西園寺公望


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西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日1849年12月7日) - 昭和15年(1940年11月24日)は日本の公家政治家立憲政友会第2代総裁。第12・14代内閣総理大臣贈従一位大勲位菊花章頸飾公爵本姓藤原。正式には藤原公望(ふじわら の きんもち)。

大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇昭和天皇輔弼した。

文化人趣味人としても名高く、陶庵と号しを能くし、叙情あふれる漢詩も多く残している。

そして森鴎外ら第一級の文人たちを招じ雨声会と称したサロンを主催した。

生涯

生い立ち

西園寺公望は清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。両家は藤原房前を始祖とする藤原北家閑院流の血筋の系統である。ただし遺伝的には彼は天皇家の男系子孫であり、東山天皇6世孫であるとされている。実父は右大臣徳大寺公純、実兄は3度にわたって侍従長となり、内大臣もつとめた徳大寺実則。すぐ下の弟の隆麿は住友家の入り婿となり、住友財閥を継いで第15代住友吉左衛門友純)を襲名し、長く財界に君臨した。そして、末弟の威麿は母方の末弘家を継ぎ、後に京都法政学校(現在の立命館大学)の幹事・理事などを務めている。 幼少時には、住まいが御所に近く、年齢も近かったことから、祐宮(のちの明治天皇)の遊び相手として度々召された。

幕末・明治維新

西園寺には、岩倉具視三条実美のような幕末期における政治的功績はほとんど皆無であった。ただ鳥羽・伏見の戦いがはじまると、朝廷ではこれを徳川家島津家の私闘と見なす意見が出るなかにあって、積極的な関与・主戦論を主張し岩倉ら倒幕派公卿に注目された。

以後の戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、会津口征討大参謀として各地を転戦する。その後は越後府知事などを歴任したが、その当時、西園寺は10代の青年であり、この若さで任官できたのは家格の後光以外に理由を見出すことは困難である。また公卿の中で初めて洋装で宮中に参内し、未だ多く残る攘夷派公卿の怒りを買ったエピソードも自著(『陶庵随筆』)で披瀝している。

官を辞した西園寺はフランス留学を考えるようになり、東京や長崎でフランス語の勉強を始めた。東京では前原一誠と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」と名乗ったこともあった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。やがて大村益次郎の推薦によって明治4年(1871年)、官費(のちに減額を申出ている)でフランスに留学した。京都に来ていた大村に礼を言うために旅館を訪れる直前、親友(万里小路通房)が駆け込んできて長談義となり、その間に大村は襲撃されるという事件が起こっている(明治2年)。

フランス行きの船内では、地球が球体であることを得心したり、白人少年に別れのキスを求められてとまどうといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。

普仏戦争敗北と第二帝政の崩壊、かわって樹立された革命政府パリ・コミューンとドイツ軍によるその鎮圧という、混乱の真ただ中にパリに到着した西園寺は、以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想、文化を吸収していった。その間、後にフランス首相となるクレマンソーや、留学生仲間の中江兆民松田正久らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。西園寺はソルボンヌ大学で勉学にいそしむ一方で随分と遊蕩もし、フランス人女性にもたいそう人気であったと伝えられる。なお、第一次世界大戦後のパリ講和会議1919年)に日本の全権特使として出席した西園寺とパリ留学時代を同じ下宿ですごした親友クレマンソーとの友情は、講和会議での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。

パリ留学で自由思想を学んだ西園寺は自由民権運動に傾倒し、明治14年(1881年3月18日には、自由党結党に向けて創刊された『東洋自由新聞』の社長となり、中江兆民、松田正久らと共に発行に携わる。西園寺が自由民権運動に加担することは政府や宮中で物議を呼び、内大臣岩倉具視が働きかけた明治天皇の内勅により退社を余儀なくされ、東洋自由新聞は4月30日発行の第34号にて廃刊に追い込まれた。この時の西園寺はあらゆる圧力に屈することはなかったが、明治天皇の内勅がでるとあっけないほど簡単に身をひいてしまった。この事件での彼の行動は彼の生涯にわたる世界観、政治観を端的にあらわしているともいえる。

西園寺はフランスで身に着けたリベラルな思想と名門公家の責務として皇室の藩屏たらねばならない意識というある意味で相反するものを共に有していた。そしてこの相反する二つを整理し融合したことから独特な世界観、政治観を持つ政治家へと成長した。このことは時に彼を優柔不断に見せたが、後述する天皇への諫言は極めて適切であったといえ、西園寺の政治家としての真骨頂を感じられる。西園寺は絶対天皇制の持つやがては皇室の存続をも危うくさせる危険性を早くから見抜いていた。西園寺のような感性をもった政治家を他に見出すことは難しい。

生涯権力や金銭に対する執着は乏しく、この淡白な性質は上級公卿に生まれた育ちの良さからくるものであったといえよう。この点で彼は終生の政敵山縣有朋とは対照的であった。

また、3人の内縁の妻を持ち、女子を儲けている一方、生涯正室は娶らなかった。はっきりした理由は西園寺自身述べていないが、名門西園寺家の当主であった彼は、娶るならば皇族公家大名家などの姫でなければならず、自由人であった西園寺がこうしたしがらみを嫌ったためとも言われている。

明治30年(1897年)、前年まで外務大臣を務めた陸奥宗光が、山縣を中心とする藩閥の打倒と議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが」と言って、周囲の見る目も痛わしいほどに落胆したという。

政治家としての西園寺

西園寺の政治家としてのキャリアは明治15年(1882年)、伊藤博文が憲法調査のためにヨーロッパを歴訪した際、それに随行したことにはじまる。初入閣は明治27年(1894年)、第二次伊藤内閣の文部大臣としてであった。ヨーロッパで伊藤の知遇を得た西園寺は、明治33年(1900年)の立憲政友会旗揚げに参画する。明治36年(1903年)には伊藤の後を受けて総裁となり、明治39年(1906年)と明治44年(1911年)の2回にわたって内閣総理大臣に任命される。

西園寺は思想的にリベラルを自称し、衆議院での多数派政党が内閣を組織する憲政の常道を慣例にした。またフランス留学の影響からか親欧米的で、軍部などから国家主義に反する者として「世界主義者」と非難されることもあった。西園寺は政治力がなかったという見方をされることがあるがこれは事実とは異なり、山縣有朋の死去後政治力で彼を上回るものは当時の日本には存在しなくなった。宮中・財界との姻戚関係を背景に、彼は元老として宮中と国務、軍部の調整役を務め、日本の政治をリードし続けた。また、文部大臣在任中に教育勅語の改訂を試みるなど昭和初期の国家主義的政治家とは一線を画す言動を散発的に見せるが、軍部の勢力拡大に抵抗したものの、彼だけの力では戦争回避を成し遂げることはできなかった。

西園寺は立命館大学に寄贈した扁額に「藤原公望」と西園寺家の本姓の藤原姓で名前を記したように、自らが千年以上皇室とともにあった藤原氏の末裔であるという自覚を持っていた。また、幼い頃から皇室に親しんでいたこともあって、「皇室の藩屏」という意識が強く、それが政治姿勢となっていた。すなわち絶対的な権力を持つが故に誤謬が許されない天皇の親政に反対し続けた。これは田中義一張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の上奏の不一致を昭和天皇に叱責され内閣が総辞職した際、西園寺が天皇に累を及ぼすということを口実にして、天皇による田中への叱責に反対していたことから見ても明らかである。また、「立憲君主として、臣下の決定に反対しない」という昭和天皇の信条は西園寺の影響とする向きもある。しかしながらこの姿勢は一方で、皇道派将校の反感をも招いた。

桂園時代と大正政変

明治39年(1906年)には桂太郎の後を受けて第1次西園寺内閣を組織。そののち再び桂が総理となり、桂・西園寺会談での「情意投合」によって明治44年(1911年)には第2次西園寺内閣を組織した。桂と西園寺が交互に総理を務めたこの時代を桂園時代という。政友会の幹部は桂との対抗関係を強調し、西園寺も表向きはその姿勢を見せていたが、桂に「君と僕とにて国家を背負ふて立とうではないか」『原敬日記』明治42年11月9日。と言うほどポスト元勲世代である2人の政治的な関係は良好であった。また、愛妾を同伴し酒を酌み交わすなど「蕩児」としての共通部分もあったようである。

第2次西園寺内閣は基盤とする与党政友会が衆議院で絶対多数を占めたこともあり、行財政改革に着手した。大正2年(1913年)の予算策定に向けて歳出1割減を目標としたが、陸軍は2個師団の増設を要求し、海軍もまた戦艦3隻建造を予算案に盛り込んだ。陸軍は西園寺内閣を倒してでも2個師団増設を達成すべく奔走し、内閣があくまでも拒否との方針を示すと、上原勇作陸相天皇に直接辞表を提出した。

陸軍大臣には直接天皇に上奏する帷幄上奏が制度上認められてはいたが、閣僚が首相を通さずに直接天皇に辞表を提出したのは前代未聞のことであった。また、陸軍が後任の陸相を送らない限り、西園寺内閣は軍部大臣現役武官制の規定によって陸相が得られないこととなって辞職するよりほかなかった。当時、陸相辞任の影響は非常に大きかったのである。

西園寺は、この後大正天皇に呼び出され、天皇の口から直接陸相の辞表提出の件を知らされた。西園寺は、後任の陸相について陸軍の実力者山縣有朋にも相談したが、山県が後任の陸相を出す気がないことを察すると、機先を制して総辞職した。

政友会を通じて内閣総辞職の内幕が知れ渡ると国民の間ににわかに「閥族打破、憲政擁護」の気運が高まり第1次護憲運動となった。政友会は立憲国民党犬養毅らと提携し、護憲運動の陣頭に立ち、西園寺内閣の後任の第3次桂内閣と対立した。ただし、政国提携や国民に向けた演説会などには西園寺は直接タッチしておらず、これらは政友会の幹部である原敬松田正久、政友会会員尾崎行雄、国民党の犬養毅らが中心となっていた。

議会はもともと政友会が絶対多数であったので、議会が開始されると政友会・国民党は内閣不信任案を提出し桂内閣は窮地に立たされた。そこで政府側では、イギリスのジョージ5世即位の際、即位直後であることを理由に自由党保守党との政争をやめるよう命令して、それを実現させた話にならい、ちょうど大正天皇が即位して間もない頃だったので、勅語を出すという形で西園寺公望に対し政争を中止するように諭した。

政友会では天皇の意思であるならそれに従うよりほかはないと、不信任案を撤回して、ひとまずは桂内閣に貸しを作ろうという意見が一時有力になった。しかし、これに政友会会員尾崎行雄が強行に反発した。それに対して西園寺は前述のように「天皇の藩屏」としての誇りと政友会総裁としての責任の間で板挟みとなってしまう。そして、犬養毅の助言で西園寺は政友会総裁を辞任し、政友会自体はあくまでも内閣退陣を要求するということになった。このとき、海軍の山本権兵衛が政友会本部を激励のために訪れている。

結局、護憲運動の高まりで桂内閣は大正2年2月11日に辞意を表明した(大正政変)。同日後継首相を決めるための元老会議が開かれた。このときの会議には西園寺もはじめて元老として出席した。しかし、政友会の代表としての出席ではなかった。会議では、最初に西園寺が後継首相に推薦されたが、これを受ければ勅語に反することになるとして西園寺は固辞した。結局、後継首相には山本権兵衛が決まった。

一連の処理が終わると、西園寺は改めて先の大正天皇からの勅語に違反した「違勅」の罪を理由に政友会総裁の辞任を表明した。「違勅」は近代法においては存在しないが、「天皇の藩屏」である事を第一としていた伝統的な公家社会においては最も重い罪の1つであった。また、第2次内閣時代には政友会内部を掌握し、鉄道建設など地方利益の追求に熱心であった原との間に確執が生じており、総裁辞任のため「違勅」を利用したのである。政友会の幹部達はこの「違勅」の論理に困惑して西園寺を慰留したが、西園寺の決意は揺らぐことは無かった。

昭和

西園寺は明治の元勲に一世代遅れて、大正天皇即位のときに元老に列せられている。これを最後にあらたな元老が指名されることはついになく、大正13年(1924年)に松方正義が死去すると西園寺が唯一人の元老となった。これ以後、内閣総理大臣奏薦は西園寺が内大臣との協議により行うこととなった。

thumb|250px|やつれ顔の西園寺<br /><small>[[二・二六事件の責任をとって総辞職した岡田内閣後の混乱を収拾すべく、西園寺は秘蔵っ子の近衛貴族院議長を後継首班に推奏するが、本人は病気を理由に固辞、やむなく広田外相を推奏した。画像は宮内省を退出して定宿としていた麻布の住友別邸に戻る西園寺(1936年3月4日)。]]

昭和元年(1926年12月28日践祚直後の昭和天皇は西園寺に対し特に勅語を与え(「大勲位公爵西園寺公望ニ賜ヒタル勅語」)、これにより、西園寺は「最後の元老」として引き続き内閣総理大臣奏薦の任に当たることが制度上確定、昭和15年(1940年)1月の米内内閣までは何らかの形で首班推奏に関与し続けることになる(第二次近衛内閣については奏薦を謝絶している)。

昭和3年(1928年)、張作霖爆殺事件(満州某重大事件)では事件の顛末の報告に対し、最初に不審を抱いたのが西園寺であった。西園寺は陸軍の仕業であることに気づき、興津より上京して首相田中義一を呼びつけ、政府としてこの問題をしっかり調べ、もし犯人が日本人であるならば厳罰に処す必要があることを申し渡している。この件に関して田中も、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきとの考えを示したが、一向に実行にいたらないので西園寺は再び調査と報告を急かしている。そのいっぽうで、昭和天皇が田中を「もう田中の話は聞きたくない」と叱責したことについては、立憲君主の立場からすればふさわしくないとして、天皇を諫めている。 thumb|left|150px|かつて東京駿河台本邸にあった石灯籠<br /><small>のちに[[学校法人立命館に寄贈され、現在は京都市北区立命館大学西園寺記念館」庭園内に飾られている。]]

昭和11年(1936年)の二・二六事件事件においては、決起将校の一部が西園寺襲撃を計画していたが、実行されなかった。襲撃を主張する者は元老西園寺を「君側の奸」の最たるものと見なしていたのに対し、否定派は西園寺を天皇とのパイプとして利用することを表向きの口実としていたと言われる。またこの事件に対し天皇が激怒し、自ら近衛部隊を率いて叛乱軍と戦うと言い出した時は、立憲君主制下の君主にあるまじき行動として、激しく諌言している。

東京駿河台の本邸の他に、静岡県御殿場町の便船塚別荘、同じく静岡県興津坐漁荘、京都の清風荘の各別荘に隠棲し、元老として重きをなした。最晩年になると、避暑のために御殿場に滞在する以外は、年の大半を冬期が温暖な坐漁荘で過ごしている。

昭和12年(1937年)、組閣大命を受けた宇垣一成の組閣が軍部の反対により失敗すると、西園寺は元老辞退を申し出た。元老拝辞はならなかったものの、内閣総理大臣奏薦は内大臣主導で行い、西園寺がそれを追認する形式となった。

同年の第一次近衛内閣成立以降は次第に政治の表舞台から退き、反対し続けた日独伊三国軍事同盟成立の2ヶ月後の昭和15年(1940年11月24日に死去した。Template:享年?。贈従一位。

最後の言葉は「いったいこの国をどこへもってゆくのや」であったと伝えられる。期待していた近衛文麿に離反され、首相に推薦したことを最後まで後悔していたという。

昭和16年(1941年)には近衛内閣のブレーンを務める孫の西園寺公一が、ゾルゲ事件に関与したとして逮捕されている。

西園寺と教育

thumb|200px|興津「[[坐漁荘」にて
西園寺は参内するとき以外はほとんど常に和装だった
]] thumb|200px|[[学校法人立命館中川会館」(京都市中京区)玄関に掲げられる「立命館」扁額
西園寺公望は、1869年に自らが創設した「私塾立命館」の名称と精神を、「京都法政学校」が継承することを許した。その際、自ら「立命館」の三文字を揮毫した扁額を与えた。写真はそのときに与えられた扁額のレプリカである。オリジナルの扁額は学校法人立命館総長室に掲げられている。
]]

文部大臣時代の西園寺は、教養ある「市民」の育成を重視し、「科学や英語や女子教育を重視せよ」と言明していた。

明治23年(1890年)には井上毅らが作った「教育勅語」に反対し、明治天皇から教育勅語改定の許可を得るとともに「第二次教育勅語」の作成に取り組んだ。この「第二次教育勅語」の草案は西園寺家から立命館大学に寄贈されて現存している。

また、以下の教育機関の設立にも関っている。

  • 明治2年(1869年)、 「私塾立命館」創設。中川小十郎(後の立命館大学創立者)の郷里の人間が多数学生となったが、京都府庁(太政官留守官)の差留命令により1年弱で閉鎖された。西園寺は私塾立命館を閉鎖させた際、大層残念に思い再興を誓う。その後を継いだのが文部大臣当時の秘書官の中川だった。現在の立命館大学は、中川がその名跡を譲り受けたもので、大学組織的としての連続性は絶たれたが西園寺は「私塾立命館」の後継として京都法政学校(現・立命館大学)創立にあたり様々な支援を行う事になる。西園寺の実弟末弘威麿が学園幹事に就任、同じく実弟の住友財閥当主住友友純が大口の寄付を行うなど、西園寺は自分の持つ政治力、人脈用いて京都法政学校(立命館大学)に協力した。また彼の寄付した多数の書籍は立命館大学(旧制)が大学昇格条件を満たすために為されたものであり、現在も「西園寺文庫」として立命館大学に貴重コレクションとして保存されている。一回目の寄贈は大正14年(1925年)5月に行われ、英仏書187冊であった。その後、昭和5年(1930年)10月16日に和漢書約300冊、昭和13年(1938年)6月には西園寺家伝来の和綴本739部881冊の寄贈が為された。 この和綴書には、宮中儀式、有職故実関係、改元記録、和歌関係などの貴重文書が含まれている。そして最後、すなわち四回目の寄贈は昭和15年(1940年)5月に行われている。
この最後の寄贈資料は和漢書6,671冊にもおよび、西園寺が特に愛読していたと思われるものが大量に含まれているのが特徴とされる。また公望は西園寺家家紋である「左巴」の旗を立命館大学が使用することを許可しており実際に使用されていた。中川小十朗が「立命館」の名称を用いる事を西園寺に申し出た際には『立命館』の名称と精神の継承(立命館の再興)を大層喜び『立命館と由緒』の大扁額を与えた。後に西園寺は「余が建設せる立命館の名称と精神を継承せる貴学」と現在の立命館大学の事を述べており、彼の作った立命館が再興し、受け継がれている事を喜んだ。83歳になった西園寺は人生最後の京都訪問を行う。その際立命館大学広小路校地を訪問先に選んだが、校舎ホールに飾ってある自筆の『立命館』の扁額にしばらく目を留めた。(文春「元老西園寺公望」より) この『立命館』の扁額については、西園寺裕夫(西園寺公望の曾孫)はこう語っている。
「曽祖父は晩年、どちらかといえば女性的な字を書いていました。しかし若干20歳のときに書いた『館命立』の書は大変男性的であり、迫力があったのです。この力強さは当時志していた“新しい国づくり=人づくり”への思いの表れだったのではないかと思います」
西園寺が没した昭和15年(1940年)に立命館大学は、創立とその後の教育に大きく貢献した西園寺公望を立命館大学の「学祖」と取り決めた(但し、西園寺の美意識からか彼の遺言には「余の伝記を記すべからず」「余の碑を作るべからず」とともに「余を立命館の学祖とすべからず」の項があった)。西園寺家と立命館大学の交流は現代も続いており大学の行事に西園寺家の人々が出席している。

年譜

thumb|200px|[[大勲位菊花章頸飾受章、1928年]] ※日付は明治5年まで旧暦

  • 嘉永2年(1849年)10月22日(戸籍上は23日)、清華家徳大寺公純の次男として京都で誕生。
  • 嘉永4年(1851年)12月20日、従五位下に叙位。この年、西園寺家の養子となる。養父は右近衛中将西園寺師季(もろすえ)
  • 嘉永5年(1852年)1月27日、従五位上に昇叙。
  • 嘉永6年(1853年
    • 1月21日、正五位下に昇叙。
    • 5月15日、侍従に任官。
  • 嘉永7年(1854年)1月22日、従四位下に昇叙し、侍従如元。
  • 安政2年(1855年)1月22日、従四位上に昇叙し、侍従如元。
  • 安政3年(1856年)2月5日、正四位下に昇叙し、侍従如元。
  • 安政4年(1857年)10月7日、元服し、昇殿を聴され、右近衛権少将に転任。
  • 文久元年(1861年
    • 3月27日、右近衛権中将に転任。
    • 4月25日、従三位に昇叙し、右近衛権中将如元。
  • 文久2年(1862年)1月5日、正三位に昇叙し、右近衛権中将如元。
  • 慶応3年(1867年)12月20日、官軍参与を兼帯。
  • 慶応4年(1868年
    • 1月4日、明治政府(この年に関しては以下略して政府を付す。)山陰道鎮撫総督を兼帯。
    • 3月20日、権中納言に転任。
    • 4月19日、政府但馬府中裁判所総督兼帯。
    • 閏4月5日、政府但馬府中裁判所総督から政府山陰道裁判所総督及び東山道第二軍総督に異動兼帯。
    • 閏4月21日、政府参与を辞す。
    • 閏4月23日、政府山陰道裁判所総督兼東山道第二軍総督より政府北国鎮撫使に異動兼帯。
    • 閏4月24日、軍人として三等陸軍将に補す。
    • 6月14日、政府北国鎮撫使から政府会津征討越後口参謀に異動。
    • 6月20日、越後口大参謀に異動。
    • 改元して明治元年10月20日、政府新潟府知事に異動。
  • 明治2年(1869年
    • 1月5日、新潟府知事を辞す。
    • 3月15日、依願により三等陸軍将を免ず。
    • 7月3日、正三位権中納言の官位を返上。望一郎と称す。この年、私塾立命館京都御所の邸内に開設。
  • 明治3年(1870年)12月3日、官費によりフランス留学のため、横浜より出航。ソルボンヌ大学で学ぶ。
  • 明治11年(1878年)12月19日、正三位の位階を復す。
  • 明治13年(1880年)10月21日、横浜へ帰航。
  • 明治14年(1881年
  • 明治15年(1882年)3月11日、勲三等旭日中綬章を受章。
  • 明治16年(1883年)12月24日、参事院議官に転任。
  • 明治17年(1884年7月7日、華族令の施行により侯爵を受爵。
  • 明治18年(1885年)2月14日、オーストリア特命全権公使として赴任。
  • 明治19年(1886年)8月6日、法律取調委員を兼任。
  • 明治20年(1887年
    • 6月4日、ドイツ特命全権公使に異動。
    • 6月28日、ベルギー特命全権公使を兼任。
  • 明治24年(1891年)9月4日、帰国し、賞勲局総裁に異動。
  • 明治25年(1892年)10月7日、民法商法施行取調委員長を兼任。
  • 明治26年(1893年
    • 4月13日、法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)を兼任。
    • 11月13日、貴族院副議長に異動。
    • 12月11日、従二位に昇叙。
  • 明治27年(1894年
  • 明治28年(1895年
    • 6月5日、外務大臣臨時代理を兼任。
    • 6月21日、勲一等瑞宝章を受章。
  • 明治29年(1896年
    • 4月3日、外務大臣臨時代理を辞す。
    • 5月30日、外務大臣を兼任。
    • 6月5日、旭日大綬章を受章。
    • 9月18日、第2次松方内閣発足で引き続き、外務大臣兼文部大臣として入閣。
    • 9月22日、外務大臣を辞す。
    • 9月28日、文部大臣を辞す。
  • 明治31年(1898年
    • 1月12日、第3次伊藤内閣の文部大臣として入閣。
    • 1月21日、法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)を兼任。
    • 3月30日、法典調査会副総裁を辞す。
    • 4月30日、文部大臣を辞す。
    • 12月20日、正二位に昇叙。
  • 明治32年(1899年)、大磯に別荘(隣荘)を構える。
  • 明治33年(1900年
    • 10月27日、枢密院議長に就任し、併せて第4次伊藤内閣の班列となる。さらに、内閣総理大臣臨時代理を兼任。
    • 12月12日、内閣総理大臣臨時代理を辞す。
  • 明治34年(1901年
    • 5月2日、内閣総理大臣臨時代理を兼任。
    • 5月10日、内閣総理大臣臨時代理から内閣総理大臣臨時に異動兼任。
    • 5月14日、大蔵大臣臨時も兼任。時に、正二位・侯爵・勲一等旭日大綬章・枢密院議長・内閣総理大臣臨時・大蔵大臣臨時。
    • 6月2日、第1次桂内閣組閣により、内閣総理大臣臨時・大蔵大臣臨時を辞す。
  • 明治36年(1903年
    • 7月13日、枢密院議長を辞す。
    • 7月14日、立憲政友会総裁に就任。
  • 明治39年(1906年
    • 1月7日、内閣総理大臣に就任(第1次西園寺内閣)し、文部大臣臨時を兼任。これ以降、桂太郎と交互に組閣し、桂園時代と称される。
    • 3月3日、外務大臣臨時を兼任。
    • 3月27日、文部大臣臨時を辞す。
    • 5月19日、外務大臣臨時を辞す。
    • 8月30日、外務大臣臨時を兼任。 
  • 明治40年(1907年)9月14日、旭日桐花大綬章を受章。
  • 明治41年(1908年)7月14日、内閣総理大臣を辞す。
  • 明治44年(1911年)8月30日、内閣総理大臣に就任(第2次西園寺内閣
  • 大正元年(1912年)12月21日、内閣総理大臣を辞し、元老となる。
  • 大正3年(1914年)6月18日、政友会総裁を辞す。後継に松田正久を推薦するが、松田が急死したために原敬を後継者とした。
  • 大正6年(1917年)、大磯の別荘(隣荘)を池田成彬に売却。
  • 大正7年(1918年
  • 大正8年(1919年)1月13日、パリ講和会議の首席全権となる。静岡県庵原郡興津町 (現静岡市 清水区興津清見寺町)に別荘 (坐漁荘) を建て隠棲。以後政財界の要人が頻繁に興津の西園寺の元を訪れるようになり、「興津詣」(おきつもうで)という言葉が生まれる。
  • 大正9年(1920年)9月7日、公爵に昇叙(パリ講和会議首席全権の功による)。
  • 昭和3年(1928年)11月10日、菊花章頸飾を受章。
  • 昭和11年(1937年)10月13日、帝国経済顧問を辞す。
  • 昭和15年(1940年
    • 11月24日、薨去。贈従一位。
    • 12月5日、国葬。遺言の指示通り、書簡、資料類が焼却される。

栄典

家族・親族

正妻はなく、3人の女性を事実上の妻とした。最初の妻は新橋芸者玉八(小林菊子)で、娘・をもうけた。新は旧長州藩主毛利元徳公爵の八男・八郎と結婚し、公一不二男など三男三女を産んだ。

2番目の妻・中西房子との間には一女をもうけた。西園寺家の女中・奥村花子は、パリ講和会議に同伴させたことで話題となった。

系譜

公實―實能―公能―實定―公継―實基―公孝―實孝―公清―實時―公俊―實盛―公有―實淳―公胤―實通=公維=實久―公信―實威=公全―實憲―公城=實祖―公迪=實堅=公純―公望

  • 遺伝的には以下のようになる

東山天皇―閑院宮直仁親王―輔平-政煕―政通―公純―公望

参考文献

  • 木村毅『西園寺公望(日本宰相列伝⑤)』 時事通信社 1975年
  • 早川隆『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 162-164頁
  • 立命館大学西園寺公望伝編纂委員会『西園寺公望伝』 岩波書店、1990年、ISBN 4000087916 (第一巻)
  • 岩井忠熊『西園寺公望―最後の元老』 岩波書店、2003年、ISBN 4004308291
  • 原田熊雄『西園寺公と政局』(全8巻、別巻1冊) 岩波書店、ISBN 4002000222
  • 伊藤之雄『元老 西園寺公望』 文藝春秋、2007年、ISBN 4166606092

関連項目

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脚注

外部リンク



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月15日 (日) 13:13。












     
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