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「透明少女」



 いつもは見上げないこの時間の青空は、まるで私の心を鏡みたいに映し出すように、ぼんやりとしている。
どっち付かずのままはっきりしなくて、輪郭も歪んでいる、優柔不断な空である。淀んだ鼠色の、薄ぼんやり
とした雲の羅列も、私の心の中を気ままに泳いでいる朦朧とした悩み事と、いよいよ似通っているように見え
てきて……。思わず私は、溜息を吐いて、顔を俯むかせては、それから真っ先に見えた空き缶を蹴飛ばして、
カンカンと音を立てて下り坂を転がっていくそいつの行方も追うことなく。ただ、深く目を瞑って、街中を目
的もないままに、歩いていた。
 携帯電話を覗いて、今の時刻を確認すると、もう既に、二時間目が始まっているようであった。
 それなのに私は制服姿のまま、学校にも向かわず、街中でぷらぷらと、こうしてウォーキングに勤しんでい
る。……さて、それは一体何故なのか。その答えは、相変わらず私の心の中だけにあり、一向に内から外へ出
て行こうとはしない。うじうじといつまでもいつまでもただ悩んでいるだけで、決して実行に移そうとはしな
い。行動を起こそうともしない。ただこうやって街の外れで呆然と空を眺めて、嗚呼、つまらない日和だと、
何もかもを馬鹿にして罵って。さて、いつまでもこんなことをしている自分の方だって、きっとつまらない存
在なのではないかと反省して、にわかに、悲しくなるばかりであった。涙までは出ないにしろ、悩みはただた
だ大きくなるばかりだ。






 それは昨日のことだった。私は、律先輩と口論をしてしまった。
 始めの方は私がただ一方的に生意気言って、先輩を煽って罵っていただけだったけれど、私がそんなことば
かりしている内に、次第に、律先輩の方も私に対する鬱憤が溜まってきたのか、我慢出来ず、いつもは優しく
て寛大な律先輩も、いよいよプツンと音を立ててキレてしまい……それから私は右の頬に、思い切り平手打ち
を食らったのであった。
「梓なんかにはわかんないよっ! 私の気持ちは!」
 そう怒鳴って、私をキッとした鋭い目つきで睨んで離さない律先輩が、たまらなく恐ろしかった。と、同時
に、とてつもない腹立たしさも、生まれた。だって、それというのも、そもそもこの口論の原因は、律先輩た
ちがみんな、口ばっかりで、一向に練習を始めようとしないから、というものであったからだ。
「そんなの……わかるはずないっ!! 私は、演奏がしたいからこの部活に……っ」
 私は頑張って反論しようと、唇をギュッと噛み締めて、涙だけは流さないようにと食いしばって、律先輩に
噛み付いていったけれど……普段から比較的涙脆くて、感傷的になりやすい私は、やはり今回も我慢すること
が出来ず、胸の内から湧き出る悲痛に負けて、意思に反して、私の瞳からは、涙がポロポロ零れ落ちてしまっ
た。
 律先輩が、私の泣き顔を見て一瞬、動揺したような、そんな表情がほんの僅かだけ、私の視界に入り込んで
きた。けれど私は、それどころではなかった。情けなく歪んだ泣き顔を見られてしまったことの悔しさと、ど
う考えたって私が正しいのに、それなのに、叩かれた右の頬がジンジンと歯痛のようにしつこく痛むことの、
腹立たしさが、同時に湧き出てきて、いてもたってもいられなかった。
 私はその場を、逃げるように走り去った。勢い良く部室の扉を開け、後ろを振り返る余裕もないまま。
 走り去る私の背後で、律先輩が一体、どんな表情でそこに佇んでいたのかも、わからぬまま。






 夏の夕立が近づいてきたことが、ふと香る風の匂いでわかった。
 さて、困ったことになってきた。と、私は思って、よっこらせと呟きながら、腰掛けていたベンチから立ち
上がり、鞄を右手に持って、それから、屋根のあるところまで、歩こうと思った。
 細い路地。大通り。……賑やかさを、とうに忘れてしまった、くたびれた商店街。
 様々な場所を練り歩く。発狂した蜘蛛の作った複雑な巣みたいに、入り組んで難しいこの街の道路を、私は
何もわからないまま歩いている。――センチメンタル通り。と、私は、今まで歩いてきた道に、名前を付けて
みた。私の心の有りのままを、そのまま名前にしてみただけの話であった。
 雨宿り出来るような自由な軒下なんて、しばらく歩いてみても、そうそう見当たらない。あまり来たことな
い方角を歩いているもんだから、地理感覚が私にはさっぱりである。空を見上げると……嗚呼、今にも降り出
してきそうな、不吉な、まるで墓地のような雰囲気を醸し出している夏の空だけが、静かに、ただ其処にはあ
った。まるで、塔のように高々と聳え立っている入道雲が、これまた先刻のように、私の立て続けに生まれ来
る悩み事と、上手いことシンクロしているように見えて、いよいよ、空しさで泣けてきた。
 それから、雨宿りしようと考えていたこともすっかり忘れて、しばらくその場に呆然と佇んでいると……に
わかに私の背後から、いつも聞いてるような、覚えのあるあの声が、ふと、聞こえてきたのだった。
「あーずさっ。なにしてーんの?」
 暢気な、――あまりに暢気な声色で、私の名前を呼ぶ律先輩の右頬辺りを、私はたまらなく、殴りたい気持
ちであった。




 あちらこちらで、傘も差さずに、雨から逃げようと右から左へ、左から右へ、街の中を忙しなく駆けていく
人たちばかりいた。私と律先輩は二人、そんな街中のあわただしい様子を、暢気に近場のカフェの広い窓から
、ぼんやり眺めていた。可愛らしいウェイトレスの手から運ばれてきたアイス・コーヒーの絶望的な不味さが
、私の舌に、まるで悪い夢の名残みたいに苦々しく残っている。
 それでも、目の前の席に居座る律先輩は、私が心の中でひそかに最低と評したこのアイス・コーヒーを、飄
々と口に運んでいく。そんな様子を見ていると、もしかしたら、私の舌が、まだ未熟なだけなのかもしれない
。というひとつの可能性も腑に落ちないながらも浮かんできて、少しの悔しさだけが舌の苦味と共に残ってい
た。
「なんで……」
 と、私は自分でも気づかない内に、呟いていた。心の中で思うだけで、口には出さないようにしようと強く
誓っていたのに、ふと油断したその隙に、私の心の声は、口から外へと、飛び出してしまっていた。
「なんで、あんな所に、いたんですか……」
 私の心の声は、痛いくらい正直に、律先輩へと真っ直ぐに向かっていった。雨に叩かれた落花の、ふと見せ
る風情のような、あまりに脆く、すぐさま崩れ落ちてしまいそうな私の心が、そのままその声に投影されてい
た。
 律先輩は、さも何でもなさそうに、「サボってた」と、ぶっきらぼうにそう答えた。それから、アイス・コ
ーヒーをつまらなそうにもう一口飲んでから、携帯電話を開いて、画面をしばらく覗いていた。まるで、目の
前にいる私のことなんて、どうでもいいみたいな素っ気無い態度の連続。
 それも、そうだ。……だって私と律先輩は、昨日、喧嘩したばかりだもの。
「私……もう、帰ります」
 窓の外は相変わらず、降り続いている雨のせいで、ドタバタときりきり舞いしているのに、私は律先輩と二
人きりのこの空気に、とうとう耐え切れなくなって、気がついたらそう告げていた。
「帰るって、何処へ?」
 と、律先輩は、私のことを馬鹿にするみたいに言った。それは、私の考えすぎかもしれない。真偽の程はわ
からずとも、少なくとも今の私から見れば、律先輩は私のことを小馬鹿にしているように見えた。
「そんなの、律先輩には関係ないです……っ」
 悔しくなって、私は律先輩の目も見ることなく、そう言い捨てた。
 椅子から立ち上がり、鞄を手に取って、逃げ出そうとした。これでは、昨日とおんなじだ。そう思って一瞬
、後悔をするも、それでも逃げ出さずにはいられない私は、何処までも弱虫で、臆病者なのだ。
「こんなんでも、私は部長なんだ」
 走り去ろうとした私の腕を咄嗟に掴んで、力強く何処にも逃がさないようにしてから律先輩はそう言った。
いつもの陽気で明るい律先輩の声とは違って、何処か篭ったような、含みのある声色だった。
「――知ってるか? 梓」
 そう言った律先輩の掌からは、何故だか、僅かばかりの震えが伝わってきた。
 私の二の腕辺りを掴んでいる律の先輩の細く、意外にもか弱い指先の震えの正体は、謎のまま私の中でひと
つの疑問になる。形を変えないまま、私の心の中で、少しのわだかまりとなって、佇んでいる。
「後輩に頭下げるのって……結構緊張するもんなんだぜ」
 まるで意味のわからないことをひとつ、ボソッと私にだけ聞こえるように呟いた律先輩の声は、窓の外のあ
わただしい夕立の雨音に掻き消されて、今にも、泡のようになくなってしまいそうだった。







 もうすっかり晴れて、夕立の篭ったような匂いも、涼風が何処かへと運んでいってしまったようである。夏
の強雨のあとの空は、分厚い積乱雲も消え行って、白く揺らめく太陽の陽の光が真っ直ぐに地面のコンクリー
トに突き刺さっている。そんな中で、私と律先輩は、晴れ渡った空を見上げながら、街の中をぼんやり二人で
歩いていた。
 カフェから出て、しばらく歩いていた今、今更のように二人して学校へと向かっている。携帯電話を開いて
、今の時刻を見ると、もう、お昼休みの時間であった。そういえば、それなりにお腹が空いているわけだ。不
味いアイス・コーヒーの一杯だけでは、年頃の女子高生の空腹も満たせないのは、火を見るよりも明らかであ
る。私は、前方でステップしながら、鼻歌混じりに歩いている律先輩の背中を、穴が開きそうなくらいに強く
眺めていた。空腹を紛らわせる為に、何でもいいから、何かに集中したかった。……それにしても、こうして
改めて見てみると、律先輩の背中って、意外と華奢なのである。もしかしたら、軽音部の中でも割と女性らし
い体つきをしている方に入るのではないだろうか。だって私とか唯先輩は、どちらかというと幼児体系だし。
 にわかにそんなことをぼんやり考えているうちに、一体自分が何故今更になって、律先輩の体についてのこ
となんて考えなければならないのか、よくわからないというような気持ちになって、少しだけ、勝手に恥ずか
しくなった。自分の頬の赤くなるのを次第に止められなくなってきて……頼むから今だけは、律先輩が後ろを
振り向きませんようにと強く祈っていた、その時だった。
「なぁ、梓」
 後ろを振り向かないまま、律先輩は前だけ見据えてそう言った。
 律先輩が私のだらしない表情を見ないでいてくれることに感謝すると同時に、何故だか私は、前を向いてい
る律先輩の表情が見れないことを、強く悔しがってもいた。
「なんですか」
 と、私は問う。
 七月の日照りのせいで湧き出る汗が目に入ってきて、やたらに邪魔くさい。
「まだ、怒ってる?」
「……なんのことですか」
 わかっているくせに、白々しい。と、私は自分でも呆れるくらいに思った。
「昨日の、ことだよ」
 と、律先輩は言って、それからようやく、後ろを振り返った。私と目が合った途端に、ニコッといつもの太
陽みたいな笑みを見せた律先輩は……この夏の空の下で、何よりも誰よりも、輝いているように、私には見え
た。
 夏の、不思議な魔力のせいだろうか。――私の胸は、不思議に高鳴っていた。
「梓の、言うとおりだったのに……叩いたりして、ごめんな」
「……もう、先程も謝ってくださったから、別にいいです」
「私って、やっぱ部長失格だよなー」
 ふざけたように笑いながらそう言った律先輩の横顔が、私には不意に、透明に透き通ったように見えた。悲
しく憂いを帯びたその表情を眺めながら……"透明少女"、なんていうふうに、律先輩に、心の中でだけ、愛称
をつけて呼んでみたりした。その響きを私は少し気に入って、胸の内で何度も呼んでみるけれど何故だかそん
なことをしているうちに、途端に空しくなってしまった。
 それから私は、前を歩く律先輩の元へと駆け寄って、白く光って寂しそうにぷらぷらと揺れている律先輩の
綺麗な右の手を、捕まえるように強く握った。
「えっ」
 突然私に手を握られて、驚いたようにそう呟いた律先輩の照れた表情を、私は、咄嗟に見てみないふりした
。だって、それを見てしまったら、きっと、律先輩のその表情があんまり可愛らしすぎて、きっと最後には抱
きついて頬にキスのひとつでもかまさないとしょうがないくらいに、私の胸は高鳴ってしまうだろうから。だ
から私は、律先輩の顔を、見ないように見ないようにと、念仏のように心で呟いていた。
「――律先輩くらいのだらしなさが、うちの部には、丁度いいのかもしれませんね」
 今出来る、精一杯の笑顔で、私は律先輩に向かって言った。
 律先輩と繋いでいる私の掌が、とても汗ばんでしまっている。それが、少しだけ恥ずかしい。
 雨上がりの空から、まるで降ってくるような蝉時雨が、これから来る楽しみな八月を予感させる。前方に伸
びる二人分の影まで、今の私たちと同じように手を繋いでいるのを見て、当たり前のことなのに、何故だか少
しだけ可笑しく思えて、私は、律先輩に気づかれないように、ひとり笑った。









 END


出展
【けいおん!】田井中律はスルメ味かわいい57【ドラム

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  • りっちゃんもあずにゃんも可愛いわ( ̄∀ ̄) -- (名無しさん) 2010-12-08 22:16:05
  • 気付いたら俺はあああ夏だったあ!!!!!! -- (名無しさん) 2010-07-19 17:22:05
  • ナンバガ「透明少女」の疾走するドラムが律っぽくてぴったりな選曲だと思う -- (ルーリー) 2010-07-13 01:40:42
  • うまいなあ。律が手を上げるかどうかは確かにグレーゾーンだが、面白かったのでアリかも。 -- (名無しさん) 2009-11-20 18:41:00
  • “りつあず”らしい雰囲気がとても良いです。ただ、幾らキレたからといって、律が梓に実際に手を上げるだろうか~?と云う疑問はありますが、これもまた、「有り得た可能性の一つ」と解釈させて頂きましょう……。あと、文章は文句無しですが、もう少し推敲して誤字(変換ミスか?)を無くしましょう(←紅玉、釈迦に説法)。 -- (紅玉国光) 2009-09-30 20:10:19
  • ナンバガの歌詞の空気が出てて良かった乙 -- (名無しさん) 2009-09-25 23:18:49
  • 文章上手い。そして面白い。GJですた。 -- (名無しさん) 2009-08-14 01:55:39

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最終更新:2009年08月03日 20:30
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