昭和天皇


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

Template:半保護S?Template:基礎情報 天皇?

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年明治34年)4月29日 - 1989年昭和64年)1月7日)は、日本の第124代天皇。名は裕仁(ひろひと)。印は若竹(わかたけ)。歴代天皇の中で(神話上を除き)在位期間は最も長く、最も長寿であった。 (現在の)今上天皇の実父にあたる。

略歴

thumb|200px|[[香淳皇后とともに。]] thumb|200px|[[1922年イギリス皇太子エドワード・デイヴィッド(右)訪日時、貞明皇后(中)とともに。]] thumb|200px|[[1928年即位の礼。]]

thumb|200px|[[1946年11月3日日本国憲法に署名。]] 昭和天皇は、1901年(明治34年)4月29日(22時10分)、大正天皇と皇后・九条節子(貞明皇后)の第一皇子として、東京府東京市赤坂区青山(現、東京都港区元赤坂)の東宮御所で生まれた。名は裕仁(ひろひと)、御称号迪宮(みちのみや)。生後70日で枢密顧問官伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育された。1908年(明治40年)、学習院初等科に入学し、学習院院長・乃木希典(陸軍大将)の厳格な教育を受けた。初等科在学中の1912年(大正元年)、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第一連隊および第一艦隊附となった。1914年(大正3年)3月、学習院初等科を卒業。

1916年(大正5年)年、立太子礼を経て皇太子となった。1918年(大正7年)、久邇宮良子女王が皇太子妃に内定。1919年(大正8年)、満18歳となり、成年式が執り行なわれた。大正天皇の病状悪化の中で、1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日まで、イギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪。同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮と称された。同年12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)に、久邇宮良子女王と結婚した。

1926年(大正15年)12月25日、大正天皇崩御を受け践祚して第124代天皇となり、昭和改元(昭和とは)別の元号が予定されていたが、正式発表前に外部に漏れ、東京日日新聞に発表されてしまったため昭和に変更されたと伝わる(光文事件)。。1928年(昭和3年)11月、京都御所即位の大礼を行なった。以後、終戦まで国策決定に深く関与し、特に軍事・外交政策にはしばしば独自の判断を示した。1933年(昭和8年)12月23日、皇太子・継宮明仁親王が降誕(誕生)。1945年(昭和20年)8月ポツダム宣言受諾を決定し、同15日、戦争終結を告げるラジオ放送(玉音放送)により、歴代天皇で初めて国民に天皇の声を聞かせた。1946年(昭和21年)1月1日詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。

1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法において 天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされ、「国政に関する権能を有しない」とされたが、占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見などにより、独自の政治的影響力を保持した。1952年(昭和27年)4月28日サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立を回復し、報告のため伊勢神宮神武天皇の畝傍山陵、明治天皇伏見桃山陵靖国神社をそれぞれ参拝した。

戦後は、天皇としての公務の傍ら、生物学研究者としての業績をあげた。1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリス、オランダなどを歴訪。1975年(昭和50年)には、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、(神代を除き)歴代天皇で最長の在位期間を記録した。

1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。1988年(昭和63年)8月15日全国戦没者追悼式に出席。これが公の場への、最後の出席となった。1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍により崩御(死去)。87歳と、歴代の天皇で(神代を除き)最も長寿であった。在位中の元号である昭和より、昭和天皇追号された。

同年(平成元年)2月24日新宿御苑において大喪の礼が行なわれ、武蔵野陵に埋葬された。

年表

系譜

昭和天皇の父は大正天皇、母は皇后・九条節子(くじょう・さだこ)(貞明皇后)。父方の祖父は明治天皇、祖母は典侍柳原愛子。母方の祖父は九条道孝、祖母は野間幾子

系図

Template:皇室明治以降?

皇子女

香淳皇后との間に7人の皇子女を儲ける。以下誕生順。

主な出来事

宮中某重大事件

Template:Main?

1919年(大正8年)11月に元老山縣有朋が、「皇太子裕仁親王妃に内定」と発表されていた良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言した事件。「良子でなければならぬのだ」との裕仁親王本人の意志が尊重されて、「婚約に変更なし」と発表された。 山縣は皇室を思って進言したのだが長閥の巨頭として非難された。山縣は責任を感じて大正10年3月、枢密院議長・元老など全ての辞表を提出したが 5月、優詔にて却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。

婚礼の儀の延期と関東大震災

1923年(大正12年)の関東大震災により、同年秋季予定されていた皇太子裕仁親王(当時摂政であった)の婚礼の儀は延期されることとなった。本来なら関東という一地方で起きた地震であるので、国事である皇族の婚礼を延長することはせず遷都するのが通例であったが、東京の惨状を視察した裕仁親王の意向により延期となった。

この関東大震災で裕仁親王は、後に「加藤のおかげで命拾いをした」と語っている。背景には、霞関離宮が修理中であったため箱根(大きな震災を被った)に行く予定であったが、加藤友三郎内閣総理大臣が死去し、政変が起きていたため東京の宮城(皇居)に留まったことがある(1973年の記者会見より。会見記録は高橋紘「陛下、お尋ね申し上げまする」に詳しい)。

また後年、昭和天皇は次のように述懐している。「その 惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」(1981年の記者会見より)

田中義一首相を叱責

満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその直後に死去)。

田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる牧野伸顕内大臣の指導の下、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。

この事件で、天皇はその後の政治的関与について臆病になったという。

なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らしあわせるとそこまで踏み込んだ発言はなかった可能性が高い。

天皇機関説事件

1935年(昭和10年)、天皇機関説が排撃された天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言った。 昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていたにもかかわらず、直接・間接には何ら行動を起こすことはなかった。機関説に関しての述懐を、昭和天皇のリベラルな性格の証左としながら、同時に美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする記述は、しばしば見られるが、現実にはそれほど単純でない。

機関説は、国家法人説と呼ばれるドイツの学説に由来するが、この学説は国家の本質を「法人」とする点において主権および主権者の存在をあいまいにする意図をもった学説であり、当時すでに、後発資本主義国であり、外見的立憲主義の典型とされていたドイツにおいてさえ「時代遅れ」とされていた。しかし、戦前期の日本においては、天皇を国家の一機関として観念するという点において、社会科学的思考と結びつく側面をもつと同時に、吉野作造の「民本主義」と並んで護憲運動大正デモクラシーの理論的バックボーンを演じていたことは、日本資本主義がドイツよりもさらに後発であることと立憲主義がさらに外見的であったことを反映していた。しかし、昭和天皇がそこまでの理解を持っていたかは疑問である。昭和天皇の理解していた機関説は、「一機関」としての性質を強調する一木-美濃部ラインのものではなく、有機体の「頭部」であることを強調する、清水澄の学説に近かったとする説もある。

二・二六事件

1936年(昭和11年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将の「彼らも国を憂えて起こした行動で必ずしも咎めるものではないかと存じます」との進言に、昭和天皇は怒りも露に「朕が頼みとする股肱の老臣を殺害する、かくの如き凶暴の将校の精神に何ら許すべきものがあると言うのか。老臣たちを悉く倒すは朕が首を真綿で締めるに等しき行為ではないか」、さらに「お前達がやらぬなら朕自ら近衛師団を率いてこれを鎮圧に当たらん」と発言したとされる。この事は「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面し初めて自らの意思を述べたとも言える。これによって決起軍は反乱軍と認定され、事件は速やかに解決に向かったのである。この時の発言を、太平洋戦争終結のいわゆる“ご聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」とか「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、影の首謀者と言われることもある真崎甚三郎の息子を昭和天皇は自分の通訳に選んでいる。

真珠湾攻撃・開戦詔勅

1941年(昭和16年)9月6日御前会議で、対英米戦は避けられないものとして決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の

「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」
(四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)

という短歌を詠み上げた。

昭和天皇自身は開戦には消極的であったと言われている。しかし、戦争が始まった後の1941年12月25日には日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。

戦争指導

thumb|250px|[[1943年6月24日戦艦武蔵行幸した昭和天皇(中央)]] 戦争末期のころは文字通り世界中で日本軍が戦火をあげていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際に幾つか指示等もしている。また、この様なやりとりのなかで答えてしまったがために、後にはひけずにニュージーランドなどオセアニア付近へ戦局を広げねばならなくなってしまった経緯が存在する。

和平に向けて

1945年(昭和20年)1月6日、アメリカ軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。この時、木戸は陸海両総長と閣僚の招集を勧めている『木戸幸一日記』一月六日(土) 下巻 一一六四頁。 一月三十日(火) 下巻 一一六七頁 近衛が木戸に斡旋を求めている。上巻 三一頁 「解題」岡義武による序文 木戸と宮内大臣松平恒雄とが協議し、重臣が個々に拝謁することになった。。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった『侍従長の回想』「天皇の終戦秘密工作」P.43-P.54 木戸が参内を制限していたため近衛文麿が運動して重臣との会談を実現させたという説があるが、藤田はこれを信じていない。。 そのなかで特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛文麿上奏がある。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案している。昭和天皇は近衛の言うとおりの人事が出来ないことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった「時局ニ関スル重臣奉答録」『木戸幸一関係文書』 四九五頁-四九八頁『侍従長の回想』「陽の目を見た近衛上奏文」P.55-P.67。Template:main?

東京大空襲の戦渦を視察し、関東大震災につづく帝都の破壊に直面した昭和天皇は、これをもって終戦を決意したと後に述懐しているTemplate:要出典?8月9日ポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかっため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった議論は午前10時半からの最高戦争指導会議から二回の閣議、御前会議を経て全て終了したのが翌10日午前2時20分であった。会議により出席者は異なるが、最高戦争指導会議では受諾賛成が鈴木(首相)、東郷(外相)、米内(海相)、受諾反対が阿南(陸相)、梅津(参謀総長)、豊田(軍司令部総長)であった。御前会議ではこれに平沼(枢密院議長)が加わる。鈴木が六閣僚に意見を聞くと、平沼が軍代表に質問した後に賛成に回り3対3となった。このとき平沼も天皇に御聖断を求めている。二時間にわたる会議の末に鈴木が行動を起した。。 昭和天皇は受諾の意思を表明し、8月15日玉音放送。終戦となった。後に昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と臥薪嘗胆した鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている『大日本帝国の興亡』5巻 平和への道「七部 耐え難きを耐え 1 ポツダム宣言受諾」P.203-P.213(章題 ページ番号はハヤカワ文庫版)『侍従長の回想』会議の経過については「聖断下る」P.118-P.136。昭和天皇の発言は「異例、天皇の心境吐露」P.207-P.208からの引用。。

人間宣言

thumb|250px|right|昭和天皇(右)と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサーの会見で(1945年)]] 1946年(昭和21年)1月1日人間宣言を渙発。この詔書はGHQの指導下にあったマスコミにより天皇の神格否定として喧伝され、国民に大きな衝撃を与えた。

これと前後して、天皇がGHQ本部を表敬訪問した際に撮影された、GHQ総司令官でアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥と一緒に並んだ全身写真が公開(情報局により「不敬」を理由に発禁処分)されている。天皇が正装のモーニングを着用し直立不動でいるのに対し、マッカーサーがラフな服装で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は改めて敗戦の重みを思い知らされた。天皇はマッカーサーに比べて身長が低かったことも衝撃を与えている。

thumb|250px|[[アメリカ合衆国大統領ジェラルド・R・フォード夫妻と昭和天皇、香淳皇后1975年10月2日、アメリカ合衆国にて]] thumb|250px|[[アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン夫妻と昭和天皇(右)。1983年11月9日東京都にて]]

外遊

皇太子時代の1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日までの間、イギリスフランスベルギーイタリアバチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧皇太子の外遊の初例は、1907年(明治40年)の嘉仁親王(後の大正天皇)による大韓帝国訪問である。この当時の大韓帝国は日韓協約により事実上大日本帝国の保護国であったが、正式にはまだ併合前の「外国」であった。であり、国内には反対意見も根強かったが、山県有朋西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には巡洋艦香取が用いられた。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世ロイド・ジョージ首相らと会見した。ジョージ5世はバッキンガム宮殿での最初の夜、慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いたという。イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見した他、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べている。

1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカアンカレッジに立ち寄っており、実質的にアメリカも訪問している。当初の訪問地であるデンマークベルギーフランスなどでは暖かく歓迎された。フランスでは旧知であるエドワード8世と再会、しばし歓談している。しかし当時両国が植民地支配していたビルマインドネシア戦線で旧日本軍の捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは、彼らの抗議活動に遭遇することになった。特にインドネシアの宗主国であったオランダにおいては生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいものであった。

また、1975年(昭和50年)にはフォード大統領の招待によって9月30日から10月14日まで14日間にわたって、アメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の訪米は史上初の出来事である。これに先立つこと10余年前、皇太子明仁親王夫妻が訪米しており、この訪米は皇太子夫妻のつけた道筋をたどってのものといえる。なお、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)にも訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。訪米前にはアメリカ人は天皇の訪米にあまり関心がないという報道がなされ、侍従長入江相政によると天皇に対する激しい憎しみを露わにしたアメリカ人もいたといい、関係者を悩ませた。天皇はウィリアムズバーグに到着して後、2週間にわたってアメリカに滞在し、訪米前の予想を覆してワシントンD.C.ロサンゼルスなど、訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日フォード大統領との公式会見、10月3日のアーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への献花、10月4日のニューヨークでのロックフェラー邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々的に報道し、新聞紙面のトップは天皇の写真で埋まった。ニューヨーク訪問時には、真珠湾攻撃の生き残りで構成されるパールハーバー生存者協会が天皇歓迎決議を行っている。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソードが多かった。ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑む写真も新聞の紙面を飾った。同地ではミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。昭和天皇の外遊はこの訪米が最後のものであった。2007年現在13回の海外訪問を行なっている今上天皇と比較しても回数はごくわずかである。しかし、二度の外遊はいずれも第二次世界大戦の痛手からの回復、国際社会への復帰を印象付けるに十分以上の成果を挙げたといえる。帰国の当日には二種類の記念切手が発行されており、この訪米が一大事業であったことを物語っている。

行幸

thumb|250px|right|[[昭和22年1947年石川県で開催の第二回国民体育大会の折り、山中温泉栢野大杉を見上げる昭和天皇。
あまりの大きさに暫し言葉もなく見上げたと伝ふ。]] 戦後は1946年(昭和21年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。三池炭鉱の地下1000メートルもの地底深くや満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地までの道路は当時整備されておらず、約2キロの道のりを徒歩で村まで赴いた。1947年(昭和22年)には原爆投下後初めて広島に行幸し、「家が建ったね」と復興に安堵する言葉を口にした。その他、行幸先でのエピソード、御製も非常に多い(天覧の大杉のエピソード参照)。全国46都道府県を巡幸するも、沖縄巡幸だけは沖縄が米軍の占領下にあったためついに果たすことができず、死の床にあっても「もうだめか」と沖縄巡幸を行なえないことを悔やんでいた。

また、1964年(昭和39年)の東京オリンピック1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会1972年(昭和47年)の札幌オリンピックバブル経済前夜の1985年(昭和60年)のつくば博の開会式にも出席している。これらイベントの成功にどれほど寄与したか正確に計ることはできないが、特に敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には大きな影響を与えたと見られている。病臥した1987年(昭和62年)秋にも、沖縄海邦国体への出席が予定されていた。病臥し自ら訪沖することが不可能と判明した後は皇太子明仁親王を名代として派遣しお言葉を伝えた。これに関して、「思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した皇太子明仁親王(今上天皇)は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりしてまいりました」と手にしたお言葉をおしいただき、真摯にこれを代読した。

スポーツ観戦

Template:Main? 皇太子時代から大変な好角家であり、戦前戦後合わせて51回も国技館天覧相撲に赴いている。特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年(昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間富士桜霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取り組みには身を乗り出して観戦したと言われ、同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取り組みはしばしば天覧相撲の日に組まれた。

1959年(昭和34年)には天覧試合として、プロ野球の巨人-阪神戦いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては当時の大映永田雅一社長がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲野球の振興に与えた影響は計り知れないと言える。この後プロ野球において天覧試合は行われなかったが、プロ以外では1966年(昭和41年)11月8日の日米野球ドジャース戦が天覧に付されている。

「崩御」前後

1988年(昭和63年)の暮れに入って病臥すると、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にものぼり、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。

1988年9月19日に吐血してから1989年(昭和64年)1月7日崩御するまでの期間は、テレビなどでバラエティの派手な演出などが不謹慎であるという理由で自粛になった。なおこの「自粛」は、同年の流行語となった。このほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることがあった。

このほか、多数のCMが所謂自粛バージョンになっている。

昭和天皇が病気で倒れた後は暫くの間、公式行事や儀式、歌舞音曲を伴う行事が自粛された。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時35分に危篤報道があり(実際は午前6時33分に崩御)、NHKをはじめとする各放送局は一斉に特別報道体制に入った。この時NHKでは青地に黄色の丸ゴシック体で「臨時ニュース」というテロップと共にチャイムを鳴らした。7時56分、藤森昭一宮内庁長官(当時)が「天皇陛下におかせられましては、本日午前6時33分吹上御所において崩御あらせられました」と発表。直後NHKでは黒地に白の楷書体の手書き筆字で「天皇陛下崩御」というテロップに切り替わり、チャイムが鳴らされた。このときのチャイムは「a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'8 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'2」というものであった(これは臨時ニュースにおいてNHKが用いる通常のチャイム「a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 e''8 cis''4 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'2」と微妙に違い、長い)。同日14時36分に新元号発表の記者会見が始まる冒頭には、記者会見場に入場する小渕恵三内閣官房長官(当時)の映像をバックにスーパーインポーズで「新元号決まる」というテロップが表示され、再び同じチャイムが鳴らされた。小渕が着席し、「ただいま終了しました閣議で「元号を改める政令」が決定され、第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。新しい元号は、平成であります」と言って額に入った「平成」の文字のしたためられた色紙を掲げた。このエピソードから小渕は「平成おじさん」と称されることになった。この新元号は毎日新聞が最も早く報じ、「リベンジを果たした」と光文事件と結びつけた報道がなされた。

危篤発表直後および崩御発表から翌1月8日終日まではNHK(総合)および民放各局が特別報道体制に入り、CMの自粛、昭和天皇の業績を偲ぶ番組、崩御報道を受けてのニュースなどが放送された。7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。特別報道体制内の番組(前年末からの危篤報道を受けてあらかじめ製作していたもの)にて昭和史が回顧され「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。日付の切り替わる前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真を取る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。

翌1月8日から新聞活字には「平成元年」の文字が初めて現れることになった。

昭和64年は7日間しかなかったため、「昭和64年」が刻印された硬貨は希少であると認識されがちだが、これは正しくない。実際には「平成元年」の金型が手配される平成元年3月頃までは「昭和64年」の硬貨は発行され続けており、他の年と比較してその数が際立って少ないということはない。

1989年(平成元年)2月24日大喪の礼が執り行われ、武蔵野陵に埋葬された。

昭和天皇崩御の日、1989年1月7日のNHK朝の「ワイドニュース」(6時36分から3時間24分間)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日のNHK「ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日」(8時30分から4時間40分間)の平均視聴率は44.5%を記録した(視聴率はビデオリサーチ・関東地区調べによる)。

崩御後、1988年まで天皇誕生日であった4月29日みどりの日という国民の祝日となった。2007年からは、昭和の日に祝日名称が変更された。

各地の記帳所、記帳所の設置された場所

  • 皇居前記帳所
  • 千葉県民記帳所
  • 葉山御用邸通用門記帳所
  • 名古屋熱田神宮境内記帳所
  • 京都御所前記帳所
  • 福岡市庁舎内記帳所
  • 東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所
    ※同町は伊豆大島に存在し、前年には三原山噴火という天災に見舞われたばかりであった。

関連項目


後半は、昭和天皇-2昭和天皇-3参照

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月5日 (月) 16:14。












     
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。