chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「PHP研究所」で検索した結果

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  • 幣原喜重郎
    ...579-93-0)、PHP研究所(ISBN 4-569610-83-8) 岡崎久彦 『吉田茂とその時代』 PHP研究所〈PHP文庫〉。ISBN 4-569660-69-x。 塩田潮 『最後の御奉公―宰相 幣原喜重郎』 文芸春秋。ISBN 4-163463-80-1。 塩田潮 『日本国憲法をつくった男―宰相幣原喜重郎』 文春文庫。ISBN 4-167516-03-9。 馬場伸也 『満州事変への道―幣原外交と田中外交』 中公新書。ISBN 4-121003-02-0。 関連項目 田中義一 日本国憲法第9条(発案者をめぐる議論) フリーメイソン 外部リンク 三菱人物伝 幣原喜重郎 幣原喜重郎関係文書(幣原平和文庫) | 国立国会図書館 歴代総理の写真と経歴 第44代 首相官邸サイト   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wi...
  • 大日本帝国海軍
    ...日本海軍の興亡』』(PHP研究所PHP文庫・1999年1月) ISBN 4569572308 太平洋戦争研究会『日本海軍がよくわかる事典』(PHP研究所PHP文庫・2002年7月) ISBN 456957763 野村実『日本海軍の歴史』(吉川弘文館・2002年8月) ISBN 4642037454 坂本正器・福川秀樹『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版・2003年7月) ISBN 4829503300 関連項目 大日本帝国海軍艦艇一覧 大日本帝国海軍艦艇要目解説 大日本帝国海軍兵装一覧 大日本帝国海軍軍人一覧 大日本帝国海軍航空隊一覧 海軍予備員 軍服 (大日本帝国海軍) 大日本帝国海軍の旗章 5分前精神 出船精神 ようそろ 五省 総員起こし 後発航期 海軍カレー 肉じゃが ラムネ (清涼飲料) ...
  • 上原勇作
    ...む「激闘の軌跡」』(PHP研究所 ISBN 978-4-56-966153-7)等)。上原謙の記事中には「父親は鹿児島出身の陸軍大佐だが、上原が中学生の時に死亡する。母方の祖父は、陸軍元帥の上原勇作である。」との記載がある。しかし、上原家の正式な家系図において上原謙との血縁関係は一切認められず、これは同書の誤記に端を発する誤った噂が流布したものではないかと思われる。 参考文献 今村均「私記・一軍人六十年の哀歓」(芙蓉書房) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月31日 (水) 06 43。      
  • 坂本龍馬-2
    ...(『PHP文庫』)、PHP研究所、ISBN 4569567940 1996年9月 坂本龍馬著、日本史籍協会編『坂本竜馬関係文書』1、北泉社、ISBN 4938424665 日本史籍協会 1926年刊の複製 1996年9月 坂本龍馬著、日本史籍協会編『坂本竜馬関係文書』2、北6年刊の複製 1999年8月 京都国立博物館編『坂本龍馬関係資料』京都国立博物館 2003年12月 坂本龍馬、宮地佐一郎著『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』(『講談社学術文庫』)、講談社、ISBN 4061596284 龍馬を研究する上で参考になる主な文献(書籍編) 弘松宣枝『坂本龍馬』(民友社、1896年) 瑞山会編『維新土佐勤王史』(冨山房、1912年。睦書房、1969年。日本図書センター、1977年。マツノ書店、2004年) 千頭清臣『坂本龍馬』(博文館、1914...
  • 陸奥宗光
    ...奥宗光』(上・下)(PHP研究所 1987年) 岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』「外交官とその時代」第1巻 PHP研究所 1999年 のち同文庫 萩原延寿編 『陸奥宗光』(日本の名著 中央公論社 1973年) 萩原延寿『陸奥宗光』(上・下)(著作集 朝日新聞社 2007年) 演じた俳優 東野孝彦:『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ) 岡本富士太:『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京) 堀広道:『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年、東宝) 大柴邦彦:『竜馬がゆく』(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇) 大杉漣:『坂の上の雲』(予定、2009年、NHK) 関連項目 日英通商航海条約 日清戦争 陸奥外交 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28...
  • 真珠湾攻撃
    ...真珠湾の謎と真実』、PHP研究所、2001年8月1日、ISBN 4-569-61586-4 --参考文献。、解読が成功したかについては疑問がある。) 「RIP73」、「RIP80」は、アメリカ軍の諜報無線局であるハワイのHYPO、フィリピンのCASTおよびイギリスに提供され、日本海軍無線の暗号解読が可能な状態であった。(上記の理由により、1941年10月時点での海軍暗号解読には疑問がある。) 国防総省は上記暗号解読方法説明資料の配達記録の開示を拒んでいるが、配達の事実を公文書から確認できた。(国立第二公文書館資料) シアトルの諜報無線局SAILが東京-ワシントン間の無線通信を集中的に傍受したところ、ほとんどがパープル暗号を用いたものであり、ワシントンの陸海軍暗号解読班により、数時間で解読翻訳されていた。<解読させる事には意図が働く場合がある。> フィリピンのCASTの暗号分析...
  • 鈴木貫太郎
    ...天皇と鈴木貫太郎』(PHP研究所、ISBN 4-569629-84-9)、(文藝春秋、ISBN 4-163399-00-3)、(文春文庫、ISBN 4-167483-01-7) のちPHP文庫 小堀桂一郎『宰相鈴木貫太郎』(文藝春秋、ISBN 4-163374-20-5)、(文春文庫、ISBN 4-167452-01-4) 小松茂朗『終戦時宰相 鈴木貫太郎―昭和天皇に信頼された海の武人の生涯』(光人社、ISBN 4-769807-32-5) 花井等『終戦宰相 鈴木貫太郎』(広池学園出版部、ISBN 4-892054-10-0) 立石優『鈴木貫太郎 昭和天皇から最も信頼された海軍大将』(PHP研究所、ISBN 4-569-57376-2) 平川祐弘『平和の海と戦いの海』、新潮社 のち講談社学術文庫 別冊歴史読本57 第28巻26号 『日本の名家・名門 人物系譜騒乱...
  • 皇典講究所
    皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ 1882年 - 1946年)は、日本に設置された神道の研究・教育機関である。 1867年(明治元年)に大教宣布の詔が発布され、1876年(明治9年)に神道事務局に生徒寮を設置して神職の養成に力を注いだ明治新政府であったが、政教分離・信教の自由論が世の中に広まり、教導職制が廃止された。それに伴い神道事務局の中では、旧典練習所をより発展させた機関を設置する必要があるとの考えが強くなっていた。この大教宣布の不振、それに続く祭神論争によりその教学の未成熟さを実感した神道はその教学の深化に迫られ、1882年(明治15年)8月23日に、有栖川宮幟仁親王の令旨を奉じた山田顕義ら内務省高官と、松野勇雄ら数名の国文学者が「専ら国典を講究するため」として研究機関を設立した。 内務省の委託を受けて神職を育成を行ったほか、各種の講演会、『古事類苑』・『延喜式』の編纂事業を行...
  • 大日本帝国陸軍
    ...がよくわかる事典』(PHP研究所PHP文庫・2002年7月) ISBN 4569577644 黒野耐 『帝国陸軍の“改革と抵抗” 』(講談社 2006年9)ISBN 4061498592 関連項目 日本軍 大日本帝国海軍 大日本帝国陸軍師団一覧 大日本帝国陸軍連隊一覧 大日本帝国陸軍飛行戦隊一覧 大日本帝国陸軍兵器一覧 大日本帝国陸軍の軍の一覧 軍隊における階級呼称一覧 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月30日 (金) 22 53。       
  • BC級戦犯
    ...神史』 - 牛村圭 PHP研究所 ISBN 4-569-63826-0 『スガモプリズン』 - 内海愛子 吉川弘文館 ISBN 4-642-05576-2 『罪 - 届かなかった十五通の遺書』 - 毎日新聞東京本社社会部編 河出書房新社 ISBN 4-309-01477-1 『BC級戦犯裁判』-林博史(著)、岩波書店 ISBN 4-00-430952-2 『BC級戦犯関係資料修正』(全15冊)-茶園義男編、不二出版 『東京裁判ハンドブック』 - 東京裁判ハンドブック編集委員会 青木書店 関連項目 日本の戦争犯罪 極東国際軍事裁判 A級戦犯 大東亜戦争(太平洋戦争) スガモプリズン きけわだつみのこえ 私は貝になりたい 加藤哲太郎 はだしのゲン 朝鮮人軍人・軍属問題 プライド・運命の瞬間 ムルデカ 17805 人間の条件 外部リンク 国際軍...
  • 部落問題-2
    前半は部落問題を参照 地域較差 被差別部落の数や部落問題の認知度については大きな地域較差がある。差別の対象となった賤民身分や被差別部落の呼称も地域により様々であり、一般に関西を中心とした西日本には大規模な被差別部落が多く存在し、解放運動が盛んであるが、関東地方では被差別部落自体が比較的少ないことから認知度が低い傾向にある。 北陸地方や東北地方では被差別部落がごく少数点在するのみであり原田伴彦 田中喜男『東北・北越被差別部落史研究』明石書店 1981年、明治期以降解放運動の盛り上がりに欠けていた。学校での教育なども行われないため、これらの地域の住民は部落問題への認知度自体が非常に低く、「部落」と言う言葉も単に一般の集落や町内会を指すことが多い。北海道や南西諸島には歴史的な被差別部落は存在しない。 北陸地方で部落問題が発展しなかったのは全国の被差別民も多く帰依していた浄土真宗が...
  • 日本海海戦-2
    ...海海戦 かく勝てり』PHP研究所、ISBN 4569633374 木村勲『日本海海戦とメディア―秋山真之神話批判』講談社選書メチエ、ISBN 4062583623 別宮暖朗『「坂の上の雲」では分からない日本海海戦―なぜ日本はロシアに勝利できたか』並木書房、ISBN 4890631844 菊田慎典『「坂の上の雲」の真実』光人社、ISBN 4769811810 鈴木孝『20世紀のエンジン史―スリーブバルブと航空ディーゼルの興亡』三樹書房 ISBN 4895222837 関連項目 久松五勇士 イルティッシュ号投降事件 蒸気船時代の海戦戦術 万関瀬戸 東郷平八郎 秋山真之 日本海海戦紀念碑 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月8日 (木) 16 19。 ...
  • 大日本帝国
    ...著『永遠なれ日本』(PHP研究所 2001年)p.115。 外地統治 内地以外の国土を総称して外地あるいは植民地などという。外地には朝鮮総督府、台湾総督府、樺太庁、関東庁、南洋庁といった官庁が置かれ、統治が委任された。これら外地官庁の要職は内地人で占められていた。外地官庁が定める法令は、法律に相当する規定であっても帝国議会の協賛を要しなかった。 Template Main? 国際連盟常任理事国 大日本帝国は1920年に発足した国際連盟の常任理事国であり、1933年3月27日(正式には1935年3月27日)に脱退するまで大きな役割を果たしてきた。 その他 台湾の領有により、日本最高峰は富士山から玉山(新高山)へと変わった。 第二次世界大戦中、軍部の使用に便を図るため、東京のタクシー会社は4社に統合させられた。これら4社大和自動車交通・日本交通・帝都自動車...
  • 台北帝国大学
    台北帝国大学(たいほくていこくだいがく)は、日本領時代の台湾に設置された帝国大学。当時は臺北帝國大學と表記された。 日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に設立。文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には予科(豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。 1945年11月15日に中華民国に接収され台湾大学と改名され、今に至る。 沿革 1928年3月16日 勅令第30号により設立。文政学部、理農学部の2学部と附属図書館設置。 文政学部に哲学科、史学科、文学科、政学科の4学科、理農学部に生物学科、化学科、農学科、農芸化学科を設置。 文政学部は国語学・国文学/東洋史学/哲学・哲学史/心理学/土俗学・人種学/憲法/行政法、理農学部は植物学/動物学/...
  • 東郷茂徳
    ...光・東郷とその時代』PHP研究所(書籍情報:ISBN 4-569616-64-X) 小林よしのり『いわゆるA級戦犯』幻冬舎(書籍情報:ISBN 4-344-01191-0) 『A級戦犯―戦勝国は日本をいかに裁いたか』新人物往来社(書籍情報:ISBN-13 978-4404033239) NHK番組『その時歴史が動いた』 第160回 日米開戦を回避せよ ~新史料が明かす 最後の和平交渉~ 第188回 日米開戦を回避せよ ~新史料が明かす 最後の和平交渉~ 関連項目 苗代川 東條内閣 鈴木(貫)内閣 A級戦犯 極東国際軍事裁判 松本俊一 加瀬俊一(外相秘書官) 外部リンク 東郷茂徳 略歴 東郷茂徳記念館 東郷 茂徳 / クリック 20世紀 あっと九州 九州ものしり情報(文化) 出典 フリー百...
  • 大阪商大事件
    大阪商大事件(おおさかしょうだいじけん)は、太平洋戦争中の1943年から1945年初めにかけて、大阪商科大学(現大阪市立大学)の教員・卒業生・学生ら数十名が治安維持法違反容疑で特別高等警察により検挙、投獄された事件である。 背景 日中戦争の始まった1937年以降、大阪商大では戦時下にもかかわらずマルクス経済学についての研究会活動が活発となった。この背景には、河田嗣郎学長のもとリベラルな学風が強かったことに加え、1937年から1941年にかけて商大において岩波書店版『経済学辞典』の編集が行われ、その執筆陣として多数のマルクス経済学者が参加したことがあげられる。 また同じ時期、進歩的な予科講師として人気のあった立野保男の退職処分に反対する運動(1941年)が展開された。この運動をきっかけに商大では上林貞治郎教授ら教員、学生により「帝国主義戦争に反対し、マルクス経済学を研究する...
  • ハル・ノート
    ...の謎と真実、秦郁彦、PHP研究所、2001となる。スティネットらの主張する陰謀説はルーズベルト大統領が事前に真珠湾攻撃を知っていたとする「狭議の陰謀論」だが、それはアメリカを対ドイツ戦争に引き入れるための大きな計画のための方策であり、彼ら陰謀論者と言われるアメリカ側も日本の多数派と同じ批評をしている。このようにハル・ノートの批評はどんな事実があったかという問題と共に、戦争における対立する両国の立場を反映している。 条項を読めば判るとおり、日本側からみれば、提案をするだけで平和条約締結の約束はしておらず(具体的には日本と戦争中であった中国を含む包括的な条約であるため実現性が無い)、また、貿易条約再締結の交渉を始めるだけといったほぼ白紙に近い条件であった。一方で日本には、直ちに全ての軍事同盟を破棄させ、海外における権益の全てと、実質上、領土の3分の1を放棄させるという、極めて厳しい条件...
  • 日独伊三国軍事同盟
    日独伊三国軍事同盟(にちどくいさんごくぐんじどうめい、独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito、英:Three-Power Pact)とは、1940年(昭和15年)9月27日に日本(大日本帝国)、ドイツ(ナチス・ドイツ)、イタリア(イタリア王国)の間で締結された同盟条約を指す。 1936年(昭和11年)の日独防共協定、1937年の日独伊三国防共協定に引き続き、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか一ヵ国が米国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると取り決めがなされた。実質上、対米軍事同盟と見なされ、日本の対英、対米関係は極端に悪化した。 締結に至る経緯 ドイツ側の利害関係  アドルフ・ヒトラーは激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、主義や思想、地政学的に対立するソ連をゲルマン民族の生存圏の...
  • 東條英機
    ...歴代総理の通信簿』(PHP研究所)によれば、予備役になった原因は日露戦争の作戦失敗の責任を負わされたとされている。また同期には秋山好古がいた。 山田風太郎が明治時代小説の題材にしたこともある(当時の陸軍は明治維新の元老たる山縣有朋を中心とする薩長軍閥が幅を利かせ、戊辰戦争では賊軍扱いとなった東北地方諸藩の出身者は様々な差別をうけたという)。。 英機は番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校を経て、1897年(明治30年)、東京府城北尋常中学校(現・都立戸山高等学校)に入学する。1899年(明治32年)、東京陸軍幼年学校入学(3期生)。1902年(明治35年)、陸軍中央幼年学校入学(17期生)。1904年(明治37年)、陸軍士官学校入学(17期生)。 陸軍入隊 Template 基礎情報 軍人? 1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(クラ...
  • 在華ソビエト軍事顧問団
    在華ソビエト軍事顧問団(ざいかソビエトぐんじこもんだん)は、中国国民党政権に派遣されたソ連軍人により構成された顧問団である。 中国革命を目指す孫文が、国民革命軍の創設と強化のために、隣国ソ連から招いたのが始まりである。孫文の死後、跡を継いだ蒋介石は、革命軍を率いて北伐を行い、各地の軍閥勢力を撃退した。しかしその途上、1927年中国共産党との対立から、上海クーデターを行い、ソビエト顧問団を追放した。 その後は、ドイツより顧問団を招き、軍備の増強・近代化を図った。しかし、1933年ナチスが政権を取ると、ドイツは日本との関係を強化した。1938年7月、日中戦争が勃発すると、再びソ連に接近した。同年8月、中ソ不可侵条約を結んで顧問団を再招聘し、ドイツ顧問団を追放した。 顧問団を含むソ連による中国支援は、1941年日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。 歴代顧問団団長 ヴァシーリー・ブリュヘル...
  • 東京大学史料編纂所
    東京大学史料編纂所(とうきょうだいがくしりょうへんさんじょ、英称 Historiographical Institute, the University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所の一つであり、日本史に関する史料の編纂と刊行を行っている。 沿革 史料編纂所の起源は、1793年(寛政5年)に開設された塙保己一の和学講談所とされる。明治維新後、史料編輯国史校正局、大学校国史編輯局、太政官歴史課、臨時修史局などと変遷している。 1888年(明治21年)、帝国大学(現・東京大学)に修史事業が移管されるが、のちに編年史の編纂は中止と決まり、代わって蒐集した史料自体を編纂、刊行することになり、1895年(明治28年)文科大学(現・文学部)に史料編纂掛が設置される。1901年(明治34年)に「大日本史料」「大日本古文書」の刊行を開始、現在まで事業が続けられている。1929年(昭...
  • 満鉄調査部
    満鉄調査部(まんてつちょうさぶ)は、戦前に存在した南満州鉄道の調査機関である。 設立は明治40年(1907年)。 概要 1906年に南満州鉄道(満鉄、総裁後藤新平)が発足した翌年、満鉄調査部が設置された。当初は満鉄の経営のための調査をはじめ中国東北地区などの政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究を行なったが、その後の日本の中国進出の拡大に呼応してその対象を広げ、中国そのものを対象とした本格的な調査研究も行うようになっていった。 他方、多数の調査要員を必要としたこともあり、日本国内で活動の場を失っていた多数の自由主義者、マルクス主義者などを取り込むようになり、やがてその活動は軍部の忌避するところとなって2度にわたる弾圧事件を受け、活動を縮小した。 満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクであるとしばしば形容される。日本の敗戦と満州国の消滅により満鉄が消滅した後も、満鉄...
  • 真珠湾攻撃陰謀説
    ...トは知っていたか』(PHP研究所、2001年) ISBN 4-569-61586-4 須藤真志『真珠湾〈奇襲〉論争 陰謀論・通告遅延・開戦外交』(講談社選書メチエ、2004年) ISBN 4-06-258306-2 半藤一利『〈真珠湾〉の日』(文春文庫、2003年) ISBN 4-16-748312-2 星亮一『淵田美津雄 真珠湾攻撃を成功させた名指揮官』(PHP文庫、2000年) ISBN 4-569-57391-6 太平洋戦争研究会『太平洋戦争がよく分かる本 20ポイントで理解する』(PHP文庫、2002年) ISBN 4-569-57674-5 関連項目 真珠湾攻撃 陰謀論 ルーズベルト 関連リンク マッカラムの覚書-国家の存亡を握る情報戦 私は艦隊を目撃した:英語 真珠湾攻撃:議会報告書 真珠湾攻撃 真珠湾攻撃 真珠湾攻撃 ...
  • 勝海舟
    ...長「勝海舟」上・下巻PHP研究所。ISBN 4569536174,4569536182 Katz Awa The Bismarck of Japan, Edward Warren Clark, 1904年 外部リンク 勝海舟を顕彰する会 勝 海舟:作家別作品リスト(青空文庫) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月3日 (土) 07 24。     
  • 京城帝国大学
    京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、6番目の帝国大学(但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督府)であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。 歴史 前史 李氏朝鮮では、1895年の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた金ワンソプ『親日派の弁明』p104。 そのため1906年には韓国統監府より普通学...
  • 昭和天皇-3
    前半は、昭和天皇、昭和天皇-2参照 短歌 昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだと言われている。公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。宮中行事や歌会始に代表される歌会、行幸やおことばに代表されるパフォーマンスに伴っての作品発表は、いずれも宮内庁の目を経ており、相聞が一首も発表されていない点をとっても、一般の短歌作者とは同列に論じられない部分もある。近代短歌成立以前の御歌所派の影響は残るものの戦後は、木俣修、岡野弘彦ら現代歌人の影響も受けた。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。このような作風は「おおらか」とも、「非文学的」ともされてきた。(詳しくは昭和天皇の大御歌を参照) 昭和天皇の歌集 みやまきりしま:天皇歌集 (毎日新聞社編...
  • 五四運動
    五四運動(ごしうんどう)は1919年のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した中華民国時の北京から全国に広がった反日、反帝国主義を掲げる大衆運動。5月4日に発生したのでこの名で呼ばれ、五・四運動、5・4運動とも表記される。 背景 遠景―世界的ナショナリズムの高揚とロシア革命― 近代とは帝国主義という嵐が席巻して世界を一つにした時代であり、アヘン戦争以来、中国も列強からの侵略にさらされた結果、その近代の嵐に巻き込まれ世界の一つに組み込まれるようになった。しかしやがてそうした帝国主義に風穴をあけるような事件が世界各地で起き、中国もそれに大きな影響を受けた。それがロシア革命(1917年)、ウッドロウ・ウィルソンの民族自決主義をうたった十四か条の平和原則(1918年)、三一運動(1919年)である。これらは中国におけるナショナリズムの高揚を促進させたといえる。 近景―反日気運の...
  • 満鉄調査部事件
    満鉄調査部事件(まんてつちょうさぶじけん)は、第二次世界大戦中、多数の満鉄調査部員が関東軍の憲兵隊によって2回にわたり検挙された事件。満鉄事件とも呼ばれる。1941年に起こった合作社事件をきっかけとして、1942年には調査部員の第一次検挙、1943年には第二次検挙が行われた。 経緯 満鉄調査部は、1939年の拡充に伴う人員増強により、日本内地で活動の場を失った左翼からの転向者が多数就職していた。彼らは内地ではもはや不可能となったマルクス主義的方法による社会調査・分析に従事しており、そのことが関東軍の憲兵隊を中心とする満州国治安当局からの監視の目を強めさせることになった。 橘樸の影響を受けていた佐藤大四郎は、1937年1月以降、北満州の浜江省綏化県で、貧農を合作社(協同組合)に組織して生産力を向上させ彼らの救済をはかる運動に従事していた。この運動は多くの日本人「前歴者」が結集したこ...
  • 森戸事件
    森戸事件(もりとじけん)は、大正9年(1920年)に起きた経済学者・森戸辰男の筆禍事件。 東京帝国大学助教授・森戸辰男はこの年、経済学部機関誌『経済学研究』にロシアの無政府主義者クロポトキンに関する「クロポトキンの社会思想の研究」を発表した。このことが上杉慎吉を中心とする学内の右翼団体から攻撃を受けて、雑誌は回収処分となった。さらに、新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により森戸は起訴され、休職処分となる。当時の助教授・大内兵衛も掲載の責任を問われて起訴される。 10月2日、大審院は上告を棄却して有罪が確定。両名は失職し、同じ頃ILO日本代表派遣問題をめぐって東大を辞職した師の高野岩三郎(初代経済学部長)とともに大原社会問題研究所に参加、同所の中核メンバーとなった。その後、大内は復職したが、人民戦線事件で検挙、再び東大を追われた。 同じ経済学部の教授である渡辺銕蔵などは、森戸の論文は論理も学...
  • 大西洋憲章
    大西洋憲章(たいせいようけんしょう、Atlantic Charter)は、1941年8月の大西洋会談において、英国首相のウィンストン・チャーチルと、アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトによって調印された憲章。 ニューファンドランド島沖の戦艦、プリンス・オブ・ウェールズ上で調印された。太平洋戦争開戦前で合衆国はまだ参戦していなかったが、この憲章は戦後の世界構想を述べたものである。 八項目からなり、その内容は要約すると以下になる。 合衆国と英国の領土拡大意図の否定 領土変更における関係国の人民の意思の尊重 政府形態を選択する人民の権利 自由貿易の拡大 経済協力の発展 恐怖と欠乏からの自由の必要性 航海の自由の必要性 一般的安全保障のための仕組みの必要性 憲章の第3条については、ルーズヴェルトとチャーチルの間で見解の相違があった。ルーズヴェル...
  • 戦史叢書
    『戦史叢書』(せんしそうしょ)とは防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)によって1966年(昭和41年)から1980年(昭和55年)にかけて編纂され、朝雲新聞社(あさぐもしんぶんしゃ)より刊行された公刊戦史である。 概要 陸軍68巻、海軍33巻、共通年表1巻、全102巻から構成され、別に図・表類が付属する。一時期、『大東亜戦争叢書』『太平洋戦史叢書』とも呼ばれたが、その後単に『戦史叢書』と表記され、一般では『公刊戦史』と呼ばれる。 記述の元となったのは、戦中に占領軍の接収から秘匿されて残された大本営内部の文書(大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』など)と、引き揚げてきた部隊の関係者が執筆を求められて執筆した準公式の報告書、及び、自発的に執筆された私的な回想録が主である。 刊行された年代が古いため、現在から見ると若干の誤りも指摘されているが(特に対ソ関係やノモ...
  • 義和団の乱-2
    前半は、義和団の乱参照 義和団の乱の影響と評価 影響 1―中国国内の影響― 改めて強調するまでも無く、義和団の乱は国内外に様々な影響を残した。まず国内的な影響について触れる。 1. 総理衙門の廃止と外務部の創設 これらは北京議定書に盛り込まれているように、列強各国の強い意向によって実現したものである。アロー戦争以後清朝の外交を担ってきた総理衙門が清朝官庁内で次第に地位低下したことに不満を覚えた諸外国が、清朝が外交を重視するよう求めた結果、総理衙門を廃止し外務部をつくらせるに至った。なお外務部は他の官庁より上位の組織であるとされた。 2. 光緒新政の開始 北京に帰った西太后は排外姿勢を改め、70歳近い年齢でありながら英語を習い始めるなど、西欧文明に寛容な態度を取り始めた。その最も典型的な方針転換はいわゆる光緒新政を開始したことである。これは立憲君主制への移行・軍の近...
  • 大日本帝国憲法
    ...』PHP新書201、PHP研究所、2002年 ISBN 9784569621456 関連項目 太政官 内閣 (日本) 外部リンク Template Wikisource? 伊藤博文著『憲法義解』の現代語訳(HISASHI) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月4日 (火) 05 21。     
  • 企画院事件
    企画院事件(きかくいんじけん)は、1939年から1941年にかけて、多数の企画院職員・調査官および関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された事件。企画院事件は、1939年以降の「判任官グループ」事件、および1940年以降の「高等官グループ」事件の複合体である。 経緯 1938年10月の京浜工業地帯の労働者による研究会に対する弾圧事件(「京浜グループ」事件)において、同研究会で講師を務めていた企画院属の芝寛が逮捕された。芝による自供をもとに、企画院内若手判任官による研究会(これ自体は同院内部で認可された小規模な勉強会であった)の存在が警察の認識するところとなり、これが「官庁人民戦線」の活動として扱われ、1939年11月から翌1940年までに岡倉古志郎・玉城肇ら4名が検挙された(「判任官グループ」事件)。 さらに検挙は1940年10月から1941年4月にかけて、...
  • 兒玉源太郎
    Template Infobox 軍人? 兒玉 源太郎(こだま げんたろう, 嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日) - 明治39年(1906年)7月23日)は、日本の武士、陸軍軍人。陸軍大将勲一等功一級子爵(なお、現在では通常児玉 源太郎の表記の方が多い。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体)。 長男は大蔵官僚で国務大臣などを歴任してきた児玉秀雄、三男児玉友雄は陸軍中将、九男の児玉九一は内務官僚で厚生次官、曾孫の児玉進は映画監督・テレビ映画監督。 東郷平八郎、乃木希典らと共に日露戦争の英雄として有名である。日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍という日本側にとって圧倒的不利を覆し、日本を勝利に導い...
  • 不戦条約
    不戦条約(ふせんじょうやく)(「戦争抛棄ニ関スル条約」)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。 概要 1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後、ソビエト連邦など63か国が署名した。フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)(Pact of Paris)あるいはパリ不戦条約と呼ぶこともあり、また最初フランスとアメリカの協議から始まり、多国間協議に広がったことから、アメリカの国務長官フランク・ケロッグと、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアン両名の名にちなんでケロッグ=ブリアン条約(協定)(Kellogg-Briand Pact)とも言う。戦争の拡大を防ぐために締結...
  • 田中上奏文
    thumb|300px|田中上奏文 田中上奏文(たなかじょうそうぶん)は、昭和初期に中国を中心として流布した怪文書・偽書である。田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorialである。 田中上奏文は、その記述によれば第26代内閣総理大臣田中義一が1927年(昭和2年)、昭和天皇へ極秘に行った上奏文であり、中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服するための手順が記述されている。この文書は発表当初から偽書であることが指摘されており、現在の史学でも偽書であるとされている。松岡洋右、重光葵などの当時の外交官は、日本の軍関係者が書いた文書が書き換えられたものではないかと見ていた。しかし、田中上奏文を本物であると考える人は現在でも特に日本の国外に存在する服部龍二「「田中上奏文」と日中関係」、劉傑・...
  • 石黒忠篤
    石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、明治17年(1884年)1月9日 - 昭和35年(1960年)3月10日)は、大正・昭和期の農林官僚、政治家。「農政の神様」と称せられ、彼が農商務省・農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。妻は穂積陳重の次女。息子に石黒孝次郎。 経歴・略伝 1884年(明治17年)1月9日、石黒忠悳の長男として、東京に生まれる。 1908年(明治41年)第七高等学校造士館(鹿児島大学の前身)を経て東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入省。 1910年、新渡戸稲造宅で柳田國男らと郷土会を開く。 1914年(大正3年)ヨーロッパに農政を研究するため留学する。 1919年(大正8年)農務局農政課長。 1924年(大正13年)農務局小作課長。小作慣行調査、小作調停法案作成に関わる。農林省農務局長、蚕糸局長を歴任。 1931年(...
  • 京都学連事件
    京都学連事件(きょうとがくれんじけん)は1925年(大正14年)12月以降、京都帝国大学などでの左翼学生運動に対して行われた弾圧事件。日本内地では最初の治安維持法適用事件として知られる。 経緯 背景 1910年代前半より、各大学・高校・専門学校などでは社会科学研究会(社研)が組織され、1924年9月には49校の社研が参加する学生社会科学連合会(学連)が発足した。学連はまたたくまに会員1600名を擁する大組織に成長し、マルクス主義の普及・研究を標榜するとともに労働争議や労働者教育運動(京都労働学校など)への支援を積極的に行い、1925年7月には第2回全国大会を京都帝大で開催、代議員80名が参加した。 弾圧 1925年12月、京都府警察部特高課は、全市の警察署高等係を動員して京都帝大・同志社大などの社研会員の自宅・下宿などを急襲、家宅捜索および学生33名を検束した。しかし京...
  • 部落問題
    部落問題(ぶらくもんだい)は、日本における差別問題のひとつである。江戸時代の穢多や非人など賎民身分を由来とする。居住地域が限定され、被差別身分化は罪人に対する刑罰のひとつでもあった。現代では世系差別と地域に対する差別を同和問題という。 部落 「部落」は本来「集落」の意味である。歴史的にエタ村あるいはエタと称された賤民の集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などとよび定着した。現在では同和行政特別施行地区という呼び方をする自治体もある。なお東日本などでは現在でも日常的に差別などの意味をもたない「集落」「地区」などの用法で「部落」という言葉を用いている。 近現代に「部落」の語が用いられるに伴い、「地区」の意味での「部落」と混同されないよう部落民自らが「特殊部落民」と称するようになった 『日本史大事典』第5巻、平凡社、1993年、993頁。なお、「特殊部落...
  • 南京大虐殺論争
    南京大虐殺論争(なんきんだいぎゃくさつろんそう)とは、1937年から始まった日中全面戦争初期に起きたとされる南京大虐殺(南京事件)に関して、事件の存否、規模などを論点とした論争である。 論争の歴史 1971年まで 「南京大虐殺」は、東京裁判において日本と世界に大きな衝撃を与えたが、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった。専門的な研究は洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社 1967年)、五島広作(毎日新聞記者)と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 1966年)がある程度であった。この『南京作戦の真相』は、南京事件の存在自体を疑う否定論としては最も早く単行本として出版されたものであったが、当時この本が注目されることはなかった。 1971年から1982年まで 再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前...
  • 岩倉使節団
    thumb|350px|左から[[木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通]] 岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視を正使とし、政府のトップや留学生を含む総勢107名で構成された。 概要 明治4年(1871年)に横浜港を船で出発し、サンフランシスコに上陸。アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問した後、ヨーロッパへ渡り各国を訪問した。ヨーロッパでの訪問国は、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・オーストリア・イタリア・スイスの12カ国に上る。帰途はアジア各国への訪問も行われたがこれはヨーロッパでの滞在に比べれば短いものであった。日本に帰国したのは出発から2年後の明治...
  • 仏印進駐
    仏印進駐(ふついんしんちゅう)とは、フランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。1940年(昭和15年)の北部仏印進駐と、1941年(昭和16年)の南部仏印進駐に分けられる。 北部仏印進駐 1940年(昭和15年)9月、日中戦争(支那事変)によって日本と敵対していた蒋介石の中国国民党政権に対するイギリス・アメリカ合衆国などによる援助ルート、所謂「援蒋ルート」を遮断する目的で行われた。これは、フランスの親独的中立政府であるヴィシー政権との外交交渉の結果得られた成果とされ、現地の両軍司令部間での軍事協定も結ばれていた。しかし、実際には進駐開始した9月23日から数日間、ドンダン要塞など各地で戦闘日本側でも当初から戦闘を想定し、戦車部隊などを伴い武力制圧可能な構えであった。が発生し、停戦までに数百人の死傷者が出ている。 進駐後は、統治権はフランス側に残され、フランス...
  • 五代友厚
    五代 友厚(ごだい ともあつ、天保6年12月26日(1836年2月12日) - 明治18年(1885年)9月25日)は、江戸末期の武士・薩摩藩士、明治期の実業家。薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷(鹿児島城下、現鹿児島市長田町)生まれ。幼名は徳助。通称才助。関西経済界の重鎮。「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。東の渋沢栄一、西の五代友厚とも称される。 経歴・人物 『三国名勝図会』の執筆責任者で記録奉行の五代直左衛門秀尭の子として生まれ、後に分家する。薩摩藩藩士として長崎海軍伝習所に学ぶ。海外視察のため上海に密航もした。このために、藩からは脱藩の罪に問われるが、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって罪を許された。欧州視察後、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府...
  • 支那事変
    支那事変(しなじへん)は、日中戦争の呼称として、大日本帝国政府が定めた公称昭和12年9月2日閣議決定、事変呼称ニ関スル件「今回ノ事変ハ之ヲ支那事変ト称ス」である。 当項目では「支那事変」という呼称に関する問題について述べる。Template main2? 概要 事変は、昭和12年(1937年)7月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大し、部隊衝突は8月の第二次上海事変勃発により中支(中支那)へ飛び火、やがて中国大陸全土へと飛散して行き、大日本帝国と中華民国とは次第に戦争の様相を呈していった。しかし昭和16年(1941年)12月までの間は、双方が宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本...
  • 石原莞爾
    Template Infobox 軍人? 石原 莞爾(いしわら かんじ読みは「いしわら」だが、「いしはら」と誤読されることがある。工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』(日本経済新聞社 ISBN 978-4532165635)153ページには、「いしはら」とルビが振られている。、明治22年(1889年)1月18日 (戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年)8月15日)は、昭和の大日本帝国陸軍軍人、満州派の領袖。立命館大学国防学研究所長(1941-42年)。通称「帝国陸軍の異端児」。 軍歴は関東軍作戦参謀、歩兵第四連隊(仙台)連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長兼駐満州国武官、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、最終階級は陸軍中将。 生涯 幼少年時代 明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原...
  • 梁鴻志
    梁 鴻志(りょう こうし、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1882年 - 1946年11月9日)は、中国の中華民国時代の政治家。字は衆異。福建省長楽県(現在の福州市長楽市)の人。北京政府安徽派の有力政治家で、後に中華民国維新政府の首脳を務めたことで知られる。 事跡 安徽派時代 6歳の時から2年間、日本での生活経験を持つ。帰国後の光緒29年(1903年)に挙人となる。光緒31年(1905年)、京師大学堂(北京大学の前身)に入学した。光緒34年(1908年)の卒業後、山東省の登莱高胶道尹公署で科長に任命され、まもなく教職に転じた。中華民国成立後は、国務院で職に就き、袁世凱が創刊させた新聞である『亜細亜報』で記事を書いた。 民国5年(1916年)6月の袁世凱死後、梁鴻志は段祺瑞率いる安徽派に与し、段...
  • 超然主義
    超然主義(ちょうぜんしゅぎ)とは、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義をいう。一般的には、大日本帝国憲法発布後、帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る政府が採った立場を指し、政府は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張であるとされる(異説坂野潤治や御厨貴らは、超然主義には本来の意味である議会や政党の存在・主張を無視するという意味の他に、どの政党に対しても親疎の差を付けずに公平に扱い党派争いに関与しないという意味でも用いられており、超然主義及び超然内閣が必ずしも政党そのものを無視・否定したものではないとする説を提示している。また、政府と議会を独立させるという意味では、アメリカ合衆国では大統領を始め、閣僚は非国会議員に限定している。実態として大統領は議会の有力党派で争われるが、議会選挙とは独立して選出されるのはこのためである。あり)。ま...
  • 帝国大学
    帝国大学(ていこくだいがく)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された大学のことである。以下のように、1校のみの時期はその大学の名称として、2校以上になってからは大学群の総称として使われた。 1886年~1897年:日本唯一の大学であった東京大学(1877年設立)が帝国大学令に基いてつけられた名称。 1897年~:帝国大学令に基いて設置された複数の大学群の総称。最終的に、内地に7校、外地に2校設置された。 概要 帝国大学は、前身となる高等教育機関を改組・改称して設置され、後に学部を新設したり、他の高等教育機関を包摂したりして、日本で有数の、あるいは各地域を代表する総合大学となっていった。 大正時代まで、卒業時、学科ごとに最優秀のものには天皇から恩賜の銀時計が下賜された。1886年(明治19年)には、卒業生のクラブとして学士会(本部・東京都)が設けられ...
  • 解放令
    解放令(かいほうれい)とは、明治4年8月28日(1871年10月12日)に明治政府が行った穢多非人等の身分の廃止などの旨を記した太政官布告である。正式名称は不明だが当時の法令を収集した政府刊行の法令全書の目録には、「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」と書かれいる。そのため、研究者の間では様々な呼び方があり、「身分解放令」「賎民解放令」と呼ぶ例、中には「解放」の名称を使用せず「賤称廃止令」「廃称令」「廃止令」などと呼称する人々もいる。 解放令の背景と経緯 解放令が検討された最初の案は、明治2年(1869年)12月に民部省改正掛の渋沢栄一より、大蔵大輔大隈重信(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)にあてて提出された戸籍に関する草案である(現在早稲田大学社会科学研究所「大隈文書」)。これは、改革掛には渋沢や前島密など郷士や農民などから幕臣を経て明治政府に仕官した者が多く、...
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