参謀本部(さんぼうほんぶ)は大日本帝国陸軍(明治36年までは海軍の軍令を統括した)の軍令を司った機関。
参謀総長(最終的な名称)を長として、作戦計画の立案等を職務とする。なお、軍政は陸軍省が担当したが、当然のことながら軍政と軍令を明確に分けることは不可能で、広範囲にあいまいな領域が生じた結果、混乱を招くことにもなった。
なお、明治19年から明治21年までの間、海軍の軍令機関が陸軍と統合されていた時期を除いた、海軍の軍令機関(明治21年乃至明治22年の海軍参謀本部を含む。)については軍令部を参照。
日付 | 陸軍 | 海軍 | 根拠法令 |
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1871年(明治4年)7月 | 兵部省職員令 | ||
1874年(明治7年)6月18日 | 参謀局 | 「参謀局條例」 | |
1978年(明治11年)12月5日 | 参謀本部 | 旧「参謀本部條例」 | |
1884年(明治17年)2月 | 軍事部 | ||
1886年(明治19年)3月18日 | 明治19年勅令 | ||
1888年(明治21年)5月12日 | 陸軍参謀本部 | 海軍参謀本部 | 明治21年勅令第25号 |
1889年(明治22年)3月7日 | 参謀本部 | 海軍参謀部 | 明治22年勅令第25号・同第30号 |
1893年(明治26年)5月19日 | 海軍軍令部 | 明治26年勅令第37号 | |
1933年(昭和8年)10月1日 | 軍令部 | 昭和8年軍令海第5号 | |
1945年(昭和20年) | 昭和20年軍令海第8号など |
明治4年7月に「機務密謀ニ参畫シ地圖政誌ヲ編輯シ並ニ間諜通報等ノ事ヲ掌ル」ことを目的に兵部省に陸軍参謀局(国土地理院の前身の一つ)が設けられた。局長には兵部大輔が充てられた。翌年の明治5年には兵部省が陸軍省と海軍省に分割され、陸軍参謀局は陸軍省参謀局として存置された。
明治6年3月23日に陸軍省條例[1]が発せられ、参謀局が「陸軍文庫・測量地圖・繪圖彫刻・兵史並兵家政誌蒐輯」を掌る第六局に改称された(4月1日施行)が、明治7年2月22日に第六局を廃し再び参謀局が置かれた[2]。
明治7年6月18日に「参謀局條例」[3]が制定され、同日付で参謀局が設立された。これが日本の軍令機関独立の嚆矢である。この参謀局は、東京三宅坂に置かれて、陸軍省に隷属していた。参謀局長には将官が充てられた。
参謀科(兵科の一つとしておかれていた。)の将校は、或いは陸軍省内局に勤務していても、或いは外国派遣の公使に属していても(後の駐在武官)、皆参謀局に籍を置いており、局長は参謀科将校の進退等について全て関与していた。
明治11年12月5日に「参謀本部條例」[4]が制定され、陸軍省の一局であった参謀局が「参謀本部」と改称され、独立官庁となった。参謀本部長には将官が充てられた。
1886年(明治19年)3月18日に陸海軍統合参謀部門として「参謀本部」が設立され、その内部に陸軍部及び海軍部が置かれることとなった。
この参謀本部は、陸海軍軍事計画を司るところであって、各監軍部、近衛、各鎮台、各鎮守府、各艦隊の参謀部並びに陸軍大学校、軍用電信隊を統括した。
参謀本部長は、皇族が勅任されるものと定められ、有栖川宮熾仁親王(陸軍大将、在任:1886年3月18日 - 1888年5月14日)が任じられた。本部次長は陸海軍将官からそれぞれ1人が充てられた。
「支部」とは外局を意味する用語である。
明治21年勅令第25号により、1888年(明治21年)5月12日に、旧参謀本部陸軍部は「陸軍参謀本部」と改称された。陸軍参謀本部は、参軍の下で参謀事務を行うものとされた。そして、陸軍参謀本部長は参軍に対して責任を負うものとされた。
新「参謀本部條例」(明治22年勅令第25号)[5]により、1889年(明治22年)3月7日に、旧陸軍参謀本部は「参謀本部」と改称された。
参謀総長の位置づけは、当初は「陸軍大将若クハ陸軍中将一人ヲ帝国全軍ノ参謀総長ニ任シ天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参シ参謀本部ノ事務ヲ管理セシム」(明治22年勅令第25号当時の第2条)とされ、参謀総長は海軍の軍令も管轄するものとされていた。ところが、この規定は海軍側の強い反発を生み、明治36年勅令第293号戦時大本営条例改訂により、陸海軍の軍令機関が並列対等と修正された。
参謀総長 | ||||||
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代 | 姓名 | 階級 | 出身 | 就任 | 退任 | 備考 |
1 | 有栖川宮熾仁親王 | 陸軍大将 | 皇族 | 1889年3月9日 | 1895年1月15日 | |
2 | 小松宮彰仁親王 | 陸軍大将 | 皇族 | 1895年1月26日 | 1898年1月20日 | |
3 | 川上操六 | 陸軍中将 | 鹿児島 | 1898年1月20日 | 1899年5月11日 | |
4 | 大山巌 | 陸軍大将 | 鹿児島 | 1899年5月16日 | 1904年6月20日 | |
5 | 山縣有朋 | 陸軍大将 | 山口 | 1904年6月20日 | 1905年12月20日 | |
6 | 大山巌 | 陸軍大将 | 鹿児島 | 1905年12月20日 | 1906年4月10日 | |
7 | 児玉源太郎 | 陸軍大将 | 山口 | 1906年4月11日 | 1906年7月30日 | 歩兵科 |
8 | 奥保鞏 | 陸軍大将 | 福岡 | 1906年7月30日 | 1912年1月20日 | 歩兵科 |
9 | 長谷川好道 | 陸軍大将 | 山口 | 1912年1月20日 | 1915年12月16日 | 歩兵科 |
10 | 上原勇作 | 陸軍大将 | 宮崎 | 1915年12月17日 | 1923年3月17日 | 工兵科・陸士旧3期 |
11 | 河合操 | 陸軍大将 | 大分 | 1923年3月17日 | 1926年3月2日 | 歩兵科・陸士旧8期 |
12 | 鈴木荘六 | 陸軍大将 | 新潟 | 1926年3月2日 | 1930年2月19日 | 騎兵科・陸士1期 |
13 | 金谷範三 | 陸軍大将 | 大分 | 1930年2月19日 | 1931年12月23日 | 歩兵科・陸士5期 |
14 | 閑院宮載仁親王 | 陸軍大将 | 皇族 | 1931年12月23日 | 1940年10月3日 | 騎兵科 |
15 | 杉山元 | 陸軍大将 | 福岡 | 1940年10月3日 | 1944年2月21日 | 歩兵科・陸士12期 |
16 | 東條英機 | 陸軍大将 | 東京 | 1944年2月21日 | 1944年7月14日 | 歩兵科・陸士17期 |
17 | 梅津美治郎 | 陸軍大将 | 大分 | 1944年7月18日 | 1945年11月30日 | 歩兵科・陸士15期 |
参謀総長は、陸軍大臣・教育総監と並んで「陸軍三長官」と呼ばれた。
この他、明治29年~昭和18年まで第4部が、明治32年から明治41年まで第5部が存在した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月8日 (水) 10:45。