【猿の左手】

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[[ラノで読む>http://rano.jp/2925]]  せっかくの休日に、なぜこんなところに足を運ばなくてはならないのか。  目の前の扉を開けることをためらいながら、夏目《なつめ》中也《ちゅうや》は溜息をついた。 「ユキ姉、開けるよ」  数回ノックしても返事が無かったため、中也はドアノブに手をかける。不用心なことに鍵はかかっておらず、すんなりと扉は開いた。  中也がやってきたのは双葉区の都市部にそびえ立つ巨大マンションだ。そこの最上階には夏目五兄弟の長女である雪緒《ゆきお》が暮らしている。中也は雪緒に呼び出され、わざわざやってきたのである。長兄の賢治《けんじ》が逃亡中の今、彼ら兄弟のボスは自称魔女の雪緒だ。本当は今日、次女の晶子と一緒に買い物に出かける予定だったのだが、中也は雪緒に逆らうことが出来なかった。 (早く用事を終わらせて帰ろう)  だが経験上、雪緒の用事はろくでもないものだと中也は理解していた。今も嫌な予感が止まらない。 「ユキ姉。いるんだろぉ」  そう呼びかけながら広いマンションの室内に足を踏み入れると、異様な光景に出くわしてしまう。驚いて中也は思わず目を逸らす。 「あら中也。ようやく来たのね。待っていたわ」 「待ってた、じゃないよユキ姉。なんて格好してるんだよ」  中也は呆れて頭に手を置いた。そこには魔女のようなトンガリ帽子を被っている女、雪緒がソファに座っていた。だが雪緒の格好は刺激の強いものであった。服を着ておらず、上下黒の下着のまま中也に向き直った。普段は暑苦しいゴスロリファッションで隠されている豊満な二つの胸がこれでもかと揺れていた。 「だって暑いのよ。ほら、あんたも脱いだらどう?」 「やだよ。大体暑いんだったら、まずその黒帽子から脱いだらどうなんだよ」 「ダメよ。これは魔女としてのトレードマークなんだから。アイデンティティーと言ってもいい。それにこの帽子はママが昔使っていたものなのよ、手放せないわよ」  雪緒はソファの上に寝そべりながら、愛おしそうに頭の帽子を撫でる。 「魔女なんてよく言うよ。異能も無い癖に。夏目一族の魔女として能力を受け継いでいるのはぼくと賢治兄さんだけじゃないか。まったく、男の魔女なんて笑えないよ」 「最初からあんたは笑えないでしょ嘘つきちゃん。いいのよ。魔女っていうのは能力や資質じゃないの、生き様なんだから。そう言う意味ではあんたは甘ちゃんだから、夏目の正当な後継者にはなれないわよ」 「別にどうだっていいよそんなの。それで、いったい何の用事でぼくを呼びだしたんだよ」 「ふぅ。せっかちな男は嫌われるわよ」  そう言いながら雪緒は咥えたタバコに火を付け、大きく煙を吐いた。そうして気だるそうに立ちあがり、美少女フィギュアやBL同人誌で雑多に散らかった机の引き出しから、奇妙な細長い木箱を取り出し、中也の目の前にそれを置いた。 「なんだよこれ。すごい、嫌な感じがするんだけど……」  テーブルの上に置かれたそれは、カビの匂いがする古びているただの木箱だ。だが問題はその木箱そのものではない。その中に入っているであろう物から、中也は異様な雰囲気を感じ取っていた。 「あんたにもわかるのね、ここから溢れ出る負のオーラが」 「誰でもわかるよこんなの。こうして箱を見てるだけで全身の毛が逆立ちそうだ」 「そう、じゃあ中を見ておったまげなさい」  雪緒はその木箱に手をかけ、あっさりとそれを開いた。中から出てきたのは巨大な魔人、醜悪な悪魔、などではなく、干からび、ミイラ状になっている人間の腕だった。  いや違う。それは人間の手じゃない。歪で奇妙な形をしていた。人間に近いが人間ではない者の左手、それは―― 「猿」  ぽつりと中也はそう呟き、そしてそれに応じて雪緒も答えた。 「そう、これは『猿の手』よ」  猿の手。  それは三つの願いを叶えてくれる、魔力を秘めた猿の腕のミイラだ。どういう経緯で猿の手が作られ、一体どうやって願いが叶えられるのかは不明である。  ただ一つ言えるのは、猿の手に願いをかけた人間は決して幸福になることは無い。  猿の手が叶える願いは、必ず歪んだ形で実現されるからだ。  猿の手については、中也も知っていた。夏目家本家には、猿の手のような魔術的な道具に関する資料がたくさんあり、子供の頃から中也はずっとそれを読んで育ってきた。それゆえに猿の手の恐ろしさを、十分知っているのであった。 「こ、これ本物なのかユキ姉」 「本物よ。ファニー・バニーって名前の腹話術師から大枚はたいてわざわざ買ったのよ。ちゃーんと保証書もあるのよ」  雪緒はどこからか取り出した保証書を中也に見せつけた。それが確かなものだと知り、中也は眉をひそめる。 「だとしたらマズイよ。猿の手を持っている人間は、必ず不幸のどん底に落ちる。下手したら命を落とすかもしれないよ」 「それよ。それが問題なのよ。ノリで買っちゃったはいいけど、処分に困っちゃったのよねぇ……」  雪緒は木箱の蓋を閉めなおし、それを中也の手に無理矢理持たせ、悪魔的な笑顔を中也に向ける。 「な、なんだよユキ姉」 「だーかーらー。あんたにこれ譲ってあげるわ。猿の手なんて貴重なものをタダで手に入れるなんて滅多にないわよ。よかったわね」 「やめてくれよ! ぼくに呪われろって言うのか!」 「グダグダ言うな! 弟は姉の言うこと聞いていればいいのよ。はい、これであたしの用事は終わったから、とっとと帰りなさい! 今からあたしは原稿の追い込みで忙しいの。今度の即売会用に『|魔砲少女《まじかる》★ナースメイド★てぃんくるアスカ』の同人誌を百ページ描くんだから。さあ出ていけ!」 「自分から呼んで置いてめちゃくちゃだ!」  雪緒に部屋から蹴り出され、扉の外で中也は途方に暮れる。腕の中に残ったのは不幸の象徴、呪われし魔術道具の猿の手のみ。 「どうしたものかな、これは……」  自分に叶えたい願いなんてない。だけど持っているだけでどんな不幸に巻き込まれるかわかったものではない。自分がどうなろうがどうでもいいが、このせいでもう一人の姉、晶子に被害が及ぶことになるかもしれない。 「仕方ないな」  中也は猿の手を木箱から取り出し、マンションの最上階から、猿の手を眼下に広がる都市部へ向かって投げ捨てる。猿の手は放物線を描きながら商店街の方へと落ちていき、やがて見えなくなった。 「ふう、ユキ姉も最初からこうしておけばよかったんだよ」  満足そうに中也は頷き、晶子にスイーツでも買って帰ろうかと考えながらマンションのエレベーターに乗り込んだ。  そうしてマンションから出て、道を歩いていると、一人の女の子と肩がぶつかった。 「あっ!」  その勢いで女の子は転びそうになり、とっさに中也は抱きとめる。 「大丈夫かい」 「ご、ごめんなさい。ぶつかってしまって……」 「いや、ぼくの方こそ」  そう言いかけた所で、中也は女の子が杖を持っていることに気がついた。顔を見ると目をつぶっている可愛らしい女の子で、その顔に中也は見覚えがあった。 「和泉《いずみ》さんじゃないか」 「あっ、はい。その声は夏目くんですね」  その女の子はクラスメイトの和泉あゆみであった。あゆみは生まれた時から目が見えないらしく、しかし杖を使ってこうして街を歩くことができるようであった。だがさっき転びそうになった拍子に杖が折れてしまい、あゆみは困ってしまっていた。中也はそんなあゆみの手を掴んで、立たせてやる。 「ありがとう夏目くん」 「いや、ぶつかったのはぼくが悪いし。気にしないで」  あゆみはなんとかバランスを保ち、しっかりと立ち上がった。しかし、杖がないのに、このまま歩いてくのは危険だ。 「じゃあね夏目くん。私これから帰るところだから」  そう言って危なげな調子で歩くあゆみを、中也は見ていられなかった。 「ねえ和泉さん。ぼくもこれから帰るところなんだけど、途中まで道同じだから、一緒に歩いてもいいかい?」 「え? あっ、はい……」  なぜかあゆみは頬を赤くし、恥ずかしそうにそう頷いた。  ◇◆◇◆◇ 「あっ痛!」  吸血鬼ショコラーデ・ロコ・ロックベルトが商店街をブラブラと歩いていると、突然頭頂部に激しい痛みを感じた。どうやら何かが空から降ってきて、ショコラに直撃したようだった。綺麗な金髪が輝くショコラの頭には、大きなたんこぶができている。 「うう、痛いよ~」 「大丈夫ショコラ? 空からなんか降ってきたよ」  ショコラと一緒に商店街にショッピングをしていた犬耳としっぽの生えている少女、大神《おおがみ》壱子《いちこ》は地面に転がっているそれを拾い上げた。一瞬大好物の骨かと思って涎を垂らしたが、よくよく見ると不気味なミイラの手だということに気付く。頭を押さえてベソをかいていたショコラは、それを見るなり目の色を変えた。 「何これ。人間の手じゃないよね。猿か何かのミイラみたいだけど……」 「おお、それは猿の手ではないか!」  ショコラは壱子に飛びかかり、そのミイラ――猿の手を取りあげる。ショコラの豹変に壱子はぽかんとする。 「ちょっとショコラ! それなんなのよ。何かいいものなの?」 「ほほう。お主もわしと同じ怪物のくせに、この猿の手を知らないのか。やっぱバカワンコはバカワンコじゃのう。猿の手は常識じゃろうて」  クエスチョンマークを浮かべている壱子に対して、ショコラは不敵にニヤリと笑った。 「あ、アホ吸血鬼のくせに! ぐぬぬぬ」 「知らないのならこのショコラ様が教えてあげるかのう。このミイラは猿の手と言って、願い事をなんでも三つだけ叶えてくれるのじゃ!」 「な、なんだってー!」  いったいなぜそんな猿の手が空から降ってきたかはわからないが、ショコラはそんなことを気にせず、嬉しそうに猿の手を掲げて喜んでいた。 「願い事を叶えてくれるんだあ。ロマンチックだなあ」  壱子は羨ましそうにショコラの手の中にある猿の手を眺めていた。だがショコラはそれをさっと後ろで隠し、フフンと鼻で笑う。 「な、何よショコラ。あたしにも願い事させてよ!」 「これはわしのじゃからな。お主にはやらんぞ。天から降ってきたのは神様からの贈り物じゃからに違いない!」 「吸血鬼の癖に神様とか言うな!」 「うるさい、三つともわしが願い事叶えて貰うんじゃ!」  そしてショコラは突然走り出した。「あー!」と後ろで叫んでいる壱子を無視し、走りながら猿の手に願い事を始める。 「猿の手様。猿の手様。どうか願い事を叶えてください」  しかしそう呟く途中で、何を願えばいいのかまだ考えていないことに気付いた。 (どうしよっかなあ。ああ、今日はなんか暑いのう……)  初夏の日差しは吸血鬼のショコラにとってはとても辛いものだった。溢れ出て来る汗を拭いながら、とりあえず一つ目の願いを何にするかを決め、ショコラは大声で願い事を叫ぶ。 「もう暑いのは嫌じゃ、涼しくなれえええええええええええ!」  すると、どこからともなく声が聞こえてきた。 ―――一つ目の願い、聞き入れた。  それはまさしく猿の手からの声だろうとショコラは直感でわかった。 「おお、やっぱり本物じゃったようじゃ……!」  一体どう願いが叶えられるのだろうか。突然冬になったり気温が下がったりするのだろうか。そう思いショコラはきょろきょろと商店街を見回した。すると、前方に人だかりができているのが見えた。 「さあ、よってらっしゃいみてらっしゃい。氷の彫像ショーだー!」  そこでは巨大な氷をチェーンソーで削り、彫像を作るという見世物をやっていた。職人がチェーンソーを振り回すと、見る見るうちに氷は巨大な女神像へと変化していく。単純なショコラは関心が猿の手ではなく、そのショーのほうへと向いていた。 「おお、面白そうじゃのう! 見せろ見せろ!」  そうしてショコラが巨大彫像に近づいた瞬間、彫像が乗っている台が崩れ、ショコラのほうへと倒れこんできた。 「へ?」  激しい音と共に、小さなショコラの身体は氷の下敷きになってしまった。 「わあ、ショコラが死んでる!」  ショコラを追いかけてきた壱子は人だかりの中心に目を向けた。そこでは氷の下敷きになって冷たくなっていたショコラの姿があった。その手には何も無い。  どうやら氷が落ちてきた時の衝撃で、猿の手はどこか遠くへ飛んでいってしまったようだった。  ◇◆◇◆◇ 「あークソっ。全然でねーじゃねーか」  激しい騒音が鳴り響くパチンコ屋の店内で、瀬賀《せが》或《ある》は誰に言うでもなくそう愚痴った。  どれだけレバーをガチャガチャと回しても一向に当たる気配が無く、もう朝から何時間もパチンコの台と睨めっこしている。灰皿には煙草の吸殻がいくつも積まれ、よっぽどイライラしているのか貧乏ゆすりを絶やさずしていた。  瀬賀は本日何本目かわからない煙草に火を付け、大きく煙を吸い、ふうっと吐き出す。そうして台の表面に反射している自分の姿を見て溜息をつく。今日の瀬賀の格好は酷くずぼらなものだった。ネズミ色のパジャマで、サンダルをつっかけてきただけだ。髭もそっておらず、髪もいつも以上にボサボサであった。まさに起きてそのまま出かけてきたと言った感じである。 (せっかくの休日に、俺はなにやってんだろーなー)  今日は同棲している幼な妻のショコラが、クラスメイトの壱子と出かけていてアパートにいない。それで久しぶりに一人の時間を満喫できると思ったのだが、これといった趣味も無く、人づきあいも無い瀬賀は休日にやることがまったく無い。というより何もやる気が無いようだ。  それゆえにパチンコを打ちに来たのだが、お金を吸い取られていくだけで何の成果もない。これなら家でゴロゴロしていたほうがマシだったかもしれない。  今の台は出そうに無いから、席でも移ろう、瀬賀がそう思っていると突然誰かに肩を叩かれた。 「ああん?」  瀬賀が振り向くと、そこには見知った顔があった。 「チーッス瀬賀先生。全然玉出てないみたいじゃん。今日は調子悪いなー」 「ちっ、なんだよ。お前か龍之介《りゅうのすけ》」  そこに立っていたのはド派手なアロハシャツを着ている、ガラの悪い少年だった。雑に染められた金髪に、右耳のピアスが特徴的だ。  その不良少年は双葉学園の高等部の一年生である夏目《なつめ》龍之介《りゅうのすけ》であった。学園では生徒と教師という関係のこの二人は、よくこのパチンコ店で顔を合わせている。十も年齢が離れていながらも、この二人は悪友のような関係であった。 (なんで俺はこんなガキと気が合うんだろうなぁ)  彼の精神年齢は十五の時からまったく成長してはいなかった。大人の成りそこないと言っても過言ではない。 (やっぱり俺の中の時間は、あの時から止まってるんだな……)  瀬賀はサンフランシスコでの“あの出来事”を思い出し、少しだけ気分が沈んだ。それを打ち消すかのように煙草を灰皿に押し付ける。  そんな瀬賀の横に龍之介は座り、楽しそうに台と向き合った。 「んじゃ俺も打つかー。あっ、煙草忘れちまったぜ。瀬賀先生、一本恵んでくれ」 「ほらよ、あとでちゃんと返せよ。昔と違って今は煙草の値段が高いんだから。一本でも貴重なんだよ」  瀬賀は面倒そうにポケットから新しい煙草を取り出して、龍之介に投げてよこした。 「そのわりにはバカスカ吸ってるじゃん。早死にするぜ先生」 「ファック。うるせーよ、俺の勝手だろうが」 「ははは。そりゃそうだ」  瀬賀から煙草を受け取った龍之介は百円ライターで火をつけ、幸せそうに煙草を味わっていた。  未成年のパチンコや喫煙は法律で禁止されているが、二人ともそんなことは知ったことではなかった。瀬賀自身も中学の時から愛煙していたため、たとえ生徒相手でも、他人に対してどうこう言うつもりもないのだろう。もっとも、それは教師としても人としても最低なことなのだが。 「しかしお前よくここでパチンコなんて打ってられるよな。普通未成年ってバレるだろ。島の外以上に警戒が厳しいんだから」 「ああ、最初に兄貴連れてきて店員全員にペテンをかけてやったんだ。みんな俺のこと成人だと思ってる。学校の先公共でパチンコなんてやるのあんまいねーから遭遇することも無いし。平気だよ」 「お前の兄貴って“言霊使い”だっけか。そんな悪用がバレたら風紀委員たちに何されるかわかんねーぞ」 「ああ、そりゃ怖いね。怖い怖い。まだ若いのに死にたくないよ」 「死んだらこうやってパチンコもできねーし、煙草も吸えないしな」  下らないことを話しながら、二人は下品にゲラゲラと笑っていた。そうして一時間ほど打っていたら、 「ああ! ダメだダメだ! どの台もまったく出ねえ! ぼったくりじゃないのかこれはよぉ!」  我慢弱い龍之介がすぐに切れだし、台をドンドンと叩き始めた。その騒ぎを聞きつけ、店員がこちらを睨んでいることに気付き、瀬賀は暴れる龍之介を押さえつける。 「バカ、何してんだよ。そんなことばっかやってるとすぐとっ捕まるぞ!」 「だって、だってよ先生……。もう俺の財布が空っぽなんだよぉ。明日から俺はどうやって生活すればいいんだよぉ」 「いいから、とりあえずここから出るぞ」  引きずるように龍之介と共に外に出ると、商店街は店の中と違って暑く、汗がどっと出てきた。名残惜しそうに店の方を見つめながら、瀬賀は大きく溜息をつく。 「お前のせいで二度とこの店に顔出せねーよ」 「いいじゃん。パチンコなんて金の無駄無駄。あんなもんやるやつぁー人間のクズだぜ先生。死んだ方がいいねまったく」 「どの口が言うか。どの口が!」  怒った瀬賀は龍之介の尻を軽く蹴るが、龍之介は痛がるどころか奇妙なうすら笑いを浮かべているだけであった。 「ああ、しかしなんだかんだでもう昼過ぎだぜ。昼飯どうすんの?」  龍之介は腕時計を見ながらそう言った。瀬賀もつられて商店街の柱時計に目を向けると、もう午後一時を回ろうとしていた。どうりで腹の虫が鳴るわけだ。 「今日はバカショコラがいないから家に戻っても飯は無いからな。俺はこのへんで食っていくさ」 「じゃあ俺に飯奢ってくれよ!」 「なんでお前に奢らなきゃならんのだ! 俺だって負けてばっかだわ、給料日前だわで金なんて全然ねーんだぞ!」 「いいじゃんかせんせいー。後生だから。俺も腹へって死にそうなんだよぉ」  龍之介はパンッと両の手を合わせて瀬賀に懇願した。 「ダメだダメだ」 「お願いだよ、ほら、今度女紹介してあげるからさー」  その言葉に瀬賀は一瞬ピクリと反応した。 「マ、マジか?」 「マジだよ。大マジさ。俺の知り合いのツテでそりゃあもうよりどりみどりだ。今度ダチ集めて合コンでもしようぜ」  龍之介は下卑た笑みを浮かべ、瀬賀も少しだけその話しに耳を傾ける。 「ううん。だけどなぁ」 「ああ、そっか先生には可愛い、可愛いお嫁さんがいるからそんな話は興味無いか。俺の知り合いの女はみんな年上のムチムチボイーンだから、先生の趣味とは全然違うからなぁ。先生はお嫁さんみたいなタイプが好きなんだろ」 「アホ抜かせ。誰があんなツルペタ寸胴生物に欲情するか! 俺だって年上のムチムチボイーンの女が好きだっての」  思い返せばショコラが家にやってきてから、自分は女遊びの類は一切していないことに瀬賀は気付いた。このままでは名実ともにショコラと夫婦認定され、ロリコン扱いされてしまうだろう。それだけはどうにか避けなければならない。 「よし、その話乗った! 俺に女を紹介しろ!」 「決まりだな。じゃあ誰を紹介しようか。二年F組の山田先輩とかT組の林先輩とか、それとも三年の中野先輩とか――」 「あん……?」  龍之介が挙げていく名前に瀬賀は聞き覚えがあった。 「どうしたんだよ先生。図書委員の大橋先輩なんか、あんなに大人しそうに見えてすっげえ淫乱なんだぜ。この間もさーみんなが帰った後の図書室の机の角でよー」 「お前それ高等部二年と三年の生徒じゃねえか! お前にとって年上でも、俺にとっては年下なんだよバカ!」  龍之介に期待した自分が間抜けだったと、瀬賀は頭をぼりぼりと掻く。瀬賀は龍之介に背を向け、無言で歩きだした。 「待ってくれよ瀬賀せんせー」 「うるせー! ついてくんな」  瀬賀に怒鳴られても、ケラケラと笑いながら犬にように龍之介はその背中を追いかけていく。瀬賀は諦めた様に溜息をついた。 (ったく。なんで俺はこういう奴に懐かれるんだろうか)  類は友を呼ぶ。なんて言葉を瀬賀は認めたくなかったが、傍から見ればその言葉が事実であることはわかるだろう。 (昼飯食ってとっとと帰るか……)  そんなことをぼんやりと考えながら道を歩いていると、道端に奇妙なものが落ちていることに瀬賀は気付いた。  思わず立ち止まってしまい、後ろからついてきていた龍之介が瀬賀の背中にぶつかった。 「おいおい先生。急に立ち止まらないでくれよ」 「おい龍之介。あれ何だと思う?」  瀬賀は道に落ちているそれを指さした。それは一瞬木の棒でも落ちているのかと思ったが、少し違う。よく見ると人の手のような形をしたミイラだったが、人体に詳しい瀬賀はそれが人間の物ではないことにすぐ気付いた。 (動物の手のミイラ……多分この動物は)  瀬賀は腰を屈め、その手のミイラを拾い上げる。すると、後ろで龍之介がそれに反応したのか、ぽつりと呟いた。 「猿だ」 「なんだって?」  瀬賀が振り返り聞き返すと、龍之介は驚いたような、喜んでいるかのような顔で、そのミイラを凝視する。 「猿の手だよ先生! よく漫画や小説に出てくるあれだ!」 「さ、猿の手だって?」  瀬賀は無い頭をフル回転させ、脳みその中で『猿の手』の検索を行う。すると、子供の頃に読んだ小説のあらすじが記憶の奥底にヒットした。  三つの願いを叶えてくれる、猿のミイラの左手の話。 「……ジェイコブズの短編小説か」 「そうだ。あれに書かれてる猿の手は実在したんだ。そういえば前にユキ姉からもそんな話を聞いたことがあるぜ。すげー! 本物なんて初めて見た!」  龍之介は子供のように大はしゃぎし、目を輝かせながら瀬賀が持っている猿の手に手を伸ばすが、瀬賀はそれをするりと避けた。 「おっと。これはこの俺が拾ったもんだからな。だから猿の手は俺のものだ」 「なんだよ、俺にも願い事叶えさせてくれよ! 先生の物は俺の物だろ!」 「どこのガキ大将だお前は!」  しかしこれが本当に、あの猿の手だとしたら大変なことだ。三つも願い事が叶えられるとしたら、人生は大きく変わる事になるだろう。何を願うのか真剣に考える必要がある。何しろ願いは三つしか叶えられない。  そう瀬賀が深く考え込んでいると、 「猿の手様、猿の手様。願い事を叶えて下さい。俺にお金を恵んでください! ひゃくまんえんくらい!」  龍之介が唐突にそう叫び、瀬賀の持つ猿の手に向かって手を合わせていた。瀬賀はそんな龍之介の胸倉を掴み上げる。 「ちょ、お前何してんだよ。これは俺のもんだって言ってるだろ!」 「いいじゃん先生。三つも願い叶えれるんだからさ。それに本物かどうかまだかわらないから、試しにだよ試しに」 「だからって百万円ってなんだよ。百万円が大金の象徴ってお前は五歳児か!」 「いきなり凄い大金を願うよりそのぐらいのがリアルで叶えられやすいかなーって。そんな怒るなよー」  悪気も無さそうにそう言う龍之介に呆れ果て、瀬賀は力なく項垂れた。すると、握りしめていた猿の手が微かに震えだし、二人の頭に奇妙な声が聞こえてきた。  ――二つ目の願い、聞き入れた。  それは猿の手から聞こえてくる声だということに、二人はすぐに理解し、顔を見合わせる。 「おい二つ目ってどういうことだ龍之介? まだ一個目の願いしかしてないはずだぞ」 「推測だけど、誰かが以前に一個目の願いを叶えてから、猿の手をここに捨てていったとかじゃねーのかな」  それを聞いて瀬賀はなるほどと納得する。だが、つまりそれでは残る願いは一つしか叶えられないことになる。今度こそ龍之介に邪魔されないよう、自分の願いを叶えるのだ。 「でもやっぱその猿の手本物みたいだな。一体どこから百万円が出てくるんだろうな」  龍之介はそう言って周りをきょろきょろと見回し始めた。確かに願いがどのように叶えられるかは瀬賀も気になっていた。 「ああ、まさか空から降ったり、突然湧いて出てくるわけじゃないだろうが……ん?」  そこでふと道の向こう側から誰かが走ってくるのが見えた。帽子を眼深に被り、サングラスにマスクという奇抜な格好で、その人影は何を焦っているのか猛スピードで走っていた。そして二人の傍を通り過ぎる瞬間、その男は名残惜しそうに持っていた黒い鞄をその場に放り投げた。 「おっと」  龍之介は思わずそれをキャッチしてしまう。「おーい!」と呼びかけようとしたが、男はもう見えないくらい遠くに走り去ってしまっていた。 「一体何なんだ……」  瀬賀も今の出来事に驚き茫然としていた。龍之介は鞄を不思議そうに眺めながら、そのチャックを何の警戒心も無く開ける。 「お、おい。何入っているかわかんないぞ」 「おお、これは!」  鞄の中身を見て、龍之介はそんな驚きの声を上げる。それが気になった瀬賀も、鞄の中を覗きこんだ。 「こ、これは。ひゃ、百万円!」  そう、その鞄の中には札束が詰まっていたのであった。おそらく百万はあるであろう。確かに猿の手は龍之介の願いを聞き入れて実現したのだ。 「すげえ。これで昼飯も食えるし、パチンコも打ち放題だな先生!」 「よし、この金は半々で分けるぞ。あの猿の手は俺のものなんだからな」 「なんでだよー。この願いは俺のだろー!」  そうして二人がお金を巡って醜い争いをしていると、今度は後方からパトカーのサイレンの音が鳴ってきて、何人もの警官が街を走っていた。  そのうちの制服警官の一人が、背が立ちの元へと駆け寄ってきた。 「ちょっといいですか。先ほど銀行強盗があったんですけど、犯人がこっちのほうへ逃げてきませんでしたか? 犯人は黒い鞄にお金を詰めて――ってそれは」  警官は龍之介が持っている黒い鞄に目を付けた。鞄は開けっぱなしで、札束が丸見えになっていた。瀬賀も龍之介も尋常じゃない汗をかき始める。 「いや、その、これは」 「ちょっと署までご同行願いますかね、お二人とも」 「ち、違う。違うんだ―!」  警官に引っ張られながらそんな二人の叫び声が街中に響き渡った。  その時瀬賀は混乱していて気がつかなかったが、猿の手は瀬賀から離れ、またも地面に落ちてしまっていた。その猿の手をカラスが拾い、どこかへと運んでいってしまった。  ◇◆◇◆◇  中也は人に優しくなりたかった。  たとえそれが偽善と呼ばれるものでも、たとえそれがペテンでも、誰かに優しくしたかった。  人に優しくしている時だけ、自分の罪が許されているような気がしたからだ。  だがそれはただの逃避だ。自分のためだけに、他人を傷つけ続けた自分に対する免罪符だ。そうやって自分すらも誤魔化してきた。  すべては自分のため。  自分のことしか考えていない。  罪悪感から目を逸らすためだけに、中也は優しさの仮面を被る。  そのことに中也は気付いていなかった。 「ねえ、夏目くん……その、手……」  あゆみは小さな声でそう呟く。  人気の無い住宅街を中也とあゆみは歩いていた。杖を失ったあゆみを先導するように、中也はあゆみの手をしっかり握っていた。 「あっ、ごめん和泉さん。女の子の手を勝手に握るなんてちょっと無神経だったよね。ごめん……」  中也はぱっとあゆみの手を離すが、慌てるようにあゆみの方から中也の手を握り返してきた。 「和泉さん?」 「いいの! 夏目くんがよければいいの……。女子と手を繋いでるのを見られるのって夏目くんからすれば恥ずかしいかなって……」 「ぼくのことは気にしないでよ。むしろ役得だと思ってるくらいさ」 「そ、そう。ありがとう……」  そう言うと、またあゆみは頬を染めていた。それを見て中也は。本当に恥ずかしがっているのはあゆみのほうではないか、自分に手を握られるのが本当は嫌なんじゃないか、そう考え込んでしまった。  しばらく無言で歩いていると、十字路に差し掛かった。その中心に奇妙なものが落ちているのを中也は見つける。 「あっ」  思わずそんな声をあげて立ち止まる。それを察し「どうしたの?」とあゆみは不思議そうにそう尋ねた。 「い、いや。なんでもないよ」  中也はそこに落ちているそれを見つめる。朽ちた木の棒のような、奇妙なミイラ。  そこに落ちているのは確かに猿の手だった。  自分が投げ捨てたものが、めぐりめぐって自分の目の前にやってきたのだ。これは偶然か、はたまた呪われた宿命かわからないが、自分はこの猿の手から逃れられない。中也は息を飲んだ。  ――三つ目の願いを言え。  そんな不気味な声が頭に響く。恐らくそれは猿の手から発せられる念波だろう。 (しかし三つ目の願いって……)  少しだけ考え、中也は既にこの猿の手の願いが誰かによって二つ叶えられていると推測する。  ならば残る願いは一つ。  だが、その最後の願いが叶えられた時、何か恐ろしい事が起こる。とてつもない災厄が引きおこるのではなかと中也は考えた。 「夏目くん。今の声は誰?」  あゆみはきょとんとした様子で言う。驚いたことに近くにいるあゆみにも猿の手の声は聞こえているようだった。 「いや、今のは」  そうあゆみに言いかけた瞬間、猿の手は突然地面から浮きあがり、中也のほうへと飛んできた。 「……!」  うめき声を上げる間も無く、猿の手は中也の喉に掴みかかり、ギリギリと締め上げる。声を発することすらできなくなり、猿の手の魔力のせいか、身体は金縛りのように動かなくなってしまっていた。  ――願いを言え。お前の願いをなんでも叶えてやる。  再びそんな声が頭に響く。だが願いを言えと言われても、中也は声が出せない状態にされていた。だが中也は猿の手の狙いに気付く。 (そうか、これはぼくに言ってるんじゃない……)  自分の隣にいる、あゆみに語りかけているのだ。猿の手が不幸を呼び起こすアイテムだと知っているため、余計なことを言わせないように中也の首を絞め、何も知らないあゆみに願いを言わせようというのだ。  ――さあ願え。お前が望む総てを我は叶えようぞ。人は誰しも願いを抱えて生きている。それを我ならば叶えることができるのだ。  願いを強制するような猿の手の声。  “言霊使い”のペテン師である中也にはその声が人の意識に揺さぶりをかける類のものだとわかった。このままではあゆみは猿の手に誘導されるまま、願いを言ってしまい、強烈な不幸に見舞われることになるだろう。  あゆみが願うことは中也にも予想がつく。  自分の目を見えるようにしてくれ。  きっとそう願うに決まっている。だが猿の手は純粋に願いを叶えることはない。願いを歪曲し、不幸をあゆみに与えるだろう。 「そこにいるのは誰ですか? どうして私の願いを叶えてくれるなんて言うんですか?」  しかしあゆみは逆にそう猿の手に問うた。  そう、目の見えないあゆみには、目の前で何が起きているのか、声の主が猿の手だということにすら気づいていない。  ただそこに自分の願いを叶えてくれるという、謎の人物がいると思っているだけだ。  ――理由などない。我はただ願いを叶えるだけに存在する。  猿の手は構わずあゆみに語りかける。だが、あゆみはほくほくの笑顔をぽんっと手を叩いた。 「まあ、なんて素敵な人なんでしょう。『人の願いを叶えるための存在』だなんて普通の人には言えないわ。私はあなたの顔が見えませんけど、きっとあなたは素敵な方なんでしょう」  あゆみはそんな的外れなことを言いだした。それには中也も苦笑してしまう。実際に腕だけのこの猿を見たらどんな反応をするのだろうか。 ――ごたくはいい。早く願いを言え。  猿の手はまたも願いを促す。だが、あゆみはふるふると首を振った。 「私は今、幸せです。目が見えなくてもパパやママは私を愛してくれるし、クラスのみんなも助けてくれる……それに、好きな人が出来たんです。それだけで、私は幸せなんです。だから、私に願いはありません」  あゆみは本当に優しい、幸せそうな笑顔を向けた。  中也はそれを見て自分にはこんな顔はできないと悟った。本当に自然な笑顔。自分とは違う、嘘偽りの無い笑顔。  羨ましい。  中也は正直にそう思った。 「だからあなたも幸せになってください。人の願いを聞くばかりじゃなくて、あなた自身も幸せになってください。強いて言うなら、それが私の願いです」  あゆみがそう言った瞬間、中也の首を絞めていた猿の手が震え始める。 ――我が幸せに……我が幸せに……幸せとはなんなのだ……。  もともとミイラ状だった猿の手が、さらに朽ちていき、ボロボロと崩壊を始めた。猿の手の声は弱弱しくなっていき、存在そのものが消え始めているようだった。 (そうか。和泉に幸せを願われた猿の手は、アイデンティティーが崩壊して自身の存在を形成できなくなったんだ)  他人の願いを叶え、代わりに不幸を呼び込むのが猿の手だ。それが自身の幸せを願われた時、猿の手はどうしたらいいのかわからなくなってしまったのだ。願いが叶えられなくなった猿の手は、矛盾した存在と化し、消え去ることしかできなかった。  だが、それが猿の手にとって不幸とは限らない。  人を不幸にし続けなければならない猿の手。何百年、何千年と人の欲望に塗れ、人の不幸に触れ続けた存在。呪われた宿命を持って作られた哀れな猿の手。  それから解放されることこそが、猿の手にとっての幸せかもしれない。  あゆみの願いは、猿の手の消滅という形で叶えられた。  たった数秒で猿の手は灰に変わり、風に舞って散っていってしまった。ようやく喉が自由になり、中也は苦しそうにむせる。 「ごほっごほっ!」 「だ、大丈夫中也くん。急にどうしたの?」  倒れこむ中也を心配してあゆみは彼の背中をさすった。 「ありがとう和泉さん。大丈夫だよ」 「ねえ、中也くん。さっきの声の人はどこなの? あの人誰だったの?」  あゆみは中也に声の主について尋ねた。声の主である猿の手は完全に消滅した。その事実をあゆみに言うのは簡単だ、だが中也はそうはしなかった。 「『あの人は天使だった。人の願いを叶えるために地上に降りてきた天使なんだよ。キミの言葉を聞いて、満足そうな笑顔で空に帰っていったよ』」  それは嘘だった。荒唐無稽な嘘だ。子供でも信じない嘘である。しかし、中也の異能である“ペテン”は、嘘を人に信じ込ませることができる。  これでいい。あゆみがその真実を知る必要はないのだ。自分が話した存在が、本当は不気味で不幸を呼び込む猿の手だということを、あゆみには知ってほしくない。  それは自分の自己満足にしか過ぎないが、それでも中也は嘘をついた。自分にあゆみの感情が理解はできない。なぜ猿の手に対してあんな風に優しく接せられたのかわからない。  だけど、自分同じようにあゆみに優しく接すれば何かがわかるかもしれない。そう思い中也はそんな下らない嘘をついたのだった。  あゆみの優しさを肌で感じ、中也は自分が恥ずかしくなって仕方が無かった。 「そうだったんだ。不思議なこともあるんだね」  そう笑うあゆみの手を取り、中也は立ちあがる。 「さあ、帰ろうか。遅くなっちゃったね」 「う、うん……」  自分の手を、あゆみが優しく握り返したことに中也は気がつかなかった。  ◇◆◇蛇足◇◆◇  中也があゆみを家まで送り、自分もアパートに戻ってくると、一緒に暮らしている次女の晶子が満面の笑みで出迎えた。パタパタとスリッパを鳴らし、長い黒髪を揺らしながら扉を開けた中也に向かってきたのだ。 「おっかえりー中也くん! 寂しかったんだよぉ!」  晶子は甘えるように中也に頬ずりをして、中也の顔を自分の胸の中で抱きしめる。 「ちょっと、アキ姉。苦しいってば!」 「ぶーぶー。いいじゃない。今日、ほんとはずっと一緒にいるつもりだったのに。中也くん出かけちゃうんだもん。寂しかったんだもーん」  くっついてくる晶子を引っぺがし、中也は部屋に上がって汗で汚れたシャツを脱ぎ始めた。そこで彼は部屋に大きな段ボール箱が置いてあることに気付く。どうやら宅急便で送られてきた物のようだ。 「アキ姉。これは?」 「ああ、さっき送られてきたのよ。差出人見たらユキちゃんからみたいだよ。中也くん宛てになってたからまだ中は見てないけど」 「ユキ姉からだって……?」  さっき会ったのに、一体何を送ってくるというのだろうか。中也は嫌な予感がしつつも、ガムテープをはがし、段ボールの蓋を開けた。 「う、ウソだろ」  蒼い顔をしながらがっくりと中也は肩を落とす。  その大きな段ボールの中には、無数の猿の手がぎっしりと詰まっていたのである。猿の手はなんと一つだけではなかったのだ。 一緒に入っていた手紙を読むと、こう書いてあった。 『それもついでに処分しておいてね。買いすぎちゃったの(はあと)』  やってくれた。あのアホ姉は全部自分に押し付けるつもりなのだと中也は理解する。彼はしばらく考え、その大量の猿の手に向かって手を合わせて、こう願った。 「猿の手様。猿の手様。クーリングオフでお願いします」 (了) ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品保管庫に戻る>投稿作品のまとめ]]
[[ラノで読む>http://rano.jp/2925]] *猿の左手 #region(close,主な登場人物) #ref(登場人物1.jpg,,right,width=500) #endregion  せっかくの休日に、なぜこんなところに足を運ばなくてはならないのか。  目の前の扉を開けることをためらいながら、夏目《なつめ》中也《ちゅうや》は溜息をついた。 「ユキ姉、開けるよ」  数回ノックしても返事が無かったため、中也はドアノブに手をかける。不用心なことに鍵はかかっておらず、すんなりと扉は開いた。  中也がやってきたのは双葉区の都市部にそびえ立つ巨大マンションだ。そこの最上階には夏目五兄弟の長女である雪緒《ゆきお》が暮らしている。中也は雪緒に呼び出され、わざわざやってきたのである。長兄の賢治《けんじ》が逃亡中の今、彼ら兄弟のボスは自称魔女の雪緒だ。本当は今日、次女の晶子と一緒に買い物に出かける予定だったのだが、中也は雪緒に逆らうことが出来なかった。 (早く用事を終わらせて帰ろう)  だが経験上、雪緒の用事はろくでもないものだと中也は理解していた。今も嫌な予感が止まらない。 「ユキ姉。いるんだろぉ」  そう呼びかけながら広いマンションの室内に足を踏み入れると、異様な光景に出くわしてしまう。驚いて中也は思わず目を逸らす。 「あら中也。ようやく来たのね。待っていたわ」 「待ってた、じゃないよユキ姉。なんて格好してるんだよ」  中也は呆れて頭に手を置いた。そこには魔女のようなトンガリ帽子を被っている女、雪緒がソファに座っていた。だが雪緒の格好は刺激の強いものであった。服を着ておらず、上下黒の下着のまま中也に向き直った。普段は暑苦しいゴスロリファッションで隠されている豊満な二つの胸がこれでもかと揺れていた。 「だって暑いのよ。ほら、あんたも脱いだらどう?」 「やだよ。大体暑いんだったら、まずその黒帽子から脱いだらどうなんだよ」 「ダメよ。これは魔女としてのトレードマークなんだから。アイデンティティーと言ってもいい。それにこの帽子はママが昔使っていたものなのよ、手放せないわよ」  雪緒はソファの上に寝そべりながら、愛おしそうに頭の帽子を撫でる。 「魔女なんてよく言うよ。異能も無い癖に。夏目一族の魔女として能力を受け継いでいるのはぼくと賢治兄さんだけじゃないか。まったく、男の魔女なんて笑えないよ」 「最初からあんたは笑えないでしょ嘘つきちゃん。いいのよ。魔女っていうのは能力や資質じゃないの、生き様なんだから。そう言う意味ではあんたは甘ちゃんだから、夏目の正当な後継者にはなれないわよ」 「別にどうだっていいよそんなの。それで、いったい何の用事でぼくを呼びだしたんだよ」 「ふぅ。せっかちな男は嫌われるわよ」  そう言いながら雪緒は咥えたタバコに火を付け、大きく煙を吐いた。そうして気だるそうに立ちあがり、美少女フィギュアやBL同人誌で雑多に散らかった机の引き出しから、奇妙な細長い木箱を取り出し、中也の目の前にそれを置いた。 「なんだよこれ。すごい、嫌な感じがするんだけど……」  テーブルの上に置かれたそれは、カビの匂いがする古びているただの木箱だ。だが問題はその木箱そのものではない。その中に入っているであろう物から、中也は異様な雰囲気を感じ取っていた。 「あんたにもわかるのね、ここから溢れ出る負のオーラが」 「誰でもわかるよこんなの。こうして箱を見てるだけで全身の毛が逆立ちそうだ」 「そう、じゃあ中を見ておったまげなさい」  雪緒はその木箱に手をかけ、あっさりとそれを開いた。中から出てきたのは巨大な魔人、醜悪な悪魔、などではなく、干からび、ミイラ状になっている人間の腕だった。  いや違う。それは人間の手じゃない。歪で奇妙な形をしていた。人間に近いが人間ではない者の左手、それは―― 「猿」  ぽつりと中也はそう呟き、そしてそれに応じて雪緒も答えた。 「そう、これは『猿の手』よ」  猿の手。  それは三つの願いを叶えてくれる、魔力を秘めた猿の腕のミイラだ。どういう経緯で猿の手が作られ、一体どうやって願いが叶えられるのかは不明である。  ただ一つ言えるのは、猿の手に願いをかけた人間は決して幸福になることは無い。  猿の手が叶える願いは、必ず歪んだ形で実現されるからだ。  猿の手については、中也も知っていた。夏目家本家には、猿の手のような魔術的な道具に関する資料がたくさんあり、子供の頃から中也はずっとそれを読んで育ってきた。それゆえに猿の手の恐ろしさを、十分知っているのであった。 「こ、これ本物なのかユキ姉」 「本物よ。ファニー・バニーって名前の腹話術師から大枚はたいてわざわざ買ったのよ。ちゃーんと保証書もあるのよ」  雪緒はどこからか取り出した保証書を中也に見せつけた。それが確かなものだと知り、中也は眉をひそめる。 「だとしたらマズイよ。猿の手を持っている人間は、必ず不幸のどん底に落ちる。下手したら命を落とすかもしれないよ」 「それよ。それが問題なのよ。ノリで買っちゃったはいいけど、処分に困っちゃったのよねぇ……」  雪緒は木箱の蓋を閉めなおし、それを中也の手に無理矢理持たせ、悪魔的な笑顔を中也に向ける。 「な、なんだよユキ姉」 「だーかーらー。あんたにこれ譲ってあげるわ。猿の手なんて貴重なものをタダで手に入れるなんて滅多にないわよ。よかったわね」 「やめてくれよ! ぼくに呪われろって言うのか!」 「グダグダ言うな! 弟は姉の言うこと聞いていればいいのよ。はい、これであたしの用事は終わったから、とっとと帰りなさい! 今からあたしは原稿の追い込みで忙しいの。今度の即売会用に『|魔砲少女《まじかる》★ナースメイド★てぃんくるアスカ』の同人誌を百ページ描くんだから。さあ出ていけ!」 「自分から呼んで置いてめちゃくちゃだ!」  雪緒に部屋から蹴り出され、扉の外で中也は途方に暮れる。腕の中に残ったのは不幸の象徴、呪われし魔術道具の猿の手のみ。 「どうしたものかな、これは……」  自分に叶えたい願いなんてない。だけど持っているだけでどんな不幸に巻き込まれるかわかったものではない。自分がどうなろうがどうでもいいが、このせいでもう一人の姉、晶子に被害が及ぶことになるかもしれない。 「仕方ないな」  中也は猿の手を木箱から取り出し、マンションの最上階から、猿の手を眼下に広がる都市部へ向かって投げ捨てる。猿の手は放物線を描きながら商店街の方へと落ちていき、やがて見えなくなった。 「ふう、ユキ姉も最初からこうしておけばよかったんだよ」  満足そうに中也は頷き、晶子にスイーツでも買って帰ろうかと考えながらマンションのエレベーターに乗り込んだ。  そうしてマンションから出て、道を歩いていると、一人の女の子と肩がぶつかった。 「あっ!」  その勢いで女の子は転びそうになり、とっさに中也は抱きとめる。 「大丈夫かい」 「ご、ごめんなさい。ぶつかってしまって……」 「いや、ぼくの方こそ」  そう言いかけた所で、中也は女の子が杖を持っていることに気がついた。顔を見ると目をつぶっている可愛らしい女の子で、その顔に中也は見覚えがあった。 「和泉《いずみ》さんじゃないか」 「あっ、はい。その声は夏目くんですね」  その女の子はクラスメイトの和泉あゆみであった。あゆみは生まれた時から目が見えないらしく、しかし杖を使ってこうして街を歩くことができるようであった。だがさっき転びそうになった拍子に杖が折れてしまい、あゆみは困ってしまっていた。中也はそんなあゆみの手を掴んで、立たせてやる。 「ありがとう夏目くん」 「いや、ぶつかったのはぼくが悪いし。気にしないで」  あゆみはなんとかバランスを保ち、しっかりと立ち上がった。しかし、杖がないのに、このまま歩いてくのは危険だ。 「じゃあね夏目くん。私これから帰るところだから」  そう言って危なげな調子で歩くあゆみを、中也は見ていられなかった。 「ねえ和泉さん。ぼくもこれから帰るところなんだけど、途中まで道同じだから、一緒に歩いてもいいかい?」 「え? あっ、はい……」  なぜかあゆみは頬を赤くし、恥ずかしそうにそう頷いた。  ◇◆◇◆◇ 「あっ痛!」  吸血鬼ショコラーデ・ロコ・ロックベルトが商店街をブラブラと歩いていると、突然頭頂部に激しい痛みを感じた。どうやら何かが空から降ってきて、ショコラに直撃したようだった。綺麗な金髪が輝くショコラの頭には、大きなたんこぶができている。 「うう、痛いよ~」 「大丈夫ショコラ? 空からなんか降ってきたよ」  ショコラと一緒に商店街にショッピングをしていた犬耳としっぽの生えている少女、大神《おおがみ》壱子《いちこ》は地面に転がっているそれを拾い上げた。一瞬大好物の骨かと思って涎を垂らしたが、よくよく見ると不気味なミイラの手だということに気付く。頭を押さえてベソをかいていたショコラは、それを見るなり目の色を変えた。 「何これ。人間の手じゃないよね。猿か何かのミイラみたいだけど……」 「おお、それは猿の手ではないか!」  ショコラは壱子に飛びかかり、そのミイラ――猿の手を取りあげる。ショコラの豹変に壱子はぽかんとする。 「ちょっとショコラ! それなんなのよ。何かいいものなの?」 「ほほう。お主もわしと同じ怪物のくせに、この猿の手を知らないのか。やっぱバカワンコはバカワンコじゃのう。猿の手は常識じゃろうて」  クエスチョンマークを浮かべている壱子に対して、ショコラは不敵にニヤリと笑った。 「あ、アホ吸血鬼のくせに! ぐぬぬぬ」 「知らないのならこのショコラ様が教えてあげるかのう。このミイラは猿の手と言って、願い事をなんでも三つだけ叶えてくれるのじゃ!」 「な、なんだってー!」  いったいなぜそんな猿の手が空から降ってきたかはわからないが、ショコラはそんなことを気にせず、嬉しそうに猿の手を掲げて喜んでいた。 「願い事を叶えてくれるんだあ。ロマンチックだなあ」  壱子は羨ましそうにショコラの手の中にある猿の手を眺めていた。だがショコラはそれをさっと後ろで隠し、フフンと鼻で笑う。 「な、何よショコラ。あたしにも願い事させてよ!」 「これはわしのじゃからな。お主にはやらんぞ。天から降ってきたのは神様からの贈り物じゃからに違いない!」 「吸血鬼の癖に神様とか言うな!」 「うるさい、三つともわしが願い事叶えて貰うんじゃ!」  そしてショコラは突然走り出した。「あー!」と後ろで叫んでいる壱子を無視し、走りながら猿の手に願い事を始める。 「猿の手様。猿の手様。どうか願い事を叶えてください」  しかしそう呟く途中で、何を願えばいいのかまだ考えていないことに気付いた。 (どうしよっかなあ。ああ、今日はなんか暑いのう……)  初夏の日差しは吸血鬼のショコラにとってはとても辛いものだった。溢れ出て来る汗を拭いながら、とりあえず一つ目の願いを何にするかを決め、ショコラは大声で願い事を叫ぶ。 「もう暑いのは嫌じゃ、涼しくなれえええええええええええ!」  すると、どこからともなく声が聞こえてきた。 ―――一つ目の願い、聞き入れた。  それはまさしく猿の手からの声だろうとショコラは直感でわかった。 「おお、やっぱり本物じゃったようじゃ……!」  一体どう願いが叶えられるのだろうか。突然冬になったり気温が下がったりするのだろうか。そう思いショコラはきょろきょろと商店街を見回した。すると、前方に人だかりができているのが見えた。 「さあ、よってらっしゃいみてらっしゃい。氷の彫像ショーだー!」  そこでは巨大な氷をチェーンソーで削り、彫像を作るという見世物をやっていた。職人がチェーンソーを振り回すと、見る見るうちに氷は巨大な女神像へと変化していく。単純なショコラは関心が猿の手ではなく、そのショーのほうへと向いていた。 「おお、面白そうじゃのう! 見せろ見せろ!」  そうしてショコラが巨大彫像に近づいた瞬間、彫像が乗っている台が崩れ、ショコラのほうへと倒れこんできた。 「へ?」  激しい音と共に、小さなショコラの身体は氷の下敷きになってしまった。 「わあ、ショコラが死んでる!」  ショコラを追いかけてきた壱子は人だかりの中心に目を向けた。そこでは氷の下敷きになって冷たくなっていたショコラの姿があった。その手には何も無い。  どうやら氷が落ちてきた時の衝撃で、猿の手はどこか遠くへ飛んでいってしまったようだった。  ◇◆◇◆◇ 「あークソっ。全然でねーじゃねーか」  激しい騒音が鳴り響くパチンコ屋の店内で、瀬賀《せが》或《ある》は誰に言うでもなくそう愚痴った。  どれだけレバーをガチャガチャと回しても一向に当たる気配が無く、もう朝から何時間もパチンコの台と睨めっこしている。灰皿には煙草の吸殻がいくつも積まれ、よっぽどイライラしているのか貧乏ゆすりを絶やさずしていた。  瀬賀は本日何本目かわからない煙草に火を付け、大きく煙を吸い、ふうっと吐き出す。そうして台の表面に反射している自分の姿を見て溜息をつく。今日の瀬賀の格好は酷くずぼらなものだった。ネズミ色のパジャマで、サンダルをつっかけてきただけだ。髭もそっておらず、髪もいつも以上にボサボサであった。まさに起きてそのまま出かけてきたと言った感じである。 (せっかくの休日に、俺はなにやってんだろーなー)  今日は同棲している幼な妻のショコラが、クラスメイトの壱子と出かけていてアパートにいない。それで久しぶりに一人の時間を満喫できると思ったのだが、これといった趣味も無く、人づきあいも無い瀬賀は休日にやることがまったく無い。というより何もやる気が無いようだ。  それゆえにパチンコを打ちに来たのだが、お金を吸い取られていくだけで何の成果もない。これなら家でゴロゴロしていたほうがマシだったかもしれない。  今の台は出そうに無いから、席でも移ろう、瀬賀がそう思っていると突然誰かに肩を叩かれた。 「ああん?」  瀬賀が振り向くと、そこには見知った顔があった。 「チーッス瀬賀先生。全然玉出てないみたいじゃん。今日は調子悪いなー」 「ちっ、なんだよ。お前か龍之介《りゅうのすけ》」  そこに立っていたのはド派手なアロハシャツを着ている、ガラの悪い少年だった。雑に染められた金髪に、右耳のピアスが特徴的だ。  その不良少年は双葉学園の高等部の一年生である夏目《なつめ》龍之介《りゅうのすけ》であった。学園では生徒と教師という関係のこの二人は、よくこのパチンコ店で顔を合わせている。十も年齢が離れていながらも、この二人は悪友のような関係であった。 (なんで俺はこんなガキと気が合うんだろうなぁ)  彼の精神年齢は十五の時からまったく成長してはいなかった。大人の成りそこないと言っても過言ではない。 (やっぱり俺の中の時間は、あの時から止まってるんだな……)  瀬賀はサンフランシスコでの“あの出来事”を思い出し、少しだけ気分が沈んだ。それを打ち消すかのように煙草を灰皿に押し付ける。  そんな瀬賀の横に龍之介は座り、楽しそうに台と向き合った。 「んじゃ俺も打つかー。あっ、煙草忘れちまったぜ。瀬賀先生、一本恵んでくれ」 「ほらよ、あとでちゃんと返せよ。昔と違って今は煙草の値段が高いんだから。一本でも貴重なんだよ」  瀬賀は面倒そうにポケットから新しい煙草を取り出して、龍之介に投げてよこした。 「そのわりにはバカスカ吸ってるじゃん。早死にするぜ先生」 「ファック。うるせーよ、俺の勝手だろうが」 「ははは。そりゃそうだ」  瀬賀から煙草を受け取った龍之介は百円ライターで火をつけ、幸せそうに煙草を味わっていた。  未成年のパチンコや喫煙は法律で禁止されているが、二人ともそんなことは知ったことではなかった。瀬賀自身も中学の時から愛煙していたため、たとえ生徒相手でも、他人に対してどうこう言うつもりもないのだろう。もっとも、それは教師としても人としても最低なことなのだが。 「しかしお前よくここでパチンコなんて打ってられるよな。普通未成年ってバレるだろ。島の外以上に警戒が厳しいんだから」 「ああ、最初に兄貴連れてきて店員全員にペテンをかけてやったんだ。みんな俺のこと成人だと思ってる。学校の先公共でパチンコなんてやるのあんまいねーから遭遇することも無いし。平気だよ」 「お前の兄貴って“言霊使い”だっけか。そんな悪用がバレたら風紀委員たちに何されるかわかんねーぞ」 「ああ、そりゃ怖いね。怖い怖い。まだ若いのに死にたくないよ」 「死んだらこうやってパチンコもできねーし、煙草も吸えないしな」  下らないことを話しながら、二人は下品にゲラゲラと笑っていた。そうして一時間ほど打っていたら、 「ああ! ダメだダメだ! どの台もまったく出ねえ! ぼったくりじゃないのかこれはよぉ!」  我慢弱い龍之介がすぐに切れだし、台をドンドンと叩き始めた。その騒ぎを聞きつけ、店員がこちらを睨んでいることに気付き、瀬賀は暴れる龍之介を押さえつける。 「バカ、何してんだよ。そんなことばっかやってるとすぐとっ捕まるぞ!」 「だって、だってよ先生……。もう俺の財布が空っぽなんだよぉ。明日から俺はどうやって生活すればいいんだよぉ」 「いいから、とりあえずここから出るぞ」  引きずるように龍之介と共に外に出ると、商店街は店の中と違って暑く、汗がどっと出てきた。名残惜しそうに店の方を見つめながら、瀬賀は大きく溜息をつく。 「お前のせいで二度とこの店に顔出せねーよ」 「いいじゃん。パチンコなんて金の無駄無駄。あんなもんやるやつぁー人間のクズだぜ先生。死んだ方がいいねまったく」 「どの口が言うか。どの口が!」  怒った瀬賀は龍之介の尻を軽く蹴るが、龍之介は痛がるどころか奇妙なうすら笑いを浮かべているだけであった。 「ああ、しかしなんだかんだでもう昼過ぎだぜ。昼飯どうすんの?」  龍之介は腕時計を見ながらそう言った。瀬賀もつられて商店街の柱時計に目を向けると、もう午後一時を回ろうとしていた。どうりで腹の虫が鳴るわけだ。 「今日はバカショコラがいないから家に戻っても飯は無いからな。俺はこのへんで食っていくさ」 「じゃあ俺に飯奢ってくれよ!」 「なんでお前に奢らなきゃならんのだ! 俺だって負けてばっかだわ、給料日前だわで金なんて全然ねーんだぞ!」 「いいじゃんかせんせいー。後生だから。俺も腹へって死にそうなんだよぉ」  龍之介はパンッと両の手を合わせて瀬賀に懇願した。 「ダメだダメだ」 「お願いだよ、ほら、今度女紹介してあげるからさー」  その言葉に瀬賀は一瞬ピクリと反応した。 「マ、マジか?」 「マジだよ。大マジさ。俺の知り合いのツテでそりゃあもうよりどりみどりだ。今度ダチ集めて合コンでもしようぜ」  龍之介は下卑た笑みを浮かべ、瀬賀も少しだけその話しに耳を傾ける。 「ううん。だけどなぁ」 「ああ、そっか先生には可愛い、可愛いお嫁さんがいるからそんな話は興味無いか。俺の知り合いの女はみんな年上のムチムチボイーンだから、先生の趣味とは全然違うからなぁ。先生はお嫁さんみたいなタイプが好きなんだろ」 「アホ抜かせ。誰があんなツルペタ寸胴生物に欲情するか! 俺だって年上のムチムチボイーンの女が好きだっての」  思い返せばショコラが家にやってきてから、自分は女遊びの類は一切していないことに瀬賀は気付いた。このままでは名実ともにショコラと夫婦認定され、ロリコン扱いされてしまうだろう。それだけはどうにか避けなければならない。 「よし、その話乗った! 俺に女を紹介しろ!」 「決まりだな。じゃあ誰を紹介しようか。二年F組の山田先輩とかT組の林先輩とか、それとも三年の中野先輩とか――」 「あん……?」  龍之介が挙げていく名前に瀬賀は聞き覚えがあった。 「どうしたんだよ先生。図書委員の大橋先輩なんか、あんなに大人しそうに見えてすっげえ淫乱なんだぜ。この間もさーみんなが帰った後の図書室の机の角でよー」 「お前それ高等部二年と三年の生徒じゃねえか! お前にとって年上でも、俺にとっては年下なんだよバカ!」  龍之介に期待した自分が間抜けだったと、瀬賀は頭をぼりぼりと掻く。瀬賀は龍之介に背を向け、無言で歩きだした。 「待ってくれよ瀬賀せんせー」 「うるせー! ついてくんな」  瀬賀に怒鳴られても、ケラケラと笑いながら犬にように龍之介はその背中を追いかけていく。瀬賀は諦めた様に溜息をついた。 (ったく。なんで俺はこういう奴に懐かれるんだろうか)  類は友を呼ぶ。なんて言葉を瀬賀は認めたくなかったが、傍から見ればその言葉が事実であることはわかるだろう。 (昼飯食ってとっとと帰るか……)  そんなことをぼんやりと考えながら道を歩いていると、道端に奇妙なものが落ちていることに瀬賀は気付いた。  思わず立ち止まってしまい、後ろからついてきていた龍之介が瀬賀の背中にぶつかった。 「おいおい先生。急に立ち止まらないでくれよ」 「おい龍之介。あれ何だと思う?」  瀬賀は道に落ちているそれを指さした。それは一瞬木の棒でも落ちているのかと思ったが、少し違う。よく見ると人の手のような形をしたミイラだったが、人体に詳しい瀬賀はそれが人間の物ではないことにすぐ気付いた。 (動物の手のミイラ……多分この動物は)  瀬賀は腰を屈め、その手のミイラを拾い上げる。すると、後ろで龍之介がそれに反応したのか、ぽつりと呟いた。 「猿だ」 「なんだって?」  瀬賀が振り返り聞き返すと、龍之介は驚いたような、喜んでいるかのような顔で、そのミイラを凝視する。 「猿の手だよ先生! よく漫画や小説に出てくるあれだ!」 「さ、猿の手だって?」  瀬賀は無い頭をフル回転させ、脳みその中で『猿の手』の検索を行う。すると、子供の頃に読んだ小説のあらすじが記憶の奥底にヒットした。  三つの願いを叶えてくれる、猿のミイラの左手の話。 「……ジェイコブズの短編小説か」 「そうだ。あれに書かれてる猿の手は実在したんだ。そういえば前にユキ姉からもそんな話を聞いたことがあるぜ。すげー! 本物なんて初めて見た!」  龍之介は子供のように大はしゃぎし、目を輝かせながら瀬賀が持っている猿の手に手を伸ばすが、瀬賀はそれをするりと避けた。 「おっと。これはこの俺が拾ったもんだからな。だから猿の手は俺のものだ」 「なんだよ、俺にも願い事叶えさせてくれよ! 先生の物は俺の物だろ!」 「どこのガキ大将だお前は!」  しかしこれが本当に、あの猿の手だとしたら大変なことだ。三つも願い事が叶えられるとしたら、人生は大きく変わる事になるだろう。何を願うのか真剣に考える必要がある。何しろ願いは三つしか叶えられない。  そう瀬賀が深く考え込んでいると、 「猿の手様、猿の手様。願い事を叶えて下さい。俺にお金を恵んでください! ひゃくまんえんくらい!」  龍之介が唐突にそう叫び、瀬賀の持つ猿の手に向かって手を合わせていた。瀬賀はそんな龍之介の胸倉を掴み上げる。 「ちょ、お前何してんだよ。これは俺のもんだって言ってるだろ!」 「いいじゃん先生。三つも願い叶えれるんだからさ。それに本物かどうかまだかわらないから、試しにだよ試しに」 「だからって百万円ってなんだよ。百万円が大金の象徴ってお前は五歳児か!」 「いきなり凄い大金を願うよりそのぐらいのがリアルで叶えられやすいかなーって。そんな怒るなよー」  悪気も無さそうにそう言う龍之介に呆れ果て、瀬賀は力なく項垂れた。すると、握りしめていた猿の手が微かに震えだし、二人の頭に奇妙な声が聞こえてきた。  ――二つ目の願い、聞き入れた。  それは猿の手から聞こえてくる声だということに、二人はすぐに理解し、顔を見合わせる。 「おい二つ目ってどういうことだ龍之介? まだ一個目の願いしかしてないはずだぞ」 「推測だけど、誰かが以前に一個目の願いを叶えてから、猿の手をここに捨てていったとかじゃねーのかな」  それを聞いて瀬賀はなるほどと納得する。だが、つまりそれでは残る願いは一つしか叶えられないことになる。今度こそ龍之介に邪魔されないよう、自分の願いを叶えるのだ。 「でもやっぱその猿の手本物みたいだな。一体どこから百万円が出てくるんだろうな」  龍之介はそう言って周りをきょろきょろと見回し始めた。確かに願いがどのように叶えられるかは瀬賀も気になっていた。 「ああ、まさか空から降ったり、突然湧いて出てくるわけじゃないだろうが……ん?」  そこでふと道の向こう側から誰かが走ってくるのが見えた。帽子を眼深に被り、サングラスにマスクという奇抜な格好で、その人影は何を焦っているのか猛スピードで走っていた。そして二人の傍を通り過ぎる瞬間、その男は名残惜しそうに持っていた黒い鞄をその場に放り投げた。 「おっと」  龍之介は思わずそれをキャッチしてしまう。「おーい!」と呼びかけようとしたが、男はもう見えないくらい遠くに走り去ってしまっていた。 「一体何なんだ……」  瀬賀も今の出来事に驚き茫然としていた。龍之介は鞄を不思議そうに眺めながら、そのチャックを何の警戒心も無く開ける。 「お、おい。何入っているかわかんないぞ」 「おお、これは!」  鞄の中身を見て、龍之介はそんな驚きの声を上げる。それが気になった瀬賀も、鞄の中を覗きこんだ。 「こ、これは。ひゃ、百万円!」  そう、その鞄の中には札束が詰まっていたのであった。おそらく百万はあるであろう。確かに猿の手は龍之介の願いを聞き入れて実現したのだ。 「すげえ。これで昼飯も食えるし、パチンコも打ち放題だな先生!」 「よし、この金は半々で分けるぞ。あの猿の手は俺のものなんだからな」 「なんでだよー。この願いは俺のだろー!」  そうして二人がお金を巡って醜い争いをしていると、今度は後方からパトカーのサイレンの音が鳴ってきて、何人もの警官が街を走っていた。  そのうちの制服警官の一人が、背が立ちの元へと駆け寄ってきた。 「ちょっといいですか。先ほど銀行強盗があったんですけど、犯人がこっちのほうへ逃げてきませんでしたか? 犯人は黒い鞄にお金を詰めて――ってそれは」  警官は龍之介が持っている黒い鞄に目を付けた。鞄は開けっぱなしで、札束が丸見えになっていた。瀬賀も龍之介も尋常じゃない汗をかき始める。 「いや、その、これは」 「ちょっと署までご同行願いますかね、お二人とも」 「ち、違う。違うんだ―!」  警官に引っ張られながらそんな二人の叫び声が街中に響き渡った。  その時瀬賀は混乱していて気がつかなかったが、猿の手は瀬賀から離れ、またも地面に落ちてしまっていた。その猿の手をカラスが拾い、どこかへと運んでいってしまった。  ◇◆◇◆◇  中也は人に優しくなりたかった。  たとえそれが偽善と呼ばれるものでも、たとえそれがペテンでも、誰かに優しくしたかった。  人に優しくしている時だけ、自分の罪が許されているような気がしたからだ。  だがそれはただの逃避だ。自分のためだけに、他人を傷つけ続けた自分に対する免罪符だ。そうやって自分すらも誤魔化してきた。  すべては自分のため。  自分のことしか考えていない。  罪悪感から目を逸らすためだけに、中也は優しさの仮面を被る。  そのことに中也は気付いていなかった。 「ねえ、夏目くん……その、手……」  あゆみは小さな声でそう呟く。  人気の無い住宅街を中也とあゆみは歩いていた。杖を失ったあゆみを先導するように、中也はあゆみの手をしっかり握っていた。 「あっ、ごめん和泉さん。女の子の手を勝手に握るなんてちょっと無神経だったよね。ごめん……」  中也はぱっとあゆみの手を離すが、慌てるようにあゆみの方から中也の手を握り返してきた。 「和泉さん?」 「いいの! 夏目くんがよければいいの……。女子と手を繋いでるのを見られるのって夏目くんからすれば恥ずかしいかなって……」 「ぼくのことは気にしないでよ。むしろ役得だと思ってるくらいさ」 「そ、そう。ありがとう……」  そう言うと、またあゆみは頬を染めていた。それを見て中也は。本当に恥ずかしがっているのはあゆみのほうではないか、自分に手を握られるのが本当は嫌なんじゃないか、そう考え込んでしまった。  しばらく無言で歩いていると、十字路に差し掛かった。その中心に奇妙なものが落ちているのを中也は見つける。 「あっ」  思わずそんな声をあげて立ち止まる。それを察し「どうしたの?」とあゆみは不思議そうにそう尋ねた。 「い、いや。なんでもないよ」  中也はそこに落ちているそれを見つめる。朽ちた木の棒のような、奇妙なミイラ。  そこに落ちているのは確かに猿の手だった。  自分が投げ捨てたものが、めぐりめぐって自分の目の前にやってきたのだ。これは偶然か、はたまた呪われた宿命かわからないが、自分はこの猿の手から逃れられない。中也は息を飲んだ。  ――三つ目の願いを言え。  そんな不気味な声が頭に響く。恐らくそれは猿の手から発せられる念波だろう。 (しかし三つ目の願いって……)  少しだけ考え、中也は既にこの猿の手の願いが誰かによって二つ叶えられていると推測する。  ならば残る願いは一つ。  だが、その最後の願いが叶えられた時、何か恐ろしい事が起こる。とてつもない災厄が引きおこるのではなかと中也は考えた。 「夏目くん。今の声は誰?」  あゆみはきょとんとした様子で言う。驚いたことに近くにいるあゆみにも猿の手の声は聞こえているようだった。 「いや、今のは」  そうあゆみに言いかけた瞬間、猿の手は突然地面から浮きあがり、中也のほうへと飛んできた。 「……!」  うめき声を上げる間も無く、猿の手は中也の喉に掴みかかり、ギリギリと締め上げる。声を発することすらできなくなり、猿の手の魔力のせいか、身体は金縛りのように動かなくなってしまっていた。  ――願いを言え。お前の願いをなんでも叶えてやる。  再びそんな声が頭に響く。だが願いを言えと言われても、中也は声が出せない状態にされていた。だが中也は猿の手の狙いに気付く。 (そうか、これはぼくに言ってるんじゃない……)  自分の隣にいる、あゆみに語りかけているのだ。猿の手が不幸を呼び起こすアイテムだと知っているため、余計なことを言わせないように中也の首を絞め、何も知らないあゆみに願いを言わせようというのだ。  ――さあ願え。お前が望む総てを我は叶えようぞ。人は誰しも願いを抱えて生きている。それを我ならば叶えることができるのだ。  願いを強制するような猿の手の声。  “言霊使い”のペテン師である中也にはその声が人の意識に揺さぶりをかける類のものだとわかった。このままではあゆみは猿の手に誘導されるまま、願いを言ってしまい、強烈な不幸に見舞われることになるだろう。  あゆみが願うことは中也にも予想がつく。  自分の目を見えるようにしてくれ。  きっとそう願うに決まっている。だが猿の手は純粋に願いを叶えることはない。願いを歪曲し、不幸をあゆみに与えるだろう。 「そこにいるのは誰ですか? どうして私の願いを叶えてくれるなんて言うんですか?」  しかしあゆみは逆にそう猿の手に問うた。  そう、目の見えないあゆみには、目の前で何が起きているのか、声の主が猿の手だということにすら気づいていない。  ただそこに自分の願いを叶えてくれるという、謎の人物がいると思っているだけだ。  ――理由などない。我はただ願いを叶えるだけに存在する。  猿の手は構わずあゆみに語りかける。だが、あゆみはほくほくの笑顔をぽんっと手を叩いた。 「まあ、なんて素敵な人なんでしょう。『人の願いを叶えるための存在』だなんて普通の人には言えないわ。私はあなたの顔が見えませんけど、きっとあなたは素敵な方なんでしょう」  あゆみはそんな的外れなことを言いだした。それには中也も苦笑してしまう。実際に腕だけのこの猿を見たらどんな反応をするのだろうか。 ――ごたくはいい。早く願いを言え。  猿の手はまたも願いを促す。だが、あゆみはふるふると首を振った。 「私は今、幸せです。目が見えなくてもパパやママは私を愛してくれるし、クラスのみんなも助けてくれる……それに、好きな人が出来たんです。それだけで、私は幸せなんです。だから、私に願いはありません」  あゆみは本当に優しい、幸せそうな笑顔を向けた。  中也はそれを見て自分にはこんな顔はできないと悟った。本当に自然な笑顔。自分とは違う、嘘偽りの無い笑顔。  羨ましい。  中也は正直にそう思った。 「だからあなたも幸せになってください。人の願いを聞くばかりじゃなくて、あなた自身も幸せになってください。強いて言うなら、それが私の願いです」  あゆみがそう言った瞬間、中也の首を絞めていた猿の手が震え始める。 ――我が幸せに……我が幸せに……幸せとはなんなのだ……。  もともとミイラ状だった猿の手が、さらに朽ちていき、ボロボロと崩壊を始めた。猿の手の声は弱弱しくなっていき、存在そのものが消え始めているようだった。 (そうか。和泉に幸せを願われた猿の手は、アイデンティティーが崩壊して自身の存在を形成できなくなったんだ)  他人の願いを叶え、代わりに不幸を呼び込むのが猿の手だ。それが自身の幸せを願われた時、猿の手はどうしたらいいのかわからなくなってしまったのだ。願いが叶えられなくなった猿の手は、矛盾した存在と化し、消え去ることしかできなかった。  だが、それが猿の手にとって不幸とは限らない。  人を不幸にし続けなければならない猿の手。何百年、何千年と人の欲望に塗れ、人の不幸に触れ続けた存在。呪われた宿命を持って作られた哀れな猿の手。  それから解放されることこそが、猿の手にとっての幸せかもしれない。  あゆみの願いは、猿の手の消滅という形で叶えられた。  たった数秒で猿の手は灰に変わり、風に舞って散っていってしまった。ようやく喉が自由になり、中也は苦しそうにむせる。 「ごほっごほっ!」 「だ、大丈夫中也くん。急にどうしたの?」  倒れこむ中也を心配してあゆみは彼の背中をさすった。 「ありがとう和泉さん。大丈夫だよ」 「ねえ、中也くん。さっきの声の人はどこなの? あの人誰だったの?」  あゆみは中也に声の主について尋ねた。声の主である猿の手は完全に消滅した。その事実をあゆみに言うのは簡単だ、だが中也はそうはしなかった。 「『あの人は天使だった。人の願いを叶えるために地上に降りてきた天使なんだよ。キミの言葉を聞いて、満足そうな笑顔で空に帰っていったよ』」  それは嘘だった。荒唐無稽な嘘だ。子供でも信じない嘘である。しかし、中也の異能である“ペテン”は、嘘を人に信じ込ませることができる。  これでいい。あゆみがその真実を知る必要はないのだ。自分が話した存在が、本当は不気味で不幸を呼び込む猿の手だということを、あゆみには知ってほしくない。  それは自分の自己満足にしか過ぎないが、それでも中也は嘘をついた。自分にあゆみの感情が理解はできない。なぜ猿の手に対してあんな風に優しく接せられたのかわからない。  だけど、自分同じようにあゆみに優しく接すれば何かがわかるかもしれない。そう思い中也はそんな下らない嘘をついたのだった。  あゆみの優しさを肌で感じ、中也は自分が恥ずかしくなって仕方が無かった。 「そうだったんだ。不思議なこともあるんだね」  そう笑うあゆみの手を取り、中也は立ちあがる。 「さあ、帰ろうか。遅くなっちゃったね」 「う、うん……」  自分の手を、あゆみが優しく握り返したことに中也は気がつかなかった。  ◇◆◇蛇足◇◆◇  中也があゆみを家まで送り、自分もアパートに戻ってくると、一緒に暮らしている次女の晶子が満面の笑みで出迎えた。パタパタとスリッパを鳴らし、長い黒髪を揺らしながら扉を開けた中也に向かってきたのだ。 「おっかえりー中也くん! 寂しかったんだよぉ!」  晶子は甘えるように中也に頬ずりをして、中也の顔を自分の胸の中で抱きしめる。 「ちょっと、アキ姉。苦しいってば!」 「ぶーぶー。いいじゃない。今日、ほんとはずっと一緒にいるつもりだったのに。中也くん出かけちゃうんだもん。寂しかったんだもーん」  くっついてくる晶子を引っぺがし、中也は部屋に上がって汗で汚れたシャツを脱ぎ始めた。そこで彼は部屋に大きな段ボール箱が置いてあることに気付く。どうやら宅急便で送られてきた物のようだ。 「アキ姉。これは?」 「ああ、さっき送られてきたのよ。差出人見たらユキちゃんからみたいだよ。中也くん宛てになってたからまだ中は見てないけど」 「ユキ姉からだって……?」  さっき会ったのに、一体何を送ってくるというのだろうか。中也は嫌な予感がしつつも、ガムテープをはがし、段ボールの蓋を開けた。 「う、ウソだろ」  蒼い顔をしながらがっくりと中也は肩を落とす。  その大きな段ボールの中には、無数の猿の手がぎっしりと詰まっていたのである。猿の手はなんと一つだけではなかったのだ。 一緒に入っていた手紙を読むと、こう書いてあった。 『それもついでに処分しておいてね。買いすぎちゃったの(はあと)』  やってくれた。あのアホ姉は全部自分に押し付けるつもりなのだと中也は理解する。彼はしばらく考え、その大量の猿の手に向かって手を合わせて、こう願った。 「猿の手様。猿の手様。クーリングオフでお願いします」 (了) ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品保管庫に戻る>投稿作品のまとめ]]

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