SS > 短編-けいおん!メンバー > > 8月22日

「あっ」
 気がついて、ハッとして、一人部屋の中で、思わず小さく叫んでしまう。
 まるで喪心したように、しばらく呆然として部屋の角の方ばかり何時までも眺めていた。耳につけているヘ
ッドフォンからは、父親に勧められた、なんとかかんとかっていうジャズ・バンドの奏でる爽やかなメロディ
ーだけが変わらずに響いていた。雨上がりの幽かに立ち込める匂いが、私の脳を静かに刺激して、月明かりの
夜を朦朧と照らし出す間接照明の下で、私は尚も、口をあんぐりと開けて、驚きにただ呆然としていた。
 夏の夜だった。そろそろ秋の匂いが立ちこめて、八月も終末を迎えようとしている。気まぐれな夜風に驚い
たように鳴り響く風鈴の音も、そろそろ季節外れになってきてしまいそうで、それを思うと、ひどく胸に、切
ない。
 "八月、二十二日"
 ベッドの枕元に放り投げていた携帯電話をひょいと拾い上げて、画面の右上を覗く。記されていた日付に、
私はまたも仰天する。時間はもう既に深夜の一時を回っていて、すっかり日付が変わってしまっていたのだ。
嗚呼……私としたことが、なんという失態。
 不味い。これは、不味い。夏休み明けに、あの人になんと嫌味を言われるか、わかったもんじゃない。想像
したくもない。私は軽音部の中で、唯一の一年生であり、謂わば後輩であるから、余計にこういう細かいこと
には、気がつかないといけない立場なのだ。しかも、相手はあのしつこい律先輩だから、八月二十一日の誕生
日を私がすっかり忘却の彼方になってしまっていたことをネタに、夏休みが明けたら、あの人にいつまでもね
ちねちといじられるだろうことは、目に見えている。
「はぁ……」
 と、私は重く溜息を吐いた。ミュージック・プレイヤーの電源をオフにし、耳にぴったりと付いているヘッ
ド・フォンを外す。クーラーで冷え切った部屋の冷気が、ひやりと耳朶を驚かせて、私の鼓動は余計に高鳴っ
た。いつのまに部屋はこんなに冷えていたのかわからない。電気代が勿体無いのでクーラーの電源も切る。夏
の夜は、静けさを取り戻す。
 ベッドの真ん中に、ダイブするように寝転がる。布団を腰の辺りまで被って、部屋の電気を暗くする。それ
から、強く握った携帯電話を操作して、律先輩に向けての、メール送信画面を開いた。
「なんて、送ろうかな」
 もうこんな時間だし、起きていないかもしれない。律先輩ってばなんとなく、早寝早起きの、健康的なイメ
ージがあるし、今頃はどうせ布団の中だろう。もしかしたら、あの能天気な律先輩のことだから、私からお誕
生日メールが来ていないことにすら、気がついていないのかもしれない。
「どうせ、澪先輩たちから、たくさんお祝いされてるだろうし……」
 別に、わざわざ私が一日遅れで、メールを送ったりしなくてもいいのかもしれない。けれど、やはり、一応
私はあの人の後輩だし、しかもあの人は、一応、部長なのだから、ここは送らないと、後々色々と波紋を呼び
そうだ。そう考え直した私は、再度、携帯電話の光る画面を見つめた。
「とりあえず、最初に謝っておいたほうがいいよね……」
 真っ暗になった布団の中で、私は誰かに言い聞かすみたいに呟いた。それから、ボタン操作をして、『一日
遅れて、ごめんなさい』と打った。ここはとりあえず、素直に謝っておくのが吉だと思う。
 メールをあまり打ち慣れていない私のタイピングは、かなり遅い。だから、文章を頭で考えてから、それを
実際に文字に起こすのには、なかなか時間が掛かる。高校に入ってからようやく携帯を買ってもらったものだ
から、これも仕方がないのかもしれない。
 それから、少し考えて、やはり律先輩は、一応我が軽音部の部長であるのだから……『軽音部を支えてくれ
ている律先輩には、日頃とても感謝しています』なんて、あんまり心にも思っているようないないようなこと
を、文字に起こす。
 そのとき不意に、律先輩のあの、向日葵みたいな明るい笑顔が、頭に浮かんできた。
 八月二十一日。――まだまだ、夏の余韻が残っている日和。
 夏みたいに元気なあの人の生まれた日だというのに、実にぴったりだなと思うと、何だか一人、笑えてきた
のだった。



 やっぱり、メールってとても難しい。だって、文字だけで私の気持ちを伝えるんだもの。こんなに難しいこ
とは、探してもそうそうない。私の喜怒哀楽がちゃんと相手に伝えられるのか、何度も何度も読み返して、い
くら打ち直したところで、しつこいくらいに何処までも、不安になってしまうのだ。
 あ、そういえば。律先輩のタイピングは、結構早かったなぁ。あの人は何かと、動作が速いというか、俊敏
というか。まぁ、ドラムもあれだけ走るくらいだから、そういう体質なのかもしれない。
 ……そういえば、体育祭のときも、律先輩の足はとても速かった。推薦されて出たらしい100メートル走のと
きも、陸上部の人よりも早くて、一位を取っていたし……特別足が速い人だけが出れる最後のリレーのときも
アンカーで……前で走るランナーたちをごぼう抜きしていた。一年生たちはみんな、律先輩の、あまりの格好
良さに恍惚としていて……そして、たまたま私の隣にいた澪先輩も、らしくもない、乙女みたいに、私の耳元
でキャーキャー黄色い声で叫んでいたっけ……。
 唯先輩と紬先輩はわかるけど、実は澪先輩も、運動となると案外とろかったのだ。なんつって、こんなこと
、三人の前で言うと、一斉攻撃を食らいそうだから、言わないけどね。
 律先輩は、あの体育祭の後も、後輩のファンの人たちから、タオルとかいっぱい貰っていた。そして、その
輪の中心にいた律先輩はというと、へらへらと、らしくもない愛想笑いばかりしていて……私は何だか、あの
光景を見たとき。律先輩が少しだけ、何処か遠くの方へ行ってしまったような気がして、幽かだけど、何とも
言えないような気持ちになったんだった……。そんなことばっかり、私はいつまでも、覚えている。くだらな
いし、つまらないことだけど。私の胸の中では、いつまでも強く鮮明に、そんなイメージだけが残っている。




 最近、ふと気がつけば、ぼんやり、律先輩のことばかり考えてしまっている。今だって、そうだ。律先輩に
向けてメールを送らなければならないと、その文章を必死に考えていたはずなのに。いつの間にか、その目的
から脱線して、考えていることは……いつもの律先輩の明るい笑顔のこととか、時折見せる憂いの横顔のこと
とか。触れた肩の感触とか、触れられた掌の温かみとか、そんなことばかり、一人で悶々と思い出して考えて
、それで……馬鹿みたいに、興奮している。
 暗い部屋に一人だけなのに、何故だか頬が赤くなって。胸がどんどんと高鳴って。それが、止められないの
だ。……しかも、律先輩のことばかり考えているくせに、肝心の誕生日は、すっかり忘れてしまっているなん
て。本当に、世界一のアホだ、私って。
 邪念を捨てようと思って、目を瞑り、メールの文章を考える。もう既に、時計の針は午前二時を刺している
。私は一時間も、一体、布団の中で何をしていたのだろう、と思うと、にわかに自分が、情けなくなってくる

「……りつ、先輩」
 返事が返ってくるわけもないのに、気がついたら、そう呟いていた。
 メールの文章だけでは伝えきれない思いがたくさん、私の胸にはあるのに。夏休みの間は、部活もあんまり
ないから、私は律先輩と会って話すことが、当分出来そうもない。
 幼馴染で、近所に住んでいる澪先輩が、少しだけ、羨ましい。
 別に、律先輩に恋しているわけでもないだろうし、っていうかそもそも女同志だし。それに、ましてや、澪
先輩に嫉妬しているわけでもないのだから、別にこんな話をいつまで考えていたところで、結局は、無駄なの
だから、私はさっさと、メールの文章を考えて、それからクーラーのタイマーをセットして、布団を被って寝
てしまうのが、一番良いのだろう。それは、わかっている。……わかっているけれど。
 たかだか四、五行くらいの文章を送るのに、こんなふうにいつまでもうじうじ悩んでいるのも、心底馬鹿ら
しい話である。けれど、それでも、私は律先輩に、なんて送ってあげるべきなのかが、本当にわからないのだ
。無愛想になりすきず、尚且つ、私の本当の気持ちがちゃんと伝わるような文章は、一体、どう表現すべきな
のだろう。
――ええい。もう、認めてしまおうじゃないか。
 私は、律先輩が、好きだ。……別に、この"好き"には、深い意味が込められているわけではなくて、ただ単
純に、律先輩を、一人の人間として好きなだけで、本当に、ただ、それだけのものなのだから。……だから別
に、メールの文章も適当に、『律先輩、おめでとうございます! 大好きです!』とか……そんな気軽な感じに
送ってしまってもいいのだけど……――いいのだけどっ!
 でも、そんなふうに送ったら、どうせ夏休み明けに、目一杯からかわれるだろうし……でも……私が律先輩
のこと大好きっていうことだけは、この際良い機会だから、どうしても伝えておきたいのだ。
 だって、本当に、大好きなんだもん……。





 たまにする夜更かしは、体にとてもつらい。当然、頭も働かなくなるし、目もジンジンと痛んでくる。けれ
ど、久しぶりに自分のお小遣いで買ったテレビ・ゲームを、出来る限りの時間、楽しんでいたい私の気持ちも
、わかって欲しい。ブラック・コーヒー片手に、コントローラーを操作する。窓の外の夜はすっかり更けてい
って、あと数時間もすれば夜明けがくるだろう。それまでには、さすがに、ゲームをやめなければ……。
 そんなことを、ぼんやり、テレビ画面を見ながら考えていた、そのときだった。
 私のすぐ横に置いてある携帯電話が、小刻みに震えだす。
 流れてくるメロディから、軽音部の誰かからのメールだということがわかった。
 誰だろう? こんな時間に。……そう考えた私の頭が瞬時に思いついたことは……ははぁーん。澪め。さては
あいつも夜更かししながら、必死に新曲の歌詞でも考えていたんだな。そして、その歌詞をこうしてメールで
送ってきて、私に批評してほしい、なんて魂胆だろうな。と、私は予想した。それで間違いないと考えていた

「ふふっ。やっぱり澪は、熱心だなぁ」
 それに比べて、部長の私は、夜遅くまでゲームなんかに勤しんで……なんてことを、少しばかり情けなくな
りながら考えて、携帯電話を開くと……そこには、予想もしなかったような名前が浮かんでいて、私は、あん
まり驚いて目を真ん丸くさせた。




『 一日遅れて、ごめんなさい。
  軽音部を支えてくれている律先輩には
  日頃からとても感謝しています。   
  お誕生日おめでとうございます。


  大好きな、律先輩へ。         』



 更に驚くべきは、そのメールの内容といったところである。私は、目を擦りながら、何度もその文章を読み
返した。差出人はちゃんと、中野梓と画面に記してあるのに、それなのに、何度読んでも、こんな文章、梓が
書くはずもないように思えて……とうとう、幻覚を見るようになるまで、頭が強く眠気を訴えているのだと察
した。
 どうせ、これは夢なのだろう。だってあの梓が、あんなに手厳しい梓が、私のこと大好きなんて、言うはず
ないもん。そうだ。これは夢なのだ。ぬか喜びさせやがって、タチの悪い夢だな。……あれ? でも、頬を叩く
と、めちゃくちゃ痛い。まあ、いいか。こういう難しいことは、全部明日に回して……今日は、寝ちまうか。
 セーブ・ポイントまでなんとか辿りつき、ゲームの電源を切り、コントローラーを手放してから、テレビの
スイッチを切る。そして、部屋の電気を消してしまうと、途端に部屋は暗くなり、それから、よろめく足取り
でなんとか、ベッドまで辿りつく。膝から崩れ落ちるように寝転がってから、布団だけ被って、枕に頬を押し
付けて、強く目を瞑ると……不意に、瞼の裏の深い暗闇から……梓の、照れたようにはにかむあの可愛らしい
笑顔が、何故だか急に、頭に浮かんできて、その笑顔が、脳裏を離れなくなってしまったのだ。
 いやはや……どうも、困った。と、私は心の中で思う。
 こんなに可愛いらしい笑顔が頭の中に浮かんだまんまでは、上手く眠れる訳がないじゃないか!
 なんてことを、一人愚痴っぽく呟いて……それから、面倒くさいながらも、一生懸命、羊の数を、数えるこ
とにしたのだった。








出展
【けいおん!】田井中律は獅子座可愛い74【ドラム】

このSSの感想をどうぞ
名前:
コメント:

すべてのコメントを見る
  • 照れる律かわいいw -- (名無しさん) 2010-08-04 14:34:57
  • 梓可愛い。続きないの?w -- (名無しさん) 2010-05-23 16:05:16
  • かなりの良作!GJ!! -- (名無しさん) 2010-02-24 01:05:08

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2009年09月20日 10:59
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。