第一次世界大戦-2

前半は第一次世界大戦参照


イタリア戦線

Template:main? イタリアは名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと三国同盟を締結していたが、いわゆる「未回収のイタリア」と呼ばれた南チロルイストリアダルマチアといったオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していた。しかし1915年4月にイギリス・フランスの働きかけによりロンドン協定に調印し、オーストリアへ宣戦布告した。

伊墺国境の山岳地帯という地形的有利を得たオーストリア軍に対し、貧弱な装備しか持たないイタリア軍は苦戦を強いられた。単調な作戦ばかりのルイージ・カドルナの指揮の拙さも手伝い、戦術的勝利を重ねながら決定的な勝利を得る事ができないでいたイタリア陸軍だったが、第四次イゾンツォの戦いでオーストリア軍に打撃を与えた(この時、オーストリア軍はドイツ軍に救援を要請している)のに続き、アジアーゴ攻勢の頓挫やブルシーロフ攻勢の大敗によって弱体化していたオーストリア軍を破ってゴリツィアを占領した。イタリア軍の攻勢は既に崩壊しつつあったオーストリア軍を確実に追い詰めていき、第十一次イゾンツォの戦いでバインジッツァ高地を占領した。

しかし1917年秋、友軍の危機を救う必要があったドイツ軍は東部戦線の状態が一段落ついたこともあり、オーストリア軍に突撃歩兵を含む援軍を派遣した。指揮権もオーストリア軍からドイツ軍へと移され、10月26日にドイツ軍指揮官オットー・フォン・ベロウはロシアのブルシーロフ攻勢を模倣した浸透戦術を用いて、イタリア陸軍に大打撃を与えた(カポレットの戦い)。これにより12マイル後方のタリアメント川に下がったイタリア軍は、新たな指揮官アルマンド・ディアズと英仏の支援の元に戦線を建て直し、勢い付いたオーストリア軍をピアーヴェ川の戦いで破って進軍を押しとどめた。ディアズはヴィットリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア軍との戦いに決着を付ける。

カポレットの戦いの後、連合国側はイタリアのラパッロで会談した。其処でそれまでの個別の戦争指導を改め、ヴェルサイユに連合国最高会議を設立して各国の状況を考慮しながら統一された戦争計画を推進する事を決めた。

東部戦線

ロシアの撤退とルーマニアの敗北

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西部戦線が塹壕線で膠着した頃、東部戦線では流動的な状況が続いていた。緒戦でロシア軍はオーストリア領ガリツィアおよびドイツ領東プロイセンへ進攻したが、東プロイセンではタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗した。ロシアの遅れた経済と軍事組織では、ドイツとオーストリアとを足し合わせた国力に対抗できないことが露呈した。1915年春、ロシア軍はガリツィアから撤退した。独墺軍は5月にポーランドの南国境でゴルリッツ突破戦を実施し、著しい前進を達成した。独墺軍は8月5日にワルシャワを占領、ロシア軍はポーランド全土を放棄した。これは「大撤退」とも呼ばれる。

1916年6月、ロシア軍は東ガリツィアにおいて浸透戦術を用いたブルシーロフ攻勢を実施し、オーストリア軍に大損害を負わせた。しかし勝利した戦区の指揮官を支援することに他の将軍が躊躇したために戦果を拡大させることはできなかった。ブルシーロフ攻勢の成功を見て、8月にルーマニアが連合国側に立って参戦した。しかし弱体なルーマニア軍は短期間のうちに撃破され、12月6日にブカレストが中央同盟軍に落ちた。

セルビアの敗北とテッサロニキ戦線の開拓

セルビアは1914年8月から12月における3回のオーストリア軍の侵攻を防いでいた。1915年9月、ブルガリアが中央同盟国側に立った参戦を確約したことで、中央同盟国はセルビアへの攻勢を計画した。10月、ドイツ軍がドナウ川を渡河しベオグラードに突入、ブルガリア軍が南部国境を突破した。セルビア軍と国王はアルバニアギリシアへの逃亡を余儀なくされた。

セルビア軍の敗北の末、英仏軍はテッサロニキへ上陸してセルビア軍を支援するとともに、ギリシア政府に対して連合国側に立って参戦するよう圧力を掛けた。特にフランス軍はギリシャの中立を無視し、ギリシャのコールフ島を占拠して、新たに戦線を開げた。これはテッサロニキ戦線と呼ばれていた。1915年から1918年にかけて、イギリス、フランスおよびロシアとセルビアの残軍はこのところでブルガリアと対峙していた。1917年4月~6月、イギリス軍はブルガリアに対する攻撃に失敗したものの、ギリシャが協商国側で参戦し、協商国側は有利になった。

1918年、連合軍の総攻撃に伴い、兵力が足りないドイツ軍は連合軍に降伏した。既に戦争遂行能力に問題のあったブルガリアでは国内で反乱が起き、民衆の間で戦争をやめる掛け声が高まりつつあった。停戦が宣言されるまで反乱は止まらなかった。敗戦後の混乱で、当時ブルガリア王であったフェルディナンド1世は英仏の圧力を受け、退位しなければならなかった。

ロシア革命

right|thumb|220px|[[10月革命におけるウラジーミル・レーニン
ペトログラード 1917年]] Template:main? 戦争が長期化するにつれて、ロシア政府の戦争指導に対し、兵士と民衆の不満が増大した。皇帝ニコライ2世は内政不安についての現状認識が欠けたままであり、皇后アレクサンドラの政治はさらに無能だった。こうして各方面から抗議が巻き起こり、1916年末に保守的な貴族によりアレクサンドラの寵臣グリゴリー・ラスプーチン暗殺される事態に至る。

1917年3月、首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で起こったデモが拡大し、ニコライ2世は遂に退位を宣言、中道派臨時政府が成立した。だが戦線と国内の両方で手の付けられない大混乱が続いた。ウラジーミル・レーニンが指導する急進的な左翼ボリシェヴィキ党は、こうした混乱を権力を獲得するために戦略的に使用した。10月24日、ボリシェヴィキは武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧し、臨時政府を打倒した。

12月、ボリシェヴィキ政府は中央同盟国との休戦交渉を開始した、初めボリシェヴィキ政府はヨーロッパの労働者の蜂起を当てにして中央同盟国が出した条件を拒絶した。そうしている間に、1918年2月にボリシェヴィキと対立していたウクライナ国民共和国が中央同盟国と結び、中央同盟軍が戦争を再開、瞬く間に全ウクライナを奪回した。窮地に立たされたボリシェヴィキ政府は3月3日にブレスト=リトフスク条約に同意した。それは戦争を終結させる代わりに、中央同盟国へフィンランド、バルト地方、ポーランドおよびウクライナを含む広大な領土を割譲するという厳しい内容だった。

シベリア出兵

Template:main? ロシアが戦争から離脱したことで、日本、イギリス、アメリカをはじめとする連合軍は、革命政府に対抗する皇帝派を支援するため、革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出することを口実にロシアへ出兵した。連合軍はバレンツ海に面したアルハンゲリスクと、太平洋側のウラジオストクに上陸した。出兵は第一次世界大戦の終結後も継続され、1925年の日本軍の北樺太撤収を最後に終了した。

終盤戦

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アメリカ参戦

thumb|right|220px|[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン大統領の演説
ドイツのとの外交関係断絶を発表している]]

thumb|220px|right|[[毒ガスの被害を受けたイギリス兵
フランダース 1918年]] アメリカ合衆国は長い間モンロー主義に基づき、ヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取っていた。しかし1917年の初めにドイツが無制限潜水艦作戦を再開したこと、さらにツィンメルマン電報事件が発覚したことで、ドイツに対する世論の怒りが湧き上がり国交断絶に至った。さらに大統領ウッドロウ・ウィルソンは連邦議会へ対ドイツ宣戦を要請し、上院は82対6、下院は373対50をもってこれを決議、1917年4月6日にアメリカはドイツへ宣戦布告した。ウィルソンは、オーストリアとは別途平和を保ちたいと考えたが、オーストリアはドイツとの関係を捨てなかったため、アメリカは1917年12月にオーストリアに対しても宣戦布告した。

アメリカ陸軍と州兵はメキシコの「山賊」パンチョ・ビリャを追いかけるために、既に1916年に戦時体制を取っており、それが動員を速めるのに役立った。アメリカ海軍は連合国艦隊に参加するため大西洋各地に艦隊を送った。しかしアメリカが西部戦線へ陸軍兵力を送り込むことが可能になるまでには時間が必要だった。英仏はアメリカ軍の歩兵を英仏軍部隊へ分散させて配属させることを主張したが、アメリカ遠征軍指揮官ジョン・パーシング将軍はこれを承諾しなかった。だが、パーシングは英仏軍ではとうに使われなくなっていた正面攻撃戦術に固執し、結果としてアメリカ軍は1918年夏と秋の作戦で非常に高い死傷率を経験した。

ドイツ軍の春季攻勢

ドイツ軍は、ボリシェヴィキ政府と講和したことで、東部戦線から西部戦線へ部隊を転進させることができるようになった。西部戦線へ送り込まれるドイツ軍の増援と、新しく連合軍に加わるアメリカ軍とによって、戦争の最終結果は西部戦線で決定されることになった。皮肉なことではあるが、ブレスト=リトフスク条約で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかもしれない。

ドイツ参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフは、アメリカ軍の到着により、これ以上長引く戦争に勝利することはできないことを悟っていた。更に、戦争の長期化によりヨーロッパ全土で社会崩壊と革命の可能性が高まることを恐れるようになった。しかし、東部戦線からの増援と新しい歩兵戦術の使用により、西部戦線での迅速な攻勢によって決定的な勝利を得ることに大きな望みを賭けていた。作戦は英仏両軍の中間に攻勢をかけて分断し、イギリス軍を北に圧迫してドーバー海峡へと追いやることを目標としていた。決定的な勝利を得るために、浸透戦術の徹底、航空機の活用、詳細な砲撃計画、毒ガスの大規模な使用が図られた。

1918年3月21日、1918年春季攻勢の緒戦であるミヒャエル作戦が発動された。ドイツ軍は英仏両軍の間隙を突くことに成功し、8日間の戦闘により65キロもの前進に成功した。パリ東方100キロに到達したドイツ軍は、1914年以来初めてパリを砲撃の射程圏内に収めた。3門のクルップ製超大型列車砲がパリに183発の砲弾を撃ち込み、多くの市民がパリから脱出した。ヴィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日であると宣言した。ドイツ人の多くが勝利を確信した。

連合軍の最終攻勢

ドイツ軍の攻勢を受けて、英仏両軍は指揮系統の統一に同意し、総司令官としてフェルディナン・フォッシュが任命された。フォッシュによる巧みな戦線の再構築によってルーデンドルフが意図していた突破の可能性は消滅し、従来と同様の消耗戦の様相を呈してきた。5月にはアメリカ軍師団が初めて前線に投入され、夏までには毎月30万人の兵士がアメリカから輸送された。総兵力210万人のアメリカ軍の登場によって、それまで均衡を保っていた西部戦線に変化が生じた。

フォシュはドイツ軍の攻勢によってマルヌ付近に形成された突起部に対する攻撃を企画し、7月に第二次マルヌ会戦が発生した。攻撃はこれまでに見ない成功を収め、翌8月には突起部が解消された。この戦闘が終了した2日後にはアミアンの戦いが開始され、600輌以上の戦車と800機の飛行機を使用したこの戦闘では全前線において前線突破に成功し、ヒンデンブルクはこの8月8日をドイツ軍にとり最悪の一日と称することになった。9月になるとジョン・パーシングに率いられたアメリカ軍が50万以上の兵力を投入したサン・ミッシェルの戦いが開始された。これに続いてアメリカ軍は10個師団を投入してムーズ・アルゴンヌ攻勢を実施した。

戦争終結

ドイツ革命

Template:main? ドイツでは人的資源が枯渇し、経済的、社会的な混乱は頂点に達していた。反戦運動は頻繁に発生し、陸軍の士気は低下した。工業生産は1913年に比べて53パーセント落ちていた。ドイツに敗北が切迫しているというニュースはドイツ軍全体に広がった。海軍提督ラインハルト・シェアとルーデンドルフは、艦隊を出撃させて起死回生を図ることとしたが、出撃の情報がキール軍港の水兵まで届くと、水兵の多くは非公式の外出をとった。つまり自殺の企て以外の何ものでもないとしか思えない攻撃に参加することを拒絶したのだった。10月26日にヴィルヘルム2世はルーデンドルフを解任した。

しかしながらルーデンドルフは、1918年9月の終わりから、帝国議会のメンバー、特にマティアス・エルツベルガーが率いる与党中道派、リベラル派と社会民主党に権力を委譲していた。ルーデンドルフ自身は伝統主義的保守主義者だったが、彼はドイツを民主化する新しい改革を提起することによって、皇帝の統治を継続することができ、ロシアで見られたような社会主義革命の危険性を減らすと信じた。

社会民主党のマックス・フォン・バーデン公爵が責任者になり、和平交渉が彼の所掌下に置かれた。フォン・バーデンは立憲君主制か帝政の完全な廃止かの間で迷っていたが、1918年11月9日にフィリップ・シャイデマン帝国議事堂の最上階のバルコニーからドイツを共和国であると宣言すると、フォン・バーデンは、皇帝自身が心を決める前に、皇帝が退位する予定だと発表した。帝制は崩壊し、新しいドイツが生まれた。これがワイマール共和国である。

休戦協定

中央同盟国の中で最初に休戦協定に署名したのはブルガリアだった(1918年9月29日)。トルコは10月30日に降伏した。オーストリアとの休戦は11月4日午後3時に発効した。オーストリアとハンガリーは、ハプスブルグ体制の崩壊の時点で既に、別々の休戦協定に署名していた。

ドイツでは11月9日に共和国の成立が宣言され、ドイツ帝国は終わりを迎えた。翌日ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命した。11月11日にパリ郊外コンピエーニュの森に置かれた食堂車2419Dの車内において、ドイツは連合軍との休戦協定に署名し、11月11日午前11時に軍事行動は停止されたこの日を各国では「休戦記念日」と呼び祝っている。。公式には戦争はヴェルサイユ条約の締結により終わった。

日本の参戦

Template:main? 日本は日英同盟に基づいて連合国の一員として参戦し、陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省租借地青島を攻略、海軍は南洋諸島を攻略した他、1917年にはインド洋地中海で連合国側商船の護衛と救助活動を行った。またロシア革命後の1919年にシベリア出兵を実施した。

これらの数多くの実績により、大日本帝国も連合国の5大国の一国としてパリ講和会議に参加し、パラオマーシャル諸島などの、それまでドイツが支配下に置いていた赤道以北の南洋群島を信託統治領として譲り受けるとともに、国際連盟常任理事国となった。

戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、ドイツ軍捕虜を丁重に扱った。青島で捕獲した捕虜約4,700名は徳島県板東など12か所の収容所に送られたが、特に板東捕虜収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本人に伝えられた。ベートーベンの「交響曲第9番」はこのときドイツ人捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。

影響

犠牲者

Template:右? 古い思想の戦争のまま始められた第一次世界大戦は、開戦当時には予想もしなかった結果をもって終了した。長期にわたった戦争は膨大な犠牲者を生み出した。戦闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と推定されている。国別の戦死者はドイツ177万人、オーストリア120万人、イギリス91万人、フランス136万人、ロシア170万人、イタリア65万人、アメリカ13万人に及んだ。またこの戦争によって、当時流行していたスペイン風邪が船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る数の病没者を出した。

これまでの戦争では、戦勝国は戦費や戦争による損失の全部または一部を敗戦国からの賠償金によって取り戻すことが普通だったが、第一次世界大戦による損害はもはや敗戦国に負わせられるようなものではなかった。しかしながら、莫大な資源・国富の消耗、そして膨大な死者を生み出した戦争を人々は憎悪し、敗戦国に過酷な条件を突きつけることとなった。

ヴェルサイユ体制

第一次世界大戦は、ヨーロッパの君主制の消滅をもたらし、旧世界秩序を決定的に破壊した。ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国、そしてロシア帝国の4つの帝国が分解した。ホーエンツォレルン家ハプスブルク家オスマン家、そしてロマノフ家の4つの王家は中世以来の権力を持っていたが、この戦争中か戦後に没落した。またこの戦争は、ボリシェヴィキロシア革命を起こす契機となり、20世紀に社会主義が世界を席巻する契機となった。

1919年パリ講和会議が始まる。ドイツでは皇帝家であるホーエンツォレルン家を始めすべての王侯貴族が追放された。またヴェルサイユ条約により巨額の賠償金を課せられたために激しいインフレーションが引き起こされた。さらに条約によりドイツ人が居住する領土を割譲させられたことで、ルール問題ズデーテン問題、ポーランド回廊問題が発生した。これらの問題は第二次世界大戦の直接の原因となった。

オーストリアでも600年以上に渡って君臨してきたハプスブルク家が追放された。多民族国家だったオーストリアは、サン=ジェルマン条約により、民族自決の大義のもと旧帝国内の地域がこぞって独立、従来の4分の1にまで領土を減らされ小国に転落した。中央ヨーロッパには新しい国家チェコスロバキアユーゴスラビアが生まれ、ポーランドが復活した。

オスマントルコセーヴル条約により多くの領土を減らされた。この時イギリスがアラブ人とユダヤ人の双方にパレスチナでの国家建設を約束したことが後のパレスチナ問題につながってゆく。オスマントルコは講和締結をめぐる論争の中で崩壊し、近代民主主義国家トルコが誕生した。ギリシャとトルコの希土戦争1924年に終わるが、これが第一次世界大戦に直接起因する最後の戦争である。旧オスマン帝国の崩壊は現代につながる国際紛争の原因を生み出した。アラブ諸国とイスラエルの衝突、キプロスを巡るギリシャとトルコの対立、1980年代のイラン・イラク戦争、1990年代の湾岸戦争ユーゴスラビア紛争、そして21世紀のイラク戦争である。

国際平和への努力

第一次世界大戦による災厄の巨大さを目の当たりにしたことで、国際社会では厭戦感が広がった。戦後の国際関係においては平和協調が図られた。1920年にウィルソン大統領の提唱により人類史上初の国際平和機構である国際連盟が設立され、1925年にはロカルノ条約、1928年には主要国間で不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)が締結された。

しかしながら、これら国際平和のためのさまざまな努力もむなしく、第一次世界大戦の原因と結果をめぐる多くの戦後処理の失敗と、世界恐慌による経済危機により、共産主義がさらに勢力を得て、それに伴いイタリアではファシズムが、ドイツではナチズムが台頭する。戦争終結のわずか20年後、人類史上類のない被害をもたらす世界大戦が再び繰り返されるのである。

年表

thumb|200px|アメリカ陸軍の募兵ポスター<br />欧州における悲惨な戦状が伝えられているにも関わらず多くの若者が入隊した。<br />ポスターの人物は[[アンクル・サム。]] thumb|200px|フランスのハイ・ウッド・セメトリー<br />イギリスでは赤い[[ヒナゲシ|ポピーが第一次世界大戦における犠牲の象徴とされている]]

1914年
1915年
1916年
1917年
1918年
1919年
  • 1月28日 - パリ講和会議開会。
  • 6月28日 - ヴェルサイユ条約調印。第一次世界大戦終結。
  • 9月19日 - サンジェルマン条約(対オーストリア講和条約)調印。
  • 11月27日 - ヌイイ条約(対ブルガリア講和条約)調印。
1920年
  • 1月10日 - ヴェルサイユ条約発効。国際連盟発足。
  • 6月4日 - トリアノン条約(対ハンガリー講和条約)調印。
  • 8月21日 - セーヴル条約(対トルコ講和条約)調印。トルコ議会、批准を否決。

第一次世界大戦を題材とした作品

小説


映画

脚注

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参考文献

  • ジェームズ・ジョル池田清訳)『第一次大戦の起原』(みすず書房、1997年)ISBN 462203378X
  • ジェームズ・ジョル(池田清訳)『ヨーロッパ100年史 1』(みすず書房、1975年)ISBN 4622016990
  • バーバラ・タックマン(山室まりや訳) 『八月の砲声 上・下』(筑摩書房、2004年)ISBN 4480088679
  • リデル・ハート(上村達雄訳)『第一次世界大戦 上・下』(中央公論新社、2001年)ISBN 4120031004
  • A・J・P・テイラー(倉田稔訳)『目で見る戦史 第一次世界大戦』(新評論、1980年)ISBN 4794823215
  • ピエール・ルヌーヴァン(西海太郎編訳)『ドイツ軍敗れたり』(白水社、1987年)ISBN 4560029466
  • 室潔『ドイツ軍部の政治史 1914~1933』(早稲田大学出版部、1989年)ISBN 4657890301
  • 江口朴郎『帝国主義の時代』(岩波書店、1969)
  • 中山治一『新書西洋史7 帝国主義の展開』(講談社、1973年)ISBN 4061157175
  • 義井博『カイザーの世界政策と第一次世界大戦』(清水書院、1984年)ISBN 4389440489
  • 関榮次『日英同盟 日本外交の栄光と凋落』(学習研究社、2003年)ISBN 4054020194
  • 片岡覚太郎, C.W. ニコル『日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦』(河出書房新社、2001年)ISBN 4309223729
  • 斎藤聖二『日独青島戦争 秘 大正三年日独戦史 別巻2』(ゆまに書房、2001年)ISBN 487802058
  • ジェイ・マレイ・ウィンター(猪口邦子監修、小林章夫監訳)『20世紀の歴史13 第1次世界大戦・上 政治家と将軍の戦争』(平凡社、1990年)ISBN 4582495133
  • ジェイ・マレイ・ウィンター(猪口邦子監修、深田甫監訳)『20世紀の歴史14 第1次世界大戦・下 兵士と市民の戦争』(平凡社、1990年)ISBN 4582495141
  • 毎日ムック編集部『毎日ムック20世紀の記憶 第1次世界大戦 1914-1919』(毎日新聞社、1999年)ISBN 4620791156
  • 歴史群像編集部『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・上 1914-16 開戦と塹壕戦』(学習研究社、2008年)ISBN 9784056050233
  • 歴史群像編集部『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・下 1916-18 総力戦と新兵器』(学習研究社、2008年)ISBN 9784056050516

関連項目

外部リンク

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月13日 (木) 12:37。












     

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最終更新:2008年11月15日 22:06
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