フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt, FDR, 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家。ローズベルト、ローズヴェルトとも(アメリカ英語音は「ローズヴェルト」に近い)。民主党出身の第32代アメリカ大統領(1933年 - 1945年)。アメリカ史上唯一、4選された大統領で、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持つ大統領でもある。ウィンストン・チャーチル、ダグラス・マッカーサーとは遠戚関係にある。
ルーズベルトは、任期中に世界恐慌と第二次世界大戦を経験し、20世紀の国際政治における中心人物の一人だった。ルーズベルトのニューディール政策はアメリカ合衆国経済を世界恐慌のどん底から回復させた。アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。しかし、戦争協力を取りつけるためヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取ったことは、後に批判の対象となった。彼の平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。
ルーズベルトの評価は立場によって正反対に変わってくる。自由主義者から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は恐慌への対策を具体化したものとして評価され、はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ大統領として評価される。それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党に弱者救済という新たな目的を打ち出し、この二つの支持基盤を合わせる事によってニューディール連合と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。
だが、第二次世界大戦中における日系人の強制収容や、アフリカ系アメリカ人の公民権運動に対する失政が批判の対象となっている。この民主党政権としての貧困層と人種マイノリティという同じ弱者に対する矛盾した態度の解決はジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンまで持ち越される事となる。一方、ロナルド・レーガンのような保守的な指導者は、ルーズベルトの社会施策におけるリーダーシップを賞賛した。
しかし、現在においては小さな政府を唱える保守派はルーズベルトのニューディールにきわめて否定的評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。だが「炉辺談話 fireside chats」に象徴されるように国民との対話を重視したとされ、アメリカ国民が「歴代大統領で最も尊敬する指導者は?」と聞かれると上位に位置する人物でもある歴代アメリカ合衆国大統領のランキングに拠れば各種調査でほぼ上位5傑に入っている。ように、アメリカ国民からの人気は高い。
フランクリン・ルーズベルトは1882年1月30日にニューヨーク州北部のハイドパークで生まれる。彼の父親ジェームズ・ルーズベルト (1828 – 1900) は、デラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。ルーズベルト家は1650年頃にオランダのハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダムと呼ばれていた)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まるユダヤ系の家系とする説がある(※ ルーズベルト家はクリスチャン・もともとの姓はローゼンベルツ)。1788年にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり、それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。
18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(19世紀には民主党支持となる)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家(共和党支持)の二つに分かれる。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領のセオドア・ルーズベルトはフランクリンのの従兄弟であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた。ジェームズ・ルーズベルトはオイスター・ベイの一家の集いで妻に出会い、またフランクリンはセオドア・ルーズベルトの姪と結婚する予定であった。
フランクリンの母親サラ・デラノ (1854 – 1941) は、フランス系プロテスタント教徒(ユグノー)であり、彼女の祖先は1621年にマサチューセッツに移住したフェリペ・デ・ラ・ノイであった。彼女の母親ライマンはアメリカの非常に古い家系のうちの一つの出身であった。フランクリンはサラが生んだ唯一の子供であり、ジェームズはフランクリンが生まれたとき54歳と高齢であったため、サラはフランクリンの幼少時に非常に支配的な影響を与えた。フランクリンは後に友人に生涯母親を恐れていたと語っている。
この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリンは学校には通わずに家庭教師の手によって教育を施された。父母や家庭教師などに過保護に育てられ、同世代の子供と交わる機会はほとんどなかった。14歳の時、名門グロトン校に入学を果たしたものの、周りに父母や家庭教師しかいない環境と厳しい寄宿舎生活とのギャップにとまどい、学校にはあまりなじめなかったという。
フランクリンは1904年にアイビーリーグのひとつハーバード大学、および1908年同じくアイビーリーグのコロンビア大学ロースクールを卒業した。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。
1908年にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、1905年の聖パトリックの祝日にセオドア・ルーズベルトの姪のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。彼らは6人の子供をもうけた。4番目の息子エリオットは作家となった。
28歳で民主党ニューヨーク州議会上院議員に選ばれた後、ルーズベルトは次の役職を歴任した。
1920年の大統領選で、ルーズベルトは民主党大統領候補ジェームズ・M・コックスの副大統領候補だった。
ルーズベルトの1932年の大統領選挙戦は、「三つのR - 救済、回復および改革」(Three R's - relief, recovery and reform.)の綱領で世界恐慌と戦うとして行われた。彼はそのスピーチの中で“ニューディール”の用語を造った。「私は誓約します。私は、米国民のための新規まき直し政策を誓約します。 I pledge you, I pledge myself, to a new deal for the American people.」。1932年の選挙における勝利後の1933年2月15日に、ルーズベルトはフロリダ州マイアミで暗殺されそうになったFreidel, Frank. Franklin D. Roosevelt (4 vol 1952–73), the most detailed scholarly biography; ends in 1934. 。暗殺者はシカゴ市長アントン・J・サーマクを殺害した。
世界恐慌に対しては有効的な対策を取れないまま大統領職を退いた前任のハーバート・フーヴァーに対し、「ニューディール政策」と呼ばれる、政府による経済への介入(積極的な経済政策)を行なった。団体交渉権保障などによる労働者の地位向上・テネシー川流域開発公社 (TVA) などの大規模公共事業による失業者対策・社会保障の充実などの政策を行って克服を図ったが、なかなか成果が上がらず、やがて労使双方から反発もおきるようになった。
しかしながら、1941年の第二次世界大戦参戦による軍需の増大によってアメリカ経済は回復し、失業者も激減した。近年では太平洋戦争が無くても成功したのではないかという意見と、最初から太平洋戦争の開戦が無ければ成功しえない政策であったという意見が対立し、議論の対象になっている。
なお、当時最も浸透していたメディアであったラジオ放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した、メディアを巧みに利用した大統領として知られている。ルーズベルトの行った毎週のラジオ演説は「炉辺談話 fireside chats」と呼ばれ、国民に対するルーズベルトの見解の発表の場となった。それはルーズベルトの人気を支え、大戦中のアメリカ国民の重要な士気高揚策となった。
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | フランクリン・D・ルーズベルト | 1933 - 1945 |
副大統領 | ジョン・ナンス・ガーナー | 1933 - 1941 |
ヘンリー・A・ウォレス | 1941 - 1945 | |
ハリー・S・トルーマン | 1945 | |
国務長官 | コーデル・ハル | 1933 - 1944 |
エドワード・ステティニアス | 1944 - 1945 | |
陸軍長官 | ジョージ・ヘンリー・ダーン | 1933 - 1936 |
ハリー・ハインズ・ウッドリング | 1936 - 1940 | |
ヘンリー・L・スティムソン | 1940 - 1945 | |
財務長官 | ウィリアム・ウッディン | 1933 - 1934 |
ヘンリー・モーゲンソウ | 1934 - 1945 | |
司法長官 | ホーマー・S・カミングス | 1933 - 1939 |
ウィリアム・F・マーフィー | 1939 - 1940 | |
ロバート・H・ジャクソン | 1940 - 1941 | |
フランシス・ビドル | 1941 - 1945 | |
郵政長官 | ジェームズ・A・ファーレイ | 1933 - 1940 |
フランク・C・ウォーカー | 1940 - 1945 | |
海軍長官 | クロード・スワンソン | 1933 - 1939 |
チャールズ・エジソン | 1940 | |
ウィリアム・フランクリン・ノックス | 1940 - 1944 | |
ジェイムズ・フォレスタル | 1944 - 1945 | |
内務長官 | ハロルド・L・アイクス | 1933 - 1945 |
農務長官 | ヘンリー・A・ウォレス | 1933 - 1940 |
クロード・レイモンド・ウィッカード | 1940 - 1945 | |
商務長官 | ダニエル・C・ローパー | 1933 - 1938 |
ハリー・L・ホプキンス | 1939 - 1940 | |
ジェス・H・ジョーンズ | 1940 - 1945 | |
ヘンリー・A・ウォレス | 1945 | |
労働長官 | フランシス・パーキンス | 1933 - 1945 |
1939年に始まったヨーロッパにおける戦争に対しては、当初イギリス寄りではあったものの、武器援助以外には基本的には介入しない政策を取っていた。これは、第一次世界大戦に参戦した経験からヨーロッパの戦争に関わるのは極力避けたいと考えていたアメリカ国民の世論を意識してのことであった。
220px|thumb|蒋介石の妻の[[宋美齢とエレノア]] 当時ヨーロッパ戦線においてアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に押され気味であったイギリスのウィンストン・チャーチル首相や、日中戦争下にあった中華民国の蒋介石総統の夫人でアメリカ留学経験もある宋美齢が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦や日中戦争におけるアメリカの支援、参戦をルーズベルトに訴えかけており、この様な背景が「ルーズベルトが第二次世界大戦へ参戦したがっていた」という意見の根拠になっている。
ただし、ルーズベルトが参戦を望んでいたのはアメリカの権益・領土に直接害が及ばないヨーロッパ戦線であり、ハワイやフィリピンなどの、アメリカ領土や植民地に直接被害が及ぶ可能性の高く、(ヨーロッパと太平洋の)二つの戦線で戦うことになる対日開戦には消極的であったとも言われている。
なおルーズベルトは、1939年にレオ・シラードとアルベルト・アインシュタインのからの書簡を契機に、原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画を推進した。
220px|thumb|駐機するアメリカ軍機を警護する[[中華民国軍の兵士]]
right|220px|thumb|[[アメリカ軍兵士の監視下で強制収容所に運ばれる日系アメリカ人]] いずれにしてもルーズベルトは、1937年の支那事変勃発後に日中戦争で中国国民党を追い込む日本に圧力をかけ、大量の物資を援蒋ルートを通じて蒋介石率いる中華民国の国民党政権に送り続けた。また自らが率先して組織させたアメリカの「退役軍人」を中心とした義勇軍「フライング・タイガース」や「軍事顧問」を中華民国に派遣させるなど、日本に対する態度を硬化させていった。
1941年3月にはレンドリース法(武器貸与法)により大量の武器・軍需物資を中華民国へ援助した。大日本帝国陸軍の北部仏印進駐を契機に日米関係は悪化し、ルーズベルト政権はくず鉄を始めとする各種資源の対日禁輸に踏み切った。
その後、日本が南部仏印進駐を行うと、在英米蘭の日本資産凍結、日米通商航海条約の廃棄、対日石油禁輸といった強行的な政策を立て続けに行った。1年間にわたる日米交渉を続けるもハル・ノートにより交渉も破綻、ついに1941年12月7日(日本時間で12月8日)の日本軍の真珠湾攻撃により大東亜戦争(連合国側の呼称は太平洋戦争)が開戦した。
ルーズベルトは、真珠湾攻撃を報告され「これは戦争ということだ」と言っている。その後、イギリス首相チャーチルに「我々は同じ船に乗りました、日本は攻撃してきました」と発言している。その後議会で日本軍の「卑劣なだまし討ち」を非難し、宣戦布告の誓約に署名した。
幾人かの歴史家や野党の共和党議員などは、「ルーズベルトは真珠湾攻撃についての情報を前もって入手しており、アメリカが第二次世界大戦に参戦する理由づけとしてそれを看過した」と主張しているが、「知っていた」とする証拠は存在せず、一般には陰謀論と見られている。また、ルーズベルトの親族がアヘン戦争の頃から中国とアヘン貿易を手広く行っていたことから、ルーズベルト本人も中国人に対して同情的、かつ友好的な考えを持つ親華派であったことが、日中戦争に関する政策に影響を与えたとする見方がある。さらに、日本の中国大陸や仏領インドシナにおける活動が、アメリカの満州や中国大陸、東南アジアへの進出に邪魔になるためそれを排除しようとしていたという説もある。
実際に、蒋介石と宋美齢による働きかけを受け、上記のようにアメリカ軍人のクレア・L・シェンノートを中国大陸において日本軍と対峙する中華民国国軍に「軍事顧問」として派遣すると同時に、戦闘機などの軍事物資を送り、「アメリカ義勇航空隊(通称:フライング・タイガース)」を組織させていた。なお、アメリカ義勇航空隊による中国大陸における活動を、「事実上のアメリカによる日中戦争に対する参戦」と見做す意見もあるが、日米開戦前からアメリカは戦闘に向けた準備は行っていたものの、様々な障壁から直接に戦闘を開始するのは日米開戦後である。
イギリスのロナルド・キャンベル駐アメリカ公使がイギリス政府へ行った報告によると、ルーズベルトは「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」と信じていたという。「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが日本人は除外する」とキャンベルに語ったという。
この様な自らの人種差別的感情と、第二次世界大戦以前からのアメリカにおける日本人に対する人種差別的感情を背景に、1941年12月の対日開戦後には、エレノアからの反対を押しのけて、大戦中にアメリカ国内とアメリカの影響下にあったブラジルやメキシコ、ペルーなどの中南米諸国において、日系人の強制収容政策を推し進めた。
220px|thumb|カイロ会談で[[蒋介石とチャーチルとともに]] ルーズベルトは、大戦中に数度にわたり他の連合国首脳と会談している。1943年1月14日には、イギリスのチャーチル首相と会談するためフロリダ州マイアミからモロッコのカサブランカに出発した。彼は飛行機で外国を訪問した最初のアメリカ大統領になった。会合は1月24日に終えた。
同年11月にはエジプトのカイロで行われたカイロ会談において、中華民国の蒋介石総統とチャーチル首相とアジアにおける戦後処理について話し合った。
その後チャーチル首相とともにイランのテヘランに移動してソ連のヨシフ・スターリン書記長と会談。1945年2月にはスターリン書記長、チャーチル首相とともにヤルタ会談に出席した。しかし、この頃になるとルーズベルトの体調は悪化し、急激に痩せ衰えていたことがヤルタ会談での映像・写真から見て取れる。ヤルタ会談においてルーズベルトは、ドイツ降伏後も当分の継続が予想された対日戦を早期に終結させるため、スターリンに対し、千島列島、南樺太のソ連への割譲を条件にドイツ降伏後3ヶ月以内の対日参戦を要求した。その一方で露骨な領土的野心を露わにしていたスターリンの要求をほぼ丸呑みする形となり、戦後の東西冷戦を招く要因を作ったとも言われる。
ルーズベルトは共和党候補トーマス・E.デューイに勝ち、1944年11月7日に先例のない4選を果たした。しかしながら肖像画の制作途中、1945年4月12日の昼食前に脳卒中で死亡し、副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。その後5月にはドイツが降伏、8月には日本が降伏して第二次世界大戦が終結する目前の死であった。
なお、この時、当時のドイツ政府はアドルフ・ヒトラーが公式声明を発表。「ルーズベルトは今次の戦争を第二次世界大戦に拡大させた扇動者であり、さらに最大の対立者であるソ連を強固にした大統領として史上最悪な戦争犯罪者として歴史に残るだろう」とルーズベルトを徹底的に罵倒し、死を喜ぶ声明を発した。
一方、日本の鈴木貫太郎内閣は同じく敵国であったにも拘らず、「今日の戦争においてアメリカが優勢であるのは、ルーズベルト大統領の指導力が極めて優れているからです。その偉大な大統領を失ったアメリカ国民に、深い哀悼の意を送るものであります」と同盟通信社の短波放送で、ルーズベルトの死を悼む内容の声明を発表した。墓はニューヨーク市のウッドロン墓地にある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月21日 (火) 14:08。