平泉澄

平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)2月16日 - 1984年(昭和59年)2月18日)は、日本の歴史学者東京帝国大学教授白山神社第3代宮司、名誉宮司。皇学館大学学事顧問。文学博士。号は布布木の屋・寒林子・白山隠士。専門は日本中世史。福井県出身。

戦前戦中に、いわゆる皇国史観を主導し、政治・社会・学界に大きな影響を与えた。

略年譜

  • 1895年(明治28年)、誕生。
  • 1901年(明治34年)、龍池尋常小学校入学。
  • 1905年(明治38年)、成器高等小学校入学。
  • 1907年(明治40年)、大野中学校入学。
  • 1912年(大正元年)、第四高等学校入学。
  • 1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学国史学科入学。
  • 1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大学国史学科卒業。
  • 1921年(大正10年)、文部省宗教制度調査嘱託。
  • 1923年(大正12年)、東京帝国大学講師。
  • 1926年(大正15年)、東京帝国大学助教授。論文「中世に於ける社寺と社会の関係」により文学博士の学位を取得。
  • 1930年(昭和5年)、欧米外遊。翌年、帰国。
  • 1935年(昭和10年)、東京帝国大学教授。
  • 1945年(昭和20年)、太平洋戦争敗戦に伴い、東京帝国大学教授を辞任。
  • 1948年(昭和23年)、公職追放。1952年(昭和27年)に至り、追放解除。
  • 1984年(昭和59年)、死去(89歳)。

略伝

少年時代

1895年(明治28年)2月16日(戸籍は2月15日)、福井県大野郡平泉寺村平泉寺(現在の福井県勝山市)に生まれる。父は平泉寺白山神社第2代宮司の平泉恰合(大畠清右衛門の子、初代宮司の平泉須賀波の養子)、母は勝山藩島田将恕の娘、貞子。「澄」の名は、白山の開祖である泰澄の1字をとって名付けられたといわれている。幼少の頃より古典に親しみ、父より『源平盛衰記』や『古事記』、母より百人一首を読み聞かせられた。

1901年(明治34年)4月、龍池尋常小学校に入学。尋常小学校入学当初は、人とあまり触れ合うことがなかったため、女子児童に脅かされては泣き出すという子どもであったが、在学中の1904年(明治37年)に「露国討たざるべからず」の1文を作る。これが確認できる平泉の最初の著作である。

1905年(明治38年)4月、成器高等小学校に進学し、1907年(明治40年)4月に大野中学校に入学した。読書が好きな少年で、『源氏物語』『太閤記』などの日本の古典のほかに、『唐詩選』『孟子』などの中国の古典も読んだという。この頃より歴史の考証に興味を抱き、1912年(明治45年)のはじめに、平泉が生まれた白山神社の歴史を纏めた『白山神史』を編み、友人の十時進らと朝倉氏の史跡探訪に出かけたりした。また、弁論活動に積極的に参加し、後年文筆・講演活動に邁進する平泉の下地が、このころに形成された。また、1911年(明治44年)に、十時進とともに意見書(「秋霜帖」)を大野中学校長に提出。これは、とある反国家主義的な教師の罷免を求めたものである。

1912年(明治45年)、優秀な成績で大野中学校を卒業した平泉は、無試験で石川県金沢市第四高等学校に入学した。入学当初は、故郷の福井を郷愁し、悩みぬいた末、当時流行した人格主義に染まりかけていたが、やがてそれからも脱し、中学時代から続けた歴史の研究にますます熱中することとなる。当時の高等学校の学生は、人格主義・理想主義を経てマルクス主義に変化する者が多かったが、平泉は人格主義に傾くことなく、中学時代に形成した伝統主義的価値観に回帰していった。

東京帝大学生時代

1915年大正4年)、東京帝国大学文科大学国史学科に入学。入学間もない同年12月、東大内の山上御殿で行われた国史談話会の席で、越前国の郡数増加と僧天海の名の起源についての研究を発表した。大学在学中は専ら図書館に通い、勉学三昧の毎日であったという。大学入学当初は研究の領域は広範であったが、次第に日本中世史に興味が傾き、「頼朝と年号」(黒板勝美へのリポート)、「座管見」、「中世に於ける兵農僧の区別」を『史学雑誌』に発表した。

こうした勉学の甲斐あって、1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大学国史学科を首席で卒業した(卒業論文は「中世に於ける社寺の社会的活動」)。卒業式の際、大正天皇より恩賜の銀時計を受けた。以後、卒業式や優等生制度が廃止されたため、平泉は最後の銀時計組となった。その後、一切の就職を断り、直ちに東京帝国大学大学院に進学、研究に専念する生活を過ごした。平泉が就職を一切断ったのは、彼の指導教官である黒板勝美の指示があったからである。特に平泉の史料編纂掛への入所については、黒板が反対してやめさせた。平泉が、史料編纂掛に入所することによって、学者としての視野が狭くなることを懸念した黒板の配慮によるものであるが、その一方で復古的国史観を持つ、三上参次辻善之助の史料編纂掛派と、西洋史学の手法を導入すべきであるとする、黒板勝美の国史学科派との対立もその背景にあるといわれる。

こうしたなか、平泉は史料編纂掛や図書館を中心に勉学に励む一方、史学会委員として『史学雑誌』の編纂に従事したり、日光東照宮社史の編纂や帝国学士院の推薦によって五辻宮守良親王の事蹟の研究、文部省から宗教制度調査を嘱託された。また、大学時代からの日本中世史研究も進化させ、1923年(大正12年)のはじめ、論文「中世に於ける社寺と社会の関係」を東京帝国大学に提出、1926年(大正15年)3月に、文学博士の学位を授与された。

東京帝大の教員に

1923年(大正12年)、教授萩野由之の退官にともなって、東京帝国大学講師となった。時に28歳。教授辻善之助とともに国史学第二講座の担当となり、日本中世史を講じた。1926年(大正15年)、教授三上参次の退官にともない、平泉は中村孝也とともに助教授に昇任。引き続き日本中世史を講じた。当時の国史学科の陣容は、第一講座が辻善之助教授(肩書は当時。以下同じ)、第二講座が平泉(教授は欠員)、第三講座が黒板勝美教授であった(中村孝也は講座の担当はなし)。ただし、辻は史料編纂掛が本官であり、黒板は1927年(昭和2年)から1928年(昭和3年)に外遊したため、国史学科の一切は平泉が取り仕切ることとなった。この頃の平泉の中世史研究は、社会史を中心に中世を総合的に把握するというものであった。こうした平泉の新しい学風は当時の学生には好意的に受けとめられていて、その関係も非常に良好であった。平泉自身も学生の指導に熱心で、1925年(大正14年)より1年間、自宅に学生を集めて、洞院公賢の日記『園太暦』の講読会を行った。昭和に入り、専門の日本中世史研究を進める一方、日本精神近世思想家の研究を行うようになる。こうした研究を行う背景には、羽仁五郎らを中心とする左翼史学の台頭を牽制する意図があった。

欧米外遊と東大教授就任

1930年(昭和5年)3月、欧米に外遊するため横浜港を出港。歴史研究法の追求と大学の史学研究室の在り方、フランス革命の研究を目的とした。ドイツではハインリッヒ・リッケルトベネデット・クローチェを訪ね、フランスではフランス革命の研究、イギリスでは、エドマンド・バークの思想研究や、エドマンド・ブランデンを訪ねた。

1931年(昭和6年)7月、外遊の期間を短縮して帰国。帰国後、日本中世社会の研究よりも、日本精神や近世の勤皇思想家、建武中興の研究に力を注ぐようになった。あわせて、当時の東大国史学科を支配していた左翼的史学を一掃すべく、学生の教化にも力を注いだ。それは、平泉が東大で担当した講義にもあらわれるようになり、例えば、1932年(昭和7年)度の中世史の講義では、水戸学の思想を講じ、翌1933年(昭和8年)度には建武中興1934年(昭和9年)に至ってはフランス革命史を講じたのであった。また、1932年に東京帝大内に結成された学生団体「朱光会」の会長に就任し、1933年4月には、私塾「青々塾」を開いた。平泉は学生の教化の場を、学内のみならず学外にも求めた。

左翼学生運動抑制の対策のため、文部省は1930年に、高等学校に対して特別講義制度を設けた。欧米外遊後の平泉は直ちにその学生の思想教導に携わり、特別講師として、全国の高等学校や専門学校で「日本精神の復活」や「神皇正統記と日本精神」などと題する講義を行った。

1935年(昭和10年)2月、史学会の常務理事に就任し、同年3月には、黒板勝美の停年退官にともない、東京帝国大学教授に昇任。1938年(昭和13年)には、辻善之助が停年退官したため、平泉は東京帝大国史学科と史学会の実力者となった。平泉は国史学科の副手と史学会委員を自らの門下生に充てる人事を行った。学生への教化および態度はより一層厳しいものとなり、平泉に反発する学生は次第に当時名誉教授となっていた辻善之助や教授中村孝也のもとに集まるようになった。

政界・軍部とのかかわり

平泉は、政界や軍部とのかかわりが深かった。1927年(昭和2年)、初めて秩父宮雍仁親王に、1929年(昭和4年)、高松宮宣仁親王に初めて謁見、以後幾度か懇話や進講を繰り返した。その後、1932年(昭和7年)12月には、昭和天皇に「楠木正成の功績」を進講した。また政界では、近衛文麿木戸幸一と親交があり、軍部では、陸軍においては皇道派と、海軍においては艦隊派との関係が深かったという。1933年(昭和8年)頃から、軍の教育機関において講義を行うなど、軍人教育にも関与をするようになり、1934年(昭和9年)頃から、青年将校らが青々塾に入塾するようになり、平泉と軍部との関係は、一層深くなっていった。

1933年4月、平泉は満洲を視察し、満洲国執政溥儀と会見した。この満州旅行は平泉にとって満洲国の関係者や軍部との繋がりを深くし、彼自身も、その後何度も満洲を訪ねることとなる。1938年(昭和13年)に満洲に開学した建国大学の創設に関与し、平泉自身は総長候補に擬せられた。1940年(昭和15年)3月、平泉は満洲に渡って、皇帝溥儀に「日本と支那及西洋諸国との国体及び道義の根本的差異に関する講話」を、6回にわたり進講した。

1936年(昭和11年)2月、二・二六事件が勃発。平泉は事件直後、秩父宮雍仁親王・高松宮宣仁親王の両宮に対して、事件が鎮静化するまで、昭和天皇を補佐することを述べ、近衛文麿を中心に荒木貞夫末次信正を補佐として、事態を収拾すべきであるという考えを示した。ただ、平泉が描いたように事は進まず(近衛が首相就任を固辞し、代わりに広田弘毅内閣が成立するなど)、事件後、海軍との関係が悪化するなど(のち、海軍との関係は回復)、平泉の取り巻く環境は微妙なものになってしまった。しかし陸軍との関係は、皇道派が事件によって一掃したにも関わらず、平泉自身は、軍派閥にかかわらなかったため継続された。

第二次世界大戦と東京帝大教授辞職

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争開戦。開戦直後に平泉は海軍の勅任嘱託となった。平泉は開戦直後より、戦局を楽観視していなかった。が、開戦以後、戦争支持・協力の意思を公式に表明し、軍の教育機関での講義を繰り返し行うようになる。ミッドウェー海戦の敗戦後、平泉は太平洋戦争の敗戦を意識するようになったという。1944年(昭和19年)2月頃には、東條英機内閣を倒して皇族内閣、具体的には東久邇宮稔彦王の擁立を画策していたといわれる。その後、東條内閣が倒れ、小磯国昭内閣が成立したが、小磯内閣の成立について、平泉は皇族内閣でなくてはならないとし、不満を抱いていたという。

小磯内閣成立後、平泉は国家総力戦に備えるべく、陸海軍を統合して皇族を総参謀長にする体制作りと、特攻作戦の実施を島田東助に伝え、1945年(昭和20年)になると、陸軍大臣阿南惟幾に昭和天皇の松代大本営行幸案に対して反対の意を示し、さらにはアメリカ本土への空爆を主張した。ポツダム宣言が受諾された8月10日以降には、一部の将校が徹底抗戦を主張して平泉に決起を促した。だが、平泉は「承詔必謹」(天皇の命令には必ず従わなければならない、という意味)を唱えて、彼等の主張に乗らず、そのため青々塾出身の将校の中には、平泉の態度に憤慨した者もいたという。結局、平泉門下の者も含めて一部将校らは、ポツダム宣言受諾表明前夜の1945年8月14日に宮城事件を引起したものの、このクーデターは失敗に終わっている。

戦争が終結した1945年8月17日、平泉は敗戦の責任をとって東京帝国大学教授を辞職した(辞表の日付は昭和20年8月15日)。辞表を提出した後、その結果を聞くことなく、直ちに白山神社に帰郷し、昭和21年、白山神社第3代宮司に就任した。

戦後の平泉

平泉は、東京帝大教授を辞職したあと、故郷での隠棲生活に入ることはなかった。終戦間もない1945年から1946年(昭和21年)にかけて、福井と東京を幾度も往復し、終戦後も存続していた青々塾での講義や、高松宮宣仁親王に面会するなど、平泉の行動は活発であった。ただ、終戦後すぐに福井に帰郷したためか、GHQより戦犯追求を免れた。終戦後しばらく平泉への処分は下されなかったが、1948年(昭和23年)3月になって、ようやく公職追放の処分が下された。

その後、1951年春から夏にかけて、しきりに追放解除が行われたが、7月14日朝のラジオは、徳富蘇峰・平泉を始め、数名の著述家は、追放を解かない事を告げた。徳富より平泉に送られた書簡には、「御同様、光輝アル追放ニ候得バ、何レニテモ結構ト存居候」と、その心境を語り、平泉も同意している。

1952年(昭和27年)に至り、公職追放の処分が解除されたあとは、戦前とは変わらない活動をするようになった。1954年(昭和29年)には東京銀座に国史研究室を設置し、1958年(昭和33年)には東京都品川区に居を移し、講演活動のため全国各地を巡る、あわただしい生活を送った。しかし1970年代に入ると、講演活動の数を減らし、喜寿を迎えた1971年(昭和46年)には、1954年以来参加していた千早鍛錬会に参加しなくなり、1974年(昭和49年)には、銀座に設置していた国史研究室を閉鎖。福井に帰り、事実上の隠退生活を送ることとなった。福井に帰ってからは、静かに歴史学の研究を続けていたが、1984年(昭和59年)2月18日、肺炎のため、自宅である平泉寺白山神社にて歿した。

評価

平泉の研究者としての成果は、初期の『中世に於ける社寺と社会の関係』『中世に於ける精神生活』のわずか2冊でほぼつきており、学者としてはそれほど多産だったわけではない。ただしこの2冊は、のちの網野善彦らによるアジール研究や黒田俊雄寺社勢力論へとつながるものであり、その先行者としての評価が与えられることもある。しかしこれとても網野や黒田の力量によるところが大きいとする意見も有る。今日、平泉の名は、もっぱら代表的な皇国史観論者として記憶されている。彼が最も華々しく活躍したのはいわゆる軍国主義時代であった。平泉の歴史観が天皇中心のいわゆる皇国史観に則っており、これが時代の要求に合致していたためである。しかしながら、彼の主要著作のほとんどは、近代日本における「価値観」で「忠臣」の顕彰と「逆臣」の罵倒に終始したに過ぎず、歴史学者として評価できるものではない、との批判も強く、同世代の歴史学者のなかで最も否定的な評価をされてきた。今日にあっても、歴史学界での平泉への評価は「歴史学の徒花」と否定的なものが主流である。

しかしそれゆえに、戦後主流となった、普遍的な視点から分析・考察された歴史よりも、日本人としての視点から、あるいは愛国的な立場から評価された史論を求める保守系の人々の中には、信奉者や紹述者も多い。それゆえに著作は版を重ねており、近年では復刊も相次いでいる。例えば『少年日本史』(1970年)などは『物語日本史』と改題して講談社より出版されており、1979年以降今日に至るまで続くロングセラーとなっている(例えば皇學館高等学校が、副読本として採用している)。また、門下生であり、平泉史学の継承者の一人と目される田中卓は、その著書『平泉史学と皇国史観』の中で、平泉のそれは『皇国護持史観』であって、『皇国美化史観』とはことなり、それ故に平泉史学は、(価値観が大きく変化した)戦後にあってなお健在なのである、と主張している。そして田中は、「平泉史学の特色は、人格主義・伝統主義に立脚し、具体的には国史の中で、すぐれた人格を先哲・忠臣・義士に求め、正しい伝統を万世一系の皇統、天皇政治の中に論証されたことである」と、評価している。

著書

単著

  • 『中世に於ける精神生活』 至文堂 1926年4月 / 錦正社 2006年12月
  • 『我が歴史観』 至文堂 1926年5月 / 皇学館大学出版部 1983年4月
  • 『中世に於ける社寺と社会の関係』 至文堂 1926年11月 / 国書刊行会 1983年10月
  • 『日本歴史物語』中(日本児童文庫) アルス 1928年6月 / 名著普及会 1981年6月
  • 『国史学の骨髄』 至文堂 1932年9月 / 錦正社 1989年10月
  • 『武士道の復活』 至文堂 1933年12月 / 錦正社 1988年10月
  • 『建武中興の本義』 至文堂 1934年9月 / 日本学協会 1983年5月
  • 『忠と義』(増補版) 私家版 1935年10月
  • 『万物流転』 至文堂 1936年11月 / 皇学館大学出版部 1983年6月
  • 『伝統』 至文堂 1940年1月 / 原書房 1985年5月
  • 『菊池勤王史』 菊池氏勤王顕彰会 1941年4月 / 皇学館大学出版部 1977年3月
  • 『天兵に敵なし』 至文堂 1943年9月
  • 『芭蕉の俤』 日本書院 1952年5月 / 錦正社 1987年2月
  • 『名和世家』 日本文化研究所 1954年1月 / 皇学館大学出版部 1975年9月
  • 『白山社の栞』 白山神社社務所 1956年3月
  • 『山河あり(正・続・続々)』 立花書房 1957年10月~1961年6月 / 錦正社 2005年3月
  • 『解説近世日本国民史』(徳富蘇峰原著)時事通信社 1963年3月
  • 『父祖の足跡(正・続・続々・再続・三続)』 時事通信社 1963年6月~1967年7月
  • 『寒林年譜(正・続)』 私家版 1964年4月~1987年2月
  • 『寒林史筆』 立花書房 1964年7月
  • 『革命と伝統』 時事通信社 1964年11月
  • 『解説佳人之奇遇』(柴四朗原著)時事通信社 1970年5月
  • 『明治の源流』 時事通信社 1970年6月
  • 『少年日本史』 時事通信社 1970年11月 / 皇学館大学出版部 1974年1月 / 『物語日本史』上・中・下 講談社 1979年2月 / 英訳版『THE STORY OF JAPAN』Ⅰ─Ⅲ 青々企画 1997年6月~2002年7月
  • 『先哲を仰ぐ』(増補版) 日本学協会 1972年5月
  • 『楠公 - その忠烈と余香 - 』 鹿島出版会 1973年8月
  • 『山彦』(増補版) 立花書房 1975年4月 
  • 『慕楠記』(慕楠黒木博司の記録)岐阜県教育懇話会 1975年7月
  • 『日本の悲劇と理想』 原書房 1977年3月
  • 『明治の光輝』 日本学協会 1980年5月
  • 『悲劇縦走』 皇学館大学出版部 1980年9月
  • 『家内の思出』 鹿島出版会 1983年5月
  • 『首丘の人 大西郷』 原書房 1986年2月
  • 『平泉澄祝詞集』 私家版 1988年2月
  • 『続銀杏落葉』 私家版 1989年2月
  • 『柿の落葉』 私家版 1990年2月
  • 『Diary』 私家版 1991年2月
  • 『この道を行く - 寒林子回顧録 - 』 私家版 1995年5月
  • 『平泉博士史論抄』 青々企画 1997年2月
  • 『寒林子詠草』 日本学協会 2004年2月

編著

  • 『東照宮史』本編 東照宮社務所 1927年12月
  • 『闇斎先生と日本精神』 至文堂 1932年10月
  • 『神皇正統記』(白山本・影印版) 三秀舎 1933年4月 
  • 『神皇正統記』(日本思想叢書) 文部省社会教育局 1934年3月
  • 『神皇正統記』(白山本・活版) 国幣中社白川比咩神社 1933年4月
  • 『楽翁公伝』 岩波書店 1937年11月
  • 『大橋訥庵先生全集』上巻 至文堂 1938年6月
  • 『大橋訥庵先生全集』中巻 至文堂 1939年2月
  • 『後醍醐天皇奉賛論文集』 至文堂 1939年9月
  • 『大橋訥庵先生全集』下巻 至文堂 1943年7月

監修

  • 『武教本論・武教小学・武教全書講録』(日本学叢書第4巻) 雄山閣 1938年10月
  • 『正名論・及門遺範・弘道館記述義』(日本学叢書第8巻) 雄山閣 1938年11月
  • 『保建大記・保建大記打聞』(日本学叢書第2巻) 雄山閣 1938年12月
  • 『中朝事実』(日本学叢書第1巻) 雄山閣 1939年2月
  • 『靖献遺言並講義』(日本学叢書第3巻) 雄山閣 1939年3月
  • 『志士遺文集』(日本学叢書第10巻) 雄山閣 1939年5月
  • 『奉公心得書・柳子新論』(日本学叢書第6巻) 雄山閣 1939年7月
  • 『創学校啓・歌意考・直毘霊・講本気吹颫』(日本学叢書第7巻) 雄山閣 1939年9月
  • 『神儒問答』(日本学叢書第5巻) 雄山閣 1939年12月
  • 『弘道館記述義(下)・保建大記(下)・保建大記打聞(下)』(日本学叢書第12巻) 雄山閣 1940年2月
  • 『中朝事実(下)』(日本学叢書第11巻) 雄山閣 1940年4月
  • 『靖献遺言並講義(中)』(日本学叢書第9巻) 雄山閣 1940年7月
  • 『靖献遺言並講義(下)・報徳外記(下)』(日本学叢書第13巻) 雄山閣 1940年9月
  • 『出雲国風土記の研究』 出雲大社 1953年7月
  • 『北畠親房公の研究』 日本文化研究所 1954年11月(増補版1975年3月 皇学館大学出版部)
  • 『大日本史の研究』 立花書房 1957年11月
  • 『近世日本国民史附図』 時事通信社 1960年9月
  • 『要約近世日本国民史』1 - 10 時事通信社 1967年4月 - 1968年1月
  • 『歴史残花』1 - 5 時事通信社 1968年3月 - 1971年7月

校訂

  • 『江都督納言願文集』 至文堂 1929年4月
  • 『後法興院記』 至文堂 1930年5月 
  • 『日本書紀』(大日本文庫 国史篇) 春陽堂 1934年12月
  • 『神皇正統記・愚管抄』(大日本文庫 国史篇) 春陽堂 1935年10月
  • 『日本外史』上巻(大日本文庫 国史篇) 春陽堂 1936年5月
  • 『大鏡・増鏡』(大日本文庫 国史篇) 春陽堂 1936年11月
  • 『大日本史』1(大日本文庫 国史篇) 春陽堂 1937年6月
  • 『日本外史』下巻(大日本文庫 国史篇) 大日本文庫刊行会 1938年2月
  • 『続日本紀』上巻(大日本文庫 国史篇) 大日本文庫刊行会 1938年12月  
  • 『泰澄和尚伝記』 白山神社 1953年11月
  • 『近世日本国民史』(徳富蘇峰著)第1期:第77巻 - 第100巻 時事通信社 1960年9月 - 1962年8月
  • 『近世日本国民史』(徳富蘇峰著)第2期:第51巻 - 第76巻 時事通信社 1962年9月 - 1963年9月
  • 『近世日本国民史』(徳富蘇峰著)第3期:第1巻 - 第50巻 時事通信社 1963年10月 - 1965年10月

逸話

以下に示す他にも、戦後様々な人が平泉に関する(多くは平泉を批判する内容の)逸話を紹介している。例えば、平泉の自宅に「事実を無視せよ」という横額が掛かっていた。あるいは、研究室に備えられていた社会経済史関係の雑誌を有害であるとして撤去させたといった話がある。しかし、こういった逸話の多くは後に作られたもので、事実ではないという指摘もなされているし、中には検証を待つまでもなく、荒唐無稽な話も有る。逸話の真偽は置くとして、平泉の個性が各人に与えた印象なり、彼に対して寄せられた敬愛と嫌悪の感情を逸話は示している。

  • 出隆によれば、ふだんは謹厳にすましこんでいるので、「すまし(澄)」とも呼ばれていた。
  • 同じく出隆によれば、出がヘラクライストの「万物流転」について説明すると、これを聞いた平泉はただちに、史料編纂所の史料編纂事業について、ただ史料をごたごたに寄せ集め書き写すだけでその編集方針が一定せず、「我が大日本の肇国以来の歴史」を一貫する「大精神」を忘れているから、「歴史」になっていない、とその無方針・無精神を批判した。出はロゴスの話からただちに『大日本史』の精神を連想し、さらに史料編纂所を非難するところなど「感心し、また寒心した」という。
  • 学生を呼ぶ時には「○○君」と呼ばずに、必ず「○○さん」または「○○氏」と呼んだ。この話は家永三郎の証言により、林健太郎も同様の証言をしている。ただ、平泉がこだわったのは、「とは、日本の君主たる、天皇陛下のほかにありえない」という理由からであり、平泉はその論拠として、源頼朝が、重源が迂闊にも頼朝を「君」と呼んだことに、頼朝が苦言を呈したことを挙げている。『徴古文書・東大寺俊乗房重源宛返書』によると「兼ねて御消息の、君御助力ならずばと候は、頼朝の事にて候か。然れば君の字は恐れ候ふこと也。自今以後も、更に有る可からず候者也」とある。平泉はこの話に触れてより、「○○君」や「諸君」の語を使わないようにしたという。ただ、学生などに「君」を使用しないよう指示はしなかったと言われている。
  • 家永三郎は学生時代平泉の講義を受けて「極端な日本主義で到底ついて行くことができなかった」と述べている。
  • 玉村竹二によると、黒板勝美は留学から帰国した平泉に大きな期待をかけていたが、その豹変に怒って平泉の悪口をいうようになっていったという。
  • 国家の柱石と信ずる先哲には、講義であっても、例えば吉野朝廷(南朝=明治天皇の南北朝正閏の裁定に拠る)側の人物に、「楠木正成公」などと敬称つきで呼んだという。ただし学術論文では、敬称をつけていない。
  • 学生が卒業論文に、中世農民史を取り上げたいと申出たところ、平泉は「百姓に歴史がありますか?」と問い、学生が答えられずにいると、重ねて「豚に歴史がありますか?」と、問いただしたといわれる。この話は、後に元東北大学名誉教授で日本社会史・農民史研究で有名な中村吉治の体験による。また、北山茂夫に対しては、「百姓が何百万おろうが、そんなものは、研究の対象にはならない。かれらは上御一人の恩恵で生を全うできる存在にすぎない」とも語ったという。
  • 平泉門下の集会では、平泉の著書を「頭の上におしいただいて」勉強していた。それほどに、平泉はカリスマ性を帯びており、道の学問として敬愛されていたとする者もいる。しかし、この光景を見て「とてもついていけない」と考えた者もいた。
  • 陸海軍士官に支持者が多く、五・一五事件二・二六事件宮城事件などに影響を与えたともいわれているが、平泉との直接の関係は無い。平泉は「陛下の軍隊」を勝手に動かすことに対して批判的であったようである。
    • 二・二六事件ではなかなか事態が収拾に向かわないのを憂慮し、自ら鎮圧しようと弟子を集めている。
    • 宮城事件で叛乱した将校の多くが平泉の影響を受けた者であったが、将校たちの期待に反して叛乱を支持せず、逆に否定している。
  • 色川大吉によれば、講義中に「え?おもしろい、ですって?古事記を読んでおもしろいとは何事です!古事記はおそれ多くも天武天皇のおんみことのりとして……」と平泉が言ったことがあったという。
  • 学徒出陣壮行会前の東大文学部の日本思想史最終講義において、教壇で短刀を抜き放ち、歌を誦じた後、「しばらくお別れです」「いや、永久にお別れです」といって出ていき、これを目の当たりにしたという色川大吉は「驚き、あきれた。私はまるで芝居を見ているような錯覚におちいっていた」という。
  • 学徒出陣で門下生五十名の出征が決まった際、朱光会主催の壮行会を全額私費によって挙行した。教授の月給が300円程の当時、経費は1000円を超えたが、平泉は手許に有った現金の全てを投じてこの会を開いたという。
  • 竹内理三が「奈良朝時代に於ける寺院経済の研究」というタイトルで卒論を書こうと、平泉澄に相談したところ、「こんなもの歴史とは言わない」と罵倒されたが、辻善之助に相談すると、「面白い」と激励されたという。
  • 大川周明は、「平泉澄博士は、当代の学者中、生(周明)が先生と敬ひて師事する唯一人」(『大川周明関係文書』柳澤一二宛て書簡・1955年4月27日)と云い、年下の平泉に心酔していたと云う。なお、大川の墓銘は、平泉が書いている。また、平泉が主宰する雑誌『日本』は、大川の旧雑誌名であったが、平泉が大川から譲り受けたものである。

家族 親族

系譜

  • 平泉氏
 
平泉恰合━━澄━┳洸━━隆房
        ┃
        ┣汪
        ┃
        ┗渉
         ┃
  鹿島守之助━━三枝子
 
                                 
               中曽根康弘  
                  ┃   
                  ┣━━━┳美智子
                  ┃   ┃
         小林儀一郎━━━蔦子   ┃  
                      ┗美恵子 
                 ┏渥美昭夫  ┃
                 ┃      ┃
          渥美育郎━━━╋渥美謙二  ┃
                 ┃      ┃
                 ┗渥美健夫  ┃
                   ┃  ┏渥美直紀
                   ┣━━┫
                   ┃  ┗渥美雅也
                 ┏伊都子
                 ┃
          鹿島守之助  ┃石川六郎
             ┃   ┃ ┃
             ┃   ┣よし子
    鹿島精一     ┣━━━┫
      ┃      ┃   ┃平泉渉
      ┃      ┃   ┃ ┃
      ┣━━━━━卯女   ┣三枝子
      ┃          ┃
      ┃          ┃
鹿島岩蔵━━いと         ┗鹿島昭一
                   ┃
                   ┃
          梁瀬次郎━━━━┳公子
                  ┃
                  ┗弘子
                   ┃
                   ┃
          稲山嘉寛━━━━稲山孝英

研究文献

  • 名越時正『日本学入門』 真世界社 1979年4月
  • 神道史学会『神道史研究・平泉澄博士と神道』 1985年1月
  • 日本学協会『日本・平泉澄先生を偲ぶ』 1985年2月
  • 藝林会『藝林・平泉澄先生追悼』 1986年3月 
  • 白山神社史編纂委員会『白山神社史』 白山神社 1992年5月
  • 時野谷滋『芭蕉・鴎外・漱石 蓁園子古稀記念論集』 近代文芸社 1993年12月
  • 今谷明「平泉澄」(今谷明・大濱徹也ら編『20世紀の歴史家たち』(1)所収。刀水書房、1997年7月)
  • 時野谷滋『大欅集』 窓映社 2000年4月
  • 田々宮英太郎『神の国と超歴史家・平泉澄』 雄山閣、2000年11月
  • 田中卓『平泉史学と皇国史観』 青々企画 2000年12月
  • 中原康博・宇都宮めぐみ・塙慶一郎「平泉澄研究文献目録」(『日本思想史研究会会報』20、2003年1月)
  • 時野谷滋『大関の里集』 窓英社 2003年11月
  • 千早委員会『存道・千早鍛錬会の足跡』 日本学協会 2003年12月
  • 田中卓『平泉澄博士全著作紹介』 勉誠出版 2004年2月
  • 田中卓「平泉澄博士と丙子の乱(二・二六事件)」(1) - (3)(『日本』54-2~4、2004年2月 - 4月)
  • 植村和秀『丸山眞男と平泉澄』(パルマケイア叢書) 柏書房 2004年10月
  • 若井敏明『平泉澄』(ミネルヴァ日本評伝選) ミネルヴァ書房 2006年4月

関連人物

師弟交友

(順不同)

門下

(順不同)

リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月24日 (月) 19:48 。












     

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最終更新:2008年11月30日 00:59
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