前回 はじめての外泊-1 《 二 忘れちゃった……》 「眞一郎くんのところに行ってはダメですか?」 比呂美が理恵子にそう訴えたのは、昨日の夕飯前のことだった――。 帳簿を付け終わって、台所に入るなり比呂美はいきなり切り出した。何度も何度も葛藤し、ようやくそれらを打ち破った末に決意したらしく、比呂美のその真剣な眼差しに理恵子はたじろいたが、驚きはしなかった。そのときの理恵子の感想は、やっぱり我慢できなかったのね――だった。それもそのはず、眞一郎が金沢に発ってから、比呂美が妙に考え込むようになり、帳場でパソコンのキーボードを打つ手が止まったまま、15分間くらいじっとしているところを何度も理恵子は目撃していたのだ。 ただ、その比呂美の様子は、眞一郎と離れ離れになって寂しさを募らせているという感じではなかった。むしろ、作戦を練っているような感じ……。理恵子は最初、インターハイ予選後に比呂美がキャプテンに就任した女子バスケット部のことでも考えているのだろうと思っていたが、日を追うごとに、比呂美の黙考の中身が理恵子にもだんだん分かってきた。だから、理恵子が比呂美に対して思った『我慢できなかったのね』の意味は、眞一郎に会えない寂しさのことではなく、それとは別のことだった。「ちょ、ちょっと、待って……」 比呂美の先制攻撃に、理恵子は慌てて『待った』をかけた。比呂美は理恵子のその様子に少し驚く。滅多に慌てない人なのだ、理恵子という人は。ガス台には何も煮炊きしているものがないのに、どうして理恵子はすぐ話しに応じてくれないのだろうと比呂美は歯痒く思ったが、理恵子が一瞬ちらっと居間のほうに目をやったことで、その理由を悟った。となりの居間にはヒロシがいるのだ。比呂美のほうはそれでもかまわなかったが、理恵子のほうはそういうわけにはいかなかったみたいだ。 理恵子は布巾で素早く手を拭くと、比呂美の肩に手をやり、比呂美を回り右させ、「あなたの部屋で」といって軽く背中を押した。比呂美は納得して廊下へみずから進んだ。 比呂美の部屋には、先に比呂美が入り、そのあと理恵子がつづいた。比呂美は、理恵子に勉強机の椅子に座ってもらうように手で案内したが、理恵子は応じず、「こっちに座りなさい」といって畳の上に正座した。比呂美も理恵子と向き合って正座した。そして、理恵子が最初に口を開いた。「こうして面と向かって話すのは……あの時以来ね……」『あの時』というのは、『比呂美の父親はヒロシかもしれない』という嘘を理恵子が謝罪した日のこと。理恵子が第一声でこう切り出したことには、もちろん意味がある。このことで比呂美は、自分がずっと抱いてきた感情を理恵子がもうすでに察しているのだと感じた。そうでなければ、わざわざ『あの時』のことを思い出させるようなことは言わないはずだと。比呂美は、もう一度覚悟して理恵子に求めた。さきほどよりも強い口調で……。「わたしも、金沢に行きたいです。行かせてください」 理恵子は微動だにせず、比呂美の目を見つめた。まるで心を読むように、じっと……。だが、その状態はそれほど長く続かなかった。理恵子は、軽くふっと息を吐くと、諦めたように顔の硬直を解いた。「それで、わたしに宿を手配してほしいって言いたいの?」「……はい。……わがまま言ってごめんなさい……」と、比呂美は申し訳なさそうに俯いた。「それは、いいけど……」 さっきの威勢はどこいったのよ、と理恵子は斜め上の何もない宙を見つめて苦笑いした。同時に、「あなたの考えていることはお見通しよ」という無言のメッセージが比呂美に届いていることを確認した。このあと、理恵子は比呂美に対して一切容赦はしなかった。それは、比呂美の気持ちを理解している証拠だともいえる。なぜ、比呂美がいきなりこんな困った要求をしてきたのか。それは、もちろん純粋に眞一郎と一緒にいたいということもあるだろうが、理恵子の比呂美への『ある態度』に対する抗議でもあった。それを理恵子はくみ取っていたのだった。 比呂美は、顔を上げ、理恵子の返答を待った。「宿を探したって、あなた……」ここでいったん理恵子は間を置いて、さらにつづけた。「どうせ、抜け出して眞一郎のところに行くんでしょう?」「い……いえ……」と、反射的に視線を斜め下に落とし、再び俯く比呂美。 理恵子の顔をまともに見ることが出来なかった比呂美は、そう答えるのがやっとだった。しかしこれでは、言葉では否定していても、全身で「あなたの言うとおりです」と答えているようなものだった。比呂美もすぐに、「まずい」と思い、取り繕う言葉を必死に探したが見つけられない。その心を映し出したように目が泳ぐ。いつの間にか、星に願いでもするように指を交互に絡めて組んでいた両手を、慌ててほどくという有り様だった。事前にこのときのことをしっかりとシミュレーションしてきたとはいえ、現実は空想とはかけ離れて違うものだとあらためて知ることになる。この部屋に入ってから大して言葉を交わしていないのに、比呂美はすでに理恵子の迫力に押されていた。 だが、理恵子は比呂美にかまわず話を進めていく。意外な方向へ。「お金がもったいないわ。眞一郎のところに泊まればいいじゃない」「へっ?」 今この人は何て言ったんだろう? 比呂美は自分の耳を疑った。記憶をほんのちょっとだけ遡ってみる。眞一郎のところに泊まればいいじゃない――確かにそう言った。でも、もう一度訊き直したほうがいいだろうかと思っていると、理恵子は、そんな必要はないわよ、とでも言うように繰り返してくれた。「個室をひとりで使ってるんだから問題ないわよ。眞ちゃんのところに泊めてもらいなさい」「いえ……。あの、それは……」「それは、なんなの? あなた、いやなの?」「い、いえ、そのぉ~」 まさか理恵子のほうからこんな提案してくるとは思わず、比呂美は混乱したが、このことで、自分の中でずっと抱えていた気持ちに理恵子が気づいてくれたのだと確信できた。「もう。はっきりしなさい」 とがめるような口調でも、理恵子の顔は優しく微笑んでいる。「許していただけるのなら、わたしは、それで……かまいません」 比呂美は頑張って理恵子の顔を見つめ返したが、比呂美のその言葉を聞くなり理恵子はまた真顔に戻って、比呂美の気持ちに冷水を差した。「ひとつ、条件が、あるわ……」「え……」 これは意外だった。比呂美は、理恵子のこの言葉をすぐには信じられなかった。理恵子が交換条件を持ち出すようなことを言うなんて――。でもそれも束の間、現実的に物事を考えることが出来た。案外、大人同士のやり取りでは当たり前なのかもしれないと。とういうことは、このあと理恵子は強烈なことを言ってくるということなのか。そう思わずにいられなかった。おそらく、『あの時』の嘘のことよりも強烈なことを……。 比呂美は顔を引き締め、理恵子に、どうぞ言ってください、と合図を送った。それを受け取った理恵子はいったん目を閉じ、再びゆっくり開いてから口を開いた。「ひとつ、わたしの質問に正直に答えてくれたら、許してあげる」 臨むところだ、と比呂美は思い、静かにはっきりと「はい」と答えた。 このとき理恵子のほうは涼しい顔をしていたが、比呂美のほうは、背中に冷や汗をびっしょりかいていた。バスケットの試合でもこれほどの緊張は滅多に感じない。だが、両親の死という絶望を味わった比呂美にとって完全に冷静さを失うほどのことではなかった。比呂美は、この部屋に入ってからの理恵子の言葉を思い返した。そのことから推測されることは……あのことしかない。「眞一郎とは、もう、したのね?」 理恵子は静かにそう言った。問いかけるというよりも、事実を確認するように――。 この瞬間、比呂美は、何か呪縛のようなものが解かれるのを感じた。そう感じたということは、理恵子の意思がはっきりと比呂美に伝わったということなのかもしれない。 もう、『あの嘘』の罪滅ぼしのために眞一郎との仲を応援しているわけではないのだと……。 比呂美は、視線を理恵子の瞳に固定したまま、小さく縦に首を振った――。 ◇ 比呂美の澄んだ瞳が「どうしたの?」と問いかけるようにまばたく。 大切な人がそばにきていても、その実感がすぐに感じられないことは、こういう状況においてよくあること。ずっと遠くの場所に居ると思い込んでいたのだからしかたがないが、あまりにも嬉しすぎる状況に、浮かれるな、と理性が急激にブレーキをかけているせいもあるのかもしれない。この実感を確かなものにするには、時間と、ふたりのどちらかの努力が必要だ。ドアを手で支えたまま呆然としている眞一郎に、比呂美は顔を近づけ口づけした。とびっきり優しく唇に触れようとしたが、両手に持った荷物の重さで体のバランスをうまく保てず、結局眞一郎に片方の肩を支えてもらいながらの短いキスだった。「あがっても、いい?」「あ、うん……」 比呂美の催促の言葉でとりあえず眞一郎は現実に引き戻され、ドアをさらに押し広げながら体を壁に寄せて比呂美を招き入れるスペースを作った。そこへ滑り込んだ比呂美は素早く靴を脱ぐと、まるで我が家に帰ってきたようにすたすたと奥へ進んでいった。初めての場所で警戒する感じも男の部屋を訪問したときの恥じらいもない。そんな比呂美の後姿を目で追いながら眞一郎はドアをロックした。 比呂美の足取りはいつも軽快だ。乃絵の無邪気さとは違って躍動感がある。その歩くときの振動は、長い髪や身に着けている衣服にしっかり伝わり、体の柔軟さと運動神経の良さを自然とアピールした。一緒にあそぼ、と今にも話しかけてきそうに三つ編みが揺れるのは比呂美ならではだろう。他の女の子ではこんな揺れ方はしない。 比呂美は、モデルルームを視察するときのようにあちこちと目を配らせながら歩んだ。明らかに築20年以上経っていて真新しいものが何一つないというのに、まるで新築の家に上がりこんだときのようだ。あっという間に台所を通り抜け、液晶テレビのある洋室に入ったところで、比呂美は感心したように声を上げた。「へ~。もっと狭いところだと思った」といって、比呂美は右側から眞一郎へ振り返ろうとしたが、その途中、90度向いたところで和室への二枚の木戸が目に留まり、「こっちも部屋?」とさらに驚きの声を上げ、両手の荷物をとりあえずその場に置いてから、その戸を開けた。その直後、比呂美からさっきまでの心が弾んだ感じがふっと消えた。―――――――――――――――― 部屋の間取 ┏━┳━━━┳━━━┓玄関┃ ┃ 台所 洋室┃ ┣━┻┳━━╋━━━┫ ┃WC┃風呂┃ 和室┃ ┗━━┻━━┻━━━┛―――――――――――――――― 消えたといってもほんの一瞬の間だけだったけれど、何一つない和室の真ん中に敷かれた布団に目を奪われたのだ。白くて薄っぺらな敷布団、その上に折りたたまれたタオルケットと枕。(わたしたち……これから、ここで、するんだ……) 比呂美は喉の奥が乾くのを感じ、静かに生唾を飲み込んだ。「わたしの部屋も、もうひとつ部屋あったらな~。ま、贅沢は言えないか……」 心の内を眞一郎に知られないように比呂美はぼやいてみせた。その必要があるのかどうかは別にして、あからさまにセックスのことに触れるのを眞一郎がいつも快く思わなかったからだ。それに、比呂美はすでに眞一郎の様子が普段とは少し違うなと感じ取っていた。だから、無邪気に振舞いつつも、少し緊張していた。眞一郎が洋室に戻ってきたところで比呂美はいったん眞一郎の顔に目をやり、自分の荷物を和室の入ったところに移動してから、窓のそばまで寄って外の夜景を眺めた。そのとき眞一郎は、ちゃぶ台の手前で比呂美を観察するようにじっと見ていた。「高台になってるから、見晴らしもいいね」 この窓から繁華街の灯りが一望できた。耳をすませば、街のノイズも聞こえてきそうだったが、ここでは虫たちの合唱のほうがはるかに優勢だった。 比呂美が目を閉じて光から音のほうへ意識を集中していると、眞一郎が「おまえ……」と戸惑ったように声をかけた。家出少女が突然兄のところに転がり込んできて、その兄貴が心配そうに迷惑そうに事情を説明しろと切りだすときのような感じだった。そうそう、眞一郎くんは、そう簡単に有頂天になるような男子ではないのだ、と比呂美はあらためて思い、眞一郎の顔から怪訝そうな表情を取っ払おうと、振り返ってから頬の膨らみをを左右に思いきり張り出してニコッと笑った。「ごめんね。電話、待ってたんでしょう? 心配した?」「……心配するよ……」と、眞一郎は口を最小限に動かしてぼそっと返した。「わたしのほうから約束したのにね。わたしもすっぽかしちゃった。九時ちょうどに来ようと思ったんだけど、ちょっと迷っちゃって。それで」「電車で来たのか?」比呂美の言葉を最後まで聞かずに眞一郎は尋ねた。「うん」「駅からここまで歩いてきたのか?」「うん」と比呂美が答えると、眞一郎は目を閉じ、眉間に皺を寄せて辛そうな表情をした。しばらくの間、眞一郎はすぐに目を開かずにその状態でいた。その様子を見て比呂美は、眞一郎が「心配するよ」と言ったのは単に電話がかかってこなかったことだけではないと悟った。前もって連絡なしにいきなり訪ねてくれば、嬉しさよりもまずびっくりするほうが普通だろう。おまけにこんな時間だ。眞一郎がなかなか目を開けてくれないので、比呂美は少し困惑した。とにかくもう一度ちゃんと謝らなくてはと思い、「ごめんなさい」と眞一郎にはっきりと伝えた。それでようやく眞一郎は目を開けて顔の硬直を少し解いた。比呂美は内心ほっとしたが、まだ眞一郎の心の内を正確に把握できていなかったため、このあと、思わず軽はずみな行動を取ってしまった。もちろん、比呂美はふざけるつもりはなく、この年頃の女の子としてはごく当たり前の欲求といってもおかしくないのだが、今の眞一郎にはそれが通じなかったのだ。「ねぇ、眞一郎くん。ちゃんとキスしてくれる? さっき、あまりうまくできなかったから気になっちゃって……」 比呂美は眞一郎のそばまで、ほんの50センチメートルくらいのところまで近づき、目を閉じ、両手を後ろで組んで軽くあごをつき出した。これで眞一郎の気持ちが鎮まってくれることを願って。それを信じて。 だが、それは、部屋に響いた乾いた音と共に見事に打ち砕かれた。左頬の痛みを伴って。 眞一郎は軽く叩いたつもりだったが、掌と比呂美の頬が思いのほかきれいに合わさって見事な音を響かせたので、比呂美と同様に眞一郎自身もびっくりしてしまった。その平手は、単なる悪ふざけでは? と比呂美が思うほどの弱いものだったが、「なんで、電話しなかったんだよ」とそのあと眞一郎が呟いたことで、眞一郎の心配度を推し量ることができた。「なんで、駅から電話しなかったんだよ。迎えにいったのに……」 やはり、そうだ。夜道歩いて、ここまでひとりでやって来たことに対して眞一郎は怒っていたのだった。駅からこの建物まで約3キロメートルはある。駅周辺の繁華街をはじめ、人通りの少ないこの建物の周辺も、女性にとって危険エリアだ。取り返しのつかないことになり兼ねない。 比呂美は、何も言葉を返すことが出来なかった。「あなたを驚かせたかったの」などとかわいいことを言っても、眞一郎は間違いなく顔をさらに険しくするだろう。「もし何かあったとき、父さんや母さんや、おれが……どんな思いをするのか考えないのか!」 比呂美は俯いたまま、眞一郎の怒りの声を全身で受け止めた。辛さを感じた。自分を恥ずかしく思った。でも、こんな状況で不謹慎だとは思うけれど、ほんの少しだけ嬉しさを感じた。自分のことを真剣に叱ってくれる人がそばにいる。恋愛感情に流されずに本人のためを思って行動してくれる恋人がいる。比呂美は、今の眞一郎を頼もしく思った。そして、金沢へ発つ前より何か一回り大きくなったように感じた。痛いというほどではなかったが、比呂美は左頬に手を当てた。熱かった。腫れているということではなく、恥ずかしさで顔全体が熱かった――。だから、顔を上げて眞一郎のことをまだ見れなかった。その代わりに、だんだんと焦りが出てくる。せっかくここまで来たのに、喧嘩したままだったらどうしようと。17歳の夏の思い出にしようと思ったのに、みずから墓穴を掘ってしまうなんて。情けなかった。なんか泣きわめきたい気持ちになってきた。そんな風に比呂美が自己嫌悪に陥っているときだった、何かに包み込まれたような感触を感じたのは――。 背中に回された二本の腕。Tシャツ越しに伝わってくる肌の温もり。懐かしいにおい――。「ごめん」と耳元で聞こえたので、比呂美は反射的に「うん」と返した。その「ごめん」の意味を確かめもせずに――。今は何も言わないほうが、この温もりを、優しさをしばらくの間感じつづけられると思ったからだ。叱られたばかりなのにすぐに優しくするなんて卑怯よと、思わなくもなかったが、とにかく眞一郎に対して申し訳なさでいっぱいだった。比呂美は左頬から手を下ろして、眞一郎の腰に手を回した。「ごめんなさい」と「ありがとう」の意味を込めて、その手を眞一郎の背中に滑らせていき、自分も眞一郎を抱き返そうとしたとき、眞一郎の異変に気づいた。 それは、「ぐすっ」と洟をすする小さな音だったが、眞一郎の顔がそばにあるのでとてもはっきりと聞こえ、眞一郎が泣いていると断定することができた。比呂美は眞一郎から身を離して顔を覗き込むと、眞一郎は歯を食いしばり、口元を細かく震わせながらぽろぽろと涙をこぼしていた。その表情を見て、比呂美はいたたまれない気持ちになった。こんなにも眞一郎を心配させてしまったのかと――。でも、顔を比呂美から背けて声を上げないように我慢しながら泣いている眞一郎を見ていると、何か違和感のようなものを比呂美は感じた。眞一郎の感情に一貫性がないというか、あまりにも唐突というか……。比呂美が眞一郎の泣き顔を滅多に見たことがなかったとういうこともあるかもしれないが、逆に眞一郎のほうに非があるように辛そうにしているのはなぜだろう、と比呂美は思った。「なにか、こっちであったの?」と、眞一郎が少し落ち着いてから比呂美は尋ねた。「……いや、なんでもないよ」 眞一郎はそう言いながら手の甲で涙を拭って、ちゃぶ台の前に腰を下ろした。それから眞一郎は大きく呼吸をして高ぶった気持ちを落ち着かせようとしていたが、どう見ても何か辛いことがあったようにしか比呂美には見えなかった。「ちゃんと話して」 比呂美も眞一郎のとなりに座り、眞一郎の腕をゆすって話を求めた。「い、いや、ほんとになんでもないんだ」 こんどは逆に比呂美を必要以上に心配させていると眞一郎は思い、必死に笑顔を作って全身で否定をした。それでも比呂美は、いたずらをした子供を叱るような目で眞一郎をじっと睨んだ。いきなり泣きだしたのだから無理もない。眞一郎は、とりあえず心の中の状況を正直に話した。「な、なんかさ。急に、わーっとなっちゃって、はは……」眞一郎は照れくさそうに笑い、鼻水をずーっとすすり上げた。「バイク事故のこと、思い出したの?」「ま…………まぁ~、それもあるかもしれないけど……急に比呂美が現れたもんだから、びっくりしたというか、驚いたというか……。ほんとに、なんでもないんだ。大丈夫」「でも、眞一郎くんが急に泣きだすところ初めて見たような気がする」「そ、そうか? それより、おまえほうこそどうしたんだよ。こんな時間にやって来て」 眞一郎のしゃべり方がいつもの調子に戻ってきたようなので、比呂美は内心ほっとし、座りなおしてから体の前にきていた三つ編みを後ろにはらった。「え、えっと~、ちゃんとおばさんたちに話してきたよ」「おれ、あした帰るんだぜ」「うん、知ってる」「泊まるところは?」「え、えっとね」「それよりも……」と言いながら眞一郎はちゃぶ台の上の携帯電話をつかんで筺体(きょうたい)を開いた。「ほんとに、ちゃんと話してきたってば」「うん、分かってるよ」 眞一郎は携帯電話を操作するのをいったん止め、比呂美の顔を見てから「それでも、こっちに無事着いたことを連絡しとかなくちゃ」と諭すように言って、また携帯電話に目を戻した。「……うん」と比呂美は返事したものの、昨日、理恵子とひと悶着あったもんだから、電話で話すのが正直恥ずかしかった。でも、この際仕方がなかった。確かに眞一郎の言うとおりなのだから。 眞一郎は、家の番号を発信してから15秒くらいじっと待っていた。「あれ? いないのかな~?」と呟いた直後、電話がつながった。『――はぁーい、仲上でぇーす』 いきなりキャバクラ嬢(もちろん眞一郎はキャバクラ嬢なんか知らない)のような声が耳に飛び込んできたので、眞一郎は「だれ?」と思わず訊き返して顔をしかめた。(誰だ、この女) 愛子には失礼な話だが、愛子が電話に出たのかと眞一郎は思った。声の明るさ、テンションが眞一郎の記憶の中ですぐに愛子と結びついたからだ。それで、電話をかけ間違いたのだと思い込み、電話の相手を確認しようと、愛ちゃん? と声に出しかけたところで眞一郎はふと気づく。仲上です、と名乗ったことを――それで、かけ間違いではないと。冷静になってみると、今電話の向こうにいる女性の声は、明らかに愛子よりももっと年上という感じがする。意表をつかれて眞一郎は混乱してしまったが、やはりあの人しか考えられないという結論にたどりつく。『――眞ちゃんなの?』 それにしても、まるで恋人でも確かめるような甘い口調に眞一郎は頭を抱えたくなり、「かあさんなのかよ……」と不満をぶちまけるみたいにぼやいた。『――あら、一週間、顔合わせないだけで母親の声が判らなくなったの? この子はっ』 眞一郎は比呂美を見て、眩しいものを見るように目を細めて携帯電話を握りなおした。どうしたの? と比呂美は目だけで返したが、眞一郎はそれに対して何も答えず電話に集中した。「酔ってるのかよ」――眞一郎のこの言葉が、比呂美への説明となった。理恵子が他人に酔っ払っていることを指摘されるなんて珍しいと比呂美は首を傾げたが、眞一郎がどうにもこうにも困った顔をしているので、苦笑いせずにいられなかった。『――酔ってるわよ。さっきね、おとうさんとワイン飲んじゃったの。うふふふ……』(なにっのん気にワインなんかっ飲んでるんだよっ!) ごきげんな理恵子の声が今の眞一郎には癇に障り、眞一郎のこめかみをぴくぴくさせた。『――ところで、比呂美は着いたかしら?』いくらかまともな口調に戻って理恵子が訊ねてきた。「あ、うん。さっき着いたよ」『――そ。よかった』と理恵子は大して関心なさそうに言ったが、途端に明るくなって『眞ちゃん、あとはよろしくぅ』とカラオケで次の人にマイクを渡すみたいにおどけた。「はぁぁぁー?? よろしくって、どうすんだよッ?」と眞一郎は理恵子の悪ノリに対して怒鳴らずにはいられなかった。すると、理恵子のほうもすごいけんまくでやり返してきた。『――あなた! まさか! 比呂美を追い返すつもりじゃないでしょうね? いくらなんでも、それは比呂美がかわいそうよ。眞ちゃんはそんな冷たい人間じゃないわよね? 今晩、そこに泊めてあげてちょうだい!』「かあさん! 本気で言ってんのかよッ!」 すかさず大声で眞一郎が返すと、比呂美は慌てて立ち上がり、眞一郎が携帯電話を持っている腕のそばに座り、携帯電話に耳を近づけた。眞一郎は一瞬身を反らしたが、比呂美が理恵子の言うことを聴きたがるのも当然だろうと思い、携帯電話から漏れる音声を比呂美に聴き取りやすくするために、携帯電話を耳から少し離して頭を比呂美に寄せた。『――当たり前じゃない。この時間に比呂美をひとり放り出せるわけないでしょう。眞ちゃんのそばにいるのが一番安全じゃない。そのほうが、かあさんも心配しなくてすむわ』「そりや、そうだけど……」と尻すぼみ気味に眞一郎はいうと、「もうひとつ心配なことがあるだろう」とごにょごにょっと呟いた。この後半のセリフが理恵子に聞こえたかどうか分からないが、そばにいる比呂美には聞こえたので、比呂美はいったん目を真ん丸くしてから、あれあれ~? と意地悪する風に眞一郎の顔を覗き込んだ。眞一郎は、んんっ、とひとつ咳払いをして電話に集中しなおすと、『――いまさら何言ってんだか……』とぼそっと吐き捨てるような声が耳に入ってきた。 理恵子が発したこの言葉の本当の意味を、この時点で眞一郎が理解できるわけなかった。比呂美が理恵子に眞一郎とのエッチのことを白状したことをまだ知らないのだから。理恵子としては、当然、眞一郎がこの言葉の意味を分かるわけないとふんで、個人的にスリリングを楽しむために、『比呂美の処女を奪っておいて何言ってんだか』という意味であえて言ったのだが、眞一郎としては、『比呂美とは一年以上も同じ屋根の下で暮らしておいて……』という意味で捉えてしまう。ただ、この言葉が比呂美に聞こえてたらどうなっていたか、というところまで理恵子の考えは及んでいなく、幸いにもといったらいいのか、比呂美の耳にはこの言葉は入らずじまいだった。「と、とうさんは、何か言ってた?」とおそるおそる切り出した眞一郎に、ほらきた、と理恵子は思う。『――あら、気になる? 知りたい?』「そりゃ……、そうだろう。……あんなこと、あったんだし……」『――そうね……』 眞一郎が途端に真剣な表情になったので、比呂美はさらに携帯電話に顔を近づけ、横目で眞一郎の表情の変化に注意を払う。比呂美の視線を感じながら眞一郎は理恵子の言葉を待つ。『――比呂美を泣かしたら、ぶっとばすって言ってたわよ。おとうさんと電話、替わる?』 理恵子の最後の言葉に、眞一郎と比呂美はごくりと生唾を飲み込んだ。ほぼ同時に。ふたりにとって、眞一郎の父・ヒロシは『威厳』のそのもの。実の息子の眞一郎はそれを意識的に感じてしかるべきなのだが、比呂美も同じように感じているのは、比呂美が小さいころからヒロシに対する眞一郎の態度を見てきたせいがあるのかもしれない。それに、比呂美にとっては今は経済的な柱なのだ――だから、この人の言うことはちゃんと聞かなければいけないと誓っている――比呂美の両親の名誉のためにも。ただ、ヒロシは見かけの雰囲気とは違ってそれほど厳しい父親ではない。どちらかといえば、優しい親、甘い親の部類に入るだろう。そんなヒロシが、一度だけ眞一郎を半ば感情的になって殴りつけたことがあった。理恵子と比呂美の目の前で――。そのことがずっと、眞一郎と比呂美の頭の中に残り続けている。 そのときのことを思い出した眞一郎は、携帯電話を持ったまま固まってしまった。その硬直の様子が、どうやら理恵子にまで届いたらしく、容赦なしに大笑いした。『――あははははっ、バカね~。冗談よ』「へっ?」と眞一郎は素っ頓狂な声を上げ、比呂美も理恵子の冗談にずっこけて眞一郎の腕にどんと頭をぶつけてしまった。それで眞一郎は携帯電話を落としてしまい、比呂美と同時に慌てて拾う。『おとうさんは特に何も言ってないわよ。安心しなさい』 眞一郎の動揺ぶりに少しかわいそうに思った理恵子は、同情交じりに優しくそう伝えた。「そ、そうなんだ……」と大きく胸を撫で下ろす眞一郎。その横で比呂美は、砂浜に打ち上げられたクラゲみたいにちゃぶ台に突っ伏している。『――でもね、眞ちゃん』 眞一郎を甘やかすばかりではいけない。理恵子の声が、水晶のように冷ややかで透きとおった声に変わる。電話越しでもそういう印象がほとんど劣化なしに伝わってきたので、眞一郎は心の中で静かに固唾をのんだ。『――おとうさんが、あのとき、なぜ殴ったのか……。その意味を考えなきゃダメよ』(殴った、意味……)『自分なりに答えを見つけなきゃダメよ』(自分なりに……) 眞一郎は、理恵子の言葉を頭の中で反復した。眞一郎だって、比呂美と付き合うと打ち明けたあとに父・ヒロシから殴られたことをずっと考えてきた。ヒロシの行動を比呂美との交際を認めないという意思表示だと当然理解したが、それ以降、ヒロシがそのことについて一言も触れないのと、眞一郎と比呂美がお互いに真剣な気持ちで付き合うと確認し合っていることで、なんとなく今までずるずると『父の拳』の意味を深く考えずにきてしまった。もちろん、比呂美との交際をつづけたまま。 眞一郎は、ちゃぶ台に突っ伏したまま顔を横に向けて自分を見ている比呂美を見た。比呂美は、眞一郎が理恵子に何か言われたんだと感じ、少し目を細めた。『――かあさんは、もちろんその意味が分かってるし、たぶん、比呂美も分かってると思うわ』「比呂美も?」と比呂美を見たまま眞一郎は訊き返した。自分の名前を聞いて比呂美は体を起こし、また眞一郎の腕のそばまで近寄った。 少し間があって、理恵子は眞一郎の問いに対して、比呂美も分かっているはずだと自分自身でも確かめるように『そう……』と答えた。そして、いくらか明るい口調に戻ってつづけた。『――女はそういうことに、ピンとくるものなのよ』「お、女の勘ってやつ?」 なんか自分だけ仲間外れになった気分の眞一郎は苦し紛れにそう返したが、理恵子に『あははは、違うわよ』とあっさり否定されて少しむっとした。理恵子の笑い声は、携帯電話に耳を近づけずにいた比呂美にも聞こえた。比呂美は、眞一郎の受け答えの様子をただじっと見ていた。眞一郎が理恵子の言葉に対して真っ直ぐに集中しているのがひしひしと伝わってきたからだ。その姿を見て、いきなり訪問せずに昨日のうちに連絡を入れておくべきだったと比呂美は少し悔やんだ。そうしていれば、今ごろ『行為』に突入していたかもしれない……。『――女はね、愛されることで幸せを感じるということよ』と、笑いが治まってから理恵子は言ったが、眞一郎にはピンとこなくて、『ま、眞一郎にはこういう話、まだ早いわね』と理恵子に付け加えられてしまう。比呂美が見ている手前、「なんだよっ」と眞一郎は強がって見せることしかできない。『――とにかくね、眞ちゃん。おとうさんが比呂美の外泊を許したのは、おとうさんなりに意味があると思うのよ。おとうさんは、はっきりと口には出さないけど、かあさんはそう思うのよ。だから……』ここでいったん、何かに思いあたったように理恵子は言葉を止めた。「だから、なに?」 肝心なところでなんだよ、と眞一郎はせっかちに言葉の続き求めたが、理恵子は、『比呂美のこと……』と呟いただけで、眞一郎に続きを言うべきか迷った。はっきりとセックスについて言うべきかどうかということを。そして……。『――この先は、言わなくても分かるわよね?』 理恵子は、言いかけた言葉を言わないことを選択した。もちろん、ふたりのために……。正確には比呂美のためにといったほうがいいかもしれない。「ま、まぁ~。なんとなく……」 頼りにしてますよ、という感じに理恵子に言われたので、眞一郎は、母・理恵子が何を言おうとしたのか分からないまま分かった風に答える。そんな自信の無さは理恵子にはお見通しで、お叱りを受けることになる。『――もう。しゃんとしなさい! 比呂美がそばにいるんでしょ!』「う、うん……」と、眞一郎は人差し指でぽりぽりと頬を掻く。 細やかに眞一郎と比呂美の仲に気を配っているというのに、眞一郎が曖昧な返事をするもんだから、理恵子は声を荒げずにはいられなかった。その余韻は『――まったく』と吐き捨てさせた。 比呂美くらいにしっかりしてほしいものだというセリフが喉まで出かかったが、理恵子はそれを言うのを止めた。実は、比呂美に負けないくらい眞一郎も芯がしっかりしていると思っていたからだ。実の子供であるとか、両親を亡くした比呂美にはまだまだ情緒不安定なところがあるとかということを差し引いても理恵子はそう思っていた。眞一郎が金沢に滞在中、理恵子たちに内緒で比呂美をここに呼び寄せようと思えばいくらでもできたはず。急行電車に乗れば片道一時間とかからないのだから。バレずに一晩を過ごすことなど簡単なことだ。この年頃は、目の前に『甘い状況』があれば気持ちを抑えられずにすぐそれに飛びついてしまう。現に、比呂美のアパートで眞一郎と比呂美は体を重ねている。一度そうなると、高校生の男女というものはそういうことに加速して止まらなくなってしまう。でも、眞一郎は流されずに、意識的にそうしているかどうかは分からないが、性欲をコントロールしている。比呂美のほうが痺れを切らせて金沢へ飛び出してしまうという始末だ。案外このふたりは『名コンビ』なのかもしれないと理恵子はふっと思った。『――ところで。あした、帰ってくるんでしょ?』「うん」『――ちゃんと、比呂美に楽しい思い出を作ってあげるのよ。これは、おとうさんとおかあさんからのお願い。比呂美にはお店のこと手伝わせてばかりだったから……』「…………わかってるよ……」と噛み締めるように眞一郎は頷いた。『――それじゃ、おやすみ。比呂美にも、おやすみって伝えてね』「うん……。おやすみ」 理恵子との電話はここで終わった――。携帯電話を静かにちゃぶ台の上に置いてから、眞一郎は、ふーっと息を吐いた。比呂美は、三つ編みの毛先をいじるのを止め、眞一郎に訊ねた。「おばさん……何て?」 どのことから言おうかと眞一郎は迷う。いや、それ以前に、母・理恵子にすべて見透かされていると今の電話から感じたことに頭がいっぱいだった。比呂美のアパートでの『素肌の語らい』について見透かされていると――。でも、そのくらい理恵子が察知していて不思議はないと眞一郎は思うのだが、それを知っていて、理恵子たちが、なぜ比呂美の外泊を許すのだと訳が分からなくなる。眞一郎は俯いたまま比呂美に顔を向けずに、とりあえずこの場のふたりにとって最重要事項をしゃべった。「……比呂美を、泊めてあげなさいって……」 かすれてしまって、やっと押し出されたように出てきた言葉――。あまりにも力を失くした感じだったので、眞一郎の男としてのプライドを深く傷つけてしまったのではないかと比呂美は思った。眞一郎は、セックスのことを遊び半分で考えたことなど一度もないのだ。比呂美にそんな素振りを見せたことなど一度もないのだ。なのに、夜を共にするためにいきなり訪問してくるなんて、眞一郎の理性が許すわけがない。眞一郎とはそういう男の子だったではないか。比呂美の胸はちくちくと痛んだ。「……あ……あの…………怒った?」と、比呂美はおそるおそる眞一郎に声をかけた。「初めから……その……泊まるつもりで来たのか?」 まだ俯いたまま眞一郎は比呂美に訊ねる。真剣に考えた末にそうしたのだという意味をしっかり込めて「うん」と比呂美は返事した。比呂美のその気持ちが伝わったのか、眞一郎は顔を上げ、語気を強めて「おまえ……いいのかよ……」と比呂美に念を押した。「うん。いいよ」と比呂美は迷いなく返した。眞一郎は、ぷいっと横を向き「どうなっても、知らないぞ」と吐き捨てた。「うん」――どうなってもいいよ、あなたとなら。比呂美の気持ちは揺らがない。 比呂美のその返事を聞いて、しようがないやつ、と眞一郎は口元を緩め、体にまとわりついていた緊張感を流れ落とすように大きく鼻から息を吐いた。比呂美もそれを見て少し安心したが、ただ、眞一郎がセックスのことについて、どうなっても知らないぞ、などと無責任なことを言うなんて珍しいなと思っていた。珍しいなんてものじゃない。眞一郎はそんなこと一度も言ったことがないのだ。母・理恵子にからかわれ、比呂美には『ふたりきりの夜』を予告なしにセッティングされてしまう。そのことで眞一郎が強がって出てきた言葉なのだと比呂美はそう納得したが、眞一郎はその言葉を文字通りの意味で発していたのだ。ほんとうに、どうなっても、知らないぞ、という意味で――。ほんとうに、そういう意味だったのか、と比呂美が気づくのはもう少しあとになってからだった。「それにしても、おふくろ……。その……おれたちのこと応援しすぎというか、なんていうか……ふつう、許したり……」「あの、そのことなんだけど……」と、比呂美は眞一郎が話している途中で割り込んだ。昨日、仲上家であったこと、理恵子と話したこと、そして、ずっと理恵子に対して感じてきたことを眞一郎に早く伝えたかったからだ。「なに?」まだ何かあるのかよ、と眞一郎は顔をしかめて比呂美の言葉を待った。 眞一郎がまた深刻そうな顔をしたので、そんなに難しい顔しないでという意味を込めて、比呂美は「うんとね……」と朋与のバカ話でもするみたいに話を切りだそうとした。そのとき、眞一郎の注意が急に別のことへ移る。眞一郎は、左右を向いたり、天上を見たりして鼻をくんくんさせた。「あれ? なんか……いい匂いしないか?」と言いながら匂いの正体が何か考える。香ばしくて、バーベキューを思い起こさせる匂い……。すぐに「これって、ニンニク?」という結論にたどり着く。「あっ、そうだ。忘れてた」 比呂美は立ち上がり、和室からバスケット持ってきてちゃぶ台の脇に置き、そのふたを開けた。ニンニクの匂いがさらに強まったが、バスケットの中身がビニール袋に包まれていたので一気に広がるという感じではなかった。比呂美は、ビニール袋の縛った口を解いて、その中身を眞一郎に見せた。「サンドイッチ、作ってきたの」「ふ~ん」といいながら眞一郎はバスケットの中を覗き込んだが、ニンニクの匂いがダイレクトに伝わってきてのですぐにのけぞり、嬉しいやら悩ましいやら「うわはっ」と奇声を上げた。そして、またバスケットに顔を近づけ、こんどはその匂いを楽しんだ。「ん~いいにおい。でも、すんごぉい(すごい)におい」と、眞一郎は鼻をつまむ。「ニンニク風味カツサンド、ひろみスペシャル2008秋バーション。夏バテ気味のあなたっ、おひとつどうぞっ」 比呂美が店頭販売の売り子みたいにおかしなことを言うもんだから、眞一郎は「な~んだよ、それッ」といって、ふきだした。やっと笑ってくれた、と比呂美は内心ほっとし、ここでいったん眞一郎の気持ちを和らげてから昨日のことを話したほうがいいかな、と思う。「たべてみる?」「うん。たべるたべる」と、眞一郎は犬のように首を縦に振る。その仕草にくすっと笑いながら、比呂美はバスケットから取り出した紙製のお皿をちゃぶ台に置き、そのうえにスペシャル・カツサンドをひとつのせた。それから、また立ち上がり、和室に置いてあるスポーツバッグの中をあさった。銀色の円筒形の水筒を取り出す。眞一郎は、カツサンドにかぶりつこうとしたが、比呂美が戻ってくるのを待った。「コーヒー。いれてきたの」比呂美は、紙コップもバスケットから取り出し、それにコーヒーを注いだ。「いつもの香りだ……」 比呂美の部屋でしか味わえないこの味、この香りが、いま目の前に広がって、感無量という感じに眞一郎は目を閉じ、それらすべてを独り占めにするかのように大きく息を吸った。いま眞一郎のまぶたの裏には、白とピンクに彩られた比呂美の部屋が映し出されている。瞳を開けば、比呂美もいる。目を開けようか、まだ閉じたままでいようか少し悩んでしまう。でも、やはり、目を開けよう。比呂美を見ていたい――。そう思って眞一郎が目を開けると、思いがけない『感触』が待っていた。目を開けたとき、比呂美の顔がすぐ目の前にあって、比呂美の目はすでに閉じられていた。そう、目を閉じていても眞一郎の唇を捕らえることができるという距離にまで比呂美の顔は近づいていたのだ。刹那を経ずして、眞一郎は柔らかな感触と鼻孔から漏れる息遣いを知る。 うまくできた。とびっきり優しくキスできた――という達成感を比呂美はようやく味わえた。こんな触れ合うだけのキスでも、こんなにも胸が熱くなる。ずっとこのまま触れ合ったままでいたいけれど、長くこのままでいると逆に苦しくなってトキメキがマイナスに転じてしまう。引き際を見極めるのもキスでは肝心なこと。眞一郎と比呂美のキスは、ほんの5秒くらいだった。さて、このキスが感動的なものだったかどうかは、お互いの顔が離れたあとの眞一郎の表情を見れば分かる。視線をすぐに逸らし比呂美をまともに見ることができない眞一郎は、少しすねたような顔をした。当然、顔を赤らめながら。「おまえ……」ととがめるように言いながらも、その次の言葉が紡ぎだせないでいる。眞一郎もたまらなく胸が苦しくなっている証拠だ――たったキスひとつで。 そんな眞一郎の様子に、比呂美は眞一郎の胸に飛び込みたくなる衝動に駆られた。しかし……。しかし今は、それを必死に堪えた。今、眞一郎に飛びつけば、眞一郎は反発してしまう。そんな気がする。(あせってはダメ。とびっきりの『夜』にするんだから) 比呂美は胸の内でそう繰返しながら、「さ、サンドイッチ、たべてみて」と明るく促した。 キスの不意打ちをくらった直後なので、紙皿の上のサンドイッチに伸びる眞一郎の手は、何かに怯えるみたいにおぼつかない。何か罠が仕掛けられていそうな気がするのだ。サンドイッチをつかむ直前、最終確認とばかりに眞一郎はいったん比呂美に目をやる。比呂美はわざと、なにかあるぞ、といわんばかりに無言で笑っている。逆にそれが眞一郎を安心させた。比呂美がほんとうに悪戯するときは、その気配を微塵も感じさせないからだ。眞一郎は小学生のころからそのことをよ~く知っている。だから、このサンドイッチには何も仕掛けがないのだ。断言できる。 それにしても、この『ニンニク風味カツサンド・ひろみスペシャル(以下略)』は、見るかにおいしそうだ。匂いもさることながら、見てるだけで食べた気分になってしまうほどの製作者のこだわりと熱き魂を感じさせてくれる。比呂美が眞一郎にとって『特別な存在』だということを差し引いたとしてもだ。――まず、カツなどの具材をはさんだパン。ほぼ正方形の食パンを三分の一切り落として長方形にし、表面をキツネ色に焼いている。この焼き加減は、表面はサクサクで、裏側はフワフワといったところだろう。その食パンを二枚重ねて、その間に具材をはさんでいる。そして、具材――。みずみずしいレタスとをカツが食パンの端からはみ出している。ボリュームたっぷりな具材が、二枚の食パンの距離を見事に押し広げ、このサンドイッチは、サンドイッチというよりも、欧米人が食べるハンバーカーを思い起こさせる。中身はどんなになっているんだろう? と単純に興味をもった眞一郎は、上側の食パンをぺらっとめくってみる。途端にニンニクの香ばしさと、ソースの甘酸っぱさと、カツの肉汁が散弾銃のように眞一郎の全身を襲ってきた。眞一郎は一気に恍惚に捕らわれた。 眞一郎がこの『ニンニク風味カツサンド・ひろみスペシャル』の迫力に圧倒され、なかなか口に運ぼうとしないので、「ね~。はやくたべてよ」と比呂美は内心嬉しさを感じつつもすねてみせた。その一言で、眞一郎は現実に着地させられ、「あ、うん」と曖昧に返事をしながら、カツサンドにかぶりついた。いきなり、三種類の食感に眞一郎は感動した。パンの表面のカリカリ、カツのころものサクサク、そしてレタスのシャキシャキ。それらを口の中でもぐもぐしていると、次第にカツの肉汁とマヨネーズと特性ソースの味が口の中いっぱいに広がっていく。それから、ブラック・ペッパの辛味。それらが渾然一体っとなって、脳天を突き抜けていくような感覚を覚えた。グルメを題材にしたアニメーションで、試食後のど派手な演出がお約束のようにあるが、あれはあながち度過ぎた誇張ではないなと、脳みその冷静な部分で眞一郎は思った。ほんとうに、おいしかった、比呂美のこの、え~と、『ニンニク風味カツサンド・ひろみスペシャル(以下略)』が……。ベテラン主婦(といってもまだまだ現役と言い張る)・理恵子でも、眞一郎にこれほどのものを食べさせたことはなかった。 最初にかぶりついた一口を完全に飲みこんだあと眞一郎は、感激を言葉に乗せて力強く「うまい」と比呂美にいった。「涙が出るほどおいしかった?」と比呂美は笑い返した。「え?」 涙が出るほどって……、比呂美は何を言ってるんだろう、と眞一郎は思ったが、自分の目を意識的にまばたきすると、知らぬ間に目じりに涙が溜まっていて両目がすこしヒリヒリした。慌てて涙をぬぐって、眞一郎は照れ隠しに豪快にカツサンドにかぶりついた。「ニンニク、きかせすぎなんだよっ」とケチをつける。「だって、眞一郎くん。電話でさ、なんか、だいぶ疲れてるかんじだったんだもん。せ……」 精力つけなきゃ、と言おうとして比呂美は慌てて口をつぐんだ。これって、まるで……。このカツサンドが、『夜における相互理解(つまりセックス)』のために妻が夫に精力材を与えているみたいではないかと思ったからだ。なんか言わなきゃ、と比呂美は目を泳がせたけれども、そんなことを気にも留めずに眞一郎はカツサンドに夢中。ほっとするやら、気づいてほしいやら、比呂美は複雑な気持ちになる。 それにしても、眞一郎があまりにもおいしそうに食べるもんだから、比呂美もなんだか食べずにはいられなくなって、カツサンドをバスケットから取り出した。そして、「わたしもだべよっと」といってかぶりついた。 自分で作ったものとはいえ、眞一郎が涙をちょちょぎらすのも無理ないなとカツサンドの出来栄えに自惚れながらも比呂美は、自分が相当に空腹だったことにようやくはっきりと自覚した。昨日から、いや、もっと前から比呂美はずっと緊張状態にあった――空腹を忘れるほどの。眞一郎に会いに行くことを許してもらえるだろうか、許してもらうためには、どう話を切り出せばいいだろうか、そのことばかり考えていたのだ。そして昨日、いよいよ理恵子と対峙したときに緊張状態はピークを迎えたが、その修羅場を乗り切っても比呂美の緊張状態は半分くらい残したままずるずると続いた。それは、ヒロシと理恵子に眞一郎との外泊を許してもらって興奮していたのも当然あったが、今日の日を眞一郎との『特別な日』にしなければいけないという、気負いというか、プレッシャーというか、そういうものが比呂美を知らず知らずに追い込んでいた。必ず、絶対に、何が何でも、この日を、この夜を、いい思い出にしなければならないという……。でも、そんな比呂美の気持ちなど露知らず、のん気にカツサンドをぱくつく眞一郎に比呂美は拍子抜けしてしまった。この鈍感! と肘鉄を食らわしたくなる感情を一気に通り越してしまうほどだったが、このあと比呂美は、眞一郎のことを甘くみていたなと反省させられる。 ひとつ目のカツサンドを食べ終えてコーヒーを一口すすったあと、眞一郎はバスケットの中を覗き込んでカツサンドの数を数えた。残り8個ある。「これ、いっぱいあるから、あしたの朝食にしよう」「ん」と、比呂美は口をもごもごさせながら頷いた。「それでっと……」といいながら比呂美の様子を見た眞一郎は、もう一度コーヒーをすすってから、「おまえ、さっき何かいいかけたよな」とつづけた。(えっ!) 思いがけないことを聞かされたときのように比呂美は反射的に顔を眞一郎に向け、口を動かすのを止めた。自然と目がまん丸になって驚いた顔になってしまった。あとになって思えばそれほど驚くことではないのだが、眞一郎がずっと話を切り出すタイミングを計っていたことが意外だった。カツサンドをあんなに感激して食べていたから、比呂美が何か言いたそうにしていたことなど忘れていても不思議はない。また自分から話を切りださないといけないかな、と比呂美は思っていたが、眞一郎から切りだしてくれたことにすこし胸が熱くなった。でも、比呂美が口の中のものを急いで飲みこんで「あのね」と喋りだそうとした途端、眞一郎に笑われてしまった。「比呂美、ここ」といって、眞一郎は自分の口の端を指差して、何か口のまわりについていることを比呂美に教えた。眞一郎が指示した口の右端を舌を出してぺろっとなめてみると、特製ソースだった。こんな肝心なときに、ヘマするなんてっ。比呂美は慌ててちゃぶ台の上のティッシュペーパーを一枚引き抜いて口元をぬぐい、眞一郎のコーヒーを一口飲んだ。眞一郎は特に動じず微笑んでいる。なに緊張しているんだろう、と比呂美は自分のことが可笑しくなる。ふと、液晶テレビに目をやると、トレーニング・ウェアを身にまとった主人公が両手を天に突き上げ、雄叫びをあげているようだった。そうだ、主人公がボクシングの試合をする直前のシーンだ。その映像を見ていると、だんだんに緊張がほぐれていき、闘志が湧いてきそうだった。比呂美は、ひとつ、ゆっくりと、深呼吸をしてから話しはじめた。ちょっと遠回りしたけれど、今、自分が抱えている気持ちを伝えるべき時だと信じるように、眞一郎との関係がもっと深まることを信じるように……。「何から話せばいいのかな……」と不安げに比呂美は切りだしてみた。「おれ、ちゃんと、聞くから。安心しろ」「……うん」(いつからそんなに男らしくなったのよ) 比呂美はあまり顔に出さずに苦笑いしてつづけた。「えっとね、とりあえず、順番に話すね」「うん」と頷くと同時に眞一郎は、さっき比呂美が口をつけたコーヒーを静かにすすった。 ◇ 比呂美が眞一郎との体の関係を認めた瞬間、理恵子はあからさまに肩を落とした。天井で吊ってあった糸がぷっつんと切れたような感じだったが、理恵子は落胆しているということではなかった。ただ、比呂美には落胆しているように映ったようだった。なにしろ、理恵子のこんな様子を今まで見たことがないのだから。理恵子のことだから、ふんと鼻でも鳴らして気丈に振舞うだろうと予想していたのだ。それがまるで正反対だったので、比呂美は肩を落とすという様子を目にしただけでうろたえてしまい、理恵子の細かな心情をすぐには探れなかった。 嘘――を、つくべきだったのだろうか、眞一郎とは『まだ、交わってない』と。そうすれば、理恵子との関係は今まで通りでいられるかもしれない。比呂美の頭の中にそのことがよぎった。でもすぐに、嘘をついて誰のためになる? 嘘をつくことで誰かを傷つけない? と、その弱気で事態を先延ばしにするような発想に集中砲火を浴びせて片っ端から撃墜していった。 今、ここで、嘘など必要ない。でも……たしかに、学生の分際で、さらに仲上家にお世話になっている分際で、眞一郎と体を重ねてしまったことに正直なところ後ろめたさは、ある。理恵子が肩を落とすのを見て動揺してしまうのが、その証拠だ。しかし、単なる性への好奇心、性欲を貪るためではなく、お互いの『気持ち』を確かめ合うために『直に』肌と肌を触れ合う必要があったほど、その時の眞一郎と比呂美には切羽詰ったものがあった。そして、その原因の一端は理恵子にもあったのだ。 でも、だからといって、比呂美は当てつけに眞一郎を求めたわけでは決してない。理恵子のついた嘘などとっくの昔にどうでもよくなっていた。というよりも、その嘘を信じてしまったこと、母親を信じきれなかったことのほうが深く心に刺さったのだった。その心を癒すためには、とにかく、言葉以上の『何か』が必要だった。服を着たまま抱きしめ合うだけでは足りなかった。唇を重ねてもまだ足りなかった――眞一郎と比呂美のふたりの、いまにも心臓が飛び出さんばかりに高鳴る胸を落ち着かせるには――。そうしなければ、とても不安でたまらなかった。そうしなければ、とても生きた心地がしなかったのだ。だから、比呂美は後悔などしていない。はじめから後悔などない。経緯はどうであれ、愛する人と結ばれたのだから……。 比呂美が顔上げて理恵子を見ると、そこにはとても懐かしいものがあった。比呂美にとって懐かしく感じるもの。駄々っ子に手をこまねいて困っているのだけれど、いとおしくてたまらなくて微笑むような表情……。しようがない子ね、と聞こえてきそうな口元……。理恵子はそんな顔をしていた。 いつから理恵子はこんな表情をしていたのだろうか? 比呂美はそのこと考えてみたが、やはり、自分が首を縦に振った直後だということにしか思いあたらない。だったら、さっきの理恵子の落胆ぶりは何だったのだろう、と比呂美は疑問に思った。だが、すぐに比呂美は気がつく。あれは、落胆ではなく、単なる緊張の糸が切れた瞬間なのだと。そうだ、壮絶なシーソーゲームを繰り広げてバスケの試合に勝ったあとの高岡キャプテンや朋与の様子に似ている。勝利に歓喜したいけれど、それよりも極度の緊張状態から開放されて腑抜けになって、声は出ない、真っ直ぐに立っているのがやっとという状態。落胆に見えたのは、以前、理恵子が堂々と宣言してくれた言葉を裏切ってしまったと、心の隅で思いつづけてきたせいかもしれない。「比呂美は、わたしたちの子供です。わたしが責任をもって育てます――」 全身を駆け巡り、下腹に響いた理恵子の言葉。その言葉を理恵子の真横で聞いていたというのに眞一郎と体を重ねた。それなのに、理恵子は微笑んでいる。わがままをいって困らせたときに母がよくした顔を思い出してしまうような表情で……微笑んでいる。 逆に、ここで一発、頬でもぶたれたほうが気持ちが楽だと比呂美は思った。そんな優しい顔をされたら、ほんとうに『いけないこと』をしたみたいではないかと思えてくる。(あっ、そうか。わたし、『いけないこと』したんだ。だから、おばさんはこんなに優しい顔をしているんだ) ようやく論理の転換ができるほどに比呂美の心に余裕が生まれた。そうなると、当然のように、これ以上この人に心配をかけてはいけないという気持ちが襲ってくる。そう思うなら『行為』の前に思いとどまれ、とつっこまれそうだが、それでも『一線』は守っていることをこの人には伝えなくてはいけない。いい子ぶりたいからではない。眞一郎の母・理恵子にほんとうに意味で受け入れてもらうためには、まず、自分からありのままの自分をさらけ出さなければならない気がしたのだった。 でも、この時――比呂美は的確に言葉を選べるほど冷静ではなかった。背中や掌は冷汗でびっしょり。理恵子の目を1秒すら見れない。そんな中で、『眞一郎も自分の体を求めた』という事実だけが、比呂美にとって唯一の勇気の源だった。だから次の言葉は、理恵子を気遣ってというよりも、自分を認めてもらうためには言わなければならない、という強迫観念から無意識のうちに口から出たというものに近かった。「ちゃんと、避妊してます……」 その言霊(ことだま)によって、ふたりを包む空気が5℃くらい下がった気がした。少なくとも比呂美はそう感じた。それは、理恵子の表情が見るからに険しく豹変したからということではなく、比呂美の中の物事の基準値が、一気にシフト(横ずれ)したためだった。平たく言えば、自分寄りに物事を考えていたことを一気に常識の方向に戻させられたということだった。でも、やはり、その言葉で理恵子の顔がいくらか強張ったのは確かだ。比呂美にもそれが分かった。 比呂美の胸の内がどうであれ、付き合っている男の子の母親に面と向かって、『彼とはセックスしました。でも避妊はしています。だから問題ないでしょ?』と言っている状況と大して変わらないのだから、生意気この上ない。でも、ストレートに『避妊してます』と思わず口から出てしまった直後、比呂美は自分の『ふしだらな娘ぶり』が目に浮かぶ。そして、もっとやわらかく、もう少し遠まわしな表現ができなかったものかと悔やんだが、それもあとのまつり、理恵子もストレートに、容赦なく、真剣に言葉を返してきた。「わたしを、甘くみないでほしいわ」「え?」と比呂美が顔をあげきるより先に理恵子の次の言葉は来る。「眞一郎とあなたが『そういう関係』だと知って、わたしがそのくらいのことで『おたおたする』とでも思ったの?」「…………」比呂美は、生唾をなんとか飲み込んだ。その音ははっきりと頭蓋骨に響いた。「あなたが妊娠したって、わたしがなんとかしてみせるわよ。よその子供を預かるということは、特に女の子を預かるということは、そのくらい覚悟してなきゃいけないことなの。もちろん、わたしも主人も覚悟しているわよ。 はっきり言うけど……、あなたの母親はこの世ではわたしだけなの。そして、あなたはその娘。血のつながりなんか関係ないわ。そうなっちゃったんだから……」 わたしがなんとかしてみせる――。 覚悟しているわよ――。 血のつながりなんか関係ないわ――。 理恵子が強調した部分。その強い空気の振動が比呂美の肌を貫き体内へしみ込んでいく。そして、比呂美の心を優しく包もうとする。そう思えるほどの理恵子の言葉だった。 比呂美は、ようやく理恵子の顔を、目を、長い時間見ることができた。でも、理恵子のこの言葉が自分にとって嬉しいことなのか、悲しいことなのか、あるいは残酷なことなのかよく分からなかった。だぶん、嬉しむべきことなのだろうけど、理恵子にはっきり言われたことで、心の奥でまだ理恵子に対して壁を作っていたことに気づかされ、そのことに比呂美は愕然とした。そして比呂美は――理恵子は、『あの嘘』の罪滅ぼしのために眞一郎との仲を応援してきたわけでは、決してない――と確信した。確信させられた。理恵子にそういう気持ちがまったく無かったといったら嘘になるだろうが、理恵子は理恵子なりに努力していたのだ。眞一郎と同じように比呂美を愛するために……。 理恵子には、眞一郎との仲を応援することで、比呂美の気持ちに接するしか方法がなかったのだ。いつも真面目で肩肘を張っている比呂美にはそうして近づくしかなったのだ。もちろん、眞一郎と恋仲になったことは素直に嬉しく思っている。気苦労が増えたとしても、実の息子の眞一郎が情けなく思えるほど、比呂美は『いい娘』に違いないのだから。 比呂美は、豆粒を落っことすみたいにぽろりと「ごめんなさい」とつぶやいた。何に謝っているのか、もう訳がわからなくなっていたが、とにかく自然とその言葉が口からこぼれた。「ばかねぇ。なに、あやまっているのよ」と理恵子は比呂美の頭を軽くぽんと叩いて苦笑した。でもすぐに表情を引き締めた。「でもね。比呂美。あなたが眞一郎のところに行くにしても、まだ一つ問題があるわ。わたしは妻なの。主人を説得しなくちゃいけないの」 そう、そこが問題なのだ。だから、理恵子としっかり手を組まなければならなかったのだ。 垂直だった秒針が右に倒れるくらいの沈黙のあと、「……やっぱり、許してもらえないですよね……」と比呂美は肩をすぼめた。「とにかく、話してみるわ。わたしに任せてちょうだい。なんとかするから」 理恵子は、女スパイみたいにカッコよくニヤッと笑った。理恵子が妙に楽しそうで比呂美は思わずふきだしてしまった。 ◇ 「それで、夕飯のときにおばさんがおじさんに切りだしてくれたの、外泊のこと」 眞一郎は、あんぐりと口を開けたままだった。驚きと羞恥の連続だった。液晶テレビでは、主人公がリングの上で対戦相手にサンドバッグのように打たれている。音量はゼロにしたままだ。 ◇ 「比呂美。あなた、どこか友達と遊びにいく予定はないの?」 理恵子は、湯のみにお茶を注ぎながら、ごく普通な言葉で、ごく普通な喋り方で訊いた。きたっ! と比呂美は心の中で叫けび、胸を躍らせた。理恵子が外泊の話を取りつけてみせると言ってくれたので心強かったが、でもやはり、ヒロシの前では理恵子のときとは違った別格の緊張感がある。この話がどう転ぶか分からない。この段階では、ヒロシは何も反応を示さず、活字の牙城を崩さない。(つまり、新聞を広げたまま)「……いえ、とくに、なにも」と比呂美は平坦に答えた。そう、そうでれいい、と理恵子は小さく目くばせした。「ごめんなさいね。夏祭りやら盆の行事やら比呂美に手伝ってもらっちゃったから、お友達と都合がつかなかったのね。いいのよ、もう、お店のことは気にしなくても」「はい……」と比呂美は気のない返事をしてみると、活字の牙城がばさっと音を立てて揺れた。ま、さすがに父親としては気になるわよね――と理恵子の口元が、ヒロシに分からないように、そして比呂美には分かるように笑った。「すまなかった……。残りの夏休み、好きなように過ごしなさい。なんなら、家にお友達を連れてきてもいい」 ヒロシは、4月の春の陽射しのように優しくて柔らかな表情でそういった。そんな顔もいつまでつづくやら、と内心つっこみを入れながら、理恵子は「そうよ」と夫の言葉に相槌をうった。 このとき比呂美は、あることを思い出していた――家にお友達を連れてきてもいい、と言ったヒロシの言葉で。女子バスケット部で、三年生の引退セレモニーとキャプテン引継ぎ式を仲上家でやってはどうだろうかという話が持ち上がっていたのだ。いいだしっぺは、悪友かつ宴会部長の朋与。前回は高岡キャプテンの家でやったのだから、今回は次期キャプテン・比呂美の実家である仲上家でしょう、なにしろお家が広いし、などともっともらしいことを言っていたが、本音は眞一郎と比呂美が私生活で顔を合わせている場所に押しかけたいだけということに決まっている。その魂胆はみえみえだった。比呂美としては、眞一郎や理恵子に面倒をかけることになるので嫌だったが、現実的にみても仲上家でやる以外ないな、と腹をくくっていた。でも、まだヒロシと理恵子に切りだせずにいた――というよりころっと忘れていた、金沢小旅行のことで頭がいっぱいで。この女バスの話を切りだすにはちょうどいい機会だったが、理恵子の戦略に乗っている以上、今は余計な話をしないほうがいいなと比呂美は思い、ヒロシの気遣いに対してお礼を言うだけに留めた。「はい……、ありがとうございます」 俯きかげんの比呂美を見て、理恵子は今が攻勢に転じる時だと判断する。「あなた……。好きなようにしなさい、なんて言うと逆に比呂美が恐縮するじゃない。じゃあ、好きなようにさせてもらいますって比呂美が言えるとでも思っているの?」 理恵子は拗ねたようにそう言ってふふっと笑った。じゃあ、どう言えばいいんだよ、とヒロシは少し顔をしかめてから苦笑いしたが、そんな夫の様子を受け流して理恵子はいきなり核心に触れた。「比呂美も、金沢に行ってきたらどう?」と何の前振りもなくさらりと言ったのだ。 これにはさすがに比呂美も驚いて、顔を上げて理恵子の顔を見ずにはいられなかった。そんな比呂美の目に不安な色がかすかににじみ出ていたのだろう、理恵子は、大丈夫よ、と目で返して言葉をつづけた。「ほんとうに比呂美にはいっぱい助けてもらったから、感謝しているのよ。でもね……、若いうちに見聞を広めておいたほうがいいと思うの。社会人になると自由な時間が極端に減るし、女は結婚して子供ができるともうがんじがらめよ。わたしたちは早くに結婚したからつくづくそう思うの」 ヒロシは、なんだか申し訳なそうにこめかみを掻いた。「そのかわり、子育てから早く開放されたけどね」理恵子はそう付け加えて、ふふっと笑った。それに若いころを思い出しているような含みを比呂美は感じて、もしかしたら自分の母親のことも思い出しているかもしれないと思った。仲上夫妻と湯浅夫妻は、同じ年に結婚して、同じ年に子供を授かったのだから。「それにしても、眞ちゃんだけ、さっさと金沢に行って好きなことやってずるいわよね~。比呂美だけ夏休みの思い出がないなんて……」といって理恵子はヒロシを見た。「いえ、そんなことありません。インターハイ予選もあったし、盆の祭りの手伝いも楽しかったです」と比呂美はフォローしたが、理恵子の言葉がさらにヒロシへ襲いかかる。「……ごめんなさいね。うちがこういう商売してなかったら、どこか連れて行ってあげられたのにね……」 そうだな、と納得したようにヒロシは「うーん」と喉の奥のほうで唸った。ヒロシにはこの理恵子の言葉がけっこう効いたようだ。 もうひと押しね、と理恵子は比呂美に目で送ったが、理恵子の言葉が言い過ぎのように思えた比呂美はちょっとヒロシに同情した。旅行に連れて行ってもらえなくても、他のあらゆることでヒロシに満たされているのだから。比呂美は、今まで仲上家に対してひとつも不満を感じたことはなかった。「あした、金沢に行って、一泊してきたらどう? 眞一郎は確か……あさって、帰る予定でしょ?」「はい」「眞一郎と一緒に、金沢見物してきたらいいじゃない。よその地の空気を吸うことは想像以上に大事なことよ。比呂美にはもっともっと視野を広げていってほしいわ。ねぇ、あなた、どうかしら?」 理恵子は直球勝負が好きなようだ。いまのところ回りくどいことは言ってない。「……そうだな……。ただ、夏休みだし、知り合いがやっている民宿が空いているかどうか……あしたのことを無理言って頼めるかな~ ……」 ヒロシはもごもごと言ったが、一応、比呂美の金沢行きに関しては異論はないようだ。やはり、問題は『宿』だ。比呂美の掌は自然と汗ばんだ。そんな比呂美の緊張感を嘲笑するかのように、あっけらかんと理恵子はこう言った。「眞ちゃんのところに泊まればいいじゃない」 このインコース胸元の直球のような理恵子の言葉に、ヒロシはのけぞって「なッ!」と奇声を上げた。ここからヒロシと理恵子の睨めっこがはじまった。 比呂美は目の前の光景に息を呑んだ――。現実から隔絶された空間のようだった。ほんのちょっとでもそこに近づこうものなら、見えない力で弾き飛ばされそうなプレッシャーを比呂美は全身で感じた。理恵子の視線は、ヒロシの目を捉えて離さない。ヒロシもまた同じだ。ふたりとも超能力で相手の頭の中を探り合っているみたいにじっとしている。この場面を漫画で描くなら間違いなく、精神世界で壮絶なバトルを繰り広げているようなコマになるだろう。効果線がばりばりに描きこまれたような。 これはダメだ。とてもヒロシは外泊を許してくれそうにない。諦め気味に比呂美はそう思うと、ふっと緊張感がほぐれ、ヒロシの顔を見ることができた。強張った表情をしているに違いないと思って見たヒロシの顔は、意外にも穏やかだった。明らかに優しさの色があった。どちらかというと理恵子の表情のほうが硬い。(これが、夫婦というものなんだ) 無言で会話をするヒロシと理恵子を見て比呂美はそう思った。誰もこのふたりの視線の絡み合いを解くことはできないだろう。それほど強固な見つめ合いができるなんて羨ましいな、と比呂美は思った。ヒロシと理恵子の間には数多(あまた)の愛情の重なりがある。それによって為せる業なのだろう。それに比べて眞一郎との恋愛関係は、なんてちっぽけなものなんだろう。眞一郎と一週間会えなくなるというだけで心がざわついてしまう。理恵子が眞一郎との仲を妙に後を押ししてくれることに疑念を抱いてしまう。そんなことどうでもいんだ。そんなことよりも、眞一郎のことをちゃんと見ていなくちゃいけないんだ。眞一郎が何を思い、何を考えているのかを、感じなきゃいけないんだ。 ヒロシと理恵子の無言のやり取りは、10秒くらいのことだったが、比呂美には10分くらいに長く感じられた。どんなやり取りがされているのか比呂美にはさっぱり分からない。表情がまったく変わらないのだから想像しようもなかった。そんなとき、比呂美を安心させるかのように理恵子が口を開いた。「眞一郎のそばにいたほうが、比呂美は安全だと思うの。いくら知り合いの宿といっても比呂美をひとりにはできないわ。わたしが安心して夜眠れないもの。もう、バイク事故みたいなことは二度とごめんなのよ」「う~ん」とヒロシは唸るだけ。「それに、眞一郎は案外しっかりしていると思うの。あのとき、眞一郎が追いかけていなかったらどうなっていたか……」理恵子はここでいったん声を詰まらせ、鼻水をすすり上げるような音を軽く立てた。(えっ!? おばさん、泣いてる?)と思って比呂美は理恵子の顔を凝視した。「眞一郎はいつも比呂美のことを気にかけていたもの……。中学のときなんか、比呂美のことでしょっちゅう喧嘩してきて……比呂美を守ってきた……わたしたちよりもずっと……」 理恵子がそう言ったあと、小刻みに震えていた理恵子の表情がようやくほぐれた。それにつられるようにしてヒロシの顔もほころんだ。(えっ!? これって、もしかしてOKってこと?) まだよ、まだよ、喜んじゃいけない、と比呂美は気持ちを引き締めた。やがて、ヒロシの視線が比呂美に向けられる。そして、「いってきなさい」と言ってヒロシは微笑んだ。(うそぉー!) 心の中でそう叫びながら、どういう顔をしたらいいのか分からず、比呂美は反射的に顔を伏せてしまった。でも、これで正解だったとすぐに気づく。ここであからさまに喜ぶと理恵子と結託していたことがバレてしまう。話の流れ上、理恵子が気を利かせて金沢行きを提案したことになっているのだから。「あ、あの、ほんとうにいいんでしょうか?」 比呂美はいまさらながらおそるおそるヒロシに訊いた。ヒロシは、小さく縦に首を振って頷いたが、そのあとすぐに理恵子が横槍を入れた。「眞ちゃんが変なことしたら、思いっきり引っぱたくのよ。体力ではあなたのほうが上なんだから大丈夫よね」 なにも今そんなことを言わなくていいではないか、ヒロシの気が変わってしまう、と比呂美は焦ったが、ヒロシはとくに動じず、「そんなことあるかっ」と吐き捨てるように言った。本音ではやはり心配しているのだが、比呂美の前では息子を疑うところを見せられないといったところか。でも、そのあとヒロシは、ふふふっと笑った。まんまと作戦に引っかかってしまった、という様な含みがあった。ヒロシも、何もかもお見通しなんだ、と比呂美は思った。眞一郎と体を重ねていることも、外泊のことを理恵子に頼んだことも……。知っておきながら、なぜとがめる様なことを言わないのだろう。眞一郎が自分との交際のことを打ち明けたときは、激昂して無言で眞一郎を殴りつけたというのに……。比呂美は、眞一郎との外泊を許してもらって両手を上げて喜びたい気持ちだったが、どうしても割り切れない気持ちが残った。
その次の日、夕方前に比呂美は仲上家の台所を使わせてもらい、例の特製カツサンドを作った。アパートで作るつもりだったが、ニンニクの匂いが十日は消えないわよ、と理恵子が仲上家の台所を使うように勧めてくれた。カツサンドを作っている途中、ニンニクの匂いに何事かと台所をのぞいたヒロシは、わはっと声を上げて去っていった。 比呂美は、仲上家で早めに夕食を取り、いよいよ金沢へ出かけようと勝手口に向かっていたところに理恵子が駆け寄ってきた。そして、「これ」といって茶封筒を差し出した。比呂美は何気にその茶封筒をつかんだが、わずかに茶封筒が透けていたのとその感触とで中には一万円札が数枚入っているのがすぐに判った。「受け取れませんっ」比呂美は、首を左右に振って慌ててつき返した。「早とちりしないで。お土産、買ってきてちょうだい」と、理恵子は比呂美の手首をつかんで茶封筒をもう一度握らせた。「えっ、あ……そ、そういうことでしたら……」 比呂美は、少しほっとして茶封筒を握りなおした。比呂美が茶封筒を受け取ったのを確認してから理恵子は、どういった品物をいくつ買ってくるかというメモが中に入っていることを教えた。「眞ちゃんの様子、見てきてね。あの子ったら、一回電話よこしたっきりかけてこないんだもの。比呂美にもそうなの?」「いえ、毎日話してます」 一応、眞一郎の名誉のため、自分から毎回電話をかけていることを比呂美は伏せておいた。「はいはい、ごちそうさま」と理恵子は呆れたように笑った。おおかたそんなことだろうと理恵子は分かっているようだった。「それじゃ、いってきます」「気をつけていってらっしゃい。余ったお金は自由に使っていいからね」 ここでまた遠慮すると理恵子に叱られそうだったので、比呂美は素直に「はい」と返事した。 仲上家を出た比呂美は、バス停に向かった。見慣れた景色や毎日のように歩く道など、どれもが初めて訪れた場所のように感じられる。前へ進むために繰り出される一歩一歩が、嬉しくて、なんだか恥ずかしい。恋人に会うため、という目的を持っただけで何もかも塗り替えられてしまう。外泊がどうこうよりも、ヒロシと理恵子は自分にこういう体験させたかったのではないかと比呂美は思わずにいられなかった。 夕陽はすでに落ちている。その夕陽を追いかけるようにして眞一郎のいる金沢行きの電車に比呂美は乗った。 ◇ 「――というわけなの」と締めくくってから、比呂美は空になった紙コップにコーヒーをそそいだ。液晶テレビの画面には、エンディング・テロップが流れている。ひとつの物語が終わり、そしてまた新しい何かが始まろうとしているかのように。 眞一郎は、しばらくの間、黙って考え込んでいた。紙コップを握ったまま……。 比呂美が外泊を許してもらった経緯を話しているときの眞一郎の顔は、まるでサーカスショウのようにめまぐるしく変化した。焦ったり、恥ずかしがったり、いらついたり、驚いたり、納得したり……。でも段々に落ち着きを取り戻していった。いや、そうではない。正確には、比呂美が話す出来事ひとつひとつに反応することに疲れていったのだ。それで、挙句の果てに眞一郎は黙り込んでしまったのだ。眞一郎がそうなるのも無理もないなと思いつつも、比呂美は話をつづけた。 比呂美の話が終わると、当然のようにやってきた沈黙――。液晶テレビの画面には、さっきの映画とは明らかに違う派手な色使いのコマーシャルが何かに追い立てられているように次々と移り変っていく。視界の左端からその様子が飛び込んできて、眞一郎は否応なしに自分が追い詰められているような気分になる。何か、言わなくては、と……。言葉の選択という脳内格闘の末、ようやく眞一郎の口から出てきた言葉がこれだった。「お、おふくろのこと……、そんなに気にしていたのか……」 その言葉が正確な音となり耳に返ることによってようやく気づくこともある。自分の気持ちを正直に発していないなと感じた眞一郎は、比呂美に対して少し申し訳ない気持ちになり、また口ごもった。これじゃまるで父親の話題を避けようとしているみたいではないか――嘘を見抜かれてしまったときのように眞一郎の胸は苦しくなる。そして、歯痒さに変わっていく。比呂美はひとりで母親と真正面で向き合ったというのに、自分は、父親と未だに向き合えていないと……。 その胸の内の動揺が眞一郎の顔に出てしまったので、比呂美もどう返事していいのかためらったが、比呂美にとっては理恵子のことが一番気になっていたことなので、「うん」と迷いなく返せた。「えっと……、……なんか、さ……」 はぎれの悪い眞一郎を見かねて比呂美は慌てて「ごめんなさい」と謝ってしまった。今まで比呂美の口から何度も聞かされたその言葉を耳にして、「なんで謝るんだよっ?」と眞一郎は少しムキになった。その苛立ちは当然、比呂美にではなく眞一郎自信に向けられている。困ったような態度が比呂美を謝らせてしまったのだと気づいた眞一郎は、下唇を噛んだ。「眞一郎くんに相談しなかったこと……」と比呂美は謝った理由を答えたが、眞一郎には比呂美が謝った理由などどうでもよかった。比呂美にその言葉を言わせてしまったことが問題なのだ。でも、ここでそのことについて悶々としていても仕方がなかった。「……べ、べつに、いいよ。いろいろ驚いたけど、来てくれて嬉しかったし……。ほんとうなら、おれのほうからさ……」 金沢に誘うべきだった――と、眞一郎は言おうとしたが、言えなかった。比呂美がここに来てしまったあとでは、何を言っても格好がつかないと思った。そして、またしても次の言葉がうまく出てこない。眞一郎が液晶テレビに目をやったり、紙コップをもてあそびながら言葉を探していると、比呂美は眞一郎の苛立ちを察して眞一郎の言葉を待たずに話しだした。「あの、わたしね――。ほんとうに、おばさんに宿、取ってもらうつもりだったの。眞一郎くん、疲れが溜まっているだろうし、押しかけないほうがいいかなって……」 ここで一呼吸置いた比呂美は、眞一郎の顔をちらっと見た。比呂美と目が合った眞一郎は、「わかってるって」と返して視線を外した。 わかってる――って、何がわかっているのだろうと比呂美は思った。「でも、こうなること、予想していなかったわけじゃないの……」 比呂美はそういうとうっすらと頬を赤くした。比呂美の体のまわりに妙な空気がまとわりつくのを感じた眞一郎は、はっと気づく。比呂美がなんの考えなしに金沢までやってくるわけがないのだ。比呂美には明確な目的があると。眞一郎の心臓の鼓動が少し速まる。そのことを隠すために眞一郎は、「お、おまえな~」と比呂美の挑発的な発言に対して非難めいて呆れたフリをした。でも、比呂美はそのことに特に気にも留めないようだった。「電車に乗っててね、ふっと思ったの。なんかひどいことしているって」といって比呂美は窓の外に目をやった。「なにがだよ。おれにひどいことしているってこと?」「ううん、そうじゃない。おじさんや、おばさんによ。おばさんに相談しなくても、金沢に来ようと思えば来れたわけだし。それをあえて、おばさんに相談して、なんかさ……脅迫しているみたいだなって」「脅迫? どこが脅迫だよ」眞一郎は心底びっくりしていった。「だって、許してくれなきゃ、勝手に金沢に行きますってとられてもおかしくない。簡単にそうだきるんだから……」 比呂美は眞一郎を見る目に力を入れてそういうと、眞一郎は比呂美の感情の高ぶりを代わりに冷ましてあげるように大きく鼻から息を吐いた。「比呂美……、考えすぎだって」 考えすぎなのだろうか。比呂美はそのことについて考えてみた。そうかもしれない、そうではないかもしれない。うまく考えがまとまらない。ただ、比呂美を含めた仲上家はまだ微妙なバランスの中にあるのは確かなような気がした。それに加え、眞一郎と比呂美は今、難しい年頃なのは間違いないのだ。「わたしたちが想像している以上に、おじさんやおばさんは、わたしに気を遣っている。今回のことで、なんかそう思っちゃった」 比呂美は昨日のことを振りかえってしみじみとそういった。なんでもひとりで背負い込もうとする比呂美の悪い癖が顔をのぞかせたなと思った眞一郎は声を荒げた。「だったら、かあさんはなんでずっと比呂美に冷たくしていたんだよ」 思いもよらず激しい口調で眞一郎が返してきたので、比呂美はびっくりして目を丸くした。それに、眞一郎の心の中ではまだ、以前の理恵子の比呂美に対する冷遇がはっきりとした形で残っていることにも少なからず驚いた。ふつうに考えればそれは当然のことかもしれない。理恵子のとった態度は比呂美の心に傷を作ったのは確かだし、眞一郎も少なからず心を痛めたのだから。でもそのことは、あまり長く引きずっていてはいけないことだと比呂美は感じていた。理恵子も当然そのように思い、お互いにその傷を癒すために努力してきたが、眞一郎だけはそれに少し取り残されてきたようだった。「それは……だぶん……だけど……」比呂美は表情をほころばせて言った。 比呂美の穏やかな表情を見て、眞一郎の心の中に渦巻いていた熱気がすうっと薄らいでいく。洪水の後で水が引いていくときのような感じがする。眞一郎はその流れに自分だけ取り残されたような気持ちになりながら比呂美の言葉を待った。「いろいろ、あったんじゃないの? ……わたしたちみたいに……」 比呂美はちゃぶ台の上に置かれた両手を組んたままの状態で指を伸ばしたり曲げたりした。「いろいろ?」と訊き返してみたものの眞一郎には比呂美の言っていることがまだよく分からなかった。「そのことは、もういいじゃない。ね?」 眞一郎の頭上にうごめく靄(もや)をはらうように比呂美は笑顔を作った。その笑顔は、比呂美に恋してしまったと自覚したときのことを眞一郎に思い起こさせた。それで、眞一郎は急に胸の辺りがむずむずして、「ん~なんだかな~」と口ごもりながら頭を掻いた。まだ完全に靄は晴れていないようだ。比呂美を崖っぷちまで追い込んだことだから、比呂美に「もういいじゃない」といわれても、それをそのまま受け入れるのには抵抗があった。比呂美の笑顔にごまかされてはいけないと心の奥の方がざわついていた。でも、比呂美は今の自分を信じてほしいと思う。「それより、これからのこと、考えよう」 比呂美は、ひとつひとつの言葉を丁寧に、眞一郎の心にしっかり届くようにそういった。それともうひとつ、別の含みを持たせた。眞一郎にはそれがなんとなく分かり、少し照れた。「ん~、ま~そうだな」 いまひとつすっきりしない感じで眞一郎は苦笑いしてそわそわしたが、その態度を一掃するように比呂美はあっけらかんとしていった。「ねぇ、シャワー浴びてもいいかな?」「えっ」と反射的に眞一郎は声を上げて比呂美の顔を見たが、そのときにはもう比呂美は立ち上がっていて、隣の部屋に置いたスポーツ・バッグのもとへすたすたと歩いていった。眞一郎は、比呂美の背中に返事をするかたちになる。「あ、あぁ、うん……」 比呂美はスポーツバッグの前に膝をついてしゃがむと、まず胸元にきていた三つ編みを後ろへはらった。その力加減がまだうまくつかめていないのか、三つ編みは勢いよく背中に回され、二、三度背中をバウンドした。その様子を、そよ風に揺られる細長い葉っぱを観察するような目で眞一郎は見つめていた。比呂美が三つ編みにしたのはいつ以来だろう。高校生になってからは、初めてのはずだ。もっと正確に遡れば、比呂美の両親が亡くなってからは比呂美は三つ編みにしたことはないはずだ。眞一郎の記憶にはっきりと三つ編みの記憶が残っているのは、十一歳のころのことだ。そのとき、小学校からの帰宅途中に比呂美を偶然見かけ、比呂美は眞一郎を見るやいなや顔を伏せて走り出してしまったのだ。もうすでに学校一のスプリンターになっていた比呂美の姿はあっという間に消えてしまった。当時の眞一郎には何がなんだか訳が分からなかった。次の日、比呂美はいつものヘアースタイルに戻していた。眞一郎が比呂美の三つ編みを見たのはその一日だけだった。 比呂美はスポーツバッグから体をすっぽり巻けるくらいの大きなバスタオルを取り出すと脇に置き、次にそれよりも小さいバスタオルを取り出して上に重ねた。それからシャンプーのビンなど、ひと通りのものを出し終えると、大きなバスタオルの両端をつかんでそれらをくるみ、胸の前で抱きかかえて立ち上がった。眞一郎は、慌ててテレビを見ているフリをする。 比呂美はまるでわが家にでもいるみたいに迷いなくすたすたと眞一郎の脇を通り過ぎたが、眞一郎は比呂美の姿が視界から消えたところではっと気づき、比呂美を呼び止めた。無意識に近い行動だったが、比呂美がシャワーを浴びてしまう前に決めておいたほうがいいことがあったのだ。「ちょ、ちょっと」「なに?」比呂美は振り返ってきょとんとした。眞一郎の慌てぶりから、下着でも落ちたのかと思い、さりげなく床を確認して眞一郎を見た。眞一郎はいったん和室に目をやってから比呂美に向かって言った。「寝るところ、決めておいたほうがいいと思って」「あ……、そうね」「比呂美はこっちの和室」といって眞一郎は和室に向かって指差した。「このふとん、使っていいから。タオルケットも」と付け加えた。「うん。でも……」 比呂美はそういうと、和室に戻って戸の開いた押入れをのぞいた。もう一組、布団がない。あるのは、敷布団の下に敷く、スポンジが中に詰まったマットレスとタオルケットが一枚。眞一郎も和室にやってきて、「おれは、このマットでごろ寝でいいから。どうせ、暑いし」と比呂美の懸念を振りはらうようにいった。 眞一郎の提案は妥当なところだろうと比呂美も納得し、「ごめんね」と返した。『ありがとう』に限りなく近い『ごめんね』のつもりだったが、眞一郎は比呂美を謝らせてしまったことを気にしたらしくフォローした。「べつにいいって。いっつも暑くて、布団の上で起きたためしがないんだから」といって眞一郎は笑った。「じゃ~、いつもほっぺに畳の跡がついてたんじゃない?」と冗談半分で比呂美は訊く。「そうそう」比呂美の言うとおりだったので眞一郎は感心したようにいった。「もう、マンガみたいなんだから」 比呂美は少し呆れてそういうと、ふたりは何かを思い出したみたいで同時にふきだした。 窓から夜風が静かに訪れる。それは決して偶然の流れとしてではなく、誰かの意思によって届けられたようにふたりのもとにやってきた。眞一郎と比呂美は、その風で肌の上にうっすらとかいた汗が冷まされるのを感じ、無口になった。ふたりとも、相手がなにか喋りだすのを待っていた。眞一郎は比呂美が、比呂美は眞一郎が、次の言葉を紡ぐのを――。それで、見つめ合ってはいなかったものの無口になり、ただ突っ立ったままになった。でもやがて、このままこうしていてもしようがないだろうと思いはじめたとき、ふたりとも猫の鳴き声のようなものを聞いた気がした。それは、窓の外のかなり遠くのところから届いたような音だったが、鼓膜を確実に通過し、ふたりの脳裏にはっきりと焼きついた。そのことが、この沈黙を破った。「じゃ~、わたし……」といって比呂美は眞一郎の脇をすり抜けてバスルームへ向かった。 眞一郎は、比呂美がバスルームに入ってしまう音を確認すると、窓に寄って、外の音に耳を済ませた。相変わらず、虫たちの声は盛大だったが、猫の鳴き声を耳にすることはできなかった。 しばらくして、シャーというシャワーの音がはじまる。眞一郎は、ちゃぶ台を壁によせて、和室へ向かった。押入れからマットレスとタオルケット取り出したあと、押入れの戸を閉め、洋室に寝具を広げた。それから、洋室と和室の境の戸も閉めた。きっちりと。 およそ三十分後――比呂美がバスルームから出てくる。 マットレスの上であぐらをかいて小さい音量でテレビを見ているうちにうとうとしてしまった眞一郎が振り返ったときには、比呂美はバスルームから出て洋室に一歩入ったところで立っていた。「パジャマ、忘れちゃった……」 眞一郎が振り返ってから比呂美はそういったが、眞一郎には比呂美の言ったことがどういう意味なのかすぐに理解できなかった。確かに比呂美はパジャマを着ていなかったが、少し丈の長いTシャツを着ていた。夏場は比呂美はTシャツを着て寝ていることを眞一郎は知っていたので、何かの単語を『パジャマ』と聞き違えたのだと思ったが、比呂美の姿を見ているうちに妙に足がすらっとしているなという印象が膨れ上がり、衝撃的な事実にようやくたどり着いた。そして、『パジャマ』という単語を聞き違えていなかったのだと気づいた。 比呂美はショーツの上になにも身に着けていなかったのだ。Tシャツの丈が長かったせいで、ショーツそのものは露になっていなかったが、Tシャツの上から薄く透けていて紺色のショーツを履いているのは間違いなかった。 今となっては、心臓が飛び出るほどの驚くことではなかった。今まで比呂美のそういう姿をたくさんではないにしろ何度も目にしてきたのだから。眞一郎みずから比呂美をそういう姿にしたこともあったのだから。でも、比呂美の行動はいつも眞一郎の想像の斜め上をいく。「おれも持ってきてないし」といいながら眞一郎はひねっていた体を元に戻した。 あれ、意外と慌てなかったな、と比呂美は口元を微笑ませ、歩き出した。和室の戸がきれいに閉められていることにも比呂美は感心した。和室はすでに『女の子の部屋』になっているのだ。 比呂美が和室の戸を開けたところで、眞一郎はもう一度振り返って比呂美を見た。斜め後ろから見た比呂美の姿。三つ編みが解かれている――。この角度からでははっきりと紺色のショーツが確認できた。Tシャツの下にきれいに隠れていてもおしりのふたつの膨らみがTシャツを外へ押し出し、ショーツの色と輪郭が浮き上がる。眞一郎はべつに比呂美の下半身を見たいがために振り返ったわけではなく、比呂美が何か言ってくるような予感を感じたからだった。でも、比呂美は眞一郎の予想に反して素通りしていった。着ていたワンピースやバスタオルを胸の前でしっかりと抱えて……。 和室の戸が閉められてから、比呂美が通り過ぎていく姿に眞一郎は違和感を感じた。下半身がショーツ一枚だけということとは別にだ。下半身のほうに目を奪われていたから、すぐには気づかなかったが、背中を少し丸めた姿勢だとブラジャーの輪郭が目立つはずだと。それなのに比呂美の背中には……なにも、なかった。 比呂美は、今、ブラジャーを着けていないということになる。比呂美の行動はいつも眞一郎の想像の斜め上をいく。斜め上どころではない。遥か上だ。眞一郎はマットレスに横になり、ミジンコのように体を丸めた――和室に背を向けて。 スポーツバッグをあさる音がしばらく続いた後、髪を乾かすドライヤーの音が鳴り出した。 女の子って大変だよな、と思いながら眞一郎はドライヤーの音を懐かしく思った。比呂美が仲上家で暮らしていたころは、比呂美の部屋からよく聞こえていた。比呂美の部屋の匂いがよみがえり鼻腔をくすぐる。仲上家、比呂美のアパート、そしてこの部屋……。それぞれの場所の感覚が混ざり合って、今どこにいるのか訳が分からなくなるほど、頭がふらふらした。でも、比呂美はそばにいる。手を伸ばせば届くところに。比呂美が、そばに来てくれたのだ。(こんなんじゃ、おれ、ダメだ……) 眞一郎は唇を噛みしめ、さらに体を丸める。(おふくろは、なにもかも知っている……) 今、三つ編みを解かれて温風と戯れる比呂美の長い髪を眞一郎は想像することができなかった。 はじめての外泊-3 へつづく ――次回予告《 三 あせっちゃった……》 いつもと様子が違う眞一郎。 内心、首をかしげながらも眞一郎の言うことに従う比呂美。 それでも、だんだんとふたりの想いが重なり合ってきて…… 突然、電話が鳴った。
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