前の東條内閣は、政策・軍事指導の両面に行き詰まっていたため、重臣たちが倒閣に動き、渋る東條英機首相を説得してようやく降ろすことに成功した。しかし、その後任として適当な人物はなかなか見出せず、結局、朝鮮総督の小磯國昭が大命降下を受け、小磯内閣が組閣された。昭和天皇は、久しく中央政官界から離れており、国内にさしたる政治基盤を持たない小磯の指導力不足を懸念し、新内閣は小磯と米内光政元首相の連立内閣という形式を取らせることにした。このため、米内は現役に復帰し、副首相格の海軍大臣に就任した。
小磯本人は、大命降下当時、予備役陸軍大将であったため、現役に復帰した上で、陸軍大臣を兼任し、強力なイニシアティブを取って、軍部を抑えようと目論んだ。しかし、前の首相とともに陸相も兼ねていた東條が、陸相留任を望んだため交渉は難航し、妥協策として東條の推す杉山元が陸相に就任した。また、帝国議会において翼賛政治会の支持を得るため、第2次近衛内閣以来設置が見送られていた政務次官・参与官が復活した。
このような数々の困難を抱えて発足した内閣であったため、組閣の時点で先が見えていた内閣と言える。何をするにも動きが遅く効率が悪いため、「木炭自動車」と揶揄された。ついには、1945年(昭和20年)3月に米軍の沖縄上陸を許し、同月には中国国民党政府(重慶国民政府)との和平工作(繆斌工作)に失敗したため、内閣総辞職に至った。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月22日 (土) 07:35。