ヨシフ・スターリン-2


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前半は、ヨシフ・スターリン参照

人となり

thumb|200px|[[1894年のスターリン]]

性格

スターリンは、帝政時代において少数民族であり一般のロシア人より格下と認識されていた、グルジア人である。身長が低く、加えて自身がグルジア人であるというコンプレックスは相当に強かったようである。人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、スターリンは異常なまでの権力欲、顕示欲の塊であり、その目的を達するためには全く手段を選ばなかった。裏切り者を絶対に許さない不寛容さと、人間を殺すことをなんとも思わない冷酷な性格の持ち主であり、粛清した政敵の写真を見て悦に入りながら故郷のグルジアワインを愛飲していたという<ref name="Nomenklatura"/>。

人間不信

スターリンはもともと人間不信だったのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちな人間不信が追加されることにより、猜疑心が極限までに加速する。特にスターリンは第一次五カ年計画とそれに次ぐ大粛清を行ったことによる死者とそれにともなう犠牲者の恨みを忘れることができず、この結果、パラノイアに冒され、常に命を狙われていると思い込むようになった。日常生活では毒殺を極度に恐れたため、彼が口にする飲食物は全てNKVDの管理下にある専用の農場や養魚場で採取され、専門家により入念に検査された。フルシチョフは、スターリンが「どこでも、誰に対しても、あらゆる事柄に関しても、敵・スパイ・裏切者の姿を見出した」と述べている。

家族

right|thumb|[[エカテリーナ・スワニーゼ スターリンの最初の妻]] スターリンは、妻子などの近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えた。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚、1908年に長男のヤーコフが生まれたが、エカテリーナは25歳で病没した。スターリンは葬儀の場で、「彼女は、私の石のような心を和らげてくれた」「人間に対する温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語った。スターリンは、息子のヤーコフに対して冷たく接した。また、独ソ戦で長男のヤーコフがドイツ軍の捕虜になったとき、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは「ナチスに寝返った息子などいない」と返答し、人質交換には一切応じなかった。ヤーコフは、1943年に収容所内で射殺された。2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとの間には、次男のワシーリースヴェトラーナが生まれた。ナジェージダは、1932年に拳銃自殺を遂げた。

ワシーリーは、周囲が気遣って空軍中将まで昇進させたが、後に身を持ち崩した。さらに、極度の酒好きがたたり、1962年アルコール依存症で死んだ。娘のスヴェトラーナだけは可愛がられたようであったが、彼女にしても、最初の恋人を「イギリスのスパイ」とみなされてシベリアに追放されている。後に他の男との間に子を儲けた際には祝福の手紙を貰ったが、結局彼女はソ連を捨てて、アメリカに亡命することとなった。彼女は亡命先のアメリカで、「父はいたるところに敵をみた。孤独感と絶望感からくる弾圧マニアだった」と語っている。 300px|right|thumb|[[1935年のスターリンと、娘スヴェトラーナ]]

臆病なる独裁者

権力の絶頂期には、部下に対して常に粛清をちらつかせながら接するようになった。スターリンの質問に「No」の返事をすると粛清であり、曖昧な返事でも粛清であり、返事を即答できなければ粛清であった。スターリンは少年時代に鞭を手にした教師に、「目を逸らすことは何かを企んでいる証拠である」と叱られた経験を持っていてこれを忠実に覚えており、スターリンとの会話の際、目を逸らした者は粛清の対象となった<ref name="nhkspecial">NHKスペシャル『赤い帝国の終焉』。このため、共産党員や軍将校がスターリンと会話する時は、必死に彼の目を見たという。しかし、逆に部下と話す時は、恐怖に怯えた顔で会話をしていたという。会議中に停電が起こり、電気がつくと、スターリンの姿が見えず、探してみると机の下で小便を流しながらブルブル震えていたという臆病さを表すエピソードが多くあり<ref name="nhkspecial"/>、非常に臆病な人物として知られている。

この性向は晩年に近づくほど酷くなり、「自分の周りにいる人間は全て敵である」という妄想に悩まされていた。あまりの恐怖に人前にでることはほとんどなくなり、部屋から出ることは稀になっていった(ちなみに被害妄想の典型的な症状である)。さらに、晩年には認知症も入り、スターリンの住居には厳重な警備が敷かれるようになった(軍隊が攻めてきても、2週間持つほど重装備であった)。スターリンの部屋は複数に分かれており、どこに泊まるのか誰にも知らされず、スターリンしか持っていない鍵を、部屋に何重にも施していた。フルシチョフの回想によると、同志との会話で、スターリンの部屋へ行くとまた鍵が増えているのだろう、と話していた。無論、勝手に入ろうものならば容赦なく粛清された。ちなみに、スターリンが部屋に入ってからまずやることは、ランプを持って部屋を隅々まで検査することであった。

Template:要出典範囲?。一方で、英国のチャーチルには強い不信感をもっていたようである。

イヴァン4世への傾倒

スターリンは、帝政ロシア時代最大の暴君、イヴァン雷帝を信奉していた。スターリンはイヴァン雷帝を自らの師と崇めていたが(スターリンが絶対権力の階段に登る過程は、規模が違うだけでイヴァン雷帝の手法を模倣したものである)、その粛清した人数はイヴァン雷帝のそれを遥かに凌駕するものだった。また、セルゲイ・エイゼンシュテインに雷帝の生涯を描かせた映画の製作を命じるも、第2部において、描写をめぐって対立。その際、イヴァン雷帝を演じた俳優ニコライ・チェルカーソフとエイゼンシュテインをクレムリンに呼びつけ、夜を徹して議論したという。一方で、スターリンはイヴァン雷帝の粛清の詰めの甘さを批判している。

ヒトラーへの共感

また、スターリンは宿敵であるヒトラーに対し、親近感を抱いていたと言われている。 長いナイフの夜では宿敵を暗殺したヒトラーに 「諸君はドイツからのニュースを聞いたか?何が起こったか、ヒトラーがどうやってレームを排除したか。ヒトラーという男はすごい奴だ!奴は政敵をどう扱えばいいかを我々に見せてくれた!」といったと言われている。 大戦末期に当時イギリスの外務大臣であったイーデンと会談した時、スターリンはヒトラーを賞賛するような発言をした。しかしイーデンが唖然としているのに気が付いたスターリンは慌てて、「ヒトラーは欲望の限界を知らないが、自分は満足というものを知っている」と発言し、西ヨーロッパへの野心が無いことを表明したという。

なお、ヒトラーもスターリンを自分に唯一匹敵する指導者(ライバル)としてスターリンを評価しており『スターリン その謀略の内幕』p.99 ヒトラーは1942年に「スターリンは我々の無条件の尊敬に値する。彼は彼なりに並々ならぬ人物であり、半ば野獣、半ば巨人である」と言明した。、ベルリン陥落寸前の1945年にも、アルベルト・シュペーアの前でスターリンを賞賛していた。ヒトラーは頑固な反共主義者として知られるが、一方でボリシェビキの政策に影響を受け、秘密警察強制収容所をソ連を参考に創設したと言われる。独ソ両国間での技術交流なども独ソ戦の開戦までさかんに行われた。さらに、トゥハチェフスキーやエルンスト・レームのような政敵の排除のやり方を、ヒトラーとスターリンは共に参考・利用した説も存在する。

反ユダヤ感情

スターリンは、少年時代からユダヤ人に対する軽蔑・嫌悪感を持っていたが、ヒトラーのような強迫観念とは異なり、帝政時代のロシアではごくありふれた偏見の域を出ないものであった。「額に汗して働かず、商売に執着している人々」というのが、長年スターリンが持っていたユダヤ人観であった。指導者になってからも、党・政府の役職にユダヤ人(ラーザリ・カガノーヴィチマクシム・リトヴィノフ等)を重用し、反ユダヤ主義は犯罪であるとして糾弾する等、公式には自身の反ユダヤ感情に触れることを避けていた大粛清ではカーメネフ・ジノヴィエフ・ラデック等がユダヤ人である点には触れられなかった。トロツキーについても、『プラウダ』などの風刺画で、額にハーケンクロイツを付けた姿など「ナチスの手先」として描かれることが多く、ユダヤ人であることには言及されなかった。が、私生活の場では、連日催されていた深夜の酒宴などにおいて、仲間たちと共にユダヤ人に対する軽蔑・嫌悪を話題にしては楽しんでいた。また、第二次世界大戦中には娘・スヴェトラーナの最初の恋人、アレクセイ・カプレルがユダヤ人であったことから、彼を逮捕してヴォログダ収容所での重労働刑を宣告している。

しかし、冷戦に入る頃には、ユダヤ人に対して、ヒトラーと同質の強迫観念に取り付かれるようになり、ソビエト体制の転覆を企むシオニズムの手先・破壊分子としてソ連国内のユダヤ人を危険視するようになった<ref name="bouryaku20080807">『スターリン その謀略の内幕』p.39-40<ref name="kgb20080807">『KGBの内幕』下巻p.73-84。その典型例が医師団陰謀事件である。なお、スターリンは最晩年の1953年、「ユダヤ人問題の最終的解決」と称してソ連国内のユダヤ人全員をシベリアおよびカザフスタンに強制収容する計画を実行する予定であったといわれるが、スターリンの死によりこの計画は中止となり後継者のベリヤにより逮捕されていたユダヤ人も全員釈放されたため実現しなかった<ref name="bouryaku20080807"/><ref name="kgb20080807"/>。

ロシアにおける反ユダヤ主義はスターリンの支配下で大幅に高まったことが指摘されている<ref name="bouryaku20080807"/>『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯』下巻p.429-430 p.440。

他人からの印象

残虐極まりなく、悪の帝王そのもののような印象を受けるが、外部からの訪問者と話す時は常に口元に微笑を浮かべ、謙虚であり、他人を持ち上げるなどして、好感を持たれる男であった。トロツキーとの権力闘争の時、トロツキーがレーニンの遺書を公表し、遺書どおりにトロツキーらがスターリンに書記長の座を降りるように要求した時、スターリンは一切反論をせずに反省の弁を述べ、書記長の座を降りることを明言している。しかし、この時スターリンは「私はしがない事務屋ですが、あなたたちのお力になりたいのです」などとカーメネフたちに持ち上げて接触していた。既に地盤を固めていたスターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフらの反対によって、書記長の座に留まったのである。その後カーメネフらがトロツキーの権力を殺ごうと人民委員の座を降りるように提案した時、スターリンはトロツキーを擁護し、提案に反対している(後に解任した)。これは、他の党員に自身の寛容さを見せるためである。

しかし、政敵を超える権力を持ち始める頃から本性を表し始め、他の党員が気づいた時には、もはやどうにもできない程の絶大な権力を握っていた。このようにスターリンは、腹に一物も二物も持ち、本性を全く相手に感じさせず、仮面を被ることに長けていた。このため、スターリンが本性を現すまで、古参党員の多くは彼のことを取るに足らない小物と考えていた。

容貌

一般的に知られているスターリンの容貌は、毅然とした美男子であるが、これはプロパガンダ用の写真や絵(ロシア貴族風に描かれている)の影響であって、実際には大きく異なる。グルジア人である彼の目と眉毛は釣り上がっており、「アジア人」というあだ名をつけられていた。またソ連時代「腕の短いヤツ」とはスターリンを意味する隠語であった。

スターリンに会ったことがある国連大使が言うには、「スターリンの顔は醜い痘痕顔であり、片手(左手)に麻痺がある風采のあがらない小男」であったという。片手の麻痺は少年時代の病気(後述の天然痘とも、それとは別の病気とも言われている)によるもので、ポツダム会談などでの映像をよく見ると、左手はまるで義手を装着しているかのようにほとんど動かない。つまり、拍手をしている写真や左手を動かしている写真の人物は影武者である。さらに、片方の足の指の一部がくっついていた『スターリン その謀略の内幕』p.31 帝政ロシアの警察による記録では、左足の第2指および第3指が癒着していることが記されている。。

また、スターリンの身長は163cm程度でこれを非常に気にしていたため、シークレットブーツを履いており、写真で写る時は遠近法で大きく見せる為に必ず前の椅子で座っていた(ヒトラーも、シークレットブーツを履いていたというが記録によると175cmで当時のドイツ人としては決して低くないためデマと考えられている)。『レーニンをミイラにした男』という本によると、スターリンの防腐処理を担当したデボフという男が言うには、スターリンの顔は天然痘によってできるあばたと茶色のシミでいっぱいで、プロパガンダ用の写真や絵とは大きくかけはなれており、衝撃を受けたということである。

なおヤルタ会談での映像を見ると頭頂部にハゲ(てっぺんはげ)があるのが確認できる。ただし、こうした会談に出てくるのは影武者だという説もある。

スターリンが天然痘に冒されたのは少年時代のことであるが、写真では確認できないものの、白黒の動いているスターリンのビデオをよくよく見てみると、顔がすだれているのが確認できる。しかし、レーニンの隣に遺体を展示されている時は、プロパガンダのためにエンバーミングされ、がっしりした体つきであばたも無くなっていた。

映画では1930年代後半からミハイル・ゲロヴァニがスターリン役として定着していたが、メイクはあくまでプロパガンダのスターリンの様相であったのは言うまでもない。実際のスターリンの容貌は1970年代より配役が多かったヤコヴ・トリポーリスキィの方が近い。

エピソード

Template:共産主義?

  • スターリンは、少年時代に父親から受けた虐待を忘れることはできなかった。彼の変名「コーバ」は、グルジアで広く読まれたアレクサンドル・カズベギ作による英雄物語の主人公の名で、その題名は「父殺し」といった。
  • 政権を握ってからは、故郷のグルジアから多くのワイン・ブランデー・ジャム・チーズ・ヨーグルトなどの食材を取り寄せさせて、自分の母親の手料理にできるだけ近い味を再現させるよう料理人に要求した。
  • スターリンは昼頃に起床し、午後から仕事を始めていた。そのため仕事が終わるのは午前1~3時の間が多く、さらに、仕事が終わってから部下を呼び出しパーティを開くということを頻繁に行っていた。側近は普通に仕事をしていたので、仕事が終わってからスターリンの呼び出しをくらい、朝まで付き合わされるということがしばしばあり、寝不足な部下が多かった。さらに、スターリンは部下が酒に酔い潰れるのを見て楽しんだため、部下は酒を浴びるほど飲むことを命ぜられたこの行為には部下の忠誠度をチェックする目的もあったとされ、スターリンは部下たちを泥酔させながら、自身は水を飲んで酒に酔っているふりをしていたこともあったといわれる。。そのためスターリンの側近は全員、腎臓や肝臓を患った。
  • スターリンの趣味の一つに、映画鑑賞があった。アメリカの映画をよく取り寄せさせて側近たちと観ており、側近の一人に翻訳をさせていた。しかし英語がわからぬ側近ばかりで、実際にはアドリブで適当な言葉をしゃべっていた。
  • 権力の絶頂期、よく側近を呼んでパーティを開いていたが、食事は、最初にとるということは絶対にせず、部下に毒見をさせてから食べていた。
  • 車で移動する時、装甲車並みの車を必ず自分で運転をして、先頭車両を必ず取り、目的地に着くまでにランダムに迂回していた。
  • スターリンが赤の広場など公衆の面前に姿を現すときは、徹底的に秘密警察により観客の身体検査が行われ更に観客の両側を青い帽子を被った隊員らが式の行われている間中、観客の様子を監視したという。また、式を見下ろすことが出来る建物の窓は全て占拠され狙撃手が配備された。迂闊に立ち入り禁止区域に入った人間は即座に射殺されたと言われる。
  • 猜疑心の強いスターリンはホー・チ・ミンと初めて出会ったとき、スパイと疑っていた。ホー・チ・ミンはスターリンに会えた感激で、スターリンにサインを求めたとき、不承不承に応じた。しかし、部下に命じてホー・チ・ミンの留守中にサインを強奪して取り戻し、ホー・チ・ミンが、サインがないことに気付いて慌てていた様を聞いて喜んでいた。
  • 長男のヤーコフがドイツ軍の捕虜となったときは「捕虜見殺し命令」を出した後で、スターリンは、息子が自分を困らせるためにわざと敵に捕まったのだと考えた。スターリンは父親としての愛情を微塵も見せず、「男なら堂々と死ねばよいのに」と怒り、捕虜交換による釈放には一切応じなかった。が、後にゲオルギー・ジューコフがヤーコフの安否を聞いたとき、スターリンは「あいつは死を選ぶだろう」と沈痛な面持ちで話し、食事に手をつけなかった。程なくしてヤーコフは、収容所にて、警備兵によって射殺された。
  • 自分の肉親にも冷酷なスターリンであったが、母親のエカテリーナには頭が上がらなかった。彼女は息子の計らいでカフカスの宮殿に住んだが、粗末な一室で質素な生活を続け、グルジアのジャムや果実を毎年のようにスターリンに送った。1935年、スターリンが、死が近付いた母に会いにカフカスを訪問した際、「お母さん、僕はツァーリみたいな仕事をしてるんだよ」と言うと、エカテリーナは、「司祭になってもらいたかったのにねえ」と嘆息した。国民はこの母親の言葉に大層喜んだというが、「どうしてお母さんは僕をあんなにぶったの?」「そのお陰でお前はこんなにいい人になったんだよ」という会話は伝えられていなかったという。
  • 1938年3月15日、スターリンの盟友ブハーリンが処刑された。ブハーリンは死の直前、スターリンに最後のメッセージを送っていた。「コーバ。なぜ私の死が必要か?」の出だしで始まるこのメッセージは、スターリンが自身の机の抽斗に入れたまま、スターリンの死後まで公開されなかった。
  • 1936年大粛清の最中軍司令官イオナ・ヤキールが、処刑される直前にスターリン宛に冤罪を訴えるメッセージを送った。スターリンはそれに「悪党」、さらに「淫売」と書き込んだ。それに続けて、スターリンの部下たちも彼を罵倒する言葉を次々と書き込んだ。後に彼が、「スターリン万歳」と叫んで銃殺されたことを聞いたスターリンは、ヤキールを「偽善者めが!」と口汚く罵った。また、彼の境遇を哀れんで処刑時に不意に涙を流したと言われる銃殺隊長も、後に処刑された。
  • 独ソ戦の最中、スターリンは将官を呼びつけて無理難題を強いた。そのときの返事次第では、スターリンの顔色が青ざめ、残酷な目つきになった。特に瞳が黄色を帯びると、相手はどう返事してよいかわからなかった。
  • スターリンの猜疑心は、年とともに強まった。70歳の誕生日の祝いにベリヤが立派な別荘を贈呈し、スターリンはその別荘を見にいった。が、美しい樹木に囲まれているのが気に入らず、「これは何かの囮かな?」と言うなりさっさと帰っていった。その後、スターリンがその別荘に行くことは二度となかった。
  • 1941年日ソ中立条約調印後のレセプションの場で、スターリンは松岡洋右外相にこう尋ねた。「プロフェッサー・コニシをご存知かな。是非お会いしたいのですが」。「コニシ」とは、京都大学教授・小西増太郎(1861~1940)のことで、留学中にモスクワの下宿で若き日のスターリンと部屋が隣で、親交を結んでいた。1940年の暮、小西は近衛文麿の密命を帯びてスターリンと面談するためロシアに渡ることに決まっていたが、その直前に急逝していた。スターリンはそのことを知らなかったようである。なお、野球解説者の小西得郎は増太郎の子息であり、その祖先は安土桃山時代の武将、小西行長であった。
  • 1945年6月24日、モスクワにて対ドイツ戦の戦勝パレードが行われた。ロシアの慣習では、勝利した司令官が騎乗することになっていて誰もがスターリンにその栄誉が与えられると思っていた。だがその1週間前、スターリンは、「私は年をとったので乗れんよ」と断り、ジューコフ元帥を指名した。翌日、ジューコフのもとにスターリンの次男ワシーリーが来て、「ここだけの話ですが、昨日父は乗馬の稽古中に落馬して肩と頭を打ってしまった。父は忌々しげにつばを吐いてジューコフにさせろと言ったのです。その馬に乗るのです」と告白した。ジューコフは感謝し、スターリンを振り落とした馬で練習を行い、本番で見事に乗り回した。
  • 毛沢東を小物扱いしており、革命の熱気が高まればすぐ溶けるという意味合いで「マーガリン共産主義者」などと呼んでいた。1949年12月の初対面では、毛を冷遇し、政治的な意見の対立もあって両者は打ち解けなかった。翌年2月、毛は市内のメトロポールホテルにてお別れの宴会を催し、スターリンは差し入れをもって出席した。クレムリンか別荘の宴会しか出席しないスターリンにとっては異例のことであったが、スピーチで「チトーのように勝手な真似をすると惨めなことになりますよ。」と脅迫めいたことを延べ、毛をけん制した。
  • モスクワの自宅の温室には熱帯や温帯の植物が植えられ、スターリンはその世話をするのが趣味であった。大戦後はレモンの栽培に凝りだし、来客に次々とレモンを食べさせ「私が育てたんだ。それもモスクワでだぞ!」と自慢した。
  • 1939年の冬戦争でソ連軍は大した作戦も立てずに進行した結果、ゲリラ戦を取るフィンランド軍に惨敗した。スターリンは、旧友であり元帥でもあるクリメント・ヴォロシーロフに全ての責任を擦り付け、口汚く罵った。しかし、それまで一度も彼に歯向かったことが無かったヴォロシーロフがこのときばかりは、「(敗戦の責任は)あなたの粛清によって、多くの優秀な軍人たちが殺されたからではないですか!」と言い返した。スターリンはすぐさまヴォロシーロフを罷免したが、さすがに反省し、追放されていた軍人たちを急遽呼び戻した。ちなみにヴォロシーロフはその後もクレムリンで生き残り、ソビエト最高会議幹部会議長になっている。


語録

  • 「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字だ」
  • 「愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする」
  • 「死が全てを解決する。人間が存在しなければ問題は起こらない」
  • 「君たちは戦車の上に百貨店を造るつもりかね」(多砲塔戦車の設計スタッフに対する皮肉。これをきっかけにソ連では多砲塔戦車の開発が中止された。)
  • 社会主義が成功すればするほど階級闘争はそれだけ激しくなる」
  • コルホーズ反対の反乱農民は富農であり、すべての富農を撲滅せよ」
  • 「赤軍には捕虜は存在しない、存在するのは『反逆者』のみである」(冬戦争後、政府当局が公式に示した敵に捕らえられたロシア人捕虜に対する態度)
  • 「ろくでなしがくたばりやがった」(ベルリン陥落の際、ヒトラー自殺の報告を聞いて)
  • 「あいつは銃をまっすぐに撃つこともできんのか」(長男ヤーコフがピストルによる自殺未遂で失敗した時)
  • 「チベット攻撃? けっこうなことだ」(毛沢東からチベット侵攻の許可を求められた時の返事)
  • 「人命以外何も失ってはいない」(朝鮮戦争の休戦を求める金日成の要請に対しての返答)
  • 「我々は同じアジア人だ」(1941年4月13日日ソ中立条約調印時、スターリンが日本の松岡外相に言った言葉)
  • 「うちのヒムラーです」(ポツダム会談の折、米英首脳に腹心の内務人民委員部長官ベリヤを紹介したときの言葉)
  • 「策略を十分に練って、敵を完膚なきまでに倒したその晩に、上質のグルジアワインを飲む時だな」(記者から、「一番幸せな時は?」と聞かれたときの言葉)
  • バチカンは、何個師団の軍事力を有しているのか」(スターリンが、国家の実力を軍事力でしか判断できないことを示すエピソード)。
  • 「では、われわれが農業集団化を実行したとき、なぜ黙っていたのですか。あの時だって200万人も死んだのですよ」(1937年、粛清の行き過ぎを仲間に指摘されて)
  • 「よく刑務所なんかに入っている暇があったもんだ。戦争が始まったよ」(独ソ戦開始後、粛清された仲間を釈放して呼び出したときの冗談)
  • 「ゾルゲは日本で小さな工場か売春宿でも経営しているに違いない!」(リヒャルト・ゾルゲからもたらされた、ドイツ軍のソ連進攻についての情報を読んだときの反応)
  • 「兵士たちに少しぐらい、自主性を発揮させてやれ!」(1945年春、赤軍がドイツ人避難民に向けて砲撃をおこなったり、占領地でドイツ人女性を強姦していることについての返答)
  • 「やれやれ、ドイツ人と一緒なら、我々は無敵だったのに!」(娘スヴェトラーナの証言。冷戦が深刻化した晩年、ナチス・ドイツとの同盟を懐かしんで繰り返した言葉)
  • 「私はアジア人のことはよく知っているがね、あいつらとは時と場合によってはきびしく接しないといかんね」(1939年、ドイツの外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップとの会話での発言)
  • 「奴は人殺しだ。1938年に多くの無罪の人々を殺した。だから銃殺したのだ」(スターリンの指示で粛清を実施し、後に自らも粛清されたニコライ・エジョフについての言葉)
  • 「私はもうおしまいだ。だれも信用できない。自分さえも」(1951年、スターリンがフルシチョフとミコヤンにつぶやいた言葉)
  • 「チャーチルという奴は、見張っておかないと君のポケットから1コペイカ失敬するような男です。そう、たった1コペイカのためにポケットに手を突っ込むんです。ローズヴェルトは違う。彼はもっと大きな銭を取ろうとしてポケットに手を突っ込む」(1944年、ユーゴスラビアのジラスに語った米英両首脳の比較)
  • 「いつまでも復位させることはない。しばらく連れ戻しておいて、適当な時に背中にそっとナイフを突き立てればよいのさ」(1944年、ユーゴスラビアのチトーとの対話で、退位したユーゴスラビアのペタル王の処遇についての発言)
  • 「戦争は呪いである。我々は地上の全ての民衆と、平和のうちに暮らす事を望む」(1934年に、スヴェン・ヘディンウルムチのロシア・クラブの壁の赤い幕に、金の刺繍で縫い付けられていたのを目撃したもの)

著作物

  • 『レーニン主義の基礎』 スターリン全集刊行会翻訳 大月書店 1952年 ISBN 4272820109
  • 『マルクス主義と民族問題』
  • 『マルクス主義と言語学の諸問題』
  • 『ソ連邦における社会主義の経済的諸問題』

なお、全集も存在する。

参考文献

  • バーナード・ハットン著/木村浩訳 『スターリン』 講談社学術文庫 1989年 ISBN 4061588982
  • 産経新聞/齋藤勉『スターリン秘録』 産経新聞ニュースサービス ISBN 4594030750
  • ステファヌ・クルトワ/ニコラ・ヴェルト 『共産主義黒書(ソ連篇)』 2006年 恵雅堂出版 4874300278
  • エドワード・ラジンスキー著/工藤精一郎訳 『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯(上、下)』 日本放送出版協会 1996年 ISBN 4140802553、ISBN 4140802561
  • ジョレス・メドヴェージェフ&ロイ・メドヴェージェフ 共著/久保英雄訳 『知られざるスターリン』 現代思潮新社 2003年 ISBN 4329004283
  • ユーリイ・ボーレフ著/亀山郁夫訳 『スターリンという神話』 岩波書店 1997年 ISBN 4000010662
  • ロバート・コンクウェスト著/片山さとし訳 『スターリンの恐怖政治(上・下)』 三一書房 1976年
  • ドミトリー・ヴォルコゴーノフ著/生田真司訳 『勝利と悲劇 スターリンの政治的肖像(上・下)』 朝日新聞社 1992年 ISBN 4022564369 ISBN 4022564377
  • アラン・ブロック著 鈴木主税訳 『対比列伝 ヒトラーとスターリン』全3巻 草思社 2003年
  • ニコライ・トルストイ著/新井康三郎訳 『スターリン その謀略の内幕』 読売新聞社 1984年 ISBN 4643543604
  • クリストファー・アンドルー、オレク・ゴルジエフスキー共著/福島正光訳 『KGBの内幕(上・下)』 文藝春秋 1993年 ISBN 4163482105、ISBN 4163482202
  • ルドルフ・シュトレビンガー著/守屋純訳 『赤軍大粛清』 学習研究社 1996年 ISBN 4054006507
  • 亀山郁夫著 『大審問官スターリン』 小学館 2006年 ISBN 4093875278
  • アブドゥラフマン・アフトルハノフ著/ 田辺稔訳 『スターリン謀殺―スターリンの死の謎 ベリヤの陰謀』 中央アート出版社 1991年
  • 福田ますみ著 『スターリン 家族の肖像』 文藝春秋 2002年 ISBN 416358160X
  • デービッド・シプラー著/ 川崎隆司監訳『ロシア ‐ 崩れた偶像・厳粛な夢(上・下)』 時事通信社 1984年 ISBN 4788784300、ISBN 4788784319
  • King, David The Comissar Vanishes, Metropolitan Books, 1997, ISBN 0-8050-5294-1

脚注

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関連項目

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Video

外部リンク





  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年11月18日 (火) 00:22。










    
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