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第一帖


畿内、四国を支配下に置き、日ノ本の副王と称された三好長慶の薨去からまもなくの事。
長慶および主筋を相次いで毒殺した張本人であり、主家の簒奪を企てる松永久秀は、
嫡子の久通に命じて将軍・足利義輝を弑逆し、山城を制圧した。
その一方、長慶の実弟・義賢は久秀の専横に対し、三好一門を糾合して決起する。
かつての長慶の版図は二分され、山城、大和、丹波を治める松永家と
和泉、讃岐、阿波、淡路を治める三好家は一触即発の様を呈していた。

内政を徹底して国力の充実をはかる三好家に対し、松永家は先手を打って計略を仕掛ける。
堺衆の出身の切支丹武将・小西行長を、埋伏の毒として三好家に偽降させたのである。
また、両者の対立のさ中、一向一揆の指導者・本願寺顕如は「仏敵」松永久秀の打倒を決意。
石山御坊を拠点に松永家との抗争の準備に取りかかった。

その折、松永家に対する戦略的優位を獲得するため、三好義賢は本願寺に接近。
同盟を締結して松永家打倒のための共同戦線を構築する。
対する松永久秀は三好家当主・義興の籠絡を試みるが、義興はこれを拒否した。
かつて松永家によって大和を逐われた筒井順慶、浪人の長束正家も反松永を表明し、
この五者によって松永包囲網が形成された。

松永家と松永包囲網の戦端は、松永家の先制攻撃によって開かれた。
松永軍は当初、12,400の兵をもって摂津大坂の攻略を試みるが、
三好軍14,000が尼崎に進出したのを契機に作戦を変更。26,750の兵を尼崎に向けた。
三好軍は寡兵ながら奮闘し、内藤恕安隊を敗走させるも多勢に無勢で撤退を余儀なくされる。
松永久通は摂津の芥川山城に入り、松永久秀に従属した大名として独立した。
また、備前の宇喜多直家は反一向宗の立場から松永家と同盟、伊勢の北畠具教もこれに同調。
松永家、宇喜多家、北畠家の三国同盟が成立した。

これに危機感を募らせる三好家の下に、浪人の石田三成が訪れ三好義賢と接近。
三成は義賢に認められ、松永包囲網参加者と同等の地位を得るが、
これに不満を持った長束正家は松永久秀と内応の密約を結んだ。
一方、松永家の嫡子である松永久通は父の振る舞いに疑問を抱き、上京して父と会見。
必死の諫言をするが、親子間の亀裂を埋めることはできず、ついに出奔した。
このとき、久秀は出奔した久通を見つけ次第殺すようにと布告した。

中央の混乱を尻目に、奥州の雄である伊達家は若き当主・政宗のもとで邁進していた。
政宗は中央の二大勢力のどちらにも与せず、両者の疲弊を虎視眈々と待つ方針を固めた。
政宗の思惑通り、松永久秀は余興と称し6,000の兵を率いて和泉に侵攻する。
対する三好義賢は一門の兵を糾合、総じて20,000を越える軍勢でこれを迎撃。
囲魏救趙の計をもって松永軍を包囲し、戦の間隙を突いて河内を勢力下に収めた。
松永軍は圧倒的不利な状況の中で善戦するが、多勢に無勢で敗走。
総大将・久秀自身も負傷する大敗北を喫した。

和泉の戦いの後、久秀は戦後処理のために三好家に和睦を打診。三好三人衆の好感を得るが、
両者の提携を嫌った伊達政宗は不意を狙い、10,000の兵で山城を急襲した。
対する松永家はやはり10,000の兵を率いて単独でこれを迎撃するが、
洛外の戦いは伊達軍の勝利に幕を下ろし、伊達家はこの勝利をもって、勇名をさらに馳せた。

和泉、洛外で敗北した松永久秀は、基盤強化のために三好家との和睦を急ぐ。
三好三人衆の尽力もあり、堺で両家の君主による会談が実現した。
互いの陰謀が渦巻き、始終緊迫した雰囲気の中ではあったが、両家は同盟を成立させる。
これにより、松永包囲網はその存在意義を失い解消された。
一方、足利義昭を擁する越前の朝倉義景が、近江の六角義賢に接近。
有名無実の幕府を守ることで権力の掌握を狙う義景は、近江の南半を領する義賢に
「近江全土を領地とできるよう義昭に進言する」との条件を提示。
義賢はその条件を受け入れ、朝倉・六角両家は反松永・三好を掲げて同盟を締結した。

二国同盟を締結して京へと帰還した松永久秀のもとに、旅の茶花人・侘助が訪れる。
将軍家に仕えたことのある彼にとって久秀は旧主の仇であるが、
自らの茶を極めるべく、茶人として名高い千宗易との邂逅を望んでいた彼は、
その知己・久秀に宗易との交流の斡旋を依頼した。
久秀は風流人を尊重する情からそれを快諾し、彼を松永家の茶頭に任用する。
その折に侘助は三好家への使者として堺へ赴くようにと命じられるが、
これは彼と千宗易の接触の機会を作ろうという、久秀の配慮であった。

その一方で、三好義賢と伊達政宗は菓子を例に挙げて堺と奥州の優劣を争う。
その際に伊達政宗が紹介した金平糖を求め、三好三人衆の一人・三好政康は奥州へと旅立った。
道中で紅葉の中将一行と接触しながら米沢に到着した彼は、潜伏して金平糖奪取を目論む。
結果、金平糖の入手には成功したが、これを口実とした政宗の畿内侵攻を招くこととなる。
伊達、三好両軍は互角の兵力で対峙したが、松永久秀が突如18,000の大軍を率いて参戦。
伊達軍の進軍が豪雪によりままならなくなったこともあり、河内の戦いは霧消した。

時を同じくして、堺では松永家の使者・侘助が三好義賢と会見し、
旧主・足利義輝の佩刀である大般若長光を代償に、戦時の援軍派遣の約を取り付けた。
役目を果たした侘助は、三好家の屋敷の門前で偶然にも千宗易との接触を果たす。
宗易に茶会に招かれた侘助は彼の茶の心の原点を垣間見て、精進の心を奮い立たせ、
欣然として都への帰路へ着いた。
この会と時を同じくして、松永久秀は余興と称して平等院に放火し、全国に波紋を呼んだ。

畿内にひと時の平穏な時間が流れるなか、地方では風雲急を告げる動きが起こっていた。
奥州の伊達政宗と越前の朝倉義景は掲げる思想も異なり、互いを敵視してはいたが、
中央を攻略するという目的のもとに互いは同盟の形態を模索し、二者の合従に結論を見出す。
会談に一応の決着がつくと朝倉義景は10,000の兵を率いて都へ侵攻、
松永久秀も同じく10,000の兵で迎撃し、第二次洛外の戦いの火蓋が切って落とされた。

両勢力の均衡を破ったのは、5,500人の兵を率いた三好三人衆である。
そもそもこの戦いは勝敗に名声が懸かった松永方にとっては負荷が大きいものだったが、
三人衆はそのことを把握し、三好と松永の連携を強めるために援軍に赴いたのである。
援軍の到来に士気が高揚した松永軍は朝倉軍に大勝し、畿内の平穏を保つ。
一方で朝倉方も捲土重来を狙うべく、伊達・長宗我部・六角家との同盟を強化して合従を確立させた。

戦後、久秀は堺から帰還した侘助と会見。功を賞して彼を奉行衆とし、政務に携わらせる。
また、平等院の跡地に閑寂の美を取り入れた別荘を建て、数日をそこで過ごした。
その間に、彼は鬼畜・純粋・女性的とさまざまな評を集める自らの行いを振り返り、
この道を歩み続けることを改めて決意して都に帰還する。
これを出迎えた侘助は主君の姿を見て安堵し、松永家と自らのための役割を確認した。

一方、四国の情勢も不安定となっていた。伊予国を狙う三好家と長宗我部家は、
その支配権をめぐって当地で争おうとしていたのである。
長宗我部家の当主・元親を若輩と侮る三好義賢は4,000の兵を戦場に差し向けたが、
長宗我部軍4,500人には朝倉軍2,000、伊達軍3,000が加わり戦力が拡大する。
松永久秀が援軍要請を拒否し、三好三人衆が三好義賢に不信感を募らせたこともあり、
伊予の戦いは合従方の勝利に終わった。このことで、長宗我部家は伊予の半国を領した。
この戦は、二国同盟と合従、それぞれの勢力の結束の強化に繋がることになる。

戦後、松永久秀は六条の御方に文を送る。東宮との死別以来、心を縛られた六条に、
久秀は過去との決別を勧めて「十六夜」の名を贈る。十六夜はこれに感謝し、好意を示した。
その一方で、興福寺を脱出した足利義秋は朝倉義景に接近。上洛の発破をかける。
これに対し、義秋を危険視する三好義賢が松永久秀に何らかの対処を提案。
久秀は余興の意味も兼ねて、越前侵攻のために24,500名の松永-三好連合軍を編成した。
これを朝倉義景が20,000、伊達政宗が3,000の兵を率いて迎撃し、越前の戦いが始まろうとしていた。