進歩党(しんぽとう)は、明治時代中期に結成された政党(1896年3月1日 ‐ 1898年6月20日)。
明治29年(1896年)、立憲改進党・立憲革新党・大手倶楽部・帝国財政革新会・中国進歩党などが合同して代議士99名で結成。大隈重信が事実上の党首であったが正式な役職には就かず、形式的には犬養毅・尾崎行雄・大東義徹・柴四朗(東海散士)・長谷場純孝の5名の総務委員が代表者となっていた。「国権拡張」「責任内閣」「財政整理」などを掲げた。大隈の人気と同党が掲げた対外硬路線に対する支持から結成直後に党員5万人を数え、更に同年成立した第2次松方内閣に大隈が外務大臣として入閣し、高橋健三が内閣書記官長、神鞭知常が法制局長官に任命されたことなど党幹部の政府入りが実現したことで、更に期待が高まって同年中に1万人の入党者があったとされている。
新聞紙条例の改正や金本位制の実現などの成果があったが、松方の政治基盤である薩摩閥との対立と地租増徴に対する反発から、翌年10月に政権を離脱した。
1898年の第5回衆議院議員総選挙では議席を103に伸ばしたものの、同年の自由党との合同によって憲政党結成に伴い解散。
日本進歩党(にほんしんぽとう)は、終戦直後に結成された政党(1945年11月16日 ‐ 1947年3月31日)。
旧大日本政治会を母体として結成。その多くが旧立憲民政党から大政翼賛会に移った議員であり、民政党最後の総裁であった町田忠治を総裁として、幹事長に鶴見祐輔、総務委員に斎藤隆夫、政務調査会長に太田正孝を任じた。ただ、結成当初高齢の町田に代わって宇垣一成を総裁に擁立する構想があったように、「国体護持」や統制経済の維持を掲げるなど、帝国憲法体制擁護の主張が強いものとなった。
翌年1月の公職追放令によって町田以下、274人中260人が公職追放され、残ったのは斎藤隆夫総務委員・犬養健(後に追放)・田中萬逸・一松定吉・木村小左衛門らわずか14人の議員だけであった。
しかし、同年4月の総選挙では追放された候補者の代わりに新人を多数擁立し、結果94人を当選させ第2党の地位を保った。斎藤らは民政党の前身であった旧憲政会内閣で外務大臣を務めた事もある幣原喜重郎前首相を総裁に擁立する。そして、自由党とと連立により第1次吉田茂内閣の与党となった。
1947年、吉田茂総裁に不満を抱く芦田均ら日本自由党内の反主流派と合同して民主党として再出発を図る事となった。
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | 273/- | 466 | 公職追放-259 |
第22回総選挙 | ○94/376 | 468 | 追加公認+16 |
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
{{政党 |国名 = Template:JPN? |党名 = 進歩党 |公用語名 = Progressive Party(PP) |成立年月日 = 1987年1月22日 |解散年月日 = 1993年8月2日 |解散理由 = 代表の政界引退 |後継政党 = |郵便番号 = |本部所在地 = |政治的思想・立場 = 保守主義、中道主義 |機関紙 = |シンボル = |国際組織 = |その他 = }}
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | 1/- | 512 | |
第39回総選挙 | ○1/7 | 512 |
選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
(結党時) | 0/- | - | 252 | |
第15回通常選挙 | 0/10 | 0 | 252 | |
第16回通常選挙 | 0/1 | 0 | 252 |
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月3日 (水) 10:38。