※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。



 喉が、かわいていた。
 理由は判っている。口で息をしていたからだ。
 鼻が詰まりに詰まりきっていた。キムチラーメンの匂いさえ、今のオレにはわかりそうにない。
「う゛ー」
 濁った声を漏らして、オレは重たい布団をはねのけ、体を起こした。
「くすりのばなきゃ」
 ハンテンを羽織って、ベッドから降りる。フローリングの床の冷たさに、背筋が震えた。
 台所に出て、水をコップに半分もらう。
 何の変哲もない、秋も深まった週の火曜日だ。家族はあらかた出払っていて、オレのような病人が一人だけ、ぽつんと取り残されている。
 体が弱っていると、そんなことが妙に寂しく感じられるものだ。
(藤枝みやこさん)
 病人特有の脈絡のないインスピレーションで、クラスメートの女子の可憐な横顔を思い浮かべる。
(みたいな、かわいい女の子が看病してくれたらなあ)
 ……訂正。風邪とかあんまり関係なく、やっぱりオレは石和亮だった。あんまり嬉しくないことに。
 オレは風邪薬をてのひらに出し、いっきにあおった。ぬるい水道水が、じわりと喉を滑り落ち――
 数秒もせずに、強烈な眠気が襲ってくる。
「……ふあ?」
 半端なうめき声を、オレは絞り出した。
「えむ……ねぶ……」
 ろれつが回らない。
 何だこれ。おかしい。絶対おかしい。何か。なんだか。
 そこから先の思考は、深い深い眠りに溶けてしまった。

*****

 わたしは小さく咳をして、口元を押さえた。
 喉が痛い。もう三日もこんな感じだ。
(日曜日、つぶれちゃったよー)
 未練たらしくそんなことを考えて、がっくりと肩を落とす。 
(あーあ……)
 布団の中で、寝返りを打つ。
 わたしとママしかいない藤枝家は妙に静かで、なんだかちょっと白々しい。まるで、自分の家じゃないみたいに。
(石和クンみたいな明るい男の子が、遊びに来てくれたらなあ)
 そんなことを考えてしまう。風邪をひいてても、考えることはあんまり変わらないようだ。わたしって子は。
 わたしはベッドサイドへ視線をやった。お気に入りのビーンズテーブルに、ぬるま湯のポットと切り分けた錠剤の包みが置かれている。
 寝ている間に、ママが置いてくれたみたいだ。
「ありがとねー」
 がらがら声で呟いて、わたしは薬に手を伸ばす。
 薬の封を外して、そっと飲み込んで――
 コップに手を伸ばすころには、わたしは泥のように眠り込んでいた。

*****

 朝陽が差し込んでいる。
 オレは目を覚ました。
 体が軽い。鼻ももう詰まっていない。その代わり、喉が少しだけ痛んだ。
(……治りかけてんのに、今更別のことが痛み始めてきたんかよ)
 明るい光の中で身を起し、喉をそっと押える。
 三日も伏せっていると、人間も変わるものだ。オレの喉はなぜか、どきっとするほど細くなっていた。
「やつれたかなあ」
 ――世にも妙なる可憐な声が、オレの耳朶をそっと叩いた。
「え?」
 ああ、ほれぼれするほど可愛い声!
「あれ?」
 いいなあ、実にいい!
「……」
 オレが黙ると、声も黙った。
 オレは恐る恐る、もう一度口を開く。
「拇印」
 こら! そんな声でそんなこと言うんじゃありません!
「なめこのみそしる」
 なんですかはしたない!
「……マンギョンボン号」
 まったく! そんなこと!
 そしてオレはまた、ふつりと沈黙した。
 当然のようにまた、声も聞こえなくなってしまう。
 オレはおもむろに視線を下げ、自分の手をじっと見つめた。
 白魚を並べたような、というのだろうか。そんななまぐさそうなのはみじんも感じられない、とにかく清潔で白く、美しい手だった。いつ見てもどの時期でも竹刀の握りダコや古傷でボロボロなオレの手とは、比べ物にならないくらいに。
 オレの手とは、比べ物に――
 オレは周囲を見回した。
 綺麗な部屋だ。本棚その他には淡い色合いのカーテンがかけられ、勉強机の上には消しゴムのかす一つ落ちていない。
 何よりマンガが見当たらない。オレのバイブルであるところの「六三四の剣」も、ぼろぼろになるまで読み返された「DRAGON BALL完全版」も、この清潔な部屋には影も形も見当たらなかった。
 片付けられたとか捨てられたとか、そういうレベルじゃない。
 これでは、まるで。
「女の子の、部屋?」
 ああっ、戸惑い気味のこの声がまた可愛いったらありゃしないのだ! こんな至近距離で女の子の声聞いたこと、今までなかったぜ!
 無駄にテンションを上げながら、オレはベッドを降りた。
 もこもこした部屋履きがベッドサイドに揃えてあるのに気付き、恐る恐る爪先を差し込む。
 すげえ、ちょう暖かい。何これ、文明の勝利?
 部屋の隅には、学生鞄が置かれていた。オレと同じ学校の、同じくらいにすり減った、真っ黒な手提げ鞄。
 カチリ、と音を立てて留め金を外し、中に手を突っ込む。
「……」
 申し訳なくなるくらいにびっしり書き込まれてボロボロになった数学の教科書を、オレのやたらに美しい左手が掴んだ。
 裏表紙に書かれた綺麗な字へ、目を通す。

『2-B 藤枝みやこ』

 オレは迷わず、邪魔なパジャマを脱ぎ捨てた。

*****

「何、これえ……」
 律儀に学校に来ていながら、わたしは頭を抱えていた。
 いや、うん。わたしは頭を抱えているけど、頭を抱えているのはわたしじゃない。
 今って、そんな状況だ。
「よっス!」
 勢いよく声がかけられて、わたしの背中を誰かがばあん! と叩いた。
「きゃあ?!」
 そんなに痛いわけでもなかったけど、そんなに乱暴にされたことなんてなくって、わたしは思わずよろめいてしまう。
「イサワあ?」
 なんかすごく嫌そうな声で、わたしの後ろに立っていた男の子が言った。
「何お前、今日はカマキャラで押すの?」
 何を言っているのかいまいちよくわかんなくて、わたしは曖昧に微笑んだ。
 詰まったままの鼻を、すん、と鳴らす。
 クラスの男の子だ。いつも石和くんといっしょにいる。石和くんはこの子のこと、なんて呼んでたっけ――
「キーチ、おはよっ」
 ぎこちなく言ったわたしの言葉に、なぜだか彼は「うえー」と呻いた。
「面白くないとは言わねーけどさあ。たぶんアレだぜ、あとから思い出したらぜってー黒歴史だぜ?」
「歴史? 今日テストだったっけ」
「……イサワあ~?」
 ああ、もう。会話できてないじゃない、わたしのバカ!

*****

 ブラジャーのつけかたはそんなに間違っていないはずだ。ただ妙に、背中がちくちくした。
 オレはしきりに背中を気にしながら、鞄を片手にぶらぶら下げて道を歩く。
 思ってたより短いスカートが、歩くたびにさらさら揺れて腿を撫でた。
 またこの腿がほっそいのだ。ぴっちり閉じると丁度付け根のところに小さな逆三角形の隙間ができる。魅惑のバミューダ・トライアングル! かなうことならここにダイブして溺れ死にたい。
 ――とりあえず間違いなく、オレは今、違う人間の体を動かしていた。
 それもほぼ100%、クラスメイトの藤枝みやびの体をだ。
 おへその横に小さなほくろがあるのと、右乳首の脇に薄茶のほくろのようなしみのような斑点がひとつぽつんとあるのだけは、朝の少ない時間の中でも確認できた。
 あと、藤枝はたぶん母親似だというのも、この少ない時間で得た貴重な情報だった。
 朝の食卓で見た、藤枝オヤジのごつさといったらなかった。ウチの道場の師範より、さらに一回りでかい。
 だというのに嫁は妙に色っぽい、若々しい美人で、エプロンの上からもわかるボンキュッボン(死語)で、声もやっぱり妙に色っぽくて、畜生返す返すもうらやましいオレに代われ藤枝オヤジ。代わってくださいお願いします。
「おはよっ、みやこちゃん。風邪大丈夫だった?」
 いきなり背後から掛けられた声に、オレはくるりと振り向いてスカートのすそをちょいと摘まんだ。
「おはようございませませ、ごめんうるわしくていかが?」
「……は?」
 唖然と立っているクラスの女子に、嫣然と微笑む。
「あたくしたった今この瞬間に少々なんというか小用がこさえられてしまいましたの。ごきげんあそばせ」
「み、みやこちゃん?」
「チャーオ!」
 二、三回勢いよくターンをしてスカートの裾を綺麗に開き、オレはそのままの勢いで、校門近くに立つ学ラン二人組の方へ突撃した。

*****

「なんだよイサワよお、熱でちょっと頭アレしたのか?」
「ち、違うの。ほら、いや、うん、そう、まだ熱で頭が――」
 あたふたと言い訳を続けるわたしの視界に、信じられないものが飛び込んでくる。
 両腕を真っ直ぐ横に広げ――
 前のめりに走ってきて――
「キーイィィィィン!」
 そんなことを叫んでいる――
「わたしいいぃぃぃぃ?!」
 どん。
 わたしが、人をはねた。
 今までわたしを不信の目で見ていた男子生徒の顔があっさりと視界の外に吹っ飛んで、わたしの顔がそれに入れ替わる。
「あ……あ」
 口をぱくぱくさせ続けるわたしに、わたしの顔はやたら可愛らしく、アイドルのような仕草で角度をつけてウインクしてみせた。
「おはよっ、オレ様ちゃん!」
「お、おれ?」
 わたしの見慣れた腕が、分厚い学生服の下のたくましい右腕にそっと絡められる。
 それを石和くんの視点から見るというのはなんだかとても倒錯的で、幻想的な感じがした。
「秘密のイケナイ密談のお時間でしてよ。さあさあゴアヘッ」
 ――そんなわたしの思いをあっさり蹴散らかして、わたしの顔をした誰か――中身はたぶん、なんとなくわかるけど――は、石和くんの顔をしたわたしをぐいぐいと引っ張っていった。

*****

 朝の屋上に、人気はない。
 冷たい風が屋上の砂埃を巻き上げ、鉛色の空に消えていく。
 オレは風に乱れるさらさらしたショートボブを押さえ、優しい目つきで隣に立つ男――いや女? いややっぱり男――を、見た。
「あ、あの……」
 おどおどした様子で、オレの顔をした何かが、オレの声で言う。
「い、石和くん? よね……」
 オレは答えない。
 くちもとにニヒルな笑みを浮かべ、一気に身を乗り出す。
 どきりとしてのけぞるオレの、我ながら硬く鍛え上げられた背中へ腕を回す。
 ちょい、と背伸びをすると、日焼けしたオレの顔が間近に迫る。
「へっ」
 間抜けた声を漏らすがさがさした唇へ、オレの柔らかく小さく桃色でジューシーでとにかくビューティフルな唇が触れた。
「……!」
 湿り気を与えるようにちゅっ、と音を立てて吸い、こぼれた唾液をなめとって、おもむろに唇を離す。
 そこにはなんだか悪夢に見そうなくらいにとりみだし、うろたえ、顔を真っ赤に染めた、オレがいた。
 ……ちょっと、これはキツいかも。

「あー、やっぱ戻らねーかー」
 唇を親指の縁で拭いながら、オレは可憐な声で言う。
「キスすりゃ戻るもんじゃないかと思ったんだがなー」
「な、なっ、ななななななな」
 拳を震わせ、俯き、目に涙をためる、うちの部随一の体格と剣勢を誇る剣道少年、石和亮。
 オレ以外に見られなてよかったと、しんそこ思った。
「な、ななな、なにするのよう?!」
 鼻づまりぎみの声――やっぱり治ってなかったか。痛む喉を、オレは軽く押える。
「だから、こーいうのってキスしたら治るパターンじゃね? って思ってさあ」
「こ、こーいうのって、どういうのなの?」
 震える声で言うオレの鼻先を、細い指先でつん、とつつく。
「愛しあう男女に理不尽な災難が降りかかったときさ」
「あ、愛……」
 また真っ赤になる。やめろよもう、オレの血が足りなくなっちゃうだろベイベ?
 やたらいい気になりながら、オレは頭の後ろで腕を組んだ。
「藤枝さんのコト考えながら寝てたんだよ、オレさあ。そしたらこんなことになっちゃって――」
 にい、と口元を歪める。
「だから、藤枝さんもそうなんだろ? オレのこと、考えてたんじゃねーの?」
「お、おれって、だから、石和くんの――」
 お茶を濁そうとするようなあいまいな笑みに、ぴしゃりと応える。
「そう、このオレ! かっこよくてすてきでハンサムなクラスメートであるところの石和亮くんのこと、考えてたんでしょ?」
 沈黙が落ちた。
 俺の鋭い目が潤みがちに宙を泳いで、乙女チックにそっと伏せられる。
「うん……考えてた、よ」
 よっしゃオッケイ!
 俺は勢い良くガッツポーズを決めた。
 やべー俺こんなひょんなことであっさり大人の階段登っちゃったぜおふくろ! おやじ! ありがとう! なんかすごくいろいろありがとう!
 感涙にむせぶ俺に、新品のマイハニーは勢いよく水を差してくる。
「って、そんなことじゃなくってえ!」
 いきなりひでえな、オイ。
「そ、その……」
 少し言い淀んで、オレの声は恐る恐る言った。
「あ、あたしのこと、見たの?」
 俺は爽やかな笑顔で、親指を立てた。
「彼女がおっぱい大きいとかまじ嬉しい! ありがとな!」
「……ひどい」
 あ、やっはりちょっとサイテーだったみたいだ。
 涙を溜めて俯く俺の顔を、俺は慌てて覗きこむ。
「いや、べつにそーいうスケベ心じゃなくてだな……パッドはいらないんじゃないかとか、ほくろかわいいよねとか」
「ひどい!」
 野太い一喝と共に、すさまじい衝撃が頬を殴りつけた。
「げぶあっ」
 迫力満点の悲鳴をあげて俺は吹っ飛ぶ。回る。世界が回る。意識が回る。
 ……ヘイ、マイハニー。
 お前今、自分のパンチ力が三桁いってんの知ってたか……?
 たぶん、声には出なかったのだろう。
 そもそも俺の惨状になど回す余裕は、ないようだった。
 踵を返して走り去る俺の広い背中が、次第に暗くなっていく。
 自業自得か。
 わかってるんだよ、ンなこたあ……
 俺の意識は、また闇に溶けた。

*****

元レス
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1220262396/114-118
最終レス投稿日時
2008/11/23 16:06:55