺の責任を問われ、中国側に身柄を引き渡され、南京裁判にかけられ処刑される。裁判において谷は、申弁書で、掃討戦は第16師団(当時の師団長は中島今朝吾)が起こしたものであり、第6師団は無関係と主張した。 だが、現在でも中国側からは、南京裁判で処刑されたことで、南京大虐殺の責任者として松井石根につぎ知名度が高い。谷の上司である第10軍司令官の柳川平助、主力として南京掃討戦を行なった中島第16師団長も1945年に死去しており、松井石根につぐ責任者である上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王は皇族であり不起訴と...
  • 柳川平助
    ...・真崎の力が衰えた1935年に台湾軍司令官に追いやられる。1936年の二・二六事件の後に予備役編入。 第二次世界大戦時 1937年に第二次上海事変で中国国民党軍を押し切れない上海派遣軍支援のために、第10軍が編成され、柳川が司令官に任命されて現役に復帰、杭州湾上陸作戦を指揮。上海では国民党軍が退却寸前での作戦であったため、十分な戦果を挙げられなかったが、続いての南京戦で戦果を挙げる。 1938年3月に中支那方面軍の再編成に伴い召集解除、帰還。1938年12月に設立された興亜院の初代総務長官。1940年に第2次近衛内閣で、司法大臣を務め、第3次近衛内閣では国務大臣に転じた。1945年病死。 柳川文書の発見 二・二六事件から70年を経過した2005年2月、長崎県大村市で、柳川平助が書いた自筆の書簡集が発見された。眼科医で、東彼杵郡医師会会長を務めたこともある実兄・楠木志...
  • 仮20
    ...保4年)から)。 935年(承平5年) - 941年(天慶4年) 承平・天慶の乱 937年(承平7年) 官符を下して、平将門を追捕せしむ。 939年(天慶2年) 平将門の乱 939年(天慶2年) 藤原純友の乱(天慶の乱) 940年(天慶3年) 平貞盛・藤原秀郷ら、平将門を誅する。 941年(天慶4年) 小野好古ら、藤原純友を誅する。 939年(天慶2年) - 941年(天慶4年) 天慶の乱 (出羽) 969年(安和2年) 安和の変 988年(永延2年) 尾張の郡司・百姓ら、国守藤原元命の非政を訴える(国司苛政上訴)。 1000年 - 1014年頃 清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』が成立する。 1017年(寛仁元年) 藤原道長、太政大臣となる。 1019年(寛仁3年) 刀伊の入寇 1028年(長元元年) 平忠常の乱 1051年(永承6年) 前九年...
  • 昭和-2
    ...、国際連盟脱退 1935年(10年):天皇機関説問題 1936年(11年):二・二六事件、日独防共協定締結 1937年(12年):日中戦争開戦 、日独伊防共協定締結 朝鮮で皇国臣民ノ誓詞を発布する。 1938年(13年):国家総動員法制定 1939年(14年):ノモンハン事件、ドイツがポーランドに侵攻 1940年(15年):日独伊三国軍事同盟締結、大政翼賛会結成 1941年(16年):12月8日 太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)、日ソ中立条約 1945年(20年):3月9日-10日 東京大空襲(他に12日名古屋大空襲、13-14日大阪大空襲、17日神戸大空襲等) 1945年(20年):4月1日、米軍が沖縄本島に上陸(沖縄戦)、地上戦となる。6月23日、日本軍の組織的戦闘が終わる(慰霊の日) 1945年(20年):広島市(8月6日)長崎市(8月9日)に原子爆弾投下 1...
  • 日独防共協定
    ...していた。そして、1935年秋には陸軍参謀本部ドイツ班長の馬奈木敬信らと駐日ドイツ大使館のオイゲン・オット大佐(後に大使)らにより外務省には極秘で下工作が進められていた。 立役者は駐独日本大使館付陸軍武官大島浩とドイツ国防軍情報部長ヴィルヘルム・カナリスである。ドイツ語では Antikomminternpakt と呼ばれ、コミンテルンによる国際共産主義運動が自国に波及する事を恐れた日本とドイツが同協定を締結した。 なお、ドイツ側がドイツ語で「反コミンテルン」と明示しているのに対して日本の「防共」という訳語はニュアンスを伝わらなくしており、妥当ではないという見方が専門家の間にある。 1937年(昭和12年)11月 イタリアの参加により日独伊三国防共協定に発展した。1939年、突然の独ソ不可侵条約締結を日独防共協定違反として政治責任を取り平沼内閣が総辞職したが、1940年には日独伊...
  • 中国国民党
    ...全会(南京) 1935年 11月 1日: 国民党四期六中全会(南京)、汪精衛暗殺未遂事件 1935年 11月 12日: 国民党五全大会(南京) 1935年 12月 2日: 国民党五期一中全会(南京) 1936年 7月 10日: 国民党五期二中全会(南京) 1937年 2月 15日: 国民党五期三中全会(南京)、第二次国共合作 1938年 3月 29日: 国民党臨時全大会(武漢・武昌) 1938年 4月 6日: 国民党五期四中全会(漢口) 1939年 1月 21日: 国民党五期五中全会(重慶) 1939年 8月 28日: 国民党「六全大会」(汪精衛、上海) 1939年 11月 12日: 国民党五期六中全会(重慶) 1940年 7月 1日: 国民党五期七中全会(重慶) 1941年 3月 24日: 国民党五期八中全会(重慶) 1941年 ...
  • 満州国軍
    ... 軍備拡大期(1935年頃) 満州国はその最初の5年間(日中戦争開始まで)で「とにかく国としての体制を作ろう」とがむしゃらに進んでいた感があり、満州国軍についても随時増強が進められている。 海軍兵力の補充 1934年9月に日本製の砲艦「順天」「養民」を配備している。 1935年9月に砲艦「定辺」「親仁」を配備している。 *詳細は江防艦隊の項参照 陸軍の組織改正 当初の軍編成がそれまでの軍閥のテリトリーそのままであったこともあり、1935年4月に満州国の行政区画にそって陸軍の再編成を実施した。 第1軍管区(兵数:12,321人) 第2軍管区(兵数:13,185人) 第3軍管区(兵数:13,938人) 第4軍管区(兵数:17,827人) 第5軍管区(兵数:9,294人) 興安東警備軍(兵数:929人) 興安西警備軍...
  • 学習院
    ...典を挙行する。 1935年(昭和10年) 女子学習院開校五十年記念式を挙行する。 1946年(昭和21年) 女子学習院は牛込区戸山町に、学習院中等科(1・2年)は小金井(現在の都立小金井公園の敷地内)に移転する。 1947年(昭和22年) 学習院学制・女子学習院学制廃止 歴代学習院院長一覧 財団法人学習院、学校法人学習院のもとでの歴代院長は学校法人学習院の当該節を参照 代氏名就任時期備考 初代立花種恭1877年 - 1884年三池藩第8代藩主、子爵 第2代谷干城1884年 - 1885年陸軍中将、子爵 第3代大鳥圭介1885年 - 1887年枢密顧問官、男爵 第4代三浦梧楼1887年 - 1891年陸軍中将、子爵 第5代岩倉具定1891年宮内大臣、公爵 第6代田中光顕1891年 - 1894年陸軍少将、内閣書記官長、宮内大臣、子爵 第...
  • 寺内寿一
    ... 台湾軍司令官 1935年(昭和10年)10月 大将に昇進 1936年(昭和11年)3月9日 広田内閣において陸軍大臣に就任 1937年(昭和12年)1月 政友会の代議士浜田国松と腹切り問答 1937年(昭和12年)2月 教育総監 1937年(昭和12年)8月 北支那方面軍司令官 1938年(昭和13年) 勲一等旭日大綬章 1941年(昭和16年)11月 南方軍総司令官 1943年(昭和18年)6月 元帥に昇進 1945年(昭和20年)5月10日 ビルマで降服 1946年(昭和21年) シンガポールのレンガムで拘留中に病死 性格 二・二六事件の後、陸相として皇道派の追放(粛軍)を主導し、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍部の影響力を増大させている。また、「腹切り問答」後に議会解散を要求して結果的に広田内閣を総辞職に追い込んでいる。さらに元帥就任後は無謀なイン...
  • 渡辺錠太郎
    ...長・大将任官 1935年7月 陸軍教育総監に就任 1936年2月26日 二・二六事件で杉並区上荻窪の自邸で殺害される。 関連項目 常磐公園 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月9日 (月) 14 38。     
  • 牧野伸顕
    ... |就任日6 = 1935年 |退任日6 = 1925年 |国旗7 = 日本 |その他職歴2 = 宮内大臣 |就任日7 = 1925年 |退任日7 = 1921年 |国旗8 = 日本 |その他職歴3 = 枢密顧問官 |就任日8 = |退任日8 = |国旗9 = 日本 |その他職歴4 = 茨城県知事 |就任日9 = |退任日9 = |国旗10 = 日本 |その他職歴5 = 福井県知事 |就任日10 = |退任日10 = |国旗11 = |その他職歴6 = |就任日11 = |退任日11 = |国旗12 = |その他職歴7 = |就任日12 = |退任日12 = |国旗13 = |その他職歴8 = |就任日13 = |退任日13 = |国旗14 = |その他職歴9 = |就任日14 =...
  • 美濃部達吉
    ...を排撃され始めた。1935年(昭和10年)、貴族院本会議において、菊池武夫議員により天皇機関説非難の演説が行われ、軍部や右翼による機関説と美濃部排撃が激化する。これに対し美濃部は、「一身上の弁明」と呼ばれる演説を行う。 Template quotation? しかし、著書は発禁処分となり、不敬罪の疑いで検事局の取調べを受けた(ただし、起訴猶予処分となっている)。同年9月、美濃部は貴族院議員を辞職し、公職を退いたものの、翌1936年(昭和11年)には、天皇機関説の内容に憤った右翼暴漢の襲撃を受けて重傷を負った。この一連の天皇機関説事件の中で、政府は2度わたって「国体明徴声明」を出し、天皇機関説は異端の学説と断罪した。 戦後 第二次世界大戦後、占領軍の対日民主化政策により憲法改正作業が行われ、美濃部も内閣の憲法問題調査会顧問や枢密顧問官として憲法問題に関与した。しかし、...
  • 荒木貞夫
    ...4年、軍事参議官。1935年、男爵。1936年、二・二六事件の粛軍の結果、予備役に編入される。 1938年~1939年、第1次近衛文麿内閣・平沼騏一郎内閣文相として国民の軍国化教育に邁進した。 A級戦犯に処せられて終身禁固の判決を受け服役。1955年、仮釈放。東京裁判ではのらりくらりとしながらもその堂々とした態度が、他の被告人らを奮い立たせたともいわれている。非常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウェッブ裁判長から注意された。判決時にはモーニング姿で被告席に現れた。しかし、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な言動をとるようになるなど、その思考には多少短絡的な部分もあったようだ。 皇道派のシンボル 昭和初期の陸軍首脳は、「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、1929年(昭和4年)当時、第...
  • 満鉄調査部
    ... 華北資源調査(1935年-1936年) 冀東農村実態調査(1936年) 支那抗戦力調査(1939年-1940年) 具島兼三郎・伊藤武雄・中西功・尾崎秀実らが調査に参加した。報告書は「総篇」「政治篇」「戦時経済政策篇」「奥地経済篇」「外援篇」の全5篇からなり、日中戦争において日本軍が蒋介石政権に対し圧倒的勝利を収めることができないことを結論づけた。 日満支ブロック・インフレーション調査(1940年-1941年) 日本帝国勢力圏下のインフレーションの具体的状況の把握とその対策立案のために行われた。 華北農村慣行調査(中国農村慣行調査;1940年-1944年) 東亜研究所との共同事業で、中国社会の特質解明をめざし農村の法的慣行を調査した。華北地域(河北省・山東省)で現地調査が実施され、満鉄調査部側は旗田巍・杉之原舜一らが参加した。しかし戦局の悪化により調査は中...
  • 南満州鉄道
    ...のほかに、満洲国が1935年にソビエト連邦から買収した新京以北の北満鉄路(旧称・東清鉄道)をはじめとする満州国有鉄道(国線)や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、営業キロ数は格段と伸びた。これに対応するため、満鉄は1936年、奉天に鉄道総局を設置、さらに1942年に本社を大連から満洲国の首都新京に移転している。 特急「あじあ」 1934年(昭和9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特急「あじあ」が設定された。最高速度は130km/h、表定速度は82.5km/hで、日本国鉄の特急「つばめ」の平均速度66.8km/hをはるかに上回った。流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシTemplate Smaller?型」がこれを牽引した。1935年(昭和10年)には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された。 鉄道付属地の返還 しかし、満洲全土が日...
  • 満州国-2
    ...て鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には満洲の独立宣言を発した東北行政委員会委員長の張景恵が首相に就任した。 しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。 また官職の約半分が日本人で占められ、国籍法が存在しないなど、政治的な欠陥があった。関東軍は満洲国政府をして日本人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ(弐キ参スケ)。 このように民族協和ではなく、日本の勢力に加えようとしたとする見方「(関東憲兵隊は)民族共和どころか民...
  • 第二次ロンドン海軍軍縮会議
    ...しゅくかいぎ)は、1935年12月9日にイギリスのロンドンで開かれた国際会議。1930年に締結されたロンドン海軍軍縮条約の改正を目的としたが、1934年に行われた予備交渉が不調に終わった為、日本は軍縮条約からの脱退を決意。1934年12月、ワシントン海軍軍縮条約の条約破棄を通告(破棄通告後二年間は有効)。1936年(昭和11年)1月15日に本会議を脱退、イタリアもエチオピア侵略の為脱退し、最終的に英・米・仏の三国のみで1936年3月25日に第二次ロンドン海軍軍縮条約が締結された。 予備交渉における日・米・英の主要主張 艦種日本アメリカイギリス 戦艦主砲14インチ、0~6隻 ※各国共通(戦艦の全廃も視野に)主砲14インチ、12隻、合計排水量32万トン。英国と均等なるを要す主砲12インチ、15隻、合計排水量25万トン。艦型は2万トンまで縮小を考慮し得るも他国より小ならざる...
  • 大韓民国臨時政府
    ...鐸1933年 - 1935年 10李東寧1935年 - 1939年 11李東寧1939年 - 1940年1940年に病死 12金九1940年 - 1944年 13金九1944年 - 1945年 内地での活動 thumb|250px|神戸又新日報(大正13年7月28日) 戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索に当時の大韓民国臨時政府の活動が掲載されているので列挙する。 『不逞の徒と気脈を通じ内地に潜める魔の手/在京鮮人七百余名中上海仮政府に縁ある者二割』 神戸新聞 1920/8/27 〔7/8〕 東京・東京 【民族運動】 『怪鮮人東上/自称上海仮政府の外務大臣/内鮮融和の偉大を米国に見せつくる為めか?』 京城日報 1921/8/17 〔4/1〕 下関・山口 【警備】 『労働争議と不逞鮮人何等の関係もない/上海仮政府は財政難に弱る』 大阪朝日 1921/8/21 ...
  • 立憲民政党
    ...34年11月9日-1935年1月20日) 町田忠治(1935年1月20日 - 1940年8月15日) 獲得議席 第16回衆議院議員総選挙(1928年)-216 第17回衆議院議員総選挙(1930年)-273 第18回衆議院議員総選挙(1932年)-146 第19回衆議院議員総選挙(1936年)-205 第20回衆議院議員総選挙(1937年)-179 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月23日 (火) 04 43。     
  • 真崎甚三郎
    ...長永田鉄山少将が、1935年7月真崎を陸軍大将に昇進させるかたわら「陸軍三長官」の一つである教育総監から下ろし、後任に渡辺錠太郎を据えた 。この人事に反発した皇道派の相沢三郎陸軍中佐が8月相沢事件を引き起こし永田鉄山を殺害した。 更にこの後陸軍の改革に反発した皇道派の若手将校により二・二六事件が起きた。真崎自身は直接的には加担しなかったと言われるが真偽は明らかでない。反乱首謀者の安藤輝三、磯部浅一らに実行支持と受け取れる態度を事件前から示し、組閣命令を期待して行動する。これが元で、1936年7月に拘留され、憲兵隊本部の取調べを受けた後、反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、事件関与を否認。論告求刑は反乱者を利す罪で禁錮13年であったが、1937年9月25日の判決で無罪となる。しかし、この結果皇道派の力が衰え、統制派の力が増すことになる。 終戦後の1945年11月19日に、A級戦犯とし...
  • 大審院
    ... 林頼三郎 1935年(昭和10年)6月13日- 池田寅二郎 1936年(昭和11年)3月13日- 泉二新熊 1939年(昭和14年)2月15日- 長島毅 1941年(昭和16年)1月31日- 霜山精一 1944年(昭和19年)9月15日- 細野長良 1946年(昭和21年)2月8日- 関連項目 最高裁判所 判例 院長以外の大審院判事 - 本多康直、太田黒惟信、堀真五郎、小村壽太郎 脚注 Template Reflist? 参考文献 山本祐司 『最高裁物語』上・下、日本評論社、1994年/講談社〈講談社+α文庫〉、1997年。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月4日 (木) 14 36。     
  • 石黒忠篤
    石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、明治17年(1884年)1月9日 - 昭和35年(1960年)3月10日)は、大正・昭和期の農林官僚、政治家。「農政の神様」と称せられ、彼が農商務省・農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。妻は穂積陳重の次女。息子に石黒孝次郎。 経歴・略伝 1884年(明治17年)1月9日、石黒忠悳の長男として、東京に生まれる。 1908年(明治41年)第七高等学校造士館(鹿児島大学の前身)を経て東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入省。 1910年、新渡戸稲造宅で柳田國男らと郷土会を開く。 1914年(大正3年)ヨーロッパに農政を研究するため留学する。 1919年(大正8年)農務局農政課長。 1924年(大正13年)農務局小作課長。小作慣行調査、小作調停法案作成に関わる。農林省農務局長、蚕糸局長を歴任。 1931年(...
  • 時事新報
    ...前田久吉を推挙し、1935年11月より前田が専務となって経営に当たった。しかしながら前田の大阪的経営手法と慶應閥が多い会社の体質が相反し、社業は遂に行き詰まった。高石は責任を取る形で、1936年12月25日時事新報を東京日日新聞に合同した。 1946年1月1日、伊藤正徳らの手により復刊。新興紙ブームの時流と名門復活で当初は堅調だったが、やがて既存紙の巻き返しにより再び業績は低下。1950年、「産業経済新聞(産経新聞)」を率いて再度東京進出を目指した前田久吉が、戦前の責任を取る形で時事新報の経営に当たる事となった。この時より産経と兄弟関係となり、1955年産経と合同。東京で発行していた産経は「産経時事」と改題した。(以下産経新聞の項参照。) 現在、「時事新報」の題号並びに著作権など一切に関する権利はフジサンケイグループが有している。 大阪時事新報 1905年3月15日、時事新報...
  • 支那事変
    ...も大きい。中立法は1935年(昭和10年)に制定された法律で、外国間が戦争状態にあるとき若しくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国への武器および軍需物資の輸出を禁止するものであった。当時、米国は日本へこの中立法の適用を検討したが、中国が多量の武器を米国から輸入していた事もあって発動は見送られた。 しかし、長期化と共に米英は援蒋ルートなどを通じて重慶国民政府(蒋介石政権)を公然と支援。日本は和平、防共、建国を唱える汪兆銘を支援し南京国民政府(汪兆銘政権)を承認した。昭和16年(1941年)12月8日の日米開戦とともに蒋介石政権は9日、日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入していった。同12日、日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」昭和16年12月12日閣議決定 今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ...
  • コミンテルン
    ...許す一因となった。1935年には、コミンテルン第七回大会で方針転換をはかり、人民戦線の戦術を提唱し、スペインやフランスで人民戦線政府が誕生したが、スペインはフランコによる反乱からの内戦で壊滅した。また、独ソ不可侵条約の成立と、第二次世界大戦初期のポーランド分割の結果、人民戦線戦術は放棄された。 第二次世界大戦の勃発に伴って名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散した。 日本共産党とコミンテルンテーゼ 1922年に日本共産党が承認された。(日本共産党はコミンテルン支部となる) 22年テーゼ(草案) 1922年にコミンテルンのブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」。日本共産党では君主制廃止をめぐる内部意見の対立から正式な綱領(テーゼ)とはしなかったが、理論的に承認した(1923年)。 27年テーゼ 関東大震災で打撃を受けた日本共産党は1926年に再...
  • 朝鮮銀行
    ...発行)、改造5円(1935年6月1日発行)、改造1円(1932年1月4日発行) ※ 図案はすべて寿老人。 1942年(昭和17年)法律第67号「日本銀行法」に基づく内地での不換紙幣発行に関連して発行(記号・番号あり)。 甲100円券(1944年11月1日発行)、甲10円券(1944年2月1日発行)、甲5円券(1944年2月1日発行) ※ 日本語で「此券引換に日本銀行券○円相渡可申候也」の記載あり。 ※ 図案はすべて寿老人。 記号のみで番号が省略された紙幣の発行(1944年以降)。 甲10円券(1944年5月10日、11月15日(漉かし変更)発行)、甲5円券(1945年2月15日発行)、改造1円券(1944年10月15日発行) ※ 図案はすべて寿老人。 太平洋戦争終戦(1945年8月15日)直後の発行(番号なし)。 乙100円券(1945年9月1日...
  • 選挙粛正運動
    ...、続いて岡田内閣の1935年には道府県知事を会長とする選挙粛正委員会を設置した。更に斎藤実前首相を会長に押し立てて各種民間団体を糾合して選挙粛正中央連盟を組織した。こうした一連の動きの影には当時の革新官僚に絶大な支持があった後藤文夫内務大臣と内務省の働きかけが大きかった。彼らは選挙粛正を名目に政党の弱体化を企図していたのである。 こうした中で行われたこの年の地方選挙と翌1936年の第19回衆議院議員総選挙において、選挙の弊害防止、買収・供応の根絶、棄権防止などの標語が掲げられて啓発活動が行われる一方で、青年団・在郷軍人会・婦人会・町内会などの各種団体を通じた動員が行われ、子供達までが参加させられた。これによって当時の一大風潮として国体明徴運動とともに国威発揚の手段として盛んに行われた。だが、その裏では、政党候補者に瑣末な問題が起きると直ちに摘発が行われて行ったため、一般国民に選挙や...
  • 冊封
    ...、946年、遼成立。935年、承平天慶の乱。938年、ベトナムの独立。 /REF に目をつけ、東アジア諸国の間に相互連関関係があると提唱していた(「東アジヤに於ける古代の終末」1948年)。 しかしこの前田論に於いては、そういった連関関係を作っている要因に付いては言及されないままであった。それに対して西嶋冊封体制論は冊封に着目することによってこれに一定の回答を与え、「東アジア世界」という「その中で完結した世界」の存在を提唱するに至った。 西嶋は「東アジア世界」を特徴付けるものは漢字・儒教・仏教・律令制の四者であるとし、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしていると見ている REF そのため冊封体制論は基本的に政治構造論であるが、文化論の趣きを得ることにもなる。 /REF 。「東アジア世界」の範囲は漢字文化圏にほぼ合致し、含まれる国は現在の区分で言えば、中国・朝鮮...
  • 阿南惟幾
    ...幼年学校長。 1935年(昭和10年)3月15日 - 少将に昇進。 1936年(昭和11年)8月1日 - 陸軍省兵務局長。 1937年(昭和12年)3月1日 - 陸軍省人事局長。 1938年(昭和13年)3月1日 - 中将に昇進。 11月9日 - 第109師団長。 1939年(昭和14年)9月12日 - 参謀本部附。 10月14日 - 陸軍次官。 1941年(昭和16年)4月10日 - 第11軍司令官。 1942年(昭和17年)7月1日 - 第2方面軍司令官。 1943年(昭和18年)5月1日 - 大将に昇進。 1944年(昭和19年)12月26日 - 航空総監兼軍事参議官。 1945年(昭和20年)4月7日 - 陸軍大臣(~8月14日)。 阿南を演じた俳優 三船敏郎 「日本のいちばん長い日」(1967年 東宝) 相馬...
  • 平泉澄
    ...。翌年、帰国。 1935年(昭和10年)、東京帝国大学教授。 1945年(昭和20年)、太平洋戦争敗戦に伴い、東京帝国大学教授を辞任。 1948年(昭和23年)、公職追放。1952年(昭和27年)に至り、追放解除。 1984年(昭和59年)、死去(89歳)。 略伝 少年時代 1895年(明治28年)2月16日(戸籍は2月15日)、福井県大野郡平泉寺村平泉寺(現在の福井県勝山市)に生まれる。父は平泉寺白山神社第2代宮司の平泉恰合(大畠清右衛門の子、初代宮司の平泉須賀波の養子)、母は勝山藩士島田将恕の娘、貞子。「澄」の名は、白山の開祖である泰澄の1字をとって名付けられたといわれている。幼少の頃より古典に親しみ、父より『源平盛衰記』や『古事記』、母より百人一首を読み聞かせられた。 1901年(明治34年)4月、龍池尋常小学校に入学。尋常小学校入学当初は、人とあまり触れ...
  • 特別高等警察
    ...年) 大本事件(1935年) ゾルゲ事件(1941年) 横浜事件(1942年-1944年) 組織図 1932年(部昇格)以降のもの 内務大臣  ┃ 警保局  ┣━━━━━━━━┳━━━━━━━┓ 保安課   検閲課(図書課)  外事課  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┓ 警視庁特高部                      道府県警察部特高課 海外派遣事務官  ┣━━━━┳━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓    ┃ 特高一課 特高二課 労働課 検閲課 外事課 内鮮課 調停課   ┃  ┣━━━━┻━━━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━━┛    ┃  ┃                              ┃ 各警察署(特高係警察官)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ...
  • 綏遠事件
    ...は二分された。 1935年12月、省主席代理との折衝で宝昌、沽源、張北など6県を内蒙古保安隊の守備とすることに決ったため、同地に李守信(zh)が進出していたが、徳王は察哈爾省内にいた。 1936年夏以来事態はようやく熟し、小衝突もあった。 かくして11月、綏東一帯に戦禍は拡大した。当時、日中間で懸案は山積され、中央では川越、張群会談が行われており、13日、中国側はこの事件の背後に日本軍があるとして、態度を俄然硬化させ、日中交渉は逆転した。 15日、16日、内蒙軍飛行機は陶林を爆撃し、歩騎2000、飛行機8、山野砲十数門で陶林進撃を開始した。かくて内蒙軍装備の優秀が判明した。 一方、15日以来内蒙軍王英麾下の騎兵は「大漢義勇軍」と称し、「東亜より共産党と国民党を駆逐すべし」との出師の表を発表した。 17日、徳王もすでに1週間前に蹶起していたことが判明し、その防共戦であるとの...
  • 松井石根
    ...大将に昇進。 1935年(昭和10年)8月28日 - 予備役編入。 1937年(昭和12年)8月15日 - 召集。上海派遣軍司令官(~12月1日)。 10月30日 - 中支那方面軍司令官(~1938年3月5日)。 1938年(昭和13年)7月 - 内閣参議(~1940年1月)。 関連項目 田中正明 資料 Template imdb title? The Battle of China ダウンロード on the Internet Archive THE FAKE OF NANKING on Youtube 外部リンク 興亜観音ホームページ (略伝他) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月20日 (土) 10 36。   考察 松井大将は、南京の軍事...
  • 小磯國昭
    ... 第5師団長。 1935年(昭和10年)12月2日 - 朝鮮軍司令官。 1937年(昭和12年)7月21日 - 大将に昇進。 1938年(昭和13年)7月29日 - 予備役編入。 1939年(昭和14年)4月7日 - 第15代拓務大臣(~8月30日)。 1940年(昭和15年)1月16日 - 第17代拓務大臣(~7月22日)。 1941年(昭和16年)7月 - 満州移住協会理事長。 1942年(昭和17年)5月29日 - 第9代朝鮮総督(~1944年7月21日)。 1944年(昭和19年)7月22日 - 第41代内閣総理大臣。 1945年(昭和20年)4月7日 - 内閣総辞職。 関連項目 士族 小磯内閣 日蓮宗 外部リンク 小磯国昭 | 近代日本人の肖像 小磯國昭 内閣 施政方針演説 小磯内閣総辞職 / クリック 20世紀 出...
  • @wiki全体から「935年」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。