満鉄調査部(まんてつちょうさぶ)は、戦前に存在した南満州鉄道の調査機関である。 設立は明治40年(1907年)。
1906年に南満州鉄道(満鉄、総裁後藤新平)が発足した翌年、満鉄調査部が設置された。当初は満鉄の経営のための調査をはじめ中国東北地区などの政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究を行なったが、その後の日本の中国進出の拡大に呼応してその対象を広げ、中国そのものを対象とした本格的な調査研究も行うようになっていった。
他方、多数の調査要員を必要としたこともあり、日本国内で活動の場を失っていた多数の自由主義者、マルクス主義者などを取り込むようになり、やがてその活動は軍部の忌避するところとなって2度にわたる弾圧事件を受け、活動を縮小した。
満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクであるとしばしば形容される。日本の敗戦と満州国の消滅により満鉄が消滅した後も、満鉄調査部出身の調査員でその後の日本の政財界や学界で活躍した例は少なくない。変わったところでは、歌謡歌手の東海林太郎がいる。『国境の町 東海林太郎とその時代』(北方新社・菊池清麿・著)に詳しい。
「調査部」の名称は満鉄内部の複雑な組織再編により一定せず、また「東亜経済調査局」「経済調査会」など本来の「調査部」以外の満鉄内調査機関も一般には広義の「調査部」とみなされている。したがって、ここでは狭義の「調査部」以外の満鉄の調査機関についても特に断らない限りは「調査部」の名称で一括して言及することとする。
調査部は満鉄初代総裁後藤新平の「文装的武備」という満州経営構想の下に設立された。彼自身の言葉を借りれば、その内容は「文事的施設を持って他の侵略に備え、一旦緩急あれば武断的行動を助くるの便を併せて講じ置く事」であり、満鉄における調査活動は鉄道経営・産業開発・付属地行政と並ぶ「四大業務」の一として位置づけられた。創立初期に発足した満鉄の調査機関としては、調査部以外にも東亜経済調査局・満州及朝鮮歴史地理調査部・中央試験所(1907年に関東都督府管轄機関として設立されたが満鉄に移管)・地質研究所(1907年に満鉄鉱業部内の地質課として設置されたものが独立)がある。
1917年のロシア革命の勃発は、ロシア極東地域及びそれに隣接する満蒙地域へ日本が勢力を拡張する絶好の機会とみなされた。これにともない満鉄調査部では、調査課ロシア係主任の宮崎正義を中心にロシア・満蒙地域の研究が盛んに行われた。その結果満鉄調査部は「ロシア研究のメッカ」とみなされるようになり、1910年代末には多くの帝国大学卒業者が調査部に入社するようになった。1919年に東京帝国大学新人会の中心的活動家だった佐野学が調査部入りすると、彼の影響を受けて伊藤武雄などが多数入社している。また大川周明や笠木良明などのちに右翼団体行地社結成に向かう人々もこの時期に調査部入りしている。
1932年の満州国成立にともない、満鉄は関東軍から満州国の経済政策の立案を要請されるようになった。この受け皿として作られたのが経済調査会(経調)であり、経調は十河信二委員長(満鉄理事)のもと、宮崎正義を中心に佐々木義武らも加わり、単なる調査機関にとどまらず政策立案機関として「関東軍の手足」となり活動することとなった。彼らは、のちの企画院への出向も含め、その後の戦後日本の高度経済成長期に多大な影響を与えた。この経調で活躍したのが大上末広などの新人社員であり、彼らは1933年から『満州経済年報』の編集に関与して農村救済策を軸とした産業政策を主張し、経調派もしくは年報派と称されるグループを形成した。満州国の政策立案が一段落すると、経調は日本軍による分離工作が進行していた華北地域の調査活動に次第に重心を移すようになり、1936年には産業部に改編、ついで調査部と改称された。
1937年の満鉄改組にともない社内での調査業務の比重が大きくなると、松岡洋右総裁の構想に基づき1939年に東亜経済調査局・北支事務所・上海事務所調査課・中央試験所・満蒙資源館・大連図書館などが調査部に統合され、いわゆる「大調査部」が発足した。この体制のもとで「支那抗戦力調査」を初めとする一連の総合調査が実施されていった。大調査部発足の前後から調査部では大幅な人員増強が図られ、「思想的前歴者」すなわち左翼運動からの転向者が即戦力として大量に入社することとなった。石堂清倫はその代表例である。多くの場合調査部内の資料課に配属された彼らは、外来派と称されるグループを形成し、綜合課を拠点とした先述の経調派との間で、日中戦争の認識や満州社会の変革の展望をめぐって激しい論争を展開した。やや時期はさかのぼるが、『満州経済年報』に大上末広が講座派の方法によって満州社会を分析した論文を執筆し、それを鈴木小兵衛が批判したことをきっかけに始まった「満州経済論争」の背景には、こうした対立関係があったという見方もある。以上のような調査部でのマルクス主義的方法論の浸透を「満鉄マルクス主義」と呼ぶことがある。
調査部員の多くは、1942年から1943年にかけて起こった2次の満鉄調査部事件で関東憲兵隊により検挙された。この結果調査部の機能はほぼ失われ、第2次検挙直前の43年5月に調査局に改編されて大幅な活動縮小を余儀なくされた。調査部は敗戦による満鉄解体を待たずして事実上解体されたといえる。
東亜経済調査局発行の雑誌については当該項目を参照のこと。
元調査部員による回想は戦後早い時期から現れているが、本格的な調査部論としては『中央公論』1960年12月に発表された児玉大三(小林庄一の筆名)の「秘録満鉄調査部」が最初期のものである。この論文は、調査部が自由主義と植民地主義の二つの性格をもち、軍への協力か否かで内部に対立が存在していたとしている。これは現在広く流布している満鉄調査部のイメージの原型を形づくったとものであるといえよう。さらに左翼知識人にとっての「自由な楽園」という、いわば「調査部神話」を定着させたとされるのが1964年に刊行された伊藤武雄の『満鉄に生きて』であった。このような調査部の神話化に対して反論を加えた一人が、やはり元調査部員である石堂清倫であり、彼は経調派・外来派も含め「満鉄マルクス主義」の非実践的な側面に対し懐疑を表明した。
満鉄調査部は終戦とともに消滅の運命となったが、その構成員は戦後の様々な分野で活躍することとなる。 産業界・学術界・政界、特に政界は左右問わず人材を輩出した。
なお、1958年には、満鉄調査部の手法・組織の影響を強く受けた通産省所管の財団法人アジア経済研究所が設立されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月17日 (土) 03:29。