B級戦犯(ビーきゅうせんぱん)およびC級戦犯(シーきゅうせんぱん)とは、第二次世界大戦の戦勝国である連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた一般の兵士ら。 A級と同様に、B、Cは罪の重さのことではない。
日本のBC級戦犯は、連合国軍総司令部(GHQ)により横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれ、のちに減刑された人も含め約1000人が死刑判決を受けたとされる。なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)においてもA項目の訴追事由では無罪になったが、B項、C項の訴追理由で有罪になった人があった。
ナチス・ドイツのポーランド侵攻以降、ナチス・ドイツによる残虐行為に関して各国政府やその代表などから非難の声があがっていた。この声はその後、ロンドン-セント・ジェームズ宮殿における宣言において責任者の裁判による処罰の言及に発展し、1943年10月の連合国戦争犯罪委員会発足の契機となった。
1943年11月1日にはモスクワ宣言が発表され、その中でナチス・ドイツの戦争犯罪人の処罰は犯罪が行われた国で裁判にかけ、地域が限定されない戦争犯罪人(主要戦争犯罪人)は連合国の判断に委ねることが宣言された。
連合国戦争犯罪委員会による1944年10月の提言では、組織的かつ大規模な残虐行為に伴う主要な戦争犯罪には国際法廷を、それ以外の戦争犯罪には軍事法廷を開くことが記されていた。この提言はイギリスによって否定されたが、後の国際軍事裁判所条例におけるA~C項目の戦争犯罪類型の原型となった。極東国際軍事裁判所条例では、この戦争犯罪類型の一部を変更して取り入れている。
一又正雄(国際法学者)は、東京裁判研究会編『共同研究パル判決書(上)』(講談社、1984年)「第一章 パル判決の背景 東京裁判の概要」においてB級は指揮・監督にあたった士官・部隊長、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者、主として下士官、兵士、軍属であるという主旨の説明している。
なお、A級、B級、C級の区別は国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判所条例(英:Charter of the International Military Tribunal for the Far East)における単なる分類であり、「級」という語が使われているためしばしば誤解されるが、罪の軽重を指しているわけではない。
連合国は戦時中・戦後と戦争犯罪に関する情報を収集していた。
これらの情報は連合国戦争犯罪委員会に提出され、それを基に1948年3月までに36,529名(日本人容疑者は440名)の容疑者リストを作成した。また、日本の戦犯を対象として、中華民国の重慶に設置された同委員会極東太平洋小委員会では3,158名、連合軍東南アジア司令部では1945年11月10日までに1,117名のリストが作成された。
これらのリストは戦犯の捜査機関を持っている各地の連合軍や各国に配布され、戦犯の逮捕に利用された。リストに載っていない者であっても、各捜査機関の判断により逮捕・調査が行われることもあった。
ダグラス・マッカーサー元帥は厚木に到着すると真っ先にエリオット・ソープ准将に東條以下の戦争犯罪人を逮捕するよう命じた。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、1945年9月11日に東條英機など43名をはじめとして、1948年7月1日までに2,636名の逮捕令状を出し、2602名の容疑者を逮捕・起訴した。イギリス軍を主体とする連合軍東南アジア司令部は1946年5月の時点で8,900名を逮捕し、この他にソビエト連邦軍やアジア各国で逮捕されている。正確な容疑者の逮捕総数を示す資料はないが、第一復員局法務調査部では1946年10月上旬の時点で約11,000名が海外で逮捕されたと推計していることなどから、その数が1万名をはるかに超すものと考えられている。
戦犯逮捕の過程では、敵軍の裁きを潔しとしないという理由で自らの命を絶った者もいた。主なものを挙げると、杉山元(陸軍元帥)は拳銃自殺、橋田邦彦(文部大臣)、近衛文麿(元首相)の2名は服毒自殺、小泉親彦(東條内閣の厚生大臣、軍医中将)、本庄繁(元関東軍司令官、陸軍大将)は割腹自殺を行っている。なお東條英機(元首相、陸軍大将)は自殺を図ったが未遂に終わっている。
BC級戦犯の中には、旧植民地出身の朝鮮人・台湾人がいた。その数は、朝鮮人が148人、台湾人が173名だった。
連合国が、日本の戦争犯罪の中でも捕虜虐待を特に重視していたこと(ポツダム宣言の第10項)、日本軍が、東南アジアの各地に設置した捕虜収容所の監視員に朝鮮人・台湾人の軍属を充てたこと、連合国各国が朝鮮人・台湾人を、「敵国に使用された臣民」と見なし、日本人として裁いたこと、上官の命令に基づく行為でも責任を免除されないとしたことが、多くの朝鮮人・台湾人の戦犯を生み出した要因となった。泰緬鉄道建設の例に見られるように、日本政府が「ジュネーヴ条約」の準用を連合国各国に約束しながら、それに基づいた処遇を適正に行わなかった為、条約に反した命令・処遇の実行責任が、末端の軍属にも問われたのである。
朝鮮人戦犯148人のうち、軍人は3人だった。1人は洪思翊中将であり、2人は志願兵だった。この他、通訳だった朝鮮人16人が中華民国の国民政府によって裁かれ、うち8人が死刑となった。残る129人全員が、捕虜収容所の監視員として徴用され、タイ・ジャワ・マレーの捕虜収容所に配属された軍属である。尚、敵国の婦女子をはじめとする民間人を抑留したジャワ軍抑留所の監視にも朝鮮人軍属があたったため、オランダ法廷で戦犯となっている。
台湾人軍属は、ボルネオ捕虜収容所に配属された。オーストラリア法廷で多くの台湾人が戦犯として裁かれており、うち7人が死刑、84人が有期禁錮となった。
ちなみに、朝鮮人・台湾人の戦犯は、日本人が「内地送還」になる際、一緒に日本へ送還され、巣鴨プリズンに収容される事となった。
戦犯容疑者たちは、収容所で私的暴行を受けたと証言する者が多く、暴行で死亡した者がいたという証言もある。
法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判概史要』によれば、起訴件数は2,244件、5,700名が起訴されたとなっている。ただし、この数字には、ソビエト連邦と中華人民共和国での数字が含まれていない。
軍事法廷という形式上、裁判は一審制であったが、通常の軍律裁判とは違い弁護人が付けられた。特に中国、ソ連、オランダによる法廷では、杜撰な伝聞調査、虚偽の証言、通訳の不備、裁判執行者の報復感情などが災いし、不当な扱いを受けたり、無実の罪を背負わされる事例も多数あったと言われる。特に、この主張は被疑者を含め、日本側の関係者を中心に見られる。(例として、栄養失調の捕虜にごぼうを食べさせた。もしくは肩凝り、腰痛の捕虜に灸を据えた収容所関係者が捕虜虐待の罪に問われ有罪とされた、などが挙げられる。ただし、これらの事実が公判で虐待として指摘されたことは確かであるが、これ以外にも虐待の事実があったので有罪の証拠として採用されたかは不明である)。一方、このような問題を踏まえつつ、弁護人が付けられている点、裁判内容、判決内容などを考察し、一般的な軍律裁判と比較して、正確な裁判が行われていたのではないかとする研究も発表されている。
A級戦犯約200名が、巣鴨拘置所に逮捕監禁されたのと同時にBC級戦犯約5,600人が各地で逮捕投獄された。横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、約1,000名が軍事裁判の結果、死刑に処された。
国内で戦後逮捕された者は家族に「ちょっと出掛けて来る」と言い残して、まさか自分が戦犯で裁かれようとは夢にも思わなかった者が多い。死刑判決を受けた戦犯の多くは遺書・遺髪等を遺すことが許されず、遺骨も秘密裏に焼却・埋葬された。戦犯達は隠し持った鉛筆あるいは自分の血で紙切れやトイレットペーパーに密かに遺書を書き、教誨師などに託して遺族に届けてもらったが、それも一部の者だけであった。
戦犯として死刑に処されて刑死又は獄死した者は公式には法務死と呼ばれ、靖国神社では受難死と呼ばれる。
昭和34年、処刑されたBC級戦犯は靖国神社に合祀された。
1947年2月、既決囚の労働が本格化し、A級戦犯、60歳以上の高齢者、病人以外は全て就労を命じられた。プリズン周辺の道路整備、運動場、農園、兵舎・将校用宿舎建設等の重労働を命じられ、午前と午後に一回ずつある5分の休憩と昼食時の休憩時にしか休めない。私物は一切禁止で、全て制服着用で行わなければならない。長い拘禁生活と裁判の疲労で体力の落ちた戦犯たちには重労働で「こんなことならいっそ死んでしまえばよかった」との声もあった。この重労働が2年続き、完成に至ると、戦犯たちは信頼を勝ち取り、減刑などの恩恵を受けた。新聞、雑誌、本などの閲覧、上野図書館からの借り出しも許可された。ラジオも定期聴取出来、映画も週に一回鑑賞出来た。
1948年6月5日に創刊された獄中紙。巣鴨プリズンの労務担当ビンセント中尉が、新聞の発行を提案し、各階で一人選ばれ、15人が担当する事になった。当時スガモには英語を初めとする外国語の堪能な人物が多かった為、随時翻訳された。編集方針は、「主義主張は特に無いが、民主主義を根本とし、左右いずれにも偏せず」とあり、占領政策批判、死刑囚、A級戦犯には抵触しないという条件だった。1952年3月29日まで、全193号が発刊され、その紙面は、翻訳班の手で英訳したうえで、発行前に検閲を受け、GHQやアメリカの国務省にも送付された。発行日は、原則として土曜日だった。ここで、秋季運動会にて韓国旗などを揚げた事をクローズアップするなどして、朝鮮戦争で心を痛める朝鮮人や台湾人戦犯の葛藤を分かち合えた場とも言える。
巣鴨プリズンが日本へ移管された後には、『すがも』が1952年11月1日に活版で創刊されたが、10号で休刊となった。
アメリカ裁判
イギリス裁判
オーストラリア裁判
オランダ裁判
フィリピン裁判
フランス裁判
中華民国裁判
現在、裁判資料は、国立公文書館に保存されている。申請すれば、個人名等、プライバシーに関する部分は黒く隠されるが閲覧は可能である。この資料は、豊田隈雄、井上忠男が中心になって集めてもので、最初は法務省に寄贈されたものであるが、国立公文書館に移管されている。
漫画「はだしのゲン」で、「アメリカ人に山ゴボウを食わせて重労働25年。お灸を据えて・・・」という描写があり、同作品は学校図書室にもよく置かれているためこのことは現在の小中学生にも比較的知られている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年12月1日 (土) 16:10。