第一次世界大戦下の日本


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第一次世界大戦下の日本(だいいちじせかいたいせんかのにっぽん)では、日英同盟に基づき、連合国の一国として第一次世界大戦へ参戦した日本(当時は大日本帝国)について述べる。

参戦

日英同盟に基づく参戦

第一次世界大戦の開戦に際して、イギリス日英同盟に基づき、ドイツ東洋艦隊を撃滅する必要から日本へ連合国側に立っての参戦を要請した。当時アメリカ合衆国は中立であり、日本の軍部は艦隊の外地派遣によって本土の防備が手薄になることを恐れ、即時参戦には消極的だった。

しかし、1914年8月15日、ドイツに対し最後通牒と云うべき勧告を行った。参戦に慎重だった為、異例の一週間の期限となったが結局ドイツは無回答の意志を示した。 大隈重信首相は、御前会議にもかけない上に、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部との関係悪化を招くことになる。8月23日に日本はドイツ帝国へ宣戦を布告した。

ドイツ領の攻略

thumb|240px|[[マルタ|マルタ共和国旧英国海軍墓地 (現英連邦墓地) にある大日本帝国海軍第二特務艦隊戦没者の墓
1975.8.6撮影]] 11月7日に、日本陸軍とイギリス軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省租借地である青島膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日 - 11月7日)。日本海軍は太平洋のドイツの植民地だった南洋諸島マリアナ諸島カロリン諸島、当時はドイツ領ニューギニアと呼ばれた)を攻略した。

船団護衛

英仏露から欧州の戦線へ帝国陸軍の派遣要請があったがこれを拒絶した。また、英国より要請があった日本海軍の地中海出兵も断った。 しかし、日本海軍は、連合国からの再三の要請を受け、世界各地の植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年には、Uボートを中心とした無制限潜水艦作戦により輸送船の撃沈が続いていたインド洋地中海で、連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。特に、1917年後半から開始したアレキサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献した。

地中海には巡洋艦明石及び樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊を派遣、後に桃型駆逐艦などを増派し合計18隻を派遣した。被害としては駆逐艦「榊」がオーストリア=ハンガリー帝国海軍の潜水艦U27からの攻撃を受け大破、59名が戦死した。「榊」は完全な状態に修理するのに8か月を要した。他の戦闘をあわせて地中海前線においては日本軍将兵計78名が戦死しており、戦後、マルタ島のイギリス海軍墓地の一隅に墓碑が建立されている。

戦勝国

連合国の勝利に大きく貢献したこれらの功績により、日本も連合国5大国の一国としてパリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの山東省権益と、パラオマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟常任理事国となった。

対華21ヶ条要求

Template:main? 青島攻略後の1915年1月18日、日本は中華民国袁世凱政権に14か条の要求と7か条の希望条項を提示した。これは次のような内容であった。

  • ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること
  • 関東州の租借期限を延長すること
  • 南満州鉄道の権益期限を延長すること
  • 沿岸部を外国に割譲しないこと

要求に対して中国国内では反対運動が起こったが、日本側は5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた。これにより中国人の反日感情が高まり、蒋介石北伐に伴う山東出兵1927年 - 1928年)のきっかけとなる。

シベリア出兵

Template:main? 1917年10月にロシア革命が勃発すると、英仏の要請により1919年に米国などと共にシベリア出兵を実施した。しかし、シベリア出兵を継続したことで各国の猜疑を招いたほか、日本が力をつけたことに対するアメリカの人種差別的指向を持つ諸派の懸念などで国際的立場が厳しいものとなっていった。

経済への影響

国土が戦火に見舞われなかった上に、当時すでに工業国として近代工業が隆盛を誇っていた日本は、連合国の他の参戦国から軍需品の注文をうけ、成金が出現するなど大戦景気に湧いた。

ドイツ人捕虜への待遇

日露戦争時同様、戦時下においては陸海軍とも国際法を厳しく守り、捕らえたドイツ軍俘虜は丁重に扱った。青島で捕獲した俘虜約4,700名は徳島県板東俘虜収容所千葉県習志野俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本人に伝えられた。

ベートーベンの「第9」はこのときドイツ軍俘虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。ドイツに帰還した元俘虜はこのときの扱いに感謝し、「バンドー会」を結成している。“今では日本語として定着している「びっくり」はドイツ人捕虜の発したWirklichが語源である”との説も流布している。

関連項目




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 14:39。











    
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