張作霖爆殺事件


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張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、1928年昭和3年)6月4日に起こされた、関東軍による奉天軍閥の長張作霖暗殺事件。別名「奉天事件」。中国では、事件現場の地名を採って、「皇姑屯事件」とも言う。当時は「満洲某重大事件」と呼ばれ、「犯人は関東軍の河本大作大佐であった」という事件の真相は隠されていた。

背景

馬賊出身の張作霖は、日本の関東軍の支援の下、段芝貴失脚させて満州の実効権を手に入れ、当時最有力な軍閥の一人にのし上がっていた。

第一次国共合作1924年)当時の諸外国の支援方針としては、主に

であった。

その後、国民党の北伐で直隷派が壊滅(1926年)した。張作霖は、欧米の支援の受け皿を狙って、支援元を日本から欧米寄りに鞍替えする。これに対して、大陸での権益を確保したい欧米、ことに大陸進出に出遅れていたアメリカは積極的な支援を張作霖に行う。

また、同じく欧米の支援の受け皿になる事を狙った国民党は、党内で共産党員と蒋介石との確執が激しくなった(1926年、翌年、国共合作は瓦解)ため、北伐の継続が出来なくなった。

1926年12月、ライバル達が続々と倒れていったため、これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、自らが中華民国の主権者となると発表した。大元帥就任後の張作霖は、更に反共反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。この当時の支援方針は、

  • 奉天軍(張作霖) ← 欧米・日本
  • 国民党
  • 中国共産党 ← ソ連

1928年4月、国民党の蒋介石は欧米の支援を取り付け、再度の北伐を行う。 この当時の支援方針は、

  • 奉天軍(張作霖)
  • 国民党 ← 欧米
  • 共産党 ← ソ連

という構図である。 日本も張作霖を扱いかねており、蒋介石から「山海関以東(中国東北部)には侵攻しない」との言質を取ると、積極的な支持を与えなくなっていた。

また、この様な中国情勢の混乱を見た関東軍首脳は、居留民保護の名目で軍を派遣し、両軍を武装解除して満洲を支配下に置こうとする計画を立てていた。しかし満州鉄道(満鉄)沿線外へ兵を進めるのに必要な天皇からの奉勅命令が発令されず、この計画は解消された。

1928年6月4日、国民党軍との戦争に敗れた張作霖は、北京を脱出し、本拠地である奉天(瀋陽)へ列車で移動する。この時、日本側の対応として意見が分かれる。

陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出す。
  • 関東軍
既に軍閥による間接統治には限界があると考え、社会インフラを整備した上での傀儡政権による間接統治、すなわち満州国の建国を立案していた。その為、張作霖の東三省復帰は満洲国建国の障害になるとし、排除方針を打ち出した。

列車爆破

1928年(昭和3年)6月4日、蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)と満鉄線の交差地点付近を通り掛かろうとした時、線路際に仕掛けられていた黄色火薬が爆破され、張作霖は胸部に重傷を負い、数時間後奉天市内の病院で死亡、また警備、側近ら17名が死亡した。

関東軍司令部では、国民党の犯行に見せ掛けて張作霖を暗殺し、それを口実に関東軍が満洲全土を軍事占領しようという謀略を、河本大作大佐が中心になり計画。河本からの指示に基づき、6月4日早朝、爆薬の準備は、朝鮮軍から関東軍に派遣されていた桐原貞寿工兵中尉の指揮する工兵隊が行った。実際の爆破の指揮は、現場付近の鉄道警備を担当する独立守備隊の東宮鉄男大尉がとった。2人は張作霖が乗っていると思われる列車の前から8両目付近を狙って、付近の小屋から爆薬に点火した。

河本らは、予め用意しておいた中国人労働者を殺害し、現場近くにその中国人2人の遺体を放置して、「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるものである」と発表。この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていた(大江志乃夫『張作霖爆殺事件』(中公新書)・秦郁彦『昭和史の謎を追う』上(文春文庫)参考)。

爆破事件の直接首謀者

  • 関東軍参謀 河本大作大佐(計画立案)
  • 奉天独立守備隊 東宮鉄男大尉(直接担当)
  • 朝鮮軍龍山の亀山工兵隊 桐原貞寿工兵中尉(爆弾設置工事等)

その後の調査

謀略の真相は日本政府にも告げられなかったが、事件当初から、犯行は「日本軍の仕業」であるとの説が広く流布していた。驚いた日本政府は公表せず「満洲某重大事件」と呼んだ。当時の日本政府は中国での紛争拡大を抑える政策を採っていた為、この事件の隠蔽に全力を上げ、関東軍の暴走を抑えにかかった。

現場調査を行った民政党代議士松村謙三なども、爆破に使用した電線が橋台から日本軍の監視所まで引き込まれていることを中国側に指摘されて、「これで完全に参った」との記述を残している(『三代回顧録』)。その後、事件に関わった大陸浪人工藤鉄三郎が、小川平吉鉄道大臣に対し、犯人を河本大佐らに特定する「爆破事件の真相」なる書簡を持ち込み、日本側「特別調査委員会」でも独自に調査を行った結果、現場で発見された「中国人2人」の死体は実は日本側の工作であったことが判明した(戦前期「外務省記録」)。峯憲兵司令官も朝鮮にて桐原中尉を尋問、事件の主犯は河本大佐ら日本側軍人であるとの確証を得、その旨を田中義一首相に報告した。

田中内閣総辞職

首相である田中義一は、当初昭和天皇に対して、徹底した真相究明と関係者の処分を行う旨の上奏を行った。しかし、その後田中は、陸軍内の抵抗にあって関係者の処分を断念し、関東軍は爆殺に無関係である旨の上奏を行うこととなった。

天皇はこれに対し、「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」(『昭和天皇独白録』による)と田中を叱責、7月2日、田中は総辞職の已む無きに至った。これは、天皇の意向により内閣が総辞職した唯一の事例として知られている。だが、大佐クラスの独断で出来る規模の謀略ではなく関東軍司令官からの命令であったと言われていたにも係らず、河本は主な責任を問われ、1929年4月、一旦、第九師団司令部附となり金沢に講せられ、同年8月停職処分と言う形で軍を追われた。

満洲事変

また、奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・張学良も程なく真相を知って激怒し、本当に国民政府と和解して日本と対抗する政策に転換してしまった。この為、却って日本の満洲への影響力を弱める結果となった。これが後の満州事変の背景の1つとなる。

ソ連特務機関犯人説

ソ連崩壊後に公開された公文書などを分析し、ロシアの歴史研究家ドミトリー・プロホロフが唱えた説。但し、この説の明確な根拠は示されておらず、また事件の経緯については、当事者の発言を基に日本側の研究者によってかなり詳細に明らかにされていることから、この説の成立する余地はまず存在しないと考えられる。

参考文献

<概説書、研究文献>

  • 大江志乃夫『張作霖爆殺』(中公新書)
  • 秦郁彦「張作霖爆殺事件」(文春文庫『昭和史の謎を追う』(上)所収)
  • 秦郁彦「張作霖爆殺事件の再考察」(日本大学法学会『政経研究』2007.5)=「ソ連陰謀説」への批判。
  • 井星英「張作霖爆殺事件の真相」(『芸林』昭和57年6月号より5回連載)
  • 稲葉正夫「張作霖爆殺事件」(参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』所収)

関連項目

外部リンク




フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年10月14日 (火) 10:40










    
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